死への観念(75話目)
私は若かりし頃、介護の仕事に携わっていたことがあります。
介護の学校で始めて施設実習に行った時、理想と現実を思い知らされました。
要介護度の高い方は、寝たきりでチューブを付けられ、自分では寝返りも打てないような状態です。
食事を自分で取ることも、自分で意志を伝えることも出来ないような状態を見て、「果たしてこれは生きていると言えるのだろうか…。」と疑問に思い、実習担当だった職員さんに質問したことがあります。
「とても失礼な質問かもしれないのですが…。」
「いいよ、何でも聞いて。」
「自分で何も出来ないのに生かされているような状態を本人は望んでいるのでしょうか?」
「う~ん、そうだよね。私も同じことを思ったことはあるよ。でもね、生きているのだから、私達は生きるお手伝いをしていくことが大切なんじゃないかな…。」
「関わってしまった以上、亡くなってしまうとやっぱり悲しいし、少しでも長生きしてもらいたいな…と私は思ってるよ。」
その時は、そういうものなのかな…と自分を無理矢理納得させようとしたのですが、モヤモヤしたものが心の中に残っていました。
「自分だったら、あんな状態になっても生きていたいだろうか…?」
と、若い私は「生きる意味」というものについて考えていました。
私自身に希死願望などがあったからかもしれません。(3話目参照)
そんな私が松井先生と出会い、亡くなった私の祖母の話をした際、「おばあちゃんは、全て分かっているから大丈夫。何故だか、そういうことは分かるんですよねぇ。」と言われたのですが…。(5話目参照)
それから先、講座のお手伝いしていく中で不思議なお話も沢山聞くことになります。
松井先生とご縁のあるSさんという方がおりました。
Sさんの娘さんは生まれつきの知的障害児で、その子が仏壇の前で「知らないおじさんが座っているよ。家の亡くなったおじいさんも一緒にいるよ。」と言って、その部屋に入るのを怖がるとのこと。
「他の家族には見えないのですが、気持ちが悪いので一度見て下さい。」ということで松井先生のところに相談されにきたのです。
家族四人と一緒に、松井先生が仏壇の前で拝んだところ…。
松井先生がご家族の方に向き直り、幽霊のように手を胸の前にだらりと下げ、「私が誰だか分かりますか。成仏出来ずにここに居ます。どうか成仏させて下さい。」と言われます。
その後、亡くなられた祖父が出てこられ、こう言うのです。
「亡くなってあの世に行こうと思ったら知らない男が家にいた。家族に何かするんじゃないかと、もしもの事があったらいかんと思い、俺もここに居るんだ。」
見知らぬ男性の霊に話を聞くと、次のような話でした。
その男性は隣の家で首吊り自殺をしていたのですが、その家が売りに出ていたので、土地を買って家を増築したらしいのです。
その増築した新しい部屋の所で亡くなっていたそうで、その見知らぬ男性をお子さんが怖がっていたのです。
二人とも松井先生が話をして観音様に連れて行って頂いたそうですが…。
その後、ご家族に向けて次のようなアドバイスをします。
「石屋に行けば祭れる石があるので、庭に石を置き祭って下さい。そして、毎日水をあげてお参りして下さい。」
御主人が石屋に行き、石屋の店主と二人で山に出かけ、適当な石を見つけます。
その石を御主人が背中に背負って山を下りたそうです。
その石を庭に祭り、お参りするようになったところ、お子さんも何かが見えると言わなくなったということでした。
人が悔いを残して死ぬと、それが執着となり、その場から離れられなくなることもあるようです。
だからこそ悔いの無いように生きたいわけですが、悔いの無い生き方というのは、一体どういうことだと思いますか?
それこそ「生きる意味」であり、人生において大切なことだと思うのです。
私がもう一つ感じたのは、死に執着するのは周りの人のことが多いということです。
松井先生が倒れてから亡くなられるまで、そしてその後まで、松井先生の周りで起こる出来事を色々と見てきました。
それこそ書けないことも多々ありますが、松井先生の生に執着しているのは周りの人々でした。
関わりの深い人が亡くなったら悲しいのは当然ですが、誰の為に悲しんだり、生に執着するのか…というと、もしかしたら自分の為なのかもしれません。
私達は何の為に生まれて来て、何の為に生きるのでしょうか?
目的地が分からない飛行機に乗っていて安心できるでしょうか?
今楽しければ良いというのは、飛行機の中で映画を観たり、音楽を聞いたりして過ごすようなもので、目的地が無く飛んでいるだけですから、いつかは墜落して死んでしまうのです。
それを胡麻化すように遊びにふけって、一時的には忘れられたとしても、またふとした瞬間に「死」というものについて思い返されます。
今が幸せだからそれで良いと言う方もいるかもしれません。
ですが、今の幸せは明日も確定したものでしょうか?
大切なことは、今も未来も幸せな道を歩むことではないでしょうか。
人間、普通に暮らせている時には、そういう考えを持つことはありません。
「死」というものに直面した時、初めて真剣に考えるようになります。
かと思えば、また忘れてしまい日常生活に埋もれていくこともあるでしょう。
仏教では「生死一如(しょうじいちにょ)」という言葉が有ります。
「死」を見つめることで「生」が見えてくるのですが、多くの場合「死」を恐れ特別なものだとしています。
そうすると、「生」も常に恐れるようになりますし、どれだけ生を望んで長生きしたとしても、心が自由で無ければ生きているとは言えないのかもしれません。
大切な人が亡くなって、いつまでも悲しんでいてはいけないと思うかもしれませんが、その根底にあるのは「生きていないと価値が無い」というような考え方なのではないでしょうか。
自分にとって都合の良い「生」だけを見つめ、自分にとって都合の悪い「死」だけを見ないようにしている人がどれだけ多いのでしょう。
「死」と対面することで「生」が見えてきます。
「無」があるから「有」が分かるように、片方だけしか見ていない状態では「ありのまま」が見えているとは言えないのです。
大切なのは長生きすることでもなく、今を楽しむことでもありません。
もちろん親しい人には長生きしてもらいたいと思いますし、今を楽しむのも大切なのですが、その裏側を見るというのも大切なのです。
悔いの無い幸せな人生を送る為にも、「生きる意味」を知っておいて損はありません。
もし「生きる意味」を知りたいということであれば、松井先生が残した心の勉強会に参加されてみて下さい。
【心の勉強会公式サイト】
9月16日(日)からは、おうち整体こころセラピスト入門講座の第二期もスタートします。
【おうち整体こころセラピスト入門講座第二期の詳細】
https://www.reservestock.jp/events/268290
松井先生は、とても大切なことを私達に残していってくれました。
あなたは何の為に生きておりますか?
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