真訳聖書  VOL9 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

聖書関係の記事やキリストに触れると
ずいぶんと思考能力低下の攻撃が
酷くなります。


本当は今は満月の直前です。


私の思考回路と精神は絶好調となるはずの時期です。


それを封印し妨害するために
脳への照射を繰り返していることは
間違いないようです。


右脳をやられています。


これを書いている今現在もです。


私こそこんな状態ですが
覚醒者には更なるチャンスの時期だと思います。


もしも私のごとく目に遭っていないなら
精神に働きは研ぎ澄まされる時期だと想像しています。


ぜひそんな時こそ少しでも精神を強く感じ
想念を感じ、神の意識を感じてみてください。


一方満月は特定の人間達にとっては
サバト集会の時期でもあります。。。


二年以上前になる記事ですが
読んでいない方は是非読んでみてください。


月のオカルト
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10337415562.html
悪魔と言う存在
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10309685801.html
洗脳と悪魔のサイン
http://yaplog.jp/uruseiblog/archive/87
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今日はずいぶん前に書置きした記事です。


マタイではなくてルカ伝からの引用となっています。


アダムスキーが触れてくれていた
スペースブラザーズのマスターの言葉は
引用が終了しましたが


同様にスペーズブラザーズのマスターの言葉が
残っている資料が存在しています。


言うまでも無くそれは”聖書のイエスキリスト”の言葉です。


それを引用して、その中に宇宙の法則を感じて頂ければと思い
聖書のイエスの言葉を参考にすることをお勧めします。。


アダムスキー研究家の藤原さんも
その著書、”宇宙からの使者”で触れてましたが


イエスキリストの言葉は当時の民衆には
理解が難しいものだったと言うことです。


聖書がその時の言葉を正確に伝えている保障もありませんが
私はイエスキリストが語ったと言われる内容から
確実に神の法則・宇宙の法則を感じ取ることができます。


そしてそれは原因と結果の法則という
宇宙の法則を理解し、精神を感じ取るための基礎が出来ていなければ
解釈の難しいものであることも理解しています。


私達は持つべき知識と尺度と解釈力を持たずして
イエスキリストの言葉を正しく理解することは出来ない。


その事をまず一番に触れて、
私達、生命の科学を学んでいる人間であればこそ
イエスの言葉の真意が理解できると断言します。


今日はまずは軽く、今までの私の記事の踏襲です。


精霊に関しては今後も時々触れて行きます。


精霊を”精神”と読み換える事で
聖書のイエスの言葉が宇宙の法則を語っている事、


アダムスキーの触れていた”心”と”精神”の説明であることに
気がつくことになるからです。

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ルカ伝12章
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そうしている間におびただしい数の群集が
集まってきて互いに足を踏みあうほどになった。


イエスはまず弟子たちに対して話し出された。


「パリサイ人のパン種に気をつけなさいそれは彼らの偽善のことです」


覆いかぶされているもので現されない物はなく
隠されているもので知られずに済む物はありません。


ですから貴方方が暗闇で言った事が
明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが
屋上で言い広められます。


そこで私の友である貴方たちに言います。


体を殺してもあとはそれ以上何も出来ない人間達を
恐れてはいけません。


恐れなければならない方を貴方がたに教えてあげましょう。


殺した後でゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。


そうです貴方がたに言います。この方を恐れなさい。


五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。
そんな雀の一羽でも神の御前には忘れられてはいません。


それどころかあなた方の頭の毛さえも
みな数えられています。


恐れることは何もありません。


貴方がたは沢山の雀よりも優れたものです。


そこで貴方がたに言います。


誰でも人の前で私を認めるものは、
人の子もまた、その人を神の御使いの前で認めます。


しかし私を人の前で知らないと言う者は
神の御使いの前で知らないと言われます。


たとえ人の子をそしる言葉を使うものがあっても
許されます。


しかし精霊を汚す言葉は許されません。


また、人々が貴方がたを会堂や役人や
権力者などのところに連れて行ったときに
何をどう弁明しようか何を言おうかと心配するには及びません。


言うべきことはその時に精霊が教えてくださるからです。


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イエスキリストはここでは神は全てを知っていると言うこと、
そして精霊なる存在は、どうやら神の意識を
反映させたものであると言うことに触れています。


”隠されているもので知られずに済むものは何も無い。”


現実問題、私達の社会では視覚で見て聴覚で聞いた内容しか
私達は知る事は出来ません。


誰もがその気になれば後ろめたいことがあっても
それを棺おけまで持っていく事も出来るわけです。


現実問題、未解決事件が多数存在しているのですから
犯罪者であっても犯罪行為が明るみに成ることなく、
罪に問われないままで亡くなって行くような人間達も
いるはずですし


私達の行為の全てがガラス張りのごとく
人々の目に晒されると言う事はありえません。


しかしイエスキリストはここでは
神の意識について触れたのだと思います。


神は五羽まとめて安売りされている雀の内の
一羽の事でさえ知っている。


私達の頭髪の数さえも知っている。


「神は何もかもお見通しで、知らないことは何も無いのだ」
という事を例えたのだと思います。


私達は神の意識をエネルギーとして生きている存在ですし
魂は神の分身でもあります。


そう考えれば神は私達その物でもあるのですから
当然神は自分の事を何でも知っている事になります。


そして”精神”は”心”よりも知識を持った存在ですし
私達を熟知していると言う事だと思います。


例え自分の奥底にしまって置いているつもりの事でも
誰にも話す事なく密かに隠しておいている事でも


「神は精神を通じて、私達の心の思考含めて
全てをお見通しだ」


と言う事をイエスは語っているのだと思います。。

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ここでイエスキリストは、体を殺す人間よりも
魂を殺す事の出来る存在(神)こそを恐れろと触れています。


私達は自分達が実は永遠を生きる事が出来る存在であることを
知らないがゆえに、命を失う事、死ぬことを
何よりも恐れる傾向にあります。


そして命を脅かされる事で、
その意識を捻じ曲げられる事もあるでしょうし、
行動を変えられる事もあります。


しかしイエスキリストはイエスの教えに関連して、
自分の命を救おうとする者はそれを失い
それを失う物は命を得るとも話しています。


自らの命を守ろうと意志を変え
信仰を捨ててしまうような人間、


命に執着しているような人間は
救われる事は難しいと触れているのだと思います。


この世は病や生活苦や脅しなど
命を脅かされる事で満ちていて


そのために私達が意識を”心”にばかり併せるようになり
精神を感じない状況になりがちです。


これを宇宙の法則に照らして考えると


「肉体を持った状態は仮の宿に過ぎず、
それに執着するがあまり精神(神の意識)からかけ離れると
魂の消滅が待っている」


と言う事をイエスは語っているのだと考える事が出来ます。


肉体は魂を入れる器に過ぎないと
ブラザーズのマスターの一人も言っていました。


そして一番大事なのは魂そのものであると。


肉体を滅ぼすことが出来る存在は山ほどいても
魂を滅ぼすことが出来るのは神だけです。


そしてその神に魂をゲヘナ(地獄の業火)に落とされることをこそ
恐れなさいと語っているのだと思います。


(地獄は誘導のための存在であることは何度も触れています。
ここでの魂を滅ぼすの例えは魂の消滅を意味しています)


そして自分の命に執着する人間は
永遠の転生に向かう事は出来ないとも触れているのだと思います。
(命を得るとは真の命の事だと思います)


そんな意識を持っている人間は精神を感じることは出来ない。。。


神の意識を感じることが出来ないからです。


宇宙の法則に則って生きようと思えば
肉体への執着、死への余計な恐怖に捉われることなく


自分の意志を捻じ曲げられることなく
イエスの弟子は神の教えを広報できる。


神の教えを実践できる。


それが出来ないと言うことは精神を感じていない
もしくは宇宙の法則が実践出来ていない
と言う事を語っているのだと思います。


私達にとって一番難しいと思われるテーマではありますが
イエスキリストは繰り返しこの事には触れています。


ここは覚醒者が克服すべき一番のポイントではないかと思います。

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実は今日の引用を取り上げたのは精霊なる物の意味を
考えて欲しいと思ったからです。


キリスト教では父なる神、子なるイエスキリスト、精霊なる神と
三つをとりあげ全てを神の化身として神聖化しています。


「イエスキリストは神の一人子が人間の形で生まれた存在であり
イエス自体が神の化身である」


というクリスチャンの多くの認識は
ここに起因していると思います。


三位一体に関しては以前別の記事で取り上げたので
深くは触れませんが


三位一体の本当の意味は


神が存在していて、 
肉体を持った人間としてのイエスキリストが存在していて


それを結びつけるものとして神の意識である精神が
イエスキリストの中で神の意識を表現していると言うことでした。


イエスキリストと言う本来の肉体を持った人間が
その心を使用するのではなくて神の意識である
精神を100%感じている状態は


神の意識がイエスという人間の中で具現化された状態です。


アダムスキーが触れていた


1+1=2ではなくて
1+1=3になる。。


その意味は、二つの要素が別個に存在していて
その要素が重なる時にもう一つ、


両方の要素を受け継いだ別の要素が出来上がり
それら三つの要素が一体として働くと言う趣旨です。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11059663896.html


”神の存在”と、本来心を持った”人間であるイエスと言う存在”は、
”神の意識(精神)を持ったイエス”という、もう一つの実態を通じて、
一つとして結び付けられることになる。


これがアダムスキーの触れていた三位一体の意味だと思います


ここでの精霊成るものは、
私達人間が誰もが持っている”精神”の存在であり、
そしてこれは神の意識であると解釈すべきだと言うことです。


つまり”精霊”は私達を導く神の意識です。


その神の意識は私達の中に”精神”として存在しているのですから


今までの私達の勉強の内容からも
精神=精霊であるとして捕らえれば
聖書も判りやすく解釈できるのではないでしょうか。


そして精神は私たちの魂でもあります。
(もしくは魂へと繋がるもの)


そして精神と言う話になれば、
当然そこでは原因と結果の法則での思考を意識する事になりますし


「私達が意識すべきは心ではなくて精神だ」と
イエスも語っていた事に成ると思います。


イエスは精霊をけなしてはいけないと話していました。
それは精霊が神の意識であるからに他ならないと思います。


「人の子はけなしても良い。」
とも触れています。


つまり自分のことはけなしても構わないが
神をけなす行為はいけないと語っていたわけです。


それをけなす行為は神を否定する事にもつながります。


強いては自分の存在を否定する事にもなると思います。


この引用からもイエス=神ではないことが
理解できるはずです。


そして引用の最後には


”また、人々があなた方を会堂や役人や
権力者などの所に連れて行ったときに
何をどう弁明しようか何を言おうかと心配するには及びません。
言うべきことはその時に精霊が教えてくださるからです。”


と語っていますが、ここでも精霊を精神と置き換えれば
「言うべき事は精神が教えてくれる」


と言う話になります。


「心があわてたり不安をもって暴れなくても
落ち着いて精神を感じれば
何を答えれば良いかを導いて貰える」


と言う意味だと思います。


聖書において頻繁に使用されている精霊なる言葉。


これは神の意識であり神の分身である私達の精神を
指し示しているのだと捕らえることで
聖書も一段と理解が深まると思いますがいかがでしょうか。。

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神をけなすとか冒涜すると言う内容は
捉え方が沢山あるようです。


現に私のような記事を書いていれば
従来のクリスチャンからは「神への冒涜だ」とか


「お前は悪魔だ」という言葉が
投げかけられているのではないかとも想像しています。


しかし私は彼らよりも
正しく神を理解していると言う自信もあります。


神を貶すとか冒涜すると言うのは
神の存在を誤った解釈をしている人間達の行為のほうが
それに近いのでは無いでしょうか。


そして神を批判する行為、
道徳を軽んじる行為は、自分の魂に刻まれ
自らに跳ね返ってくるものだと思いますし


他の神の信者が目くじら立てることでもないと思います。


それ以前に神の存在はとても強くおおらかな物だと
私は勝手に想像しています。


信者に”神への冒涜だ”と騒ぎ立ててもらったり
擁護される事など神は望んではいないはずです。


まして神への冒涜と言う名目で争いごとを引き起こしたり、
他人を裁いたり、他人を批判したり、戦争を起こすような事を
本当の神が望むわけが無いのです。


「自分の子供達が喧嘩をしています。どちらも貴方の名を呼んでいます。
親は一体どちらの言い分を聞けばよいのでしょうか。。」


ブラザーズの言葉の引用で紹介した通りだと思います。


神を批判したり神の意思に合わない行動をする事は、
誰が罰する事無くても自らに跳ね返る行為であり、
神を否定することは自らの存在を否定するようなものでも有る。


私はそう思いますが如何でしょうか。。


以前にも触れましたが
本当の神は私達を強くしてくれる存在なのです。


たった一人でもデカイ障害に立ち向かう意識にしてくれるような、
そんな心の支えとなり得る存在だと私は考えています。


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P.S.


そしてイエスは語っていました。


「私がするのではなくて
私を通じて神の意思がそれをするのだ」と。


イエスは自分を高く評価される事を望んでいたのではなくて
「偉大なるは自分を通じて奇跡をも実践してみせる
神である」


と弟子や民衆に伝えていたのだと思います。


イエスの言葉と奇跡は
イエスの肉体を通して神の分身である
精神が行ったものである。。


精霊が行ったものである。


そう触れては、自らを高めるのではなくて
神を讃えたのだと思います。


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話は飛びますが、藤原忍さんの”宇宙からの使者”は
アダムスキーの著書の引用をしながら
独自の解説をしてくれている本です。


以前紹介してお勧めしましが、

私が初めてアダムスキーの思想に触れたのは
この本の存在でした。


矢追純一氏の書籍など中心に
UFO関係の著書を読み漁っていた頃に
その延長として購入した本で、


私に理想の社会を夢見させてくれたのも
この本で知ったアダムスキーの話のおかげでした。


その価値観は20年来私の中で生き続けてきて
今は普遍的真理の欠片となっています。


その後最近までアダムスキーの著書を読まなかったことを
後悔こそしていますが、


世の中が偽りだらけである事を知ったからこそ
アダムスキーの真価を理解するに至ったのです。


それまでの私は、
アダムスキーの語るブラザーズ社会を理想と思いながらも
心の中ではそれは夢や幻で


現実の宇宙人はグレイなる醜悪な生物であると
騙されていた人間でもあるのです。


スペースブラザーズを信じたいと思いながらも
それは理想の宇宙人像でしかありませんでした。


ただ、一方ではアダムスキーの語っていた
ブラザーズの社会は私の理想として
延々と心の中で持ち続けることになりましたし


それが幻影でも蜃気楼でもないと気がついたのは、
グレイなる宇宙人の存在含めた
偽の宇宙人情報の実態に目覚めたからですし


アダムスキーの著書を直接読んでそれを確信しました。


そしていって見れば藤原さんの著書は
私をアダムスキーへと誘導してくれる架け橋となったわけです。


20年以上前の本ですが、今でもネットで
古本でなら手に入るかと思います。


興味ある方は読んで見ていただきたいです。


結果的に私の価値観を買えた一冊の本です。


たま出版 宇宙からの使者 藤原忍