加奈崎芳太郎 カナやん


70年代に活躍したフォークデュオ『古井戸』のギター・ボーカル担当です。圧倒的な声量のボーカル力をもち、作詞・作曲を担当した曲もあり、古井戸の実質的リーダーでした。清志郎より3つ学年が上です。


フォークデュオというとしっくりきませんが、当時は自作自演のアコースティックギターのグループは全てフォークと呼ばれていました。印象としてはアコースティック・フォーク・ブルース・デュオと言った方がしっくりきますね。



古井戸を語る上では、勿論、チャボ(仲井戸麗市)の話を避けて通る訳にはいきませんので、念の為紹介しますと、古井戸のもう1人のメンバー、ギター及び多くの楽曲の作詞・作曲を担当してたのがチャボですね。デビュー前はもう1人、奥津光洋さんも含めたトリオでした。



清志郎との初めての共作



清志郎と加奈崎さんのコラボレーションは、加奈崎さんの1979年発売のファースト・ソロアルバム「愛がもしすべてなら」だと思います。


全10曲中、6曲が加奈崎さんと清志郎の共作です。古井戸でも、清志郎は曲作りに参加していますが(古井戸2nd『オレンジ色のスケッチ』では、バスケット・シューズ、3rd『ポエジー』ではコーヒー・サイフォン、あの娘が結婚してしまう)、いずれもチャボとの共作なので、加奈崎さんと清志郎の共作は、「愛がもしすべてなら」が初めてだったと思います。


このアルバムについては、清志郎自らが語っていますが、かなり力を入れて取り組んだそうで、是非とも内容も、セールスも、大成功させたかったようです。


ただ、これも清志郎本人が語ってますが、そのモチベーションは、新生RCサクセションにチャボを引き込みたいという思惑があったからでした。言い換えると、清志郎なりの、兄貴分的な加奈崎さんへの仁義ということなのだと思います。


考えてみれば、この仁義を尽くす清志郎の行動があったからこそ、加奈崎さんと清志郎の関係も、その後も長きに渡り続いていったのだと思います。


加奈崎さんも器が大きく、年齢的に後輩の清志郎や、相方チャボの将来を見つめた時、流れにあらがうことは敢えてせず、本人たちの意向を尊重し大人の対応をとったのだと思います。


とは言えまだ若かったので、チャボや清志郎の態度や行動には内心カッとなったことも多かったようです。とてもわかる気がします。


その「愛がもしすべてなら」、作詞には門谷憲ニさんという、既に売れっ子の作詞家の起用もした意欲作だったのですが、セールス的には今ひとつだったようです。。




90年代の繋がり



1991年、8年振りに発売された加奈崎さんのソロアルバム「Kiss of My Life」には、清志郎は「Woman」「Gomi」 にプロデュースと演奏で参加しています。


また、リンコさんもゲスト参加していています。RC解散後は、再び清志郎やRCメンバーと加奈崎さんの交流が活発化します。やはり色々な事情でRCは活動停止しましたが、加奈崎さんや泉谷さん含めたら昔からの関係はまだまだ強いものがあったのだと思います。


1993年、泉谷しげるさん主催で北海道厚生年金会館にて「奥尻島チャリティーコンサート」が開催されました。これには、泉谷さんコネクションで、清志郎と加奈崎さん、一緒にステージに立っています。年末にはクラブチッタでオールナイトライブもやってます。


その後加奈崎さんは、RC活動停止後のリンコさん(小林和生)、新井田耕造さんと、「加奈崎芳太郎トリオ」を結成、2枚のアルバムを1994年に発売しています。


リンコさんのウッドベース、新田さんのドラムが、「あゝ、RCのリズムが間違いなくここにあるじゃないか。」とRCファンをもとても喜ばせてくれる音だったかもしれません。


また、加奈崎さんのボーカルが、シャウトが、とても力強く、もしかしたら無意識のうちに加奈崎さんもRCに寄っていったのかな、と、ふと思いました。ただこのトリオですが、活動期間は一年程度でした。




同じ年の1994年、竹中直人さんが監督の映画『119』では、清志郎は音楽監督を務めていますが、竹中さんからオファーがあった時、清志郎自ら加奈崎さんと一緒にやらせて欲しいことを竹中さんに申し入れています。サウンドトラック盤には、3曲に加奈崎さんの名前がクレジットされています。



その後も、ずっと一緒にやってる



2002年6月は、加奈崎さんが移住した長野県諏訪市の諏訪市民文化センターで、「唄の市」忌野清志郎VS加奈崎芳太郎と題したライブを行っています。アンコールでは、『119』の曲を清志郎とセッション、大いに盛り上がったようです。


ただ、加奈崎さんが清志郎と会ったのは、これが最後となってしまいました。


ところで、どうして加奈崎さんは諏訪に移住したのでしょうか?理由は、義理のお父様の介護の問題があったようです。義理のお父様の家は諏訪で何百年も続く名家のようです。


古井戸の1stアルバム「古井戸の世界」に、「明日引っ越します」という曲があるのですが、その中に「私はりんごの頬をした長野県の娘」という歌詞が出て来ます。これはきっと奥様のことなんでしょうね。


清志郎が旅立った後、加奈崎さんと泉谷しげるさんの共著『僕の好きなキヨシロー』が出版されました。


これを読むと、加奈崎さん、チャボ、清志郎とRCメンバー、泉谷しげるさんの相互の偶然の出会いがあったればこそ、お互いが刺激しあって成長し、今があり、そして切っても切れないキズナがずっと続いているんだなということが分かります。



古井戸の再演が実現



2015年、古井戸が、36年ぶりにファン待望のライブを行いました。




チャボのデビュー45周年記念公演(渋谷公会堂)に加奈崎さんがゲスト出演し、10月は諏訪文化センター、東京キネマ倶楽部に古井戸としてのフルライブを行いました。一部の映像は、チャボの青山でのリモートライブで流してくれましたが、こういうことも、奇跡の再演とも見えるし、いや、これは運命的必然だったのかもしれない、とかね、感慨にふけりました。



加奈崎さんへの共感



加奈崎さんって、清志郎より3つ年上だし、チャボや清志郎に比べると社会性もある常識人でもあり、泉谷さんと、ある意味天然の😅チャボや清志郎との間を上手くとりもつ役割を本人の意思に関わらず担っていたようなところがありました。


そういう方って、世の中の色々なところで求められてるんですよね。加奈崎さんも音楽に関しては類稀な方だと思うし、人一番負けず嫌いなところもあるのだけれど、こういう役回りも天才たちの中で自然とやっていたって事、とても人間的で好きだなぁと思います。諏訪に根付いて音楽活動を続けていることも、とても素敵だなと思います。


この写真は、地元静岡県の島田市の小さな会場で行われた加奈崎さんのライブ時にサインしてもらった『ぼくの好きなキヨシロー』です。私の宝物です。


加奈崎さん、今も全国をライブで回ってるようです。ものすごいエネルギーですよね。私も是非またライブに行きたいと思っています。

以上です。










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