続・宇宙の法則 VOL7 イエスの奥義後編 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。



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続・宇宙の法則 VOL6 イエスの奥義前編


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続・宇宙の法則 VOL5 想念とオカルト
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続・宇宙の法則 VOL4   心とエゴ

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宇宙的覚醒の障害 アセンション
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続・宇宙の法則 VOL3 意識の経路 
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終戦の日に闇政府傀儡を語る
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ブラザーズの視点で VOL11

ヒットアンドアウェイ。


ボクシングで相手を殴っては逃げるという
戦法をそう表現した方がいますが


私が今やられているのはまさにそれです。


怒るまで甚振られてはその後開放される。


以前からの関与と比べても
被害は決して楽ではありませんが

被害コメントを出しにくくなっているのはそのためです。


コメント出すタイミングを失うのです。
(のど元過ぎて熱さ忘れる)


怒りの頂点に達しそうになって
コメントやユダヤや民族関係の記事を書き出すと
一時的に被害を軽減してきます。


ここ数日、苛つき誘導も続くので
大きな声で悪態をついてやりたい衝動に
駆られ続けています。


やることもえげつなかったり下品だったりで
身近な異常者達の異常行動に流石に愛想が尽きています。


やられていることの詳細は触れません。


片っ端からあげていくときりが無いからです。


其の上に放って置けばどんなことでも始めかねない
そんな人間性をも感じています。


室内で黙っていると被害は激化することはあっても
沈静化する事はありません。
(首謀者達の攻撃です)


今までもこのように多くの人間を苦しめて続けて来たのでしょう。


ところで電磁波被害を訴えているの被害者は
今一体どのくらいいるのでしょうか。


どうやら殆どの人間が潰されたり
洗脳されたり圧力で口を封じられているようですが


一番危険なものは間違いなくこの電磁波犯罪です。


小さなことから大きなことまで
嫌がらせから殺人まですべて可能にするこの技術。


それをよりによって精神状態が
一番創造主からかけ離れた人間達に与えたから
この社会はこんな事になっているのではないでしょうか。


この人間達は自分達の悪事の証拠を消した後に
善良な一般人を装って生きてくのかと思うと
消えていった多くの自覚・無自覚の被害者が不憫です。


しかしこの社会の常識や規則自体が壊れているのですし
この社会では彼らは正しく裁かれることもありません。


八咫鳥なのか民族なのか宗教なのかは不明ですが
(全部の有志かと思います。)


私は宇宙の法則を唱えていますし
地球の法則の傀儡にはことごとく憎まれる事も諦めています。


私が彼らにとって都合の悪い意識を持っているからこそ
ここまで憎いのでしょう。


悪態をつかれたくなければ嫌がらせをやめればよい。


脳を苛つかせるのをやめればよい。


そして私が悪態をつこうと
彼らが盗聴しなければ腹も立たないはずです。


しかし私を意図的に怒らせておいて悪態をつかせ、
しかも其の様子を実況中継しては聞いて、
それに対してまた怒りを引き起こしているのですから


この人間達は端から闘志を引き出したい、
戦いたい、怒りたい人間たちなのだと思います。


室内で私が明るく話していると
攻撃はひどくなります。


要するにこの人間達は他人が明るくしていたり
幸せそうにしているのを嫌うわけです。


そして一方では悪態を誘導しては
それに反応して攻撃を強めているのですから


悪しき想念を心地よく感じて生きているのでしょう。


そして彼らは自分達を神か善人だと思い込んでいます。


もしくは自分達のしている行為が正当化されると勘違いしているのです。


はっきりいって一般人の手に負える相手ではないと思います。


特殊な意識の人間達が一番手ごわいと言うことです。


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前回に続いて、自称イエスの使徒である私の、
今の精一杯の理解としてのイエスキリストの真の教えを
取り上げていきます。


本当は理解者や覚醒者と情報や意見交換もしてみたかったです。
(今では紐なしでそんな無謀な行動が出来る方はいないでしょう)


もっと深い理解をしている方には
稚拙な内容に受け止められるかもしれませんが、


私の資質と、今の脳の状態と
私の置かれた環境ではこれが精一杯です。


前回の内容を前提に、
新約聖書のイエスの言葉とパウロの言葉を
読み返してみてください。


私達には旧約聖書は必要ありません。
(参考にはなりますが)


キリスト教徒ではない私達は聖書を神聖化する必要は無いのです。

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カトリック教徒達は秘儀なるものを有しているそうですし
ユダヤ教徒もカバラなる秘儀を持っています。


さらにゲマトリアなる秘儀を有して
他の秘儀同様に占いや予言に資している人達もいます。


しかしここで出てくるイエスの神の国の奥義は
そんな占いごとやオカルト交じりの話ではありません。


時間と現象とそれに伴う運命を数字的に分析し、
それで人間の人生を占ったり


特定の時間に特定のエネルギーが強く働くと言うことを
分析していて


それを利用する秘儀がカバラのようなものだと思います。


実はイエスキリストもそれに長けていたと言う話もあります。


イエスがそれを使用できたとすれば
根底の宇宙の法則を理解していたからだと思います。


しかし周辺に渦巻くエネルギーや法則を数式的に分析し、
それを使用するような自称秘術と
イエスの神の国の奥義とは一緒にして頂きたくはありません。


物理法則的に分析できる、さまざまなエネルギーの大きさと
それが人間に齎す状況を分析して使用しているのが
彼らの秘儀だと私は理解しています。


そこで使用されているのは、
目に見えない創造主の残留思念エネルギーの法則が齎す
”結果”の分析なのです。


風水(奇門遁甲)は人間の性格や運命を
数式的に把握することができます。


つまり人間の出生日時が人間に何らかの運命を与えていて
それを数術的に分析が可能だという不思議な側面を彼らは理解して
それを使用しているのです。


そしてカバラもそれに近いものだと私は想像しています。


つまり私が地球の法則の信奉者と取り上げている人間たちが
予言や運命を占うとしている秘儀は、
法則の結果を利用しているに過ぎないと言うこと。


結局、彼らは因なるものを理解しようとせず
結果に頼ってそれを秘儀としているわけです。


しかし私達が理解すべき事は、
法則を集め結果としての集大成として
それを尺度に占うことではありません。


因なるものを理解すること、
見えるものと見えないものを同時に見ようとすること。


そして私たちの周囲に渦巻く創造主の法則を感じそれを理解し、
それを万物のために良い意味で働かせることを実践することが
私達には求められているのです。


そんな創造主の法則を理解し実践するためにも、
人としての必要な資質を得るためにも、


イエスキリストは、私達が実践し取得すべき事を
神の国の奥義として私達に述べ伝えようとして、
それを12使徒や側近に託したのです。


イエスの十字架の死の時に12使徒が逃げ出したのは
おそらくはイエスキリストやブラザーズにとっては
当初からの予定通りだったのではないでしょうか。


イエスは、「十字架を背負って私に続きなさい」
とは語っていましたが


彼らの役割はイエスと一緒に貼り付けにあって死ぬことではなくて
イエスの奥義とイエスの教えを
多くの人間に対して述べ伝えることに在ったと思います。


それは後の彼らの働きとそれを補佐していた
天使(スペースブラザーズ)達の動きからも明らかです。


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マタイ13章 一部略


すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。
「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」


イエスは答えて言われた。
「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、
彼らには許されていません。


というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、
持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。


わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、
聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。


こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。
『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。
確かに見てはいるが、決してわからない。


この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。
それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、
わたしにいやされることのないためである。」


しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。
また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。


まことに、あなたがたに告げます。


多くの預言者や義人たちが、
あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、
あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。

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目で見て耳で聞いていると言うのは、
目や耳といった感覚器官で認識し、そこで知恵を用いて
見えない何かを悟るという行動をも含めての言葉だと思います。


誰もが目で見ることはできますし
耳で聞くことはできます。


しかしそれに思考を加えることで
直接認識できないことまで悟る事のできる人は
多くはありません。


イエスキリストが選んだ12人といわれる使徒は
そんな資質をイエスに認められた存在だと思います。


そして彼らはイエスの奥義を学び実践することで、
過去の預言者や義人達が見る事も聞く事もできなかった事を


意識の魂への経路からの精霊の働きによって
見聞きすることになるわけです。


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コリントⅠ 2章

私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、
それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、
あらかじめ定められたものです。


この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。
もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。


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そしてイエスの死後、その奥義を引き継いだ使徒たちは
マスター(主人)であるイエスの教えを大衆に理解させるためにも


この世界の見えない仕組みの知識を含めて
彼らにその奥義を伝授しながら、


イエスの教えの正しさと既存の旧約聖書の律法の誤りを
述べ伝えたのだと思います。


ここでもパウロは自分達の語っているのは
”神の知恵”だと言っています。


それは言うまでもなく、
四次元にエネルギーとして存在している、
創造主の思念と宇宙空間におけるありとあらゆる記憶の事です。


創造主はこの世界の始まる以前に
すでにその三次元と四次元における法則を
残像思念として作り上げていて


私達この世に生まれた人間は
無自覚のうちにその影響を受けながら暮らしています。


私たちはその事を理解する事で、
正しい人間としての生き方を実践できるようになりますし
それに導くための手段がイエスの奥義だったわけです。


イエスの奥義の真髄は自らの口で
創造主の意志を語ることにあります。


魂の進化が進めば創造主の意志を
より鮮明に表現できる様になるのだと思います。


それはイエスキリストが
2000年間に実践して見せた行為そのものです。


イエスは「自分が為しているのではなくて
父が私の体を持って為しているのだ」といいました。


そのことはイエスが魂を通じて創造主の意識を強く感じ
創造主の意志を身をもって表現していたことを示しています。


大きな魂の器を持っているイエスが
創造主の意志を存分に表現していたからこそ
イエスは神聖に見えたでしょうし


そこで語る言葉も創造主の意志として
人々に伝わることにもなったのだと思います。


しかしそんなイエスの様子を理解できない為政者達は、
イエスを神になりすます冒涜者であると認識することにもなりました。


すべては彼らの知識の足りなさ故、
そして彼らが目に見える物に囚われていて
魂とその機能を理解していなかったためだと言えます。


イエスの奥義は創造主の意志を
魂から引き出す行為です。


それは”生命の科学”で意識の経路を魂につないで、
そこから創造主の意志を引き出す行為と同じものです。


コリント16章
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私の福音とイエス・キリストの宣教によって、


すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現されて、
永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くために
あらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、


あなたがたを堅く立たせることができる方、知恵に富む唯一の神に、
イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン

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パウロのここでの記述では
長い間隠されていた、
もしくは理解されずに放置されていた奥義は、


イエスキリストによって現されて、
パウロ達によってあらゆる国の人々に伝えられたと
解釈することができます。


以前から繰り返しているのですが、


パウロの手紙、その他の使徒の手紙は
キリストの教えの素人に対して書き綴られたものではなくて、


12使徒からの福音を受けて、イエスの奥義の使用法を伝授され
それを実践中の人間たちに対して、
それらの知識があること前提に書かれたものだと思います。


そしてその手紙の真意を理解する前提として
イエスの奥義を理解していることがあげられます。


生命の科学における三次元と四次元の関係

さらには、心と魂の関係、


そして創造主の法則の存在を理解していることです。


その知識を持った人間に対して書かれた手紙は、
その知識を前提として読まねば真意は理解できないわけです。


「新約聖書の記述を信じなさい」といっても


私達、覚醒者理解者が言うときと、
一般のクリスチャンが言うときでは
その真意はまったく異なってくることになります。


新約聖書はその活字を文字通り信じて
受け止めるべき内容ではなくて、


私達が創造主の法へと辿り着くための
手がかりの書であると認識している私達にとっては、


新約聖書の記述に拘り、それを鵜呑みにする事は


イエスが批判していた、


旧約聖書を読んでその中の戒律だけを限定列挙として捕らえ、
それだけを守ればよいと言う形式重視の姿勢と
何も変わるものではありません。


私達にとって大切なのは本質であり、


新約聖書は、その本質に辿り着くためのヒントが
ふんだんに記述されている

真理探求への書であると認識すべきなのです。


私達が重視すべきは聖書の一言一言の記述ではなくて


そこから導き出される真理を探究するための手法であり、


新約聖書の記述は、イエスの奥義を使用したときに
イエスや12使徒が受け止めた創造主の意志の一部にすぎず、


大切な事は、その創造主の意志を
一人一人の人間が受け止めることが出来るようになるための
手段取得のきっかけにする事だと思います。


後に”キリスト教”という名の宗教にされ、
時の支配者層や王に利用された時に


イエスの教えとそれに関連する12使徒の活動は
すべてまとめて信仰の対象とされたのだと思います。


しかし新約聖書も歴史の一部であり、
それには真実も虚偽も混在しています。


それを鵜呑みにすることでイエスの真意を見失うのではなくて
その中から創造主への信仰の本質を見つけて
私達はそれこそを実践しなければなりません。


時代の流れと共にキリストの真意は捻じ曲げられ、
王だけではなくて教会が力を持つようになり、


クリスチャンは教会の教義こそを
イエスの教えであると認識するようにもなります。


時にはそんな人間達によってキリスト教はさらに捻じ曲げられ
イエスがいけないと言っていた偶像崇拝をも
肯定する信仰にも繋がっていきます(マリア信仰含めて)


そして教会によっては個人的な啓示を語ることさえ
禁じられています。


それは創造主を冒涜するサタンの行為であると排除されますが、
実際には教会の権威を失墜する可能性のある行為だからだと思います。


「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」


イエスのこの言葉を誤って解釈した人間たちは、
イエスの死後”キリスト教”の教会を立てては
そこをイエスの教えの福音の場としました。


もちろんそこで正しいイエスの教えが述べ伝えられれば
何の問題もなかったわけですが、

述べ伝えられるものは誤ったイエスの教え、さらには形式であり


魂の伴っていない教会に何故か権威が集まると言う
誤った現象もおきます。


そしてイエスの教えは完全に形骸化されたのです。


マタイ8章

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だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。


雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、
それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

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ここの記述からも、イエスは物質としての教会と言う建造物を
固い地盤の上に立てると言ったのではなく、


「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」


というこの言葉は、
自分は強い信仰をもって創造主の意志を延べ伝えていくと
例えたものである事は明らかです。


イエスの言葉は教会に権威を与えるものではなかったのです。


今、キリスト教の権威は教会にあり
その解釈もすべては教会の権威の下に行われています。


そこでは個人的真理ともいえる
人間の心を持っての聖書解釈がまかり通り


イエスの教えは2000年前のユダヤ教と同様に
形骸化することになりました。


しかしイエスの教えの本質は間違いなく創造主の法、
つまりは”宇宙の法則”にあるのです。


それを指し示すことのできない既存の教会は
その教えを正さねば
イエスの真意を人々に伝える事はできないでしょう。


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そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、
エルサレムからイエスのところに来て、言った。


「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。
パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」


そこで、イエスは彼らに答えて言われた。
「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。


神は『あなたの父と母を敬え』、
また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。


それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、
私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、
その物を持って父や母を尊んではならない』と言っています。


こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、
神のことばを無にしてしまいました。


偽善者たち、イザヤはあなたがたについて預言しているが、
まさにそのとおりです。


『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。

彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。
人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」


イエスは群集を呼び寄せて言われた。
「聞いて悟りなさい。 口に入る物は人を汚しません。
しかし、口から出るもの、これが人を汚します。


そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。
「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」


しかし、イエスは答えて言われた。
「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、
みな根こそぎにされます。


彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」


そこで、ペテロは、イエスに答えて言った。
「私たちに、そのたとえを説明してください。」

イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。


口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。


しかし、口から出るものは、心から出てきます。それは人を汚します。


悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。


これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」

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ここでもイエスは大切な事は形式ではなくて
事の本質であると言うことを取り上げています。


食事の前に手を洗うと言う習慣を半ば戒律として持っていて、
それを実行しているユダヤ教パリサイ派の人間たちが、


イエスの取り巻きが手を洗わずに食事をしたことに関して
非難している一節です。


週に一日安息日を設ける、断食をする、
手を洗って物を食べる、帰宅したら体を洗う、


そんな人間の作り上げた習慣を創造主の教えの実質よりも重視し


一方、神への貢物として信者から寄進された財は、
信者の両親を孝行するためにも使用できないとしては
ひそかに所有財産の蓄財をも図っていた人間たち。


していることは現代社会でカルトといわれている一部の宗教と
なんら変わるものではありません。


特定の人間たち、


そこでは時の支配者やユダヤ教パリサイ派長老会サンヘドリンにとって
都合のよい律法が幅を利かせて
人々はそれに服従する事を半ば当たり前とされていたはずです。


しかし彼らには創造主への信仰心を
感じる事はできません。


イエスは手を洗わないで物を食べることの弊害よりも、
私達にとって遥かに良くない行為として
悪意を持つこと、負の想念を吐き出すことだと述べています。


手を洗わずに食事をしても
少なくとも私たちの精神が汚されるようなことはありませんが、
(現代社会ではばい菌に感染して食中毒はありえますが)


手を洗って物を食べることを戒律として守っていようが、
心で悪意を持つ行為をする事はそれ自体が創造主の意志に反し
私達の精神を汚染すると言っているのです。


そしてその時にイエスの批判の対象となっていた、
ユダヤ教パリサイ派と律法学者。


そしてその裏で糸を引いていた長老会サンヘドリン。


そんな人間たちがキリスト教社会までをも
汚染しながら作り上げてきたこの社会。


イエスの真意を理解するためにも


私たちは余計な先入観と誤った知識を取り除いて
一方では魂への意識の経路を確保した状態で
聖書と向き合うべきではないでしょうか。


【地球人の神は遠い場所にいるのではなく
近くの万象の中に、人間自身の内部にいる】


私達の真の”信仰”も聖書に持つべきものではありませんし、


イエスキリストや聖母マリヤに持つべきものでもなく

私達の内部の創造主の意識に対してこそ持つべきだと言うことです。