不幸のブログ  -55ページ目

不幸のブログ 

三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


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イエスが、これらのことを話しておられると、群集の中から、
ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。


「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」


しかし、イエスは言われた。
「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」

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血や血統に拘るのであれば
イエスキリストが神々しい存在なので、
その親も、そしてその子供も神々しいと言う話になります。


しかしそれは物理的・物質的な話であって
同じ血を引いているからと言って
その人間がイエスキリスト同様に神聖ではないと言うことを


ここでイエスは言っているのだと思います。


幸いとされるのはあくまで”神の御心を行う人間”、


つまりは魂という意識の経路を感じ
そこから受け止めた創造主の意志を実践しようと勤めた人間こそが
幸いなのであって、


神性は血や肉で受け継がれるものではないと
イエスは触れているのだと思います。


その証拠にモーセ時代に人格神によって与えられていた、
ユダの民が神に選ばれた存在であると言う選民思想を
イエスは打ち消しています。


神性が祖先から子孫へと受け継がれるのであれば
その血や民族性こそを重視することになりますが


それが荒唐無稽であることは
思考能力のある人間であれば誰もが理解できるはずです。


この仮定では清いとされる血からは罪人が出ないことになってしまいますが
現実はそうではないことを私達は知っています。


その人間が救われる存在なのかそうでないのかは
一人一人の創造主との向き合い方にかかっていると言うことです。


ところで聖母とされたイエスの母マリアに関しては
私達の知らない実態があるようです。


イエスの死後、マリアとイエスの兄弟達は
イエスの教えに立ち返りそれを実践して見せたと言うことです。


アダムスキーの話によればエリアがそうであったように
マリアは”生きて天に昇って”そこで色々な事を見聞きして
再び地上でそれを語る機会があったようです。


もちろん”神のいる天国”に行ったのではなくて
天使達、太陽系の兄弟達の所に行って
そこで知恵と知識を与えられ


その後イエスキリストのように福音をしたのだと想像しています。


その時にマリアに直接指導を受けた人間達は
マリアを神々しいと受け止め


直接イエスキリストから指導を受けてはいないことから
マリアこそを聖人と受け止め神聖化したのだと想像がつきます。


つまりは聖母伝説はそこから始まったと言うことで
単にイエスキリストを生んだから聖だとされたわけではないようです。


聖母とされたマリアは12使徒同様に
創造主の法を福音した人物だったと言うことになります。


外伝では”マリアの福音書”なるものも存在していると言いますが
こちらに関しては信憑性は不明です。


他の使徒達も多くの教会で聖人扱いされていますが同様の理解ができます。


その後も聖母マリアらしき人間が現れては
キリスト教社会で奇跡と言われる行動を繰り返したことから、


聖母志向が強いカトリックのような派閥が生まれたのだと想像できます。


もちろん本当に聖母マリアを語る人間が現れたのだとすれば
それも天使達の演出だと思います。


イエスは世紀末にこそ再臨することになっていましたし
他の機会にはイエスキリストが再臨して見せることは出来ず、
その代役を聖母役の天使が果たした可能性もあります。


時には彼らの科学力をも駆使してです。


しかし私達はイエスキリストであろうが聖母マリアであろうが
それは私達を真理に導くきっかけとして受け止めなければなりません。


イエスキリストを信仰しようが、
聖母マリアを信仰しようがそれは私達の魂の救済には
ならないからです。


大切なことは聖人達を神聖化してそれを拝むことではなくて
聖人と言われた人間達が語っていた創造主の法を実践することこそが
私達に求められているからです。


人間を尊敬することは大切ですし
それに学ぶことも時には私達の進化につながります。


(自分の理解できていない事や”正しい知識”を持っているものからは
私達は学ぶことが出来ます)


しかし人間を神聖化してそれを拝んでも
私達は進化することはできません。


魂の進化をもたらす物は魂からの創造主の意志を受け止める事と
それを実践することだからです。
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体を殺しても、後はそれ以上何も出来ない人間達を恐れてはいけません。


恐れなければならない方を、貴方がたに教えてあげましょう。


殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。
そうです。貴方がたに言います。この方を恐れなさい。


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私が繰り返し引用している内容です。


私達は自分の実態を理解しておらず
今の生を一度きりの人生であると思い込んでいます。


そのためにその一度きりの人生をより心地よく生きようと願いますし
一度きりの人生を長生きしたいと願うことにもなります。


そのために死に恐怖し、
私達に死を意識させるありとあらゆるものを
恐怖するようになっています。


病に貧困、その他心が不快と感じ
私達を死へと導くようなありとあらゆる不快な物事をです。


そして私達の社会の人間は長生きするためには、
そして自分の心が心地良くあるためには、
時には他人をも踏み潰してでも自分の寿命や立場を守ろうともします。


しかしそんな行為はそのまま私達の魂の状態を
創造主の法から乖離させる事になります。


自分の命(心)を救おうと願う行為が
結果的には自分の命(魂)を失うきっかけとなるのです。


私達の人生が一度きりであれば
その寿命を伸ばすためには
誰もが躍起になって心の赴くままに振舞うことにもなります。


それがこの社会の実態だと言うことです。


私達が自分の実態を知らないために
私達は誤った生き方を強いられる羽目になっているのです。


もしも私達が肉体の死と共に
その魂が次の肉体へと宿ると言う法則を理解していれば、


その中でも前世の記憶を持っての転生が
イエスキリストの行っていた”永遠の命”であることを理解できれば
私達は生き方を変えることが出来ます。


今の生で、ありとあらゆる体験をしたいと
欲張る必要もなくなりますし、


今の生で心地良い思いが出来なくても
次があると開き直ることも出来ます。


ましてこの生の私達の生き方が、

その後の転生での私達の運命をも変えると知れば
私達は心のあり方を変える事にもなります。


今の人生を心地良く面白おかしく暮らしては
記憶を失った転生をすることになったり魂を消滅させるよりは


今の生で自分の心を諌める生き方をすることで
記憶を持っての転生へと進み
永遠を感じたいと願う人間だって出てきます。


私達は意識を変えることが出来るのです。


そしてここでのイエスキリストの言葉は

例え、自分の命がこの社会の中で脅かされるようなことになっても
それに屈服して命を生きながらえようとすれば


結果的には心を腐らせて
魂の消滅へと導かれることになるのだと言う趣旨です。


今のこの社会に存在するありとあらゆる権力や圧力は
私達の肉体を殺すことが出来ます。


権力をも使用すれば法律を捻じ曲げて
他人を合法的に消し去ることも出来ます。


しかし彼らは私達の肉体と脳機能をつかさどる
私達の心を殺すことは出来ますが


私達の真の実態であり肉体に命を吹き込む魂を
淘汰することは出来ないのです。


(もちろん悪意に騙されて誘導され続け心無い行為を繰り返すことで
魂を消す羽目になることはあるでしょうが)


しかし間違いなく創造主の法は時には私達の魂を消すことになります。


ここでのゲヘナは存在していると信じられている地獄の例えです。


天国と地獄に関しては別の記事で触れているのでそちらを参照してください。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11003292677.html
天国と地獄
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11003294416.html
天国と地獄 後編


私達は今の肉体の生を守るために圧力や権力を恐怖しそれに従えば
その肉体を生きながらえさせることは出来ます。


しかしそのことで自分の心を腐らせれば
私達は創造主の法の適応を受けて魂を消滅させる事になります。


一時の命を重んじて結果的に魂を消すことは愚かだと
イエスキリストは取り上げているのです。


私達が恐れるべきは闇政府の人間達の圧力や暴力により
今の命を失う事ではなくて


その圧力に屈して自分達の魂を創造主の意識からかけ離れさせて
結果的に魂を消滅させる事です。


イエスキリストは言っていました。


「例えこの世界を手に入れようとも
その命を失えば何になるのか」
とです。


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イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。
「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」


すると、イエスは彼に言われた。
「この大きな建物を見ているのですか。
石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

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イエスキリストが創造主の法に関して
さりげなく触れている箇所だと思います。


私達はこの三次元に存在している万物が
常に創造と崩壊の過程にあることを理解しています。


私達三次元社会の万物は
四次元社会の創造主の想いの具現化したものでした。


それは有機物だけではなくて鉱物や無機物と言われるもの、
更には元素まで含めて全てです。


私達はその鉱物や元素を利用することで
あらゆる物を作り上げています。


しかし家も数十年たてば老朽化するように、
私達の肉体が衰えるように、
木々が生長してもいつかは枯れ果てるように、


三次元社会の中において永遠を存在し続けるものはありません。


そしてその中で半ば永遠を保っているのは、
私達が元素とか素粒子と呼んでいるような
三次元における物質を表現するための素材と


私達の肉体の中に隠れている”創造主の法則”ともいえる
DNA情報でした。


私達、三次元に存在する生命体は
個々のフォーム(形態)を持っています。


それは人であったり動物であったり虫であったり
植物であったりもします。


それは創造主の分身としての魂を入れるための器でもありました。


それぞれのフォームは繁殖と死を繰り返しながらも
親から子へと遺伝子情報を伝えていきます。


これはそれぞれのフォームが初めて生を持った時から
今に至るあらゆる情報の記録でもあります。


そしてそれは永遠に進化し続けているともいえます。


しかし肉体自体は創造と崩壊を繰り返しています。


一方では元素も常に進化の過程にあります。


ある時はただの土だったかも知れませんが
ある時は植物の一部となり


それが動物や人間に食べられること動物や人間の一部となり
その時々であらゆるフォームの一部となり体験を続けるわけです。


そして元素は小さなものですが、
全ての体験したフォームの記憶を持っていて
確実に進化しているというのが


金星社会のマスターと言われる人間の話でした。
(地球社会の隠れたマスター役がオーソンさんだと思います)


アダムスキーの話では
私達人間はその実態である魂の進化が進んでいないことから
本当は大きな進化を果たしているわけではないのですが


それを構成している各元素が進化を続けてきたために
その恩恵を受けて地道な進化をしていると言う話でもありました。


私達が自分達の肉体や脳機能含めて自分達の手柄だと思っているものが、
実は元素レベルでの進化の恩恵を受けていると言うことです。


同様に宇宙空間ではありとあらゆるものが進化と崩壊を続けていて、
つまり同じように見える太陽系であっても


一つが崩壊し一つが創造されれば
新たに出来上がったものは以前と比べて進化しているのだと想像できます。


そして同時に私達は自分達の実態である魂を進化させていくことになります。


三次元では元素が進化し、DNAが進化し、
私達はその恩恵を受けて肉体的進化を果たし


同時に私達は自分達の実態であり本質である
魂を進化させ続ける存在だと言うことになります。


そしてもともとの創造主の想いが進化と調和なのですから
それを目的として宇宙空間全体も進化し続けていることになります。


更にその進化に従うことの出来ないものは
その法則の中では存在し続けることも出来ないわけです。


万物が進化と言う波に乗っているその中で
その波に乗ることが出来なければ
待っているのは消滅だと言うことになります。


私達が後生大事に守っているこの肉体は
宇宙空間の長い歴史の中においては一瞬の現象にしか過ぎません。


それは永遠を保つものではないからです。


しかし私達は進化の波に乗ることで
永遠を経験することになります。


勿論三次元社会で同じ肉体を持ち続けることは出来ませんので


魂という私たちの実態を進化させ続け
肉体を取替えながら記憶を持った転生を繰り返すことでです。


そして私達の最終目標は限りなく創造主に似ること。


創造主が自分に似せた分身として作り上げた私達は
脳機能含めてまだまだ限りない能力を秘めています。


その全てを使用できるような存在になるのか、その前に消えてしまうのかは

全ては私達の意志にかかっているのです。


私であれば、例え宇宙が、
神という名の創造主が気まぐれで作り上げた物であったとしても


その中で意識を持った存在とさせてもらい
色々な体験を出来る機会を与えられた事を感謝出来ます。


創造主が意識を与えてくれなければ
”私と言う意識”は存在しなかったからです。


自分と言う存在を意識しながらできる
あらゆる体験の機会を与えてくれたのは創造主の法則です。


与えられた機会に感謝しつつその世界の中の
真の秩序である進化と調和を生きるも、


身勝手な選択をして限られた時間をエゴをもって好き勝手に生きるも
創造主に挑戦して生きるも私達個人の自由です。
(ただしイエスは他人を躓かせる事は許されないと言っていたはずですが)


イエスキリストは


「父の願いは永遠の命だ」


と言っていたはずです。


父の元に帰る選択をした私達は
その想いを理解することも出来るはずです。


私と兄弟姉妹は自分達の理解を多くの人間に伝えることで
その願いを知らせるきっかけとする事が出来ます。


自分の誤った価値観や、
心が心地良く感じる人間の作り上げた法則に従うのではなくて


私達が知るべき真理を深く理解して、
多くの人へと述べ伝えて行きたいです。


それが創造主の意志である限り
その行為は私達を進化へと導くのです。


そしてそれは同時に万物への奉仕です。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11324048053.html
続・宇宙の法則 VOL2 輪廻と転生の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11328167085.html
続・宇宙の法則 VOL3 意識の経路
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11328374408.html
続・宇宙の法則 VOL4   心とエゴ 
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11329172018.html
続・宇宙の法則 VOL5 想念とオカルト
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11370292500.html
生命の科学 復習・応用編 VOL4 潜在意識のカルマ
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11369748271.html
生命の科学 復習・応用編 VOL3 カルマは解消できる?


今日は新約聖書の”ルカの福音書”からの引用です。

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「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、
悔い改めさせるために来たのです。」

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私達がイエスの教えを正しく理解してそれを広報しようとした時に
それを必要とする人間は”善人”ではありません。


ここでイエスキリストが話しているように
創造主の法へと導かれる必要のある人間は罪人であって、
尚且つその自覚のある人間です。


創造主の意志に照らして一切の罪を犯していない真の義人には、
私達の助言や導きは必要ないはずです。


そんな人間が存在すれば、
黙っていても創造主の法へと導かれているでしょうし、


創造主への特別な信仰など持っていなくても
記憶を持っての転生へと導かれる事になると思います。


そして一方では自分を義人としている人間は、
私達の広報する創造主の法は理解できません。


自分は正しく間違った事はしていないという認識を持つ人は
自分の罪を認識する事も出来ないのですし、
指摘されてもそれを認めることもないでしょう。


結果的には実質善人も
自称善人も私達の広報の対象にはならないと言うことです。


私達は自分達の事を顧みれば良いのだと思います。


私は自分がろくでなしの罪人である自覚を持っています。


自分が何も知らない人間である事も


自分が何も出来ない人間である事も


自分が大した物ではありえない事も自覚できています。


そして創造主の方を理解すれば
それに立ち返って自分達の行為を反省する意識も持てます。


多くの覚醒者は私と同じ意識を持っているはずです。


間違っても自分を正しい善人であるとか
何でも知っているとか、大物であるといった意識は持っていないはずですし


そんな意識が創造主の法とは
かけ離れていることも理解してくれているはずです。


自惚れや自尊心の存在が、
私達が正しく物事を理解する機会を奪っている。。。


そして誤った価値観を持つことが
私達の思考や行動までをも誤った物へと導くことになる。


自分を美化しても自分を大きく感じてもいけないというのは、
イエスキリストの幼子の例え話に繋がるものでした。


しかし現実社会では私達の持つべき意識は異なっています。


私達を義とも不義ともする判断基準となる道徳が失われ、
一方では人的戒律としての法律や人為的な組織の戒律が幅を利かし


それを守ることで自分を義であると讃えては、
その視線で他人を量っては裁いている人間で満ちているのがこの現代社会です。


私達が兄弟姉妹として父の元へと導くことが出来るのは
私達同様、自分が罪人である自覚を持っている人間、


その上で自らを改善して生き方を変えようと言う
意識をもてる人間です。


医者を必要とするのは病人であるように
創造主の救いを必要とするのは”罪人”だと言うことです。


ありとあらゆる体験が私達に多くの罪を作りました。


その中で、誤りを誤りと学び反省する意識を持つことの出来る人間こそが
魂の進化を果たすことになるのです。


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イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。
「貧しい者は幸いです。神の国は貴方がたの物だから。


今飢えている者は幸いです。やがて貴方がたは満ち足りるから。
いま泣く者は幸いです。やがて貴方がたは笑うから。


人の子のため、人々が貴方がたを憎むとき、
貴方がたを除名し、辱め、貴方がたの名をあしざまにけなすとき、
貴方がたは幸いです。


その日には喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。
天では貴方がたの報いは大きいから。
彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。


しかし、貴方がた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。


いま食べ飽きている貴方がたは哀れです。やがて飢えるようになるから。
いま笑う貴方がたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。


皆の人がほめるとき、貴方がたは哀れです。
彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じ事をしたのです。

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先日記事で触れましたが、
富んだ人間、権力を持った人間、名誉や地位を持った人間は
その状況故に心が心地よい思いをする事に慣れています。


私達の心は不快な思いをすることを望みませんので
そんな人間達はそれを失う事を不快に感じる事になるはずです。


富を失うと、権力や地位や名誉を失うと
彼らは不快な思いをするのです。


一方そんな心を更に心地よく保ちたいと思えば、
其の欲は膨らむ事にもなります。


心は平凡な安定を望みませんし、
同じ状態に慣れ親しむと心はそれを心地良いとは認識できなくなるからです。


結果心が心地よく感じるために
私達は今以上に富や権力や地位や名誉を求める事にもなります。


しかしそのような価値観は
私達が心のエゴを持って作り上げたものに過ぎず

それらに価値を持っている間は私達は心に囚われている事になります。


「財を築き上げる場所に私達の心もあるのだ」


とイエスキリストが語ったように、


物質的な豊かさや人間の作り上げたものに価値を見出している間は
私達の心は三次元社会の誤った価値観に囚われているようなものです。


しかし私達は心のあり方にこそ価値を見出さねばなりません。


イエスキリストが天の国に宝を積めと言ったのは、
魂もしくは心のあり方こそを重視しろと言う趣旨のはずです。


そして今現在、物質的に報われない思いをしている人間は、
心が物質的な価値観に満たされて満足した状態を知りません。


そんな価値観を当初から持っていないのですから
富や権力や名誉や地位が無くとも心が不快な思いを感じることなく
すんなりとイエスキリストの教えを受け入れる事も出来ます。


そんな内容をも含めてイエスキリストが語っているのだと思います。


そして大切なのは私達は其の行動に見返りを求めるのではなくて

それが万物を思っての無償の奉仕であることでした。


現在の社会の中で、富や地位や名誉を与えられている人間は
其の行為に対する報酬を既に受け取っていることになります。


お金と言う形で報酬を受けた上に褒め称えられ
賛美され一目置かれて二重にも三重にも
報酬を受けているかもしれません。


彼らの奉仕・作業は”無償の奉仕”ではありませんし
通常私達の殆どの行動の動機は個人の心のエゴを満たすことです。


しかし私達の行動の動機は、万物に対しての無償の奉仕である事を
求められている事はご存知のとおりです。


そして其の行為こそがイエスが
「天に財宝を積む行為」と例えたものですし
其のことが結果的には私達の魂の進化をも導くことになります。


更にイエスは預言者が
皆この社会で迫害されていた事にも触れています。


聖書の”預言者”というのは、今の社会での預言者のように、


「いつどこにどんなことが起きる」
”予言”と言われているものを語る怪しげな人間ではありません。


創造主の法へと導くための真理の欠片を与える存在や、
救世主がやってくる前にその整備をしておくような存在こそが
天使達の歴史の中では預言者であったはずです。


イエスキリストの到来を予期して、
其の信仰への整備を進めていたのがバプテスマのヨハネだった様にです。


そしてそんな人間達は
時の権力者によって迫害をされ続けて来ましたが、


そんな立場になる人間は、
結果的には創造主の法に導かれているのだから
幸いだと言う話になってくるのだと思います。


私達は小さな預言者になることが出来ます。

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自分を愛する者を愛したからといって、
貴方がたに何の良いところがあるでしょう。


罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。


自分に良い事をしてくれる者に良いことをしたからといって、
貴方がたに何の良いところがあるでしょう。
罪人達でさえ、同じことをしています。


返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、
貴方がたに何の良いところがあるでしょう。

貸した分を取り返すつもりなら、
罪人達でさえ、罪人たちに貸しています。


ただ、自分の敵を愛しなさい。
彼らによくしてやり、返してもらう事を考えずに貸しなさい。


そうすれば、貴方がたの受ける報いはすばらしく、
貴方がたは、いと高き方の子どもになれます。
なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、哀れみ深いからです。

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ここでの例えも無償の奉仕が大切だと言う話に通じてくるものです。


好きな人に何かをしてあげる。


これは自分が其の人間に好かれたいと言うエゴを動機とする
行動の場合が多いと思います。


自分に何か良い効果を齎してくれる人間に好意を感じて
其のお礼に何かをしてあげる。


これも無償の奉仕ではなくて見返りが伴っている事になります。


しかし自分を敵とするものに関しては、
何かを与えたからと言ってそれに恩を感じて
其の見返りを返してくれることは期待できません。


つまりそれを実践したとしたら
それは無償の奉仕の意識を持っての行為という事になります。


同様の例えで、
「もてなしをするときは親戚や兄弟を呼んで施しするのではなくて


貧乏な人間、お返しを出来ないであろう人間を招いてはもてなせ」


というイエスの例え話がありました。


そこでの趣旨は、


「親族などは持て成せば、もてなし返してくれるが
貧乏な人間達は持て成されても
それに対してお返しすることは出来ない」


と言う内容だったはずです。


つまりはここでも、同じ施しであっても
見返りのないものこそが大切だと言うことを
イエスキリストは例えているわけです。


例えの内容が極端で、しかも私達には実行の難しい内容となっているので
それこそを偽善だと言う人間もいますが


結局はイエスの言葉の中の例えの趣旨を理解できず、
それを額面どおり受け止めようとするから
イエスの言葉の真意を理解できないのだという事になります。


イエスは敵をも愛せと語り


「私達は本当は万人に対して、更には万物に対して
分け隔てのない慈しみを持たねばならない」と


創造主の意志について語っているのだと思います。


「自分を愛するように隣人をも愛しなさい」


と言う言葉もありました。


これに関してはこんな記述もあったはずです。


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しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。
「では、私の隣人とは、だれのことですか。」


イエスは答えて言われた。
「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。
強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。


たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、
彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。


同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、
反対側を通り過ぎて行った。


ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、
そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、


近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、
自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。


次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。
『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』


この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」


彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。
「あなたも行って同じようにしなさい。」

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ここではイエスキリストは”愛すべき隣人”としての例として
それがどんな対象であるかを具体的に説明してくれています。


イエスキリストが本当に私達に求めたかったのは
真の敵、ここでは強盗をもあわせて、

”すべての人間に対して慈しみをもって奉仕をしろ”


と言うことだと思います。


分け隔てる事無く、誰にでも、万物に対しても持つべき慈しみ、
それはそのまま創造主の意志だからです。


「創造主は罪人にもそうでない人間にも
平等にお日様を昇らせてくれます。」


という判り易いたとえ話から判るように
創造主の法は私達誰に対しても平等に働きかけるものです。


創造主の分身である私達は本来はそこまで
求められていると言うことをイエスキリストは
12使徒には説明しているはずです。


「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」


「上着を奪うものにはズボンまでくれてやりなさい」

というのは


一切の争いの意識を持たないことと、
私達がすべき無償の奉仕を、
極端な例えで説明したものだと認識できます。


しかし現実社会の私達は、
元々がイエスキリストのような聖人の意識はもてませんし、
これを実践しろと言われても殆どの人間が不可能です。


まして心無い人間のはびこる社会でこれを実践する事によって

悪人と言われる人間達が得をし続けることにもなります。


更には彼らには悔い改める機会もなくなります。


私達は自分達の社会の実情に併せて
出来る限りの範囲で創造主の法を実践するのが良いと思います。


ここでのイエスの例えにあるように
友好関係にある人間はもちろんでしょうし、


例え自分を目の敵にする敵は愛せなくても、
それ以外の一般の人間は差別なく平等に見つめ応対することは出来ます。


自分の心の好き嫌いで分け隔てることなしにです。


心の持つ好き嫌いの感情、不快な感情の全てを
完全に消す事が出来れば


創造主の意識で、自分を迫害する人間をも愛する事が出来るのでしょうが
其の域に私達が達するには一万年はかかるのではないでしょうか。


私達は天使達の社会の劣等生。


一度や二度の生で創造主の法を学んだからといって、
天使達の中の指導者であるイエスキリストの様に、なれるわけもないのです。


今私達が出来ることは、
天使達の世界の一員として仲間入りが出来るように、
彼らの歩んできた道の入り口へと意識を向けること。


魂と言う意識の経路を理解して
それを使用出来るように実践すること、


イエスキリストの例えで言えば、
エゴを捨て謙虚さをもって父の元へと帰る事だと思います。


未だ自覚のない人は父の元へと帰るために、


兄弟姉妹達は其の門から
私達の本来進むべき道を歩み始めるために


私達だけでも創造主の法を日々実践するように勤めて行きましょう。


【貴方の無限なる力の祝福がありますように】


今日は掲示板の書き込みにコメントをつけて
その後はイエスの言葉に関して
”マルコの福音書”からの言葉の続きです。

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341 :神も仏も名無しさん:2013/01/02(水) 09:16:36.67
>>338
いや、だからイエスが生きてたころは
イエスは洗礼者ヨハネのようなユダヤ教の予言者の一人で
エッセネ派みたいな感じだっただけだな
その頃はキリスト教なんか無い

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これはある意味正しいと思います。


イエスキリストはユダヤ教自体を批判したのではなくて
ユダヤ教徒を更なる段階へと導こうとした存在だからです。


そして時には自分の事を
預言者であるかのようにも表現しても居ました。


ただ、天使達の予定ではモーセの教えは
イエスキリストの手で更に上の段階まで
引き上げられることになっていたはずです。


既存の価値概念から離れられない人間達の古きユダヤ教と
イエスの元で進化したユダヤ教とに分かれたともいえます。


イエスの教えをキリスト教としたのは、
古きユダヤ教の教えと区別するためでしょうし
イエスの教えは多くのユダヤ人信者にも信仰されたはずです。


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342 :神も仏も名無しさん:2013/01/02(水) 09:27:05.18
そもそもイエスはユダヤ教のメシアのつもりだったんだから
キリスト教とか別の宗教になるのがおかしいのだがな
正確にはカトリックじゃ無くて人種問わず拓かれたユダヤ教が正しい

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ユダヤ教徒の意識を高めるためにも
預言通りに救世主キリストとしての役目を果たし
天使達のシナリオを実践したのがイエスキリストだと言えます。


それを救世主と認めた人間達と
既存価値概念からもイエスを救世主と認めたくなかった人間達に分かれたのが


キリスト教とユダヤ教とに分裂したきっかけであることは
私が触れるまでもありません。


選民思想を持っていることで独自の思想となっているのが
ユダヤ教でもありますが、


イエスキリストは第一にそれを排除して
あらゆる人間に対して民族の差のない救済を広報しました。


選民思想を持つ原因はモーセ時代の
”人間であった神”の存在のためです。


多くの民族達が神を従えていた時代があるはずですし
その神々は自分の民こそが神に選ばれたのだと
表現していたであろう事も想像がつきます。


もちろんその時の神々は自ら科学力を持って
奇跡を起こして見せる事で
民の信頼を得ていた人間達だと思います。


しかし、彼らは本当の神ではありませんでしたし
元々創造主は一人です。


本来の創造主は民族を差別などしませんし
創造主の法の元全ての人間は平等でもありました。


そんな意識を表現して、それを普及させようとしたのだと思います。

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343 :神も仏も名無しさん:2013/01/02(水) 09:31:22.89
パウロもペトロも他人に聞かれたら俺たちはユダヤ教だと言ったと思うぞ

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これに関しては何ともいえませんが、
当初はユダヤ教徒だった人間であり、後にイエスキリストという
指導者によって導かれたとは語ると想像します。

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344 :神も仏も名無しさん:2013/01/02(水) 09:35:23.59
キリスト教=人種問わず拓かれたエッセネ派みたいな修道生活宗教
カトリック=人種問わず拓かれたユダヤ教
こうなるな

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うまい表現でもありますが、


イエスは修道生活を勧めたのではなくて
明日のために今お金を稼ぐような俗世界の価値観から
離れることを勧めたのだと思います。


イエスキリストは本気で救われる可能性のある人間を
一気に転生へと導こうとしていたのだと私は想像しています。


その意味でも新約聖書として述べ伝えられている内容も
その当時の人間達を強く意識して表現していることも想像が出来ます。


イエスが懸念していたのは、その2000年前のユダヤ社会を放置することで
確実にその社会が創造主の意識と掛け離れたものへと変貌してしまう事だったはずです。


その中で意識を変えることの出来る人間の意識を変え
転生へと救い出すことと、


お金や財産所有がこの社会を変貌する前兆を感じ
それに対して対抗策を打つことでもあったと想像できます。


時の者支配者権力者の力は絶大でしたし
イエスの教えに従うことは時には命され危険にさらされることになりましたが


イエスキリストに従ってその教えを実践できた人間は
結果的には迫害を受けて寿命が短くなろうが
永遠の命を持った生へと進めたはずですから


その行動には十分の報酬も伴ったことになります。


俗世間から離れさせると言えば
通常は生活困難をも意味しそうですが、


創造主の法に従えば、
生活の糧は何とか与えられるという秩序を確信していた上での
一般市民への働きかけと言えます。


天使達の援助も想定できました。


パンの奇跡に関しては私はどんな方法だったのかは
想像できませんでしたが


これもイエスの神聖もしくは天使の協力の
なせる業だったはずです。


結果的にはイエスの創造主の法の広報活動を手伝う人間を公募しながら
創造主の法に人々が触れる事になるきっかけをつくり社会の改善に資したのが、


イエスとその教えを引き継いだ
人間達だったということではないでしょうか。


イエスキリストという正確な模範を目の前にして
その教えを実践していた多くの人間は
間違いなく記憶を持っての転生へと進んだはずです。


彼らは、傍目で既存の価値観を持っている人間が
彼らを見つめて感じていたような、
厭世的な人生を送ったわけではないはずです。


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345 :神も仏も名無しさん:2013/01/02(水) 09:41:27.96
 
残念ながら当時は宗教という概念がなかった。
 
ユダヤ教という言い方もなかったのだよ。

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これも正しいと思います。


宗教ではなくて元々は創造主の法で
私達のあるべき生き方を実践するものですし


他の思想と比べられるような機会があると
分類のためにユダヤ教とかキリスト教と呼ばれるようになり
それを意識する事になったはずです。

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346 :神も仏も名無しさん:2013/01/02(水) 09:48:48.67
とにかくイエスは完成されたユダヤ教のメシアだよ
ユダヤ教や東方との分裂なんかまったく望んでなかったと思うよ

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完成系のユダヤ教というよりはそれでもまだ未完成の
試作系の創造主の法と言う表現が正しいと思います。


元々が創造主の法は一つ、そしてイエスキリストにしてみれば
それを正しく学ぶことが出来るのは自分の教えだと言う自負はあったはずです。


ただ当時の人間であっても未だ創造主の法則を理解するには
能力的に不足していたと思います。


そこにはもっと多くの科学の進化が必要だったからです。


生命の科学に出てくるようなDNAの話や
物質の原子や素粒子の話、


そして三次元と四次元の話など
2000年前当時の人間にはまだまだ学ばねばならないことが
存在していました。


イエスキリストはその全てを当時の低い科学知識をもっている人間達に
説明することは出来なかったのです。


しかし悪意の無い全ての人間を
創造主の法へと導きたいと考えたはずですし、


人々が分離や誤った思想へと傾くことを望んでは居なかったことも
黙示録の前半の記述からも明らかです。


宗派に別れ分離を引き起こしたのは人間のエゴであり、
イエスの教えの解釈を誤りながら
自分こそが正しいと譲らなかった人間の為せる技だと思います。

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347 :神も仏も名無しさん:2013/01/02(水) 14:56:09.20
ユダヤ教えはキリスト教の「プロタイプ」のようなもの。

よってキリスト教成立以降・・・正確には十字架上の死の直後、「神殿の幕が切れた」時点で
「もう期限切れの定期券」のような存在。
こんなものだから分裂を望むもなにもない。

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そして以前から触れているように、これが結論だと思います。


ユダヤ教は、民族間でも殺し合いをしていたような野蛮な昔の人間を、
創造主の分身としての人間らしい思考にするために与えられた
人として基本的な教えで、


2000年前にそれを発展させて
更なる段階へと導こうとしたのがイエスキリスト。


天使達の転生の予言どおりに
救世主として現れ、従来のモーセの教えを進化させたのです。


そしてその教えの実態が理解されにくくなり
その後には特定の戒律やイエスの神聖などを争い派閥が出来上がっていたのが
今の多くのキリスト教の分派の歴史だといえます。


おそらくはキリスト教の悲劇は、
イエスの神の国の奥義でもある、創造主の法=生命の科学を理解して


心と魂と言う二つの意識の経路を理解することが出来る人間が
時の流れとともに居なくなってしまったことによる悲劇でもあると思います。


創造主の法へと到達した人間たちは
其の殆どがこの社会から卒業していったはずですし
目に囚われる私たちは結局は見えないものを理解できなかった。


そしてイエスの教えの内容を改ざんした人間や
イエスの教えを誤って解釈した人間達が


創造主の法を”キリスト教”としてその額面どおりの解釈を
推し進めることになってしまったわけです。


50年前に地球社会に公に紹介されるはずだった
生命の科学=創造主の法こそが彼らの教えの完成系。


つまりはモーセとその神の教え、
イエスの教え、そして創造主の法と、


天使達の教えは私達の進化に応じて
段階的に引き上げられていったと言うのが正しいはずです。


私達は自信を持って
創造主の法、生命の科学を学べばよいと言うことです。


私達が学んでいるのは普遍的真理である
創造主の法、全ての宗教の根底に存在している思想です。


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そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。


「あなたがたも知っているとおり、
異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、
また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。


しかし、あなたがたの間では、そうではありません。
あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。


あなたがたの間でひとの先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。


人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、
また、多くの人たちのための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです

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12使徒が誰が一番偉いのかともめていた時や、
イエスキリストの右と左の座に付きたいと触れたときなどに


イエスキリストが大切なのは謙虚さであり
奉仕の心であると使徒たちに告げている内容です。


私達の社会での大きな勘違いは
他人に命令して権力をふるうことが出来る人間が
偉いと思い込んでいることです。


権力や地位や名誉が神から与えられたものであるような
誤った価値観を持つに至っているこの社会ならではの意識が


私達に神と言う物の存在と其の意志まで
誤ったイメージを持たせる原因になっていると思います。


聖書の中で記述されていたパウロの言葉にある

「全ての権力は神に与えられたものだから
従わなければならない」というのは


権力者達が市民を自分達に服従させるための
改竄だと言うのが私の主張です。


時にはローマ帝国のような大きな国の国教とされた教えが
支配者や権力者の地位や名誉を脅かすものであっては
彼らはそれを利用することが出来ません。


聖書に自分達の権力の正当性を付け足すことで
イエスの教えを信奉する人間に
誤った価値観まで植えつけたはずです。


元々のイエスの教えが既存の権力に批判的であったことを
考えればその矛盾に気がつくはずです。


その結果、キリスト教を信仰する人間は
権力に従わねばならないと言う風潮を
つくりあげる事も可能になったのだと思います。


権力や地位や名誉に対するイエスの想いは
この一節からも理解できるはずなのです。


イエスキリストは地球社会の中での権力や地位や名誉が
創造主によって与えられたものであるとは認識してはいません。


それは誤った価値観であるお金による豊かさや
力や暴力による圧力などがその起源だと思います。


創造主の法に従いそれを実践する人間達にしてみれば
万人は平等であり


その間に上下の関係や
主従の関係があってはならないことを
イエスキリストは当然だと考えていたはずです。


創造主の法の下では万物は神の元に平等だというのが
天使達の想いでもあります。


つまり神によって与えられた特別な権限を
持っている人間など存在しては居ないのです。


イエスキリストは当時の人間の理解を求め
信仰への信頼を得るために


時には自分が父なる神の権限を持って
一般市民を教えているかのような表現をしましたが


少なくとも其の大元の思想が正しいものなのですし、
人々を創造主の下へと導くための有効な手段と認識しての言動ですから
其の行為の動機は誤りではありません。


権力や名誉に弱い人間達を人間の権力にではなくて
創造主の法という神の権力へと導くために
そのような表現をすることはあっても


それはこの社会の”権力”という価値観を
正統と認めたわけではないのです。


現に「先のものが後になる」と語っては


この社会の権力者が
彼らの社会では評価されないと言うことを
明言しても居ました。


そしてこの社会の既存の価値概念である
偉いとか上であるとか言う意識を12使徒が持っていたため、


それが創造主の法の下では
存在しない価値概念であることを説明し
彼らを諌めたのだと思います。


天使達の中にも指導者は存在します。


それは神が決めたものでもなければ、
彼らが多数決で決めたものでも、社会趨勢が決めたものでもないはずです。


彼らの誰もに信頼を受けている人間が
自然と皆によって称えられる事になった。。


彼らは物事を正しく理解することができます。


人間相手であってもそれが自分達の指導者となるべきであることを
誰もが同様に感じ取ってそれをその人間に求めたのだと思います。


彼らは他人から多くを学ぶ存在ですし
彼らが多くを学べる相手を、
そして率先して他人に奉仕していた存在を、


皆が認めてそれを模範としているのだと想像できます。


そしてイエスキリストはそんな彼ら天使の指導者の一人です。


偉いと言っても、それは指揮官に例えても
司令室に閉じこもってはふんぞり返って他人に命令しているのではなくて、


自らが戦場の最前線に飛びこんでは
危険な状況の中を飛び回って居るような存在だといえます。


現にイエスキリストは危険な地球社会の中への転生を志願し
当時の権力者達の手によって処刑されることをも想定した上で
自らの教えを伝道し続けました。


地球の兄弟への奉仕のために
自らのその生における肉体を捧げたともいえます。


イエスキリストは他の誰よりも多くの奉仕を
身をもって実践して見せた人間なのです。


その意識の中心はやはり無償の奉仕であり
創造主の意志を実現すること。


波動の低い社会での転生は
自らの魂の退化をも齎しかねませんし、
その時は生命を延々と狙われる羽目になりました。


それを事前に想定しながらも、その中に自ら率先して飛び込んで
地球社会の私達に奉仕してくれた。


自らの犠牲の元に私達の進化に資してくれたのです。


そんな意識こそを私達は持つべきなのです。


この社会の権力や名誉や地位が何に基づいているかを
考えてみてください。


それは私達が培ってきた価値観に根ざしていることは
言うまでもないと思います。


権力を与えられればそれで他人を命令し服従させることが出来る。


地位や名誉があれば他人に崇拝され褒め称えられることになる。


更には権力や地位や名誉はお金とも結びつきます。


そしてそれらは結果的に私達の心のエゴを
心地良くするものに他なりません。


そしてピラミッド型の指揮命令系統に慣れ親しんでしまった私達は

自分達よりも上とされた人間に服従する事を正しいと思い込んでも居ます。


そして上に地位をあげることで、今度は自分が命令をできますし、
褒め称えられますし、心が心地よい想いをする事にもなります。


そして心の中でそんな願いと価値観を持っているがゆえに
権力者や名誉を持っているものを羨みながらも
それを崇拝しているのだと思います。


そして権力が神に与えられたものであるとしては
そんな誤った価値観を美化しては
人間を崇拝しているのが私達の社会なのです。


しかし私達はその価値観が、創造主の法の下では
通用しないことを理解しなければなりません。


イエスキリストが語っているように
誰よりも偉くなりたいと思えば
私達は自らを低くして他人に奉仕する意識を持たなければならない。。


そしてもっと言えば偉くなりたいと言う意識自体が
私達の心のエゴから出ているわけですし、


魂の進化を強く受け止めることになる人間は
偉いと思われたいなどという意識さえなくなるはずです。


そして結果的には進化が進み
その進んだ進化による高い意識を持った魂を
自然と尊敬してくれる人間が出てくることになるわけで


自分を高くする人間、
つまり自分を美化し、高く評価されたいと願う想いを持つ人間は
魂の進化は進みませんし


その意味では天使達の世界の中では立派だと看做される事もありませんし、
自分を低くして他人に無償の奉仕を続ける人間は
結果的に魂の進化を推し進め立派であると見てもらえることになるのだと思います。


つまりイエスが言っていた、
「天の国では自分を高くするものは低くされ
低くするものは高くされる」


と言う話にもつながってくるのだと思います。


マスターと言われる指導者達が
率先してこの地球社会に転生しては
創造主の法に導くための教えを私達の社会に与え続けたように


彼らの中の偉いとされている人間達、彼らに尊敬をされている人間達は皆
自らを低くしては他人に対して率先しては奉仕する人間だと言うことです。


傲慢さや横柄さに慣れ親しんでいる私達ですが
威張っている人間、虚勢をはって見せている人間が
見た目で尊敬されるこの社会は実はおかしな価値観を持っているに過ぎず


創造主の法の元では謙虚さこそが私達を進化へと導く
大切なものであると言うこと。


そして限りなく神に対しての理解が進んでいて
魂の進化が進んでいる人間ほど
天使達は尊敬の対象と言う意味で”偉い”と称したのだと思います。


そして創造主の意志を深く理解すればするほど
私達は奉仕せずには居られなくなるのではないでしょうか。


それは他人からの見返りを期待しない無償の奉仕、


イエスキリストの言っていた天の御国に宝を積む行為です。


【人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、
また、多くの人たちのための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。】


その奇跡と称された業の数々、
そしてとてもためになる数々の例え話、


さらには知的な言動からも多くの人達をひきつけて
結果的には一部の人間達には奉仕され崇拝される事となった
イエスキリストではありますが


イエスキリストの奉仕はその命を持って実行されたのだと思います。


創造主の法に照らしても、人間の戒律に照らしても
何も罪を犯していない人間が


心無い、この社会の人間達の手によって
十字架に貼り付けられ殺されたことで、


そしてその後、復活(入れ替わりの法則)を果たして見せたことで、
イエスキリストを、神やその使いと信じるものが一気に増えて
その教えに従う人間達も増えたわけですから


イエスキリストは、
後にイエスの教えを信頼しその教えを実践し
記憶を持った転生を果たして行った人間達に対して
身をもって奉仕をしたことになります。


イエスキリストの奉仕は12使徒に対する教えではなくて、
身をもって、その命をもって創造主の法を広めたことにあるはずです。


何の罪にも問われないはずの人間が
誤った戒律や価値観を持った人間に
囚われてそしてその命を失う。


これはイエスにとっては当初の想像通りの展開だったにしても
誰もが苦しい思いや不快な思いを
率先して体験したいとは思いません。


それを逃げることなく体験し
その結果多くの人間達に自分を信頼させ、
結果多くの人間達を今までの生き方から立ち返らせることが出来た。


多くの人間達を罪から開放したのだと受け止めることが出来ます。


イエスキリストは命をもってこの社会の人間達に(後にイエスの教えに
従うことになって救われるに至る人間達)奉仕したことになります。


直接救われる事がなかった人間達にしても、
イエスキリストが社会に投げかけた影響のために
魂の消滅を防ぐことが出来た人も居たかもしれません。


創造主の意志からかけ離れつつあったものを
創造主の法則を意識させるきっかけになったかもしれません。


イエスの教えは当時の社会が
誤った方向へと進むことへの抑止力となったのです。


そしてそれを齎したのは、
イエスキリストの地球社会への無償の奉仕だったと言うことです。


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『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎となった。

これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことでもある。』」


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これは以前、私が記事でも取り上げたことのある
聖書の中でイエスキリストが引用していた一節です。


ぶどう園の経営者が、あきれ果てた使用人を
どう処遇するのかという内容に関して
例え話で創造主の意志を厳しく表現し、


当時の権力層の人間を皮肉った話をした時の引用です。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11153006971.html
真訳聖書 VOL24


http://ameblo.jp/uruseiblog/day-20120427.html
政治・被害・生命の科学



【家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎となった。】


「形式的な実体を作り上げた時には不要とされた物が、
その実体に本質的な命を吹き込んだ」


という意味だと私は説明しましたが、


その時イエスキリストが”見捨てた石”と表現したものは
イエスキリスト自身ですし、


その時に家を建てたとされた人間達は
当時のユダヤ教社会の支配者達です。


そしてここでの”家”は当時の社会風潮や価値観として
受け止めることも出来ます。


当時の権力者達は形式的なことを重んじ
実質の伴わない教えを社会の中に作り上げていて、
その中においてはイエスキリストは不要な存在でした。


彼らの作り上げる”家”にはイエスキリストの教えが
必要とされる場所が存在しては居なかったわけです。


しかしその社会の戒律に実質的なものを吹き込んだのは
イエスキリストの教えです。


イエスはここではその社会の行く末を予言していたとも言えます。


当時の人間の価値観や目を持っては理解できなかったイエスの教えが、
魂=神の意識を感じることのできた人間達によって理解され
形式で覆われていたユダヤ教社会に魂を吹き込んだ。


結果的にはそのように受け止めることも出来ると思います。


私達、自称イエスの使徒の教えも
この社会の中においては不要なものであり、
社会の見捨てた石のようなものです。


しかしそれは真理を持っていて
この社会に実質を与えることの出来るものでもあります。


私達はそんなイエスの想いを受け継いで
この社会の中の礎になることが出来ると思います。


それは人(心)には理解できなくても
神(魂)には理解できるはずです。


私達は屈強な岩の上に教会を立てて
創造主の法を述べ伝えていきましょう。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】




先日は私達が魂と言う意識の経路を感じるために
どんな手法が有効かと言う話を取り上げましたが、


私達が閃きや印象という形で創造主の意識を受け止めることについて
イエスキリストが語っていると思われる一節がここです。


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私は、貴方がたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。
捜しなさい。そうすれば見つかります。


叩きなさい。そうすれば開かれます。


誰であっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。


貴方がたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、
魚の代わりに蛇を与えるような父親が、一体いるでしょうか。


卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。


してみると、貴方がたも、悪い者ではあっても、
自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。


とすれば、なおのこと、天の父が、求める人達に、
どうして聖霊を下さらないことがありましょう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

イエスの教えに興味ない方や、理解の仕方の異なる方にとっては
聖書の記述を現代の言葉を持って解釈する事になりますし


私達のような理解と解釈にはならないと思いますが、
それを気にすることはありません。


私達は聖書の”御霊”なるもの含めて
額面どおりの解釈をしているのではなくて
間違いなくその実態を理解できる立場にいるからです。


ここでイエスキリストは私達に、
魂から創造主の知識や知恵、更に私達の進化のための戒律を受けるにあたっての
心がけを述べているのだと解釈できます。


知恵を求め答えを探し、真理を探究するための扉を叩く人間には
創造主はそれに対してしっかりと返答をしてくれるのだと言う例えでです。


昨日の私の記事にもあったように
私達は意識を辿る事でそこに閃きを与えられる経験をします。


実は予約設定してある記事の中の
”テレパシー”の話の中で私はこの事に関して取り上げていますし
少し以前の記事の中でも触れています。


私が聖書のイエスキリストの言葉に関して悩んでいると、
”それが後に閃きとして自分へと回答が与えられる”
と言う話に関してです。


その印象は閃きとして与えられます。


もちろん何かが判らないからといって
自分では何の思考もしないのではなくて


自分なりに思考して、尚且つ判らない状態で
掃除などをしているときに
ふとした瞬間に印象としてその答えが与えられることになります。


求めて与えられ、探して見つかったわけです。


そんな経験をしている人間は、
ありとあらゆる場面で数多く存在しているのでしょうが


誰もそれを自分が魂からの印象を受け止めたとは
意識することもないのだと思います。


しかし私達の場合はもちろん嫌でも意識することになります。


そして気が付くのです。


これがイエスキリストの言っていた
「求めれば与えられる」と言う事の意味なのだと言うことをです。


私達は創造主の分身としての”御霊”なるものを
誰もが魂と言う形で持っています。


そして私達は誰もが創造主の子供なのです。


「子供が魚を欲しいと願っているのに
蛇を与える親はいない」


「どんな子供であろうとも親からしてみれば
かわいい子供である
」と言う話は


創造主は、出来の悪い劣等生である私達に対してであっても、
私達が真摯に求めたものをしっかりと与えてくれる存在なのだと
イエスキリストは触れているのです。


そしてイエスの言葉はこのように続いています。


【天の父が、求める人達に、
どうして聖霊を下さらないことがありましょう。】


ここでの精霊というものが魂と言う存在であり、
そこに対して与えられるエネルギーであり


私達はそこから知恵や知識や戒律を
与えられるのだと言う話につながるのです。


パウロが語っていたと思いますが、
御霊の賜物として私達が与えられるものに関して
取り上げている一節を思い出してください。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
コリント人への手紙12章


さて、賜物には色々の種類がありますが、御霊は同じ御霊です。


奉仕には色々の種類がありますが、主は同じ主です。


働きにはいろいろの種類がありますが、
神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。


しかし、皆の益となるために、
おのおのに御霊の現れが与えられているのです。


ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、
他の人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、


またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、
ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、


ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、
ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。


しかし同一の御霊がこれら全ての事をなさるのであって、
御心のままに、各々にそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここではパウロは私達に御霊の機能について
具体的に語っていました。


御霊=私達の魂は創造主の分身であり
そこから私達に対してエネルギーを注ぐような存在でもありました。


誰もがそのエネルギーに満たされるのではなくて
その意識の経路が強い人間ほど
そこから得られる賜物を多く受け止める事ができる筈です。


つまりは覚醒が進めば進むほど私達は
御霊からの恩恵に預かれる事になります。


そしてその御霊からの受け止める力が大きくなれば
私達は脳機能さえも進化させる事になります。


今まで使用していなかった脳細胞が働き出し、
脳細胞が増殖することもあるそうです。


更には私達のヒトゲノムと言われていた
DNA情報の中の未知のゲノムがおそらくは活性化しては
私達に新たな力をも与えることになるはずです。


私達は今まで未知能力と読んでいたものを
身に着けることにも繋がるのです。


パウロが説明している御霊の賜物は
「同じ御霊によって齎されるのだ」といっています。


勿論それは私達の魂と言う同じものがその仲介に存在しているわけで
知識を与えられる時や進化に資する時とでは
別の御霊が機能するわけではありません。


私達が学んでいる事をそっくりそのままパウロが語っていと言う事が
ここからも納得できるかと思います。


そしてその内容です。


知恵の言葉が与えられ
知識のことばが与えられ
信仰が与えられ


いやしの賜物が与えられ
ある人には奇蹟を行う力
ある人には預言


ある人には霊を見分ける力
ある人には異言
ある人には異言を解き明かす力が与えれらると告げています。


私達であれば今までの創造主の法の理解から
それがどのようなものであるかも想像付きますし


全ては私達が魂と言う意識の経路を認識し
それを強く使用出来る様になる事で
そこから与えられる事になる力だと理解できるはずです。


【知恵の言葉が与えられ】


言葉の通り「このようにした方が良いですよ」とか


「こうすることでもっと容易にできますよ」


と言った印象のことです。


【知識のことばが与えられ】


私が頻繁に求める、疑問に対しての返答がこれにあたります。


【信仰が与えられ】


信仰として与えられると言うのではなくて、
私達が魂と言う意識の経路を使用しつづけ恩恵を受ける事で


嫌でも創造主の存在と魂の意識に対して
信頼を強く持つようになる事だと思います。


そしてもう一つは私達が受け止める事になる戒律です。


私達は魂の意志から自らの戒律を持つ事になりますし
それはそのまま持つべき信仰・心情でもあります。


【いやしの賜物が与えられ】


文字通り他人や肉体を癒す能力の事でしょうし
これは私達は誰でも多かれ少なかれ持っていて
その存在に気が付いてないだけだと思います。


腹痛を起こしてそこに手をかざす事で
痛みが和らいだような経験を誰もが持っているはずです。


あとはその力の強さの問題です。


【ある人には奇蹟を行う力】


イエスキリストが弟子や民衆の前で実行したと言う現象をも
私達も将来的には実行可能になるのです。


【ある人には預言】


今現在の環境や実態に基づいて、
近い将来一体どんな事が起こりうると言う
そんな印象を受けとめたり思考する能力だと思います。


【ある人には霊を見分ける力】


イエスキリスト時代の”悪霊”と”精霊”という言葉の使用の仕方からも
”良き想念”と”悪しき想念”のことであると認識してください。


悪魔や私達の言っている悪霊とは違うと認識する事です。


そしておそらくは他人の発するオーラが見えたり
他人の悪しき想いや良き想いをも感じる事ができ、
時にはそれをイメージとして見る事ができると言う話だと解釈します。


【ある人には異言
ある人には異言を解き明かす力】


これはおそらくは天使達がテレパシーで実践してきたであろう
私達の社会では”自動書記”と言われている能力の事だと思います。


ある時突然、神のお告げを感じたと言い出しては
なにやら手が勝手にいろいろな事を書き出した。。


そんな話が予言含めて沢山存在しているのは
オカルト好きの人間であれば知っているかと思います。


あれは神や創造主のお告げではなくて、
おそらくはテレパシーや音声送信を使用して
その能力を持っている人間に対して実行したものでしょう。


裏には天使や闇政府が控えている事になります。


現に新約聖書のマタイやマルコそしてルカなどの福音書は、
まるで24時間イエスキリストに付きっ切りで見ていた人間達が
それを記述した様な内容になっていますが


当時それが可能だったのは天使達(スペースブラザーズ)だけです。


あれは天使達が記録した状況を特定の人間に印象や思考、
記憶として受け止めさせたもので、


自動書記として
そのイメージを受け止めて書き綴った人間が
いたはずです。


そんな能力全般だと理解してください。


勿論天使達は自分達が単に普通の人間である事から
その奇跡を実行しているのは神だと語ったはずですが
実態は異なるはずです。


そして主としてその多くはテレパシー能力に
関わってくる物である事に着目して欲しいと思います。

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私達がまずは求めるべきは、魂という意識の経路を認識し
そこを強く利用する事ができるようになることで


私達が想念と呼んでいるものを
常時受け止める事ができるような状態を作り上げる事。


おそらくは私達人類の最初の進化は
テレパシーの発達から始まるのだと思います。


TVの超能力などの派手なパフォーマンスなどに囚われたり憧れることなく
地道で他人には認識できないこの能力を
開花させる事こそが私達が求められている事なのです。


私達は芸人やテレビタレントや教祖様になろうとしているのではありません。


奇跡を見せて得られる信頼や名誉など
何の価値もない事を忘れないで欲しいです。


私達は真摯に創造主の法を理解し、人間があるべき姿のモデルとして
それを自ら実践して見せる事こそが大切なのです。。


この能力が世間一般に広まる事で
私達の交流方法や他人への理解度も変わり
相手を正しく理解するきっかけにもなりますし、


そしてその風潮が広まる事で
悪意を持つ事を恥じるような習慣になるでしょうし、


結果的に私達の社会を大きく変える事になるのだと言う事に
気が付いて欲しいと思います。


科学と機械は便利なものです。


しかしそれが時には私達の持っている能力を低下させたり
退化させる事もあるのだと言う実態に
私達は気が付かなければなりません。


例えばテレパシー発信機を頭につけて
皆が使用するようになったときには
私達の真の進化は止まるのです。


そして私達は進化の資質を持った人間に対して
そのきっかけを与え続けていきましょう。


それが強いてはこの社会の改善に繋がる事を信じてです。


当初は多くのクリスチャンに対して
私達の理解する真のイエスの教えを知らせたいのですが


それをするのは彼らの指導者の役目です。


この時代には資質ある人間は
誰に誘導される事なくとも自ら変わる事になるとも想像しています。


私達は資質のある人間と興味を示す人間に対して
真理の欠片を示し続けるだけで良い。


進化の資質のある人たちは
きっとそこから何かを感じ取ってくれると思います。


その前に私達が創造主の法を
もっと深く理解して行かなければなりません。


私の頭の全てを吐き出して理解を求め続けていますが
兄弟姉妹の進化はどんな状況でしょうか?


言葉足りなかった事を反省しながらも
昨日と今日の記事が皆の更なる飛躍に
役立つ事になればと願っています。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】





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兄弟姉妹へのアドバイスのつもりの記事です。


私以上に覚醒の進んでいる方には不要の記事ですが
参考にして頂ければと思います。


私達の実践すべき事の具体的な方法を取り上げて見ました。


心と魂を並行して使用するための手段です。


以前に


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11408396865.html
創造主の意識 日々の実践事項


という記事で、
私達がすべきことを記事にして取り上げた事がありましたが、


それに関して、
「具体的な方法が書かれていない」と指摘してくれた方がいました。


私は覚醒者・理解者が意識の経路としての
魂を感じることができる事を前提として記事にしてしまったので


大元の魂と言う意識を感じるという事に関しては
イメージも掴めない内容となってしまっています。


私と共に一年以上の間学んでくれた方も居れば
そうではない方も居る事を考慮してなかった事が悔やまれます。


と言うことで、私達が魂の意識と呼んでいるもの、
もしくはそれに近い意識を感じるために
どうすれば良いのかについて触れてみたいと思います。


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私達は”心”と言う意識と”魂”と言う意識を持っていると言う説明で
私はアダムスキーが生命の科学の中で取り上げている
”心”と”意識”について学んできました。


私達が”心”と言っているのは
私達が通常何も考える事なく使用しているもので、


外部からの刺激に対して反応する時に
その行動を司っている私達の脳機能を主としている意識です。


これは元々が脳がその機能として備えている本能、
さらには私達が視覚・聴覚・味覚・嗅覚と言った感覚器官を使用して
認識してきた現象や体験を価値観として作り上げているものです。


元々の本能に”肉体を維持する”
”自らの肉体が危険に晒されない事を求める”

という意識があるために、


その後に作り上げた価値観とあわせて
自己防衛的に機能する傾向の高い意識で、


その思考の中心は自分の保身であり、
その心の価値観を満たし心地よい状態であることを願います。


元々脳が備えている本能は、
肉体を滅ぼさないための機能と受け取れますし、


例えば睡眠や空腹を感じそれを満たそうとすることで
肉体が滅ぶことを防いでいます。


更に性欲は無自覚の種族保存の本能ともいえます。


そんな本能と、
後天的に自分が体験したことが合わさって
価値観として作り上げられ、


その中で心が心地良いと感じた事を、
私達の行動の基準としているのが”心”だと認識してください。


それはエゴと欲と本能の塊に近いものです。


脳には本能として与えられているものがあり、


そのために心は自分の肉体を守るためにも
心が苦しむ事を避ける傾向を持っていて


しかも後天的な価値観と結びついては
様々な種類のエゴを持つに至っています。


それぞれ欲の優先順位も人によって異なる事になりますが、
心の指示する行動の目的の中心は
あくまで自分が心地良い事を目的とする傾向にあります。


そして私達の心を司っている四つの感覚器が
それぞれ好き嫌いの意識を持っているために


私達はそれを持って現象や存在を好き嫌いで分類しては
そこで不快なものを作り上げる事にもなります。


その不快な物や現象に遭遇するたびに
心が不快な思いをするために
私達はその不快感をなくそうと行動することにもなります。


そしてそれに従う事での行動の中心は
自分の心がより快適であることです。


しかし私達にはもう一つ意識の経路があります。


それは私達の本能や後天的に作り上げている価値観とは無関係で、
すべての正しい知識と行動基準を持っているものだと考えてください。


それが魂と言う意識であり、
それは同時に私達に命を与えているものであり
四次元での創造主のエネルギーの分身として存在している物です。


私達が心に従えば、その行動の目的はどうしても
個人の満足や価値観を満たすことになりますが


創造主の意識でもある魂の持っている価値観は
私達の魂の進化であり、同時に万物との調和です。


と言うことは私達が魂の意識に従えば、
自分の肉体のエゴのためではなくて


自分の魂の進化のため、
更には創造主の想いでもある万物との調和や万物への慈しみのための
行動を実践する事ができると言うことになります。


そしてそれを実践し続けることで魂の進化を果たしながら
万物への奉仕をして行こうと言うのが私達の大きな目的です。


そこで問題となるのは私達が通常”魂”と言うものを
意識の経路として使用していないこと。


もっと言えばその存在を認識する事が出来ない事です。


そこで私達は当初はその魂という意識の経路が存在することを
まずは理解し、信じなければならないわけです。


生命の科学=創造主の法を学ぶために
私達が必要とされる当初のたった二つの戒律は、


宇宙とそこにある見えない法則、
つまりは”因”を作り上げた創造主が存在していると言うこと。


そして私達はその創造主の残像思念としてのエネルギーの一部を
”魂”として持っていると言うことでした。


この魂が肉体と言う器に生命を吹き込んでいるわけですし、


私達の実態は、創造と崩壊を繰り返す三次元に存在している”肉体”ではなくて
四次元的な存在である”魂”であると言うことでした。


三次元空間の万物は、四次元に存在する私達の魂と言う想念の塊を
元素と言う三次元に存在している材料を使用して表現しているに過ぎず、


私達人間の本体であり、半ば永遠を生き続けることになるのは
私達の魂だと言うのが私達の理解です。


そして私達は魂の進化のためにも、社会の改善のためにも
心のエゴを持って行動するのではなくて


魂から感じる事になる創造主の意識を持って行動することが
求められていると言うことです。


そして私達が魂の存在を感じる事ができない理由は

そこから私達に与えられている感覚や情報は
”印象”や”閃き”や”イメージ”と言う形をとるからでした。


そして創造主が私達に与えるのは知識であり知恵です。
(進化することで未知能力も開花することになりますが)


しかし私達は肉体を司っている
四つの感覚器官を使用する事に慣れ親しんでいます。


映像を視覚で認識し振動を聴覚で認識し
匂いを嗅覚で認識し、味を味覚で認識することによってです。


しかしそれらの器官では私達が認識できないものがありました。


私達の思念波といわれるもの、つまりは想念であり私達の想いです。


そして今では”想念”がエネルギーとして科学的に
理解されるようになりましたが
実は私たちはその想念を認識できる器官を持っているのです。


それが私達の魂です。


この魂は私達の肉体に命を与えるだけではなくて
元々が創造主の残像思念ですからその想いをも伝えますし


更には他人の想念を受け止めてそれを印象や閃きやイメージとして
私達に与える器官でもあるのです。


つまりは魂は、私達がテレパシーと呼んでいるものを
受信する器官だということです。


しかし私達は通常肉体の感覚器官ばかりを意識しているために
想念を受け止めるその器官の存在を認識できては居ないのです。


でも確実にそれは存在していて私達に情報を与えています。


”閃き”や”イメージ”時には”印象”といった形で
私達はそれを受け止めているのです。


視覚であれば受け止めるのは映像で、
聴覚であれば受け止めるのは振動つまりは”音”ですが
魂が受け止めるのは”想い”であり”思考”なのです。


私達が思考や想いを受け止めた時に
私達はそれを自分の思考や想いだと感じてしまうことになるために


実際は外部から受け止めたものであっても
それをテレパシーとは認識できないわけです。


しかし現在は科学が発展し、
その結果他人の思考を映像化することも可能となっています。


更には脳波を増幅しては
他人の脳で再現することも既に実験は進んでいます。


そこでは私達の脳波や、私達が常に全身から発している想念を
思考として受け止めることができます。


つまり私達の思考はエネルギーとして受け止めれる事は
すでに証明されているのです。


他人が思考したことを私達が受け止めることができたならば
それはどのように私達に伝わることになるのか?


自分が頭の中で思考している状態を想像すれば
与えられた情報も”思考”であることが容易に判断できるはずです。


テレパシーは音ではありません。


そこで私達が受け止めるエネルギーを
脳が再現する事になるのは他人の思考なのです。


私達が印象を持ったり、
イマジネーションを使用して何かを思い浮かべたり、
物事を考えたりするその感覚、


それが想念と言う形で全身からエネルギーとして発せられ


受け止められた想念は”魂”と言う感覚器を通じて
私達の脳へと伝えられることになります。


受け止めるものが”思考”や”想い”なので、
それが自分の物と他人の物との区別がつき難いために


私たちは想念を受け止める事があっても
その体験に気がつくことも出来ないのです。


私達はそれを”閃き”として
自分が思考した物だと認識してしまうことになります。


結果テレパシーとしての想念の授受は認識されないことになります。


しかし私達が魂という意識の経路を強く認識できるようになれば
そこが頻繁に想念を受けとめるようになりますし、


その受け止めた物が自分の思考ではない事に気がつけば


それが自分の心の想いなのか魂の受け止めた想いなのかを
容易に区分する事も出来るようになります。


そして私達は魂が受け止める想念のうち、
創造主の意識を選別し、
それを実践する事を求められていると言うことです。

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といっても想念を頻繁に受け止める事の出来ない私達は
アダムスキーが言っているように心と魂を並行して意識して
使用すると言う行為は難しいものとなります。


そこで当初は魂の代用として
私達はいくつかの方法を用いることでそれを補う事が可能です。


私が頻繁に引用するのは私達が”理性”とか”良心”と呼んでいるものです。


自分が何か誤った行動をしようとした時に
私達に対してささやきかけるもう一人の自分を感じる事もあります。


「そんなことをして良いの?」

「それはいけない。」


そんな意識はそのまま私達の魂の意識に繋がる物だと思います。


私達はそんな体験をする時には
自分を客観的に見つめている事にもなります。


心の暴走を抑えるもう一人の自分が居るのです。


それを強く意識することで
私達は本能的な意識の経路(心)と並行して
理性的な意識の経路を持つことになります。


その事を常に意識し続けるのです。


これは魂の意識の経路を感じるために役立つはずです。


次に、私が頻繁に取り上げる、
何かの行動をした後に感じることがある”罪悪感”です。


私達が誤った行動をした時に
それに対して持たされることになる”罪悪感”や”後味の悪さ”は


そのまま魂の意識が、
私達の行動が誤っていた事を告げていると認識してください。


私達はその時に


「その行動が間違っている」


と言う印象を受けた事になるのです。


それを認識してはその行動を誤りと判断し
自分に対して新たな戒律を設けることも出来ます。


更にアダムスキーは自分の行動の動機について
意識することを勧めていました。


その行動をした時に、その動機が個人的価値観から出ているのが
宇宙的意識(全体を想う気持ち)から出ているものかを分析して
宇宙的意識を行動の動機にする事を実践しなさいと言うことでした。


私達の進化と改善にとって大切なのは”行動の動機”で、
それを意識して行動を続けることで
私達は魂の意識の経路を感じやすくもなるのです。


これらを実践することで私達は印象や閃きを
受け止める機会が増えるはずです。

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次に、印象や閃きを受け止めた自覚を持つ事が出来たら
今度はその時の自分の脳機能の状態を強く意識してください。


見えない脳に神経を集中しその働いている状態を認識するのです。


(私は毎日延々とこの作業をしています。
今は右脳が動いていないとか、良好であるとか
判断することも出来るようになります。


とりわけハイテク被害者にはそのギャップが感じられると思います)


おそらくは印象を受け止めたときには私達は無自覚に
心と魂の二つの意識の経路を同時に意識していると思います。


そして多くの場合は右脳と左脳がバランス良く機能していることでしょう。


その時の感覚を維持するように勤めるのです。


おそらくは印象の多くを受け止めるためには
右脳が正常に機能していなければいけないと思います。


私のようなハイテク被害者が右脳を狙われると
時には閃きがまるで起きない事になるので
おそらくは想念を受けとめる機能の中心は右脳だと思います。


自分が想念を受け止めた時には
その時の自分の脳の状態を意識するわけです。


私達は、見えないものと見えるものを同時に感じる練習も
し続けていると思います。


見えない自分の脳の動きではありますが、
その状態を感じることを意識し続ければ
自分の脳機能がどんな状態であるかも認識できるようになります。


そして自分が頻繁にひらめく時に使用しているであろう
脳の各箇所の状態を意識し維持する。


それを繰り返すうちに、私達は自分の心と同時に
魂という器官からの意識を感じ易くなるための状態を
認識できるようになるはずです。


その状態を記憶したらその状態を維持し続けるように勤めるわけです。


その状態は上述の”印象”を受け止めやすい状態でしょうし、
もう一人の自分が自分を客観的に見つめている状態でしょうし、
理性的な状態でしょうし


罪悪感や、後味の悪さなども頻繁に感じる状態だと思います。


私達はその状態を維持しながら物事を思考し
行動の動機を意識しながら
いろいろな体験をし続ければ良い訳です。


そしてその行動が誤っていたと認識した時は
それを修正する様に努めることになります。


そして新しい戒律が増えることにもなります。


私が、魂の経路を感じるためにも
自らの一番の戒律としているのが以前にも触れた


「強い感情を表現しないようにする事」です


感情は心の働きですし、それを強く表現すると言うことは
私達が心に強く囚われている事に他ならないからです。


お釈迦様の言っていた「エゴや煩悩を抑える行為」と言うのも
エゴを捨てることで心の動きを抑える事につながると思います。


”心”という、自己主張をして止まないエゴの意識を抑えることで
私達は”魂”と言う謙虚な意識の経路からささやきを聞くことになるのです。


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私が自ら感じて実践している事を具体的に表現すれば
このような内容になりますが参考になったでしょうか?


付け足しておけば、私達には
「見えるものと見えないものを同時に認識する事」


が求められています。


心の司る視覚という感覚器を持って認識しているのは
ただの”現象”に過ぎません。


そしてその現象=存在と私達が認識しているようなものは
私達の生命活動ではなくて”私達の想いの表現”に過ぎません。


私達は魂を持ってその対象の持っている”生命”を見つめることが
求められています。


私達が見つめるべきは現象ではなくて
想いであり、魂の意識だと言うことです。


それは視覚では認識できないものですが、


私達は視覚だけで物を認識しようとするために
物事の半分しか理解していないと言うのが
アダムスキーの話でもありました。


そしてそんな私達の事をイエスキリストは
「見ているが見ていない」とか


「死人である」と表現していたはずです。


見えるものを、ただ目を持って見つめているだけで
知恵を持って思考しようとしない私達は、
本来の人間としてあるべき生き方をしてはいないと言う事の例えです。


今まで私達は、本来感じることの出来る世界の
半分しか体験しては居ませんでした。


兄弟姉妹達には、すべての機能をフルに利用して
先ずは死人であることから脱却して欲しいと思います。


小さな日々の実践が私達を確実に進化させます。


大多数の人間が理解できなくても私達は真理の世界を生きるのです。


見えないものを信じる事の出来るものは幸いです。


イエスの使徒はその言葉を理解し実践しなければなりません。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

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P.S.


見えないものを見るのは私達の魂の意識です。


当初、私達はそれをイマジネーションでそれを
埋め合わせる事になります。


ここでも右脳の機能が重要な役目を果たすことになると思います。


それについても機会があったら記事にします。



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掲示板を見ていて思いましたが、
私達にとっての悲劇は自分の持っている知識が
すべて正しいと思い込んでいる事と


自分が実は未だ何も知らないと言うことを
理解できていない事ではないかと思いました。


論理的に物事を思考しそこから結論を導くことは
私達には大切な作業だと思います。


でも私達が導ける論理は、
私達が持っている知識が限界ですし、


そしてその知識の全てが正しいとは限りません。


少ない知識でも正しく導き出せる事柄もあれば、
一方では多くの知識がなければ正しく導けない結論もあります。


私達の心は何でも理解し知っているわけではありませんし
私達の知識は個人差もあり、限界もあるのです。


その尺度を持って何かを判断しようとした時に、
何時も正しい論理を使用して正しい結論に
たどりつけるとは限らないと言うことになります。


この社会の価値観で例えれば、
微分を理解していなければ経済学の限界概念を理解できないように


その尺度となりえる知識を十分に持っていなければ
私達はいくら思考しても必ずしも正しい結論を
導き出すことはできない筈です。


更に私達は自分の持っている知識、そして作り上げた価値観を
全て正しいと言う前提で対象物を分析します。


つまり思考や価値観の大前提となっている知識が間違っていたのでは、
それを使用して導き出すことになる結論は
正しいものにはならないと言うこと。


地球社会を暖めている太陽熱を、対流による伝導だと
理解してしまっている人間にしてみれば


「太陽に近ければ近いほどその空間は熱い」

という命題は正しいと言う事になりますが


実際問題は宇宙空間は絶対0度(-273度)に近い極寒状態です。


まして対流を起こすための空気なるものが
そこには存在してはいません。


当初の知識が誤っているからこそ
私達は時にはそんな結論をも導くことになるのです。


そのために実際は誤っている事を、
自分の既存の知識と照らしては整合性があると言って正しいと認識し、


実際は正しいことを、既存の知識と異なっているから
誤りであると認識することにもなります。


つまり、誤った知識や情報であふれている社会に生きている私達は
全てを自分の知識だけに照らして判断すると真理をも見逃し、


誤った価値観が更なる誤った価値観を
作り上げることにも成りかねないという事です。


私達の理解して実行している創造主の法と宇宙の法則は
その意味では既存の価値概念に照らせば
「間違いだらけ」とされることになります。


しかし私達はそれこそが正しいことを理解しています。


そこから派生される全ての分野と事象、
地球社会の裏の実態、太陽系や宇宙の実態、私達の精神の範疇


全てに整合性もありますし、


そして論理的に矛盾なく多くの物事を説明することも出来ます。


既存の価値観は得てして断片的であり
包括的なものでもありません。


私達は真理とすべき物を断片ごとにしか見ないから
それが正しいかのような錯覚をしては
誤った価値観を正しいと認識してしまう事になりますが


普遍的真理はどの分野においても全てに整合性があり
部分的な真理ではありません。


部分的な真理の矛盾は他の事柄との整合性を
照らし合わせることで認識できます。


しかし私達はそれを実行しようとはしません。


小さな事象ばかりに囚われて全体を見ようとはしないからです。


そして断片的な情報に騙されたり
誤った事を正しいと信じてしまうのです。


更に私達が出来なくなっているのは直感的な判断です。


「何事も理屈で考えることで
正しい結論を導く出せる」


と言う思考はそのまま左脳思考でもあります。


勿論十分な知識と十分な思考能力があって
誤った価値観を持っていなければ
そこから導き出せる結論は正しいはずです。


でも既存の価値観に従う意識からは
発明も発見も生まれることはありません。


更に誤った価値観を少なからず持たされてしまっている私達は
時には既存の価値観を捨て去る、もしくは否定する事も必要となるのです。


先ほどの太陽からの熱の届き方に関してもそうですし
私達の信じている天国と地獄の概念もそうです。


私達は多くの誤りを真理として信じてしまっているから
その知識を価値観として他の事象と照らすだけでは
必ずしも正しい結論を導くことが出来なくなっているのです。


そんな時に有効なのは私達であれば言うまでもなく直感や閃きです。


右脳的な感覚でもありますが
ここから与えら得る判断は創造主の意志にも繋がることが多いわけですし


それが創造主の意志としての魂からの閃きや印象であれば
それは必ず正しいことにもなります。


理屈ぬきに正しいとか間違っていると判断することで
私達は誤った価値観の堂々巡りから抜け出すきっかけを
得る事もあるのです。



誤った情報を混ぜ込んでしまった事による自分の狭い真理が
時には周囲にバリヤーを張り巡らして
私達から真理を排除し続ける事になっている良い例だと思います。


それに私達は創造主の法の全体の骨格を理解したことで
真理とそうでないものを区別しやすい状態です。


理屈で考えるにしても大元の枠組みが正しいのですから


荒唐無稽な情報を
正しいとか、自分の価値観と整合性があると認識することもありません。


そして一方では魂からの閃きも期待できます。


多くの人間が私達のような思考をする事が出来れば
おそらくは私達と同じような結論や価値観を
共有できるようになるのだと思いますが、


この社会は思考させない社会ですし
狭い個人的真理で頭が固まってしまった人間が多すぎます。


そして私達はあまりにも思考を落とされすぎてもいるのです。


思考が大切な私達が思考を止めているのですから
中々真理へと到達することも出来ないのです。


せめて私達が、「良い木から良い実がなる」事を
身をもって実践して見せて


そのことで多くの資質ある人間の覚醒のきっかけになって行きたいです。


いろんな意味で私達のような存在は
この社会の中では希少となっていると思います。


論理的に思考するだけでなくて
同時に閃く事を私達は要求されている。


だからこそ左脳と右脳がバランスよく機能することを
私達は意識しなければいけないのです。
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ここからが本題です。


今日紹介する内容は、
ヤコブがイエスキリストの聖書の教えを意識しながら
わかり易く表現してくれていると思います。


そして創造主の法則を反映させている箇所が
中にはふんだんに見受けられます。


それはそのままでも意味が通っているので
創造主の法を理解していない方にも通じる内容でもありますが
私達にはその短い言葉の持つ意味が、とても深く理解できるはずです。


新約聖書の福音は、歴史や記録の書としての意味合いが深く、
パウロの手紙に関しては、イエスの奥義を前提に
質問に対して答えている内容と成っていますが、


このヤコブの手紙は、
これからイエスの教えを理解しようとする人間に対して


その想いを込めているという点で
私達が読んで理解しやすいものと成っているのだと思います。


たった五章の短い内容ですが、
たまには参考にして頂ければと思います。


聖書を持ってない方はネットでも読めます。


http://blogs.yahoo.co.jp/jusus_christ_no1
聖書(新改訳 第3番)


今日はその四章目です。

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何が原因で、貴方がたの間に戦いや争いがあるのでしょう。
貴方がたの体の中で戦う欲望が原因ではありませんか。


貴方がたは、欲しがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。
羨んでも手に入れる事ができないと、争ったり、戦ったりするのです。


貴方がたの物にならないのは、貴方がたが願わないからです。


願っても受けられないのは、
自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。


貞操のない人たち。世を愛することは神に敵する事である事がわからないのですか。
世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。


それとも、「神は、私達のうちに住まわせた御霊を、
ねたむほどに慕っておられる」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。


しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。
ですから、こう言われています。
「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」


ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。
そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。


神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。
罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心ある人たち。心を清くしなさい。


貴方がたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。
貴方がたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。


主の御前でへりくだりなさい。
そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。


兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。


自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、
律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。


貴方が、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。


律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、
その方は救うことも滅ぼすこともできます。
隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。


聞きなさい。「今日か、明日、これこれの町に行き、
そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。


貴方がたには、明日のことはわからないのです。
貴方がたの命は、一体どのようなものですか。
あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。


むしろ、貴方がたはこう言うべきです。
「主のみこころなら、私たちは生きていて、
この事を、または、あの事をしよう。」


ところがこのとおり、貴方がたはむなしい誇りをもって高ぶっています。
そのような高ぶりは、すべて悪いことです。


こういうわけで、為すべき正しい事を知っていながら行わないなら、
それはその人の罪です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ヤコブは私達の争いの原因を
ここでは”欲望”にあるのだと教えてくれています。


イエスキリストが否定していた過度な所有欲、
物を手に入れて自分のものにしたい、権力や名誉を手に入れたい、
そんな欲望が私達の争いの大きな原因の一つであることは間違いありません。


そしてその欲望を作り上げているのは結局は私達の心のエゴです。


そのエゴを作り上げてきたのは視覚・嗅覚・聴覚・味覚の
四つの感覚器官の好きと嫌いと言う意識、


さらには、それらが作り上げた心のエゴと
生まれ持った本能により作り上げられた価値観に基いて


心が心地良いと感じる事を強く望むからこそ
欲望が駆り立てられる事になります。


そしてヤコブは


【貴方がたの物にならないのは、貴方がたが願わないからです。


願っても受けられないのは、
自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。】


と言っていますが、生命の科学の理解が進んでいる方であれば
ここでも気がつく事があるかと思います。


「私達が必要とする知識や知恵そして
私達が本当に必要とするものは
その全てが創造主から与えられる事になる」


と言うのがアダムスキーの話でもありました。


魂からの閃きや印象を感じた事のある方であれば、
求めた質問に対する答えが時には提示される事があるのを
身を持って理解できたかと思います。


それは本当に印象や閃きとなって私達に与えられます。


私は聖書のイエスキリストの言葉に関してなどは
悩むと思考し、そしてある時に閃くという繰り返しを体験しました。


その印象を与えてくれたのが創造主の意識なのか
人間からの想念伝達=テレパシーなのかは不明ですが、
そんな体験が私達の創造主に対する信頼を強くするはずです。


そして、そんな小さな啓示とも言えるものは
特定の人間ではなくて誰にでも出来ると言う事を
私達は身をもって体験しているはずです。


願っても与えられないものは
私達にとって不要なものだという話でした。


私達は生きるために最低限必要なものを与えられた事で
満足しなければいけませんし、


もしも必要であるはずの物が与えられない時は
私達がそれを真摯に求めてはいない、

もしくは私達が無能だと言う事にもなるという話でした。


必要な物があるならば、創造主に対して願えと言うのが、
ここのヤコブの言葉の趣旨となっています。


それは知識であったり、知恵であったりするでしょうが
時には願い事かもしれません。


しかし願いの全てが叶うわけではなくて、
それが心のエゴに基くものではなくて魂の意志にかなう物であればこそ
願いは叶うと言うのがアダムスキーの話でもありました。


さらにそのためには私達は自ら努力する事をも求められています。


「天は自らを助くるものを助く」と言いますが
これは最低限必要など言うことになります。


知識を求めるの場合でも私はきちんと自ら
その内容を思考して自分なりに考えてはみました。


印象が与えら得れたのはその後、まったく別の事を
しているような場合でした。


更に創造主の法では

「天は自らを助くるものを助く」の上に、


「それが創造主の意志にかなう物である限り」


という制限までつく事になります。


自分が面白く楽しく愉快に暮らしたくて、
物欲を満たしたくてお金が欲しいと願っても、
そのために努力しても、


創造主はその想いには力を貸してくれる事は無いという事です。


なぜならその想いは心のエゴが動機となっているからです。


もしもその人が金持ちになったならば
それは自分の力による偶然だと言う事にもなります。


しかし、もし同じお金が欲しいと言う動機でも、
それが自然環境改善や多くの他の人々を幸せにしたいと言う
願いからのものであれば、


私達が努力する事で、創造主はそれに力を貸してくれる
と言う話にも繋がってくるのだと思います。


私達の願い、創造主への想いにとって大切なのは
その願う”動機”なのです。


この意識はそのまま宇宙の法則、創造主の法へと繋がるものですし
ヤコブが創造主の法を意識していた事がここからも伺えるはずです。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【世を愛することは神に敵する事である事がわからないのですか】


これはパウロが語っていた
「この世と馴染んではいけません」と同じ趣旨の言葉です。


”世の中を愛する”、”世と馴染む”と言う表現は


つまりはこの社会の常識に馴染むという意味で、
強いてはこの社会を覆っている、創造主の法とは異なる価値観を
身に纏うという事の例えでもあります。


もしも私達の社会を作り上げている意志が創造主の法に基くものであれば、
それに馴染めない事は創造主の秩序の破壊者と言う事にもなります。


しかしこの社会を作り上げてきた意識は
創造主とは対極に存在する意識です。


平和を求めず、混乱と争いを望み、
私利私欲を認め、不平等を認め、殺人を認めるそんな意識です。


それに馴染むという事は
私達の意志が創造主の意識からかけ離れる事に他なりません。


私達は創造主の分身であり続ける事で
存在する事を認められていると言うのがこの社会の本当の秩序です。


だから永遠性を示さない人間の魂は
消えてなくなるという秩序もあります。


「創造主の意識からかけ離れた物はそれが何であっても
存在し続けることは出来ない」


という当たり前の法則のためです。


創造主の想いを具現化している社会の中にこそ
私達は存在しているのですから


創造主の想いに存在していない表現(三次元での現象)は
その実態を維持し続けることは出来ない。


そう考えれば判り易いと思います。


そしてここでの言葉は、創造主の法を理解している使徒達が
その秩序が乱れている社会に馴染むなと
私達に警告として語った物だとご理解ください。


【「神は、私達のうちに住まわせた御霊を、
ねたむほどに慕っておられる」】


アダムスキーも言っていました。


「自分の子を愛さない親は居ない、
そして私達は誰もが創造主の子供なのだ」
と。


私達は誰もが創造主の残存思念としてのエネルギーを
魂と言う形で持っている存在ですし、、


本来は私達の肉体は創造主の神殿であり、
創造主の表現したものに他ならないと言う事になります。


魂としての創造主を受け入れる器として
私達の肉体は存在しているとも言えますし、


私達は本来はその肉体を持って
魂としての創造主の意志を表現する事を期待されているのです。


しかしその器が自分勝手な表現をしだしたのが
この社会の中の私達だと言うことです。


世の中と馴染むと言うのは、
言って見れば意識の経路としての”心”を重視する事でもあります。


しかし創造主は”魂”こそを重視する事を願っている。。。


そう理解して頂ければと思います。


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【「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」】


宇宙の法則=創造主の法では
へりくだり=”謙虚さ”は大切なものとされています。


一方”高ぶる”と言うのは”傲慢”を言い表したものだと思います。


傲慢さは私達の心から出てくる意識ですし
謙虚さは創造主の意志から出てくる意識です。


そして創造主の法に従うものには恵みが与えられる。。


つまりは心の豊かさ=進化の機会が与えられる事になるのだと
捉えていただければと思います。


お金に恵まれて幸せになれるなどとは受け止めないでください。


創造主の法は、お金による物質的な豊かさなど認めては居ないからです。


私達に求めらている豊かさは
心の豊かさと言われるものに他なりません。


【自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、
律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。】


ここでの兄弟と言うのは家族にのみ当てはまる言葉ではなくて
創造主の法のもと、全ての他人に対して当てはまる言葉だとおもいます。


天使達が兄弟という時は、創造主を父として、
その分身の全ては創造主の子であり兄弟だという意識が
その背景にはあります。


私達にとっては実践が難しい事かもしれませんが、
他人を悪く言ったり批判する事はいけないと
ある意味当たり前のことをヤコブが触れています。


ただし、アダムスキーが強調していましたが


”批判”と”理解”は似て非なるものです。


悪い物を正しく認識してそれを悪いと表現すること、
そして誤りを誤りと主張するのは”批判”ではなくて”理解”です。


”批判”と言うのは得てして自分独自の価値観で他人を評価し非難することです。


私達地球社会の人間は、その大元となっている”価値観”自体が
既に正しい尺度ではないのですから


それを用いて他人を評価し非難する行為は認められないと言うのが
「他人を批判するな」と言う言葉の真の意味になると思います。


「悪いことをしている人間を見てみぬ振りをしろ」


と言う意味ではありませんし、
そんな意識は今度は”臆病”とか正義感の無さ
無関心などといった良くない想いへと繋がる物です。


かと言って私のように堂々と「間違いは間違い」とやってしまうと
余計な苦労を背負い込むことになるので
兄弟姉妹には勧めることは出来ません。


私はどこの組織にも属していないので
どんな犯罪行為を見ても批判的な事を口にしますし
事件があればその背景を知りたいと考えます。


でも特定の関係者達は自分達の組織の関係者の罪には寛容で
敵対する組織の罪を見つけては叩いているようにも見えました。


そして私達にとって大切なのは良くも悪くも”理解”です。


私も最近になってこの”理解”に認識を深めつつあります。


例えば相手を正しく理解することで、
相手に対して改善を求めるための方法をも
私達は得ることにもなります。


会社の人間が相手だとすれば、
自分がその相手を正しく理解することで
その人間と軋轢無く関わることも可能となります。


そしてその様にして齎されるのが”調和”であり
私達は調和のためにも物や自然や人間を
正しく理解する必要があると言うことです。


ただ、”理解”した事をそのまま表現すれば
一見は”批判”と代わらないように見えるという問題もあります。


でも理解と批判は区別されるべき物です。


こちらが相手を理解しようとしないで単に批判すれば
相手の理解を求める発言もしないでしょうし争いの種にもなります。


逆に、理解を示す事が出来れば
通常の意識を持った人間同士であれば話し合い判りあえると思います。


勿論中にはそうでない人間達も間違いなく存在しています。


そして理解の通じない相手にとっては、
私達が何を主張しようが、理解を示したとしても


自分の事を指摘されること自体を嫌悪しているのですから
相手にとってはそれは批判にしか聞こえないと思います。


そんな対象相手には私達には成す術は無いと思います。


そして私達の社会では
間違いなく多くが他人を裁き続けています。


裁くと言うのは”評価”していると言う意味でもありますし
”好き嫌いの意識を持って区分する”事でもあります。


イエスキリストも言っていました。


「他人を裁いてはいけない、自分が裁かれないためです」


ここでの”裁く”は”罰する”だけを意味しているわけではないのです。


天使達の社会では人間は創造主の現れです。


他人を”裁く”と言う事は創造主を裁く事になるという
考え方をするようです。


私達は誰もが個人的に転生の法則を通じて
その生前の行為と想いに関連して”贖い”を求められる事になります。


そして”裁き”は創造主の法の領域であり、
同じ人間としての他人が実行するべきものではないのです。


私達の魂は創造主でも、
私達人間は心を持って裁いてしまうからです。


更に、もしも自分が、創造主の分身である他人を裁くと言う事は
天使達の言うとおり、神を裁く事になります。


他人の罪を許さずに、それを裁くと言う行為は、
神の罪を許さずにそれを裁くと言う事になるのです。


しかし一方では、私達は自らの犯した罪を
許して欲しいと神に請い願います。


「神の行為を許さずに自分が許しを請うという
そんな不条理は認められない。」


そのように理解すれば良いと思います。


【「今日か、明日、これこれの町に行き、
そこに一年いて、商売をして、もうけよう」】


この想いは心のエゴから出たものです。


その想いの結果、もしもその人間がお金を沢山もうけて豊かになったとしても
そんな意識には価値は無いという事だと思います。


イエスキリストも言っていました。


食べ物も富も沢山あるし
これをしまいこむ蔵でも作って。。


などと考えている人間に対して


「貴方の命は明日取り上げられる」と言う例えでした。


いくらこの社会で物質的に豊かになって沢山の蓄えを持ち
心のエゴにとって心地良い状況を作り上げたつもりになったところで
命を失ってしまえばそれは何にもならない。。


例え世界中を手に入れたとしても、
命を失ってしまえば一体その人間に何が残るのかと言う事です。


更に、イエスキリストは蔵に宝を詰め込むのではなくて、
天の国に財宝を詰め込む行為こそが大切だと言っていたはずです。


蔵に宝をしまいこむ行為は心のエゴを満足させる行為ですが、
天の国に財宝を積む行為は、
魂を持って創造主の意志を実行した事に対する報酬なのです。


【「主のみこころなら、私たちは生きていて、
この事を、または、あの事をしよう。」】


同じ”想う”のであっても
このような想いこそが尊いのだとヤコブは語っています。


【為すべき正しい事を知っていながら行わないなら、
それはその人の罪です。】


そしてこれは私達の持っている戒律そのものです。


自分が正しいと知っている事を実践しなかったり
自分が正しくないと認識している事を実行する事は
そのまま私達の罪でした。


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あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。
自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。

しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。
なぜなら、それが信仰から出ていないからです。
信仰から出ていないことは、みな罪です。

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私達の持つべき信仰は時にはその人間にとって異なり
それはその人間の魂の進化を優先させるためのものでした。


ある人にとっては正しくてある人にとっては正しくない。


それは肉食などにも象徴されるものです。


私はアダムスキーが良くないと言っていた
鶏肉を好んで食べますし


それ以前に肉を食べる機会は多くはありませんが、
それは意図的に減らしているわけでもありません。


私は自分にとって肉食が罪だとは認識してはいません。


未だその印象を受け止めては居ないからです。


そして私の場合は多少の肉食を日々続けたとしても
自分の魂の進化にとっての大きな妨げには成らないと考えています。


私の場合は他に改善点が多すぎて、
そちらの方が私の精神の進化のための
大きな妨害となっているためと想像できます。


かと言って肉を食べる機会を増やすつもりもありません。


私達が課される戒律は
その時々によって魂の進化に効果的なものだと思います。


以前の記事に書いたように優先順位が存在するのです。


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想いをこめて記事を書いている最中に
電磁波で揶揄を入れてくる人間が居るので
私の理解をはっきり示します。


私が肉食のコメントに触れるたびに攻撃を強化してくる人間が居ますが、


この人間達が自ら肉食を禁じていたとしても、
一方で他人を裁いては攻撃する意識を正当化する意識を
改善できないのですから、


肉食禁止が魂の進化に役立っていない事にも成ると思います。


肉食禁止をしていることで得られる魂の進化よりも、
他人を裁いては攻撃する事で犯している罪の功罪の法が大きく
魂の進化には却ってマイナスであると理性的な人間なら考えるはずです。


私にはそちらのほうが余程魂の進化の妨げになるし
改善する優先順位が高いと思うのですが、


創造主の法に従っているわけではない人間には
私達の戒律のあり方も通じないのだと理解してはいます。

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そして自分が印象として受け止めた戒律を
創造主が私達の進化のために与えてくれた課題と認識し
それを実践していくのが私達の戒律への姿勢です。


そしてその戒律は当初は少なくても
私達の進化に伴いどんどんと大きくなっていくものでもあります。


既に体験している人も多いと思いますが、
私達が自分の進化にとって良くない行為や


その時の状況に照らして創造主の意志に反した行為をした時には
それが行動でも行為でも罪悪感を感じる事になります。


私達はそれを受け止めた時に
それを自分の戒律として持つことになるのです。


それは結果的には私達が限りなく創造主に似るまで
延々と課される事になるものですし、
その戒律は聖書の記述から導き出せるものには限定されません。


私達はそれを魂からの創造主の意志として受け止めて
受け止めるたびに新たな戒律としては自らに課す事を
義務付けられているからです。


限りある戒律を守ってそれで後は”義”とされるのは
この世の中の他の人間達のあり方であり、


私達覚醒者、イエスの真の教えを理解する者には
当てはまらないと言う事を忘れてはいけないと思います。


私達が持つべき心のあり方は、文章に箇条書きにして
全てを把握できるものでは有り得ないのです。


そして形式よりも実質であり、


-1の欠点を10改善するよりも


-50の欠点を一つ改善する事のほうが
私達の魂の進化には大切だと言う事です。


そして私のように欠点だらけの人間でも、
私より欠点が少ない人間よりも魂の進化が進んでいると言うことも
勿論有り得ることになります。


この社会の中での他人の欠点は
得てして目に見える物に特化されるという傾向もあります。


つまりは心のあり方ではなくて目に見える形式事にばかり
囚われているという話にもなります。


更には戒律・禁欲の弊害もあります。


資質も無いのに自らに分不相応な戒律を課しては
それで心を歪める様な場合です。


例えば禁酒・禁煙をしたけれどもストレスが溜まって
苛つきがひどくなって家族に八つ当たりしたり
鬱に成るような事になるのなら


その行為は却って魂の進化にも周囲の影響にも
マイナスと成っているはずです。


アダムスキーは喫煙していましたし酒を飲むこともあると言う話は
私にとっては心強い話でした(苦笑)


良くないとされることを片っ端から
禁欲的に抑えては潔癖を気取り、


自分では聖人に近づいたつもりで
実は他人を裁いているようでは仕方が無いと言うことです。


賢明な兄弟姉妹はその事を理解してくれると思います。


そして自分の戒律として認識した事は、決して破らない事でこそ
私達は”私達のレベル”での”義”と看做されることになるはずです。


もちろんそこでの”義”とは
”全てにおいて正しい者”という意味ではありません。


創造主の落第生の社会の中に於いて、
私達の持つべき、父の元へと帰る事が出来る意識に
漸く到達したと言う意味です。


私達が理解すべきは、創造主の法は
私達が一度や二度の人生で理解して実践できるような
そんな簡単なものではありえないと言う事。


勿論、今の生で聖人達の様に成ろうと言うのは
身の程知らずという話にもなります。


そして誤った創造主への信仰を続けている私達が、
一体どんな社会を作り上げて来たかを理解すれば
正しい信仰の大切さを嫌でも認識する事になります。


私達は漸く父の元へと帰る事が出来ただけであり、
本当の創造主の法に従った生き方をするのはこれからです。

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誤りを誤りとして指摘するのは”理解”の延長でもあります。


それが道徳に基くものであればまして大切な事だと思います。


しかし、今自分が戒律としている事で
他人を計り、裁く事だけは気をつけてください。


心を持って裁いている人間と同じ事をしていることになるからです。


遠い未来には私達の持っている戒律は私達共通の物となります。


しかし今の私達の戒律は、私達が次の進化へと向かうために
私達個々の人間に対して与えられた課題のようなものであり、
他人に押し付けるものではありません。


道徳として、ほとんどの人間が当たり前に持つべき意識に関しては
それに照らして誤りを指摘する事は正義だと思います。


でも私達が個々に感じて受け止めている戒律が
今現在の他の人間にとって正しいとは限らない事を忘れないで欲しいです。


私達は自分の言葉を理解してくれる資質のある人間に対して
私達の理解の範囲で創造主の法を語ればよいのであって


自分の戒律を押し付けてはいけません。


私達は理解する資質のある人間に
そのきっかけを与えるだけの存在であり


今は未だ、この地球社会に住む
創造主の法の落第生であることに変わりはないからです。


一つ違うのは私達は進むべき道しるべの存在に気がついていると言う事。


だからこそ私達は道しるべへの案内人と成る事が出来るのです。


【地球人の苦悩を光の前の暗闇のように消すために
宇宙の創造主を地球社会の道しるべにしよう】


天使達の心情は、
理解は求めてもそれを人には強要しないことでした。


だからこそ彼らはこの社会から身を引いてしまったのでしょうね。


今のこの社会の状況では、
もしかしたらイエスキリストの再臨は無いかもしれません。


だとすれば私達がしている事は余計に大切だと言うことです。


イエスキリストの真の想いを皆に伝えて行きましょう。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11395640560.html
私の想い
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11404992582.html
創造主の意識  万物への無償の愛
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11406551929.html
創造主の意識 平等と謙虚と奉仕
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11408396865.html
創造主の意識 日々の実践事項
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11408848789.html
創造主の意識 誰もが特別
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11410483447.html
創造主の意識  理解と調和
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11413586595.html
創造主の意識  進化
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11390844476.html
経験こそが進化を導く
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11376405514.html
進化を促進するのは正しい動機
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11370292500.html
生命の科学 復習・応用編 VOL4 潜在意識のカルマ
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11369748271.html
生命の科学 復習・応用編 VOL3 カルマは解消できる?
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11368897207.html
生命の科学 復習と応用 VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11367974641.html
生命の科学 復習と応用編 VOL1 前半
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11367969085.html
生命の科学 復習と応用編 VOL1後半
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満月の近いこの時期、皆はしっかりと力を受け止めて
魂への意識の経路をより強く感じるように
勤めて欲しいです。


希望のBGMはジョンレノンのHAPPY XMASです。



希望のBGMはジョンレノンのHAPPY XMASです。


私も自称イエスの使徒だけあって
クリスマスというイエスキリストの誕生を祝うとされているこの時期は
毎年気分が高まってくるのを感じていました。


私の場合はイエスの誕生を喜んでいたのではなくて
その時期に誰もが楽しそうに見えることで
この社会がとても明るくなって感じる事が嬉しかったのだと思います。


お祭りとどこか似ているその気配が
私達の心に暖かいものを感じさせる機会となっている。。。


お祭りごとが好きな人は、おそらくは自分が楽しんでいると言うよりも
皆が楽しんでいる姿を見ては、それで自分まで嬉しくなっていくような
そんな体験をしているのだと思います。


そしてこの期間はクリスマスの後には正月が控えていますし、
それがクリスマスを一段と盛り上げているのでしょうね。


世界の誰もが一同に喜びに包まれる数少ない機会。


今年も出来るだけ多くの方が笑って正月を迎えて欲しいと思います。


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生まれ変わりの話をすれば、
日本と言う、キリスト教とは縁の少ないところに生まれていながら
クリスマスに執着がある方は、


前世はクリスチャンだったとか
キリスト教に縁があった人かもしれませんね。


私は不思議とお気に入りの映画も
そんなクリスマスがらみのものも多いですし
クリスマスに思い入れがあるようなので


キリスト教とは無縁な人間ではないと想像しています。


ただ、日本でのクリスマスがイエスの誕生日を祝うのではなくて
プレゼント商戦になっていたり、
恋愛の関が原になっている事は少々興ざめではあります。


でも、そんな自分の思春期の夢は
”雪の降るクリスマスの夜を最愛の人と歩くこと”でしたし


今の日本の中の風潮と
似たような意識だった事も間違いありません。


私も成長はしているのですよね。


そして今はイエスキリストの誕生日とされているその日を
皆が祝っているように”見える”事を喜べるようになりました。


一部の人間が、クリスマスは悪魔を祝福することに
利用されているのだと主張しています。


それはある意味間違いではないと思います。


悪魔崇拝というよりは、想念の持つ意味から考えれば
本来持つべきであろう神聖な意識を、
プレゼント授受という物欲的なイメージへと移行されていること。


そしてサンタクロースというありがたい?
プレゼントを贈ってくれると言う存在が


イエスキリストからクリスマスの主役の座を奪っている
と言う事の意味ではまさしく其の通りだと思います。


でも彼らは気がついていません。


大人はともかく、
子供の純粋な喜びは、物欲兼ねてであったとしても
限りなく創造主の意志による”喜び”に近いものであると言うことをです。


其の日の多くの喜びは、イエスを祝福する人間の想いと
共振してくれることでしょう。


私達多くの人が喜びを感じることになる、
一年の中でも数少ない機会となっていると思います。

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アダムスキーのクリスマスのメッセージを紹介します。


来るべき1963年を迎える直前で、
サイレンスグループ(闇政府)の妨害工作に圧されながらも
二人の偉大な人物の成し遂げてくれるであろう改革を予期して


私達一般市民に新年に向けて持つべき決意を
告げた内容だと想像していました。


そしておそらくは身近にオーソンさんを感じながら、
その謙虚な姿を思い浮かべて、


私達の地球の守護者としてあり続けてきたその存在にこそ
私達は学ばねばならないと言いたかったのではないでしょうか。


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クリスマスのメッセージ


 今年またこの時期にわれわれは一九六二回目のキリストの誕生を祝います。


しかし私は今度のクリスマスも、あのキリストなる幼児を
銀や黄金とひきかえに勘定台の上で売っていた過去と
なんら異なるものではないだろうと思います。


あの”謙虚な誕生”を各人の心のなかに起こさしめるほどに
人間の誰もが謙虚になるのはいつのことでしょう。


しかし人間が謙虚になることこそ
キリストが生まれてきた目的を遂行することになると思います。


どうぞ地上に平和がもたらされて、皮膚の色のいかんにかかわらず、
万人に親切さがゆきわたりますように。


 キリストという意味を昔の人々の日常生活の土台にしようとして、
当時の指導者がやったように、クリスマスの日にいったいどれだけの人が
貧しいカイバおけの前に立ってみることでしょう


多くの人は言葉でいうことはやさしいが、
実行するのはむつかしいと言うかもしれません。


しかも戦争をするための努力、不愉快な物事、自己満足などのためになされる決心が、
カイバおけの前に立ってみようという努力のためにおきかえられるならば、
やがて地上には天国が出現するでしょう。


 新しい年の始めには多くの人が決心をしますけれども、
それはめったに長続きしません。なぜでしょうか。


それはこうした決心が人為的なわざとらしいものであって、
しっかりと植えつけられていないからです。


根づよく植えつけられている人は人為的な支えを必要としません。
その人はいかなる逆境にも耐えるほどに強いからです。


岩の上に建てられている家はいかなる嵐にも耐えますが、
くずれやすい砂の上の家はこわれがちです。


 そこで来たる六三年こそは私たちを
一体化された人類という岩の上に築こうではありませんか。


そうすれば弱い建築のつっかい棒にすぎない”ヘつらい”や”おせじ”
を求めて生きる必要はありません。


その場所には疑惑や恐怖のかわりに信念と信頼をおこうではありませんか。
そうすれば私たちは自己の外に絶えず新しさを見ることになるでしょう。

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私達の社会でのクリスマスといわれる日は
イエスキリストの本当の誕生日ではないと言われていますが
そんな事は問題ではないと思います。


ユダヤ思想に置き換えられた私達一般市民にしてみれば
今ではクリスマスが、サンタがプレゼントを届けてくれるという
私達の物欲を満たす日であったとしても、


私達が本来この日に感じるべきは、この社会を改善するために、
何度となくこの地球に転生を繰り返しその度に”予言”をしては
それを成就し続けてくれた偉大な魂に感謝する気持ちだと思います。


彼らはこの社会を放置しておくことも出来ました。


私達の文明が勝手に核兵器で殺し合い滅んでいくのを
ただ、傍観することも出来ました。


それ以前に、イエスの2000年前の出現がなければ
文明の崩壊がとっくの昔に来ていて
今の文明は存続していなかったかもしれません。


でも彼らは私達の社会の人間が苦しんでいる姿を
放置することはありませんでした。


それを為しても感謝される事もありませんでしたし、
邪魔者扱いされて追い出されても
彼らは未だ私達の社会の事を想っています。


その証拠に私達が覚醒しているのですから。


彼らは何の見返りも求めることなく
純粋にこの地球社会を案じ続けてくれています。


そして彼らが私達に対してしている事は
創造主の意志がそうであるように無償の奉仕に他ならないのです。


彼らは時には自分を十字架に貼り付けて殺した人間達のために祈り、
そして私達の社会の改善を今でも信じ続けてくれているはずです。


私達はそんな彼らの思いを理解するどころか
未だに分割や闘争をやめようとはしません。


しかしアダムスキーがここでも触れているように
私達はエゴに増徴された心を持って暴走するのではなくて


もっと謙虚さを身に着けることで
自分の意識を変えていく事も出来るはずです。


私達も彼ら天使達と同じ
創造主の分身としての魂を持っているからです。


イエスキリストの誕生の時の天使達の様子を
聖書から引用してみます。


聖書は、天使達が私達の社会の中で御遣いを演じ
私達を導いてきた歴史の書でもあります。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さて、この土地に、羊飼い達が、
野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。


すると、主の使いが彼らのところに来て、
主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。


御使いは彼らに言った。
「恐れることはありません。今、私はこの民全体のための
すばらしい喜びを知らせに来たのです。


きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです。


あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。
これが、あなたがたのためのしるしです。」


すると、たちまち、その御使いといっしょに、
多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。


「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」


御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。


「さあ、ベツレヘムに行って、
主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」


そして急いで行って、マリヤとヨセフと、
飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。


それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。


それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。


しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。


羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、
神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

天使に翼を生やして、頭にワッカをつけたりしなければ
ここでの記述の内容も、もっと現実的に理解できると思います。


羊飼いを照らしたのは主の栄光と言っても
それは宇宙船から齎される光ですし


御使い達と一緒に現れた天の軍勢と言うのは
多くの宇宙船が天空を満たしていた事の表現だと受け取れます。


そして彼らはイエスの誕生を祝福して天へと帰って行った。


モーセによって導かれた人間達が
その時までの間に進化していたように、
地球社会の更なる改善を願ってです。


自分達のマスターが地球社会で生まれ、
今度はモーセではなくイエスとして地球社会を導くシナリオを
彼らはこの時に開始したのです。


太陽系の守護者でもある太陽系のボランティアグループスペースブラザーズは
2000年前のこの時は、自分達の送り込んだイエスがその目的を達成出来るようにと


その生涯を見守り援助しつつ
一方ではこの社会の中にその協力者となる
自分達の仲間をも大量に送り込んでいたはずです。


後に12使徒をイエスキリストが自ら選んだのも、
当時この地球社会にどうかしていた12使徒本人達は覚えていなくても
彼らがこの社会にやってくる前に計画した通りだったはずです。


彼らは


【地球人の苦悩を光の前の暗黒の様に消すために
創造主の法を地球の道しるべにしよう】


と言うスローガンを胸に秘めて
この社会に転生することを自分の意志で実行した
人間達だったと思います。


そして新約聖書はその天使達の活動の歴史でもあり
その告げる創造主の法の歴史でもあったのだと思います。


私達の社会はそれを受け止めて
イエスの教えを今の時代まで受け継いでくる事が出来た。


後は、昔よりも人間として必要な資質を高めたであろう私達が
この時代に照らして聖書での天使達の教えを正しく理解し、それを実践することで


彼らの望んでいた社会をこの地球で実現する事が
出来るかどうかにかかっているのだと思います。


今までの様に自分の心にとって心地良い事を受け入れ
それだけを実践するのではなくて


聖書のイエスや12使徒の言葉を、
形式ではなくて実質的に理解してそれを実践する事により


私達はイエスの真の教え、
創造主の法を正しく理解することになります。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

アダムスキーがここで触れている決心と意志は
創造主の意志からこそ溢れて来る意識だと言われています。


私達は何かを成し遂げようとした時にも
この地球のような創造主の法からかけ離れた社会においては
あらゆる障害に阻まれる事になるはずです。


しかしその障害に対して不快感を感じ、もしくはその障害から圧力を受けて
自分の心の不快感をなくすためにそれを受け入れてしまうのが私達です。


私達は自分達の心の不快感に立ち向かうことが苦手だからです。


私達は自分の心を甘やかせ過ぎているのかもしれません。


でも私達が持つべきは、どんな困難に見舞われても
それに対して立ち向かっていく強い意志だと思います。


私達はどんなに心が不快な思いをしても
それに屈してはいけない。。


イエスキリストは信仰に関してもそれを例え話で取り上げていました。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。


雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、
それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。


また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、
砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。


雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、
倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここでは”信仰の強さ”を岩や砂に例え、
困難や苦難を雨と洪水に例えたわけです。


私達はイエスの教えを聞いて知っているだけではなくて
それを日々実践することを求められている。


そしてそれは形式的なことではなくて
私達の心のあり方として理解し持ち続けるべきものです。


イエスの教えを心に持ち続け実践しようと勤める人間は
たとえ困難や圧力をうけようが
それに負ける事なく耐え忍ぶことが出来る。


それがここでのイエスの岩に立てた家の例えの内容です。


言葉を聴いて知識として知っていても、
それを語るだけの人や実践出来ない人間は
困難や圧力に容易に屈してその意志を捻じ曲げられてしまいます。


でも私達、平成のイエスの使徒はそうであってはいけません。


正しいと信じた事を胸に秘めて
その強い想いを実践しながら困難に立ち向かっていく。


2000年前のイエスの使徒でもあったアダムスキーは
私達にその事を告げたかったのだと思います。


イエスキリストの実態は、創造主の意志を実践して見せた
偉大なる太陽系のマスター(指導者)です。


そしてイエスは自分には何の得もないにも関わらず
この社会の改善だけのために
今もこの地球社会を見守り続けているのだと思います。


自分の事しか考えられない人間、
そして奉仕には見返りを期待する人間で溢れているこの社会においては
イエスキリストの様な人間は、お人良しの馬鹿扱いされるかもしれません。


しかしイエスの生き方こそが創造主が私達に求めているものだと言うことを
私達は理解してそれを実践していくべきです。


損得でしか物事を思考する事の出来ないこの社会の中で
私達は素晴らしき大馬鹿者に成ることが出来ると思います。


人間が心を荒ませて、”創造主の分身”と言う存在から
かけ離れつつあるこの時代の中において


その想いを持ち続けることの出来る人間が
この社会の指針となってこそこの世の改善も可能となります。


みかん箱の中の腐った他のみかんのカビを受けて
一緒になって腐っていくのではなくて


自分は自分だと言う強い意志を持ち続け、
私達の社会に未だ提示されていない
真理の欠片を今後も示し続けて行って欲しい。


今の状況で、この社会に”創造主の法”を示すことが出来るのは
自分達だけだという事を自覚して決して忘れないで欲しいです。


【地球人の苦悩を光の前の暗黒の様に消すために
宇宙の創造主を地球の道しるべにしよう】


天使達のこの想い、どうか受け継いで行って欲しいと思います。


この社会を救う事が出来るのは、もはや天使達ではなくて
この社会に住んでいる人間であると言うことを
兄弟姉妹には忘れないで欲しいと思います。


そして為すべき役目を果たした後に
イエスキリストの言っていた神の国で会いましょう。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


今日と明日はイエスキリストに関しての記事にします。



思考能力を落とされた状態で
”何とか書いた記事”という感じですが
勘弁してくださいね。


アダムスキーの奥さんの転生と言われた少女は
写真を写される事を断ったそうです。


一番の理由は其の写真を誰かが見た時に其の想いが自分の元へと届き、
そちらに意識を持っていかれるからということでした。


増して生前の彼女を知っている方の想いは
強く彼女へと届くことになる事でしょう。


それはまだ進化の状態が安定していない彼女には
負担になるのだと言う事だったと思います。


其の話は彼らの想念の受送信の能力は桁違いだと言うことを
髣髴させるエピソードでもありました。


と言うことは地球社会の大勢の人間が
イエスキリストを想う事になるこの二日間は、
オーソンさんは大変な事になっているのだと思います。


イエスキリストを想う私達の意識を
オーソンさんは山ほど受け止め続けることになるのでしょうね。


でもそんなにも沢山の想いを受けることになる
オーソンさんの事が少し羨ましくも感じてしまいます。


心を持ってです。(苦笑)


地球社会の中では自分の誕生日も祝って貰えない人間もいるのですし、

存在自体を忌み嫌われる私のような人間もいるのです。


そしてそんなに沢山の人間からの愛情や尊敬を受け止める事など
地球社会の一般人の私達にはありえません。


2000年たった今でさえ其の存在感は消える事がない。。。


それだけ偉大な事をイエスキリストは成し遂げたのだと思います。


判る人には判るイエスキリストの偉大さのなせる業です。


真のイエスの使徒はオーソンさんを困らせるようなお願い事ではなくて
ひたすら労いと尊敬の想いでも送って欲しいです。


とりわけ私達を覚醒へと導いてくれた事に対しては
しっかりと感謝して下さいね。


私達の場合は勿論オーソンさんだけでなくて、
アダムスキーさん、そして天使達皆に対しても同様にです。


イエスキリストは偉大なる指導者であり聖人であり
私達地球社会の守護者ですが、


その縁の下の力持ちとしての多くの天使達に対しても
私達だけでも感謝しましょう。


この社会を見守ってくれているのは太陽系の大勢の人間達、
そして其の有志としてのブラザーズ達でもあるからです。


(自分達の祖先だって其の中にいるかもしれません)

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現ローマ法王がどんなつもりで語ったかは判りませんが、
明日出そうとしていたアダムスキーのクリスマスのコメントの趣旨を
先に告げてくれていました。

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「クリスマス、深く内省を」 ローマ法王、経済紙に寄稿


 【ローマ=石田博士】世界的な金融危機の中、
ローマ法王ベネディクト16世は20日付の英フィナンシャル・タイムズ紙に寄稿し、
クリスマスという機会に社会の課題と向き合って内省するよう呼びかけた。
経済紙への法王の寄稿は極めて異例だ。


 法王は「クリスマスには聖書を読んで学ぶべきだ。
政治や株式市場など俗世のできごとにどう関わるべきかの啓示は、
聖書の中に見つけられる」とし、


「貧困と闘わなければならない。
資源を公平に分かち合い、弱者を助けなければならない。
強欲や搾取には反対すべきだ」と呼びかけた。


 また今年を「多くの人にとって経済的に苦しかった年」と記し、
「クリスマスはとても楽しいが、同時に深く内省すべき時でもある。
私たちは(キリストが生まれた)つつましく貧しい馬小屋の光景から
何を学べるだろう」とつづった。


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私達が普段意識して学んでいるような内容を
現ローマ法王が語っています。


バチカンと言う真理を知りながらそれを隠し続けている組織の立場を
正しく理解できる私達にして見れば、


これが偽善なのか、それとも心からの言葉なのかの
真意が気になりますが、


どんな意識を持ってこの事に触れたにしても
そこで語られている内容は創造主の法に照らして
正しいものだと思います。


この言葉に追従する様に、
今日はイエスキリストの聖書の言葉を再び引用して
それを皆で学んで見たいと思います。


その中でも私達ならば理解できる創造主の法について、
その動きが私達に具体的にどんな働きかけをするのかを


イエスキリストが自分の言葉で語っていると思われる箇所を
再び取り上げて見ます。


私達が理解すべきイエスキリストの教えと
私達の社会が現に実行しているイエスの教えが


この点でも確実にイエスの想いとは異なっているとはっきり理解できる一節で、
私が過去にも何度も取り上げてきた箇所でもあります。


そしてイエスキリストが触れている内容が創造主の法則である事も
ここからははっきりと認識する事もできる筈です。


私達の社会が正しくイエスの教えを理解しているのであれば
ここまでお金や物に拘った世の中など作り上げる事はありませんでした。


もしくは、その社会の中においてそんな風潮に慣れ親しんで
お金に仕えるような事はなかったはずです。


お金に対する執着や、そこから派生する
経済社会に生きる私達の物と心に囚われた生活。


イエスキリストは私達の将来の心の価値観の変貌を
そこまで予想して、この事を私達に警告していたのだと思います。


イエスキリストは、2000年前の社会の中において、
創造主の法を理解しそれを実践するために


私達にとっての一番の障害となりそうだったものが
お金であり、物欲であり、お金中心に動く社会だと言う事を予見しては
その事を私達に対して警告していたのだと思います。


私達はその記述を聖書の中に見出しながらも
それの意味する内容を正しく理解してはいない、


もしくは自分達の心の価値観を正当化するために
その記述を無視してきたのではないでしょうか。


イエスキリストが神であろうがなかろうが、
イエスを神と信じようが信じまいが
私達の心に与える影響は無関係です。


イエスキリストは

「私を主よ主よと称える人間が皆、天の国に行くのではなくて
御心を実践する人間が天の国に入るのです」


とも語っていたはずです。


自分達に都合の良い記述だけを引用して
イエスキリストを信じて信仰しても、
それは私達の魂の進化にはつながる事もありません。


私達は進化しなければ永遠の命(記憶を持った転生)など
手に入れる事は出来ないからです。


そしてイエスキリストの求めているのは
物質的な豊かさや安定ではなくて、


心の豊かさであり、創造主の法に従う姿勢である事が
この引用からも判るはずです。


物質的な豊かさに拘る事で
私達は心の豊かさを捨て去る事になる。


イエスが


「私達は神とお金の両方に仕える事はできない」


と語ったその趣旨を、クリスマスイブの日に聖書を通じて
かみ締めて見て欲しいと思います。


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誰も、二人の主人に仕える事はできません。
一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。
貴方がたは神にも仕え、また富にも仕えるという事はできません。


だから、私は貴方がたに言います。自分の命のことで、何を食べようか
、何を飲もうかと心配したり、また、体のことで、
何を着ようかと心配したりしてはいけません。


命は食べ物より大切なもの、体は着物より大切なものではありませんか。


空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。


けれども、貴方がたの天の父がこれを養っていてくださるのです。
貴方がたは、鳥よりも、もっと優れたものではありませんか。


貴方がたのうち誰が、心配したからといって、
自分の命を少しでも延ばす事ができますか。


なぜ着物のことで心配するのですか。
野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。
働きもせず、紡ぎもしません。


しかし、私は貴方がたに言います。
栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。


今日あっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、
神はこれほどに装ってくださるのだから、まして貴方がたに、
良くしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。


そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、
などと言って心配するのはやめなさい。


こういうものは皆、異邦人が切に求めているものなのです。
しかし、貴方がたの天の父は、それが皆貴方がたに必要である事を知っておられます。


だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらの物は全て与えられます。


だから、明日のための心配は無用です。
明日のことはあすが心配します


労苦はその日その日に、十分あります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


【貴方がたは神にも仕え、また富にも仕えるという事はできません。】


イエスキリストは富、そしてお金と言うものを
私達の魂の進化の妨げになるものとして捉えていたはずです。


お金は富の代用品としても機能します。

富をお金に換えて持つことで腐らせずに保管することもできます。


本来多くを持つ人間は、
食べきれないほどの食材を蓄えて腐らすくらいなら
他人に分け与えようと言う意識にもなりそうなものですが、


それをお金に換えて持つことで蓄財する事も可能となり、
他人に分け与えることなく自分の財として所有できるわけですから
持つものにとってはお金は便利なものでもあります。


更にお金が存在すると言う事は、それを蓄える行為だけでなくて
所有と言う概念をも進める原因にもなります。


お金があればものを自分占有のものとして
従属させることができるからです。


それが奴隷であっても家畜であっても
家具や家財であってもです。


一方では所有の無制限を進めていたのがサタンの会派ですから


創造主の恵みである自然にしても
それが誰かの所有となり他の人間は
そこからの恩恵をも受けることができなくなります。


更にはそれを神への寄進として受け取った人間達は
神の代理人と称してそれを蓄財する事にもつながりました。


彼らはそこで肥え太ったのです。


私達の心が安定を心地良いと願えば、
蓄財は私達の心の欲をも揺り動かす原因にもなります。


他人が貧しい想いをしていようが見向きもせずに、
自分の心の安定を私達は優先したのです。


富やお金が沢山あればあるほど
私達は生活に不安を感じなくて済むのですし、


あればあるほど心が心地よく感じるような
生活を送ることもできます。


そして当時のユダヤ教社会でも、
富を多く持っている人間達が創造主の意識からかけ離れている実態を
イエスキリストは強く認識していたはずです。


既存の勢力であったパリサイ派の人間達は
お金と富と権力を持って君臨していました。


そして多くのお金持ちも彼らと同様に富と権力を有し、
その状態に心の心地良さを感じ、


形式的な戒律を守る一方で、
心のあり方をなおざりにする生活を送っていたはずです。


そして社会風潮は権力者と金持ちによって作り上げられる事になります。


貧しい一般市民はそれに従って生きる事になったはずです。


平等と言う概念はそこには存在せず、
権力とお金で多くの人間を従えている人間達が特権階級を形成し、


しかも一部の人間達はその上に
自分達を”神の使い”であるかのように振舞ってもいました。


イエスキリストはそんな社会のあり方が
おかしい事を指摘していました。


お金や物に囚われながらも、まるで聖人の様に振る舞い
表ばっての形式ばかりを重視している人間達を批判し


大切なのは心のあり方であり、
そのためにもお金や物に囚われる事は精神の進化の障害でしかないと
私達に教えてくれていたのです。


お金や富が人間の中に上下関係を作り上げ、
貧困と富裕の分離を生み出し、


さらには富が貪欲を、貧困が明日の生活に対する不安までをも
生み出す事をイエスキリストは見通していて、


それが創造主の法に置いては進化の妨げになる事を
私達に告げていたのだと思います。


【私は貴方がたに言います。自分の命のことで、何を食べようか
何を飲もうかと心配したり、また、体のことで、
何を着ようかと心配したりしてはいけません。】


これは料理の献立を考えてはいけないとか
明日何を着て出かけようかと考えてはいけないと言う意味ではありません。


蓄えを持たない人間が明日の食事を心配したり
着るべき衣服の心配をする行為は


結果的には私達に命を維持するための不安を
感じさせる事になります。


先を思い悩む事で、十分な蓄えを持っている人間は、
更なる心の安定を求めてもっと蓄えを欲しがるようになるかもしれませんし、


十分な備えを持っていない人間は
蓄えや余裕を欲しいと願うようになると思います。


十分な蓄えを持つ事で明日食べるものや着るものを
心配する必要がなくなるからです。


しかしこの社会は、誰もに必要なものが
行きわたるような社会ではなくなってもいます。


その中で蓄えを求める意識は強まることになりますが、


一方ではそんな意識を持つことは不安や欲に心を動かす事に繋がりますし、
現実社会の風潮に囚われている事にもなります。


その心の思いを満たすためには
その社会の秩序に従う事が必要ともなりますし


出来上がっている社会の秩序が間違っていれば
私達は間違った法則に従う事にもつながります。


明日の事を考えれば考えるほど
私達は不安を高める事になりますし


高まった不安は安定を求めるために、
今度はお金を欲しがるようにも誘導される事になります。


結果私達は心のあり方ではなくて、
物質的な物を重視しているその社会の価値観に
囚われる事にもなるのです。


それが創造主の法からかけ離れた意識である事を
イエスキリストは理解していたからこそ、


生活の事を意識して将来に不安を感じるような行為は
やめなさいと触れたのだと思います。


ただ、現実的に今の社会では
「私達が創造主の法に従う事で必要なものが与えられる」


という状況は
この社会の中では難しくなっていると思います。


お金で何から何まで行動を規制され、
自然さえも他の人間によって所有されるこの社会の中では


創造主の自然の恵みさえも
持つものによって独占される事になっているからです。


自然から食材を手に入れることも困難ですし、
自ら食材を作るには今度は田畑も必要です。


結局はお金や財産が必要となってくるのです。


【空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。


けれども、貴方がたの天の父がこれを養っていてくださるのです。
貴方がたは、鳥よりも、もっと優れたものではありませんか。】


「創造主の法則が私達万物が生命を与えられ生きていくために必要な
すべてのものを全てこの世に創造してくれていて


その法則に従っていく事で私達はそこから糧を受けて
生きていく事ができる」


と言うのが本来の創造主の法の元で
実現されるべき社会です。


鳥や動物は自分で種を蒔いたり、刈り入れをしたりする事なくても
生きているために必要な恵みを自然の中から与えられます。


彼らも勿論、創造主の法に従っているわけですし
私達が自由意志や心と呼んでいるものを殆ど持っていない彼らは、


魂こそを意識の経路の中心として生きていて
ある意味では本能的でもあります。


でも本能的でありながらも一方では神の意識に従っているからこそ

万物との調和、自分の与えらているこの世での役割を果たしているからこそ、
彼らは自分達の生活の糧を創造主から与えられ続ける事になっている。。


勿論、人間が環境崩壊を進め、
彼らの得る事になる自然からの恵みをもたらす環境を
破壊している状況では話は別です。


彼らはその恵みを受ける事が出来ないために
人間社会の作り上げた恵みを求めて田畑に下りてきては
私達人間から奪うような事にもなっていくのだと思います。


私達の自然を無視した生き方が
万物との調和を無視した生き方が
結果的には自分達の社会に跳ね返っていることになります。


勿論災いを作り上げている人間と
その被害を受ける人間とが異なると言う
不条理も存在しています。


そして本来、労働している様には見えない彼らが養われているのも、
実はそれぞれが独自の役目を持って存在していて
創造主の意志に従っているからこそだと思います。


蜂であれば自然界で授粉を助け自然の恵みを生み出す過程に
協力しているように、


鳥だって木の実を食べてその種を
今度は別のところで糞と言う形で排泄しては
新たな生命の創造に協力している事にもなります。
(肥料と種を蒔いているようなものですね)


人間であれば自分達のためにしか蒔かない種を
彼らは自然のために蒔いている事にもなります。


彼らは創造主の法の波にしっかりと乗って生きているのです。


そして、もしも私達人間が創造主の法に従って生きているのならば


私達が生きるために必要な糧は
自然と与えられる事になるはずだとイエスキリストは
主張したいのだと思います。


誰もが生きて行くことに困ることはないだけの
十分なものが与えられることになる。


そして現実にそんな社会を天使達は実現しているのです。


万物と調和をしながらも、一方では
人々の間では互いに助け合い暮らすような社会が実現できていれば


自然も十分な恵みを私達に与えてくれる事になりますし
作り上げた富を皆で分かち合えば
誰もが食べる事に困る事にも成らないはずです。


創造主の法則は、間違いなく私達の明日の糧をも
全ての人間に対して保障するものとなっているはずなのです。


しかし現実はそうではなくなっています。


その原因を作り上げているのはお金をその起源とする、
人間間の不平等な環境や貧富の差、


自然をも食い物にしてはそこから奪うことばかりを意識する
私達の心無い想い。


さらには人間が心の価値観で作り上げた社会の悪影響です。


限られた食料や富を独占する人間がいれば、
それを手に入れる事の出来ない人間も出てきます。


そしてその食料や富を手に入れる手段がお金と言う事になれば
そこには独自の法則が働いている事にもなります。


人が作り上げなくても実る様な木の恵みもありますが、
山に成っているミカン一つとって食べても
山が他人の所有物であればそれは犯罪行為となってしまいます。


キノコにしても同様です。


私達の社会は自然環境でさえも人間によって所有されていて
神からの恵みには所有権がつけられているからです。


そのために私達の社会は創造主の法が正しく機能しない
そんな世界へと変貌してもいるのです。


本来他の生物にはできない、
自然と動物と人間社会との共存と調和という目的を与えられ


それに従って生きる事が求められているはずの私たちが
自らのエゴと欲と本能のために
調和と共存の破壊者と成り下がっている。


そんな中で創造主の法を語れば今度は淘汰の対象にまでされる。


この社会を動かしているのは創造主の法ではなくて
サタンの法に他なりません。


【貴方がたのうち誰が、心配したからといって、
自分の命を少しでも延ばす事ができますか。】


これはイエスキリストやヤコブが触れていた
「誓ってはならない」と表現した内容にもつながります。


偉そうな事を言ってみても、
私達は自分の白くなった髪の毛を黒くする事さえ出来ない存在です。
(白髪染めがあるなどとはいわないでください)


つまり私達はこの社会を作り上げた創造主の法則に対して
抵抗する事は出来ないちっぽけな存在なのです。


そんな人間が心配をしたからといって
自分の命を延ばす事も出来ないわけですし、


私達は本来この世界の法則に対して何の力も持たない存在です。


そして心配する事で物事が解決するわけでなく
心配すればするだけ不安は大きなものとなります。


負の想念を蓄える事で私達の意識は
ますます心に囚われる事になるだけで
その不安が解消される事には繋がらないのですから


心配すると言う行為が、私達の意識を
ますます創造主の意識から遠ざける事にもなります。


私達は明日に不安と感じるものがあるならば
それを不安として感じるのではなくて
今行動する事でそれを改善する位の意識を持つべきなのでしょうし


大切なのは明日を思い悩む事ではなくて
今を生きる事だと言う趣旨でもあると思います。


【栄華を窮めたソロモンでさえ、
このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。】


創造主の表現としてのフォームである花は
何を付け足される事なくても十分に美しく
金持ちで着飾っている人間であってもそれに勝るものではない。


そんな表現をする事で、私達が着飾る事に重きを置いて
そこに価値を感じている事への批判をもしているのだと思います。


私達人間の価値は着飾っている服で決まるものではなくて
そんな物は心のエゴを自己満足させるだけのものであり何の価値も持たない。


そして着飾る事なくても、私達の本来の姿は
そのままで完璧であると言うのが

天使達のマスターの言葉でもあります。


私達は視覚に囚われて、
本来価値のないものに価値を求める風潮をも作り上げている。


そんな傾向に対するイエスキリストの警告でもあると思います。


既存の社会の中のブランド志向等はその誤った傾向の
最たるものではないでしょうか。


見た目で他人を判断する傾向が強いのも、
着る物の価値に重きを置いている証拠でもあります。


そして人間の内面よりも
肉体を着飾った上辺の姿に価値観に重きを置いているのが
今の社会での実態でもあります。


【貴方がたの天の父は、それが皆貴方がたに必要である事を知っておられます。


だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらの物は全て与えられます】


私達が求めるものはお金や物や
エゴとしての心の安定を満たすためのものではなくて
真理であり、神の国である。。。


”神の国”は私達にとっては本当の進化の始まりであり
永遠を認識する事になるきっかけである事はいうまでもありません。


肉体を持っているがゆえに囚われる事になる価値観や
肉の想いと称される心のエゴや本能に従うのではなくて
それを克服して創造主の法へと立ち返る事こそが求められていて


その生き方を選択し実行する事で
全ては自ずと与えられる事になるのだと
イエスキリストは教えてくれているのです。


今の私達の社会の人間の殆どは、神になど仕えてはいません。


お金と物に仕え続け、その中でエゴとしての価値観を増幅し続け、
その価値観にどっぷりと浸っていると思います。


しかしそれではいけない事に気がついている私達人間は
そんな自分の生き方を正当化するために、
そしてそんな自分が天国にいけるのだと信じたいがために、


宗教を信仰している自分が創造主に従っていると思い込む事で
自分の心を安心させているのではないでしょうか。


自分が正しい生き方をしていない事を認める事が出来ず、
それを正当化することで自分の心の不安を取り除くためにこそ
イエスの教えや神は信仰されている。


私にはそんな実態があるような気がします。


お金に仕えている私達が創造主に仕える事が出来ているわけがないのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


イエスキリストは馬小屋の中で生まれたといわれています。


今から考えればそれは貧乏や貧しさの象徴であり
そこからは豊かさを感じる事も出来ないかもしれません。


しかしそこで生を受けたイエスキリストは
溢れるほどの心の豊かさを持っている存在だったはずです。


自分には何の得も無い生を受けては、
私達を導くためにだけ其の人生を費やした存在。


そしてイエスキリストの様な聖人が生まれたのは
物質的豊かさの中ではなかったと言う事を私達は認識すべきなのです。


私達が求めるべき真の豊かさは
物質的なものではなくて心の想いの豊かさにこそ存在する。


天使達の救世主誕生の演出には、
そんな意味も込められているのかもしれません。


多くの人間の魂には響く事の無くなった
イエスキリストの真摯な想いですが、


自称イエスの使徒である私の兄弟姉妹達だけでも、
クリスマスの中のひと時で良いので、それを意識して過ごして欲しいです。


天使達は今この瞬間も私達の社会のことを
想ってくれているはずです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


思考能力を大幅に制限され、もしくは脳機能を壊され、
満月近くなりながらも脳機能が活性化する体験を
認識出来ない状態へと誘導されています。


精神汚染を受けていることも気がついていますし、

今日は朝から自分の意識を管理されていることにも気がついています。


ユダヤの傀儡がいる限り私が宇宙的覚醒=真の啓示
を感じることは無いと思います。


私は転生してから漸くそれを実現する羽目になりそうです。


ユダヤの傀儡はどうも他人を羨んでいる気配もあります。


自分が体験できない事や認識できない事を
私が認識し体験し続けているからです。


そして其の究極の状態だけは絶対に妨害したい。


そんな想いをもって
私への介入を続ける人間がいるのだと思います。


悔しいです。


皆はこの時期に意識が高まっていく体験を
して頂きたいと思います。


それはもしかしたら、満月に近いこの時期に
天使達の想いを増幅して受け止めている可能性があるのです。


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最近、私達が取り上げるところの、精神=魂を髣髴させるような
内容を題材にした番組を時折見かけることがあり


嬉しい様な、一方では再び印象操作を始められているような
複雑な気持ちでそれを眺めています。


一つ正しく理解すべきは、本当は私達には
”無意識”と言う状態は存在してはいないと言うことです。


私達が通常意識しているのは言うまでもなく
私達の思考器官としての脳であり、そこでの私達の思考です。


しかし思考をやめたつもりの時でも私たちは
しっかりと意識を持って生きているはずです。


私達にとっての悲劇は、私達には二つ目の意識であり
私達の本当の意識でもある魂の意識の経路に気がついていないこと。


例え私達が心で想うことをやめても、
もう一方の意識の経路は24時間休むことなく
私達に語りかけている


と言うのが、生命の科学での
アダムスキーの説明でもありました。


私たちが通常は心と言われるものそしてそこで培った
エゴにばかり囚われていてそちらにばかり意識を向けているからこそ、


小声でささやく魂からの意識は私達には届かないと言うのが
その説明で、そのためなのか私達が思考を止めたとき、


そして睡眠状態に近いとき、さらには眠ったときにこそ
私達はもう一方の意識を強く認識することになります。


私が映像としての想念を受け止める機会が多いのも
殆どがこれから睡眠状態に入ると言う寸前であったり
何も考えないように勤めているときであったりもします。


そんな状態では私達は通常の意識の経路ではなくて
普段感じることのない意識の経路としての魂の意識、
もしくは魂が受け止めた感覚を認識することになるはずです。


そして魂の受け止める感覚は想念ですし、
もしくは創造主の意識でした。


三次元社会の他人の思考を受け止めたり
創造主の意志に繋がるものを受け止めるには
私達はあまりにも心にばかり意識を向けすぎている。


その事を自覚しているからこそ
私は感情を強く表現してはいけない
と言う戒律を自分に課して、


心に囚われることを少しでも抑えようと
勤めてもいます。


意識の経路としての心を抑えることができれば
相対的にもう一つの意識の経路を
感じやすくなると考えたからでもあります。


そしてその事を兄弟姉妹にも勧めているわけです。


私達が自らの経験で培った戒律と
その戒律を実践する中で感じたその印象への信頼。


印象を与えたものが魂であり創造主の意志であると考えれば
それはそのまま創造主への信頼にも繋がります。


私達は無意識の内に宗教が”信仰”と呼んでいるものを
強く持つようにもなっているはずです。


そして自分が感じ体験しているその生き方を、
自分が救ってあげたいと願う相手や資質を感じる相手に対して伝えて
そのきっかけを作って行って欲しいです。

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① アダムスキーって一体何者ですか?


アダムスキーは地球での元々の職業は哲学者です。


幼少の時代にはチベットに学び、カトリックを勉強したこともあれば
35歳におそらくは啓示を受け(宇宙的覚醒をはたし)
独自の宇宙哲学を広めていた人物だと言うことです。


と言っても其の宇宙哲学は、人間としての個人の創作ではなくて
覚醒者ならではの創造主の意志による真理で満ちたものになっています。


その後アダムスキーは1952年にUFOに乗ってきた
スペースブラザーズの一員とコンタクトして


其の事を著書でも著しUFOコンタクティーとして
知られることにもなります。


その後もブラザーズと交流を続け
彼らの地球でのエージェントとして
彼らの実態を地球社会に紹介する運動を続け


一方ではブラザーズが地球社会の政治的・宗教的な権威とコンタクトする中でも
仲介や重要な役割を演じていたようです。


ケネディー大統領の隠れた側近の一人がアダムスキーですし
ケネディー大統領はアダムスキーの信奉者でもあったと思われます。


アダムスキーはその後も
時には彼らの宇宙船に乗って彼らの惑星へと出向いたり
ブラザーズと交流を続け、


そこで得た、彼らの科学文明や知識を地球社会の中で紹介しては
地球に科学の発展にも影ながら協力していました。


世界での講演を続け、地球でのブラザーズの存在の広報に勤めましたが
地球社会の権力者達の手によって其の計画はつぶされて、

(ヨハネス23世とケネディー大統領の暗殺)


晩年は自分の宇宙哲学にブラザーズの監修をうけた
”生命の科学”を側近の人間と理解者に対して紹介して、
宇宙的啓示を薦めていました。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10918057093.html
地球の分岐点で失われた三つの命VOL1
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10950191414.html
地球の分岐点で失われた三つの命VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10950302203.html
宇宙への招待VOL1
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10950654193.html
宇宙への招待VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10938446777.html
宇宙への招待VOL3
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10952062667.html
宇宙への招待VOL4
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10936154859.html
地球の分岐点で失われた三つの命VOL3
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②アダムスキーはどんなことを教えていたのですか?


私達地球社会の人間がエゴに囚われて生きているために
いつまでたっても私達の求められている本来の
人間としての生き方が出来ていないと言うことを前提に


私達が本来あるべき生き方をするためには、
自分の心を深く理解して、そこからエゴを取り除くことを
一番に主張していたのが元々の哲学的見地だと思います。


アダムスキーはそんな思考の中で
自らテレパシーの開発方法を実践していました。


そしてそれはブラザーズのテストをもパスするほどの
お手並みだったようです。


しかし実はアダムスキーは
単なる一般の地球人ではなかったようです。


幼少時にチベットに学びに行く事となったのも
偶然ではないと思いますし


その後には伝統的なカトリックも学んでいますし
チベット密教を学び、旧約聖書を学んだイエスキリストを
彷彿させるものがあります。


そしてどうやらアダムスキーはスペースブラザーズの一員として
指導者となるべき事を期待され地球社会にやってきた人間らしいと言うことです。


アダムスキーの表立ってのコンタクトは1952年とされていますが、
実はアダムスキー研究家の藤原さんによれば
それ以前からアダムスキーがブラザーズとコンタクトしていた


もしくは彼らに見守られていた形跡もあるそうです。


そしてアダムスキーが実は単なる哲学者でなかったことは
其の側近こそが其の詳細を知っていたようです。

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③なぜアダムスキーの様な一世を風靡した人間が
今ではすっかり忘れ去られているの?
其の主張や知識に誤りでもあったんではないの?


誤りどころかアダムスキーは
この地球社会の常識をひっくり返すだけの
真実の情報と知識を持っていました。


ブラザーズから与えられた科学力一つとっても
今では使用されている電子レンジ、イオン発生器、
人工衛星、高周波治療器、


さらには公にされていない、想念を映し出すカメラ、
立体ホログラフ、宇宙船の推進エンジン、重力制御装置など
ハイテク技術を科学者を通じて地球社会に与え


太陽系10番目11番目の天体の軌道と位置を教え
(未だに未発表)


太陽系の他の惑星の実態を伝え、
素粒子の実態を紹介し、DNAの存在を伝え、


この社会に今まで認識されてなかった、
そして現象ばかりを追求していたのでは到達することも出来なかったであろう
そんな知識をも紹介して


其の上に太陽系の人間達、私達が天使と聖書で呼んでいた人間達の
存在と其の文明や生き方、


更に実践している創造主の法までこの社会に伝えた人物です。


当時は世界の多くの首脳と会談を求められ続け
多くの秘密の会議にも出席をしていたようですし


オランダではユリアナ女王もアダムスキーの
熱心な信奉者でした。


バチカンの教皇であったヨハネス23世にも
ブラザーズの使いとして封書を届けましたし
ケネディー大統領の隠れた側近でもありました。


しかしアダムスキーがこの地球社会に全てを伝えることで
この地球社会が変貌することを恐れた人間達が


嘘の情報やデマ、そして彼への協力者達への
圧力などで其の広報を妨害し、


アダムスキーの死後にはアダムスキーにかかわる
一切の情報を風化させることに全力を尽くしました。


それが功を奏し?
今ではアメリカではアダムスキーを知っている人間は
殆どいないそうです。


そこには私達の脳機能を熟知して
それを逆手にとった地球の闇の支配者達の陰謀があったわけです。


アダムスキーにまつわる一連の情報こそが彼らにとってのトップシークレットで
其の中でもスペースブラザーズの隠蔽こそが彼らの主目的。


一連のオカルトとしてのUFOや宇宙人情報は
それを隠すための凝りにこった煙幕なのです。

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④アダムスキー本人は超能力者だったのですか?


アダムスキーが只者でない証拠に
アダムスキーは独学で宇宙の法則をある程度理解し、


魂と言う経路に関しての理解こそ
ブラザーズによって与えられましたが


其の主張内容は天使達の創造主の法と
寸分違いはなかったことにも現れています。


アダムスキーの側近によれば
アダムスキーのテレパシーはかなりのものであったようです。


視線を送ると反応し、口に出す前にそれに返答してみせる。


そんな事も頻繁にあったそうです。


そしてアダムスキーは自分の過去世だけでなくて
他人の過去世やオーラをも見る事が出来たと言います。


アダムスキーが独学で啓示を受けたのですから
元々の知能の高さ、資質の高さは想像つきますが


本人はこの社会の中で重要とされている
学校教育の学問に関しては殆ど学んでもいないようです。


イエスキリストがただの大工の息子で会ったように、
アダムスキーも元々が学歴もない
単なる一人の人間としてこの社会を生きていたようです。


私達は未知能力は其の人間の魂の進化に応じて
脳機能が進化することで発現されると認識しています。


そしてアダムスキーに関しては
かなりその能力が進化していたであろう事は想像がつきます。


そして覚醒を深く果たしていたアダムスキーは
長い講演の間も原稿を見ることなく
次から次へと言葉を語り続けていたそうです。


どんな質問にも答えるだけの知識の多さに
周囲の人間は驚いていたようでした。


想像つくのは、アダムスキーもイエスの奥義を
使用しているのと同じ状態で人々に語っていたであろうと言うこと。


時には自分が学んだ事のない情報まで
もたらしてくれるのが魂の意識です。


そこから手に入れることの出来る情報は実質無限であることは
アカシックレコードの存在からも想像がつきます。


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⑤アダムスキーは過去に地球では
どんな人間だったのですか?


常に地球社会にいたわけではなくて
其の時の必要に応じてこの社会に転生してきていたと言うのが実態のようで、
ある意味イエスキリストの魂を持つ人物と共通点があります。


大昔のレムリア文明(ムー大陸)時代は現実に存在していて、
其の時代には科学者として地球にいたことがあるそうです。


紀元前には中国に生まれていたと言う話を側近は聞いていて、
その内容からも老子、もしくは老子の教えを伝えたとされる
人間達の一人だったのではないかと触れていました。


本人が自ら語っていたのは、
アダムスキーは2000年前の時代にはヨハネと言う名で
イエスキリストの側近の一人として行動を共にしていたこと。


つまりアダムスキーはイエスの12使徒の一人であったと言うことです。


この事も偶然ではなくて、イエスが選んだ12人は
おそらくは元々がイエス同様に地球社会へと転生してきた
天使達だと思います。


彼らはブラザーズによって見守り続けられてもいたはずです。


イエスの十字架の死の後にも、
天使達が12使徒を助け続けていたことは
聖書からも見て取れるはずです。


しかしヨハネの転生であるアダムスキーは
”キリスト教”にも”宗教”にも否定的であったことは
間違いありません。


ヨハネであることで知りうる事実として、
アダムスキーは聖書の中のユダの裏切りを
事実ではないと告げていたようです。


もちろん表立ってはクリスチャンに向かって
其の神経を逆なでするようなことは一切触れていませんし


自分がヨハネの転生であると言うことも
間違っても言ってはいませんが
(この辺が本当の聖人とそうでない人間の差でしょうね)


アダムスキーは時折本音や、一般人に語ってはいけない事実を
側近の信頼できる人間には話していたようで、


それによればユダがイエスを裏切ったと言うのは間違いで、
お金でイエスを守ってもらうように買収した相手が
イエスを売ったと言うのが其の実態だと言うことです。


つまりは聖書は確実に改ざんされているのです。


イエスが自らを裏切る資質の人間を
自らの手で使徒として任命するわけもないと思います。


ただ、其の後のユダについての話には触れていないようです。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11130000315.html
地球の古代文明と宇宙の法則

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⑥スペースブラザーズのエージェントとして
地球人に話してはいけない事とかあったのではないでしょうか?


どうやらアダムスキーはとりわけ重要なことに関しては
地球社会の棺おけの中にまで持っていってしまったようで
側近にも語らなかった実態が存在しているようです。


地球社会の破局の可能性に関しては理解者相手には触れていましたし、


おそらくトップシークレットは
宇宙の法則で悪用されることを恐れた内容とか、
地球社会の権力者達に知られたくない事実なのだと想像しています。


もしくは法則に関して私達が知ることで
衝撃を受けるような事実でもあったのかもしれません。


アダムスキーは地球に関する事実を語る時も
常にブラザーズの許可を受けて情報提示をしていたようです。


地球社会に不安を与えないためでもありますし
一方では心無い人間達に其の情報を
悪用されないためでもあったようです。


其の中でもアダムスキーは「少しばかり過失を犯した」と言っていましたので
言ってはいけなかったことを講演などで語ってしまったこともあったのかもしれません。


著書”宇宙からの訪問者”の中でブラザーズのマスターに

「未だ地球人に語ってはいけないことがありましたね」


と言われている場面がありますが、
あれは太陽系の崩壊の話だと思います。


ブラザーズのように科学的にも精神的にも
それを克服出来る状況にはない地球社会に
其の実態を知らせることは単なる恐怖心の増幅になりますし


それを利用する人間も出てくることになるかもしれません。


結局アダムスキーは晩年には太陽系が崩壊期に入っていると言うことと
太陽の磁極が逆転して太陽に異変が起きていること


それから地球にもその影響があること、
そして地球にはそれとは別にもう一つ独自の危機があることに触れていたので


其の件に関してはブラザーズも私達に多少は知られても良いと判断した

もしくは地球の裏の権力者がそれをきっかけに変わってくれることを
願ったのかも知れませんが、実態は今の通りです。

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⑦そんな機密事項を語っていたのなら
ユダヤ傀儡とかに狙われる事になったのでは?


アダムスキーは現に狙われ続けていました。


著書の言動の撤回を求められる買収を受けたり、
命を狙われたり、側近の人間達を買収や洗脳されたりと


其の人生は波乱万丈に満ちたものでした。


その相手をサイレンスグループとアダムスキーは呼んでいました。


其の中心が世界秘密結社と言われる組織であることも明言していました。


つまりはフリーメーソンといわれている
闇政府の表立っての傀儡組織です。


アダムスキーを狙った人間達の実態、
それこそが地球社会を裏で支配している人間達であると言う
話も触れていましたし


それを「イエスの時代の両替商の末裔」と
はっきり明言してもいました。


地球社会を支配しているのは金融ではなくて
イエスを十字架に貼り付けた人間達の末裔だと言うことをです。


アダムスキーへの妨害は広報が進むにつれて激しくなりましたし、
アダムスキーへの興味をそらすために
多くのオカルトやニューエイジが語られるようになったのも其の頃。


さらには違う角度から、アダムスキーへの人々の視線をそらすための
道具として利用されたのが


タビストック研究所の作りあげた人気者
ビートルズの存在でもあったようです。


ビートルズ旋風は世界中に伝染し、
それまでのUFOコンタクトブームもアダムスキーの話も
一時の流行のごとく消されていくことになります。


アダムスキーは最後は呼吸器を患って亡くなりますが
そんなアダムスキーが亡くなることを察知していたようで
ブラザーズはアダムスキーに最後まで仕事を求め続けたそうです。


1963年、アダムスキーとの謁見の三日後に亡くなったヨハネス23世、
同年機密事項発表前に射殺されたケネディー大統領、


そして1965年にはアダムスキーが亡くなり
政治・宗教そして一般市民からの働きによる
太陽系の実態と創造主の法の、更なる世界への広報は
実現することなく終わったのです。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10996318099.html
サイレンスグループ(闇組織)
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10999341983.html
サイレンスグループその2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11056503986.html
サイレンスグループ その3
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⑧アダムスキーは宇宙人とあってどんな体験をしたのですか?


私達には信じられないような体験を沢山しています。


宇宙船に乗ることを許されて其の機内を見学して回ったり、
その設備や装置の説明を受けたり、


宇宙船の仕組みや機動力、さらには
私達が把握していない惑星間の磁場の存在の説明を受けたり


金星や土星と言われる星に現実に其の足で立って
金星では町並みを見て歩いてもいます。


見た目では土星こそが私達が天国と表現したくなるような
世界だと触れていました。


土星では太陽系の惑星の代表が集まったとされる会議にも出ていて
その場には地球社会で聖人と呼ばれた多くの人間達にも出会っているそうです。

(宗教の聖人とは限らないと思います)


土星に出向いた二度目の時には
”宇宙船と一体化”するという経験をもしていて
宇宙の磁場に乗ると言うことを身をもって感じたと言います。


土星の会議とは必要に応じて行われる
太陽系の同胞の会議だったそうです。


其のときの話題は太陽系の崩壊の話と
地球社会に対する今後の対応の仕方が話し合われたそうです。


その場では火星の代表とアダムスキーの頭には
脳に記憶を植えつけるための装置が取り付けられたと言います。


進化の足りない惑星の住人が会議の内容を
丸暗記できないことを考慮しての対策だったようですが。。


金星社会でも土星社会でも
バスやタクシーの替わりに、移動手段として使用したものは
やはり宙に浮いていたそうです。


しかし町並みを歩いている人間の姿は
地球とも変わらないように見えたと言う話でした。


金星社会でアダムスキーは、昔自分の妻であった人間の
転生である少女と出会って話をしています。
(ブラザーズと約束していた事も著書に書かれてます)


そして金星社会でどんな暮らしをしているのかとか、
地球では実践されていない創造主の法の学び方に関しても
其の少女から伝えられたと言うことでした。


死んで7年ほどの妻が、地球社会であれば13才ぐらいに見える
成長を果たしていたことから


彼らの言っていた
「彼らの社会では幼年期が短い」
と言う話を実感することにもなったようです。


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⑨そう言えば最近火星に探索機が送られましたが
火星人は見つかるのでしょうか?


おそらく火星に探索機を送った目的は

そこが太陽系の実態を隠蔽するにふさわしい場所だからではないでしょうか。


大昔の戦争の痕が生々しい火星では植物の生息地が少なく、
水場も少ないとアダムスキーは触れていたと思います。


火星社会の多くはおそらくは今では地下にこそ存在していると思います。


大昔の戦争の時の影響が強ければ
地表では安全に暮らすことも出来なかっただろうからです。


多くの人間が、火星に大昔には文明が存在していた可能性を指摘していますが
それは戦争によって風化した残骸なのです。


水の少ない火星はその意味でも知的生命体を否定するためにも
もってこいの環境ではないでしょうか。


それに探索機は長い時間をかけて火星のほんの一部分を
しつこく調査する予定のようです。


偶然其の前を動物が通り過ぎることがあっても
それは編集でカットされて報道されるでしょうし
NASA自体がユダヤ傀儡がトップにいるであろう事も想像つきます。


大体、月の開発を諦めた一番の理由が何であったかすら
私達は知らされてはいません。


そして飛行士はみな守秘義務を負うことになる。


太陽系の実態は闇政府関係者達だけが気がついていて
私達一般市民はいつまでたっても
教科書の嘘の太陽系の姿にだまされ続けることになるのだと思います。


そしてもう一つ、太陽系の地球人以外の人間達は
新しい太陽系への移動をも始めているということでした。


遠いかも知れない未来ですが、太陽系の真実に気がついた人間が
崩壊することが確定した太陽系から逃れ様と言う意志を持つのは当たり前ですし


新しく出来上がった、しかも人間が暮らすことの出来る環境が整った惑星が
この太陽系から近い場所に見つかったのですから
そこに移住するのは当たり前のことです。


地球社会を必ずしも助けれるとは限らないからこそ
ブラザーズとアダムスキーは地球の各国政府の首脳陣に
宇宙船製造計画を進めたのに、


地球社会は相変わらず軍事社会を繰り返し
同胞同士の争いをやめようとしないのですから
彼らも助けようがないのです。


おまけに真理を隠蔽し彼らを地球から締め出しても居ます。


不運なのは地球社会の一般市民です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
⑩アダムスキーのコンタクトストーリーが
地球社会にもたらしたものは一体何だったのでしょうか?


結果だけを見ればため息しかでません。


地球社会が宇宙時代を迎える事で精神的進化を果たすことを
彼らは進めたのですが、私達はそれを果たす事が出来ませんでした。


軍事産業から宇宙産業への転換の勧めも無視されました。


今ではブラザーズ達が伝えた技術を使用して独自に宇宙船を持っていて
地球社会に何かあったときには
それで自分達だけは助かろうと言う人間達が現実に存在しているようです。


彼らは地球の置かれている実態を一般社会に明らかにして
すぐにでも宇宙産業へと事業転換を進めるべきですが


もしかしたらもう時間的に手遅れと感じ
特定の人間だけでも連れて行こうとしているのかもしれません。


しかし50年前に其の警告を受け止めていれば
そんな自体にはならずに済んだかも知れないのです。


当時の地球社会の権力者の罪はとても大きいと思います。


そしてアダムスキーがコンタクトし、オーソン(真理)と
名付けた其の人間こそがイエスキリストの生まれ変わりであることを
皆に理解させることが出来ていれば


この社会のクリスチャン中心に地球社会は
変えることが出来たかもしれないと思うと、とても残念でもあります。


私達は其の時のアダムスキーとオーソンのコンタクトを
イエスキリストと其の使徒ヨハネの再会と理解すれば
深い感動すら覚えることになります。


しかしそれを公的に周知し
イエスの再臨が果たされたことを認識させるためには

あの時に地球社会が変わってなければいけなかったのです。


でもヨハネス23世もケネディー大統領も殺されました。


イエスの再臨は認識されることはありませんでした。


私達にもたらされた小さな希望は
其の時のアダムスキーが有識者に渡して講義を始めた
”生命の科学”に触れる機会が出来たことです。


エリアやモーセとしての私達への働きかけがあり、
イエスキリストとしての働きかけがあり、


そしてそれらの時代よりは進化した私達に
今度はもっと深い理解を与えるために
彼らとアダムスキーが用意してくれた”生命の科学”


つまりは創造主の法への導きこそが
私達にとってのアダムスキーが残した
大きな遺産だと言えるのだと思います。


それは本当はイエスキリストの転生としての
オーソン達の教えとして私達に与えられるものだったはずです。


それを学ぶも学ばぬも、信じるも信じないも本人の自由意志の問題。


私達は学ぶ事を選択しそれを実践することで
地球にいながら彼らと同じ生き方を選択したのですから
進化の過程へと進んだ事になります。


アダムスキーは其の死後、幼児からのやり直しでなく
成人の肉体に転生したと言う話もあるそうです。


イエスキリストが三日後に肉体を変えて転生したであろう事は
私が記事で紹介したとおりですが


同様に地球社会にとっても重要な存在であったアダムスキーは
きっと地球時代の記憶を持ったままで


地球社会をすぐにでもサポートできる状況へと
転生したのだと想像していました。


もしかしたら今頃はオーソンさんと共に
宇宙船から地球を眺めているかもしれません。


そして私達社会の行く末を見守っているのだと信じています。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11106785529.html
イエスの転生
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11108616691.html
宇宙の法則 番外編 イエスの言葉 前編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11108619928.html
宇宙の法則 番外編 イエスの言葉 後編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11182629834.html
転生の法則と入れ替わりの法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11033948890.html
アダムスキーを知る  VOL1
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11043547398.html
アダムスキーを知る  VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11043620767.html
アダムスキーを知る  VOL3
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11071436147.html
アダムスキーを知る  VOL4
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11071482237.html
アダムスキーを知る  VOL5
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11130001427.html
アダムスキーを知る  VOL6
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11130002515.html
アダムスキーを知る  VOL7
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11135508070.html
アダムスキーを知る  VOL8
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11135509838.html
アダムスキーを知る  VOL9
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アダムスキーを知る  VOL10
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アダムスキーを知る  VOL11
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アダムスキーを知る  VOL12
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アダムスキーを知る  VOL13
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11265366712.html
アダムスキーを知る。VOL14
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私達の社会では他人との意思疎通は言葉で行われます。


私達には魂を通じて他人の思いを正しく理解する術がないからです。


自分の想いを他人に正しく伝えようとすれば
言葉も自然と多くなるのは今のこの社会の道理です。


しかし一方ではその言葉が
その人間の想いを正しく伝えるとは限りません。


言葉を誤ればその真意を誤解されることもありますし、
受け止めた方が誤った印象を持つこともあります。


更にはイエスキリストが”偽善者”と表現して批判しましたが、
人間は時には心にもない事を口にして表現することも出来るからです。


そしてテレパシーのような物が使用できない私達の社会では
言葉という物の持つ重みは大きい事になります。


それは想いにも通じるものであり、


一方その”想い”同様に他人に対して与える影響も
自分自身に対して与える影響も大きなものとなっている
と言う事に関してヤコブが取り上げています。


口から出す言葉を大切にしろと言うことです。


私達は想いを肉体を持って表現する存在です。


取り分け感情が高ぶった時などは
体全身だけでなくて、それを言葉をも持って表現することになります。


心のエゴの強い想いは、即座に言葉として現れることを
私達は体験し続けてきたはずです。


そして言葉が汚くなると言う事は
その時私達が発している想いも汚れていると言う事です。


汚いと言うのは単に口が悪いと言う意味だけではなくて、
その言葉が持っている意図が心のエゴで満ちていると言うことです。


私達は”言葉”に関しても”想い”の表現の経路であることを
理解しなければなりません。

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私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。
ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。


私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。
もし、ことばで失敗をしない人がいたら、
その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。


馬を御するために、くつわをその口にかけると、
馬のからだ全体を引き回すことができます。


また、船をみなさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、
ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。


同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。
ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きな森を燃やします。


舌は火であり、不義の世界です。
舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、
人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。


どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、
人類によって制せられるし、すでに制せられています。


しかし、舌を制御することは、だれにもできません。
それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。


私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、
同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。


賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。
私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。


泉が甘い水と苦い水を同じ穴から
わき上がらせるというようなことがあるでしょうか。


私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、
ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。


塩水が甘い水を出すこともできないことです。


あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。
その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。


しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、
誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。


そのような知恵は、上から来たものではなく、
地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。


ねたみや敵対心のあるところには、
秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。


しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、
また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。


義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。
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ここで冒頭に触れられている
「多くのものが教師と成ってはいけない。」


と言うのは、当時イエスの教えが宣教師やイエスの使徒を名乗る
多くの人間によって語られながら歪められていった実態を受けて
ヤコブがそれを牽制的に発言したのだと思います。


イエスキリストの教えを正しく理解できれば
誰もがそれを述べ伝える立場になる事も出来るはずです。


しかしそれを正しく学ぶことが私達には難しいと思います。


現に世界中に溢れるあらゆる指導者達が
必ずしも真理を語り人々を正しく導いてきたわけではない事も
私達は理解できます。


そして私に言わせれば創造主の法を正しく理解しようと
勤めている人間の方が、


既存の指導者の多くよりも正しく人々を
導く事も出来ると思います。


その基準が人間の作り上げた戒律に従っているものではなくて
創造主の法にこそ従っているものだからです。


魂の言葉を語るのには年齢も経験も関係ありません。


誰が語ろうが真理は真理、
そして誰が語ろうが間違いは間違いだからです。


本音を言えば、ここでのヤコブの言葉と逆の事を
私は皆に求めたいと思います。


限りなく正しい教えが伝わっている中で
私達が誤りを伝えるのでは創造主の法から社会を
かけ離れさせることになりますが、


正しい教えがほとんど存在していない社会の中で
私達が正しいものを提示する”きっかけ”となるのですから
その結果、存在していなかった真理が広がっていく事になるからです。


ただ、ここでヤコブが触れている、


【私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。】


に関しては、それは私達にとっての試練を
”倍増”するものとなる可能性がある事には触れておきます。


五つ目の記事の中でそれを取り上げています。


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ヤコブは私達の言葉から出て来るものを、
”想い”と同様に”種”として表現しています。


「悪い木に良い実はならない」
「良い木に悪い実はならない」


とイエスキリストが表現した内容は、大元を質せば


「悪しき物の中から良い物が生まれることはない」


と言う意味ですし、私達が論理的に思考すれば
普通に理解出来ます。


時には「悪いとされる”カビ”からペニシリンが作られた」
と、ひねくれ者には反論されそうなので、もっと詳細を語っておけば、


ここの意味の根底には


「悪い動機から出た結果は決して全体にとって
改善を齎す様な良いものでは無い。」


と言う趣旨を含んでいて、
大元の目的や動機の大切さを語ってくれていると言えるのです。


そしてヤコブがここではイエスの言葉に追従する様に表現しているので


ここの最後の”種”の例えは、


「良い木は悪い種からは育たない」

「悪い木は良い種から育たない」


と言う趣旨を語っているのだと思いますが、


私達が言葉を発する行為は、
その種を蒔く行為に他ならないと思います。


つまりここでの内容は、私達の言葉も私達の想い同様に
この社会の中を作り上げていく大切なものだと言うことでしょうし、


「その言葉を発する私達自身も、それによって影響を受けるのだ」


と言うことを教えてくれているのかもしれません。


私達の中には私の様に組織的犯罪被害を受けていて、
悪意に晒されたり、敵意から逃れられない方もいると思います。


私達がそんな人間達から開放されれば持たなくてすむ様な、
怒りや、時には憎しみに近い想いを持たされる事を
強いられている人もおそらくは居るかと思います。


私もそんな人間達のために、怒りの感情を引き起こされたり
不快な想いを発する事もありますし


「どんな時もそんな悪意を持ってはいけない」
などとは言える立場ではありません。


そして私達は元々が地球社会という創造主の法の落第生の一人なのですから
聖人や神様のような事を求められてもそれは不可能です。


天使達はこの宇宙で完全なものは創造主だけだと
表現していたと思います。


だから私達は不完全である事を理解して
そのうえでその不完全さを改善するように努める事こそが
大切なのだと思います。


そして私達の意志を他人に伝達する直接の手段は言葉です。


その言葉が他人に対して影響を与え
それが強いては自分にも跳ね返ってくる事は
私達も日々経験して知っているはずです。


想いが別のところにあろうが、言葉は他の人々に、
その人間ごとの独自の解釈で受け止められる事にもなります。


そしてその言葉は他人に影響を与えるのですから
他人を通じて成長している事にもなります。


その他人はその言葉に従って更なる他の人間に
影響を及ぼすかもしれません。


私達の口から出た言葉が結果的には多くの人間に影響を与え
その行動は社会にも影響を与えることにもなります。


小さな一言がいつしか広まり
多くの人間に知られて行動をも変える事になるかもしれません。


そんな行動が社会をも変える事もあるでしょう。


小さな種が沢山の葉の生い茂った大きな木へと成長するようなものです。


言葉は他人を不快にさせたり、不安や恐怖をもたらす事も出来ますし
有頂天にさせたり、気分良くさせる事も出来ます。


時には多くの人間に対してその影響を与える事もあります。


私達の言葉はその意味で”種”なのだと思います。


そして言葉は伝えたい相手を引き寄せる事もあります。


私はブログ記事に関しては文語で丁寧な言葉を意識して
記事を書くように勤めています。


もちろん男である私は会話では”俺”と語りますし、

もしも”切れたら”私はとても激しく怒り
口調も荒々しくなることもあった人間です。


しかし、ここでは”私”と言う言葉を使用しています。


自分の理解を求めたい相手に与える印象を考えてのものですし
私は”心のきれいな方”にこそ理解と賛同を求めようと勤めているからです。


そして私の記事はその中に記述されている言葉が、
私の求めている対象をしっかりと引き寄せて居ると考えています。


私達の”想い”が同じような”想い”を持っている人間を
引き寄せるようにです。


そして私の記事を読んでくれているのは、
私の希望する資質を持った人間と、


私の行動を警戒する、サタン会派の自覚ある人間が
その中心だと想像しています。


男であれば下品な言葉を使う人も多いかと思いますし、
そんな言葉の人間にこそ好感を持つ方も居るかもしれませんが
それも引き寄せです。


そして私達は人に理解を求める時には
言葉にも気をつけるべきだということ。


私達が理解を求めるべき相手は創造主の法を理解できそうな人間、
つまりは創造主の意志からかけ離れていない人間です。


そんな人間がどんな言葉や物を好むのかと考えれば
自然に私達が気をつけるべき点も見えてくるはずです。


更に、そんな資質のある人達は文章にしても
心が篭った言葉なのか、口先だけの言葉なのかも
しっかりと見破ることになるはずです。


私達が怪しげなサイトの記事や、
上辺だけは綺麗に飾って見せている地球の法則のサイトに
騙され無いのと同じです。


私達は相手に対して心から訴える事が大切だと思います。


この時には言葉だけでなくてその大元となっている
私達の”想い”こそが物を言うと思います。


資質のある人達は私達の想いをこめた言葉に
魂を共鳴してくれる可能性があるからです。


難しいとは思いますが福音にあたり、ぜひ実行してみて欲しいです。


と言っても勘違いをしてはいけないのは
聖人でもない私達が格好つけて聖人ぶれと言っているわけではありません。


政治家が偉ぶるように、聖職者が聖人ぶるように
そんな振る舞いなど必要は無いと言うことです。


理解してもらいたい方にその想いが届くような
魂の篭った言葉で理解を求める様に勤めて欲しいということです。


同じ創造主の分身として存在しているわけですし
資質のある方には間違いなくその言葉は届くはずです。


逆に言えば想いを込めても届かない方は仕方がないと思います。


創造主の意識をまったく感じられなくなっている。。。
そんな可能性も今の時代ではあるのかもしれません。


格好つけて奇麗事を語る偽善者の様にではなくて
自分の真摯な想いを伝えられる術を意識して欲しいと思います。

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ここでヤコブも”創造主の想い”について
取り上げています。


【苦いねたみと敵対心  のようなは知恵は、上から来たものではなく、
地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。】


と表現してもいます。


私の過去記事を読んでくれている方は判る様に、
ここで言う”地”とは”天”との比較で使用される言葉で


”天”が天国とすれば”地”はこの地球社会、
もしくは”地獄”をさしている言葉だと認識すれば良いと思います。


天は天使達のやってくる場所の象徴でもありますし、
地は私達の住む地上の象徴でもあります。


同様に”肉”は”御霊”の対極にある存在としての表現で、
”御霊”は神の想い、つまりは私達の”魂”を示す言葉で


”肉”は肉体としての機能である脳つまり”心”をしめす言葉だと
受け止めて頂ければ良いと思います。


聖書での”肉”は本能の象徴でもありますし
同様に”御霊”は神の意志の象徴でもありました。


”悪霊”とあるのは”聖霊”の対極にある言葉で
聖霊を”創造主の意識から来る良きエネルギー”とすれば


”悪霊”は私達のエゴから来る悪しきエネルギーと理解できます。


つまりそれらは”良き想念”と”悪き想念”の
象徴であると認識してください。


聖書では”悪霊払い”の記述がありますが、


昔の人間が、病や不幸が悪霊の所為だと認識していたので
それに併せて天使達が応対していた、


もしくは一部は改竄と捉えて間違いないはずです。


悪霊は私達の持つ悪い想念の象徴と理解してください。


それは時には他人を病へと導き不幸にも陥れるものです。


ところでヤコブが取り上げている
”ねたみ”や”敵対心”は一体どんな心の働きが
作り上げているものなのでしょうか。


勿論、ヤコブはここで、悪しき想念の具体的な例として
”妬み”と”敵対心”を取り上げているわけであって
それが悪意の全てではありません。


”ねたみ”に関しては私の過去記事


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11408848789.html
創造主の意識 誰もが特別


にも取り上げたように、
私達の心が自尊心を強く意識している事とは
無関係ではないと思います。


私達は誰もが自分の進化を意識して生きる事が出来れば
そんな想いを持つ事もなくなるはずですが、


妬みや羨望は、私達の心が自分が可愛いゆえに、


そしてこの社会では特定の能力が高い事でちやほやされて
心が心地良い想いをする事があるゆえに、


それを心が強く求める事の裏返しだと思います。


誰もが賛美されたいと願えば、特定分野で自分よりも
優れて見えるものを羨む事も出てくるでしょうし

それが時には”ねたみ”に繋がると思います。


褒め称えられるのは常にその場で”一番”の存在だからです。


本来私達の持つべき意識は、自分よりも優れた何らかの資質を見つけたならば
そこから学ぶように勤めることだと思います。


私達は協力しながら進化を果たすことを
求められている存在だからです。


しかし現実には私達の社会では自分よりも優れた資質を羨望し
時にはそれを”妬み”それを陥れることで
自分の心のエゴを満足させることもあります。


しかし本来私達はこの生において進化こそを
意識しなければならないのですから、


その意識は他人を羨む事ではなくて
自らの成長にこそ向けられなければならないはずです。


その意味では私達の社会は私達の意識の向いている方向が正反対であり、
私達の想いの多くが”心”から出ている事も、


それを持って生きる事が私達の成長を妨げる事になっている事も
明らかだと思います。


ヤコブはそれを指摘しているのではないでしょうか。


一方争いの原因としては、私達の持つ好き嫌いの意識が
何よりも大きな原因となっているとおもいます。


誰もが好きな人とは争わないように、
そこには私達が心に持つ好き嫌いの感情、


つまりは心が持っている、
その対象を心地良く感じるか不快に感じるかと言った意識が
その原因のひとつだと思います。


私達の心は不快な思いをしたくはないという事が
その根底にあるのだと思います。


そして同時に心が心地よい状態に保たれる事を願ってもいます。


嫌いな物は見ないように、関わらないように勤めるでしょうし
好きな物とは触れ合いたいし、身近にも置きたいと願うことでしょう。


そんな感情が強くなれば攻撃的な人間であれば
嫌いな物を敵と看做してそれを攻撃することで
自分の心が心地よく感じるかもしれません。


私達の四つの感覚器官が
理解を求めて調和を果たすのではなくて


好き嫌いで物事を裁いては
分離を続けている事の弊害と言えます。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11410483447.html
創造主の意識  理解と調和


そしてヤコブは言っています。


【ねたみや敵対心のあるところには、
秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。】


そしてその言葉どおりに、
そんな意識で溢れているこの社会は見事に乱れてもいるのです。


好き嫌いは分裂を生みますし、


敵対心は争いを生みますし


争いは時には破壊をも生み出します。


そんな行為の全ては私達の魂でもある創造主の意識には存在していないもの。


つまりは創造主の意識を”聖”と例えれば
”邪悪”と表現される事になるのだと思います。


【上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、
また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。】


そしてヤコブは上からの知恵、天使達からの知恵?もしくは
創造主の意識として、


純真、平和、寛容、温順、哀れみをあげています。


”純真”に関してはイエスキリストが触れていた
「幼子のような心でなければ天の国に入ることが出来ない」


という言葉にもあるように、私達が求められている心のあり方で、


それを行動や動機で考えれば、


例えば損得で物事を思考する事を知らない幼子は、
心に作り上げた悪しき想いを行動の動機とすることはありません。


つまり純真であることは
その動機に対しても強く反映されるものだと言うことです。


「大人になれ」とこの社会ではよく口にする人がいますが
その時の大人になる事の意味が
「寛容になれ」と言う意味であればそれは正しいと思いますが


「汚いことを見て見ぬ振りをしろ」とか
「濁った社会に調和しろ」

と言うことになればそれは明らかに誤りで


私達はこの社会の表現する”大人”になる事で
学べるものと失うものがある事に気がつくべきです。


そして平和、寛容、温順、哀れみですが、
それらは特定の人間にだけ向けられるものではなくて


創造主の法の根底に存在している魂の意識は
全体を意識してのものです。


特定の範囲や組織の内部だけに向けられるのではなくて
そのような意識は誰に対しても同様に向けられるべきものであるということ。


ヤコブはここでは、
「それは言葉だけでなくて、心からの行動をも伴うものである」
と語っているのではないでしょうか。


【義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。】


そしてそんな意識を持つことの出来る人間こそが
この社会に平和の種を蒔くことが出来るのだと
触れているのだと思います。


私達の生活を意識の面から改善できるのは
肉の想いに従って生きている人間ではありえません。


先述の様に良い実は良い木からこそ成るのですし
良い木は良い種からこそ育つからです。


自分の損得を考えることのない純粋に社会全体を想う気持ちが
良き種であり良き言葉であって


それがこの社会を平和に導くのだと思います。


心のエゴに囚われている人間の持っている意識は肉の想いです。


肉の想いから良い木は育つ事もなければ
良い実を結ばせる事も出来ないのは、この社会を見ていれば判るはずです。


”良い実”と表現しているあらゆる”結果”は
私達の魂の想いからこそ出来上がるものです。


この社会に平和を齎すのも、調和を齎すのも、

この社会を慈愛で満たすのも、
全ては私達の魂からでてくる想いではないでしょうか。


それは自分の心の心地良さや自己満足を考えてではなくて
純粋に全体の改善を願う想いが具現化されるものだからです。


自分の私利私欲に拘り、それを想いとして発されている人間が
全体を改善できないのは


その動機が個人的な意識に根ざしている
自分の心のおかれている状態の改善であり、


全ての物事の改善ではないからです。


そして、「平和を作る人間によって蒔かれる」と例えられた
そんな想いを持つ人間こそがこの社会を変えていく事が出来る。


兄弟姉妹皆の想いこそが
この社会を変えうるのだと言う事を忘れないで欲しいです。


【地球人の苦悩を光の前の暗黒の様に消すために
宇宙の創造主を地球の道しるべにしよう】


半ば諦めた意識を持っていますが、
未だ残されているかもしれない数少ない理解者の覚醒を信じて
私達は残りの生でも奉仕を続けて行きましょう。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】



http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11330640319.html
続・宇宙の法則 VOL7 イエスの奥義後編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11329829392.html
続・宇宙の法則 VOL6 イエスの奥義前編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11225509554.html
聖書のイエスキリストの奥義
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11213133076.html
宗教を作り上げたのは人間の心
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10989130280.html
真訳聖書VOL1
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真訳聖書VOL2
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真訳聖書VOL3
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真訳聖書VOL4
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10990857361.html
真訳聖書VOL5
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11018722428.html
真訳聖書VOL6
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11092572275.html
真訳聖書VOL7
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11093807513.html
真訳聖書VOL8
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11087949342.html
真訳聖書VOL9
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11088762180.html
真訳聖書VOL10
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11092802564.html
真訳聖書VOL11聖書の精霊
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真訳聖書VOL12
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11121255900.html
真訳聖書VOL13
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11072330451.html
真訳聖書VOL14
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真訳聖書VOL15
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11097526343.html
真訳聖書VOL16
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11098560360.html
真訳聖書VOL17
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11098561985.html
真訳聖書VOL18
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真訳聖書VOL19
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11100280561.html
真訳聖書VOL20
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11153013419.html
真訳聖書VOL21
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11153008270.html
真訳聖書VOL22
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11153007545.html
真訳聖書VOL23
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11153006971.html
真訳聖書VOL24
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11225946064.html
真訳聖書VOL25