真訳聖書 VOL10 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


記事の更新妨害をしてきていて
それに併せるように加害行為も強まっています。


被害コメントを書かないとしたら
被害は激化する可能性が高いと言う事のようです。


姑息ですよね。


自動車によるパワービーミングも始まりました。


いつもの湘南NO9000の黒い自動車です。



日々神経を逆撫でされながら生きています。


今は後頭部に苛々を誘導される照射を受け続けています。

腸内にも異物まみれの物がしっかりと確保され
電磁波強化に資しています。


P.M12:17現在


異物確保のための胃腸管理も続いています。


咳の大好きな人間達は
朝から私を挑発しては苛々を誘導しているようです。


気に入らない事があれば妻をむせさせては
自分達の代わりに咳をさせます。


気に入らない事に咳をしてくる人間達は
一体どんな組織の人間たちなのか?


朝から息苦しい状態の中でも明るく振舞うように
勤めていたのですが


それも気に入らないようで
脳への照射と胃腸の息苦しさで
苛々を誘導し続けているわけです。


人が平和に暮らしている事
私達ならほほえましく見つめる事も出来ると思います。


この人間達は他人が明るく平和にしていると
それが気に入らないと言っては妨害をしているようなものです。


みぞおち付近に詰められた異物の塊が
下に落ちないように電磁波照射をしながら
そこを圧迫もされているのか


朝から延々と息苦しい思いをさせられています。


息苦しさは食事の最中も消えることなく
無視して食事を取りました。


固まった異物が中々下に落ちていかないように
誘導された上にそれを維持するような
薬品の関与も朝から続いていました。


一部開放されるもまだ胃腸の中に
ごっそり残っている異物が息苦しさを演出し続けますし
後頭部には苛々するような照射が続いています。


朝起きた時には右手がしびれて
左脳への刺激を感じてもいました。


その後は右脳にも苛々のつぼにも
刺激が走ることがあります。


敵とみなした人間の不幸を望み
精神状態まで苛々を誘導する心無い人間達。


彼らはどんな神や仏を拝んでいるのでしょうね。


私を正常な状態で放置しておくつもりがない事も
この関与から容易に理解できます。


こんな彼らは
神の意思に従って生きている人間であると
私には思えませんし


心の狭い私は彼らが神の分身だとも
思えないでいます。


加害行為に反応する私は見苦しいですし
心も狭いのだと思いますが


こんな人間達の存在を
皆はどんな思いで見つめているのでしょうか。。。


身体だけなら未だしも脳への関与で
ブログ記事を書く事も、
そして冷静にいる事さえ妨害してくる人間達。


私にとってはとても大きな障害です。


生きている活動の全てを妨害され続けているのですから。

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今日も以前書いた記事である
聖書のルカの福音書からの引用を
紹介します。


イエスキリストの教えの本質を触れていると思える記述が

ルカ伝の中の引用にありました。


ここでは多くのキリスト教信者が持つべき意識を
イエスキリストが救世主の立場として
語っているのだと思います。


そして其の語っている内容が
今現在の私達の意識と比較してどうであるかと言うことを
感じ取って見て欲しいと思います。


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自分が義人だと自任して他人を見下げている人に対して、
イエスはこの譬をお話になった。


「二人の人が祈るために宮に上った。
その一人はパリサイ人であり、もう一人は収税人であった。


パリサイ人は立って、一人でこう祈った、


『神よ、私は他の人達のような貪欲な者、
不正な者、姦淫をする者ではなく、
また、この収税人のような人間でもないことを感謝します。


私は一週に二度断食しており、全収入の十分の一を捧げています』。


ところが、収税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、
胸を打ちながら言った、『神様、罪人の私をお許しください』と。


貴方がたに言っておく。
神に義とされて自分の家に帰ったのは、この収税人であって、
あのパリサイ人ではなかった。


おおよそ、自分を高くする者は低くされ、
自分を低くする者は高くされるであろう」。


イエスに触って頂くために、人々が幼な子らを御許に連れてきた。
ところが、弟子達はそれを見て、彼らをたしなめた。


するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、
「幼な子らを私のところに来るままにしておきなさい、
止めてはならない。神の国はこのような者の国である。


よく聞いておくが良い。誰でも幼な子のように
神の国を受けいれる者でなければ、
そこに入る事は決して出来ない」。


また、ある役人がイエスに尋ねた、
「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。


イエスは言われた、
「なぜ私を良き者と言うのか。神一人の他に良い者はいない。


戒めは貴方の知っている通りである、
『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母を敬え』」。


すると彼は言った、「それらの事は皆、小さい時から守っております」。


イエスはこれを聞いて言われた、「貴方のする事がまだ一つ残っている。
持っている物を皆売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。
そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、私に従ってきなさい」。


彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。
イエスは彼の様子を見て言われた、
「財産のある者が神の国に入るのはなんと難しい事であろう。


富んでいる者が神の国に入るよりは、
らくだが針の穴を通る方が、もっと優しい」。


これを聞いた人々が、
「それでは、だれが救われる事ができるのですか」と尋ねると、
イエスは言われた、


「人には出来ない事も、神にはできる」。
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最初の一文は、自分を義人であり素晴らしい人間であると考えている人間と
自らを罪人と捉え反省の意識を持っている人間とでは
どちらが神の意識に叶っているのか?という例えだと思います。


前者は自分は守るべき事は全て守って暮らしていて、
人に後ろめたい事のない善人であると自分を評価しています。


後者は自分を罪深い存在であると認識し
それを悔いています。


キリストは善人ではなくて
罪人こそ私に救われる存在であると触れていました。


ここでの罪人というのは
現実に犯罪を犯している人間と言う意味ではありませんし
善人というのは心がまっさらである人間という意味ではありません。


自分が神の意識からかけ離れた人間であると言う事実、
自分が精神的には至らない人間であると言うことを
理解している人間こそが、神の法則を理解して受け入れる事が出来る


もしくは神の意志に沿って生きる事が出来る
と言う例えだと思います。


自らを善人であり、落ち度がないと考えている人間は
それ自体が大きな誤りだとイエスは言っているのだと思います。


良い人は神しかないとイエスは触れています。


精神に完全に従える人間は存在していないので
誰もが罪を犯すし、誤った判断をするからだと思います。


そして自分を善人だと考える意識は
人を見下し、高い自尊心を持ち、
誤った価値観を正しいと信じる原因にもなるからだと思います。


ここでは10分の1献金についても触れていますが
イエスキリストはそれを実践しろと言っては居ないはずです。


聖書の記述でそんな内容があったために
それを規則として実行し始めたのは私達人間であり
それは神が決めた規則ではないはずです。


断食にしてもそれを実行するように
イエスが薦めたわけではありませんし
それも人間の価値観のなせる業です。


献金をする事が良くないとも言いませんし
断食が精神には良い影響を与える事も理解できますが


「人間の決めた規則をいかに守ろうと
そして其の社会の中で如何に認められようと


それが神の救いへのパスポートにはならない」という事を
イエスは同時に例えたのだと思います。


イエスは「この社会で高く評価された人間は
天国では高く評価される事はない」とも触れています。


それは其の人間がその行動に対して
すでに報酬を受け取っているからであり


天の国で高く評価されるべきは
評価されていない善行であるという事です。

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以前触れた内容と重複しますが、


イエスは、救われたければ、そして神の国に入りたければ、
子供の様にならないといけないと話しています。


子供なる存在はイエスの教えを純粋に受け止める事の出来る
素直さを持った存在としての象徴だと思います。


そして”心”の暴走が少ない存在でもあります。


私達は大人になる過程で其の経験やエゴに基づき
勝手な価値観を作り上げていきます。


人から物事を学ぶにあたっても時にはエゴの存在が障害になり、
それが真理であっても正しく理解する事が出来なくなるのです。


子供はそんな価値観やエゴの少ない存在です。


教えられればそれを素直に受け止めることも
出来ると思います。


そして何よりも未だ子供は心に捉われて居ませんし
何かを見つめる時でもそれを当たり前の事として捉える事はなく
そこに常に疑問を感じる事も出来ます。


原因と結果の法則の結果だけを見て、
それを当たり前であると言う意識で
あたりの万物を捉えている私達大人とは違うのです。


子供の頃には持っていた沢山の疑問も
それを解決する事の無いまま育ち続け


何時しかその事に疑問を感じることなく
全てが当たり前のように思ってしまっているのが
私達のような大人なのだと思います。


子供(幼子)羨ましいと思うのは
妙な先入観を持たずに色んな物を見て居ることです。


全ての事象に疑問を感じながらです。


大人が何も余計な価値観を押し付けなければ
子供は善と悪といった概念すら持つことなく
すべてを自らの体験で学ぶ事になるのかもしれません。


それは宇宙の法則に覚醒しやすい状態でもあります。
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金持ちが神の国に入ることが難しい。。


要するにイエスキリストは金持ちは其の多くは
救われないと言っています。。


金持ちでも良い人は居る。。


おそらくは誰もがそう語ると思いますが
私達の価値基準での”良い人”であると言う事と
神の法則を実践していると言う事は別なのだと思います。


イエスの行動で特に気がつくのは
貧しい人間や社会的権力を持っていない一般庶民への施しの態度です。


全ての人間は平等であり、
皆が協力して生きていくべきだ。


天の国(金星)の社会を頭に浮かべれば、
地球では権力やお金による貧富の差や社会的影響力の差が
顕著に現れる事が


イエスキリストにとっては
地球社会の中で一番目に付いたものではないかと想像しています。


社会的権力を持った人間や
偽善を装った人間が高く評価される社会。


そして金持ちと貧乏人に生活にも
はっきりと差が見える其の社会をみていて
イエスキリストは憤りを感じていたのかもしれません。


そして何よりも権力を誇示する行為も偽善を行うことも、
お金を介して物を他人よりも多く所有し独占する行為は
神の法則に叶った行為ではありません。


人の上に立ちたければ地球の状態で言えば
皆の末端について奉仕者である事が大切だと宇宙の法則は伝えています。


偽善成るものは、神の意識とはかけ離れたエゴのなせる業ですし
テレパシーが使用できない社会でのみ通用する手段です。


更に多くを持っている物は持っていないものに与えると言うのが
宇宙の法則に基づく精神の思考だと思います。


例え道徳と言われる物を全て守っているように思えても
金持ちは、人間として一番持つべき、他人を思いやる意識や


他人と平等であると言う意識から
かけ離れる存在となりがちなので


金持ちは心ではなくて精神を持って生きる事は難しいと
イエスキリストは話していたのではないでしょうか。


現に精神を強く感じるようになれば
富んでいる人間であれば
貧しい人間に施しをする事になると思いますし


勿論それは自分を飾るための偽善行為としての寄付ではなくて
人間同士が物を分かちあって生きていく意識に基づくもので
なければならない事は言うまでもありません。


そして富や財の現世への蓄財は
この社会にこそ価値観を持っている証拠であり


神の国を意識して生きている人間の行為とは
程遠いと言う事にも繋がるのだと思います。


天の国に財を貯めろと言うイエスの言葉は、
そのまま「陰徳を積みなさい」という他の聖者の言葉にも
繋がる物であると思いますし


宇宙の法則の実践の中でも
おそらくは一番尊い行為なのではないでしょうか。

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最後に「どんな人間が救われるのですか」と言う質問に
イエスキリストは答えと成っていないような返事をしています。


「人にはできない事も、神にはできる」


一見質問の答えになっていないようなイエスキリストの言葉ですが


私達であれば何となく理解できるものがあると思います。


ここでの人とは”心”を指していて
神とは”精神”(神の意識)を指しているのだと思います。


人間として培ったエゴの塊である心を使用して
人間として行動する分には救われる事はないが


精神を感じ神の意識を感じそれを実践できれば救われる。


人間の心をもっての行動では財産をすべて寄付する事は出来なくても
精神を持って行動できれば
金持ちでも財産を放り投げて救われる事が出来る。


イエスは最後の一言でその事を例えたのではないかと
思いますがいかがでしょうか。


実はここは以前は理解できない一節でした。


でも今ならば何となくですが
イエスの真意がわかる気がするのです。

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P.S.


地球の人間の寿命が短くて良かったと私は思います。


時間が経てば経つほど、精神と言う存在から
かけ離れていく人間が多いこの社会。


もしも100歳どころか1000歳まで
人間が生き続けたとしたら、


そして今のように生まれてきた人間達が
先人の意識に従って生きる社会であれば


地球の中の価値観は一層精神から
かけ離れていく事になったと思います。


そこでは誤った価値観を持った人間は
その長い寿命の中で更なる誤った価値観に則った文明を
作り上げていく事になったと思います。


80歳程度でリセットを受けては次の世代にバトンタッチしては
やり直しを続けている私達だからこそ
大きな暴走をせずに済んでいる。。


そんな可能性もあると思うのです。


ブラザーズ社会の長生きはそれで意味があると思います。


専門知識や研究を極める。
それには時間が掛かります。


そして彼らの研究や経験のほとんどは
神の法則、神の意識とかけ離れてはいません。


長生きしようが意識が精神から
かけ離れていく事はないのです。


そして脳の進化もそのたびに進んでいます。


その点に関して考えると、もしもこの地球であれば
ただでさえ心の価値観に捉われて
エゴからどんどんかけ離れている人間であれば


その意識は時間の経過と共に更に精神から
遠ざかる可能性もあると思います。


誤った価値観を持った人間が権力を持って
延々と人々に影響を与え続けたとすれば
地球全体の暴走も進む事になります。


もちろん長く生きれるという事で
心のゆとりもできるかもしれませんが、


逆に長い人生を裕福に生きようと望めば
更に競争社会の悪化の可能性もあります。


当初のブラザーズの移住時代と異なり
ノアの時代に大きく生活環境が変わり
人間の寿命が縮んだのは、


その後の地球でのソドム等の記述から判るように
人間の意識の質が低下する事を予見しての
神の意思だったのかもしれませんね。