新約聖書 VOL11 聖書の精霊 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。



今日二つ目の記事です。


いつ自分が倒されて記事がかけなくなるのかと
”不安”を感じるような精神状態でもあります。


それほど私の脳はあるべき状態から
かけ離れさせられているのだと思います。


早ければ早いほど一般市民の洗脳も浅い。。


今のうちに少しでも広報を進めなければいけない。


そんな意識が日に日に強まっています。

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一部のクリスチャンには目の敵にされるような
記事を書いていますが、


おそらくは賢明なクリスチャンは私の記事を読むことで
きっと今まで感じていた聖書の疑問が氷解し、
私の主張を理解してくれると信じています。


イエスの教えを一番よく耳にしている人間たちなのですから
私の解釈もそれが荒唐無稽ではない事に
気がついてくれると思います。


今日は多くのクリスチャンも、おそらくは正しく理解できていない、
聖書で頻繁に出てくる”精霊”なる物の存在について
前回に引き続いて、今日は生命の科学に触れながら解説してみます。


聖書の内容から察するに、精霊とは神のエネルギーや意識、
もしくは神の分身のように取り上げられている存在ですが


私達、生命と科学の理解者であれば
この精霊なるものが一体何であるかが認識できると思います。


聖書の文脈からその存在を把握し
それを私たちの知識に当てはめれば良いだけです。


精霊についてまとめている内容を

WIKIより抜粋します。

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人・教会に関わる聖霊の働き

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・神の前に自分が罪人であることを認めさせる。


・イエスを主であると告白させる
(コリントの信徒への手紙一12章3節、イイススの祈りも参照)。


・神のことばを思い起こさせ、正しい解釈に導き、宣べ伝えさせる。


・信仰者に内在し、神の目に正しい生活・行いをすることができるようにさせる

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イエスを”主とする”と言うくだりは、
「イエスは救世主であり神ではない」という私の主張と異なりますが、
それ以外に関しては、見ていてすぐに気がつく事があるかと思います。


”生命の科学”を私と共に学んでくれている方であれば
まして一目瞭然のはずです。


ここで言っている”精霊”なる物の存在は間違いなく
私達の”精神(意識)”そのものだと思います。


聖書では精霊を、バプテスマのような特別な儀式を受けた物や、
イエスキリストからその力を与えられた人間こそが感じられる
特別な神の力のように触れているようにも思えますが、


そうではなくて、バプテスマ(洗礼)を受けることで
神の意志、神があるべきとしている人間の姿を意識するようになったり
自分の中の神の分身としての”意識”を理解する事で


私達が誰もが感じる事が出来るようになる存在として
取り上げられているのだと解釈できます。


これはクリスチャンや特定の信仰者に特別内在する存在ではなくて
神を意識する信仰者ほど気がつき易い、認識し易いものであり


アダムスキーが語ってくれているように
私達の行動を正しい道へと導いてくれるような意識や知識であり
神の意識・神のエネルギーだと思います。


そして私達の魂でありその意識でもあります。


これは私達が心の暴走を抑え思考するような時にこそ
強く感じる存在です。


先述の様に、これは特別な人間やクリスチャン特有の物ではありません。


仏教徒であろうが神道の人間であろうが
信仰すべき神は皆同じ存在なのですし(神は一人しか居ません)


ブラザーズが与えてくれた生命の科学での解釈でも
”精神は誰もが持っている神の意識であり、神のエネルギーであり、
神の分身である私達の魂そのもの”と受けとれます。


イエスの側近だった弟子達は
イエスのキリストとしての教えを理解し実践していた人間達ですから
”精神”を容易に感じる事ができるような存在だったはずです。


彼らはイエスキリストによって特別な能力として
それを与えられたわけではないはずです。


イエスがその力を与えたと言うのは、
イエスが彼らにそれを認識できるような意識を持たせるように
指導を続けていた結果であると解釈すべきで


もしもその時に強いテレパシーのような物を
イエスキリストが利用した可能性はありますが
特定の人間に、ある時突然与えられるような物ではありません。


恐らくは弟子たちが精神を感じるに至ったのは
イエスキリストの教えである宇宙の法則の実践の為だと思いますし、


そこに更なる宇宙意識の覚醒のきっかけを
イエスキリストが何らかの方法で弟子に与えたのだろう
と言うのが私の想像です。


自らの中に神のエネルギーと意識を感じるようになれば、
そして限りなくその意識が強くなれば


その神の意識はイエスキリストのような奇跡とも言える事まで
引き起こせる物なのかもしれません。


勿論、それは精神という私達の魂を通じて神が行う行為であり、
私達の能力と言って良いのかどうかも判りませんし
一朝一夕でできるようなものではないはずです。


この事を大きく捉え違いをすると
「精霊は突然現れる神の使いで在る」


かのように勘違いされる事になり、


結果、三位一体のような議論も出てきては
イエスキリストを神聖化して、


イエスこそが神であるという議論も
起きることになるのだと思います。


勿論、もしもキリスト教信者が
イエスキリストを神だと認識し続けたとしても、
その他の行動がイエスの望む物であれば何の問題もないと思います。


大切なのは形式ではないからです。


神=イエスであると信じようが
結果そのイエスの教えを実践するのであれば


それは神の法則の実践をすることに繋がりますし
それはイエスキリストの教えのとおりです。


それは精神を感じる事であり
宇宙意識を持って道徳を実践することに他ならないからです。


しかし現実にはイエスキリストの教えを実践するのではなくて
イエスキリストを神と信じ、


聖書の記述を信じれば自分は救われるのだと言う
誤った解釈もまかり通るようになっていると思います。


イエスの言葉である


”自分を愛するように他人を愛せよと言った言葉や


何時の敵のために祈れ。”


と言った言葉がまるで実践されていない事も


同じクリスチャンでも派閥ごとで主張でも権力でも
争いが絶えない事ひとつ取り上げても理解できると思います。


私達が精霊を感じるためにしなければならないのは
敵を作り叩く事ではなくて、神の名の下に戦争をする事でもなく


神を奉って褒め称え続ける事でもなくて
教会に通って賛美歌を歌い献金を収める事でもないと思います。


正しい人間としてのあり方、
”神の国への富のため方”を教えたイエスの生き方に学び
それを実践しようと努力する事ではないでしょうか。

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生命の科学を読んでくれている方の中には
クリスチャンも居るかもしれませんし、仏教徒も居るかもしれません。


無神論者や元々が宗教なしの神の信者も存在しているかもしれません。


日本独自の神道の信徒もいるかもしれません。


しかし誰もが気がつく事が出来るはずなのは
この”生命の科学”は特定の宗教を肯定する存在でもなければ
イエスキリストを神聖化するものでもありません。


ただ、実践すれば確実に精神としての神の存在を
嫌でも感じる事になるそんな知識と実践なのです。


宇宙の法則の一番最初の記事でも取り上げたように
私達が聖人と言われる人間達から教わっている事は
実は皆共通した物であると言う事。


そしてその教えが複雑であったり
厳しい修行を伴う物であったりするものでは無い事も
理解して頂けるかと思います。


新約聖書はキリスト教の聖典とされますが
キリストが現に語っている内容はそれほど多くはありません。


殆どは弟子が書きとめた内容であり
その後の弟子の活躍であり


イエス自身が自らの教えとして語った内容は多くは無いのです。


弟子がイエスの教えをすべて正しく理解し
それを伝導したとも限りませんし


例え正しく福音書として正しく記述しても
今度は後の歴史の中でそれに手を加えた人間たちもいるはずです。


何よりも新約聖書なるものを作ってそれを聖典としろと
イエスは語ってはいません。


もちろんキリスト教なるものを作って
それを信仰しろとも言ってはいません。


イエスの教えは人から人へ伝えられ
時代の経過と共に変貌されさまざまな解釈をされては
その本質を理解できない状態にされていると思います。


新約聖書から読み取れるイエスの究極の指導は


「私の教えを人々に伝えろ」
「私の教えた神の御心にかなう生き方を実践しろ」


という事に集約されるはずです。
後年の人間たちが作り上げた余計な戒律や知識は
すべて不要なのです。


そしてその精神はアダムスキーの宇宙の法則と生命の科学に
引き継がれていると思います。


だからこそ生命の科学を実践してほしいと
アダムスキーは理解者に薦めていたのだと思います。


それは仏教にしても同じです。


元々は簡単な教えだった釈迦の言葉が
後の弟子たちが「釈迦がそういっていた」と付け加えた
経典で膨れ上がり、


簡単な教えを複雑なものへと
変貌したと言う一面を理解すべきだと思います。


二人の聖人の教えから共通して読み取れることは
人間として当たり前のことを当たり前に実践すること。


それは道徳の実践に他ならないはずです。


私達はその道徳すら実践できなくなっているのです。


法律で制定されたことを守る事と
道徳の実践は別物なのです。


そしていくら厳しい修行をしようが
禁欲をして生きようが、それが必ずしも
私達の精神を高める事には繋がらないと思います。


チベットの修行僧は自らその意識を高める事で
結果的には精神を強く感じる事のできる存在へと
変貌しているのでしょうが


一般の私達のような人間が激しい修行をして
そこから何かを必ずしも得られると言う物ではないと思います。


彼らは修行を通じて
そこから自分の中の神の意識を感じる事になる。。


勿論それが辛い物であっても
彼らの元々の生活環境に基づく精神が


それに対応できるものであるからこそ
修行でも効果があるのであって


もしも、ろくに意識の高くない人間が
苦しい修行をすることになれば


今度は”辛い”という想念や”苦しい”と言う想念を吐き出しては
心を動かしまり、精神を感じるどころではないと想像出来きます。


一般市民である私達は日常の生活の中で
宇宙の法則を地道に実践するように務めれば良いのだと思います。


それはある時だけ集中的に行って
ある時はまったく意識しないような実践ではなくて


弱くても常にその事を意識しながら生きていくこと。。


精神を感じる努力をしながら生きていくことが
私達の潜在能力を引き出すきっかけになると思います。


しかし一方で、形式的な行為にとらわれて
事の本質を理解できない人間は


例え救いを求めていたとしても
それを得る事はできないはずです。


毎週教会に通っていようが、
お祈りや祈祷や念仏を続けていようが
それは関係ないと思います。


そこには得てして心の強い現われであって
精神が伴わない行為に繋がるからです。


イエスキリストが触れていた例えで語った教えを
”道徳”であると捉え実践出来ない人間が


いくらイエスキリストを崇拝しても
精神を感じることなど出来ないのです。


フリーメーソンがどんな真意で
宗教の廃止を計画しているのかは判りませんが


私達は宗教と言う物を見直して、
宗教組織同士が争う事のないような
そんな社会を実践する事が本当は大切なのだと思います。


多くの宗教は、それを信仰する事は、
心の支えや精神の進化に資するよりも
争いのネタを作り上げる結果になっていると思います。


大切なのは人間が作り上げた慣習や形式を守る事ではなくて
事の本質のはずなのです。


そしてここでの本質は
イエスキリストやお釈迦様の教えの基本を実践する事のはずです。


そして両者共に語っていたのは
結局は「道徳を持った人間としての行き方を大切にしろ」
と言う事なのですから


私達もそれに従う事こそが求められているのだと言う事。


組織間の無意味とも言える対立や争いを続ける事で
憎しみや怒りや闘争本能といった想念をばら撒いていて


それで神の法則・宇宙の法則を実践できていると思うのであれば
それを続ければ良いのでしょうが


本当の神の意識を感じたいのであれば
聖人たちの教えを実践する事こそが最優先であり


聖人の死後に付け加えられたような弟子や
孫弟子達の作り上げた人間の心を持って制定された独自の価値観には


何の神の意識も働いては居ない事を
私達は理解すべきなのだと思います。


輪廻転生など端から信じていない人間は
それで良いのかもしれませんし


神の名を掲げて争いを続けている人間は
それを死ぬまで続ければ良いのかもしれません。


しかし心から神の存在を信じる人間であれば
そんな意識をしている自分は、


天国や永遠の命とは無縁で在ると言う事実を
自覚すべき時が来ていると思います。


精霊はいつも私達と共にいます。


差別する事なく全ての人間には神の精霊のご加護もあります。


ただ、私達の心が暴れまくってエゴばかりを主張しているから
その存在を認識する事ができないだけなのです。


そして精霊=神の意識の分身=私達の魂=神のエネルギー


である事を


今こそ理解しなければならない時が
来ているのだと思います。