生命の科学   VOL24 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


めったに見られない満月の日のショータイム。


こんな時でなけらば見ることのない
月かもしれませんので


是非みなも時間に余裕があれば
眺めてみてほしいです。


こんな時にブラザーズの巨大母船でも
月面の前を飛んでくれれば
日本中に彼らの存在が知られわたることになるのでしょうが。。


現実はそんな事もなさそうで
寂しい限りです。

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今日は精神的にコメントできる意識ではないのですが
少しだけ触れたいことがあります。


私達が心を必死で抑えれば
そこには意識の存在が浮かび上がる事となる。。。


これは私達なら体験できるはずです。


有名な哲学者は


「考えるのをやめてもそこには考える自分がいた。。」

と触れていました。


これは”考えるなと考える自分がいた”
と言うことなのかもしれません。


心の動きを結局は抑えられなかった人間の
言葉にも取れますが


”われ思うゆえに我あり”と言う言葉は


”人間が思考する存在である”と言う
究極のテーゼを投げかけたものだと私は思います。


思考することをやめた時私達はロボットとなる。


人間をやめる事になるのではないでしょうか。


きっとデカルトは精神の存在にも
気がついていた事と思います。


今日もアダムスキーの21世紀の生命の科学
からの引用です。

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あらゆる自然は様々な度合いに英知を表わしています。


なぜなら自己が創造された目的を表現しないものは無く
そのような砂一粒といえども存在しないからです。


砂は人間よりも巧みにそれを表現しています。


ほっそりとした若枝が最初は草の葉として宇宙の力を応用し
それを指導する英知に従いながら固い土地の中から出てきます。


しかし人間が固い土地の中へそのままもぐりこむ事は困難です。


人間は現在持っている知能のすべてを持ってしても
リンゴその他の果実がどうようにして


一つの花からそんなに成熟するかに関する
正確な解答を出す事は出来ません。


この事は人間の知能が高いとは言っても
創造主である自然界に現れている物にくらべれば
まだ取るに足らないものであることを示しています。


ルーザー。バーバンクス
(訳注 1849年~1926年アメリカの植物改良家
ジャガイモ、トマト、ぶどう、などのほか多数の新種を作り出した)


は、いみじくも次のように言っています。


「自然が私に植物改良の知識を与えてくれたのである」


また彼は創造主と共に働き創造物を通じて
創造主と直面したとも述べています。


(このような発言のために神に対する冒涜者として教会関係者から非難された。
彼は人間のテレパシー能力を信じ、自分でも其の能力を発揮して
植物とテレパシーによる会話を行っていたと言う)


人間は真の教師すなわち万物の意識の指導の下へ帰るまでは
現在耐え忍んでいる骨折りの仕事や自分を巻き込んでいる
混乱などから絶対に開放されません。


我々は其の指導者の現れの中に生きており
其の一部でもあるのです。


右の事を我々にもたらすものは
祈りやマントラや瞑想などではありません。


心と言う結果に頼らないで原因としての完全な意識的実態に
生まれ変わる事によってもたらされるのです。


言い換えれば我々は学習の過程を逆転させる必要があるのです。


心のエゴとして心で気がつく代わりに
過去に心が心自体に気づいていたように
今度は心が意識に気づくようにならねばなりません。


意識的な近く力こそ心にとって知識の貯蔵庫の錠をはずす鍵であるのです。
それは創造主と創造物の間を繋ぐ輪です。


ひとたび人間がこの事に気がついて日常それを応用するならば


人間はもはや物事を複雑にしなくなり
自ら創造主との一体性を感じるでしょう。


金星人や他の惑星の住民はこの事を実行していて
そのために現在のように自分達を進化させています。


彼らは自然と戦わないで其の法則を理解する事によって
それと融合しているのです。


この理由で彼らは自分達の惑星をも含む
あらゆる現象を神の創造として尊ぶわけです。


彼らは創造主は創造主自身より劣る物を
創造することは出来ないという考え方を生かしています。


そして万物に対してもこの感じをもちながら
至る所に現れている神性を見るのです。


ルーザーバーバンクスが言ったように
彼ら異星人は創造主に直面します。


こうして彼らは互いに役立ちあっている万物の
相互関係と目的とを学び
それによって創造主に役立つのです。


次の第四講ではこの相互関係を説明しましょう。


混乱をなくそうとするのならば理解する事が重要です。


読者におすすめしたいのはあらゆる行為
または【想念の背後に存在する真の自我である意識について
あなたはますます意識的になりなさい】と言う事だけです。


もっと易しく言えば、
あなたが言ったり見たりするすべての物事において


これまでエゴの心に与えてきた認識を
意識に与えなさいと言う事になります。


あらゆる行為や言葉の背後にある不可視の英知に気がつきなさい
そう知ればついにはそれが自動的に行われるようになります。


あなたがもっと広い生命界を楽しみ
理解し始めれば自分が進歩している事がわかります。


そしてこれ前よりももっと早く
アイデアや考えが沸き起こってくるでしょう。


「信じられない」と言う立場から全てを疑わないで、
あらゆる想念や行為を分析して


それらが前もって考えられた心の反応にすぎないか、
それとも意識的な反応なのかを調べてみなさい。


そして其の想念や行為が他との関係において
あなたの生活にふさわしいかどうかを調べてごらんなさい。


優れた性質の音楽に留意するのと同様に
あなたの心より優れた性質の生命体にできるだけ
向けるようにしなさい。


これを日常行えば進歩しないわけには行かないのです。


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いきなり脱線します。


医療機関で小児科の医師が不足しているその理由は
おそらくは悪循環もあって
少ない人員ゆえに仕事量も増えて


それゆえに更に希望者が減り更に一人当たりの仕事が
増すと言う実態もありそうですが


何よりも大変なのは一般外来と異なり患者が子供と言う事で
自らの病状を正しく表現できないと言う事にも
由来していると思います。


医師は患者の話を元に
其の身体の検査を進め、結果的に病の正体を
探ると言う手順をとるかと思いますが


一般外来の大人相手では其の症状や痛みの場所などを
的確に受け止める事も可能でしょうが


それを正しく表現することの難しい子供相手では
それもかないません。


結果、難しい病などは発見する事が出来なかったり
重度の病を軽症と判断しては
診断ミス扱いされるような事にも発展しかねませんし


そしてそれが理由で係争に発展するような事もあれば
苦労ばかりで報われない危険な仕事となってしまいます。


私達は目で耳で聞いて見て何事も判断するように
心に従って生きているために何事にも限界があるのだと思います。


それは医師のミスとはいえない事も多々あると想像します。


それが更に相手が植物や動物となれば
其の難しさは激増します。


相手は自分の主張を、少なくとも人間の言葉で
訴えてくる事はありません。


私達が彼らを理解しようとすれば科学技術に頼るか、
それともここでの引用にあるように
精神に頼る事になるのだと思います。


彼らの構造や其のメカニズム一つとっても
アダムスキーが触れているように私達が理解しているのは
其の中のほんの一部だけです。


人間は自分の体のメカニズムさえ理解していませんし

その事を、発達した医学と科学の知識と技術で
補っているに過ぎません。


そして勿論それは完全ではないのです。


だからこそ、もしかしたら本来容易に解決できるような事でさえ
複雑に受け止めて其の解決方法を難解にしてしまう事も
あるのだと思います。


”事の本質”、”万物の性質”を私達が正しく理解できれば
おそらくは何事に関しても苦労は半減されるのではないでしょうか。


農作物の品種改良をしていたこの男性は
植物が其の方法を教えてくれたと触れています。


勿論、農作物が
「こうすればいいよ」
と語りかけてくれるわけではありませんが


ジャガイモやぶどうを観察していく中で
自らが其の物の気持ちになった時に


其の中で働いている法則に気がつき
そこで精神を使用していく中で
神の意志を感じるようになったと言う事かと思います。


つまりは植物を通じて神の意識を感じていたわけで、
植物とはテレパシーで語っていたと言うことになります。


植物や物と語ると言う話は
私達にはにわかには信じがたい話かもしれませんが


植物の精神を感じる事で、植物と言う姿を表現している神の意識が
こちらに語りかけてくるのだと考えれば良いのでしょうか。


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アダムスキーは植物が神の力を使用して
自分を表現すると説明していますが
実はこれは私達人間でも同じことなのかも知れません。


自分はこうなりたいと言う意識が
それを叶える事になる。。。


極端な話をすれば、そんな意識が肉体や
心に変化を齎すと言う事は不可能ではないと思います。


私は想念が弱いのか、科学力の関与で苛々させられたり
その気配を感じては苛ついて感情が表に出てしまいがちなので
精神を強く感じ続ける事は出来ずにいますが


ここを読んでくれている方の中には
無自覚で精神を感じているような方もいるかと思います。


かなり以前に亡くなったレーサーであるアイルトン・セナは、
其のレース中の意識が神掛かっていたと言う話は有名ですし


人間の肉体をもって極限のスピードを追求している
スプリンターは自分の走りをイメージして


其の通りの動作をする事で、100Mを10秒を切って走ると言う
人間の肉体の限界を超えたような経験をしていると思います。


何事かに極めているような人間達は
恐らくは単純に自分の生まれ持った能力を
使用しているだけではなくて


そこに何らかの力を感じて
自らを表現しているのではないでしょうか。


第六講で学ぶのですが、私達は自分の心身を若く保つ事も
肉体を若返らせる事も可能であるとアダムスキーは話しています。


それは結局は細胞に関して
私達が精神や想念を使用して働きかける事に
なるのだと想像しています。


細胞が新鮮さを感じる事でリフレッシュするのだと
アダムスキーは触れていましたが


それ以外にも細胞に対しての働きかけは
可能なようです。


恐らくは精神を通じて、神の意識を通じて
肉体へと働きかける事でも
私達は時には細胞をも変化させているのだと思います。


進化と言う話をよく聞きますが
特定の生物は其の生態にあわせた
面白い進化をしているようです。


キリンが元々はどんな姿をしていたのかは知りませんが
一部の学者が言うように、


彼らは元々は首があれほどは長くは無かったとすれば、
そこには身体の変化があった事になります。


高くそびえる木の葉を見ていて
「あれをとって食べたい」という意識を
精神に送り続けた結果が首を徐々に伸ばした。。。


などと言う事もあるかもしれません。


アマゾンで続々と発見される珍種の昆虫などは
それぞれ通常では想像できない擬態能力を持っていたりします。


花に化けるカマキリや、木の葉や木の幹そっくりに擬態する蛾など
TVで見た事があるかと思いますが


彼らは、もしかしたら元々があのような形態をしていて
それぞれ生きていくための知恵の一つとして
与えられていた生命体なのかも知れませんし


もしかしたら過酷な環境の中、
「鳥や小動物に食べられたくない。。」


とか


「このままでは食料が確保出来ない。」


という意識が精神を通じて神へ伝わり
あのような姿に変貌したと言うような事だって
あるのかもしれません。


元々があのような姿をしていたとしても
変貌してあのようになったとしても


彼ら昆虫がそれだけの独自の知恵を持っているとは考えがたく、
そこには創造主の意思の存在を感じざるを得ません。


自らの姿が花に似ているから、
それで餌が拠ってくるのを待とうとか


鳥や動物に食べられたくないから木や木の葉に擬態しよう
などと言う意識を、昆虫のような生命体が
自らの心で考えているとは思えませんし


そこにはやはり何らかの創造主の意識を
感じる事にならないでしょうか。


私達も
「強く願えば適う」
などという話を良く聞きますが、
それは私達の強い想念が精神へと伝わる事で


精神が私達の細胞や脳を変化させたり
そこにエネルギーを与えたりしている
と言う可能性もあるわけです。


アダムスキーの話では
私達が心を使用している状態から
精神を併用する状態へと変わると


其の時に今まで使用されていなかった脳細胞や
体の細胞が目を覚ますのだと言う事です。


精神の活性化がそのまま私達の能力や
肉体さえも変貌していく事になる。


心では絶対に不可能な事が
精神を使用する事で可能になる。


精神は私達の心よりも遥かに高い能力を持っていることが
そこからも想像出来るかと思います。

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アダムスキーは「自分よりも精神の高いものと
触れるように」と話しています。


これは動植物に限らず、相手が人間であってもです。


精神の高いものから何かを学べと言う事だと思います。


植物は心を持たず精神によって生きています。


つまり彼らは常に神の意識を感じて生きている存在であり
少なくとも私達地球人の私達よりも遥かに高い意識を持っている
生命体だと思います。


私はここ数ヶ月は
外を歩いていても出来るだけ自然を眺める事で
神経を落ち付かせることを意識しています。


私の周辺には組織的犯罪の加害者達が
沢山よってくるわけですが


私に対して良い想念を期待できないことは
言うまでもありません。


私は忌み嫌われているからです。


そんな状態で都会でお出かけでもしたものなら
帰る頃にはうんざりして自分の意識もそれに併せた
状態になるのだろうと思います。


だからこそ少しでも自分よりも精神の高い
神の意識を感じて生きている植物を見る事で
癒されているのかもしれません。


自分にとって良くない想念を受け止めるくらいなら
精神を直に感じさせえくれる存在をこそ
意識しては暮らすと言う事が


私達には必要なのかもしれませんね。


そして常に精神を意識する思考が
私達の存在そのものを変貌していくことになる。


そして何万年後かは判りませんが
将来的には私達は神の意識で物事を眺めることになるのです。

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P.S.


神の意識をもてる様になれば
闇政府傀儡の人間を見てもそれを微笑ましく
眺めることが出来るようになるものでしょうか。。。



ここまでで第三講は終わりです。


以前は私は精神サイトと言われるものや
スピリチュアルサイトを見ては
癒されていた事も実はあります。


でもそれは通過点にしか過ぎなかったようです。
最近はそんなサイトを見ては失望し


掲示板や個人ブログで時々目を見張るような記述を見ては
それに共感を覚えたり癒されたりしています。


そして時にはアダムスキーの本と
それを取り上げている自分のブログに癒されると言う
そんな日々でもあります。
(自画自賛ではなくてブラザーズの意識を感じているのです)


でもここで私は自らの精神の低さを露呈しています。


癒されると言う事は、激しく心が動揺したり
傷ついていると言うことだからです。


ブラザーズの生活は喜びに満ちていると言います。


それは何をしている時でもです。


私達もそんな生き方が出来るように勤める事で
少しでも彼らに近づいていきたい。


そんな意識で生きていれば
私たちは次の生では宇宙意識を残した状態で
生まれてくることができるのだと思います。


人の立場によってその精神の進化の方法は
色々あるのかもしれないと
最近は考えるようになりました。


自分の置かれている立場を有効に利用して
精神の進化をはかっていってください。