真訳聖書 VOL23 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

追加コメント


創価学会広宣部の幹部と言われているメーソン工作員、
もしくはその関係者であるユダヤ様の傀儡たちは


私が食事をするのが気に入らないのか
物を食べるたびに薬品を撒いては激しく腸を膨らませてきます。


過去最高に激しく異物を作りあげてきています。


それが違和感を感じて嫌で
トイレに駆け込むと今度は直腸を締め上げて
排泄妨害をしてきます。


出力が強くて抵抗しても効果がありません。


おなかを押している手は
電磁波の影響で真っ赤になりますし浮腫みます。


それを朝から晩まで同じことを
延々と繰り返し時々は腸は開放する。


そんな嫌がらせを繰り返されています。


時々は脳への不快な関与もありますし
明日は満月ですし


HAARPも稼動中なので
こそこそと関与を繰り返しているのだと思います。


彼らにとっては電磁波強化のために
異物の確保が必須なのかも知れませんが
こちらは不快なこと限りありません。


この人間達こそが主役であり正当化されるこの社会
どうしてそれがおかしいと言う事を
主張する人間は(権力者)居ないのでしょうね。


こう書いて開放されないときは
身近の加害者たちの中で
一番の権力者が関わっている時だと想像しています。


ユダヤ教徒、もしくはその直の傀儡たちです。


P.M9:58


【創価学会広宣部・朝鮮半島関係者の加害行為】


創価学会広宣部幹部が嬉々として
電磁波出力強化。


メーソン傀儡と連携しての攻撃は強化され
今では薬品を撒かれながら直腸付近には
延々と電磁波照射が続いている最中です。


大家の”仲”さんからの協力依頼なのか
その逆なのかは不明ですが
勿論大家が無関係なわけもありません。


工事現場にトラックが来るたびに
パワービーミングが低周波共振での
身体への被害が酷くなります。


やっているのはこの日本がこれから向かえるであろう
灰色社会の支配者階級である


創価学会広宣部・朝鮮半島ネットワークだと
想像しています。


この日本の行き着く末が
今から目に浮かぶようでもあります。


向いの棟の工事で作り上げた
足場の目的の一つが判りました。


夜にそこに登っている音が聞こえてきたと言うことは
そこに登って、


そこから正面近くにある
私の部屋に向かって電磁波を飛ばしている可能性も
あると言うこと。


昨日は寝ている間は脳への関与が激しかったようで
朝から疲労が酷いです。


どうも朝方に”妙な夢”を見ていたので
再び”人工夢”の可能性もあると思います。


そんな夢を見せられるときは
いつも朝起きたときの脳の状態が
不快なのです。(疲労が激しい)


今朝も朝から腸内逆流に水分蒸発
人が増えた分なのか出力も上がっていて


ユダヤサンヘドリン支配のこの社会の実態を
強く感じていました。


勿論直接やってくるのは
ユダヤ人ではなくて


創価学会信者か末端フリーメーソン
もしくはユダヤ傀儡と化した
在日関係者のいずれかでしょうが。。


今日は金曜日で週末ですし、
最近は週末が被害強化されていますし


しかも明日は満月と言うこともあるので
再びユダヤ傀儡たちの猛攻を受けることになりそうです。


変態達の性器への刺激も始まりました
(尿道など)
顔への関与も続いています。


宇宙の法則から一番かけ離れた人間たちと
死ぬまで直接関わる事を考えると
いつまで精神が持つのかと心配でもあります。


皆には、家族を洗脳され、自らはぼろぼろに朽ち果てていく私の姿を
最後まで見守って、そしてそれを現実と認識し、


このユダヤサンヘドリンの傀儡たちの
異常な意識をしっかりと理解して欲しいと思います。


A.M9:30

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【HAARPに関して】


昨日から再びHAARP磁力計チャートが
激しく動き出しました。


http://www.haarp.alaska.edu/cgi-bin/magnetometer/gak-mag.cgi


要するに今現在も工作員には狼煙が上がっている状態で
各地での暴走行為、加害強化実行中という事もありそうです。


私はいつでも死んでいくつもりで
昼間は延々と生命の科学とシオン長老の議定書の解説をしながら
加害者や関係組織の人間に覚醒を促し続けています。


加害者の中の一番コアな人間達は
ユダヤサンヘドリンの意識そのもので
何を言っても無駄なようですが


それ以外で騙されて利用されている人間の中には
理解してくれる人間が出てくる事を期待しての行為です。


そういえば先月20日に予言されていた
日本国内の地震について、


それが発生しなかったことで
ニューエイジの人間とユダヤ有識者の人間が
ブログで争っていました。


私に言わせれば結果的にメキシコで大地震が起きたことが
そのままHAARPの関与であり、
予想的中なのですが


地震の大元がHAARPだと認識していない彼らには、
”日本での地震発生の予言”なるものが
その根拠になっているようで


つまりその予言は外れたのだと
解釈されているようです。。


もう少し広い視線持ってくれれば
きっとすべてを見つめることが出来るのにと思いながら
その有識者サイトを眺めていました。


地震にしても”予言”なるものの危険性を
私は繰り返します。


予言なるものは彼らにとって
予定を表に出して公開すれば
それが予言に変わるものであると言うこと。。。


つまりは地震を引き起こしている人間の関係者であれば
誰もが予言することが出来るものであり
それを的中させたと言って信頼してはいけませんし、


それが予言通りでなかったからといって
何もなかったと判断するのは


そこにHAARPのようなものが関与しているときは
間違いだと言うことになるのです。


今回の激しい動きが一体何に使用されるのか?


そういう視線で私達はHAARP磁力チャートを
見つめることが大切だと思います。


まずは地震、そして気象変動、さらには大気中の
電磁波照射(つまりは脳への関与)


今までの流れを振り返っても
必ず大きなゆれは何かに反映されて来ていると
私は判断しています。


他人の予言は参考に、
それはあくまで彼らの複数の予定の
一つであると認識し


現実の影響を認識していってください。


と言うことで今現在のHAARPの放出しているエネルギーが
いったい何に使用されるのか
私たちはそれをも見据えなければいけないと思います。

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今日は聖書の中でイエスがユダヤ教徒
パリサイ派の人間を批判的に触れている部分の引用です。


イエスがパリサイ派を如何に忌み嫌っていたか
そしてパリサイ派がイエスに対して
執拗に付きまとっていたかが理解できる一節でもあります・

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イエスが語っておられた時、
あるパリサイ人が自分の家で食事をして頂きたいと申し出たので、
入って食卓につかれた。


ところが、食前にまず(手を)洗うことをなさらなかったのを見て、
そのパリサイ人は不思議に思った。


そこで主は言われた、「一体、貴方がたパリサイ人は、
杯や盆の外側を清めるが、貴方がたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。


愚かな者たちよ、外側を造った方は、
また内側も造られたではないか。


ただ、内側にあるものを清めなさい。
そうすれば、一切が貴方がたにとって、清いものとなる。


しかし、貴方がたパリサイ人は、わざわいである。
はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を宮に納めておきながら、
義と神に対する愛とをなおざりにしている。


それもなおざりに出来ないが、これを行わねばならない。


貴方がたパリサイ人は、わざわいである。
会堂の上席や広場での敬礼を好んでいる。


貴方がたは、わざわいである。
人目につかない墓のようなものである。
その上を歩いても人々は気づかないでいる」。


一人の律法学者がイエスに答えて言った、
「先生、そんなことを言われるのは、
私達までも侮辱することです」。


そこで言われた、「貴方がた律法学者も、わざわいである。
負い切れない重荷を人に負わせながら、
自分ではその荷に指一本でも触れようとしない。


貴方がたは、わざわいである。
預言者たちの碑を建てるが、しかし彼らを殺したのは、
貴方がたの先祖であったのだ。


だから、貴方がたは、自分の先祖のしわざに同意する証人なのだ。
先祖が彼らを殺し、貴方がたがその碑を建てるのだから。


それゆえに、『神の知恵』も言っている、
『わたしは預言者と使徒とを彼らにつかわすが、
彼らはそのうちのある者を殺したり、迫害したりするであろう』。


それで、アベルの血から祭壇と神殿との間で殺された
ザカリヤの血に至るまで、
世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、


この時代がその責任を問われる。


そうだ、貴方がたに言って置く、
この時代がその責任を問われるであろう。


貴方がた律法学者は、わざわいである。
知識の鍵を取りあげて、自分が入らないばかりか、
入ろうとする人たちを妨げてきた。


イエスがそこを出て行かれると、律法学者やパリサイ人は、
激しく詰め寄り、いろいろな事を問いかけて、


イエスの口から何か言いがかりを得ようと、ねらいはじめた。

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ここではイエスキリストの教えを無視したり
批判的であった人間達の代表として


ユダヤ教徒パリサイ派の人間と律法学者が
取り上げられていますが、


現代では彼らの流れを受けている人間たちは勿論のこと、
地球の法則に縛られている多くの人間の事を
まとめて意味していると捉えて頂ければと思います。


この社会の中心となっているような人間と
その主流となっている人間達の多くが
いまでは同様の存在と成り下がっていると思います。


ここでは食事に招いたその理由は
もしかしたらイエスキリストの粗捜しでも狙っていたためであり、


それに対してイエスが意図的に反応して見せたのが
この時のやり取りではないかと想像して読んでいました。


まず、ここではイエスが手を洗う事なく食事を始めた事に関して
それにパリサイ派の人間達が
疑問を投げかけたところから始まっています。


勿論、手は清潔にするに越した事はありませんが
食事の前に手を洗う行為は


人が病予防などを意識して作り上げた規則であって
それは律法ではありません。


そんな些細な事まで揚げ足を取るように過敏に反応する人間に対して


”大切な事は事の本質を考える事である”


”人にとって重要なのは形式ではなくて心のあり方である”


とイエスは言いたかったのだと思います。


口の中に入っていく物が私達を汚すのではなくて
私達の中から出てくるものが私達を汚すと言う趣旨の事を
イエスキリストは言っていました。


汚れた手で物を食べる事が問題なのではなくて、
心の中で汚い事を考えたりそれを口にする行為こそが
人の心を汚すのだと言う事の例えでした。


ここでは詳細は触れていませんので
深くは取り上げませんが


杯や盆の話を引用して、イエスは清められるべきは
その内側(内面)であるという事に触れています。


勿論ここでの内側は心の存在の事でしょうし
いくら表を取り繕って美化しても
中が汚れていればそれは偽善に過ぎないと


当時の体制側の人間をイエスが批判していた事は
ご存知のとおりです。


偽善なるものを定義するのは難しいのですが
それは意図的に人目につくところばかりで得を積んで、
人からの賞賛を受けておいて、


一方、人目に浮かないところでは得を積むどころか
悪行を行うような行為であると捉えます。


大衆の前では立派な風貌をしては立派な言葉を語り、
先生と称えられる人間が


実は裏ではイエスキリストの
揚げ足取りを狙っていれば、それは立派な偽善です。


そしてこの風潮は、今のこの社会の中では
当たり前のように横行していると思います。


勿論、その一番の原因は私達が視覚ばかりに拘り
物事の上辺しか見ようとしないからです。


そして一方では形式ばった事にばかり囚われて
体裁を繕って生きているからでもあると思います。


私達が政治家に騙され続ける理由も結局はそこにあります。


政治家は立派な人間であると言う先入観が在り、
その人間達が私達市民の代表で
私達のためにこそ政治を担ってくれているのだと、


彼らのうわべの言葉に騙されているから
私達の社会は今の様な実態になっても居るのです。


彼ら政治家の多くはその意味では偽善者の筆頭ともいえます。


口では同情して見せますし、理解を示しても見せます。
しかし現実にはその多くは実行には移されません。


人前では笑顔で手を振り立派な事を語って先生と奉られ
選挙前には前面に謙虚さを押し出して一般市民の理解を求めますが
のどもと過ぎれば熱さを忘れます。


私達一般市民は、
それに気が付いた人間は政治に期待することを
諦めることになりますし


そうでない人間達は騙し続けられる事になるわけです。


”心”を使用して、人に関してもその上辺しか見ない私達には
笑顔や雄弁の裏にある悪意に気がつく事は出来ないわけです。


そして勿論そんな態度が
神の法則に叶っているわけもありません。


中側も磨けとイエスキリストは批判しているのだと思います。
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ここでイエスは、献金についても触れています。


献金と言う行為は聖書の記述の一部から発展した
人間が作り上げた習慣だと認識しています。


それは神が求めた物ではありませんし
現にキリストは一度もそんな事を
求めた事も進めた事もありません。


ある信者に
感謝のために自ら供え物を捧げなさいという話はしましたが


それは文字通りの供え物をする事が大切だといったのではなくて
感謝を表現することの大切さを教えたのではないかと思います。


つまり、その献金と言う行為は
人間が自ら作り上げた習慣に従っているだけの話で


神に対しての奉仕や信仰ではありませんし
まして神の国に宝を積む行為でもありません。


何よりもお金を嫌っていたイエスが
そしてお金に価値を見出していない神の存在が
献金と言う行為に救済の手を伸べるとすれば


救われるのは皆金持ちばかりになってしまいます。


10分の1献金が教会の神父にとっては
生活の糧になるという側面は重視しなければなりませんが


その反面、人間が取り決めた約束事を守っていても
義と神に対する信仰をなおざりにしていては意味がない。


それでは神の御心に沿っている事には成らないはずです。


私達は一番大切な心のあり方、
神の意識に基づいた生き方とは無関係でいるわけですから


それではいくら献金したところで救いには繋がりませんし
意味がないのだとイエスキリストは言っているのだと思います。


これに関しても現代社会でも同じ事が言えると思います。


例えば社会での決め事をその法律に抵触なく生きていれば
その人間は批判される事はありません。


例え神の意識に反する行為、
非道徳的行為を繰り返したとしてもです。


すべてを裁くのは人間が決めたルールであり
法律がその規範となっているからです。


しかし人間にとって大切な事はそんな人為的な約束ごとを
守る事ではありません。


少なくとも道徳と法律がかけ離れているこの社会では
法律を守った人間が義であるということにはならないからです。


死んだ後に魂が、神の法則によって戒めを受ける事になるとしても
少なくともこの社会では法に触れなければ義とされる。


そんな生き方をしている人間達が
先生として称えられるような、その意識が肯定されるような
そんな状態こそがおかしいのだと思います。


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ここでイエスは律法学者に対しても批判を繰り返しています。


私が一番気になったのが


「貴方がた律法学者は、わざわいである。
知識の鍵を取りあげて、自分が入らないばかりか、
入ろうとする人たちを妨げてきた。」の一節です。


知識の鍵を取り上げて。。


とあるのは彼らが法律なるものを制定しだした事で


”人々が自ら道徳を考える意識を奪った”


と言う事ではないかと想像しています。


道徳は法律でその全てを制定する事は出来ません。


そして法律の全てが道徳に則って
作り上げられたものでもありません。


私達は本来は精神を学びながら正しい事とそうでない事を
自ら判断していく必要も在るのだと思います。


しかし法律なる物の存在が悪意の抑制力となるだけではなくて
一方では私達に強制力を持って行動の基準にもなっているのです。


法律という人間の心で作り上げたものが知識であるとすれば
知識を取り上げらているわけではなくて、
法律を学ぶ事で知識を与えられる事になりますが


実は大切なのは精神で道徳を感じる事であり
イエスはそれの大切さを訴えていた人間でもあります。


精神から学ぶべき大切な知識を得る機会を
彼らが人々から奪ったとそう判断したのだと思います。


そして法律の存在は
「それを守れば罪に捉われる事もないし
それ以外なら何をしても構わない。」


という、誤った意識をこの社会に蔓延させる原因にもなっています。


しかも刑法に関しては”疑わしきは罰せず”です。


世の中道徳が廃れ、悪人天国になるわけです。


更に「自分は入らないばかりか入ろうとする人間を妨げてきた」


の一節ですがここは私が加害者達に訴える事と似ています。


闇政府の傀儡たち全員が
宇宙の法則の実態を知っているかどうかは判りませんが


少なくとも闇政府のトップの人間達は
間違いなくアダムスキーの主張している宇宙の法則の存在を
知っています。


そしてそれを隠蔽する手立てを打ち続けても来ました。


一方では傀儡を使って、私が生命の科学や
宇宙の法則に触れる事を妨害しているようなものなので


その広報を妨害すると言う事は
そのまま宇宙の法則と言う普遍的真理を


他の人が理解して永遠の命への門を入ろうとする事を
妨害しているようなものです。


律法学者は結果的には私達が道徳としての精神を通して
物事を判断する機会を奪った事にもなります。


規定された法律がそのまま道徳に置き換えられ
それを守る事が正しいとされてしまったからです。


現にブラザーズの社会に法律のような
争いを調停する手段はありません。

元々がそんなトラブルが起きないのですから必要もないのです。


勿論彼らは常に精神を感じてはそこで物事が正しいか
正しくないかを判断しては行動していますし
その行動こそが永遠の生を受ける人間のものでもあります。


私達は自ら精神を感じては物事の良し悪しを
考える機会さえ奪われたようなもので


しかもその事は同時に宇宙の法則から
かけ離れる事にも繋がっている。。。


つまりは私達は真の命の待っている門へ
入っていく事が出来ない状態にされてしまっているのだとおもいます。


イエスキリストはその事を触れていたのかもしれません。


こうやって聖書を見ると2000年前には
今の社会の原型がすでに出来上がっていた事も理解できますし、


私達は進むべき方向、進化すべき方向を
少なくとも精神面においては誤ってきたのではないかと想像できます。


そしてこの時イエスキリストが残した教えも
結局は歪めて伝えられる事になった。。


地球が変わる事が出来るのは、もしかしたら
イエスの触れている”この一連の文明の責任が
何らかの形で問われる事になる”その後なのかもしれませんね。


最悪、私達は一度滅んで再び文明を起こすような目になる。。
もしくは大きなきっかけでもあって
地球レベルでの意識改革でも進むかのどちらかではないでしょうか。


この社会はあまりにもイエスの教えからかけ離れた
価値観を持ちすぎている。


それは人間が心にばかり囚われて
エゴに偏ってしまっている証でもあると思います。


私たち覚醒者はそれに習うことなく
精神の囁きを聞くように日々勤めていきたいです。