真訳聖書 VOL7 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


今日二つ目の記事です。


一つ目の記事はは被害関係です。


そちらは興味のある方が読んでくれればと思います。


こちらは皆が読んで欲しい記事です。


胃腸の圧迫が続いています。


息苦しくなってきました。


異物まみれの塊の圧迫が随分と不快でもあります。


頭への妙な照射も続いていますし、
顔への関与も延々と続いているようです。


私は今自分が何をすれば良いのか
判らなくなっています。


ただ、記事を書いて広報をすることだけは
それが可能な環境にいる限り止めることはない。


そしてそれは自分のためだけではなくて
きっと他の人のためにもなる。


そう信じています。


考えてみればメーソン系の人間達が
私を攻撃する一番の理由は信仰にもあると思います。


闇政府の大元はイエスキリストの教えを
元々信じてはいない存在だからです。


私がイエスキリストの教えを取り上げる事が
気に入らないと言う理由もありそうです。


キリスト教は王政時代には
国家への不満を感じない人間を作り上げるために利用され


現代社会では争いの元へと利用されているものです。


末端の信者にしてみれば本気で信仰していても
利用している人間達は元々はイエスの教えなど信じてはいないのです。


そしてその内容も多くが改ざんされ続けてきたものです。。


自称真正クリスチャンなどと言う存在が増えて
正しいイエスの教えが広がれば
それ自体が闇政府の傀儡たちの脅威でもあると思います。


こんな社会ですから表では宣言できないとは思いますが
”心の真正クリスチャン”を是非増やしていきたい。。


そう願って記事を書き続けます。

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聖書のイエスキリストの言葉と
アダムスキーの著書の中のマスターの言葉と、


アダムスキーの生命の科学の著書の中に
共通して取り上げられている


”放蕩息子の帰還”


について是非知って頂きたいと思います。


これはイエスキリストが弟子達に
ある事の例えとして取り上げた内容で、


それをマスターとアダムスキーが
心と精神を理解するための引用であるとして触れています。


聖書の記述の中でイエスキリストが
宇宙の法則について触れていると言う事を理解して貰うための
良い材料であるとも考え取り上げる事にしました。


まず私の過去記事で引用した
スペーズブラザーズのマスターの言葉は


心に対しての意識(精神)なるものの存在を取り上げて
アダムスキーにその事を説明しているのですが、
その中で”放蕩息子の帰還”に付いて触れています。


この中でマスターが触覚と触れているものこそが
私達の中の神の分身であり神のエネルギーとしての
精神(意識)のことです。


もっと判りやすくいえば
触覚は私達の身体全体を覆っている魂が
直接感じる感覚であると言うことです。


それを前提にまずはおさらいをして下さい。

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http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11021051601.html
宇宙の法則VOL7
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私達が分析の目的でこれを考慮にいれる時
触覚は基本的なもの、すなわち実際には肉体の魂
全包容的な一部として認められるのです。


なぜならばそれは一感覚であり、しかもご存知の様に感覚は
警戒の状態であって、これは私達の言う意識的意識なのです。


さて、この意識が”人間”として知られる無機物と
チリの肉体を離れるとき、目、耳、鼻、口はもう機能を果たしません。


肉体が無意識になると触感のようなものを起こさないからです。


言い換えれば、人体を叩く事は出来ますが、人体は感覚と呼ばれる
知覚作用または触れられると言う感じを起こさないでしょう。


これに対してもし、人が目を失い、聴覚、味覚、嗅覚、を失っても
意識である触覚は残ります。


それで本人は多少とも生きて人間らしく動く事が出来ます。


そして肉体が何かで打たれると
それは前述の場合とは異なって触感又は苦痛を感じます。


これで次の事実は容易に理解できるでしょう。


すなわち人間と呼ばれる肉体の真の英知は
これまで非常に誤って用いられ、見当違いされていたものなのですが
実は触感として知られている感覚が真の英知であり肉体の魂又は生命なのです。


人体は(万物も一緒ですが)その無機物や元素類が四種の主要な
肉体的表現経路を通じて役立つように構成されていますが


一方、五番目の”触覚”は宇宙的なもので
これが他の四つに対して知覚力を与えます。


したがって一度この触覚が離れると、他の四つは知覚力、または機能を失うのです。


人間がこの事実を認めるとき、
仮相の背後にある自己の実態を見出してこれがなされるならば、
長く住んでいた狭き牢獄は瓦解し、宇宙の住人になれるのです。


そのままで人間は、いかなる物にせよ自分の住む惑星をも含めて
万物の住む、惑星をも含めて万物の中に働く法則を発見し


そのときこそ人間は自分自身を知るのです。


そうする事によって人間は万物を知ります。


また、それまでは決して知らなかった大宇宙の英知である
創造主も知ることになります。


無機物の人間が創造主と一致した状態にまで高まり
創造主とその子が一体化するのはこの認識または理解によるのです。


ひとたび地球人がこれを学び、悟って心で知るばかりでなく
私達がやっているようにそれを生かすならば、


彼らは他の惑星で私達が持っているのと同じような
生活の喜びを持つようになるでしょう。


あなた方の聖書で言っているように、このようにして放蕩息子は
自分の無機物の肉体のプライドを捨てて、自分がプライドに奉仕するのではなく
それを”父”への奉仕のために自分に奉仕させる事によって家に帰ったのです。


友よ、勿論あなたはこの法則を知っていますし、
長い間それを教えるばかりでなく実行しようと努力してきました。


それはあなたにとって新奇なものでもなければ
あなたの独創的教えでもありません。


万人が創造主の子としてその相続権を楽しもうとするならば
彼らが知らねばならないのは宇宙の法則です。

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ここでマスターが触れているのは
私達が自分の存在の意味を知るためにも


そして宇宙の摂理を理解するにも
宇宙の法則を理解する必要があること、


精神(意識)なる私達の中の
神の意識を理解する事が必要であると言うこと。


もしも金星のごとく意識の高い人間達の社会へと生まれ変わり、
その後も記憶を持った本当の意味での転生を繰り返し
魂(精神)の存在としての永遠の命を手に入れる気があれば


私達は今暴走し続けている心に代えて
精神なる存在を意識して生きていかなければならないという事です。


実はその事をアダムスキーは勿論のこと
スペースブラザーズのマスターの一人である
イエスキリストが聖書で取り上げているコメントがあります。


と言っても宇宙の法則や原因と結果の法則、
そして心に対する精神と言う存在を理解できなければ
このイエスの例え話も理解の仕方が変わってくるのだと想像しています。


先ずは読んで見てください。


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ルカ伝15章11節

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また言われた、「ある人に、二人の息子があった。
ところが、弟が父親に言った、
『父よ、あなたの財産のうちで私が頂く分をください』。


そこで、父はその身代を二人に分けてやった。


それから幾日も経たないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、
そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果たした。


何もかも浪費してしまった後、その地方にひどい飢饉があったので、
彼は食べる事にも窮しはじめた。


そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、
その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。


彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、
何もくれる人はなかった。


そこで彼は本心に立ちかえって言った
『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜい居るのに、
わたしはここで飢えて死のうとしている。


立って、父の所へ帰って、こう言おう、
父よ、私はは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。


もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。
どうぞ、雇人の一人同様にしてください』。


そこで立って、父のところへ出かけた。
まだ遠く離れていたのに、父は彼をみつけ、哀れに思って走り寄り、
その首を抱いて接吻した。


息子は父に言った、『父よ、私は天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。
もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません』。


しかし父は下僕達に言いつけた、
『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、
指輪を手にはめ、履物を足にはかせなさい。


また、肥えた子牛を引いてきて屠りなさい。食べて楽しもうではないか。


このむすこが死んでいたのに生き返り、
居なくなっていたのに見つかったのだから』。


それから祝宴が始まった。


ところが、兄は畑に居たが、帰ってきて家に近づくと、
音楽や踊りの音が聞こえたので、
ひとりの下僕を呼んで、『一体、これは何事なのか』と尋ねた。


下僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。
無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛を屠らせなさったのです』。


兄は怒って家に入ろうとしなかったので、
父が出てきてなだめると、兄は父にむかって言った、


『私は何か年もあなたに仕えて、
一度でもあなたの言いつけに背いた事はなかったのに、
友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さった事はありません。


それなのに、遊女どもと一緒になって、
あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、
そのために肥えた子牛を屠りなさいました』。


すると父は言った、『子よ、あなたはいつも私と一緒にいるし、
また私の物は全部あなたの物だ。


しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、
居なくなっていたのに見つかったのだから、
喜び祝うのはあたりまえである』」。

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この放蕩息子のたとえ話は
おそらくはキリスト教では信仰に対する例えとして
捉えられていると思います。


神への信仰から離れた放蕩息子が
苦難に直面した事で自らの行動の誤りに気が付いて
それを正し神の教えへと舞い戻った。。


そう捉える事ができると思います。


そしてそれは決して間違っては居ないと思いますが
イエスキリストがここで言いたかったのは
それだけでは無いはずです。


ここでの息子なる存在は金と物欲、娯楽に快楽にふける
私達一般市民を例えた物だと思います。


その人間が自ら望んだ事ではありませんが
苦境を体験したことで自分を暴走させていた心の存在に気が付いて


同時に何が正しいのかと言う事に気が付き、
つまりは精神の存在を認識し、
今度はその意識を持って生きる事を選択した。


そういう例えであると受け取る事が出来るわけです。


金があり生活に困らず、自分の心の暴れるままに行動していたその息子を、
父親は死人であったと例えています。


イエスキリストは「死人が死人の棺おけを運ぶ」と表現していたように
私達、神の意識に目覚めていない地球人を
イエスは時々”死人”として表現していました。


肉体を持って生命活動をしていても、
心(エゴ)が暴走しては神の意識である精神を感じる事も
それを使用することも出来ない私達は


本当の生命である神の意識を感じる事無く存在しているわけですから
死人と同然だと言いたかったのだと思います。


ブラザーズにとって本当の生は
神の意識(精神)と共に生きる事だからです。


そんな私達は、
当然神のエネルギーを受け続ける事のできる存在ではありませんし
勿論永遠の命でもある、記憶を持っての転生を約束された立場ではありません。


神の意識から分離し続けていれば
いつしか神の分身である魂のエネルギーが切れては
滅び行く運命であることは何度も触れています。


つまり私達は肉体を持ち生命活動をしていますが
それを動かしている神の意識である精神を感じることが出来ないのですから
本当の生を生きているとはいえない存在。。。


生きていても死んでいるような存在であると言いたかったのだと思います。


しかしこの息子の場合は、自らが心を持って痛い経験をした事で
自分の意識を変える事になります。


心のエゴでもあるプライドをかなぐり捨てて、
自分の行動を心底反省し、
父の元で一奉公人として活きる事を選択したからです。


この時に彼は心の暴走を止めたのだと思います。


そして彼のその行動は父を喜ばすことになるわけです。


勿論ここでの”父”なる存在は
神様を想定した存在でる事は言うまでもありません。


長男の方は元々が弟と違って、
父なる存在の言うことを聞いて暮らしていたわけですから
精神を使っている人間としての存在だと捉える事もできます。


非の打ち所の無い長男にしてみれば
暴走していた弟が父に暖かく迎えられた事が不満でもあったようですが


父親は放蕩をした結果、目覚めたもう一人の息子の事を
叱る事なく心から喜びました。


ここは、”どんなきっかけであろうが目覚めていない人間が
結果的に目覚めて自分の元に帰ってきた事を神は喜び祝福した”


というそんな意味も含まれているのだろうと思います。


死んでいたのが生き返ったと言うのは
神の意識の中では死んで居たも同然の人間が
神の意識と共に生きることを選択したと言う例えではないでしょうか。


パリサイ派や立法学者に
罪人や収税人と席を共にして食事をしている事を
揶揄された時もイエスは


「私は罪人を救うことが目的である」


と言う趣旨の事を告げたはずです。


元々が救われる立場で永遠の命を受ける事のできる立場の人間や、
自分を善人であると思い込んでイエスの言葉を受け入れない人間には
イエスの教え・宇宙の法則は必要が無いものだからです。


自分が罪人である事を認める事が出来て、
そしてそれを反省し意識を向上していく意思のある人間こそを
救いに来たのだとイエスキリストは言っていたのではないでしょうか。


そしてそれこそがイエスキリストを通じて
私達に告げられた神の意思だという事だと思います。


イエスの意識を神聖化する人間であれば余計に
この言葉は真摯に受け止めるべきではないでしょうか。


放蕩息子は自分の至らなさを自覚し、
その時に心の暴走を止めて神の意識に気が付いたわけです。


父の言葉を引用すればその時に死人から蘇ったのです。


また一つの魂が自分の元へと帰ってきた。


神はその事を心から祝福したのだと思います。


本当の生に到達している人間は
私達の中でもごく一部の人間なのだと思います。


それには精神、神の意識への覚醒が無ければならないからです。


そしてそんな人間を一人でも増やすことこそが
イエスキリストの本当の目的であった。。


そしてそれこそが神の望みでもある。。。


労せずして、実践なくして、
イエスの事を神であると信じれば救われるなどと言う都合の良い教えなど


イエスキリストは主張などしていないと言う事に
私達は気が付かなければいけないのだと思います。


私達も放蕩を止めて父の元に返るべきである。。


そんな意識になりませんか。


そして最後にイエスキリストの弟子の一人であったと言う
アダムスキーの”21世紀生命の科学”の中からの引用からです。

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聖書中の放蕩息子の物語は
どうすればよいかについての良い観察力を我々に与えます。


放蕩息子の心はあらゆる人間の心(複数)を描いたものです。


なぜなら、帰ろうと決心したあと、彼は家の誰かが
自分を指差して自分の悪い行動を思い出させることを
息子は良く知っていながら、


自分を謙虚にし、自分の自尊心の全てを投げ捨てて齎される全ての物事に
直面しなければならなかったからです。


息子は家の者達の生活態度は自分のそれと異なることを
知っていました。


しかも彼らは似たような体験はあったかもしれませんが
息子が経てきた体験を持っていません。


これらの全てを知っていながら、息子はなおも自分の心の意思を征服して
自己の真自我である意識(精神)の意志ー万物の父ーの元へ
帰ろうと決心したのです。


家へ到着したとき息子のエゴは驚きました。


と言うのは父親が放浪の息子のために宴会を開き
あたかも何事もなかったかのように両腕を開いて歓迎したからです。


エゴが自らを征服しようとするほど大きな勝利はなく

その努力に報いは無限なのです。


そして各個人は生活の必要物全てが既に与えられているのであって
何も不足している物はないのです。


この放蕩息子の内部には、悪いことをしたのだぞと
自らを咎めた一つの小部分がなおもありました。


それは家を出た事の無い長男によって象徴化されています。


あらゆる個人には本来の魂があるからです。


そこでその小さな本来の魂が放蕩息子にその行為を思い出させたわけです。


しかしこれはまもなく”宇宙の意識”によって克服されました。


その意識は裁きや差別をしらないからです。


しかしこの勝利を勝ち取り、”宇宙の意識という海”の中へ
エゴたる自我を滅却させるには大いなる決心を必要とします。


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放蕩息子の例え話は、父の元に居た二人の息子を


長男を精神としての意識(魂)
次男を心としての意識(エゴ)と捉えて


併せて一人の人間として捉えると言う解釈が
本当は正しいのかもしれません。


つまり父の元に残っていたのは
私達の”精神”を象徴する神に従順な長男であり


放蕩して歩いていたのが
私達のエゴが暴走している心を象徴する次男と見るのです。


生命の科学で言えば長男は精神(意識)であり
次男は心(エゴ)を象徴していたと捉えることも出来ます。


そして家なるものは神の家であり
父なるものは勿論、神です。


この時、心(次男)は暴走して神の意識からどんどんと遠ざかっていくわけですが
最終的には自我で自分の心の暴走を押さえつけて
神の元へと戻ってきた。。


そしてそのとき精神(長男)の存在は心に不満を言うわけですが
これは勿論心に罪悪感を感じさせる存在としての例えと判断します。


そして神は精神を神の家へと放置した状態で
そこから離れて暴走していた心が、


痛い経験こそしましたが
結局は本来あるべき神の家へと戻ってきた事で
精神と心を一致させた状態の人間になった事を喜んだ。


そう解釈することも出来ると思います。


いずれにしてもこの放蕩息子の話は
宇宙の法則、精神と心の存在に関して深く説明するための引用であると捉えて
ここから何かを学んで頂ければと思います。


新約聖書に残されている
イエスキリストが弟子へと語った言葉に興味を持ってください。


もう一人のマスターからの私達へのメッセージを
そこから受け取る事が出来ると思います。

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P.S.

15回の転生の話を半ば意図的に取り上げて
闇政府の傀儡に警告を続けているつもりでもあるのですが


元々が一度きりの人生だと思っていた人間にしてみれば
「地獄が存在しないのが幸い」
と開き直られているような気もします。


ただ、考えてみて欲しいのは
魂が意識の元へと戻る事が出来れば
15回目に永遠の転生に進めなかったとしても、


ブラザーズやアダムスキーの説明だと
地球や同等の精神状態の星に記憶を失っての転生をすることは
可能だという事になるはずです。


そこで再びバッテリーがチャージされるからです。


神は改心する人間には限りなく寛容なのだと思います。


せっかく宇宙の法則の存在を知ったのであれば
そこに立ち戻れば魂の消滅は防ぐことが出来る。


それだけでも素晴らしい事だと思いませんか?


私の想像している神は
時には容赦なく破壊をもたらすようですが


考えてみれば、そこで破壊されるのは魂ではなくて
元素の塊であるフォームに過ぎません。


神の意識の発現させるためのあらゆるフォームが
壊されてもその事で魂は消えません。


(勿論神の元に戻らない特定の魂は
救われないままという事にもなりますが)


がん細胞が出来れば私達はそれを取り除きます。


神もそれと同じ事をしていると思いますが
神の場合はそこでもチャンスを与えているのだと思います。


問答無用、予告なしではなくて、
自由意志での選択の機会を与えているのだと思います。


最初にこの地球で世紀末を騒ぎ立てた人間が誰かは判りませんが
それがきっかけで神の法則が広まるのであれば


それはもしも私達が最後の転生を迎えていたとしても
原点に立ち返る大きなチャンスになるはずです。


そして現実に今そのようなチャンスが齎されているのだと考えれば
神はとても寛容であると言う事になります。


私に言わせれば甘すぎるとも思ってしまいますが、
罪人ほど救いたいとイエスを通じて神が語っていたとすれば、
それこそが神の本心だと言う事なのだと思います。


そして放蕩していた息子達が自分の下へと戻れば
神は罪を許して心から祝福を与えてくれる。


とても素晴らしい存在だとは思いませんか?

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アダムスキーも触れていましたが
私達人間は限りなく神のような存在に近づいていく事が
やはり出来るようです。


私達の人生は長いのです。


80年やそこらの人生は永遠の中ではほんの一瞬に過ぎないのだと思います。


限りない時間を利用してはゆっくりでも神の存在を理解していく。


自分の生まれてきた理由とその目的を理解し
神の与えてくれた能力を発現させていく。


私達はあらゆる可能性を持っている存在なのだと思います。


精神の進化だけではなくて
時間が無限にあればあらゆる体験だってする事が出来ます。


旅行だって宇宙規模です。


目先の生活に負われてそのためだけに生きるのは
この今の社会で暮らしている間だけでもう十分だと思いませんか?


そういえば日本の人間の寿命が世界でも長生きである理由を
考えたことがありますか?


癌や山ほど存在している疾病がなければ
私達の寿命は本当はもっと長いのだと思います。


ブラザーズが長生きなのは神の意識を感じる事が出来るゆえに
それと共に生きているがゆえに
肉体の消耗も少ないと言う理由もあります。


では日本の人間の寿命が延びているその理由は
一体何なのでしょうね。。。


医学の発展?


そうではない事はここを読んでくれている皆が
一番理解してくれているかと思います。


ではその理由は。。。


色々想像してみてください。(苦笑)