クリスマス・イブにて | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


今日と明日はイエスキリストに関しての記事にします。



思考能力を落とされた状態で
”何とか書いた記事”という感じですが
勘弁してくださいね。


アダムスキーの奥さんの転生と言われた少女は
写真を写される事を断ったそうです。


一番の理由は其の写真を誰かが見た時に其の想いが自分の元へと届き、
そちらに意識を持っていかれるからということでした。


増して生前の彼女を知っている方の想いは
強く彼女へと届くことになる事でしょう。


それはまだ進化の状態が安定していない彼女には
負担になるのだと言う事だったと思います。


其の話は彼らの想念の受送信の能力は桁違いだと言うことを
髣髴させるエピソードでもありました。


と言うことは地球社会の大勢の人間が
イエスキリストを想う事になるこの二日間は、
オーソンさんは大変な事になっているのだと思います。


イエスキリストを想う私達の意識を
オーソンさんは山ほど受け止め続けることになるのでしょうね。


でもそんなにも沢山の想いを受けることになる
オーソンさんの事が少し羨ましくも感じてしまいます。


心を持ってです。(苦笑)


地球社会の中では自分の誕生日も祝って貰えない人間もいるのですし、

存在自体を忌み嫌われる私のような人間もいるのです。


そしてそんなに沢山の人間からの愛情や尊敬を受け止める事など
地球社会の一般人の私達にはありえません。


2000年たった今でさえ其の存在感は消える事がない。。。


それだけ偉大な事をイエスキリストは成し遂げたのだと思います。


判る人には判るイエスキリストの偉大さのなせる業です。


真のイエスの使徒はオーソンさんを困らせるようなお願い事ではなくて
ひたすら労いと尊敬の想いでも送って欲しいです。


とりわけ私達を覚醒へと導いてくれた事に対しては
しっかりと感謝して下さいね。


私達の場合は勿論オーソンさんだけでなくて、
アダムスキーさん、そして天使達皆に対しても同様にです。


イエスキリストは偉大なる指導者であり聖人であり
私達地球社会の守護者ですが、


その縁の下の力持ちとしての多くの天使達に対しても
私達だけでも感謝しましょう。


この社会を見守ってくれているのは太陽系の大勢の人間達、
そして其の有志としてのブラザーズ達でもあるからです。


(自分達の祖先だって其の中にいるかもしれません)

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現ローマ法王がどんなつもりで語ったかは判りませんが、
明日出そうとしていたアダムスキーのクリスマスのコメントの趣旨を
先に告げてくれていました。

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「クリスマス、深く内省を」 ローマ法王、経済紙に寄稿


 【ローマ=石田博士】世界的な金融危機の中、
ローマ法王ベネディクト16世は20日付の英フィナンシャル・タイムズ紙に寄稿し、
クリスマスという機会に社会の課題と向き合って内省するよう呼びかけた。
経済紙への法王の寄稿は極めて異例だ。


 法王は「クリスマスには聖書を読んで学ぶべきだ。
政治や株式市場など俗世のできごとにどう関わるべきかの啓示は、
聖書の中に見つけられる」とし、


「貧困と闘わなければならない。
資源を公平に分かち合い、弱者を助けなければならない。
強欲や搾取には反対すべきだ」と呼びかけた。


 また今年を「多くの人にとって経済的に苦しかった年」と記し、
「クリスマスはとても楽しいが、同時に深く内省すべき時でもある。
私たちは(キリストが生まれた)つつましく貧しい馬小屋の光景から
何を学べるだろう」とつづった。


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私達が普段意識して学んでいるような内容を
現ローマ法王が語っています。


バチカンと言う真理を知りながらそれを隠し続けている組織の立場を
正しく理解できる私達にして見れば、


これが偽善なのか、それとも心からの言葉なのかの
真意が気になりますが、


どんな意識を持ってこの事に触れたにしても
そこで語られている内容は創造主の法に照らして
正しいものだと思います。


この言葉に追従する様に、
今日はイエスキリストの聖書の言葉を再び引用して
それを皆で学んで見たいと思います。


その中でも私達ならば理解できる創造主の法について、
その動きが私達に具体的にどんな働きかけをするのかを


イエスキリストが自分の言葉で語っていると思われる箇所を
再び取り上げて見ます。


私達が理解すべきイエスキリストの教えと
私達の社会が現に実行しているイエスの教えが


この点でも確実にイエスの想いとは異なっているとはっきり理解できる一節で、
私が過去にも何度も取り上げてきた箇所でもあります。


そしてイエスキリストが触れている内容が創造主の法則である事も
ここからははっきりと認識する事もできる筈です。


私達の社会が正しくイエスの教えを理解しているのであれば
ここまでお金や物に拘った世の中など作り上げる事はありませんでした。


もしくは、その社会の中においてそんな風潮に慣れ親しんで
お金に仕えるような事はなかったはずです。


お金に対する執着や、そこから派生する
経済社会に生きる私達の物と心に囚われた生活。


イエスキリストは私達の将来の心の価値観の変貌を
そこまで予想して、この事を私達に警告していたのだと思います。


イエスキリストは、2000年前の社会の中において、
創造主の法を理解しそれを実践するために


私達にとっての一番の障害となりそうだったものが
お金であり、物欲であり、お金中心に動く社会だと言う事を予見しては
その事を私達に対して警告していたのだと思います。


私達はその記述を聖書の中に見出しながらも
それの意味する内容を正しく理解してはいない、


もしくは自分達の心の価値観を正当化するために
その記述を無視してきたのではないでしょうか。


イエスキリストが神であろうがなかろうが、
イエスを神と信じようが信じまいが
私達の心に与える影響は無関係です。


イエスキリストは

「私を主よ主よと称える人間が皆、天の国に行くのではなくて
御心を実践する人間が天の国に入るのです」


とも語っていたはずです。


自分達に都合の良い記述だけを引用して
イエスキリストを信じて信仰しても、
それは私達の魂の進化にはつながる事もありません。


私達は進化しなければ永遠の命(記憶を持った転生)など
手に入れる事は出来ないからです。


そしてイエスキリストの求めているのは
物質的な豊かさや安定ではなくて、


心の豊かさであり、創造主の法に従う姿勢である事が
この引用からも判るはずです。


物質的な豊かさに拘る事で
私達は心の豊かさを捨て去る事になる。


イエスが


「私達は神とお金の両方に仕える事はできない」


と語ったその趣旨を、クリスマスイブの日に聖書を通じて
かみ締めて見て欲しいと思います。


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誰も、二人の主人に仕える事はできません。
一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。
貴方がたは神にも仕え、また富にも仕えるという事はできません。


だから、私は貴方がたに言います。自分の命のことで、何を食べようか
、何を飲もうかと心配したり、また、体のことで、
何を着ようかと心配したりしてはいけません。


命は食べ物より大切なもの、体は着物より大切なものではありませんか。


空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。


けれども、貴方がたの天の父がこれを養っていてくださるのです。
貴方がたは、鳥よりも、もっと優れたものではありませんか。


貴方がたのうち誰が、心配したからといって、
自分の命を少しでも延ばす事ができますか。


なぜ着物のことで心配するのですか。
野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。
働きもせず、紡ぎもしません。


しかし、私は貴方がたに言います。
栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。


今日あっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、
神はこれほどに装ってくださるのだから、まして貴方がたに、
良くしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。


そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、
などと言って心配するのはやめなさい。


こういうものは皆、異邦人が切に求めているものなのです。
しかし、貴方がたの天の父は、それが皆貴方がたに必要である事を知っておられます。


だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらの物は全て与えられます。


だから、明日のための心配は無用です。
明日のことはあすが心配します


労苦はその日その日に、十分あります。
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【貴方がたは神にも仕え、また富にも仕えるという事はできません。】


イエスキリストは富、そしてお金と言うものを
私達の魂の進化の妨げになるものとして捉えていたはずです。


お金は富の代用品としても機能します。

富をお金に換えて持つことで腐らせずに保管することもできます。


本来多くを持つ人間は、
食べきれないほどの食材を蓄えて腐らすくらいなら
他人に分け与えようと言う意識にもなりそうなものですが、


それをお金に換えて持つことで蓄財する事も可能となり、
他人に分け与えることなく自分の財として所有できるわけですから
持つものにとってはお金は便利なものでもあります。


更にお金が存在すると言う事は、それを蓄える行為だけでなくて
所有と言う概念をも進める原因にもなります。


お金があればものを自分占有のものとして
従属させることができるからです。


それが奴隷であっても家畜であっても
家具や家財であってもです。


一方では所有の無制限を進めていたのがサタンの会派ですから


創造主の恵みである自然にしても
それが誰かの所有となり他の人間は
そこからの恩恵をも受けることができなくなります。


更にはそれを神への寄進として受け取った人間達は
神の代理人と称してそれを蓄財する事にもつながりました。


彼らはそこで肥え太ったのです。


私達の心が安定を心地良いと願えば、
蓄財は私達の心の欲をも揺り動かす原因にもなります。


他人が貧しい想いをしていようが見向きもせずに、
自分の心の安定を私達は優先したのです。


富やお金が沢山あればあるほど
私達は生活に不安を感じなくて済むのですし、


あればあるほど心が心地よく感じるような
生活を送ることもできます。


そして当時のユダヤ教社会でも、
富を多く持っている人間達が創造主の意識からかけ離れている実態を
イエスキリストは強く認識していたはずです。


既存の勢力であったパリサイ派の人間達は
お金と富と権力を持って君臨していました。


そして多くのお金持ちも彼らと同様に富と権力を有し、
その状態に心の心地良さを感じ、


形式的な戒律を守る一方で、
心のあり方をなおざりにする生活を送っていたはずです。


そして社会風潮は権力者と金持ちによって作り上げられる事になります。


貧しい一般市民はそれに従って生きる事になったはずです。


平等と言う概念はそこには存在せず、
権力とお金で多くの人間を従えている人間達が特権階級を形成し、


しかも一部の人間達はその上に
自分達を”神の使い”であるかのように振舞ってもいました。


イエスキリストはそんな社会のあり方が
おかしい事を指摘していました。


お金や物に囚われながらも、まるで聖人の様に振る舞い
表ばっての形式ばかりを重視している人間達を批判し


大切なのは心のあり方であり、
そのためにもお金や物に囚われる事は精神の進化の障害でしかないと
私達に教えてくれていたのです。


お金や富が人間の中に上下関係を作り上げ、
貧困と富裕の分離を生み出し、


さらには富が貪欲を、貧困が明日の生活に対する不安までをも
生み出す事をイエスキリストは見通していて、


それが創造主の法に置いては進化の妨げになる事を
私達に告げていたのだと思います。


【私は貴方がたに言います。自分の命のことで、何を食べようか
何を飲もうかと心配したり、また、体のことで、
何を着ようかと心配したりしてはいけません。】


これは料理の献立を考えてはいけないとか
明日何を着て出かけようかと考えてはいけないと言う意味ではありません。


蓄えを持たない人間が明日の食事を心配したり
着るべき衣服の心配をする行為は


結果的には私達に命を維持するための不安を
感じさせる事になります。


先を思い悩む事で、十分な蓄えを持っている人間は、
更なる心の安定を求めてもっと蓄えを欲しがるようになるかもしれませんし、


十分な備えを持っていない人間は
蓄えや余裕を欲しいと願うようになると思います。


十分な蓄えを持つ事で明日食べるものや着るものを
心配する必要がなくなるからです。


しかしこの社会は、誰もに必要なものが
行きわたるような社会ではなくなってもいます。


その中で蓄えを求める意識は強まることになりますが、


一方ではそんな意識を持つことは不安や欲に心を動かす事に繋がりますし、
現実社会の風潮に囚われている事にもなります。


その心の思いを満たすためには
その社会の秩序に従う事が必要ともなりますし


出来上がっている社会の秩序が間違っていれば
私達は間違った法則に従う事にもつながります。


明日の事を考えれば考えるほど
私達は不安を高める事になりますし


高まった不安は安定を求めるために、
今度はお金を欲しがるようにも誘導される事になります。


結果私達は心のあり方ではなくて、
物質的な物を重視しているその社会の価値観に
囚われる事にもなるのです。


それが創造主の法からかけ離れた意識である事を
イエスキリストは理解していたからこそ、


生活の事を意識して将来に不安を感じるような行為は
やめなさいと触れたのだと思います。


ただ、現実的に今の社会では
「私達が創造主の法に従う事で必要なものが与えられる」


という状況は
この社会の中では難しくなっていると思います。


お金で何から何まで行動を規制され、
自然さえも他の人間によって所有されるこの社会の中では


創造主の自然の恵みさえも
持つものによって独占される事になっているからです。


自然から食材を手に入れることも困難ですし、
自ら食材を作るには今度は田畑も必要です。


結局はお金や財産が必要となってくるのです。


【空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。


けれども、貴方がたの天の父がこれを養っていてくださるのです。
貴方がたは、鳥よりも、もっと優れたものではありませんか。】


「創造主の法則が私達万物が生命を与えられ生きていくために必要な
すべてのものを全てこの世に創造してくれていて


その法則に従っていく事で私達はそこから糧を受けて
生きていく事ができる」


と言うのが本来の創造主の法の元で
実現されるべき社会です。


鳥や動物は自分で種を蒔いたり、刈り入れをしたりする事なくても
生きているために必要な恵みを自然の中から与えられます。


彼らも勿論、創造主の法に従っているわけですし
私達が自由意志や心と呼んでいるものを殆ど持っていない彼らは、


魂こそを意識の経路の中心として生きていて
ある意味では本能的でもあります。


でも本能的でありながらも一方では神の意識に従っているからこそ

万物との調和、自分の与えらているこの世での役割を果たしているからこそ、
彼らは自分達の生活の糧を創造主から与えられ続ける事になっている。。


勿論、人間が環境崩壊を進め、
彼らの得る事になる自然からの恵みをもたらす環境を
破壊している状況では話は別です。


彼らはその恵みを受ける事が出来ないために
人間社会の作り上げた恵みを求めて田畑に下りてきては
私達人間から奪うような事にもなっていくのだと思います。


私達の自然を無視した生き方が
万物との調和を無視した生き方が
結果的には自分達の社会に跳ね返っていることになります。


勿論災いを作り上げている人間と
その被害を受ける人間とが異なると言う
不条理も存在しています。


そして本来、労働している様には見えない彼らが養われているのも、
実はそれぞれが独自の役目を持って存在していて
創造主の意志に従っているからこそだと思います。


蜂であれば自然界で授粉を助け自然の恵みを生み出す過程に
協力しているように、


鳥だって木の実を食べてその種を
今度は別のところで糞と言う形で排泄しては
新たな生命の創造に協力している事にもなります。
(肥料と種を蒔いているようなものですね)


人間であれば自分達のためにしか蒔かない種を
彼らは自然のために蒔いている事にもなります。


彼らは創造主の法の波にしっかりと乗って生きているのです。


そして、もしも私達人間が創造主の法に従って生きているのならば


私達が生きるために必要な糧は
自然と与えられる事になるはずだとイエスキリストは
主張したいのだと思います。


誰もが生きて行くことに困ることはないだけの
十分なものが与えられることになる。


そして現実にそんな社会を天使達は実現しているのです。


万物と調和をしながらも、一方では
人々の間では互いに助け合い暮らすような社会が実現できていれば


自然も十分な恵みを私達に与えてくれる事になりますし
作り上げた富を皆で分かち合えば
誰もが食べる事に困る事にも成らないはずです。


創造主の法則は、間違いなく私達の明日の糧をも
全ての人間に対して保障するものとなっているはずなのです。


しかし現実はそうではなくなっています。


その原因を作り上げているのはお金をその起源とする、
人間間の不平等な環境や貧富の差、


自然をも食い物にしてはそこから奪うことばかりを意識する
私達の心無い想い。


さらには人間が心の価値観で作り上げた社会の悪影響です。


限られた食料や富を独占する人間がいれば、
それを手に入れる事の出来ない人間も出てきます。


そしてその食料や富を手に入れる手段がお金と言う事になれば
そこには独自の法則が働いている事にもなります。


人が作り上げなくても実る様な木の恵みもありますが、
山に成っているミカン一つとって食べても
山が他人の所有物であればそれは犯罪行為となってしまいます。


キノコにしても同様です。


私達の社会は自然環境でさえも人間によって所有されていて
神からの恵みには所有権がつけられているからです。


そのために私達の社会は創造主の法が正しく機能しない
そんな世界へと変貌してもいるのです。


本来他の生物にはできない、
自然と動物と人間社会との共存と調和という目的を与えられ


それに従って生きる事が求められているはずの私たちが
自らのエゴと欲と本能のために
調和と共存の破壊者と成り下がっている。


そんな中で創造主の法を語れば今度は淘汰の対象にまでされる。


この社会を動かしているのは創造主の法ではなくて
サタンの法に他なりません。


【貴方がたのうち誰が、心配したからといって、
自分の命を少しでも延ばす事ができますか。】


これはイエスキリストやヤコブが触れていた
「誓ってはならない」と表現した内容にもつながります。


偉そうな事を言ってみても、
私達は自分の白くなった髪の毛を黒くする事さえ出来ない存在です。
(白髪染めがあるなどとはいわないでください)


つまり私達はこの社会を作り上げた創造主の法則に対して
抵抗する事は出来ないちっぽけな存在なのです。


そんな人間が心配をしたからといって
自分の命を延ばす事も出来ないわけですし、


私達は本来この世界の法則に対して何の力も持たない存在です。


そして心配する事で物事が解決するわけでなく
心配すればするだけ不安は大きなものとなります。


負の想念を蓄える事で私達の意識は
ますます心に囚われる事になるだけで
その不安が解消される事には繋がらないのですから


心配すると言う行為が、私達の意識を
ますます創造主の意識から遠ざける事にもなります。


私達は明日に不安と感じるものがあるならば
それを不安として感じるのではなくて
今行動する事でそれを改善する位の意識を持つべきなのでしょうし


大切なのは明日を思い悩む事ではなくて
今を生きる事だと言う趣旨でもあると思います。


【栄華を窮めたソロモンでさえ、
このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。】


創造主の表現としてのフォームである花は
何を付け足される事なくても十分に美しく
金持ちで着飾っている人間であってもそれに勝るものではない。


そんな表現をする事で、私達が着飾る事に重きを置いて
そこに価値を感じている事への批判をもしているのだと思います。


私達人間の価値は着飾っている服で決まるものではなくて
そんな物は心のエゴを自己満足させるだけのものであり何の価値も持たない。


そして着飾る事なくても、私達の本来の姿は
そのままで完璧であると言うのが

天使達のマスターの言葉でもあります。


私達は視覚に囚われて、
本来価値のないものに価値を求める風潮をも作り上げている。


そんな傾向に対するイエスキリストの警告でもあると思います。


既存の社会の中のブランド志向等はその誤った傾向の
最たるものではないでしょうか。


見た目で他人を判断する傾向が強いのも、
着る物の価値に重きを置いている証拠でもあります。


そして人間の内面よりも
肉体を着飾った上辺の姿に価値観に重きを置いているのが
今の社会での実態でもあります。


【貴方がたの天の父は、それが皆貴方がたに必要である事を知っておられます。


だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらの物は全て与えられます】


私達が求めるものはお金や物や
エゴとしての心の安定を満たすためのものではなくて
真理であり、神の国である。。。


”神の国”は私達にとっては本当の進化の始まりであり
永遠を認識する事になるきっかけである事はいうまでもありません。


肉体を持っているがゆえに囚われる事になる価値観や
肉の想いと称される心のエゴや本能に従うのではなくて
それを克服して創造主の法へと立ち返る事こそが求められていて


その生き方を選択し実行する事で
全ては自ずと与えられる事になるのだと
イエスキリストは教えてくれているのです。


今の私達の社会の人間の殆どは、神になど仕えてはいません。


お金と物に仕え続け、その中でエゴとしての価値観を増幅し続け、
その価値観にどっぷりと浸っていると思います。


しかしそれではいけない事に気がついている私達人間は
そんな自分の生き方を正当化するために、
そしてそんな自分が天国にいけるのだと信じたいがために、


宗教を信仰している自分が創造主に従っていると思い込む事で
自分の心を安心させているのではないでしょうか。


自分が正しい生き方をしていない事を認める事が出来ず、
それを正当化することで自分の心の不安を取り除くためにこそ
イエスの教えや神は信仰されている。


私にはそんな実態があるような気がします。


お金に仕えている私達が創造主に仕える事が出来ているわけがないのです。

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イエスキリストは馬小屋の中で生まれたといわれています。


今から考えればそれは貧乏や貧しさの象徴であり
そこからは豊かさを感じる事も出来ないかもしれません。


しかしそこで生を受けたイエスキリストは
溢れるほどの心の豊かさを持っている存在だったはずです。


自分には何の得も無い生を受けては、
私達を導くためにだけ其の人生を費やした存在。


そしてイエスキリストの様な聖人が生まれたのは
物質的豊かさの中ではなかったと言う事を私達は認識すべきなのです。


私達が求めるべき真の豊かさは
物質的なものではなくて心の想いの豊かさにこそ存在する。


天使達の救世主誕生の演出には、
そんな意味も込められているのかもしれません。


多くの人間の魂には響く事の無くなった
イエスキリストの真摯な想いですが、


自称イエスの使徒である私の兄弟姉妹達だけでも、
クリスマスの中のひと時で良いので、それを意識して過ごして欲しいです。


天使達は今この瞬間も私達の社会のことを
想ってくれているはずです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】