新年早々の石川県を中心とした大地震、
一刻も早く人命救助や水・食糧などの支援物資の供給が叶うよう、祈るばかりです。。
ドジャースと大谷翔平選手、早々に寄付を表明されました。岩手県出身の大谷選手、東日本震災のこともあり、自分ごととしていち早く行動を起こされたのだと思います。
私もせめて義援金を送ろうと思っています。
ところで話はコロっと変わり恐縮なのですが、
大谷翔平選手のドジャースのユニフォーム姿を見ると、やはり中日ドラゴンズに似ているなと思ってしまいました。
↓↓↓↓ 中日ドラゴンズ
中日ドラゴンズ、22年、23年と2年連続最下位、また、14年から23年の過去10年間では、
Aクラスは20年の与田監督時代の3位が一度あるだけで、最下位3回、5位5回と、完全に泥沼にハマってしまった感じです。
私はドラファンではないのですが、同じ東海地方の静岡県に住んでいるし、愛知県に住んでたこともあり地元でのドラゴンズの絶対的な存在感も良く知っているし、静岡県遠江(とおとおみ)エリアの友人知人には、中日新聞とってる人、案外多かったと思うし(笑)、
私の応援するJ2清水エスパルスとその境遇も似ているような気もするし、やはり気になります。
あと、最近は私がAmeba blogでフォローさせて頂いている熱狂的なドラファン「たそがれ」さんの影響もあるかな。
そして、何といっても忌野清志郎が熱狂的なドラゴンズファンだったことを思い出します。確かCBC(中部日本放送)のローカル番組では、「野球場で会いましょう」という「競馬場で会いましょう」の替え歌を披露しドラゴンズを応援したりしたこともあったと思います。
では何で清志郎はドラゴンズファンになっのでしょうか?
清志郎苦難の1988年起源説
1988年はアルバム「カバーズ」が発売中止の憂き目にあった年で、それに対する嫌悪感と怒りの気持ちをドラゴンズの活躍(星野監督で優勝してます!)が癒してくれ、勇気づけてくれた、ということらしいです。
そして、「ドラゴンズ、こんなに頑張ってるじゃないですか。頑張ってるところが好きになりました。」とも言ってます。
なにかきっとロック魂に触れるものがあったのでしょう。
ただ、それ以外にも1988年中日優勝のこの年は清志郎にとって特別な年だったと思います。
この年清志郎は育てのお父様を亡くしています。
その2年前には育てのお母様を亡くしています。
お父様が亡くなった後、親族から清志郎が3歳の頃亡くなった実のお母様の多くの遺品を受け取ることになります。
また、1988年は、それまで籍を入れてなかった奥様と正式に結婚、そして待望の長男が生まれます。
ご長男の名前は『竜平』(タッペイくん)です。
「竜」は、ドラゴンズからもらったそうです。
川又選手との交流
RC活動停止後、
清志郎は2’3s(ニーサンズ)というバンドで活動を始めてました。当時現役だった川又選手の背番号は23番だったので、清志郎に背番号23のユニフォームをプレゼントしたそうです。そこから2人の交流が始まったそうです。川又選手は清志郎と同じ三多摩育ち(調布)ということでも気が合ったようです。
奥三河の湯谷温泉はず別館
話は変わるのですが、愛知県つながりでもう少し書かせてもらうと、清志郎は、鹿児島の知人からの紹介で、2003年頃から愛知県奥三河の湯谷温泉はず別館に自転車を持ち込んでよく訪れたようです。ここには、実のお父様と2人で訪れたこともあるようです。
育てのお父様が亡くなった後、清志郎は、実の父親のこと、自分には弟がいたこと、弟は実の父親が引き取って育てたこと、などを初めて知りました。弟さんはその後雪山の雪崩で亡くなってしまったそうです。
育ての両親、実の母親と兄弟を亡くしてしまった清志郎にとって、実の父親との奥三河でのひとときは、どんな気持ちだったのだろうかな。
実のお父様と、ドラゴンズの話なんかもしたのかな。
私も昨年母を亡くし、両親とも見送ったことになりますが、今更ながらもっと色々な話をしておけば良かったとつくずく後悔しています。
今年は、ドジャース、ドラゴンズ、そして清水エスパルスから、目が離せない年になりそうです。
そして、私の住む静岡県も東南海地震が予想されており、能登半島地震も決して人ごとではないので、推移を見守って行こうと思います。
以上です。