忌野清志郎は1951年4月2日生まれで明日が誕生日ですが、その清志郎より3つ年上なのが偽悪者で有名な(笑)、泉谷しげるさんです。


一般的には初期のフォーライフレコードでの繋がりや、1994年8月武道館の「日本をすくえ‘94」ほか、スーパーバンドとして行動を共にした吉田拓郎との関係が有名ですが、泉谷さんは清志郎のデビュー当時の青春期から還暦まじかにかけて、断続的とは言えずっと交流があり、いつも心の中で意識していたようです。

 

泉谷さんは、いろんなところで清志郎のことを語っていますが、RCサクセションのメンバー、スタッフ以外で一番近いところで清志郎と接してきたこともあり最強の清志郎の「語り部(カタリベ)」だと思います。

 

ちょっとだけ紹介すると泉谷さんは、もともと「青い森」という渋谷の音楽喫茶でデビュー当時のRCサクセションやデビュー前の「古井戸」(加奈崎芳太郎と仲井戸麗市)のライブの常連で、なかば追っかけみたいな存在だったようです。


泉谷さんは、もともとミュージシャン志向というより、自らアマチュアのライブイベントを手作りで主催したりチラシを作ったりするイベンター的な活動をしている人でした。

 

 

 

とにかく泉谷さん、この時期からRCや古井戸の音楽に、いち早く感化されてしまった人なんです。このあたりのストーリーは、泉谷しげる・加奈崎芳太郎共著の「ぼくの好きなキヨシロー」に詳しいです。

 

泉谷さんと清志郎の競演って、すぐ思いつくだけでも


・泉谷さんのオリジナルビデオ「デス・パウダー」の音楽を共作


・RCのアルバム「Covers」レコーディングに泉谷さん参加


・泉谷さんのバンド「ザ・ルーザー」(チャボがメンバー)との共演


・泉谷さんが主宰した奥尻島、雲仙普賢岳救済コンサートへの清志郎の参加


・清志郎デビュー30周年記念イベント「Respect!」に泉谷さん出演


・「忌野・泉谷スパイスマーケット」名義でのライブ


・泉谷さん、忌野清志郎ロックンロールショーへの出演


他にも沢山ありすぎて紹介しきれませんが、それだけ組んず解れずやって来た間柄だと思います。

 



さて、ここで言いたいのは、二人は単なる音楽仲間ではなかったんじゃないかということです。時には、言いたくない事、言いにくい事でも、相手のことを思って言い合える、そういう特別な仲だったんじゃないかな?だからこそお互いがとても貴重な存在だったんじゃないかな?

 

そう思えたものがいくつかあります。

 

70年代のRC低迷期、泉谷さんは清志郎を再び奮い立たせるため、「今の清志郎は死んでいる」と発言しました。これを伝え聞いた清志郎は頭にきて「あきれて物も言えない」という曲を作ったのは有名な話です。


この曲の中で、清志郎は泉谷さんを「どっかの山師が 俺が死んでるって言ったってよ よくいうぜ イモ野郎 よく言うぜ」と歌ってます。

 

 

また、泉谷さんはRCサクセションのアルバム「Covers」のレコーディングに参加しています。Coversといえば、原子力発電所への反対を歌った曲を収録したため、原子力発電所建設事業を担う東芝が子会社である東芝EMIからの発売を暗に中止させたという有名な事件がありますが、この際、清志郎に正面切って「こういう音楽は、君がやることじゃないんじゃないか?」と換言したのが泉谷さんでした。

 

 

 

 

 

勿論、清志郎は清志郎なりの考えがあり、泉谷さんには泉谷さんの考えがあったわけです。泉谷さんの主張の趣旨は、


「清志郎には圧倒的な音楽の才能があり、他の人が絶対まねできない素晴らしい曲を作ることができる。


こういうポピュラー音楽界の真ん中で勝負できて、人々を感動させることができる人がなんであえて社会派のような曲をやる必要性があるのか。


オリジナルではない替え歌をやる必要があるのか。本来評価されるべき才能とは違うところで認識されてしまうのではないか。


もう以前のような奇人変人扱いされる存在じゃない、絶対的なロックスターなんだよ」と。

 

清志郎がなぜ反原発、反戦をテーマにした曲を作り始めたのかは、ここでは説明しませんが、泉谷さんらしい、常識をもった意見だし、清志郎のことを思っての意見であることはよくわかります。


なかなか親しい仲でも言えないことだと思います。ミュージシャンは、歌えることを歌うのではなくて、歌いたいから歌う存在なわけです。何を歌いたいのか、何を歌うのかは、それこそ本人が考える絶対的なことだと思います。

 

当然泉谷さんも、そういったことはよくわかっているはずです。しかし、あえて自分の意見を清志郎にぶつけたわけです。それなりの覚悟をもっての発言だったんじゃないかな。関係がこれっきりになってしまうことまでも、頭をよぎったと思います。

 

もともと我の強い海千山千のミュージシャンたちやレコード会社、スポンサーなどとのハードネゴを経て調整を進めなければならないイベントを取り仕切っている泉谷さん、バランサーとしての意識が働いた意見なのかなとも思います。

 

このようなこともあり、泉谷さんと清志郎は疎遠となることも度々あったようですが、その都度やはり音楽を通してまた一緒になったり、そういったことを繰り返しながらずっとやって来た間柄なんですね。

 

 

泉谷さんの清志郎に対する言葉ですが、

「あいつは存在自体が大きな作品みたいだった。圧倒的な作品だった。だから、あいつがここにいようといまいと、それは生かし続けなければならない。作品は残るものなんだから。」

 

葬式にも行かないしお線香もあげないと言っている泉谷さんらしい発言だなと思いました。以上です。