クリスマスにイエスキリストを想って | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。



満月の近いこの時期、皆はしっかりと力を受け止めて
魂への意識の経路をより強く感じるように
勤めて欲しいです。


希望のBGMはジョンレノンのHAPPY XMASです。



希望のBGMはジョンレノンのHAPPY XMASです。


私も自称イエスの使徒だけあって
クリスマスというイエスキリストの誕生を祝うとされているこの時期は
毎年気分が高まってくるのを感じていました。


私の場合はイエスの誕生を喜んでいたのではなくて
その時期に誰もが楽しそうに見えることで
この社会がとても明るくなって感じる事が嬉しかったのだと思います。


お祭りとどこか似ているその気配が
私達の心に暖かいものを感じさせる機会となっている。。。


お祭りごとが好きな人は、おそらくは自分が楽しんでいると言うよりも
皆が楽しんでいる姿を見ては、それで自分まで嬉しくなっていくような
そんな体験をしているのだと思います。


そしてこの期間はクリスマスの後には正月が控えていますし、
それがクリスマスを一段と盛り上げているのでしょうね。


世界の誰もが一同に喜びに包まれる数少ない機会。


今年も出来るだけ多くの方が笑って正月を迎えて欲しいと思います。


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生まれ変わりの話をすれば、
日本と言う、キリスト教とは縁の少ないところに生まれていながら
クリスマスに執着がある方は、


前世はクリスチャンだったとか
キリスト教に縁があった人かもしれませんね。


私は不思議とお気に入りの映画も
そんなクリスマスがらみのものも多いですし
クリスマスに思い入れがあるようなので


キリスト教とは無縁な人間ではないと想像しています。


ただ、日本でのクリスマスがイエスの誕生日を祝うのではなくて
プレゼント商戦になっていたり、
恋愛の関が原になっている事は少々興ざめではあります。


でも、そんな自分の思春期の夢は
”雪の降るクリスマスの夜を最愛の人と歩くこと”でしたし


今の日本の中の風潮と
似たような意識だった事も間違いありません。


私も成長はしているのですよね。


そして今はイエスキリストの誕生日とされているその日を
皆が祝っているように”見える”事を喜べるようになりました。


一部の人間が、クリスマスは悪魔を祝福することに
利用されているのだと主張しています。


それはある意味間違いではないと思います。


悪魔崇拝というよりは、想念の持つ意味から考えれば
本来持つべきであろう神聖な意識を、
プレゼント授受という物欲的なイメージへと移行されていること。


そしてサンタクロースというありがたい?
プレゼントを贈ってくれると言う存在が


イエスキリストからクリスマスの主役の座を奪っている
と言う事の意味ではまさしく其の通りだと思います。


でも彼らは気がついていません。


大人はともかく、
子供の純粋な喜びは、物欲兼ねてであったとしても
限りなく創造主の意志による”喜び”に近いものであると言うことをです。


其の日の多くの喜びは、イエスを祝福する人間の想いと
共振してくれることでしょう。


私達多くの人が喜びを感じることになる、
一年の中でも数少ない機会となっていると思います。

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アダムスキーのクリスマスのメッセージを紹介します。


来るべき1963年を迎える直前で、
サイレンスグループ(闇政府)の妨害工作に圧されながらも
二人の偉大な人物の成し遂げてくれるであろう改革を予期して


私達一般市民に新年に向けて持つべき決意を
告げた内容だと想像していました。


そしておそらくは身近にオーソンさんを感じながら、
その謙虚な姿を思い浮かべて、


私達の地球の守護者としてあり続けてきたその存在にこそ
私達は学ばねばならないと言いたかったのではないでしょうか。


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クリスマスのメッセージ


 今年またこの時期にわれわれは一九六二回目のキリストの誕生を祝います。


しかし私は今度のクリスマスも、あのキリストなる幼児を
銀や黄金とひきかえに勘定台の上で売っていた過去と
なんら異なるものではないだろうと思います。


あの”謙虚な誕生”を各人の心のなかに起こさしめるほどに
人間の誰もが謙虚になるのはいつのことでしょう。


しかし人間が謙虚になることこそ
キリストが生まれてきた目的を遂行することになると思います。


どうぞ地上に平和がもたらされて、皮膚の色のいかんにかかわらず、
万人に親切さがゆきわたりますように。


 キリストという意味を昔の人々の日常生活の土台にしようとして、
当時の指導者がやったように、クリスマスの日にいったいどれだけの人が
貧しいカイバおけの前に立ってみることでしょう


多くの人は言葉でいうことはやさしいが、
実行するのはむつかしいと言うかもしれません。


しかも戦争をするための努力、不愉快な物事、自己満足などのためになされる決心が、
カイバおけの前に立ってみようという努力のためにおきかえられるならば、
やがて地上には天国が出現するでしょう。


 新しい年の始めには多くの人が決心をしますけれども、
それはめったに長続きしません。なぜでしょうか。


それはこうした決心が人為的なわざとらしいものであって、
しっかりと植えつけられていないからです。


根づよく植えつけられている人は人為的な支えを必要としません。
その人はいかなる逆境にも耐えるほどに強いからです。


岩の上に建てられている家はいかなる嵐にも耐えますが、
くずれやすい砂の上の家はこわれがちです。


 そこで来たる六三年こそは私たちを
一体化された人類という岩の上に築こうではありませんか。


そうすれば弱い建築のつっかい棒にすぎない”ヘつらい”や”おせじ”
を求めて生きる必要はありません。


その場所には疑惑や恐怖のかわりに信念と信頼をおこうではありませんか。
そうすれば私たちは自己の外に絶えず新しさを見ることになるでしょう。

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私達の社会でのクリスマスといわれる日は
イエスキリストの本当の誕生日ではないと言われていますが
そんな事は問題ではないと思います。


ユダヤ思想に置き換えられた私達一般市民にしてみれば
今ではクリスマスが、サンタがプレゼントを届けてくれるという
私達の物欲を満たす日であったとしても、


私達が本来この日に感じるべきは、この社会を改善するために、
何度となくこの地球に転生を繰り返しその度に”予言”をしては
それを成就し続けてくれた偉大な魂に感謝する気持ちだと思います。


彼らはこの社会を放置しておくことも出来ました。


私達の文明が勝手に核兵器で殺し合い滅んでいくのを
ただ、傍観することも出来ました。


それ以前に、イエスの2000年前の出現がなければ
文明の崩壊がとっくの昔に来ていて
今の文明は存続していなかったかもしれません。


でも彼らは私達の社会の人間が苦しんでいる姿を
放置することはありませんでした。


それを為しても感謝される事もありませんでしたし、
邪魔者扱いされて追い出されても
彼らは未だ私達の社会の事を想っています。


その証拠に私達が覚醒しているのですから。


彼らは何の見返りも求めることなく
純粋にこの地球社会を案じ続けてくれています。


そして彼らが私達に対してしている事は
創造主の意志がそうであるように無償の奉仕に他ならないのです。


彼らは時には自分を十字架に貼り付けて殺した人間達のために祈り、
そして私達の社会の改善を今でも信じ続けてくれているはずです。


私達はそんな彼らの思いを理解するどころか
未だに分割や闘争をやめようとはしません。


しかしアダムスキーがここでも触れているように
私達はエゴに増徴された心を持って暴走するのではなくて


もっと謙虚さを身に着けることで
自分の意識を変えていく事も出来るはずです。


私達も彼ら天使達と同じ
創造主の分身としての魂を持っているからです。


イエスキリストの誕生の時の天使達の様子を
聖書から引用してみます。


聖書は、天使達が私達の社会の中で御遣いを演じ
私達を導いてきた歴史の書でもあります。


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さて、この土地に、羊飼い達が、
野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。


すると、主の使いが彼らのところに来て、
主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。


御使いは彼らに言った。
「恐れることはありません。今、私はこの民全体のための
すばらしい喜びを知らせに来たのです。


きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです。


あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。
これが、あなたがたのためのしるしです。」


すると、たちまち、その御使いといっしょに、
多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。


「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」


御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。


「さあ、ベツレヘムに行って、
主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」


そして急いで行って、マリヤとヨセフと、
飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。


それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。


それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。


しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。


羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、
神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

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天使に翼を生やして、頭にワッカをつけたりしなければ
ここでの記述の内容も、もっと現実的に理解できると思います。


羊飼いを照らしたのは主の栄光と言っても
それは宇宙船から齎される光ですし


御使い達と一緒に現れた天の軍勢と言うのは
多くの宇宙船が天空を満たしていた事の表現だと受け取れます。


そして彼らはイエスの誕生を祝福して天へと帰って行った。


モーセによって導かれた人間達が
その時までの間に進化していたように、
地球社会の更なる改善を願ってです。


自分達のマスターが地球社会で生まれ、
今度はモーセではなくイエスとして地球社会を導くシナリオを
彼らはこの時に開始したのです。


太陽系の守護者でもある太陽系のボランティアグループスペースブラザーズは
2000年前のこの時は、自分達の送り込んだイエスがその目的を達成出来るようにと


その生涯を見守り援助しつつ
一方ではこの社会の中にその協力者となる
自分達の仲間をも大量に送り込んでいたはずです。


後に12使徒をイエスキリストが自ら選んだのも、
当時この地球社会にどうかしていた12使徒本人達は覚えていなくても
彼らがこの社会にやってくる前に計画した通りだったはずです。


彼らは


【地球人の苦悩を光の前の暗黒の様に消すために
創造主の法を地球の道しるべにしよう】


と言うスローガンを胸に秘めて
この社会に転生することを自分の意志で実行した
人間達だったと思います。


そして新約聖書はその天使達の活動の歴史でもあり
その告げる創造主の法の歴史でもあったのだと思います。


私達の社会はそれを受け止めて
イエスの教えを今の時代まで受け継いでくる事が出来た。


後は、昔よりも人間として必要な資質を高めたであろう私達が
この時代に照らして聖書での天使達の教えを正しく理解し、それを実践することで


彼らの望んでいた社会をこの地球で実現する事が
出来るかどうかにかかっているのだと思います。


今までの様に自分の心にとって心地良い事を受け入れ
それだけを実践するのではなくて


聖書のイエスや12使徒の言葉を、
形式ではなくて実質的に理解してそれを実践する事により


私達はイエスの真の教え、
創造主の法を正しく理解することになります。


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アダムスキーがここで触れている決心と意志は
創造主の意志からこそ溢れて来る意識だと言われています。


私達は何かを成し遂げようとした時にも
この地球のような創造主の法からかけ離れた社会においては
あらゆる障害に阻まれる事になるはずです。


しかしその障害に対して不快感を感じ、もしくはその障害から圧力を受けて
自分の心の不快感をなくすためにそれを受け入れてしまうのが私達です。


私達は自分達の心の不快感に立ち向かうことが苦手だからです。


私達は自分の心を甘やかせ過ぎているのかもしれません。


でも私達が持つべきは、どんな困難に見舞われても
それに対して立ち向かっていく強い意志だと思います。


私達はどんなに心が不快な思いをしても
それに屈してはいけない。。


イエスキリストは信仰に関してもそれを例え話で取り上げていました。


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だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。


雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、
それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。


また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、
砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。


雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、
倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

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ここでは”信仰の強さ”を岩や砂に例え、
困難や苦難を雨と洪水に例えたわけです。


私達はイエスの教えを聞いて知っているだけではなくて
それを日々実践することを求められている。


そしてそれは形式的なことではなくて
私達の心のあり方として理解し持ち続けるべきものです。


イエスの教えを心に持ち続け実践しようと勤める人間は
たとえ困難や圧力をうけようが
それに負ける事なく耐え忍ぶことが出来る。


それがここでのイエスの岩に立てた家の例えの内容です。


言葉を聴いて知識として知っていても、
それを語るだけの人や実践出来ない人間は
困難や圧力に容易に屈してその意志を捻じ曲げられてしまいます。


でも私達、平成のイエスの使徒はそうであってはいけません。


正しいと信じた事を胸に秘めて
その強い想いを実践しながら困難に立ち向かっていく。


2000年前のイエスの使徒でもあったアダムスキーは
私達にその事を告げたかったのだと思います。


イエスキリストの実態は、創造主の意志を実践して見せた
偉大なる太陽系のマスター(指導者)です。


そしてイエスは自分には何の得もないにも関わらず
この社会の改善だけのために
今もこの地球社会を見守り続けているのだと思います。


自分の事しか考えられない人間、
そして奉仕には見返りを期待する人間で溢れているこの社会においては
イエスキリストの様な人間は、お人良しの馬鹿扱いされるかもしれません。


しかしイエスの生き方こそが創造主が私達に求めているものだと言うことを
私達は理解してそれを実践していくべきです。


損得でしか物事を思考する事の出来ないこの社会の中で
私達は素晴らしき大馬鹿者に成ることが出来ると思います。


人間が心を荒ませて、”創造主の分身”と言う存在から
かけ離れつつあるこの時代の中において


その想いを持ち続けることの出来る人間が
この社会の指針となってこそこの世の改善も可能となります。


みかん箱の中の腐った他のみかんのカビを受けて
一緒になって腐っていくのではなくて


自分は自分だと言う強い意志を持ち続け、
私達の社会に未だ提示されていない
真理の欠片を今後も示し続けて行って欲しい。


今の状況で、この社会に”創造主の法”を示すことが出来るのは
自分達だけだという事を自覚して決して忘れないで欲しいです。


【地球人の苦悩を光の前の暗黒の様に消すために
宇宙の創造主を地球の道しるべにしよう】


天使達のこの想い、どうか受け継いで行って欲しいと思います。


この社会を救う事が出来るのは、もはや天使達ではなくて
この社会に住んでいる人間であると言うことを
兄弟姉妹には忘れないで欲しいと思います。


そして為すべき役目を果たした後に
イエスキリストの言っていた神の国で会いましょう。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】