ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
掲示板を見ていて思いましたが、
私達にとっての悲劇は自分の持っている知識が
すべて正しいと思い込んでいる事と
自分が実は未だ何も知らないと言うことを
理解できていない事ではないかと思いました。
論理的に物事を思考しそこから結論を導くことは
私達には大切な作業だと思います。
でも私達が導ける論理は、
私達が持っている知識が限界ですし、
そしてその知識の全てが正しいとは限りません。
少ない知識でも正しく導き出せる事柄もあれば、
一方では多くの知識がなければ正しく導けない結論もあります。
私達の心は何でも理解し知っているわけではありませんし
私達の知識は個人差もあり、限界もあるのです。
その尺度を持って何かを判断しようとした時に、
何時も正しい論理を使用して正しい結論に
たどりつけるとは限らないと言うことになります。
この社会の価値観で例えれば、
微分を理解していなければ経済学の限界概念を理解できないように
その尺度となりえる知識を十分に持っていなければ
私達はいくら思考しても必ずしも正しい結論を
導き出すことはできない筈です。
更に私達は自分の持っている知識、そして作り上げた価値観を
全て正しいと言う前提で対象物を分析します。
つまり思考や価値観の大前提となっている知識が間違っていたのでは、
それを使用して導き出すことになる結論は
正しいものにはならないと言うこと。
地球社会を暖めている太陽熱を、対流による伝導だと
理解してしまっている人間にしてみれば
「太陽に近ければ近いほどその空間は熱い」
という命題は正しいと言う事になりますが
実際問題は宇宙空間は絶対0度(-273度)に近い極寒状態です。
まして対流を起こすための空気なるものが
そこには存在してはいません。
当初の知識が誤っているからこそ
私達は時にはそんな結論をも導くことになるのです。
そのために実際は誤っている事を、
自分の既存の知識と照らしては整合性があると言って正しいと認識し、
実際は正しいことを、既存の知識と異なっているから
誤りであると認識することにもなります。
つまり、誤った知識や情報であふれている社会に生きている私達は
全てを自分の知識だけに照らして判断すると真理をも見逃し、
誤った価値観が更なる誤った価値観を
作り上げることにも成りかねないという事です。
私達の理解して実行している創造主の法と宇宙の法則は
その意味では既存の価値概念に照らせば
「間違いだらけ」とされることになります。
しかし私達はそれこそが正しいことを理解しています。
そこから派生される全ての分野と事象、
地球社会の裏の実態、太陽系や宇宙の実態、私達の精神の範疇
全てに整合性もありますし、
そして論理的に矛盾なく多くの物事を説明することも出来ます。
既存の価値観は得てして断片的であり
包括的なものでもありません。
私達は真理とすべき物を断片ごとにしか見ないから
それが正しいかのような錯覚をしては
誤った価値観を正しいと認識してしまう事になりますが
普遍的真理はどの分野においても全てに整合性があり
部分的な真理ではありません。
部分的な真理の矛盾は他の事柄との整合性を
照らし合わせることで認識できます。
しかし私達はそれを実行しようとはしません。
小さな事象ばかりに囚われて全体を見ようとはしないからです。
そして断片的な情報に騙されたり
誤った事を正しいと信じてしまうのです。
更に私達が出来なくなっているのは直感的な判断です。
「何事も理屈で考えることで
正しい結論を導く出せる」
と言う思考はそのまま左脳思考でもあります。
勿論十分な知識と十分な思考能力があって
誤った価値観を持っていなければ
そこから導き出せる結論は正しいはずです。
でも既存の価値観に従う意識からは
発明も発見も生まれることはありません。
更に誤った価値観を少なからず持たされてしまっている私達は
時には既存の価値観を捨て去る、もしくは否定する事も必要となるのです。
先ほどの太陽からの熱の届き方に関してもそうですし
私達の信じている天国と地獄の概念もそうです。
私達は多くの誤りを真理として信じてしまっているから
その知識を価値観として他の事象と照らすだけでは
必ずしも正しい結論を導くことが出来なくなっているのです。
そんな時に有効なのは私達であれば言うまでもなく直感や閃きです。
右脳的な感覚でもありますが
ここから与えら得る判断は創造主の意志にも繋がることが多いわけですし
それが創造主の意志としての魂からの閃きや印象であれば
それは必ず正しいことにもなります。
理屈ぬきに正しいとか間違っていると判断することで
私達は誤った価値観の堂々巡りから抜け出すきっかけを
得る事もあるのです。
誤った情報を混ぜ込んでしまった事による自分の狭い真理が
時には周囲にバリヤーを張り巡らして
私達から真理を排除し続ける事になっている良い例だと思います。
それに私達は創造主の法の全体の骨格を理解したことで
真理とそうでないものを区別しやすい状態です。
理屈で考えるにしても大元の枠組みが正しいのですから
荒唐無稽な情報を
正しいとか、自分の価値観と整合性があると認識することもありません。
そして一方では魂からの閃きも期待できます。
多くの人間が私達のような思考をする事が出来れば
おそらくは私達と同じような結論や価値観を
共有できるようになるのだと思いますが、
この社会は思考させない社会ですし
狭い個人的真理で頭が固まってしまった人間が多すぎます。
そして私達はあまりにも思考を落とされすぎてもいるのです。
思考が大切な私達が思考を止めているのですから
中々真理へと到達することも出来ないのです。
せめて私達が、「良い木から良い実がなる」事を
身をもって実践して見せて
そのことで多くの資質ある人間の覚醒のきっかけになって行きたいです。
いろんな意味で私達のような存在は
この社会の中では希少となっていると思います。
論理的に思考するだけでなくて
同時に閃く事を私達は要求されている。
だからこそ左脳と右脳がバランスよく機能することを
私達は意識しなければいけないのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここからが本題です。
今日紹介する内容は、
ヤコブがイエスキリストの聖書の教えを意識しながら
わかり易く表現してくれていると思います。
そして創造主の法則を反映させている箇所が
中にはふんだんに見受けられます。
それはそのままでも意味が通っているので
創造主の法を理解していない方にも通じる内容でもありますが
私達にはその短い言葉の持つ意味が、とても深く理解できるはずです。
新約聖書の福音は、歴史や記録の書としての意味合いが深く、
パウロの手紙に関しては、イエスの奥義を前提に
質問に対して答えている内容と成っていますが、
このヤコブの手紙は、
これからイエスの教えを理解しようとする人間に対して
その想いを込めているという点で
私達が読んで理解しやすいものと成っているのだと思います。
たった五章の短い内容ですが、
たまには参考にして頂ければと思います。
聖書を持ってない方はネットでも読めます。
http://blogs.yahoo.co.jp/jusus_christ_no1
聖書(新改訳 第3番)
今日はその四章目です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
何が原因で、貴方がたの間に戦いや争いがあるのでしょう。
貴方がたの体の中で戦う欲望が原因ではありませんか。
貴方がたは、欲しがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。
羨んでも手に入れる事ができないと、争ったり、戦ったりするのです。
貴方がたの物にならないのは、貴方がたが願わないからです。
願っても受けられないのは、
自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
貞操のない人たち。世を愛することは神に敵する事である事がわからないのですか。
世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。
それとも、「神は、私達のうちに住まわせた御霊を、
ねたむほどに慕っておられる」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。
しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。
ですから、こう言われています。
「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」
ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。
そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。
罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心ある人たち。心を清くしなさい。
貴方がたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。
貴方がたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。
主の御前でへりくだりなさい。
そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。
兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。
自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、
律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。
貴方が、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。
律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、
その方は救うことも滅ぼすこともできます。
隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。
聞きなさい。「今日か、明日、これこれの町に行き、
そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。
貴方がたには、明日のことはわからないのです。
貴方がたの命は、一体どのようなものですか。
あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。
むしろ、貴方がたはこう言うべきです。
「主のみこころなら、私たちは生きていて、
この事を、または、あの事をしよう。」
ところがこのとおり、貴方がたはむなしい誇りをもって高ぶっています。
そのような高ぶりは、すべて悪いことです。
こういうわけで、為すべき正しい事を知っていながら行わないなら、
それはその人の罪です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ヤコブは私達の争いの原因を
ここでは”欲望”にあるのだと教えてくれています。
イエスキリストが否定していた過度な所有欲、
物を手に入れて自分のものにしたい、権力や名誉を手に入れたい、
そんな欲望が私達の争いの大きな原因の一つであることは間違いありません。
そしてその欲望を作り上げているのは結局は私達の心のエゴです。
そのエゴを作り上げてきたのは視覚・嗅覚・聴覚・味覚の
四つの感覚器官の好きと嫌いと言う意識、
さらには、それらが作り上げた心のエゴと
生まれ持った本能により作り上げられた価値観に基いて
心が心地良いと感じる事を強く望むからこそ
欲望が駆り立てられる事になります。
そしてヤコブは
【貴方がたの物にならないのは、貴方がたが願わないからです。
願っても受けられないのは、
自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。】
と言っていますが、生命の科学の理解が進んでいる方であれば
ここでも気がつく事があるかと思います。
「私達が必要とする知識や知恵そして
私達が本当に必要とするものは
その全てが創造主から与えられる事になる」
と言うのがアダムスキーの話でもありました。
魂からの閃きや印象を感じた事のある方であれば、
求めた質問に対する答えが時には提示される事があるのを
身を持って理解できたかと思います。
それは本当に印象や閃きとなって私達に与えられます。
私は聖書のイエスキリストの言葉に関してなどは
悩むと思考し、そしてある時に閃くという繰り返しを体験しました。
その印象を与えてくれたのが創造主の意識なのか
人間からの想念伝達=テレパシーなのかは不明ですが、
そんな体験が私達の創造主に対する信頼を強くするはずです。
そして、そんな小さな啓示とも言えるものは
特定の人間ではなくて誰にでも出来ると言う事を
私達は身をもって体験しているはずです。
願っても与えられないものは
私達にとって不要なものだという話でした。
私達は生きるために最低限必要なものを与えられた事で
満足しなければいけませんし、
もしも必要であるはずの物が与えられない時は
私達がそれを真摯に求めてはいない、
もしくは私達が無能だと言う事にもなるという話でした。
必要な物があるならば、創造主に対して願えと言うのが、
ここのヤコブの言葉の趣旨となっています。
それは知識であったり、知恵であったりするでしょうが
時には願い事かもしれません。
しかし願いの全てが叶うわけではなくて、
それが心のエゴに基くものではなくて魂の意志にかなう物であればこそ
願いは叶うと言うのがアダムスキーの話でもありました。
さらにそのためには私達は自ら努力する事をも求められています。
「天は自らを助くるものを助く」と言いますが
これは最低限必要など言うことになります。
知識を求めるの場合でも私はきちんと自ら
その内容を思考して自分なりに考えてはみました。
印象が与えら得れたのはその後、まったく別の事を
しているような場合でした。
更に創造主の法では
「天は自らを助くるものを助く」の上に、
「それが創造主の意志にかなう物である限り」
という制限までつく事になります。
自分が面白く楽しく愉快に暮らしたくて、
物欲を満たしたくてお金が欲しいと願っても、
そのために努力しても、
創造主はその想いには力を貸してくれる事は無いという事です。
なぜならその想いは心のエゴが動機となっているからです。
もしもその人が金持ちになったならば
それは自分の力による偶然だと言う事にもなります。
しかし、もし同じお金が欲しいと言う動機でも、
それが自然環境改善や多くの他の人々を幸せにしたいと言う
願いからのものであれば、
私達が努力する事で、創造主はそれに力を貸してくれる
と言う話にも繋がってくるのだと思います。
私達の願い、創造主への想いにとって大切なのは
その願う”動機”なのです。
この意識はそのまま宇宙の法則、創造主の法へと繋がるものですし
ヤコブが創造主の法を意識していた事がここからも伺えるはずです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【世を愛することは神に敵する事である事がわからないのですか】
これはパウロが語っていた
「この世と馴染んではいけません」と同じ趣旨の言葉です。
”世の中を愛する”、”世と馴染む”と言う表現は
つまりはこの社会の常識に馴染むという意味で、
強いてはこの社会を覆っている、創造主の法とは異なる価値観を
身に纏うという事の例えでもあります。
もしも私達の社会を作り上げている意志が創造主の法に基くものであれば、
それに馴染めない事は創造主の秩序の破壊者と言う事にもなります。
しかしこの社会を作り上げてきた意識は
創造主とは対極に存在する意識です。
平和を求めず、混乱と争いを望み、
私利私欲を認め、不平等を認め、殺人を認めるそんな意識です。
それに馴染むという事は
私達の意志が創造主の意識からかけ離れる事に他なりません。
私達は創造主の分身であり続ける事で
存在する事を認められていると言うのがこの社会の本当の秩序です。
だから永遠性を示さない人間の魂は
消えてなくなるという秩序もあります。
「創造主の意識からかけ離れた物はそれが何であっても
存在し続けることは出来ない」
という当たり前の法則のためです。
創造主の想いを具現化している社会の中にこそ
私達は存在しているのですから
創造主の想いに存在していない表現(三次元での現象)は
その実態を維持し続けることは出来ない。
そう考えれば判り易いと思います。
そしてここでの言葉は、創造主の法を理解している使徒達が
その秩序が乱れている社会に馴染むなと
私達に警告として語った物だとご理解ください。
【「神は、私達のうちに住まわせた御霊を、
ねたむほどに慕っておられる」】
アダムスキーも言っていました。
「自分の子を愛さない親は居ない、
そして私達は誰もが創造主の子供なのだ」と。
私達は誰もが創造主の残存思念としてのエネルギーを
魂と言う形で持っている存在ですし、、
本来は私達の肉体は創造主の神殿であり、
創造主の表現したものに他ならないと言う事になります。
魂としての創造主を受け入れる器として
私達の肉体は存在しているとも言えますし、
私達は本来はその肉体を持って
魂としての創造主の意志を表現する事を期待されているのです。
しかしその器が自分勝手な表現をしだしたのが
この社会の中の私達だと言うことです。
世の中と馴染むと言うのは、
言って見れば意識の経路としての”心”を重視する事でもあります。
しかし創造主は”魂”こそを重視する事を願っている。。。
そう理解して頂ければと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」】
宇宙の法則=創造主の法では
へりくだり=”謙虚さ”は大切なものとされています。
一方”高ぶる”と言うのは”傲慢”を言い表したものだと思います。
傲慢さは私達の心から出てくる意識ですし
謙虚さは創造主の意志から出てくる意識です。
そして創造主の法に従うものには恵みが与えられる。。
つまりは心の豊かさ=進化の機会が与えられる事になるのだと
捉えていただければと思います。
お金に恵まれて幸せになれるなどとは受け止めないでください。
創造主の法は、お金による物質的な豊かさなど認めては居ないからです。
私達に求めらている豊かさは
心の豊かさと言われるものに他なりません。
【自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、
律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。】
ここでの兄弟と言うのは家族にのみ当てはまる言葉ではなくて
創造主の法のもと、全ての他人に対して当てはまる言葉だとおもいます。
天使達が兄弟という時は、創造主を父として、
その分身の全ては創造主の子であり兄弟だという意識が
その背景にはあります。
私達にとっては実践が難しい事かもしれませんが、
他人を悪く言ったり批判する事はいけないと
ある意味当たり前のことをヤコブが触れています。
ただし、アダムスキーが強調していましたが
”批判”と”理解”は似て非なるものです。
悪い物を正しく認識してそれを悪いと表現すること、
そして誤りを誤りと主張するのは”批判”ではなくて”理解”です。
”批判”と言うのは得てして自分独自の価値観で他人を評価し非難することです。
私達地球社会の人間は、その大元となっている”価値観”自体が
既に正しい尺度ではないのですから
それを用いて他人を評価し非難する行為は認められないと言うのが
「他人を批判するな」と言う言葉の真の意味になると思います。
「悪いことをしている人間を見てみぬ振りをしろ」
と言う意味ではありませんし、
そんな意識は今度は”臆病”とか正義感の無さ
無関心などといった良くない想いへと繋がる物です。
かと言って私のように堂々と「間違いは間違い」とやってしまうと
余計な苦労を背負い込むことになるので
兄弟姉妹には勧めることは出来ません。
私はどこの組織にも属していないので
どんな犯罪行為を見ても批判的な事を口にしますし
事件があればその背景を知りたいと考えます。
でも特定の関係者達は自分達の組織の関係者の罪には寛容で
敵対する組織の罪を見つけては叩いているようにも見えました。
そして私達にとって大切なのは良くも悪くも”理解”です。
私も最近になってこの”理解”に認識を深めつつあります。
例えば相手を正しく理解することで、
相手に対して改善を求めるための方法をも
私達は得ることにもなります。
会社の人間が相手だとすれば、
自分がその相手を正しく理解することで
その人間と軋轢無く関わることも可能となります。
そしてその様にして齎されるのが”調和”であり
私達は調和のためにも物や自然や人間を
正しく理解する必要があると言うことです。
ただ、”理解”した事をそのまま表現すれば
一見は”批判”と代わらないように見えるという問題もあります。
でも理解と批判は区別されるべき物です。
こちらが相手を理解しようとしないで単に批判すれば
相手の理解を求める発言もしないでしょうし争いの種にもなります。
逆に、理解を示す事が出来れば
通常の意識を持った人間同士であれば話し合い判りあえると思います。
勿論中にはそうでない人間達も間違いなく存在しています。
そして理解の通じない相手にとっては、
私達が何を主張しようが、理解を示したとしても
自分の事を指摘されること自体を嫌悪しているのですから
相手にとってはそれは批判にしか聞こえないと思います。
そんな対象相手には私達には成す術は無いと思います。
そして私達の社会では
間違いなく多くが他人を裁き続けています。
裁くと言うのは”評価”していると言う意味でもありますし
”好き嫌いの意識を持って区分する”事でもあります。
イエスキリストも言っていました。
「他人を裁いてはいけない、自分が裁かれないためです」と
ここでの”裁く”は”罰する”だけを意味しているわけではないのです。
天使達の社会では人間は創造主の現れです。
他人を”裁く”と言う事は創造主を裁く事になるという
考え方をするようです。
私達は誰もが個人的に転生の法則を通じて
その生前の行為と想いに関連して”贖い”を求められる事になります。
そして”裁き”は創造主の法の領域であり、
同じ人間としての他人が実行するべきものではないのです。
私達の魂は創造主でも、
私達人間は心を持って裁いてしまうからです。
更に、もしも自分が、創造主の分身である他人を裁くと言う事は
天使達の言うとおり、神を裁く事になります。
他人の罪を許さずに、それを裁くと言う行為は、
神の罪を許さずにそれを裁くと言う事になるのです。
しかし一方では、私達は自らの犯した罪を
許して欲しいと神に請い願います。
「神の行為を許さずに自分が許しを請うという
そんな不条理は認められない。」
そのように理解すれば良いと思います。
【「今日か、明日、これこれの町に行き、
そこに一年いて、商売をして、もうけよう」】
この想いは心のエゴから出たものです。
その想いの結果、もしもその人間がお金を沢山もうけて豊かになったとしても
そんな意識には価値は無いという事だと思います。
イエスキリストも言っていました。
食べ物も富も沢山あるし
これをしまいこむ蔵でも作って。。
などと考えている人間に対して
「貴方の命は明日取り上げられる」と言う例えでした。
いくらこの社会で物質的に豊かになって沢山の蓄えを持ち
心のエゴにとって心地良い状況を作り上げたつもりになったところで
命を失ってしまえばそれは何にもならない。。
例え世界中を手に入れたとしても、
命を失ってしまえば一体その人間に何が残るのかと言う事です。
更に、イエスキリストは蔵に宝を詰め込むのではなくて、
天の国に財宝を詰め込む行為こそが大切だと言っていたはずです。
蔵に宝をしまいこむ行為は心のエゴを満足させる行為ですが、
天の国に財宝を積む行為は、
魂を持って創造主の意志を実行した事に対する報酬なのです。
【「主のみこころなら、私たちは生きていて、
この事を、または、あの事をしよう。」】
同じ”想う”のであっても
このような想いこそが尊いのだとヤコブは語っています。
【為すべき正しい事を知っていながら行わないなら、
それはその人の罪です。】
そしてこれは私達の持っている戒律そのものです。
自分が正しいと知っている事を実践しなかったり
自分が正しくないと認識している事を実行する事は
そのまま私達の罪でした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。
自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。
しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。
なぜなら、それが信仰から出ていないからです。
信仰から出ていないことは、みな罪です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私達の持つべき信仰は時にはその人間にとって異なり
それはその人間の魂の進化を優先させるためのものでした。
ある人にとっては正しくてある人にとっては正しくない。
それは肉食などにも象徴されるものです。
私はアダムスキーが良くないと言っていた
鶏肉を好んで食べますし
それ以前に肉を食べる機会は多くはありませんが、
それは意図的に減らしているわけでもありません。
私は自分にとって肉食が罪だとは認識してはいません。
未だその印象を受け止めては居ないからです。
そして私の場合は多少の肉食を日々続けたとしても
自分の魂の進化にとっての大きな妨げには成らないと考えています。
私の場合は他に改善点が多すぎて、
そちらの方が私の精神の進化のための
大きな妨害となっているためと想像できます。
かと言って肉を食べる機会を増やすつもりもありません。
私達が課される戒律は
その時々によって魂の進化に効果的なものだと思います。
以前の記事に書いたように優先順位が存在するのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
想いをこめて記事を書いている最中に
電磁波で揶揄を入れてくる人間が居るので
私の理解をはっきり示します。
私が肉食のコメントに触れるたびに攻撃を強化してくる人間が居ますが、
この人間達が自ら肉食を禁じていたとしても、
一方で他人を裁いては攻撃する意識を正当化する意識を
改善できないのですから、
肉食禁止が魂の進化に役立っていない事にも成ると思います。
肉食禁止をしていることで得られる魂の進化よりも、
他人を裁いては攻撃する事で犯している罪の功罪の法が大きく
魂の進化には却ってマイナスであると理性的な人間なら考えるはずです。
私にはそちらのほうが余程魂の進化の妨げになるし
改善する優先順位が高いと思うのですが、
創造主の法に従っているわけではない人間には
私達の戒律のあり方も通じないのだと理解してはいます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そして自分が印象として受け止めた戒律を
創造主が私達の進化のために与えてくれた課題と認識し
それを実践していくのが私達の戒律への姿勢です。
そしてその戒律は当初は少なくても
私達の進化に伴いどんどんと大きくなっていくものでもあります。
既に体験している人も多いと思いますが、
私達が自分の進化にとって良くない行為や
その時の状況に照らして創造主の意志に反した行為をした時には
それが行動でも行為でも罪悪感を感じる事になります。
私達はそれを受け止めた時に
それを自分の戒律として持つことになるのです。
それは結果的には私達が限りなく創造主に似るまで
延々と課される事になるものですし、
その戒律は聖書の記述から導き出せるものには限定されません。
私達はそれを魂からの創造主の意志として受け止めて
受け止めるたびに新たな戒律としては自らに課す事を
義務付けられているからです。
限りある戒律を守ってそれで後は”義”とされるのは
この世の中の他の人間達のあり方であり、
私達覚醒者、イエスの真の教えを理解する者には
当てはまらないと言う事を忘れてはいけないと思います。
私達が持つべき心のあり方は、文章に箇条書きにして
全てを把握できるものでは有り得ないのです。
そして形式よりも実質であり、
-1の欠点を10改善するよりも
-50の欠点を一つ改善する事のほうが
私達の魂の進化には大切だと言う事です。
そして私のように欠点だらけの人間でも、
私より欠点が少ない人間よりも魂の進化が進んでいると言うことも
勿論有り得ることになります。
この社会の中での他人の欠点は
得てして目に見える物に特化されるという傾向もあります。
つまりは心のあり方ではなくて目に見える形式事にばかり
囚われているという話にもなります。
更には戒律・禁欲の弊害もあります。
資質も無いのに自らに分不相応な戒律を課しては
それで心を歪める様な場合です。
例えば禁酒・禁煙をしたけれどもストレスが溜まって
苛つきがひどくなって家族に八つ当たりしたり
鬱に成るような事になるのなら
その行為は却って魂の進化にも周囲の影響にも
マイナスと成っているはずです。
アダムスキーは喫煙していましたし酒を飲むこともあると言う話は
私にとっては心強い話でした(苦笑)
良くないとされることを片っ端から
禁欲的に抑えては潔癖を気取り、
自分では聖人に近づいたつもりで
実は他人を裁いているようでは仕方が無いと言うことです。
賢明な兄弟姉妹はその事を理解してくれると思います。
そして自分の戒律として認識した事は、決して破らない事でこそ
私達は”私達のレベル”での”義”と看做されることになるはずです。
もちろんそこでの”義”とは
”全てにおいて正しい者”という意味ではありません。
創造主の落第生の社会の中に於いて、
私達の持つべき、父の元へと帰る事が出来る意識に
漸く到達したと言う意味です。
私達が理解すべきは、創造主の法は
私達が一度や二度の人生で理解して実践できるような
そんな簡単なものではありえないと言う事。
勿論、今の生で聖人達の様に成ろうと言うのは
身の程知らずという話にもなります。
そして誤った創造主への信仰を続けている私達が、
一体どんな社会を作り上げて来たかを理解すれば
正しい信仰の大切さを嫌でも認識する事になります。
私達は漸く父の元へと帰る事が出来ただけであり、
本当の創造主の法に従った生き方をするのはこれからです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
誤りを誤りとして指摘するのは”理解”の延長でもあります。
それが道徳に基くものであればまして大切な事だと思います。
しかし、今自分が戒律としている事で
他人を計り、裁く事だけは気をつけてください。
心を持って裁いている人間と同じ事をしていることになるからです。
遠い未来には私達の持っている戒律は私達共通の物となります。
しかし今の私達の戒律は、私達が次の進化へと向かうために
私達個々の人間に対して与えられた課題のようなものであり、
他人に押し付けるものではありません。
道徳として、ほとんどの人間が当たり前に持つべき意識に関しては
それに照らして誤りを指摘する事は正義だと思います。
でも私達が個々に感じて受け止めている戒律が
今現在の他の人間にとって正しいとは限らない事を忘れないで欲しいです。
私達は自分の言葉を理解してくれる資質のある人間に対して
私達の理解の範囲で創造主の法を語ればよいのであって
自分の戒律を押し付けてはいけません。
私達は理解する資質のある人間に
そのきっかけを与えるだけの存在であり
今は未だ、この地球社会に住む
創造主の法の落第生であることに変わりはないからです。
一つ違うのは私達は進むべき道しるべの存在に気がついていると言う事。
だからこそ私達は道しるべへの案内人と成る事が出来るのです。
【地球人の苦悩を光の前の暗闇のように消すために
宇宙の創造主を地球社会の道しるべにしよう】
天使達の心情は、
理解は求めてもそれを人には強要しないことでした。
だからこそ彼らはこの社会から身を引いてしまったのでしょうね。
今のこの社会の状況では、
もしかしたらイエスキリストの再臨は無いかもしれません。
だとすれば私達がしている事は余計に大切だと言うことです。
イエスキリストの真の想いを皆に伝えて行きましょう。
【貴方に無限なる力の祝福がありますように】
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11395640560.html
私の想い
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11404992582.html
創造主の意識 万物への無償の愛
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11406551929.html
創造主の意識 平等と謙虚と奉仕
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11408396865.html
創造主の意識 日々の実践事項
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11408848789.html
創造主の意識 誰もが特別
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11410483447.html
創造主の意識 理解と調和
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11413586595.html
創造主の意識 進化
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11390844476.html
経験こそが進化を導く
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11376405514.html
進化を促進するのは正しい動機
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11370292500.html
生命の科学 復習・応用編 VOL4 潜在意識のカルマ
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11369748271.html
生命の科学 復習・応用編 VOL3 カルマは解消できる?
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11368897207.html
生命の科学 復習と応用 VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11367974641.html
生命の科学 復習と応用編 VOL1 前半
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11367969085.html
生命の科学 復習と応用編 VOL1後半
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー