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不幸のブログ 

三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

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今日は省略しますが運命に関して少しだけ触れて起きます。


挫折から学ぶことがあることは私達も体験していると思います。


挫折に限らず心が痛い想いをした事ほど
私達にとっては学習の機会となっているからかもしれません。


例えば虐め問題などはそれを体験している人間ほど
関心や理解も大きくなると思いますし


自分が苦しんだ経験がある人間ほど他人の気持ちを理解することも出来ます。


時にはそれで捻くれる人間もいるのでしょうが
傷つくことが多かった人間ほど
他人に優しく出来るというのは本当だと思います。


自分が胸を痛めた分だけ他人の痛みを理解することになる。


私達は似たような苦しみを経験している人間の立場を
”理解”して”同情”するのです。


自分がそれを体験し学んだ事が
他人の想いを魂で受け止めるようなものだと思います。


そして更には挫折が人間を成長させることがあると思います。


人生挫折だらけで何一つ成し遂げていない人間が語っても
説得力はありませんが、


少なくともそれをしたことで学べた事があるはずです。


結果だけを重視するのがこの社会ですし
成功し続けていることが正しいとされるのが
エリートと言われる人間達かもしれませんが


彼らは必ずしも人格者ではないでしょうし
必ず覚醒出来るわけでもありません。


何事にも優れていると言うわけではないのです。


イエスキリストが大勢の貧しい人間を導きましたが
今の社会で言えば貧しい人間は負け組と表現されるようです。


しかし当時のイエスの教えで導かれた人間は
そんな負け組とされる人間達でした。


彼らは不遇な生活の中で何かを学んでいたのだと言えます。


私は挫折を繰り返した中で一番良く理解できたのは
以前にも触れたように
「自分はたいした人間ではありえない」


と言うことでした。


自分がその能力をあると思っていたとしても
結果が出せていないと言うことは


勿論この社会は結果で見られますから
不合格は不合格です。


そして自分も能力が足りなかったと認識することで
自分の過信を減らしていくことにもなります。


つまりは自尊心のようなもの、
自分は能力があるとか自分は大きいと思うような気持ちを

徐々に打ち壊すことになったと想像しています。


それともう一つ、私達が学ぶべきことは
時には本当の学習にもあるかもしれません。


学校の科目のようなものの中にです。


私は得意だったのは数学と科学です。


しかし自分で興味を持った若しくは学ぼうと勤めたのは
国語や社会、そして科学の中でも履修しなかった地学だと言う話をしました。


更に一番苦手となっていたのは
高校時代のさぼりが災いした英語でした。


結果的に幅広く知識とすることになったのは
国公立大学への進学を希望したからでもありましたが
私の場合は単にお金が無かったことがそのきっかけでもあったと思います。


その人達の置かれている環境で進学状況もかわりますし
勉強をしたくないという人間もいればそれを率先してやる人間もいます。


ただ、今から振り返れば他人に騙されない為に
そして正しいこととそうでない事を自ら選択するためには
学校含めて多くの知識を詰め込むことは決して無駄ではないと思います。


しかし一方では学習と人間の心の資質は別物だといえます。


頭でっかちで優秀と褒め称えられても
そのこと=覚醒や聖人である事に繋がるわけでもありません。


ただ、自分が興味を持ったことに関しては
それが課題に繋がる可能性があるので
進学とは無関係に追求することをお勧めします。


これから国際化時代だから英語が出来なければ
良い仕事に就けないなどという打算ではなくて


もっと心底から興味を感じるような事柄は
きっと魂の導きによるもので
その後の人生で何らかの役に立つことになると思うからです。

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昨日に続いてこの社会への天使達
太陽系の兄弟であるスペースブラザーズに関して記事にします。


いつの時代でも道徳や生き方、そして神を語る人間がいて、
その人間自体を見つめると人として魅力的であることを
感じることになりますが、


残念ながらそれに習う人間が
必ずしも魅力的に見えないのがこの社会の実情で、


結局はその魅力を感じた偉人の精神を引き継いでいる人間が
少ないからなのだと思っています。


それが哲学者でも儒教でも後の宗教の創始者でも
私の目から魅力的に映る過去の時代の偉人は少なくありません。


お釈迦様やイエスキリストは当たりまえとしても
哲学者であってもアリストテレス、プラトン、デカルト、カントのような
人間達の思想だって、


さらには孔子や老子(もしくはそう呼ばれた人間たち)墨子にしてもそうです。


科学者であれば其の研究が悪用こそされましたが
アインシュタインだってそうです。


彼らは常にその時代に生きてその時代の背景を理解した上で
その時代の改善を求めるような意識と知識を語っていたと思います。


別の時代において、彼らの業績を
私達はそのまま再現することはできないでしょうし


彼らの目に見えている上辺の姿を真似てみても
他人の魂に訴えかける事は出来ないと思います。


それは私達がそんな人間達の上辺や知識ばかりを真似るからであって

ここでも大切なのはその実質であり、私達が理解すべきは
彼らが一体どんな想いを持って生きていたのかと言うことのはずです。


そして模範とした人間を美化してはそれを100点の解答として崇拝し
それと異なる価値観を排除しようとするのではなくて、


多くの先人達の想いの中から共通の意識を見出すことで
私達はそこから学ぶ事が出来るはずだと思います。


イエスキリストに限らず、いくら素晴らしい人間達が素晴らしい知識や、
多くのためになる話を披露してくれたところで、


私達の様に、その人間の主張の上辺だけを受け止めたり
視覚から認識できる姿ばかりに囚われるのでは
私達は偉人の業績の実質を捉えることは出来ません。


私達を導こうとした人間達は、それぞれ表現が違っても


人としてあるべき姿を、
そして私達が知るべき真理の知識を


魂と言う自分の実態そして創造主の意志であるものを受け止めて
表現していたのだと思います。


私がそう確信できる理由は、言うまでもなく天使達の想いです。


多くの天使達がこの地球社会の中で偉人として
あらゆる分野で活躍したとアダムスキーも触れていました。


例えばアダムスキー本人は明言していませんでしたが、
アダムスキーも中国に生まれた事があると言う話を側近にしていて、


その側近はアダムスキーを、
老子といわれる人間達に由来ある集団の一人だったかもしれないと
語っていました。


イエスキリストという肉体を持っていた魂は、
あるときはエリアでありある時はモーセであり、
更に其の以前はアブラハムであった可能性があります。


イエスに関しては聖書の歴史を作り上げてきた中心人物で、
おそらくは地球社会にとっての
昔からの指導者(マスター)ではないかと思います。


「アブラハムよりも以前から私は存在していた」


というイエスキリストの言葉は嘘ではないのです。


彼らは地球社会に目に見えない多くの影響を与え続けていた人間達。


私達が認めようと認めまいとそれは事実です。


アダムスキーの著書の中では、各惑星の代表の席の隣に
マスターと言われる各惑星の指導者が座っていたと言う記述がありますが


その12人の偉大なマスター達は皆が
地球社会において私達の社会に影響を与えたことがあると言う話でした。


私達の知っている偉人達の中に天使の世界のマスターは存在してたのです。


そんな人間達の思想の中から何かを学び続ける事ができたような人間は
彼らの想いの通りに、永遠の命を持つまでの進化に至ったのだろうと想像できます。


そして今この社会の中に残されている私達は、


それが新しく生まれてきた魂を持った存在でなければ、
皆がこの社会の中で創造主の法を落第をし続けている人間なのだと
私は繰り返し触れています。


私達は学ぶべき事を未だ学べていないからこそ
この地球社会の中に取り残されている。


それを自覚する事ができたのが私の兄弟姉妹達だと思います。


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天使達の協力は思想にとどまりません。


思想が私達の精神的進化だといえますが
物質的な進化にも彼らは強く関わっています。


時には地球社会に紛れ込んで、時には其の想いをもってです。
(テレパシー)


今の地球社会は哲学や思想よりも科学を重視する傾向にあります。


私達の共通認識が心が司る器官に限られていること。


そしてその中でも視覚といわれるものによって
私達は実証性を感じる事になっているからです。


目に見える実証性のあるものを私達は”現象”とか”存在”と呼んでいます。


そしてその現象を引き起こしているのは”原因”と言われるものでした。


科学者はその”現象”に着目してはその”原因”を追究する
スペシャリストです。


そして彼らの手によって科学は進歩してきました。


彼らは現象として現れている”結果”から”原因”を追究し、
その原因も現象であれば、そこから更なる原因を追求すると言う姿勢を続けることで
更なる因を求め科学を進化させ続けてきたと言えます。


でも科学者を、”現実的で目に囚われている存在”だと
認識するのは間違いだと思います。


本当に探求心を持って研究をしている多くの科学者が
最後に行き着く”因”は”創造主の法”だからです。


私達は結果として報告された”現象”を知ることになるので
科学者が”現実”と”現象”という目に見えるものだけを
追求している存在だと思いがちです。


しかし因を追及し続けている彼らは
最後には決まって超えられない壁へとぶち当たる事になります。


つまりそこで自分の目に見える事の限界に気がつくのです。


例えば、気象変動が起きて、
それが風や嵐や積雪と言う現象として現れたとします。


其の原因を追究すれば、今度はそこに雲の発生や降水、
気圧の存在、温度差の存在を発見します。


しかしこれらは未だ現象です。


この現象を引き起こしている原因が存在していることになります。


そこで其の原因を追究すると今度は
例えばそこに気圧を移動させたりしているジェット気流の存在を
意識することになります。


しかしこれも未だ現象です。


其の現象を引き起こしている更なる原因を追究すると
私達は電離層といわれている場所においての活動が
その下の空間に気象変動を引き起こしている事を知ることになります。


更に其の電離層がどんなメカニズムを持って其の変動を齎すのかを
追求することになります。


では其の電離層に変動を齎している原因は何なのか?


ひとつには太陽からの放射線でしょうし
それに含まれる宇宙線の多くが電離層で吸収される現象や、
その結果昼間には電離層が広くなることを私達は知ることになります。


一方では其の電離層に”急激な影響”を齎す原因があるからこそ
”異常な気象変動”も起きていることになります。


それに関しても私達は見ることが出来ませんし
当初はそれを現象として推測することにもなります。


そこまで全て説明できたと仮定しても、では今度は

”なぜに電離層と言われる空間が
出来上がっているのか”


という話にもなります。


電離層があるから気象変動が引き起こされるとしても、
其の電離層自体が何故にその場にあのような状態として
出来上がるのかということを私達は説明する事は出来ません。


そこには何らかの力が存在している、もしくは
何らかの法則があるのだろうと私達は理解することになるはずです。


一方研究が進んでいないころは電離層の中に存在している
イオン化した粒子の存在すら私達は認識できなかったはずです。


全ては見えないものを追求した後に
たどり着いたのが今の科学の進化なのです。


更に素粒子の発見で、目に見えない多くの物の正体が
現象として説明できるようになりましたが


そしていまだ解析されていない”因”が山ほど存在しているのが
私達の科学の実態だと言うことです。


付け加えれば急激な気象変動の裏には、
激しい電離層の異常が伴った事になりますし


(おそらくは電離層を経由しなくても
大気に影響を齎す技術もあるのですが)


其の電離層に異常を齎すことが出来る
科学力も存在していて
それこそがハイテク電磁波兵器の一つHAARPですし


それが大雪警報の出ているこの最中に
激しく動いていたことも触れておきますね。


話は飛びましたが、


現象の原因を追究していくと、そこに働いている力は、
私達が目を持って現象として認識することができる
ものだけではないと言う事実に行き着くのです。


私達は自分の肉体で起きている現象含めて、
それを”更なる現象で説明する知識”を知ることで
それが当たり前だと認識しています。


時にはその因を知る事なく「こんなものなのだ」と思い込むことで
その不可思議を追求する事も止めています。


子供視線で質問された時に私達が答えられないことが多いのは、
私達が昔は疑問と感じていた事をそのまま理解せず放置しておき


その上で「それはそんなものなのだ。」


と自分の中で自己完結している証拠に過ぎません。


例えば私は”燃焼”と言う現象を説明する事ができないのです。


火はなぜ燃えるのか?


そこで熱や酸素が必要とされることを理解していても
その結果炭素が目に見えて残される事は理解できても
物質が火というエネルギーに変化しているらしいことは判っても


燃焼というその現象を正しく説明できません。


でもそれは私だけではないと思います。


私達は知ったつもりになっているだけで
実は身近な現象に関してもその因を正しく追及などできてはいない。


そして自分が何も知らない事を理解していないだけなのだと思います。


しかし天使達の社会の人間達はそうでありませんし
この社会の中の賢明な科学者もです。


この社会の科学者達は、因なるものを目を持って、耳を持って
理解できる範囲で追求し続けますし


それを知った私達は目に見える因を再び”現象”として認識しますが


科学者は其の現象を追求して行った後の
”目に見えない因”にぶち当たる羽目になり、
其の時に私達が知覚と呼んでいるものの限界を知るのです。


其の時に見えない因を生んでいるものを理解することになる


そこに見えない大いなる力の存在を感じることになります。


天使達はそれを”偉大なる英知”と表現していますし
私達はそれを創造主の法だと認識するにいたります。


つまり賢明な科学者であれば誰もが創造主の法の存在を意識するのです。


今のこの社会の多くの科学者が、地球の法則お抱えであったとしても

少なくとも其の姿勢が真理を探求を続ける意識に基づいていれば
殆どの科学者は創造主の気配を感じていることになります。


そして私達が知覚と呼んでいる物の限界を知っているはずです。


地球社会の科学の発達においても、
「目に見えるものを意識したばかりに私達は失う事となったものがある」


と言うのがアダムスキーの話でした。


それはゲルマニウムラジオの話で、
藤原氏の著書の中で取り上げられていましたが、


私達が電気エネルギーを与えることなくても、
自由エネルギーを取り込んで稼動するものだったと言うことです。


トランジスタの発明が電力供給へと繋がり
私達は自由エネルギーを使用する機会を失い今に至るのです。


目に見える機械と、それに併せて目に見えるエネルギー
もしくは私達の認識しているエネルギーを使用することで


この社会の科学は進化してきたわけですが、
一方では目に見えないエネルギーを私達は失ったことにもなります。


つまり聖書の教えで、
イエスが「見えているが見てはいない」と言ったように、
アダムスキーが「私達は人生の半分しか認識していない」と言ったように、


科学に関しても視覚に囚われてそれを全てとすると
理解すべきことの半分しか理解できず
それを全てだと誤解する羽目にもなるのだと言うことです。


そして天使達の社会の科学力の進化の仕方は
私達の社会とは異なっているであろう事も想像がつきます。


彼らは目に見えないものを理解出来るからです。


創造主の法則を理解すれば、
そこに因が存在することを理解すれば、
そこから逆に現象を導き出すことができます。


彼らは”私達の見た事のない聞いた事のない物を
全て持っていて与えてくれる存在”に
それを求める事が出来るのですから


発見にしても技術の進化にしても
最初に方向性が示されることになるのです。


方向性を与えられる事で私達の探求の作業が容易になることは
言うまでもありません。


まったくの試行錯誤ではなくて
そこには見据えるべき方向が示されているからです。


そして私達が理解していないのは、
実はこの社会の近代の科学力の多くが
天使達の知識に基づいていると言うことです。


アダムスキーが太陽系に三つのアステロイドベルトがあると言えば、


それを前提に探索すればそれは見つかることになりますし
現にエッジワースカイパーベルトと言うものが
二つ目のアステロイドベルトとして発見されていますし


三つ目にしてもNASAはすでに発見しているであろう事も想像がつきます。


この場合の作業は、前もって知識が与えられているのですから
あとはそれに基づいて裏づけを取ればそれは発見・実証されます。


DNAについての知識を与えたのも
地球社会の研究者に知恵を与えた天使達のおかげだと言う話ですし、


素粒子などに関してはアダムスキーが
50年前には”光よりも早い物質がある”と言う話含めて
原子よりも小さな存在として地球社会の科学者達に紹介していた内容ですし


おそらくは今の多くの科学は、天使達の持っていた知識の立証
と言う作業の上に進化してきたのだと想像できます。


私達はそれを天使達から与えられましたが
彼らはそれを”偉大なる英知”から受け止めることになります。


それを立証し現象として作り上げていく。


彼らの科学は現象を現象で追及していく作業ではないのです。


彼らが創造主の存在を大前提にしていて
それを当たり前としているが故にそんな方法が可能になるのであって


視覚だけに囚われている私達の社会の指針だけでは
科学には限界があることにもなります。


今この社会は、天使達の知識から、
音響や電磁場含めてあらゆる”振動”や”周波数”を研究していくことで
進化を果たしていますが


其の知識を使用し尽くせば
其の先には指針は見えてはこないと思います。


ドイツのロケットの父と言われた
オーベルト博士はアダムスキーとの面会の時に博士が語った内容に関しての引用です。

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私はある研究所に八日間いたことがある。
そこには少なくとも六人の男がいたが、そのなかにオーベルト教授がいた。
これは一九五四年のことだ。


彼はベリー航空機会社に勤務していた。当時、このオーベルト教授も一緒だった。


(訳注=ヘルマン・オーベルトはドイツのロケット工学の権威者。
物理学と数学の教授で、一九二三年に宇宙空間を航行するロケットの基礎理論を確立し、
後にフォン・ブラウンらの協力で開発した円錐エンジンは、
ドイツのロケット工学の進歩に重要な役割を果たした)


 そのときオーベルト教授が私に言った。
『われわれだけでは、とてもこんな素晴らしい科学の進歩はとげられない。
私たちはずっと援助を受けてきたんだ』


 私は彼の言う意味を理解していたが、もっと彼の話を聞きたかったので、
『それはどういう意味なのか』とたずねた。


 すると彼は『このことはあなたも知っておく必要がある』と言うので、
『私が?』と聞くと、彼は
『いいかい、私たちはこれまで宇宙人たちに助けられてきたんだ』と語ったのだ!


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私が最近ニューヨーク州バッフアローにいましたとき、
私はベル航空機会社の宇宙ステーションで
ロケットの偉大な科学者であるオーベルトと語り合いました。


多くの事を話しましたが公然とは話せない内容です。


ただこう言ってよいでしょう。


あなた方はまじめですから、皆さん方も望みさえすれば体験を持つことができるのです。


しかし何か他のものに自分を導かせる必要があります。
人間を成長させた、そして自然から遠く離れてしまった
伝統的な古くさい基準に頼ってはだめなのです」

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科学を極めた人間が語った言葉は、
其の科学が創造主ではなくて天使達によって導かれてきたと言う内容でした。


オーベルト教授は閃きの正体に気がついていたのです。


天使達はあくなく探求を純粋な意志で続ける地球人に対して、
常に想いによって支援していると言うことを
こんなところからも知ることになりますが、
(テレパシーによる閃きや印象です)


この場合は魂から創造主の印象を知識として受け止めたのではなくて、
それが難しいであろう私達に対して


天使達が其の代わりの役目を”想念”を使用することで
果たしてくれたのだと認識できます。


こんなことがこの地球社会では科学の側面でも
続いてきたのだと言うことを私達が理解できないだけです。


思想だけでなくて実は科学の発展にしても
私達は其の多くを彼ら天使達の恩恵を受けてきたわけです。


おそらくは私達が一日も早く彼らの仲間入りが出来るような
そんな時代が来るようにという意識を持っての物だったのでしょうが


一方では精神の進化が伴わなかったことが災いしたか
サタンの会派のエネルギーがこの社会では強力すぎたか、


今では精神的進化と科学の進化のアンバランスな人間が
分不相応な科学力を持って暴走を始めたのが私達の社会なのです。


私達が”科学は神秘的なものと無縁だ”と考えているのは
私達が科学者の発表した業績を”現象”として認識しているからにすぎず


彼らは同時にその発見の裏に潜む因を感じることになるのですから
常に見えない因を意識し続ける立場にいることになります。
(新たな何かを純粋に発見しようとしている人間達です)


彼らは見えないものを追求していく中で
創造主の法を感じ続けているはずだと言うことです。


既存の知識の発展を推し進めることだけが科学の進化だと思っているからこそ
私達は先細りの文明と科学力を築くことになる。


そこでは因を求める意識は不要だからです。


一方では精神的進化の伴わない科学の進化がこの社会を
それを使用できる立場にいる人間達の独壇場にしようと
しているのだと言えます。
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話を思想に戻せば、
私達の世界史などの教科書にも出てくるような偉人は
少なくとも其の後の時代の多くの人間にも大きな影響を与える事になりました。


それを魅力的であると受け止め
それに習った人間が多かった事も想像が出来ます。


でも彼らは自分の外に目を向けるのではなくて
主として自分の中にこそ目を向けた存在であることは
誰もが認めるはずです。


彼らは自分の心の動きを分析し自分のもう一つの意識の経路を自覚し、
それらの働きをも意識しながらこの社会を見つめていたのだと思います。


今の私達の様にです。


其の視線で見つけたところの価値観が、それぞれの時代の多くの人間の魂に共鳴し
其の人間の思想の偉大さを認めさせた。


其の偉人に学んだ多くの人間達は
其の人間から何かを学び進化を果たしたかもしれません。


思想の面でそんな役目を果たしてきたのも太陽系の天使達。


全てではないでしょうが多くの偉人の思想の裏には
創造主の法が存在していたと言う話にも繋がって来ます。


偉人と言われた人間達の存在していた時代とは
かけ離れている今の時代ですが、
それでも私達はそんな偉人の言葉から何かを学ぶことが出来るはずです。


そこで彼らが語ったのは、現象を捉えた物だけではなく
彼らが共通して見ていたものは自分の内にこそ存在しているからです。


そして彼らが自分の内に見つめていたものは
どの時代であっても変わるものではありませんし、
それは私達が真理と読んでいたものの断片のはずです。


それはいつの時代であろうが変わることのない
この宇宙空間における真理としての創造主の法であり意識です。


私達が偉人から学ぶべきは其の表に対して見せていた姿や
額面どおりの言葉ではなくて、


其の人間が語っていたことの本質であり
それを語らせるにいたった意識です。


私達はイメージや印象として其の断片を与えられただけでなくて
生きた創造主の法をそんな人間達からうけとめる機会を
常にもてるような環境にあったのだと思います。


私達の文明の進化と発展は自分達の手柄ではなくて
実はそんな見えない存在の地球への想いによって
支えられ続けてきたものであると言うこと。


それを理解することで今の地球社会の置かれている実態を理解し、


私達が常識と呼んでいるものだけが全てではないということ、
更には私達を常に応援し続けている人間達が
この太陽系に存在しているのだと言う実態を


認識してほしいと思います。


私の想像では、危険な状態にあったこの社会の中の
私達の地球の波動を高めてくれているのも
(人口増加含めて)


そして地球社会が急激なポールシフトになることを
抑えて来てくれたのも、


この社会で起こりうる悲劇を最小限に抑えて居るのも
おそらくは彼らだと思います。


彼らスペースブラザーズの合言葉は


【地球人の苦悩を光の前の暗黒のように消すために
宇宙の創造主を地球の道しるべにしよう】


彼らのそんな実態が理解できる人間で溢れる日が来れば、
きっと彼らもこの社会に姿を現すときがくる。


そして其の時は少なからず今よりは平和な世の中が
この社会の中に出来上がっている事でしょう。


天使がこの社会を見捨てない限り、
サタンと天使の見えない戦いはこれからも続く事になるのでしょうが


天使達の想いが私達の世界を支えている事を
忘れないで欲しいと思います。


そして彼らの想いは私達は誰でも受け止めることが出来るはずです。


魂の経路を開いてそれを聞いて下さい。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


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今日紹介する記事の内容に関連して読んで欲しい記事です。

22時ごろには公開できるかと思います。


この社会の実態をしっかりと見据えている人間ほど
読んでもらいたいです。


兄弟姉妹達は勿論のことです。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11276503220.html
宇宙からの使者 VOL1
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11277980135.html
宇宙からの使者 VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11278062151.html
宇宙からの使者 VOL3
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11278149289.html
宇宙からの使者 VOL4
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11427067077.html
ヨハネの黙示録
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11431690695.html
ヨハネの黙示録 第二章
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11428295140.html
UFOと宇宙人の実態 前編 
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11428314107.html
UFOと宇宙人の実態 後編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11400591227.html
アダムスキー  太陽系の伝説
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11397239144.html
アダムスキー  UFOと聖書
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11399556870.html
アダムスキー バビロンの時代
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11393425624.html
アダムスキーと宗教
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11380264748.html
真理質問箱  UFO編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11386587559.html
地球の運命  後編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11386589069.html
地球の運命  エピローグ
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11365227921.html
地球の運命? プロローグ
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11365229377.html
地球の運命? 前編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11371939979.html
超国家 ユダヤ王国
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11344432429.html
アダムスキーの宇宙維新
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11324740869.html
宇宙の法則VS地球の法則のまやかし
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11320766220.html
ファティマとマリア信仰と偶像崇拝
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11317510891.html
聖書を客観的な視点で眺めると。。。
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11299728280.html
八百万の神は一神教
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11012547969.html
日本の未来の予言?? 導入記事
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11012546055.html
日本の未来の予言?? 本題

http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-257.html
理想の社会
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-256.html
覚醒のとき
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10983023289.html
ブラザーズの視点でVOL1
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10983025281.html
ブラザーズの視点でVOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10988663312.html
ブラザーズの視点でVOL3
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11005354988.html
ブラザーズの視点でVOL4
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11006513703.html
ブラザーズの視点でVOL5
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11008714846.html
ブラザーズの視線でVOL6
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11018683395.html
ブラザーズの視線でVOL7
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11061560879.html
ブラザーズの視線でVOL8
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11130000315.html
地球の古代文明と宇宙の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11011457166.html
地球への転生者
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-223.html
ファティマの奇跡と宇宙意識VOL1
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-224.html
ファティマの奇跡と宇宙意識VOL2
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-225.html
ファティマの奇跡と宇宙意識VOL3
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-226.html
ファティマの奇跡と宇宙意識VOL4
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-235.html
ファティマの奇跡 追加情報
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-227.html
ファティマの奇跡と宇宙意識VOL5

http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-237.html
改竄の歴史との決別 プロローグ
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-238.html
改竄の歴史との決別 VOL1 闇政府の策略
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-242.html
改竄の歴史との決別 VOL2 第三の選択

http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-244.html
改竄と歴史との決別 VOL3 政治と世界その1
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-245.html
改竄の歴史との決別 VOL4 政治と世界その2
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-241.html
改竄の歴史との決別 VOL5 闇政府の策略2
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-231.html

アセンションを考察する。
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-246.html
これが本当のアセンション
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-232.html
法律の無い世界

http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-249.html
宇宙人とエイリアンと地球人 序章
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-250.html
宇宙人とエイリアンと地球人 VOL2
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-250.html
宇宙人とエイリアンと地球人 VOL3
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-252.html
宇宙人とエイリアンと地球人 VOL4
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-253.html
宇宙人とエイリアンと地球人 VOL5

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【運命を生きる3】


いつも宗教批判していますが
其の有益な面に関しても触れておきます。


宗教はこの社会の中で
時には私達の覚醒のきっかけになりうるものです。


創造主の法、天使達の教えがその根底に存在しているからです。


そして私達の魂は絶え間なく私達の心に働きかけているわけですし
何かのきっかけでその魂に共鳴するものを感じるのは
おそらくは宗教的な教えだと思います。


私達の持っている道徳を
更に進めた創造主の法となりうるものだと言う事です。


そして多くの宗教は私達にその生き方の改善を求めて
私達の意識の変化をもたらすものでもあります。


それがきっかけとなり覚醒へと進み
創造主の法、道徳を強く意識する事にもなるのかもしれません。


私の場合は宗教は反面教師となりがちで
覚醒への直接のきっかけにはなりませんでしたが


それは盲信しないことで私達を覚醒へと導く、
真理の欠片を含むものだと認識しています。


ただ、その中に存在している
人間の心を持って作り上げた価値思考が
私達の理解の妨げになっている事も往々としてあると思います。


そして私達は結果的に創造主とは一対一で向き合うことになります。


それは宮殿やお寺や教会に存在している意識ではなくて
私達の中にこそ存在しているものだからです。


四次元意識の創造主の残像思念と直に向き合おうと勤めなくても
私達は魂と言う創造主の分身を自分の内に秘めています。


それを感じる事こそを求められているのですから
まずは余計な外部の神様は不要だと言うことにもなります。


偶像を崇拝してはいけないのです。


偶像というのは、人間がそれに価値を見出し拝むもの全般で
仏像であったりマリア像であったり神殿や仏殿であったり
人間であったり価値観であったりします。


”万物に神を感じる”と言う意味では物に神を感じる意識は
間違いではありませんが


外部の特定の物を神として拝むことは、
自分の内部の神を感じることを阻害する事にも繋がるからです。


私達は三次元の知覚として創造主を捉えるのではなく
四次元的存在の想いとしての創造主の意志を認識しなければなりません。


そして多くの方が宗教に関わっているという事になれば
多くの方が覚醒へと誘導されている可能性を感じる事になりますし


それが今の世の中に対しての、創造主の法の働きかけだとすれば
多くの人間が大きな運命に今導かれている事になるのかもしれません。


もしかしたら創造主の法の元、危機に晒されている私達に
魂が強く呼びかけている事の結果かもしれません。


私達多くの人間が何らかの思想へと誘導されるのが
この生における多くの人間にとっての運命だとすれば、
私達はそこで課題を学ぶ事を求められていることになります。


私達にとってのその課題は何なのか?


勿論、創造主の法へと導かれることです。


放置していくと、
魂ごと滅ぶかもしれないのが私達の未来の実態です。


私達を学習させようと導くものが私達に神を意識させたとしたら
私達は直接覚醒の入り口の前に立たされたようなものかもしれない。


其の課題を与えられた理由が、覚醒が近いからなのか
魂の消滅の危機だからかは判りませんが

ここでも運命の分岐点が私達を待っている事になると思います。


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半ばこじつけといわれても
自分の運命の糸がどう繋がって居たのかが今では見える気がします。


個人的に思想的な話をすれば、、
私は17歳まではその後一切の宗教と関わる機会は
ありませんでした。


お寺は他人の物となり、その後親族皆が
一切宗教とは無縁の一般人として暮らしていたからです。


義理の親父は神棚を祭っていましたが
元お寺育ちの私の家には仏壇もありませんでした。
(祖母のところにはありましたが)


私が再び宗教に関わる事になったのは
17歳の時に家族関係に思い悩んだ事が直接のきっかけでした。


高校受験では自分の希望する高校の受験を
早い時期に断念することになり
(内申書で校則破り(頭髪規定)問題児の私は評価が低いとされたから)


その後勉強にも興味がなくなり
高校時代には学校でも半ば意図的に劣等生を演じて
悪ぶって見せていたこともあります。


と言っても不良グループのような人間とは異なり
一匹狼?硬派?のような気分で
不良ともいえる人間達とは敵対する立場の人間でした。


友人は普通の人たちです。


高校時代にして半ば人生の目的を見失い、
勉強もどうでもよくなり、学校生活も不満だらけ。


その上に家庭環境で家族に不満を持ち出してから
日々思い悩む事にもなります。


部活にも専念する事が出来なくなりますし、
友人にだけは恵まれていたものの


私の友人には不思議と片親の人間が多く
私以上に悩んでいるだろうと思うと何もいえず、
普段から目に付いて興味を持っていた教会の門を叩く事になります。


私がキリスト教に初めて関わる事になるきっかけです。


冷たい義父に、気の合わない義弟、そして口うるさい母親
当時の私が感じていた家庭環境はそんな感じでした。


私は自分が養子であることを知らなかったために
養父の冷たさを仕方の無い事と認識できませんでしたし


弟との性格の違いでも
頻繁に喧嘩となりましたし、


母親は私がぐれる事が無い様に厳しくしつけていたようで
それらが結果的に私を悩ませることになりました。


今で思えばそんな状況も、
もしかしたら運命の導きの演出だったのかもしれません。


私が平穏な高校生活をしていれば
私がキリスト教会を訪ねる事はなかったからです。


これが私への創造主の法への二度目の導きだったかもしれません。


少なくともこの時に、私は”聖書”に導かれた事になります。


バプテスマを受ける以前に教会を離れた私は
クリスチャンではありません。


更に、こんな記事を書いているので私をオカルト信者扱いする
人間もいるかも知れませんが、実際の私はとても現実的な人間です。


当時は現実の知識では理解できない聖書の内容を
そっくりそのまま鵜呑みにする事に抵抗を感じ、


敬虔なクリスチャン達の思考を理解できず、


”イエスの再臨の時に死人が皆生まれ変わる”
という話を本気で信じている教会の家族に疑問を感じ
教会を去ることになります。(良い人たちでしたが)


ただ、自分でも不思議なのは
その時に購入した聖書だけは自分が進学したり引越しをするたびに
しっかりと持ち続けて今に至ると言うこと。


私が今持っている聖書は30年前に購入したその時の物で、
それを今も使用するに至っています。


もし私がこの時に教会に行かなかったら。


そして聖書を購入していなかったら。。


運命の働きかけはその後もやって来たのだと思いますが、
少なくとも今とは異なった展開が私を待っていた事になると想像しています。


ただ、これを機会に私は仏教ともキリスト教とも
直接関わる事はなくなったわけです。


仏教の僧侶の家に生まれたのも、教会の門を叩いたのも
それが私が創造主の法に導かれたものだとしても
私はその機会を立て続けに失う事になったと言えます。


私は運命の波からかけ離れながらも
道徳心だけは未だ多分に持っていた事が幸いしたのか、


向上心と好奇心の強さが幸いしたのか
それとも全ては経験だったのかも判りません。


家庭環境にしても、当初は親族に囲まれて
愛情いっぱい道徳たっぷりの環境で暮らす事が出来ましたし、


他人にうざがられたこの性格は
(他人に気を使いすぎた)そこで培ったと思います。


一方ではずっと経済的には楽な環境ではなかった事からも、
質素であることと、お金の役目と弊害を
良くも悪くも学ぶ事になったのだと想像しています。


お金があるときでも無駄使いはせず
娯楽こそしましたが質素な生活をしていたと思います。


続く
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【パウロの手紙VOL5】


加害者達の攻撃の後遺症もありますし
使用とした時の脳への介入が強くなっている所為でもありますが

一時は私も結果的に似たようなことをしていた
イエスの奥義ですが自分では使用できなくなっています。


でも理解者覚醒者には実践して貰いたいと思い
今日はそれに関連するところをパウロの手紙から引用してみます。


広報の練習にもなりますし自分の進化にも繋がります。
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愛を追い求めなさい。
また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。


異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。
というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。


ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、
慰めを与えるために、人に向かって話します。


異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。


私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、
それよりも、あなたがたが預言することを望みます。


もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、
異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。


ですから、兄弟たち。私があなたがたのところへ行って異言を話すとしても、
黙示や知識や預言や教えなどによって話さないなら、
あなたがたに何の益となるでしょう。


笛や琴などいのちのない楽器でも、はっきりした音を出さなければ、
何を吹いているのか、何をひいているのか、どうしてわかりましょう。


また、ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、
だれが戦闘の準備をするでしょう。


それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、
言っている事がどうして知ってもらえるでしょう。
それは空気に向かって話しているのです。


世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、
意味のないことばなど一つもありません。


それで、もし私がそのことばの意味を知らないなら、
私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です。


あなたがたの場合も同様です。
あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、
教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。


こういうわけですから、異言を語る者は、
それを解き明かすことができるように祈りなさい。


もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、
私の知性は実を結ばないのです。


ではどうすればよいでしょう。私は霊において祈り、
また知性においても祈りましょう。
霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。


そうでないと、あなたが霊において祝福しても、
異言を知らない人々の座席に着いている人は、


あなたの言っていることがわからないのですから、
あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。


あなたの感謝は結構ですが、他の人の徳を高めることはできません。


私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、


教会では、異言で一万語話すよりは、
ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。


兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。
悪事においては幼子でありなさい。
しかし考え方においてはおとなになりなさい。


律法にこう書いてあります。
「『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、
彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない』と主は言われる。」


それで、異言は信者のためのしるしではなく、
不信者のためのしるしです。


けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです。


ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、
初心の者とか信者でない者とかが入って来たとき、
彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか。


しかし、もしみなが預言をするなら、
信者でない者や初心の者が入って来たとき、
その人はみなの者によって罪を示されます。


みなにさばかれ、心の秘密があらわにされます。
そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、
ひれ伏して神を拝むでしょう。


兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。
あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、
教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。
そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。


もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、
ひとりは解き明かしをしないさい。


もし解き明かす者がだれもいなければ、教会では黙っていなさい。
自分だけで、神に向かって話しなさい。


預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。


もしも座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい。


あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、
すべての人が学ぶことでき、すべての人が勧めを受けることができるのです。


預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。


それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。
聖徒たちのすべての教会で行われているように、

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この章を読んで頂くと、一般の人には理解できないような
預言・異言・黙示などといった表現が使用され
オカルトな記述に見えるかと思います。


しかしおそらく兄弟姉妹達には
その内容がそのままイエスの奥義につながる話であると言うことも
想像出来たのではないでしょうか。


イエスの奥義というのは私達が魂から受け止めた印象を語ること。


もっと正確に言えば、自分の創造主の法に関わる知識を語りながら、
その間に魂が受け止めた閃きや印象やイメージをも
述べ伝えていくことだと思います。


2000年前の使徒達がイエスキリストから学んだのは、
魂の経路を意識してそこから閃きを受けることであり
それを語る事で彼らは預言者とも言われたのだと思います。


勘違いしていけないのは、私達が今”予言”と言っているものは
「2012年12月22日に文明が滅亡する」


と言うような、時間軸まで具体的に指し示す内容となっていますが
そんな日時指定での未来を語るのとは別物だと言うことです。


ただ、極端に言えば、


「イエスの教えを信じて実行すれば
永遠の生を手に入れる」


と言うのも私達にとっては未来の事を語っているのであり
それもある意味では今の予言と変わらないことになります。


天使達の場合は自分達の地球での計画を、
前もって”箴言”や”詩篇”で綴り、モーセやエリアなどに語らせておいて
それを後に実行することで人々の創造主の法への信頼を
高めていたのだと思いますが、それもある意味予言といえるものです。


バプテスマのヨハネが
「これから私など靴の紐を結ぶ値打ちもない人物が現れる」

と語っていたのも予言のようなものだと言えます。


さらには創造主の法を理解するための道を整備した人間達をも
聖書の中では”預言者”と表現しました。


つまりそれを語る人間が預言者なのですから
その人間に語られた創造主の法は預言だと言うことです。


私達の社会の価値基準で捉えると分かり難くなりますが、
この文章は全体が、


私や兄弟姉妹達が”生命の科学”で学んでいる、
魂からのテレパシーを受け止める行為と、
その内容を語る行為について語られています。


彼らは、心をもってその知識を語ることを交えて
閃きや印象やイメージを語り続けたはずです。


ただ、ここではその中で”異言”という言葉が出てきます。


預言と異言がどう違うのかはパウロの手紙の内容を読んでいくと
ある程度は想像がつくと思います。


ひとつには聖書の記述にあるように、
普段語ったことのない外国語で語りだすような場合で、


これは創造主からの印象ではなくて
間違いなく天使達が何からの手段で強いイメージを与えて
テレパシーという形で彼らに語らせたものだと思います。
(天使達は言語取得の達人だとアダムスキーの著書からも判るはずです)


当時の12使徒の時代には
天使達の地球での活動は制限がなかったはずです。


時には牢屋に囚われた使徒を助けましたし
彼らの周囲で多くの人間がイエスの奥義に目覚め
預言しだしのも偶然ではないはずです。


勿論彼らには元々魂を強く感じる資質があったでしょうし
人間ごとにその能力も異なったと思いますが、
全ては天使達の力(テレパシーと科学力)あってのものだと思います。


そしてそれを強く表現することができて
多くの信者に信頼された一人が
このパウロと言う存在だったはずです。


そのパウロは自分が使用しているその手法を、
自分を信頼してくれる人間達に対して述べ伝え、
それをここでも勧めているのだと理解することができます。


しかしこのような技術には知識も必要ですし
その上に魂の経路を理解し、それを感じていることが必要です。


直ぐに誰にでも出来て、
それが容易に受け継がれるものではなかったはずです。
(テレパシー能力の高い人間は信仰よりも先に
こちらを受け止めて覚醒した可能性もありますが)


更に権威を持った教会の中には
特定の人間以外はそれを行うことを禁じた所もあるでしょうし


そのうち特定の人間がそれを他人に伝える事をやめて
自分の権威のために隠蔽したかもしれません。


実行する人間を悪魔扱いして排除したかもしれません。


そんな人間達は後には魂を感じることも
出来なくなるのでしょうが、
(心のエゴで名誉や保身を求め
他人に分け与えることをやめたからです)


表立って”イエスにある者”の誰もがイエスの奥義を使用して
予言していた時代は短かったと言うことになります。


そして時代が過ぎればそんな技術は
どんどんと廃れて使用できる人間も減ることになります。


今では誰もいないと思います。


現に創造主の法と似て非なるものは数多く語られていますが
正しく創造主の法を語っている思想を
目にしたことはありません。


指導者がいない上に、その方法が隠されれば
それが普及しないのは当たり前のことです。


しかも人々の価値観は常に多数派の意見で決まるのが
今の世の中の趨勢です。


たとえば後の人間が聖書解釈に誤ることがあっても、
多くの人間がその誤りを正しいと認識すれば


イエスの奥義、創造主の法でその誤りを感じる事ができたかもしれない
少数派の意見は潰されていく事にもなります。


残念ながらキリスト教の歴史はそれを物語っています。


異端とされた人間達が時には虐殺され
ユダヤ教時代に舞い戻ったようなそんなことが頻繁に繰り返されていたのは
歴史からも判るはずです。


創造主の法では他人を裁く事など認めていませんし
まして異端者を殺害したとなれば
多数派と言ってもそれはイエスの教えではあり得ません。


”天使”の解釈ひとつとっても、


それを天から宇宙船に乗ってやってきた人間と捉えるのか
霊界のようなところから肉体を持たない存在として認識してしまうのかでも
意見は分かれてしまうことになります。


時代の流れと共にその方法が失われ
更にこの社会の中で私達が結果的には心にばかり囚われて
目に見えることに囚われて、


理解出来ないはすのことを自分達の知識で解釈したことが、
”イエスにある者”として多くの使徒達の活躍した時代の内容を
歪めてしまっている

と理解すれば良いと思います。


ここでパウロが語っているのはオカルトではなくて、


当時のイエスにある者とされた人間達は
当時は教会の中で当たり前に預言を実行していたのが
日常風景だったのだと想像できます。

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私達が魂から感じるものは
印象であり、閃きであり、イメージでした。


それが創造主の意志だけとは限らず、天使達の想いや
天使達からの知識であったり、地上の他人の想いだったりします。


しかし彼らは強い導きを受けていたはずですし
誰もがテレパシーを強く使用出来たとも思えません。


と言うことは彼らが通常受け止めることになったのは
恐らくは天使達からのメッセージです。


彼ら天使達はそれを私達地球の人間自ら広めさせたのです。


本当であれば天使達が宇宙船で降りてきて私達に語りかければ
私達は彼らの能力や科学力の前に服従して
誰もがそれを実行しようとしたかもしれませんが


彼らには約束事があったそうです。


地球社会への直接の介入はしないと言うことです。


地球社会を作り上げていくのは
結局は地球社会の人間であり、
外部の惑星の介入であってはいけないと言うこと。


アダムスキーの著書の中では太陽系の惑星で
そんな決め事が交わされたと書かれていたと思います。


そのきっかけは、天使達の戦いが
この社会に神や王を乱立させてしまった事とも無関係では無いようです。


だからこそ彼らは地球のマスターとなる人物を
地球人として転生させ、
(処女懐妊に関してはそれが彼らの科学力なのか
イエスを神聖化するためかは不明ですが)


アダムスキーの時にもそうであったように、
地球人として生まれたイエスが当初の目的を果たせるように
影ながら応援し続け、


イエスキリストと言う地球の人間を通じて
創造主の法をこの社会に広めようとしたのだと理解すれば
良いのだと思います。


そしてイエスと同時に複数の魂が
天使達の中からこの地球社会に転生していて


12使徒などはそんな魂を持った人間を(覚醒しやすい)
イエスキリストが自ら選択したのだと認識することもできます。
(アダムスキーはそうだといっていたはずです)


12使徒、更には同じような地球への転生者
更には資質の高い人間がそれに習い


イエスの再臨後には12使徒が天使達から強く導かれ


(肉体を持ったイエスがその姿を民衆の前に現さなかったのは
それが肉体を持った人間としてではなくて
神に近い存在として語られることの効果を想定したと思います。
イエスは天使達の宇宙船へと戻ったはずです)


更に12使徒達に更に多くの人間が導かれ、
創造主の法を理解し実践する中で
天使達の誘導を受けることになった。


そんな誘導が預言であり異言であったと私達は受け止めるべきです。


その後は天使達の地球への介入が減った事なども
イエスの奥義が廃れた事とも無縁ではないかもしれませんが、


それ以上に権力者階級の存在による真のイエスの教えの圧制や
聖書の改ざんなど、いろいろな問題も起きていたはずです。


当時のイエスにあった者と自認していた人間達は
先人に習って御霊の賜物を受け止めることを願いそれを実行した。


それが預言や異言そして黙示と、
その内容などにより分類され表現されているに過ぎません。

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異言というものは先ほどの外国の言葉だけでなく
それ自体では意味を持たないような言葉だと思います。


例えばノストラダムスの諸世紀に出てくるような
奇妙な印象を受け止めそれを語った時に


それは語った本人も理解できるかどうか判りませんし
語られた方はまるで理解できないものです。


パウロはここでは、そんな内容を語るのではなくて
預言を重視しなさいと触れているわけです。


異言に関してのパウロの記述からも判ることがあります。


【異言を話す者は自分の徳を高めますが、
預言する者は教会の徳を高めます。】


異言と言われる内容でも、私達が魂の経路を使用して
そこからテレパシーを受け止める行為は私達の魂の進化には有効です。


しかし神の神託としの意味合いの強い”預言”は
誰にも言葉の内容を理解して貰えて
それを受け止めた人間達はそこから学べることになりますし


当時預言を語る人間達が教会に集っていたのであれば、
その予言は教会の信頼を高める事にもなると言っているのです。


”異言”はそれを理解して説明できるものでなければ
自己満足になってしまうと言う理解でも良いかもしれません。


私が自分の記事で引用した文章の中に出てきた
ノストラダムスの”諸世紀”からの引用として紹介した一節があります。


日本語訳は参考程度にと思って、
私が独自で解釈したもので正しいとは言えませんが


これこそ異言だとおもいます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【“When those of the arctic pole are united together,


Great terror and fear in the East:


Newly elected, the great trembling supported, Rhodes,

  
Byzantium stained with Barbarian blood.”】

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【”北極で対極に在るこれらが共に結合する時、


  東洋は恐れおののき


  新しく選ばれた偉人は恐れながら支えられ


  ロードス島、ビザンチウムは無教養な人間(野蛮人)の血で汚される。”】

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

英文和訳をしようとしてもそれが明確な意味を持たないのです。


それ以前に解釈するにも文法もめちゃくちゃなのが
ノストラダムスの予言です。


こじつければ”結果”として起こっていることに
関連付けて見つめることも出来ます。


例えばこんな閃きが印象として与えられたとしても
それを口にすれば聞いている人間達はそれが何を意味するかは理解できません。


それに対してパウロはこのように述べているのだと思います。


【異言を語る者は、それを解き明かす事ができるように祈りなさい】


【みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかが入って来たとき、
彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか】


【もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、
ひとりは解き明かしをしないさい。】


【もし解き明かす者がだれもいなければ、教会では黙っていなさい。
自分だけで、神に向かって話しなさい】


それが魂からの印象であっても、意味不明なことを語れば
それをありがたい言葉だと理解して感謝される事もありませんし


それを教会の中で皆で行っていたとしたら


知らない人がやって来てそれを聞けば
「あいつらは頭がおかしいのではないか」


と思う事にもなるでしょうし、


異言をただ、語って聞かせることは
予言に比べても効果的な福音が期待できないという
ことになります


それをする時は一人が解き明かしなさいと言っているのは
語るのであれば、その意味をきちんと示せる状態で
提示しなさいと言うことだと思います。


私達が魂から受け止めることになる印象は
必ずしも意味が明確になるものだけとは限らないからです。


一方では預言に関してはこのように触れています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。


もしも座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい。


あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、
すべての人が学ぶことでき、すべての人が勧めを受けることができるのです。


預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここからも読み取れるのは
”預言”と言っている物は他の預言者も理解する事ができる内容で
それが正しいか正しくないかを吟味できるらしいことです。


つまりは創造主の法の体系に関連して
その内容を受け止めて語ったものだと理解できます。


そのために他の預言者がその内容を整理して説明したり
誤りを正すような事ができることになります。


「別の人に黙示が与えられたら」とあるのは
「別の人間が閃きや印象を受けたら」と理解できます。


イエスの奥義ということで語るのは
すべてがその場の神託といわれるものではなくて


自分がすでにもって知識としているものをも語り
その中で閃きや印象をも含めて語ることになるからです。


「他の人間が印象を与えれたらそれを優先しなさい」
と言う意味だと受け止めれば良いと思います。


さらに魂の経路を感じようと勤めている人間は
誰でもこれをする事が可能だと私は触れました。


当初は自らの知恵で人間としての知識を語る事になっても、
その後は頻繁に閃きや印象で何を語るかが与えられたり
新たな知識を受け止める事になります。


身近に預言する人間がいれば
魂を感じようと勤める人間はその影響を受けて
自らも預言をするようになる。。


預言者は預言者の魂に影響を受けて
共鳴するのだとパウロが語っているのだと思います。


パウロの語る預言は当初は”異言”という形で与えられ
自らの理解できなかったものもあるのだと思います。


それを解釈し時には知恵(心の知識)使用しながら
預言として語っていたのではないかと想像しています。


ここでの”預言”や”異言”が特別な人間だけに与えられたものではなくて
誰でも正しいイエスの教えを実践していれば可能なものであることを
パウロは強調していたのだと理解できます。


後の社会でそれが独占されたり、隠蔽されるまで
それは多くの信者に対して理解され
多くの人間が神の意志を語ったのだということも想像出来ます。


しかしその多くは魂からの創造主の意志と言うよりは
恐らくは天使達の知識であったというのが私の想像です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
教会では、妻たちは黙っていなさい。
彼らは語ることを許されていません。
律法も言うように、服従しなさい。


もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。
教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです。


神のことばは、あなたがたのところから出たのでしょうか。
あるいはまた、あなたがたにだけ伝わったのでしょうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これに関しては、当時のユダヤ教時代の男尊女卑の時代背景のなせる業で、
聖書ではイブがアダムの骨から作られたという引用もあり


男が女性の上に置かれたという価値観を
当時の人間達が強く持っていた事に由来すると思います。


天使達の社会には男女の差はありません。


マスターやアダムスキーの話では
私達はありとあらゆるフォームを体験する事になると
いう話でもありました。


異なった肌の色、異なった姿、異なった性別


全ては体験であり進化の機会だという
創造主の法に則るようにです。


当時の人間達の風潮をそのまま踏襲して理解を求めたものとして考えれば
これが時代背景にそぐわないことも理解できるかと思います。


パウロはその時代の風潮に照らして
人々の理解を求めることを優先して語っていたのだと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
自分を預言者、あるいは、御霊の人と思う者は、
私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。


もしそれを認めないなら、その人は認められません。


それゆえ、私の兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。
異言を話すことも禁じてはいけません。


ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

自分が魂を感じることが出来るとか
それをもって魂の想いを語ることが出来ると自覚している方は
パウロの言葉を創造主の意志だと認めなさいと言っています。


同じ預言であっても受け止め方の弱い人間は、
心の動きの強さによりその印象は捻じ曲げられる事があるというのは
テレパシーの話でも説明しました。


折角の預言であっても個人的な価値観で捻じ曲げられる事があり
それを考えれば能力の高いパウロを信頼しそれに沿って解釈することで


誤った信仰を、正しいとしてしまう事も無いと
パウロは意識したのだと思います。


そしてパウロは魂の意識の経路を感じるためにも
イエスの使徒達に”預言”と”異言”を勧めています。


それは他人にイエスの教え、創造主の意志を述べ伝えるだけでなく
自分の魂の経路をより強く感じる事にも役立つからです。


そして私も理解者・兄弟姉妹の覚醒者にそれを勧めました。


それがそのまま社会に対して真理の欠片を与えるきっかけになりますし
閃きや印象を頻繁に受け止めるきっかけになり
自分の魂の進化にも繋がっていくものだからです。


私達は神の神託とも言える創造主の法を語る事で奉仕することが出来て
進化をも果たすことが出来る。


真理で満たされる事で世の中の改善も期待できる。


天使達の守護が弱まっているこの社会を
真理へと導くきっかけとなってください。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


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P.S.


律法にこう書いてあります。
「『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、
彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない』と主は言われる。」


それで、異言は信者のためのしるしではなく、
不信者のためのしるしです。

けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです。

------------------------------


”異言”が異国語で語られる事を指し示している場合、


それは異国の、未だ信者でないものに対して
理解を与えるために役立つ物であり、


知恵と直ちに理解できる閃きで与えられることになる”預言”は
信者に対して役立つのだと言う事を言っていると解釈できます。

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【運命を生きる2】


私達が運命と言われる波に乗っている可能性を示す話として
アダムスキーが金星に滞在した時に出会った
アダムスキーの元妻の転生だという少女の話があります。


「私達人間は誰もが課題を課されて生きていて
その課題から私達は逃げることが出来ない」


と言う話でした。


つまり私達が学ぶべきこととして与えられたその課題は
例え私達がその課題をこなすことなくその生を終えても
課題をこなすことなく自殺したり事故で死ぬことがあっても


その課題は私達がこなすことが出来るまで
課され続けて、消えてなくなることは無いと言うことになります。


それを前提に考えれば
その生において私達がどんな生き方をしようとも
その課題に関しては絶対に体験させられる羽目になるのだと思います。


例えば前世に置いて裕福でお金の価値を良くも悪くも正しく理解できず
放蕩し、それを他人に分け与えることなく独占し
それをもって自堕落三昧な事をしていた人間がいたとして、


創造主の法がその人間に対して質素、若しくは
お金の弊害に関して教えようとしたならば、
貧しい人間の立場を教えようとしたならば、


次の生におけるその人間はいくら頑張っても
お金には縁の無い生活を送ることになるかもしれないわけです。


その人間に与えられた課題が社会の底辺で暮らしている人間の
苦労を知ることであれば、その人間は次の生では
社会の底辺と言う立場を経験することになるのでしょうし


私達はその運命からは逃れることは出来ないと言うことになります。


勿論ここで必要なのはそれを体験するだけではなくて
そこから学ぶことです。


あくまで創造主の法は私達に課題を与えるために
体験の機会を齎そうとするものであって


そこから学ぶことが出来るかどうかは
私達の意識にかかってくるからです。


しかし中には心の暴走を引き起こし
貧しい思いに耐え切れず、犯罪に手を染めてしまうような
人間もいるかもしれません。


その人間はその貧しさの体験から学ぶことが出来なかったのです。


ただ、この社会は人間が暴走していますので
創造主の予定していた通りの環境が齎されるとは限らないとも思います。


創造主の法は学ぶ人間の生をも脅かすような環境は
用意などしていないはずですし


創造主の法に従えば私達は食に困って飢える事も
本来無いはずですが、それがこの社会では起きているからです。


それは創造主の意志ではなくて
人間の作り上げた誤った価値観や権力者が作り上げてきた
社会にこそ歪があるのだと思います。


話を戻せば、私達はその課題からは逃げ出すことが出来ないのですから


どんな生き方をしようとも
この人生で必ず体験させられることが存在することになります。


それを運命だとすれば、
私達はその運命を乗り越えていかなければならない存在だと
表現できるかもしれません。


そしてこの生でそれを学ぶことが出来ない上に更なるカルマを作り上げると、
次の生ではそれをも課されることになります。


学ぶべきことを学べない状態を積み重ねると
先の生では私達は課題だらけの人生となるのかもしれません。


殆どの課題は私達の心にとって不快なものでしょうし、
その人生は山あり谷なしの
茨の道を歩くことになるかも知れないわけです。


しかし私達が自分の置かれた環境に腐ることなくその中で学ぶべき課題を学び、
それをもって心の価値観を変えることが出来れば
私達は進化へと近づくことになる。


そんな話へと繋がっていきます。


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脱線しておけば、私達の趣味思考は
私達にとって必要な知識や学習の機会である可能性があります。


私はありとあらゆる娯楽を楽しみましたが
その殆どがおそらくは私にとっての”体験”だったのだと想像しています。


時代を考えてみても自分が生まれてから発達した文化がその殆どですし、
初めて関わるような事ばかりで楽しくて惹かれるような
そんな物ばかりだったかもしれません。


私の場合娯楽に関していえば、
特に目に訴える物、視覚という三次元の感覚器を重視した
情報が私にとっての一番娯楽の対象だったようです。


映画、TV,本、ゲーム、パチンコ、競馬、


これらはとにかく目からの楽しい刺激だったと思います。


その上に凝り性であった私はそれらの興味を
沢山、長く更に深く追求する傾向もありました。


一方知識欲が強かったようで
嫌いであったはずの学校の勉強含めて
あらゆる事に興味を持っていたようです。


私は文学全集や小説そして漫画など
あらゆる活字文明に興味を持ち続けた人間でもありました。


CIAやUFOの話、さらには予言や幽霊、
その他ありとあらゆるオカルトと言われるもの含め
若いころは隅から隅まで読んでいた人間です。


つまりオカルトに関しては誰にも負けないような
雑学を持っていたことになります。


一方では本来左脳に特化したような人間であったのを、
読書がそれを助けて右脳機能を活性化させてくれたとも考えています。


そして知識欲は読書と身を持っての体験で満たされました。


私はとにかく活動的な人間でした。


真の知識を得るならば専門書と百科事典でも調べればよいのでしょうが
娯楽と受け止め、楽しみながら得たものを知識としていた気がします。


一方では興味が強かったものに関しては
百科事典とにらめっこする機会もありました。


昆虫図鑑や植物図鑑、更には星座です。


でもそんな堅苦しい物からでなくても
例えば時には漫画からでも知識を得ることはありますし


それが全て正しいかどうかはともかく
ありとあらゆる知識を詰め込んでいたような気がしています。


自分にとって必要な雑学と一般教養は
結果的には身につく事にはなりましたし


物事の判断材料としての知識の基礎は
結果からすれば娯楽と学校の知識で備えた事になります。


おかげで誤った価値観もしっかりと受け止める事になり
一時はユダヤ政策の申し子状態でも有った事は
以前にも触れたとおりです。


脱線すると、日本の古代史に嵌った事も(日本史ではありません)
時々記事の中で触れる様に私達の日本人のルーツとしての
ヘブライ文明との兼ね合い含めて理解するきっかけとなっていますし
(私は近代日本史には興味がなくて
それよりは世界史に興味を持っていた人間でもありました。)


私もおそらくは古代イスラエルの民の末裔の血を引いていると
想像しています。


勿論それはユダヤ人などという意識はありませんし、
古代イスラエルと古代ユダに分かれた時から
両者は本来は別物となったのだと認識しています。


私の想像では先に救われ創造主の法へと導かれたのは
アッシリアに滅ぼされ離散する事になる10の支族の方で、
彼らはユダ王国と決別しました。


その後この地に導かれた時にはすでに”神道”を持っていたようですが
それは創造主の法の理解の反映だと思います。


民族争いをしなくてすむ場所に祖先を誘導したのは
天使達だと思います。

(後にユダ族の人間がパレスチナに離散していた一部の
イスラエルの民をも従えて日本に入ったのが秦氏)


そして一方のユダ王国に縛られていた同胞達を助けるためにも
イエスキリストはパレスチナに君臨しユダの民を導いた。


イエスが一番救いたかったのは
ユダ王国に残された一般のヘブライ人達だったのかもしれません。


いまから思えば、
自分の受けた生に関してその血に興味を持つためではなくて
おそらくは私は聖書とキリスト教を学ぶために、


そしてユダヤ人と言われる
ヘブライ文明で袂を分かつ事になった人間達を理解するために
日本の古代史を追求したのかもしれません。


そしてそれは日ユ同祖論というだけでなくて
今では闇政府と化してしまった人間達の
実態を理解する事にも役立ったと思います。


もちろん詰め込んだ知識のその多くは
後に正しいものとそうでないものへと選別される事にもなりましたが、


多くの知識を得ることで情報分析のための基礎と
していたのだと認識しています。


これは私の学習の機会の一環でもあったと認識しています。
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脱線ついでに
参考に私のお気に入りの著書を紹介します。


小説の作家は、夏目漱石、ドストエフスキー、太宰治
近代では、筒井康孝、阿刀田高、赤川次郎、水野良、

凝り性の私は片っ端から読むふける羽目にもなりました。


日ユ同祖論に関してのお勧めは

ヨセフ・アイデルバーグ 大和民族はユダヤ人だった


日ユ同祖論の中で一番誤りが少ない内容だと認識しています。


年配のユダヤ人の著書ですが
新刊を発行する予定の年にその出版前に死んでしまったと言う
いわくもあります。


(その後最近になってそれが出版されましたが
内容に改ざんの可能性が高いです)


ユダヤ人と言っても間違って欲しくないのは
元々はヘブライ民族であり


それが二つに分かれたと言う過去があること。


そして両者の別れた真の理由は恐らくは王による圧制と
宗教の違いにあったはずだと言う事です。


バール神の話は参考程度に。
この地にやってきた人間達は創造主の法を学んでいたはずです。


先住民の縄文人(此方も近い血統)と同化し
神との橋渡し役としての天皇(古代イスラエル王国王族末裔)
を中心に皆が栄えた国だったと思います。


私が古代史にあまり触れないのは
血統や民族にこだわる事が愚かだと理解しているからです。


選民思想の原因にもなります。


現在のユダヤ人と言われる人間は母方血統を重んじてますが
日本特有の遺伝子は父方血統での遺伝だと思います。


その上に根底の思想が創造主の法とユダヤ教、

両者がかけ離れていくのは当然です。


しかしこの国の神道と道徳は消えつつあります。


それを私達が創造主の法で復活させるのです。


勿論そこには民族思想など存在してはいません。


続く
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http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10596704147.html
遺伝子は語る VOL1
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10596757564.html
遺伝子は語る VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10597935561.html
遺伝子は語る VOL3


http://blog.goo.ne.jp/morobosiataru04131222/e/d2b5cb4eacc25828e3a1ae0050e43020
日ユ同祖論は真実か
http://blog.goo.ne.jp/morobosiataru04131222/e/7957cf6a020a41651b5d1b502447750a
日本人の原点
http://blog.goo.ne.jp/morobosiataru04131222/e/d4210fc012d74e97465c8b62be9f5128
日本人の血・旧約聖書の民
http://blog.goo.ne.jp/morobosiataru04131222/e/d63be19b33c64eb8afb5aac68179b697
日本人の血・旧約聖書の民 探求者アイデルバーグ
http://blog.goo.ne.jp/morobosiataru04131222/e/4038fc14187d3028f5aefe3d09604ac2
日本人の血・旧約聖書の民 800年の壁
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11295636410.html
日本人の血・旧約聖書の民 バイブルランド日本
http://blog.goo.ne.jp/morobosiataru04131222/e/74fe0560860bb2a02a921c62ac51a71a
新コーヒーブレイクVOL2 神と悪魔のチェスゲーム
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話は飛びますが、実は今日、
自分が昔演奏していた事があるマンドリンの曲を
CDやテープで聞いていました。


私は一時ではありますが大学時代にマンドリンクラブに所属し
二度のコンサートを体験しています。


自分ひとりでギターを弾いていて味わえないものを
バンド活動で味わう事になりますが


それでも味わう事の出来ない
もっと深い調和の感動をそこから感じていた事を思い出します。


味気ないパートや地味なパートを勤めている時でも
それが全体での演奏となると
その味気ない音がとても映えるのです。


アダムスキーが四つの感覚器官をバイオリンの弦として例えて
そこでのハーモニーを語っていたように


マスターが花々の調和をオーケストラに例えていたように
一人では得られない感動がそこにはありました。


私は経済的な事情でアルバイトを強いられる事になり
クラブ活動を断念しましたが、
そこでの体験は今でも私の宝となっています。


その時代の事を思い出していたら
私は大学時代には数人の同胞に出会っていると思います。


全国各地から集う学校でもありましたが
学年上の同い年の先輩達に今ではそれを感じます。


そんな人達も覚醒してくれているのだろうかと
そんな想像をしていましたが

今では私は誰とも交流できません。


私の魂が惹かれる人間は
覚醒者予備軍の可能性がとても高いからです。


(念のために触れて置けば、
異性に心で惹かれるのとは違う感覚です。
そして男女無差別です)


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【パウロの手紙VOL4】


パウロの手紙の内容の多くは当時の一般大衆の、
しかも信仰の弱いとされていた人間達に対して
与えられたものだと思います。


パウロの言葉の中でも

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、
御霊に属する人に対するようには話すことができないで、
肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。


私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。
あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。


あなたがたは、まだ肉に属しているからです。


あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、
あなたがたは肉に属しているのではありませんか


そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

と表現されているように、創造主の法をイエスの奥義、
つまりは魂の経路を意識してそこから創造主の意志を引き出すことが
出来る人間は多くはなかったために


パウロは幼子に対するように
流動食を与えるように語っているのだと触れています。


イエスの教えを理解するのは
容易なものではなかったと言うことです。


恐らくは私達、兄弟姉妹覚醒者同士が交流することが出来れば
そこでは天使達の社会に近い
エゴを排除した交流も可能となると想像していますが


現実にこの社会の心を持って生きている人間同士は
どうしても争いやねたみから離れることが出来ません。


複数に人間が集えばそこで必ず意見の食い違いや諍いが
起こることになります。


そしてパウロは自分の弟子の中のそんな様子を見て
彼らには未だ創造主の法が理解できていないと実感したわけです。


ここでの幼子と言うのはイエスキリストの言っていた
”心が純粋な存在”と言う意味ではなくて、
私達が子供に対して持ちがちな意識である”未熟”という意味での引用です。


そのためにパウロの手紙の内容の多くは、
創造主の法の全体ではなくて、


創造主の法を意識できない人間達に対して、


モーセの時代の戒律では与えられてはいないが
私達の実行すべき事であるとして
その時代背景にあわせた具体的な行動としての戒律が表現されています。


勿論それらはパウロが自分の魂から受け止めた、
正しいとか正しくないと言う事を表現したものでしょうし
時には誰にでも当てはまったわけでもないかもしれません。


しかし自ら創造主の戒律を受けとめることの出来ない
弟子達にしてみれば、


例えモーセの時代同様に
それが明文化され戒律として実行されたとしても
意識の改善には資したのだと思います。


パウロの手紙は、このように
時代背景を考えながら読んで頂ければ良い物で


私達は個々の戒律の様な話よりも、パウロが幼子達に
創造主の法を理解させようと勤めていた箇所に関して
取り上げて読んでいくのが良いと思います。


イエスキリストが使徒達に語ったであろう、
魂と心という二つの経路、


もっと言えば三次元的な世界と四次元的な世界の話は
パウロの手紙の中からも確認できます。


その内容を当時の弟子達は地道に理解を
深めたのだと思いますが、
私達現代の人間が読むと意味不明な記述となっています。


勿論私達兄弟姉妹が読むと
それは何を言っているかは理解できますが
一応私の解釈で少し触れておきたいと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、
麦やそのほかの穀物の種粒です。


しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、
おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

種は成長する事で自分の姿を表現すると言う事の例えだと思います。


私達の魂を種に例える事で、
創造主はその魂に体としての三次元のフォームを与えてくれたと
解釈してくれば後の記述も判りやすいと思います。


つまり、四次元では種として存在している私達の魂が、
三次元では元素を使用して肉体として表現されていると解釈できます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、
鳥の肉もあり、魚の肉もあります。


また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、
天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、

太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。


個々の星によって栄光が違います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

理解者・覚醒者兄弟姉妹であれば理解できるかと思いますが、
これは創造主がありとあらゆるフォーム(形態)を作り上げた
と言う事を語っているわけで、


”栄光”と書かれているところは
”表現”とか”形態”とか”性質”と読みかえればその意味が判ります。


肉とあるのは私達の肉体であり三次元でのフォームを意味します。


三次元における肉体と呼ばれるものであっても
人間と言うフォームが存在し、獣と言われるフォームが存在し、
鳥と言われるフォームが存在し、魚と言われるフォームが存在する。


その形態は様々だということです。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11014121674.html
宇宙の法則  VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11010770220.html
宇宙の法則VOL3


そして”天の体”とは四次元における私達の魂としての実態ですし
”地上の体”とは三次元における私達の肉体としての実態の事です。


ここでの”天”と”地”は”四次元”と”三次元”と分類すると
判りやすいと思いますが、


時には天国=天上の他の惑星を示していることもあります。


それが私達の理解を妨害していることを後に述べます。


天と呼ばれる大気圏外には
太陽と言う存在もあれば月という存在もあれば
星と言う存在もある。


個々の星によってその性質は異なり
その現われは異なるのだとパウロは説明しています。


ここでパウロが触れているのは
創造主の作り上げた各種のフォームの話だと思います。


三次元においては万物が元素・原子で構成されていて
金星のマスターは
「神様は元素の最高の使い手だ」と表現していました。


それらはすべてが神の表現であり、

四次元における残像思念としての創造主の想いが

三次元空間で元素を使用して表現されていると言うことです。


フォームには似ているものもあるけれども
その全ては異なっているのだと言うのが
アダムスキーの話でもありました。


その三次元における体を持った私達は、それを魂の器として持つことで
生命と私達が呼んでいるものを吹き込まれている存在だと言うことです。


先述の様に、創造主は四次元における魂と言う種を
三次元において肉体として表現して与えてくれたのだと
パウロは表現しているのだと思います。


私達の肉体は魂を入れるためのフォームであり
同時にその魂を表現した姿なのだと言うことです。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

死者の復活もこれと同じです。
朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、


卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、


弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、


血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。


血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
当初の三つの表現はすべて同じ内容を
言葉を変えて言い表したものに過ぎません。


朽ちるもの、卑しいもの、弱いものは
三次元的実態としての私達の肉体ですし
それを司っている私達の脳であり心のことです。


朽ちないもの、栄光のあるもの、強いものとは
言うまでもなく私達の本質である魂の事。


私達は当初は肉体という血肉を持つ体として生まれ


心の影響を受け弱いものとして、
本能に踊らされる卑しいものとして、


そして三次元におけるいつか朽ち果てる運命のものとして
存在することになりますが、


私達がその自分の実態に気が付くことで
私達は永遠を感じ朽ちないもの、


創造主の法によって強きもの、


更にはその想いを纏ったものへと変わっていくのだと
パウロは説明しています。


【血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされる】


肉体を持って心を持って生きている状態で生まれ、


その後覚醒を持って魂の意識から受け止めた
創造主の想いを表現する存在へと生まれ変わる
と理解して頂ければ良いと思います。


朽ちるのは心を持って生きている存在で
朽ちないのは魂を持って生きている存在だという意味です。


イエスキリストもアダムスキーも
私達を"死んでいる"と例えていましたが、


私達は肉体を司る心に対してこそ死ぬ努力をし、
魂からの意識を表現する存在として生まれかわらなければならない。


少なくとも”イエスに有る”と思っている人間は
そうではなければならないとパウロは語っているのだと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、
最後のアダムは、生かす御霊となりました。


最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。
御霊のものはあとに来るのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最後のアダム。。。とあるところは
私には理解不能です。


恐らくは当初はアダムは善悪の知識の木の実を食べたことからも
当初は心を持って生きる存在となったが、


最後には他人を生かすことの出来る存在へと
変貌したと言うことではないでしょうか。


最初に血肉がありと言うのは
最初に私達が意識する事になるのは肉体であり
それを司る心だと言うことで、


御霊のものは後から来るというのは、
私達は後に御霊=魂を感じ取れる存在になると解釈できます。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、
第二の人は天から出た者です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここでの表現は上の一節の繰り返しです。


私達はこの地球という三次元空間で
元素と言う材料で肉体として作られた者ですが、


もう一つの自分、真の自分は
四次元空間の創造主の分身である魂だと
解釈することになります。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、
天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

土で作られたものは土に似ていると言うのは

物質で作り上げられたものはすべて物質としての
性質と形態を持っていると言う事の表現で、


四次元的な存在である魂は、皆、想いとしてのエネルギーとして
存在していると解釈できます。


四次元空間の素材は創造主の想いのエネルギーだからです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、
天上のかたちをも持つのです。


兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。
血肉のからだは神の国を相続できません。
朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私達は肉体という三次元の物質的フォームを持つと同時に、
一方では想念の塊というフォームをもっている。


つまりは私達は三次元の肉体を司る心を持っているのと同時に
神の表現としての魂を持っているのだと解釈できます。


【血肉の体を持つものは神の国を相続できません。】


パウロのこの辺の言い回しが、
まるで私達が死んで霊魂になって天国に入ることになるという
誤解を引き起こさせた元だと想像していました。


”天”と”地”と表現した時に

それは四次元と三次元という分類のほかに
”天空”とこの”地上”という分類が出来ると言う話をしましたが


ここで神の国そして天と表現されているのは
イエスキリストが私達に天国だと指し示された
金星や他の太陽系の惑星をさすことになります。


私達の地上から見た時の天の国です。


天というのを四次元的な物とだけ受け止める事になると
天の国は霊界となってしまいますが、
そうではない事は私達であれば理解できます。


魂の進化を止めて霊界に行って神様の横で寝ていたい人達が
そんな希望を持って生きていく事を止めませんが


イエスが「貴方たちのために部屋を用意する」
と言っていた部屋の有る場所は
天空高くの他の惑星のことです。


それはこの社会と比較すれば、
それこそ天国と表現するのが適当な社会でしょうし


地獄というのはそのまま私達の暮らす地球社会を
示すことも出来るかもしれません。


記憶を持って転生できた人間はこの社会と比べると
遥かに魂の安らぎを感じることの出来る場所で暮らせることになりますが


記憶を失ってこの社会に転生する人間は
今よりも精神環境の悪化したこの地球社会で
再び暮らすことになるのですから


それはまさに天国と地獄と言えるかもしれません。


(ちなみに、この解釈は以前のものであり、
現実にはこの社会は改善中であって、今では地獄ではありえないと言うのが
私の今現在の理解です。)



そして私達の地球社会の常識では、
天空の惑星に人間は存在しないと言うことになっているために


”天”といった時の解釈が、
まとめて神の国=霊界となっているために


私達はここでも聖書の正しい理解を
妨げられることになっているのです。


肉体を持たずして
精神の進化を果たすことが出来るわけもありませんし


私達のような未熟な人間が
そのまま創造主の横に行くことが出来ると考えることは、
私達がおごり高ぶっていることの証拠でもあります。


今のままの私達にはそんな価値などないのです。


人間としての第一歩も実はまだ踏み出していないことに気が付かず
自分が創造主の側で安らぎを与えられるような存在だと
考えることは私達の傲慢です。


神から最もかけ離れた私達が
神の意志を感じることも出来ないで
その意志と正反対のことを繰り広げているのに
どうして神の御許にいくことができるのでしょうか。


私達が神から相続するのは”永遠の命”です。


それは心に囚われて記憶を失っての転生では
感じることの出来ない意識であり


肉体を変えながら記憶の継続を通じて
私達は永遠を感じることになります。


【血肉の体を持つものは神の国を相続できません。】


と言うのは心を持って生きている人間は
永遠の生、記憶を持っての転生を果たすことは出来ないと理解すべきです。


【朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。】


心を持って暴走している私達は
いずれ魂をも朽ち果てさせてしまうことになる存在です。


朽ち果てる運命の、永遠を示すことの出来ない存在は
永遠を相続することは出来ないとパウロが言っています。


私達は天国と地獄の概念を取り違えてしまったために
イエスの復活も死者の土からの復活であると勘違いしています。


勿論、当時の天使達が当時の人間達に理解させるためなのか
私達に誤解させるような表現をした事もまちがいありません。


しかし地球社会の中だけを自分達の世界としていて、
しかもその中で心を持って暴走していた人間達に


天使達は四次元という異質な世界と、他の惑星という別社会の
二つも同時に教えようとしたために


私達はそれを混同してしまい
今のような誤った価値概念を持つに至ったのだと思います。


彼らは太陽系や宇宙を理解している人間達ではなく、
同時に三次元とか四次元を理解できる存在でもありませんでした。


「心の暴走をやめて魂と言う自分の実態に気が付けば、
未来には良いことがある」
と勧誘することが精一杯だったのではないでしょうか。


しかし今現在の私達は2000年前とは異なります。


未認識と言っても四次元を知識として知っていますし
太陽系に他の惑星があることも知っています。


もしも50年前にその実態が明らかにされていれば
私達は聖書の不可思議な記述をすべて正しく
理解することが出来たのだと思います。


最後に取り上げるのは創造主の法を理解しようとする人間に対しての
心がけをパウロが述べている内容です。
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すべてのことは、してもよいのです。
しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。
すべてのことは、してもよいのです。


しかし、すべてのことが徳を高めるとは限りません。


だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

パウロはここで全ての事はしても構わないと触れています。
勿論、初めから悪いと判っている事をも
しても構わないと言っているわけではありません。


ありとあらゆる事を経験しなさいと言っていると認識すれば
アダムスキーの生命の科学にも繋がってくる話です。


そしてその行為が全て私達の魂の進化にとって
有益とは限らないとも触れています。


勿論私達はそれを自ら判断していくことになります。


それは自分の魂の進化を導く行為であるのか?


一つの判断基準です。


更にパウロは続けています。

自分の利益を求めないで他人の利益を心がけなさいとです。


これは言うまでもなく他人への奉仕
つまりは万物への奉仕を語っています。


その前節と併せると、
「自分の利益をエゴをもって行動するのではなくて
万物にとっての奉仕となる事をしなさい」


という話になってくると思います。


体験の中から学び魂を進化させ続ける。


万物に奉仕する事を心がける。


これは私達が学んでいる創造主の法に他なりません。


パウロが形式としての戒律ではなくて
心のあり方としての創造主の法を理解して実践していた
何よりの証拠だと思います。


パウロの手紙は後世の人間がそれを引用して
勝手に聖書の聖典としたものであって


当初から聖書に編纂されることなどパウロ自身は
意識などしていなかったでしょうし、


そのために当時ひらめきで大雑把に語った内容が
そのまま現在では額面どおり受け止められる事になるなど、
弊害も多いのだと思います。


それが後に経典となり
それを学ぶ人間が大量に出てくる事を意識していれば、
パウロの記述も随分と変わることになったと想像できます。


当時の弟子達はその言葉に疑問を感じれば
すぐにパウロに手紙で尋ねることも出来ました。


そんな意識もパウロの中にはあったのではないでしょうか。


私達はそんな背景まで考えることができれば、
細かい間違いを突っ込んだり、


矛盾を指摘したり、言葉の意味を誤解することなく
聖書を見つめることが出来ると思います。


私達は他人の立場に立って、
更には見えないその時代背景まで見るように勤めることで
深く聖書を理解することが出来ました。


全ては創造主の法の導きだと思いませんか?


私達は進化し続けています。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

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【運命を生きる1】


聖書のパウロの手紙と並行して
私達の運命に関して考える機会を提供したいと思います。


細切れに数回記事の冒頭に置きます。


少し前にはカルマの解消と、転生の法則について触れてみました。


創造主の法が、私達がカルマを解消するために、
罪を罪と認識することが出来るようになるための学習の機会を
次の生で与えるとすれば、


私達の人生におけるその生まれた環境や与えられた境遇は
一体どんな意味をもっているのか?


そんな事を考えていました。


私達が無自覚なだけで、私達の生まれた日は
それぞれ意味を持っていると思います。


風水で他人の運命を数学的に分析してくれる
風水士と呼ばれる人達がいます。


彼らの占いは占いと言うよりは
数術とか計算のようなものがその基本となっているようです。


人間の生まれた日時からその人間の運命とも言えるものを
計算して示してくれるようですが、
それはかなりの的中率を誇るとも言います。


風水とか奇門遁甲では私達を五行(木火土金水)に分け
その傾向を示した上で、
その大きな人生の流れを捉えてそれを提示してくれるようです。


占いは当たるも八卦当たらぬも八卦などと言いますが
風水での誕生日時の計算は単なる占いとは違うと思います。


あれはこの社会を取り巻く見えない法則を
数式で計測して示したもの、


つまり私達は生まれた時には、ある意味
既に運命がある程度決められているような存在だと言う事になると思います。


しかし、


「生まれた時に人生が決まっているなどおかしな話だ。」


「それでは人生の意味がない」


と言う事にはならないと思います。


運命と言っても道は一本ではないでしょうし、
それが運命の波だとすれば私達はその波から外れる事もできるからです。


しかしその波の正体が、もしも創造主の法だったら。。


私達はその波に乗り続けることで
自らの学ぶべき課題を果たしていく事になるのかもしれません。


先日もしつこく取り上げましたが、創造主の法はこの地球社会では
私達を覚醒へと誘導するために働くのだと思います。


イエスキリストが触れていた”父の想いは永遠の生”とあるように
私達社会の全ての人間を創造主の道へと誘導するためにです。


人としてあるべき姿を実践している天使達の社会とは異なり、
私達は創造主の法に目覚めていないのですから


進化と調和を求めるその法則は
私達にその法則を意識させる事から働きかけるはずです。


つまりは魂を私達に認識させることです。


私達は誰もが創造主の法に導かれていると言うことになります。


ただ、私達はそれを誰もが自覚していませんし
気がつくと導かれていくその流れを”運命”と呼んでいるのかもしれません。


ただ、その運命と言うものが存在していたとしても、
それは個人の努力なしに乗り続ける事ができる波ではなくて
あくまで大雑把な流れで私達を導くのが通常で、


その流れの中で必要な経験と学習を果たし
そこで何を学んでいくのかは私達個人の人間次第だと
いう事になるのではないかと想像していました。


創造主の法は常に私達に対して働きかけている。


そしてそれは私達を学習するように誘導している。


そして前世の行ないや心のあり方で
私達の学ぶべき内容が異なってくるのですし


例えばそのためのローテーションを大雑把な指針として、
その創造主の法則の下、エネルギーとして動いているものを利用して
効果的なところに私達が置かれることになり、


それが私達が生まれた環境であり、誕生した日だと言うことかもしれません。


私達の誕生日=私達の前の肉体が死んだ日
という事になりますし


私達は、その死の日まで創造主の法によって
決められている可能性もある事になります。


つまり今回の生の誕生日は
前世の課題を私達が果たすために最適な日と時間が選択され


私達はその時に生まれることで
学ぶべき事を学習しやすいタイミング、
そして学習の機会を得やすい場所へと導かれて来た事になります。


私達はその環境で学ぶべき体験をその流れの中で持ち続け
それによって自らのカルマを解消し
一方学ぶべきことを体験から学び続ける事になるのかもしれません。


もしもこれが現実であれば、
私達はその運命の波とも言えるものに無自覚の内に乗っていたり
そこから外れたりしながら今回の人生を送ってきた事になります。


そして例えば私達は運命の分岐点とも言える経験を
誰もが持っています。


その選択が私達を結果的に今の状態にまで誘導してきた。


そして波から外れるにしても
与えられた課題を十二分にこなして予定以上の学習を果たしたり


時には必要な学習を果たせないことで
その波からかけ離れることになるのかもしれませんが


”大雑把な進行方向”はおそらくは決まっていて、
その結果導かれる幅広い選択肢の先に
今の私達は存在しているのかもしれません。


更に創造主の法の下での覚醒のラインとしてグラフの波で例えれば


その波よりも上に存在していれば覚醒ライン
その下にあれば努力不足といった具合に分類されるのかもしれません。


私達は自分の人生を振り返る事で、その中の分岐点を見つめる事で
自分がこの生において与えられてきた課題を
見つめる事が出来るかもしれない。


そして自分が過去に作ってきたカルマを認識できるかもしれません。


悪しきカルマの影響や、学習できていない事柄に関しては
今の自分の心のエゴからも分析可能のはずです。


進化できていないと言う事は、改善されていないと言う事は
それを学んではいないと言う証拠だからです。


そんな私の想像を元に
今日はオカルト含めて自分の人生の分岐点となったことを
振り返ってみてほしいと思います。


今の自分を作り上げてきたのは
間違いなく自分のこの生での体験です。


自分の人生が大きく変わったかもしれない事柄や
それを導くことになった事柄、


それを取り巻く環境の変化含めて
それらが偶然ではなくて何らかの力の働きであるという可能性含めて
自分の人生を振り返ってみてほしいと思います。


ユダヤ教の秘儀ともされているカバラは、
時間によってその時に私達に影響を与えるエネルギーが異なる事を数式で分析して
それを利用していると言うのが私の主張でしたが、


それは私達を取り巻く見えないエネルギーであり
おそらくは創造主の法に関連するものだと思います。


それを味方にして上手く立ち振る舞うことで
彼らは自分達の人生を自分たちの想定どおりに
切り開いて来たのかもしれません。


私達はそんな秘儀を持ってはいませんが
少なからず自らを取り巻くそんな流れを意識すること
もしくは気がつく事が出来るかもしれません。

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例えば私は自分の過去の人生の流れが
偶然ではないと確信するに至っていますし


自分が人生において興味を持ったことや
学んできた事が今現在自分にとって役立っていることを
過去にも記事で取り上げています。


私は運良く運命の波に乗り続ける事が出来たのかもしれないと
想像していました。


与えられた課題をこなし続けることが出来たと言う可能性です。


しかしそれは心が心地良いという人生では有り得ませんでしたし


以前にも触れた通りに
私は自分が達成しようと努めたこと
その全てにおいて挫折しているという現実もあります。


でも努力が報われなかった事自体も
もしかしたら運命だったと言う話にもなっていくのかと想像していました。


私はあらゆる挫折を繰り返して生きてきました。


ただ、その中で腐らなかったこと
その失敗だらけの人生の中で何かを学んできた事が
今の自分を培ったのかもしれません。


そしてそこで学んだことこそが
私への課題だったと言うことかもしれません。


私は北海道の北の果ての稚内の更に田舎の
曹洞宗の僧侶の家に初孫として生まれました。


私が生まれてまもなく、両親が父の浮気が原因で
離婚したために母親は再婚を強いられ


その後結婚した義理の父との兼ね合いもあり、
私は一時は祖父母の養子になる話もありました。


私の祖父は私が6歳の時に前立腺癌で亡くなりましたが
もしも祖父がそのとき生きていれば
そして長男だった叔父が当初の予定通り跡を次いでいれば


私はその後にそこで学び続け
そのお寺で僧侶になっていた可能性があります。


少なくとも幼少期の私は
「お坊さんになる」と言う意識でいましたし

祖母達も半ばそれを期待していたと思います。


幼少時に祖母と共に入院中の祖父に変わって檀家を回ったこともありますし
当時は般若信教も覚えていました。


私の一つ目の分岐点は
その時に祖父が亡くなったことと、叔父がお寺を次がなかった事で
一家が仏教と関わる事が無くなった事だと思います。


そして私が祖父母の養子となる事を
母親が拒んだ事でもあったかもしれません。


つまり私は今の状態がいずれにしても到達すべき場所であったとすれば
仏教徒からの覚醒へと導かれた可能性があったと言うことです。


もしかしたら今回の私の生における課題は
真理に覚醒する事だったのかもしれません。


私は幼少時代のみ仏教にふれることになりますが
それは知識として備わるものではありませんでした。


ただそんな環境で育っていた母や叔父や叔母そして
祖父母の影響をそこで大きく受けて育つ事にはなりました。


幼少時代に私に道徳を与えたのは
私の親族であり仏教で有ったという事です。


続く
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【パウロの手紙VOL3】


今日はパウロの教えの中の
私が納得できない箇所を改竄の可能性のある箇所として紹介します。


イエスキリストの神聖に関しては、


イエスを美化することで多くの信者を得て
その人間達を永遠の命へと導こうとしたのが目的であれば
それは間違いではないと思います。


当時の社会ではそれがきっかけとなって
多くの人間が救われた可能性は否定できないからです。


しかし一方では後の世において、イエスの神聖化をめぐって
キリスト教内の解釈の違いにより派閥ができる事までは
天使達は予定してはいなかったと思います。


彼らにとって大切だったのは、
その時に誤った価値観へと導かれようとしていた人間達を
救済することだったはずだからです。


真理は私達の魂に共鳴しますし
そのために後の世においても延々と受け継がれることになった
イエスキリストの教えですが、


キリスト教が今の時代のような流れになることは、
それを教えたイエスキリストも予定してはいなかったと思います。


イエスの教えに人間の解釈が加わり
結果的に当初の教えとは違った多くの解釈がなされ
ここまで複雑になることも想定外だったと思います。


今ではユダヤ教徒の中のサタンの会派の人間達によって
作り上げられたキリスト教もありますし


既存のキリスト教がフリーメーソンによって
歪められつつあると言う実態もあります。


そこで人間の作り上げた戒律に囚われたり
形式に拘ると誤った方向へと導かれることになります。


私達が理解すべきはイエスキリストの想いです。


当時2000年前にイエスが現れた時に、


先祖から受け継いできた形式的な物事や、
旧約聖書に記述されている事だから
それは守らねばならぬと戒律や割礼のようなものを重んじ


つまりは記述を文字通り受け止め聖書にあることを守れば
それでその人間は義とみなされると言う風潮が蔓延っていて
それでは心のあり方をおざなりにしていると言うのがイエスの主張。


イエスキリストは聖書に記述されている事を
そっくりそのまま実行しろと言っていたわけではないはずです。


元々イエスキリストの時代に存在していたのは旧約聖書だけです。


イエスの重要な教えは新約聖書の福音書の
あちこちにちりばめられています。


そしてその趣旨は、大切な事は心のあり方であり、
教えの中から学ぶべきは額面通りの内容や形式ではなくて
事の本質であると言う事です。


形式ごとを形式的に守るだけでは私達の魂の進化はありません。


大切なのはイエスキリストの言っていたように
私達の心のあり方ですし、


その心の想いはそのまま想念として
私達の体を通じて表現されることにもなります。


つまりは信仰が強く魂からの意志を強く受け止める人間は
それを行動でも示すことになります。


勿論、心にもないことを表現してみせる
もしくは自分の心を偽って表現することも可能ですが
そんな人間をイエスは偽善者と言っていたはずです。


イエスキリストの教えの真髄は、
その心のあり方、教えの実質を理解すれば
それがいつの時代の人間に対しても通用する戒律であると言うこと。


安息日のように、奴隷や家畜を持たない時代の人間にとって
必ずしも必要とはいえない戒律を後生大事に持ち続けるのではなくて


その時代時代で正しい事と誤っていることは
変わっていく事にもなりますし


時代が変われば当然その時代の背景により
新しい問題も生じるはずです。


戒律を形式的に受け止めている人間においては
新しい問題に対しては判断基準を持たないことになりますが


イエスの教えを理解していれば
その判断基準は常に与えられることになります。


旧約聖書の時代の戒律に従っていた人間達は
時代が変わりその社会の風潮が変わったときに
そこで昔の戒律が適用できない事に気がついて


律法学者などを通して新たな人為的な戒律を
そこに設けることになります。


そして当時の律法学者などが作り上げていた戒律によって
新たな弊害が起こることを想定してイエスキリストはそれを批判した。


そして真の戒律は創造主の意志によって与えられる事を
説いたのです。


つまり何が正しくて何が間違っているかは、
創造主の意志に照らして判断すべきで
それはそのまま私達の心のあり方に関わるものであり


それは同時に私達の魂の進化をも齎す物である事を
私達に教えてくれたのだと言えます。


その心の戒律を適応すれば、
どの時代の問題に関しても何が正しくて何が間違っているかは
判断できるようになるはずです。


判断基準は、その行為が自分の魂の良心に照らして
正しいか正しくないか、


その行動の結果が万物に対しての奉仕となっているのか、
その想いはエゴから出てはいないかなど、
道徳心を持っていれば物事の良し悪しを判定する判断基準はいくらでもあるはずです。


そして一方、戒律として人間の手で制定されていなくても
その行為が創造主の意志に照らして誤っていればそれは罪です。


法律の網を潜り抜けて、それが人間の戒律で罪とされていないことで
その行為を実行しても自分は罪を犯してはいないと

自らを正当化しようという想いを持つようになるのは


人間が心を持って作り上げた戒律を形式的に守っているためです。


例えば組織的犯罪に照らして考えれば、
それが法律で規制されていようといまいと、


他人に対して危害を加えると言う行為は
創造主の法の元認められるわけがありません。


他人に危害を加える行為、他人を裁く行為は
少なくともイエスの教えの元では全ては罪だからです。


イエスキリストも「裁いてはいけない」と言っていたように
例え相手が極悪人であっても
それを裁くのは一応は人間が作り上げた法律でしょうし、


その後にはしっかりと創造主の法で裁かれることになります。


もっと付け加えておけば、
人間の法律によって定められた罰を受けたからと言って
その人間の罪の行為が創造主の法の下で赦免されたわけではないということ。


形式的にはその罪人は裁きを受けてそこで刑を執行されますが、
その人間が刑期を負えた後にも
悪しき想いを持ち続けその行為に対して反省をしていなければ、


この社会においては清算された事になっている罪でも
創造主の前において清算されてはいないことになります。


同様に人間が心の価値観を持って作り上げてきた戒律に抵触せず
この社会の中では罪とみなされる事がない行為であっても、


若しくはこの社会の中ではその罪がばれることがなく
刑を受けずに済まされたとしても


それが無罪放免と見なされるのは人間の社会の中においてであって

それは創造主の法の下においては当然罪であり


それに対して反省し意識を改善して学ぶことがなければ、
結果的には転生の法則の時、


個々の審判の時に置いて課題を受けるとか、魂を消すことになるとか、
何らかの働きかけを受ける事になるはずです。


全ては形式ではなくて実質である。


イエスキリストから私達が学ぶべきは
この事だと思います。


私達が学ぶべきはイエスの教えの具体例だけでなくて
そこから導き出す事ができる心のあり方と
思考の方法だと言うことです。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ところでイエスキリストの神聖だけではなくて
聖書の中にはイエスの教えとは異なった記述を
他にも見ることができます。


自分を”人の子”とも繰り返し
神である事を否定していたイエスを


(私達は皆神の子ですがそれを語ることで
誤解を招くことを意識していた気がします)


神聖化した内容も改竄と言えますが、


それとは別の目的での改竄が入り込んでいる可能性です。


新約聖書を読むにあたっての注意事項として私が以前から触れているのは
その中に時代の支配者にとって都合の良い改竄が
紛れ込んでいると言う可能性です。


イエスキリストの教えは民衆を穏やかにするものです。


ユダヤ教時代の民が石打で他人を裁いたような意識を
イエスの教えを守っていた人間達は持たなかったと思います。


人間を穏やかにする思想としてイエスの教えをそのまま利用し
民衆の管理に利用したのが昔の権力者階級だったわけです。


時にはキリスト教を国教として
その教えを国内の民に浸透させる事にもなりました。


ただ、民衆を権力に対して従順にさせるために
彼らの手によって聖書の改竄が行われた可能性があります。


イエスの教えは権力者への服従など教えてはいません。


それどころか時の権力者であったパリサイ長老会や
律法学者含めてそれに対して批判的でありましたし


権力者に迫害されるであろう弟子や信者の事を
想定してはそれに耐えろと語っていたはずです。


そして神は誰にでも平等であり、
自分を小さくして誰にでも従う人間ほど
天の国では偉いのだというのがイエスの教えです。


イエスは人間の作り上げた権力など認めてはいなかったのです。


そして天使達が嫌っていたのは
堕天使ともいえる人間達が神や王を語り
民主を管理支配することでもあったはずです。


しかしパウロの手紙の中にはこんな記述もあります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。
神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、
神によって立てられたものです。


したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。
そむいた人は自分の身にさばきを招きます。


支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。
権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。


そうすれば、支配者からほめられます。


それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。
しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。
彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。
彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。


ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、
良心のためにも、従うべきです。


同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。
彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「この社会の全ての権力が神が与えたもの」


とここではパウロが語っていることになっていますが


創造主の法の下では人間の一切の権限など認めてはいないはずです。


人間は誰もが平等に存在し、他人と自分との間には上下関係など存在せず、

むしろ心のあり方としては全ての人間が自分より偉いと思って
尊敬しなさいと言うのがイエスの教えでもあります。


特定の人間が権力を与えられそれに服従しなさいと言うのは
自分達の権力を正当化する権力者の立場に都合の良い内容で
創造主の法とは矛盾してもいます。


そして「権力者に逆らうと神の裁きを受ける」とまで触れています。


イエスの奥義を持って魂の価値観を語ったのであれば
勿論そんな価値観が湧き上がってくることもありませんし


イエスの教えの真髄を理解しているパウロが
そんなことを語るわけがないのです。


その上に権力者を神の下僕と称し
それのもつ武力による恐怖権力までをも正当化しています。


長い歴史の間にその内容が時には改竄され
時の権力者によって利用された可能性を認識しなければ
イエスの教えはそこでも捻じ曲げられてしまうことになります。


権力者はイエスの信者が抵抗した時や自分達の横暴をも正当化するためにも
ここでのパウロの言葉を引用すれば言いのです。


「聖書にはこう書いてある。
お前はクリスチャンでありながらそれに従わないのか」


とクリスチャンを誘導することも出来ます。


形式ではなくて、事の本質で捉える事のできる人間であれば
ここでのパウロの言葉に違和感を覚える事になるはずです。


しかし目を持って何事をも形式的に理解しようとする私達は
聖書の記述ひとつに惑わされ、


正しいイエスの教えから
離れてしまう可能性があると言うことになります。


時には比喩があり、時には言葉が足らず、
時には美化、時には改竄が存在する


そんなことを前提に聖書を読めば
そして文字通りの記述を額面どおり受け止めるのではなくて、
イエスの精神を正しく理解すれば


聖書の記述そのものを自分の価値観を持って理解するのではなくて
私達はイエスの教えの本質を理解し重視すべきであることも判る筈です。


そして私達がその想いを抱くようになれば
それは行動に現れることになります。


強い信仰が私達に魂の想いを強く感じさせるようになり
私達はそれを肉体を持って表現するのです。


私達は未だ、心と魂が分離した状態ですが
いつかその価値観は一体化し限りなく創造主に似る時が来ます。


課題を果たしながらイエスキリストの言っていた父との一体感、
それを目指して進化を続けてください。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】




今日はパウロの手紙の中で
はっきりと私達の持つべき意識のありかたについて
取り上げている箇所を引用します。


勿論それが創造主の法、宇宙の法則の意識へと
繋がっている箇所です。


兄弟姉妹であれば容易にそれを理解していただけるかと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そういうわけですから、兄弟たち。
私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。


あなたがたのからだを、神に受け入れられる、
聖い、生きた供え物としてささげなさい。
それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ここでパウロは霊的な”礼拝”という言葉を使用しています。


当時の社会で通常行わされていたような礼拝と区別して使用しているのですし、
それが形として表現されるものではないことは明らかです。


”自分の体を創造主に生きた添え物として奉げろ”

と言う例えは


”私達の身体が創造主の想い通りの行動をする事”
を象徴しているわけですし


創造主の意思に従って行動することが
私達の霊的な崇拝だと言っているのだと思います。


私達が通常想定している礼拝は
宮殿や教会のような場所へと訪れ、
手を組んでお祈りを挙げるような状況を想像しますが


そうではなくて、私達の肉体を
創造主の意志に委ねることこそが霊的な礼拝だと
パウロは言っているのだと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、
すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、
完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私達はこの社会の風潮に合わせてそれに馴染む事を良しとするのではなくて


創造主の意志がどのようなものであるか、

つまり創造主の意志では何が正しくて何が正しくないかを意識しながら
それを実践することが大切だと言うことです。


この世で完全であるのは、
この世の法則を作り上げその秩序の支配者でもある創造主だけだと
アダムスキーも言っていました。


私達が善悪と区分しているような意識を創造主は持ちませんが、
物事の正否の判断基準を完全な形で持っているのは
この社会の秩序を作り上げた存在だけであるのは事の道理です。


パウロはここで、
自分の心の価値観を創造主の意志に置き換えることで
自分を変えなさいと言っています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。


だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。
いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、
慎み深い考え方をしなさい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

パウロが与えられた恵みはここにあるように


”福音を述べること”


自分の魂を通じて感じた創造主の意志を受け止めて
それを表現するという事だと思います。


多くの賜物の中からパウロが得意としていたのは
今の社会であればオカルト含めて”霊言”とも言われている
魂の想いを語る手法だと言うことが想像できます。


しかしこれは私達人間の誰もが持っている能力で
私達はそれを使用出来ないでいるだけだと思います。


覚醒者が”イエスの奥義”を理解して取得してくれれば
まさにパウロと同じ事を実践できる事になります。


ここでパウロが触れているのは”謙虚”さだと思います。


奢り高ぶり自分を何者であるかのごとく表現する事を
当たり前としているこの社会の中において


思い上がることなく自分が大した存在ではありえない事を認識し
慎み深く有りなさいと私達に語っているのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一つのからだには多くの器官があって、
すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、

大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、
ひとりひとり互いに器官なのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これはキリストを”イエス”と認識すると理解不能ですが
”キリスト”を”真理”=”創造主の意志”とすると


「私達は創造主の意志の世界の中での一つの存在であり、
全体を構成している物の一つである」


という話に繋がって来ます。


そして同じ人間は誰もいませんし、
それらは相互に依存しあって生きているわけですから


神と言う四次元意識全体において
私達はその中の一つの器官として存在しているのだと言うことです。


私達は独自に細胞としての肉体と
それをつかさどる目、耳、鼻、口、のような器官を持っていますが


同様に”宇宙”という創造主の想いの世界全体を神の体だと
想定してみれば判りやすいと思います。


四次元社会での想い、そこでのエネルギー全体を創造主とすれば、
宇宙空間の全ては”創造主の現れ”と言うことになります。


そして四次元社会の中の創造主の想いの一部が私達の魂ですし、
それが三次元で現象化されているのが私達の肉体です。


宇宙空間を構成する物の一つが
私達一人一人の人間ですし、万物の全てです。


私達は宇宙という創造主全体の中の一つの細胞であり
器官なのだということになります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、
もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。


奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。


勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、
指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
創造主の意志、つまり魂と言う意識の経路を使用することで
私達は今まで気がついていなかった能力を使用出来るようになります。


テレパシーと表現されるものであっても
その現れ方もさまざまです。


千里眼や直感像・予知能力といわれるものも、
そのままのテレパシーも、霊言といわれるものも、
全てはテレパシーの延長にあります。


個々の人間によって得意不得意が出ることになりますし
自分の感じるところの能力を持って奉仕しなさいとパウロは語っています。


と言うことは、パウロはその理解者達に
イエスの奥義の存在だけではなくて


魂を意識の経路として認識する手法をも伝えていて、
弟子達もそれを実践している事を意味するはずです。


魂の経路の進化なしにテレパシー能力を
強めることは出来ないからです。


そしてそれを可能にするには創造主の法に従う事で
魂の経路を理解し使用する事が必要になります。


使徒の時代にはイエスの奥義含めて
イエスの教えが述べ伝えられていたことを
象徴しているのだと思います。


真のイエスの教えは簡単なものではなかった事も、
イエスの言葉からも想像できますし


それが単なる心情を理解するだけでなく
イエスの奥義の伝授と言う話になってくれば
当事も真の理解者は多くはなかったのではないでしょうか。


勿論、イエスの奥義が永遠の生の必要条件だというわけではありませんが
広く人に理解を求めようと思えばこれは必要ですし


イエスの真の教えを理解する人間が少ない社会だからこそ
兄弟姉妹達にはそのきっかけとなって欲しいと願います。


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愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。

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偽りの愛というのは私達の社会の語る”愛”のように
その見返りを期待するものであったり


心のエゴから出る所有欲や肉欲を交えるようなものであっては
いけないと言う話だと思います。


悪を憎みと言うのは”正義感”を持てと言うことです。


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兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、
尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

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自分を愛するように隣人を愛しなさいという
イエスキリストの教えに繋がるものです。


他人を尊敬し自分を低くすると言う話にも繋がっていますが
これもイエスの教えにもありました。


自らを誰よりも小さくして万人に仕えなさいと言う話に繋がります。


ここでは”愛”と”謙虚”と”奉仕”と言う話に
触れているのだと思います。

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勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

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何をするにも一生懸命だという
天使達の意識にも繋がるもので”勤勉”であれという話と


常に自分の魂の意志を受け止めて創造主の想いを実行しろと
いう話に繋がっていきます。


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望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。


聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。

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”喜び””忍耐”そして再び”奉仕”について触れています。


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あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。
祝福すべきであって、のろってはいけません。


喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。

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”祝福”さらには”同情”と言われる意識についてです。


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互いに一つ心となり、高ぶった思いを持たず、
かえって身分の低い者に順応しなさい。

自分こそ知者だなどと思ってはいけません。
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ここでは”調和”そして再び”謙虚”です。

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誰に対してでも、悪に悪を報いることをせず、
すべての人が良いと思うことを図りなさい。
あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

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”慈愛”そして”平和”へと繋がる話です。


これらの全ては”宇宙的意識”とアダムスキーが取り上げていたものですし

パウロ風に言えば”御霊の想い”


そして勿論そのまま”創造主の想い”と繋がるものです。


私達が心を持って想い、生じさせる負の想念ではなくて、
私達が魂の意識の経路から湧き起こすことになるはずの
創造主の想いそのままを表現したのだと思います。


これだけ見てもこの社会の多くの人間が常時発している想いが、
創造主の意志とはかけ離れていることが理解できるはずです。


そしてその悪しき想いが私達人間をそしてこの社会を
延々と汚し続けてきたのだと言うことです。


”愛”と語りながら、自分のエゴを満たし
心地よい想いをしたがっているのが私達の心ですし


無償の愛ではなくてそこに見返りを求めているのが
私達の社会の愛です。


”平和”といいながら未だに戦争や”争い”ごとを
一切やめることが出来ていないのがこの社会の実態ですし、


”理解”しあい”調和”するのではなくて
独自の心の価値観で”分裂”を続け
好き嫌いで裁いているのがこの社会の実態です。


個々の人間は”謙虚さ”からかけ離れ”奢り”高ぶり
自分が偉い人間であるかのように勘違いしていますし


自分が何も理解できていない存在だと言うことさえ
認めることも出来ません。


人が苦しんでいてもそれを”同情”することも出来ない人間であふれ
他人の”喜び”を共に喜ぶのではなくて
他人の喜ぶ姿を見て”羨み””妬む”のが私達です。


一生懸命な人間を嘲笑い、
自分では上司の見えるところでだけ懸命さを装い


行動の基準は常に自分の心が心地良くなることであり
”無償の奉仕”などと言う意識を持つこともありません。


物事の良し悪しまで判断できなくては
”正義感”など持つことも出来ません。


誤った価値観と誤った正義感を持っては
他人を勝手に裁いている人間達もいます。


創造主の意識に誠実でないその上に、
”嘘"や"偽り"で他人を騙し
それさえも正当化されているのがこの社会です。


イエスキリストが人を汚すと言っていたような意識。

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内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、

姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、

これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。

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まさにこんな想いにとらわれて
創造主の意識からかけ離れているのが私達この社会の人間なのです。


そして自分では自分の行動を省みることすら出来ないのですから
いつまで経ってもこの社会は改善されません。


ありとあらゆる価値観が個人の自由の元、正当化され、
一方では道徳が放棄されているのですから
当たり前かもしれません。


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愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。
それは、こう書いてあるからです。
「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」


もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。
渇いたなら、飲ませなさい。
そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。


悪に負けてはいけません。


かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

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勝つとか負けると言うと、勝負事の好きな
争いごとの好きな人間達のようなイメージを受けそうですが


内容からも明らかなように、私達は他人に勝つのではなくて
自分自身との戦いに勝つ事を求められていると言うことです。


心から溢れる事になるありとあらゆる感情やエゴの想いは、
私達を悪しき行動をさせようと誘導して来ます。


しかし私達が心のエゴに囚われれば、


イエスキリストがサタンの会派と言っていた
特殊な意識を持っている人間達と
同じ土俵の上で戦うことになってしまいます。


その戦いはエゴによるエゴとの戦いです。


その勝敗には正義はないのです。


私達は他人を裁く権利を持ちませんし罰する権利も与えられてはいません。


少なくとも創造主の法の下ではです。


地球の法則によりそれを与えられている人間達と
私達は同じことはしてはいけないのです。


そしてパウロも言っているように
私達は”復讐”など想ってはいけません。


裁きの全ては私達ではなくて
創造主の法がしてくれます。


もしも私達が裁けば今度は私達が
そこで自分に新しい罪を課すことになるだけで
そこには正当性はありません。


組織的犯罪被害者などは特にそうですが
復讐や憎しみの想いを持って加害者と対峙してはいけないと思います。


私たちまで彼らの持つ低い想いに囚われることになるからです。


パウロの時代には善と悪と象徴していましたが
それは当時の人間にとって判りやすいように表現したものです。


善と悪という意識は創造主の意識には存在しないそうです。


勿論この世で”正しい”とされる想いだけが
創造主の意識からは出てくる事になるようですが


善と悪を作り上げたのも私達である事を
忘れてはいけないと思います。


私達が為すべきは創造主の正しいとしている事を
実践するよう勤める事。


既存の価値観と比べると対照的で
自分の心にとって心良い事は少ないと思いますし


例えば私の置かれているような特殊な環境では
引き出す事の出来る意識も限られる事になるかもしれません。


ただ、私達が遠い将来に目指すべき事を
お手本としてくれた存在がいるのですし、
私達はそれに習って生きればよいのです。


「私が為しているのではなくて
父が私の体を持って為している。」


私達の社会の見えない守護者である
イエスキリストこそが私と兄弟姉妹達の最高のお手本です。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】
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P.S.

驕りと自惚れと見栄や自尊心は
私達の深い理解の妨げになると思います。


組織的犯罪被害者などは早々と
自尊心などを砕け散らせているかと思いますが
それは私達には幸いだと思います。


そして未だ理解が深まらない方も
おそらくは自分の大きな弱点を一つ克服する事で
大きな飛躍を見せる事になると想像しています。


兄弟姉妹達は今日の記事のパウロが取り上げていたような
想いの種類を見つめて
自分の中の弱点を探して克服するよう勤めてみてください。


肉の想い(心のエゴ)含めてです。


見えない大きな弱点が
私達の進化の妨げとなっている事もあると思います。


出来るものなら宇宙的覚醒目指して進化を続けてくださいね。



「隠されているもので明るみにされないものはない」


良くも悪くもイエスキリストのこの言葉どおりに
創造主の意識の下では私達は丸裸です。


アダムスキーが言っていたように私達の行動のすべてを
アカシックレコードと言われる創造主の記憶は持っていて


大体が私達は自分が自覚していなくても
常に創造主の意識が自分の中に一緒にあるのですから


イエスの言っていたように「髪の毛の数すら知っている」ほど
創造主は私達の身近にいる事になります。


そういえばパウロも言っていました。


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それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟を侮るのですか。
私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。


次のように書かれているからです。
「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、
すべての舌は、神をほめたたえる。」


こういうわけですから、私たちは、
おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。
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これは”最後の審判”を髣髴させていますが、
”転生の法則”の話だと思います。


創造主の前に跪くかどうかは別として、
私達はこの生で行ってきた全ての行為に対して
良くも悪くも裁きを受ける事になる。。


と言っても結果的には、死んだ時の魂を
創造主の法で評価・分類される事になるのだと思います。


形式的な人間の戒律を守る事で自分を義としていようが
見えない悪事や悪しき心はそのまま私達の魂にも反映され


その魂を見れば私達の人としてのありのままの姿が
きっと手に取るように判るのだと想像しています。


以前私が閃きを感じたときに記事にして取り上げたように、
転生の法則に関わってくる二種類のカルマが存在していると思います。


一つは自分の行為や他人の行為がそのまま他人や自分に対して
何らかの影響をもたらした事に対するもので
これは勿論良い物と悪いものがあります。


イエスキリストが天に財宝をつむ行為と例えた物が、良いほうの物であり、
私達が創造主の法の下で罪とされるものが悪い方です。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11369748271.html
生命の科学 復習・応用編 VOL3 カルマは解消できる?


もう一つ、私達は自分の無自覚の思いが
自分にとってのカルマとなっていると言う話にも触れました。


それは私達の心の想い、とりわけ一種の欲望に根ざしたものだと思います。


潜在意識といいますが、
もしかしたらそんな見えない心の意識の奥深く、
もしくは魂に対して刻み込まれるような意識だと想像していますが、


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11370292500.html
生命の科学 復習・応用編 VOL4 潜在意識のカルマ


一種の執着心、何かをしたいと言う願望。
報われなかった何かを報いたい。


そんな意識を私達は無自覚に持っている事があるはずです。


そしてそれはカルマというよりは
自分にとっての無自覚の執着です。


後悔の念、夢、欲望と言う事で記事では取り上げました。


この執着に関しても転生に影響を与える事になるだろうことは
記事で取り上げた通りです。


もしもその執着がこの地球社会の価値観に根ざしたものであれば
私達はそれに強く囚われることで再び
この地球社会への転生へと導かれかねません。


私達の魂へと刻み込まれる私達の想いは
そのままそれを実現するように働きかける事があるため


もしくはそんな執着心自体が私達の心のエゴに
とらわれていることを意味するのか
その想いは私達の魂をこの社会に引き寄せる事になると思います。


私達はそんな想いを捨てて生きるように
勤めなければならないのです。


つまり日ごろから何事にも執着心をもっても
いけないのだと思います。


極端な例をあげれば、今の生では貧乏だったから
お金を沢山持って色んな物を買いたい。


などと言う意識を無自覚のうちに自分の執着心としていれば
私達の魂をこの社会に縛り付ける要因となるはずです。


勿論、カルマに関しては
この社会の中に於いて他人との間に無自覚のカルマを
沢山作りすぎてそれが解消されていないような場合


罪と言える行為を繰り返し
それを反省することができないような場合、


私達はそのカルマを解消する事を求められ、
その罪を理解するための学習の機会を与えられ、
この社会への再び転生する事を求められる事になるかもしれません。


そして何故に反省する意識を持ち、それを正そうとする事が大切かと言えば
それが同時にカルマや罪に対しての解消行為につながるからだと思います。


それは全てでは無いにしても
私達の反省の想いは間違いなく罪やカルマを解消する事になります。


懺悔といいますが、心からの懺悔であれば
そして同じ事を繰り返さないように勤める事は
私達の業を解消するように働くと言う事です。


一方身に覚えの無い圧力や介入を受ける事は
それは別の意味でのカルマになると思います。

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私達が罪やカルマを作り出しそれを放置する行為は


「誤った体験をしておきながら、
その体験から何も学んでいない」


と看做されるのだと思います。


学んでいれば私達はそれを反省しようと勤めます。


それが出来ていない人間は罪を罪と認識できず、
カルマを作り上げた上にそれを放置する事にもなります。


そしていつも言うように創造主の法則は
私達にそれを学ばせようと働きかけます。


この社会に置いては創造主の法は私達を覚醒へと導く事になる、
といつも話していますが


一つ一つの課題を果たすたびに私達の心の学習は進み
結果、心は正しいことを正しいと理解し、その誤りを正し、
私達は魂を感じやすい状況へと誘導される事になるはずです。


そしてそれは私達が覚醒するまで延々と続くでしょうし
今の社会であれば覚醒しても
更なる課題まで与えられるおまけつきだと思います。


個々の課題は私達の心に正しい考え方や行動を学ばせるための物ですし、
課題をこなしていくほど、私達の心の価値観も恐らくは道徳的になり、
そして魂の意識にも近いものとなっていくのだと思います。


行動をする事で、経験をする事で
私達は多くの失敗を繰りかえし時には罪をも犯す事になりますが


私達はそれをすぐに間違いと認めて反省する事で
そこで学習する機会を得る事になります。


アダムスキーが体験の重要性を訴えていたのは、
「多くを経験して、そこから何が正しくて何が間違いかを学べ」


と言う趣旨だと思います。


しかし中には自ら行動して学ぶ事の出来ない人間がいます。


もしくは体験してもその中から正しく学ぶ事の出来ない人間もいるのです。


そんな人間に対して創造主の法は、
時には痛い思いをさせてでも
身をもって理解させる様に誘導すると言う事です。


そして学ぶべき事が多い人間ほど、カルマを多く持っている人間ほど
課題をこなすのにも時間がかかるでしょうし、魂の覚醒は遠いでしょうし、


課題を残せば次の生に置いて、
それを学ぶ事の出来る環境を用意される事になるはずです。


つまりその時々に与えられた生における環境は、
私達のカルマとして背負っているものを学ぶための要素で満ちていて


そこから何かを学ぶ事こそを
私達は求められている事になると思います。


しかしそこで何も学ぶことなく、
その環境をただ疎ましく思い、再び心を持って暴走すれば


私達は進化には進めないだけでなくて更なるカルマを
背負う事にもなります。


そしてそれを繰り返しカルマを作り背負い続けて
それが解消不能の状態になったとき、


創造主の法の下、永遠を示す事が出来ない、
永遠を示す資質がないと判断され消滅に至るのではないでしょうか。


一方私達の地球社会の中では、
創造主の法は私達が覚醒するように誘導するはずですから


不快な環境に置かれる事がきっかけでも
それで覚醒する事が出来た人間は、
結果的に自分のカルマがある程度解消されて要る証拠だと思いますし


その不快な状況を
創造主の法則に拠る覚醒への導きであると認識すれば


私達の中の被害者である兄弟姉妹は
今の境遇を憂う事もなくなると思います。


加害者が憎くて堪らない方であれば
こんな話は加害者にとって都合の良い意識を
被害者に齎すと言うかも知れませんが


これが見えない真理だからです。


私達は心を持って暴走し、自分のあるべき実態を理解していないからこそ
価値のあるものと価値の無いものを選別できなくなり
真理と真理でないものを混同しています。


私達は今苦しんでいますが、
真理の元ではそれをそのまま自分にとっての覚醒の機会へと繋げる
きっかけとする事もできる訳です。


日々他人を憎み、争いを好んでいるような人間達
誤った正義感を振りかざしている人間達は


いまこそ心地良い想いをしていても
彼らを待っているのは大いなる裁きであり、魂の消滅であり
山ほど作り上げているカルマの解消のための次の生での試練です。


それが心地良い物であるわけが無いのです。


でもその人間達はそこで学ばねばならなくなるはずです。


組織的犯罪にしても、他人を勝手に評価して
裁く行為を続けている人間たちは


私達が直接何らかの迷惑やトラブルをかけた人間では
無い事が多いと思います。


彼らは組織の中で悪人と決め付けた人間や敵と決め付けた人間を
自分達の戒律をもって裁いているだけで
その行為には何の義もないことは私達が学んでいる通りです。


彼らはそれによって自分達が何らかの形で
快い思いをしているに過ぎません。


もともと創造主の法則では
他人を裁いてはいけないというのが私達の理解ですし

それを実行している人間達はその行為自体がすでに誤っているのです。


創造主の法の元ではその行為は間違いなく罪です。


そしてそんな行為は彼らにとっては負のカルマですが、
彼らは創造主の法の因果応報も理解しておらず
自分達の行為を自分達で正当化し、


自分が業を背負っている事を認め無い事で
心を安心させているだけだと思います。


そしてそんな私達にとっての不条理な体験は、
私達が覚醒へと進むための創造主の働きかけだと思って
辛さで魂を腐らすことなく乗り越えて欲しいのです。


私達はその行為に報復しない事で
天の国に宝を積む行為と同じ恩恵を受ける事になるのだと思います。


創造主の法は決して不条理な裁きなどしないからです。


やられっぱなしで酷い思いをし続けた人間が報われず、
そのままで終わってしまうと言うのは
この地球社会の常識である一度きりの生の中での話であって、


半ば永遠を生きる事になる私達は
しっかりとその分の報酬を受け取る事になるのです。


例えば、別に作ってしまって解消されていないカルマを
その恩恵がカバーしてくれるかも知れませんし


それは必ず私達にとって良い方向へと
働きかけてくれる事になるはずです。


しかしそこで私達が心を持って極端に反応してしまうと、
私達は彼らのカルマに対して新しいカルマを作る事で
対抗する事になると思います。


私達はその意味では達観しなければいけないのだと思います。


苦しんでいる兄弟姉妹が少なからず存在していて
中には家族への圧力や洗脳行為で意識をゆがめられている方も
少なくないと思います。


でもそんな私達を創造主の法は見捨てているわけではないのです。


何かをすればすぐに報いが得られると思わないでください。


加害者達の中心にいる人間の思考がまさにそれで、
自分達が為した事に対してすぐに何らかの効果を期待して
一方では心のあり方など無視していると思います。


そして多くの場合、彼らの幸せは現世にあります。


しかし私達の幸せは来世にあるのです。

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昨日に続いてパウロの言葉の中から
イエスの奥義を使用して創造主の法を語っていると
認識できる箇所を紹介します。


パウロに関しては”12使徒のパウロ”であるとか
”12使徒を殺そうとしていて改心したパウロ”であるとか
いろいろ言われていますが、そんな形式ごとは私達には無関係です。


12使徒がイエスの死後に、天使達によって導かれ覚醒し
創造主の法をイエスの奥義を持って述べ伝えたように、


12使徒の福音を受けてイエスの教えを語った人間達もいますし
その人間達も同様に天使達の加護を受けていたはずです。


そして一番重要なのは彼らが魂を意識の経路として理解していて
そこからの想いを語ったと言う事実です。


聖母マリアであろうがパウロであろうがヨハネであろうが、


魂の意識を理解している人間がイエスの奥義を使用して
魂の想いを語ったと言う事が何よりも重要だと言う事です。


それは真理だからです。

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私には、自分のしていることがわかりません。
私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、
自分が憎むことを行っているからです。


もし自分のしたくないことをしているとすれば、
律法は良いものであることを認めているわけです。


ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、
私のうちに住みついている罪なのです。
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ここでパウロは自分の中にもう一人の自分がいて
それが自分の思う事とは違う事をするのだと言っています。


言うまでも無くそれは私達が”心”と呼んでいる肉の意識で
その意識が、パウロが覚醒して自覚したもう一人の自分の意志と
異なった事をするのだと言っているのです。


人間の律法と形式的な事を良いものであると認め
それを行おうとするその心は自分ではなくて
自分の中の罪であると表現しています。


これは、人間の律法が悪いという意味ではなくて、


前回触れたように心を持って人間の作り上げた戒律だけに縛られる事は
本来心が持つべき神の戒律の実践を妨げると言う意味で
それを罪と表現しているのだと理解すべきだと思います。


パウロが語っているこの箇所は、
”創造主の法”や”二つの意識の経路”を理解できない人が読めば
オカルト解釈するか良心とエゴと解釈する事になるのだと思います。


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私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。
私には善をしたいという願いがいつもあるのに、
それを実行することがないからです。


私は、自分でしたいと思う善を行わないで、
かえって、したくない悪を行っています。


もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、
それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。


そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、
その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

パウロはここで自分の中の魂の意志と
従来の自分の意志である心の意志の間に挟まれ
心が魂の望まない事を実行するのだと嘆いています。


勿論恐らくこれはパウロ本人がそんな体験を
今現在していると言うだけではなくて


一般の信者達に対して彼らの立場に立ったつもりで
語っている内容だと思います。


善と言われる神の意志に従った行為をしたいと願う意志があって
一方では神の意志で量れば悪とされる正しくない行為をしたがる自分がいるから
自分の中には悪が宿っているのだと表現しています。


言うまでも無くここで悪と象徴されるのは
エゴをもって暴走させる私達の心の事であり


パウロが自分と言っているものは真の自分である
私達が魂と表現している物の事です。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、


私のからだの中には異なった律法があって、
それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、
からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。


私は、ほんとうにみじめな人間です。


だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。


私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。
ですから、この私は、心では神の律法に仕え、
肉では罪の律法に仕えているのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

自分の中にある本当の自分である魂の意志は
神の律法を喜んでいるのに、


自分の中には異なった律法を持った心というものがあり
それが自分を罪のとりこにしているのだと触れています。


ここでの”内なる人”と言うのは勿論私達の魂の事で


ここではパウロは”心”で神の律法に仕え
”肉”では罪の律法に仕えと表現していますが


言葉が違うだけで言っている内容は私達の学んでいる事と同じ
二つの意識の経路を語っている事だと理解できます。


何事も形式的に解釈し額面通りに捉える人間であれば


”心を持って神の戒律に仕え”とあるのだから
「心が創造主を感じる事になる」


と勘違いする事にもなるかもしれませんが


ここでパウロが”肉”と表現しているものこそが
私達の脳機能をつかさどる、
私達が生命の科学の中で”心”と表現しているもので


パウロが創造主の戒律に従うと表現している”心”
こそが私達が”魂”と表現しているものです。


言葉の解釈一つでもそれを額面通り受け止め
文脈の前後や比喩表現などを加味しないと、


私達は聖書の言葉を誤って解釈する事にもなりますし

ユダヤの傀儡に揚げ足を取られることにもなると思います。


パウロも後世の人間にそこまで突っ込まれると意識して
手紙など書いていなかったでしょうが


それが聖典とされるのであれば
もっと言葉を選んでくれる事となったと思います。


パウロはイエスの奥義を使用しては魂の閃きのままに語った事で
それが多くの混乱を齎す原因となってしまっています。


イエスの奥義自体が私達の社会では理解しにくいものでしょうし
意識の二つの経路だって理解できないものです。


その上にイエスキリストへの信頼を求めるためにイエスを美化し、
更にはその時々の閃きによる表現が、
時には言葉の整合性を見えなくさせているからです。


しかしパウロが要所要所で語っている事は真理です。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が
罪に定められることは決してありません。


なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、
罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

”イエスキリストにある者”と言うのは
イエスを信じる人間という意味ではありません。


イエスの教えを理解してそれを実践している者という意味です。


もっと言えば覚醒者の事です。
しかも当時の使徒達は天使達の身近な支援を受けて
宇宙的啓示を果たしていたかもしれません。


ここで”いのちの御霊の原理”と”罪と死の原理”と
パウロが語っているのは先日も取り上げた


”人間の戒律に心を持って従う事”と、
”創造主の法に魂を持って従う事”の例えです。


「私達は人間の戒律に心の価値観を持って従う事で
一方では心のあり方としての義を無視している」


というのがパウロの話でもありました。


そして私達は本来魂を持って創造主の法に従う事で
心のあり方にこそ重きを置かねばならないのです。


それを実行できている人間がここでパウロが
”イエスにある者”と表現した対象だということになります。


そして今の社会に於いての私達覚醒者は
間違いなくイエスにある者だと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
肉によって無力になったため、
律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。


神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、
肉において罪を処罰されたのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私達が肉を持って、心を持って生きる事を放棄したために


人間の律法では出来ない事、
心のあり方を示し、それをもって義とする手段を
創造主は与えてくれたと言う内容だと思います。


ここでもイエスキリストを神の様に表現していますが、
イエスキリストが神と認識される事で


多くの人間がイエスの教えに導かれる事になる事を
期待したものと認識すれば良いと思います。


彼らは皆知っていたはずです。


イエスキリストが自分を”人の子”と呼んで
神である事を否定していた事をです。


それにイエスキリストが神の子であろうと無かろうと
私達がイエスから学ぶべき事と実践すべき事は変わらないはずです。


イエスは私達に「神の御心を実践しなさい」と
言っていたのですから。


私達はイエスの語ったキリスト(真理)を信じ、


それを実践できる人間が永遠の生へと進み
出来ない人間はいずれ魂を失うと言う法則こそを
理解し実践すれば良いのです。


神の一人子のイエスキリストが語った言葉であろうと
人の子のイエスキリストが語った言葉であろうと
私達にとって大切なのはそれを真理として実践する事です。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


イエスの使徒となり得る人間に関しては、
そろそろリミットが近づいているかもしれません。


と言うことで以前から時々は取り上げていた
”イエスの奥義”について再び触れておきたいと思います。


勿論、脳に音声送信を受けては
偽の神を語らされているような人間達に負けないで
兄弟姉妹達が真の創造主の法を語るためです。


今ここで創造主の法が途絶えてしまうことになり
アダムスキーの存在が風化してしまえば
私達の社会では二度と創造主の法が語られない恐れもあります。


イエスの使徒を増やして欲しいと言う想いをこめての記事です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


イエスの教えは創造主の法則、
つまりはキリスト教徒に限らず全ての人間に
繋がる物である事は明らかです。


宗教という枠組みを作り上げ分裂したのは人間の勝手で、
自分達で独自の価値観を作り上げようが
そしてそれを信じようが自分達の勝手ですが


それを間違い知りながら他人に押し付けるのは
他人を神に躓かせる行為ですし、


それへの信仰が
自分達の信じているような効果を齎すかどうかは
まったく別の話です。


誤った価値観を、誤った正義を信じて
それを実行しても何の効果もないどころか


時には自分の心と魂を腐らせることになるのは
今の社会の実態を見ればわかると思います。


この社会には真実など啓示されてはいない。


だからこそ、神の教えとされる宗教でさえ分割が続き、
争いの原因となっているわけで


誤った価値観をも個人の自由として認めては、
その悪影響の実態も放置しているこの社会を
そのままにしておいては私達には未来はありません。


宗教ごとに神様が存在しているのではなくて、
どこの宗教も自分達の組織にとって
都合の良い神様を作り上げているに過ぎない。


その事を理解しなければ
この世から争いが消える事もなければ
真の平和が齎されることもないと思います。


”イエスの教え”を”パウロの手紙”へと繋ぎます。


聖書の中でパウロはイエスキリストを神聖化しながらも
多くの創造主の法を語っていました。


イエスを神聖化したのは
一般市民の信頼を得るための詭弁であると思いますが


それはエゴから出た行為ではないので
”罪”とは看做されないと思います。


多くの人々がイエスを信頼することで
真の創造主の下へと導かれる事を願ったものだからです。


その動機は正しいものですし結果も
創造主の意志に叶っているからです。


しかしその事がヨハネの福音書と併せて後の世に、
イエスの神聖をめぐっての論争と分裂までをも引き起こす事となりましたが
12使徒達も天使達も其処までは見据えてはいなかったと思います。


彼らにとって重要だったのは2000年前のユダヤ教徒を
いかにイエスの教えへと導くかと言うこと、


そして多くの人間を従来のユダヤ教ではなくて
真の創造主へと導く事であったからです。


しかしその内容が人間であり
天使達の指導者でもあったイエスキリストを神聖化した上に、
人々が理解できない魂の意志=御霊の想いに特化して説明していたために


後の世に置いてはオカルト解釈され、
一部の人間達には否定までされるに至りました。


でも、私達がパウロの手紙を読めば
それが単なるオカルトではない事が理解できる箇所も多いはずです。


御霊の言葉、御霊の想いを理解できるのは
魂の意識の経路を理解できる人間だけです。


そして私達はパウロが福音や手紙を書く時には
イエスの奥義を使用していたこと、


つまり魂からの印象を受けて
言葉を連ねていたと言う事を理解しなければなりません。


パウロの手紙を読む時にはその大前提が存在すると言うことです。


そしてそれはイエスの奥義の存在を
理解していた人間に対して伝えられたものでもあるはずです。


彼ら使徒達の理解者は”御霊”なるものの存在を
理解しようとしていた人間達のはずなのです。


全くの知識の無い人間に対して送った手紙ではないために
語られていない大前提がそこには存在していることになりますし、


何の知識も無い人間がそれを読んでも
パウロの言葉の真意は理解できないはずです。


その言葉を額面どおり受け止める事になるからです。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
心に囚われて誤った価値観に従って生きている人間には無理でも


多くの覚醒者は私のようにハイテク電磁波攻撃などで
思考を妨害されて居なければ、
”イエスの奥義”を実行する資質が備わっているはずです。


理解が深まっていれば居るほど、
そしてそれが無自覚であってもです。


以前にも取り上げていますが、


これは私達が創造主の意志を語ろうとする時に、
魂の経路から頻繁に閃きを受けたり、
次に語るべき言葉が与えられる事で自覚します。


”イエスの神の国の奥義”と言われていたものは
私達が魂からの印象を受け止めながら創造主の法を語る事だと思います。


その受け止めることになる”想い”の主が本当に魂なのか
それとも天使達からの想いなのかは不明ですが


2000年前の使徒達が実はそうであったように、
天使達の想いは私達の魂にテレパシーとして与えられ
その印象や閃きが私達に創造主の法を語らせる事もあると思います。


少し前に”印象”や”閃き”の感じ方に関して取り上げた時には
触れませんでしたが、


私は昨年の3月頃に頭にハイテク攻撃を受けながらも
ICレコーダーに生命の科学、創造主の法、闇政府の策略と
録音しながら話していた時に頻繁に閃きが起きるようになり


その後は録音する事がなくなってからも
その閃きは一時はどんどんと進化し、
室内で生命の科学を語り続けていた頃がありました。


その後私の行動を妨害しようと
工作員達の手による私の脳への関与はさらに激しくなり


脳細胞まで壊されているようで、
記憶も思考能力も低下され今では生命の科学を語っても閃きは起きませんし


(脳回転を良くしてくれる人間達が居ますが
残念ながら以前のような閃きはありません)


今では閃きどころか普通に語る事さえ難しくなって居ますが、


おそらくはハイテク被害に遭っていない方であれば
創造主の法を語ろうと意識し続けて実行し続けることで
そんな閃きを頻繁に感じる事になるはずです。


(ハイテク被害者は感情や精神状態までコントロールされるので
一定の状態を保つことは至難の業だと思います。
最悪利用される危険性も意識しておいて下さい)


そしてその閃きや印象を感じることにより
私達の創造主の法の理解は深くなります。


魂の経路をある程度感じる事のできる人間であれば
これは練習次第で多くの方が実行可能ではないかと想像するに至ります。


おそらくは昔クリスチャン社会で啓示と呼ばれていたのは、
私達と同様に魂の意識の経路を使用することで


其処から創造主の意識を受け止めて
それを語る行為だったのだと想像も出来ます。


しかし時代の流れの中で個人的な啓示を禁止する流れも出来ましたし


一方では権威を持っている人間達が
これを使用できなかったであろう事も想像がつきますし


イエスの神の国の奥義は、後の世界には伝わる事も
無くなったのだと想像できます。


おそらくは時代の権力が宗教と結びついていたために


その権威を失墜させるような行為となりうる
イエスの奥義により魂の意識を感じ創造主の想いを語ることを禁止し
それを行う人間を悪魔扱いしたのが


魔女狩りのきっかけの一つでは無いかとも想像しています。


認識できる人間同士には共通認識でも
それが出来ない人間にとってはそれはオカルトであり
脅威でもあったのかもしれません。


つまりは心を持って暴走し、
独自の神を作り上げている人間達にとっては
真の創造主の意志を語る魂の存在を理解することも出来ず、


一方では権力を持ち続けるためにも
彼らはそれを認める事も出来なかった。


それが少数派の人間の迫害につながって行った可能性もあります。


そしていつの時代も少数派が迫害されて来たために
おそらくはそれを使用できた人間達は神の冒涜者とか悪魔扱いされては


真のサタンの会派と成り下がった人間達によって
消されてきたのだと思います。


考えてみれば魂の経路を認識できる人間は
いつの時代も少数派に決まっています。


イエスの語った天国の門は狭き門でした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


私達はイエスの奥義を自ら実践して見せることが出来るはずです。


まずはアダムスキーの言っていたような
魂と心を並行して使用する練習を続けること。


魂という意識の経路を感じるコツを覚える事が
一番の大前提になると思います。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11437272683.html
創造主の意識  心と魂を使用する


私達が一番にマスターしなければならないのは
何よりも二つの意識の経路の切り替え、
もしくは同時にそれを使用する行為です。


今の社会では意図的に左脳を使用させ
右脳機能を低下させるような風潮が出来上がっていることは
以前から触れているとおりです。


CIAの洗脳研究の中では霊機能や超能力を妨害するという
プロジェクトもありました。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10923924928.html
CIAのマインドコントロール


私達は左脳と右脳のバランスを保つ事を意識しなければなりませんし
現代社会の中で実行され続けている右脳阻害の効果を
除去しなければなりません。


例えばTVは字幕や周波数での悪影響が考えられますし、
正常な環境に置かれている方はそれを抑制することでも
効果があると思います。


電化機器などボタン操作一つで使用できるものが多く
私達は創意工夫を忘れていることも認識してください。


右脳の機能はそんなところからも阻害されているのです。


右脳の活性化はそのまま想像力と創造力の発達に
役立ってくれるはずです。


そして創造力と想像力の発達が
今度は右脳に閃きや印象を頻繁に起こすきっかけになります。


閃きや印象を受け止める時の脳の状態を意識して
その状態を保つように勤めることで、


私達は実質的に右脳をも、
そして間接的に魂という感覚器をも意識することになります。


それがある程度可能になったと自覚した状態で
今度は創造主の法を自分の理解で語ってみてください。


当初は”生命の科学”の本や聖書でも読みながら
それを説明するつもりで語るのが良いと思います。


私は自分の持っているあらゆる知識を吐き出すことで
生命の科学の本がなくても時には3時間以上も
延々と独り言を語る事もありましたが


本を読んでいる時よりも
自分の思考を意識しながら語っている時の方が
頻繁に閃きを受ける事となりました。


一番最初のころは話している最中に
頭の中で「何を語ろうか」
と意識しながら自分の思考を意識しての実践となると思います。


ただ閃きを頻繁に受けるようになると
延々と次に何を語ろうかと頭に閃きが起こるようになり


しまいには自分がそれまで理解していなかった知識までも
印象として与えられる事にも繋がって行きます。


私はそんな閃きを受けて記事を書く事も在りました。


聖書の中でイエスキリストが


「何を語ろうかと悩む必要はありません。
その時に聖霊がそれを与えてくれます」


と言う記述があったと思いますが、結局はあれはテレパシーのことです。


ある福音書では「語るべきことをイエスキリストが教えます」とあり、
ある福音書では「語るべきことは聖霊が教える」とありますが


イエスが「テレパシーを使って魂と言う想念の感覚器官を通じて
語るべき事を伝えるから、何を語ろうかと悩む必要は無いのだ」


と12使徒に対して語った内容だと言うことも
とてもよく理解できます。


そして「12使徒は聖霊を受けては語りだした」とありますが
あれも結局は同じものだと思います。


魂に対して閃きや語りかけを受け続けていたのだと想像出来ます。


自分で何を語ろうかと考えることなく、彼らはその知識を
時には天使達に時には創造主の意志として受け止めては
それを口で語っては表現したのだと思います。


パウロの言葉から引用すれば

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さて兄弟たち。私が貴方がたのところへ行ったとき、
私は、すぐれた言葉、すぐれた知恵を用いて、
神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。


そして、私の言葉と私の宣教とは、
説得力のある知恵の言葉によって行われたものではなく、
御霊と御力の現れでした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

パウロは自分の宣教は人間としての自分の知恵ではなくて
御霊と御力の現われだと表現しています。


つまりパウロは自分の心を持って
それを語ったのではないと言っているのです。


この状態が理解できるようになるために
皆には精進して頂きたいと思います。


話を戻せば、最初は”生命の科学”でも
自分の理解している範囲の”創造主の法”でも良いので
それを口に出して語る練習をしてください。


その時に意識すべきは、心と並行して
魂の意識の経路が使用されているかと言うこと。


本を読んでいるような時には
心の感覚器である視覚と聴覚に囚われることになりがちなので


出来れば自分の知識を持って
最初は心の知識を使用しての独り言を実行するわけです。


その内に閃きが頻繁に起こるようになれば
その閃きのままに語る事になりますし


話が飛ぼうが意識せず、それを実行し続けてください。

延々と言葉が出てきて語り続けるようになっていくと思います。


後編に続く



現代でも私達以外にも
イエスの奥義を使用していた人物は勿論存在しています。


私の心の師でもあるアダムスキーがその人です。


アダムスキーは原稿などなしに
3時間ぐらいの講演でもその後の質問でも
とめどなく語り続けていたそうです。


勿論、政治家や弁論家の中には
それに慣れていることから延々と原稿なしで
語り続ける人間もいますが


彼らは心の知識を持ってその価値観を語っていたに過ぎず

回数を重ねて語り続けても彼らには新しい閃きや知識が
与えられることはありません。


しかし私達が語るのは創造主の法です。


その知識を与えてくれるのは
私達の心ではなくて魂であるからこそ閃きを利用することで


その知識はどんどんと増えることになりますし
理解はどんどんと深まります。


更にはいつまでもとめどなく語り続けることも
可能になるのだと思います。


アダムスキーに関してはそれを多用して
稀には誤った印象をそのまま伝え、
後で矛盾しているように見えた箇所も在ったかもしれませんが


語っている言葉の数の多さを思えば
私達は人間なのですからそれは仕方がないと思います。


皆も実践を繰り返せば
私が感じたものと同じ感覚を受け止めて
それがその事だったのだと認識できると思います。


そしてその究極の?状態は一種のトランス状態です。


おそらくは左脳という心を司る機能が通常よりも動きを弱めたために
私はそれをトランスと感じたのだと思いますが、
半ば目がうつろになった気分の状態、


つまり左脳がはっきりと機能しない状態へと移行するようで、
通常の状態に照らせば半ば意識が朦朧としているような左脳の状態で
私達は無意識のうちに言葉を並べ続けることになります。


もっと言えば目が見ていないが勝手に感じているような
いわゆる「心ここにあらず」のような視覚状態を
感じることになると思います。


一方ではもう一つの意識の経路である
魂の経路らしきものがとても感じやすくなり
其処から言葉があふれるような状態だと言えます。


キリスト教徒には神への冒涜と言われそうですが
自分が創造主の意識で満たされているような
そんな錯覚に陥るわけです。


もっと詳細を示せば
自分が語る言葉の想いに自分自身が影響を受けるような
そんな感覚です。


(悲しみの感情などは容易にハイテクで引き起こされるので
混同しないようにしてください)


でも実際はそれは錯覚ではないはずです。


私達の魂が元々は創造主の一部であり
その想いは創造主の意志に違いないからです。


もっと判り易く言えば、自分が言葉を発しているのではなくて、
何か別の意志に従って話をさせられているような
そんな感覚へと落ちるわけです。


そしておそらくはその状態を延々と維持しては語り続けていたのが
イエスキリストとその使徒達だったのだと思います。


私は夏前にブログ後継者を探したことがありますが
実は其処までの感覚含めて
実践できるような人を探していました。


私が脳機能が壊れてそれが実践して見せることが出来なくなる前に
自分の体験を引き継いで貰いたいと願っていたのですが
相手が見つかりませんでした。


(脳機能が未だ活発で右脳が潰されていない
20代30代の理解者を探していました)


結局それは叶いませんでしたし
自分もその後はそれを体験する事も出来なくされてしまい
半ば諦めていました。


一方では私がそれを詳細に紹介する事で
地球の法則、闇政府の傀儡たちに
それをも利用されることを恐れていましたが


今はそんなことを言っていられる状態ではないと思いますし
怪しげな預言者達が出てこないうちに
真の預言者を大勢増やすことが出来ればと思います。


私達であれば現代の社会に
”イエスの奥義”を復活させることが出来るはずです。


そして更にそれは見えない強い協力者によって
支えられる事になると思います。


アダムスキーも、その側近も語っていましたが、
天使達は創造主や天使達について理解しようとする人間
それを語ろうとする人間に絶対に力を与えてくれると思います。


天使や創造主を想う気持ちは
彼らには容易に受け止めることも出来るのです。


もちろん私達に対して与えてくれるのは創造主の意志に代えて、
”彼らの想いと知識”という形でです。


彼らはテレパシーの達人です。


そしてその強いテレパシーは
私達が魂の経路をしっかりと使用できない状態でも
私達に影響を与えることが可能のはずです。


つまりは私達は天使達の想いを受け止める
真のメッセンジャーにもなりえるという事。


怪しげな宇宙人のアセンション話や
いかにも地球の価値観に囚われている人間が
語ったような偽宇宙人の言葉でなく、


私達に与えられるのは
あくまで閃きであり印象では在りますが
語りだすと知識が止め処なくあふれる体験をすることになるはずです。


私はブログ記事を書く時でも脳機能がはっきりとしている時には
それを強く感じていました。


毎回長い記事ですがその下書きを
一気に書き終えることも頻繁にありましたし
以前は一日に記事を三つも書いていた事もあります。
(一時は予備の記事が50もあったのです)


それと彼らには、”脳へと必要な記憶を植えつけて
それを必要なタイミングで引き出すことが出来ると言う技術”があること、
アダムスキーの著書を読んでいる方は気がついていると思います。


私達もそんな体験をする可能性があります。


勿論私達はそれを閃きとして受け止める事になります。


彼らは覚醒者、もしくは覚醒に向かいつつある人間を把握していて
今も導こうと勤めてくれている。


私はその事を確信しています。


そして私達がイエスの神の国の奥義を使用しようと勤めれば
其処には絶対協力を受ける事になると信じています。


私達はその時に身をもって理解する事になるはずです。


心の意識に従って語るのではなくて
魂の意識を感じて語ると言うこと、


自分が成すのではなくて自分の体を通して
創造主が成している状態をです。


それはほんの短い体験かもしれませんし
延々とその状態を維持することは出来ないと思います。


しかしその時に私達はイエスキリストが言っていた
言葉の意味を確信し


更には心ではない、意識の経路の存在への信頼を
絶対的な物とする事になると思います。


誰もいない部屋の中でかまいませんので、
他人に対して創造主の法を理解を求めるつもりで
語ってみてください。


そしてそれを繰り返し練習して欲しいと思います。


権力のある人間や、司祭や神父には出来ないことが
私達には出来ると思います。


それは私達が真の創造主の法を理解しているからですし
私達が心ではない魂と言う存在を意識し続けているからです。


そして今度こそイエスの奥義をこの社会から
消し去ってはいけません。


まだこの社会の中に存在している
サタンの意識に囚われていない人たちを創造主の法へと導いて下さい。

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ところで聖書を読む時はその前提で読む習慣をつけてください。


例えばパウロの手紙は、
イエスの奥義を意識して自分の魂を感じることで
其処に啓示された創造主の意志を語ったものだと言えます。


もしかしたらその啓示を与えてくれていたのは
天使達かもしれません。


12使徒には常に天使達の協力が見え隠れするのです。


イエスキリストの時代には、ひそかに神の役を演じて見せたり
時には奇跡を演出することもあった天使達ですが、
(天からの声など)


イエスキリストの様に自分の体を持って
おそらくは延々とトランス状態にもなることで
創造主の意識を語り続ける事まではできなかったでしょうし


それを協力したのは天使達の想いのはずです。


そしてこの奥義を使用するに当たっての注意事項があります。


アダムスキーが印象を受けた時に気をつけるように言っていた
「私達が心を持ってそれを捻じ曲げてしまう可能性」です。


パウロの手紙を読むと、イエスキリストを神聖化するために
時には心を持って語っているために


魂からの印象としての創造主の法を語るにあたり
自分の心の価値観と織り交ぜてしまって


一部誤った解釈をしている箇所が
ローマ人の手紙の中では見られる気がします。


私達の心の価値観は、
時には魂からの印象を捻じ曲げることになりますし


そして誤った解釈はそのまま
真理を捻じ曲げることにもなります。


キリスト教徒を語る人間の中には啓示を受けたと称しては霊界を語り、
パウロは地獄に落ちたと誤りを話す人間もいたようですし、
私達は印象を慎重に受け止めて語る事が大切だと思います。


例えば人工想念とも言える電磁波による意識を送られて、
それを創造主の想いと勘違いしては語るようなことは
私達は避けなければならないのです。


音声送信と言われるようなハイテクを使用した
脳への声の語りかけは問題外です。


それは”声や音の送信”であり端からテレパシーではないからです。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11438199880.html
御霊の齎すもの、魂とテレパシー


指針となるのは、第一にその閃きが
今まで私達が学んで来た事と比較して
其処に矛盾がないかどうかと言うこと。


アダムスキーの生命の科学の中の例え話の様に
”蚤がイヌを散歩いさせている”などと言うイメージが
与えられてもそれは真理でないことは明らかです。


魂という感覚器官を使用して受け止めることになるのは
創造主の意志だけではなくて、天使達からのテレパシー


さらにはこの社会の他の人間の想いも同様に受け止める事があることを
忘れてはいけないと思います。


ハイテクに拠る強制想念もその一つです。

妙な閃きや印象を感じることになりますが
その受け止める内容は俗的です。


創造主の法を前提に、
パウロがイエスの奥義で語っていたことを前提に
パウロの手紙を読み直してみてください。


今日は少しだけ触れて見ます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

また、貴方がたの手足を不義の器として罪に捧げてはいけません。
むしろ、死者の中から生かされた者として、
貴方がた自身とその手足を義の器として神に捧げなさい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここでの手足というのは私達の肉体の事だと思います。


それを罪に捧げると言うのは
”心のエゴに従って行動する”と言う意味、
つまりは”肉の想いに従う”と言う意味です。


”死者の中から生かされた”と言うのは
イエスキリストが人間を死者と呼んでいたように
パウロも私達の社会の人間を”死人”に例えているのだと思います。


生きてはいるが、目を持って物を見ているが、
耳をもって聞いているが、それで思考して悟ることがない。。。


そんな人間達をイエスキリストは死人と例えていました。


一方イエスの奥義を理解しては、
それを実践することを勤めていた人間達は


皆が魂という意識を理解し
想いによって生きることを選択した時に父の元に返ったわけです。


つまりは放蕩息子の父親が語ったように
「死んでいたものが生き返った」のです。


そしてパウロはここで自分の肉体と意識を
心のエゴではなくて創造主の意志=魂=御霊にこそ捧げて
その思いを実践しなさいと語っているのだと思います。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


というのは、罪は貴方がたを支配する事がないからです。
なぜなら、貴方がたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

心が司る想いは肉の想いであり
それが意識するのは罪だと言うのがパウロの話でした。


当時の人間達は心を持って、
人間の作り上げてきた戒律を意識して生きていました。


つまり彼らの意識の経路である”心”は
罪によって支配されていたわけです。


しかしイエスの教えを理解しそれに従う人間は、

人間の作り上げた律法ではなくて
創造主の意志によって生きる事になります。


創造主の意志=御霊の賜物は
様々な”恵み”だとパウロは表現していたはずです。


つまり魂に従って生きている人間は
恵みの元に生きている。


そういう意味で語ったのだと認識できます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

それではどうなのでしょう。
私達は、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、
ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「心に従うことをやめ、つまりは人間の作り上げた
戒律に心を、持って従うことを止めたと言う事で
私達は罪を犯そうと言う意識に駆られるのか?」


とパウロが投げかけている言葉です。


罪は人間が心の価値観を持って行動した時に
それが創造主の意志とは異なることから
作り上げられる事になるものです。


人間の作り上げた律法の中には道徳のようなものもあり、
それを破る事は勿論、創造主の見えない戒律に於いても罪ですが、
私達にはそれ以外にも見えない罪が沢山あります。


それは創造主の意志と異なった行動をする事で
認識される様々な行為や想いです。


ただ私達は通常それを罪と認識できないがために、
人間の律法を守る事で自分は正しいと勘違いしています。


そして魂の意志は創造主の意志なのですから、
(他の想念と区別することが必要にはなりますが)
それに従って生きることになれば


この創造主の作り上げた世界においては
罪を犯す事はなくなることになります。


ただそれを実践する事があまりにも難しいために
天使達であっても未だに創造主の戒律の下では
罪を犯すと言う実態もあるようです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


貴方がたはこの事を知らないのですか。
貴方がたが自分の身を捧げて奴隷として服従すれば、


その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、
あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

心のエゴに従って生きれば罪を重ねることになり
魂の意志に従って生きれば、言葉は悪いのですが
創造主の想いに服従することになり義にいたるのだと言うことです。


私達の財宝を積む場所に私達の心があると
イエスキリストは表現していました。


現実社会に財を積む人間は三次元の意識の経路である
心を意識し人間の戒律に服従して生きることになります。


イエスが天の国と読んでいる場所に財を積む行為は
そのまま無償の奉仕のことでしたし


それを実行している私達が意識しているのは
魂に他ならないことになりますし、
その時私達は魂に服従していると表現されることにもなります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


神に感謝すべきことには、貴方がたは、もとは罪の奴隷でしたが、
伝えられた教えの規準に心から服従し、
罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

創造主の法へと導かれた人間は
心のエゴから開放され罪の奴隷ではなくなり、
魂を意識して行動することで義を行う者となったと言う例えです。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


貴方がたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。
貴方がたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷として捧げて、
不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷として捧げて聖潔に進みなさい。


罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、
自由にふるまっていました。


その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、
何か良い実を得たでしょうか。
それらのものの行き着く所は死です。


しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、
聖潔に至る実を得たのです。


その行き着く所は永遠のいのちです。


罪から来る報酬は死です。
しかし、神の下さる賜物は、
私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


パウロはここではイエスキリストを
永遠の命を与えてくれた象徴として取り上げています。


私達の”肉の弱さゆえに”と表現されていますが


「貴方達は心に囚われているゆえに魂の想いをそのまま語っても
理解できないだろうと想定して、
心を使用して理解できるような話をしている」


とパウロは語っているのだと思います。


私達の心の持っている価値観では
律法といわれる人間の作り上げた法律を守れば
心のあり方には一切の制限がありませんでした。


つまり私達は神の”義”に関しては自由に振舞っていた
(無視していた)わけです。


そして改心した人間であれば、
その当時の心の持ち方からは何も良いものが
与えられ無かった事が理解できるでだろうと言っています。


その行く末は”死”だとも取り上げていますが、
これが単なる”死”であれば
心に従おうが魂に従おうがそれはいずれ訪れることになります。


しかしそれに続く表現に、”永遠の命”とある事から
それが”肉体の死”ではなくて”魂の死”を
意味しているであろうことも想像つきます。


つまりは第二の死の実態の事です。


心に従い心が与えられている人間の戒律に従うことで
形式ごとを守っていても


心のあり方を義から遠ざけ続ける事で
私達はその命、魂を失う事になる。。。


一方では心に従うのではなくて、
魂から与えられる創造主の意志に従って生きる事で


私達は精神的な進化を果たし父の元に返り
永遠の生を受ける事になる。。。


パウロは私達の理解している創造主の法と
まったく同じ事を語っていたことが判るはずです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今現在の日本に当てはめて厳しい話をすれば


心を持ってユダヤを怖がり、地震を怖がり、
それによって齎される肉体の死を怖がり
彼ら人間であるはずの存在の秩序や戒律に心を持って従っても


その時は10年余計に生きながらえたとしても
私達の意識が真の義である創造主の意識から
かけ離れ続けることになるのですから


私達は魂を消滅させる危機をも持っていることになります。


彼らの教えは、少なくとも魂の創造主の意志を表現したものではなくて
人間の心を持って作り上げた価値観だからです。


つまりは今の社会の私達は心を持って心の戒律と罪に
支配されていることになります。


2000年前のパレスチナ地方で起きていた事とそっくり同じことが
今では世界規模で引き起こされている事になります。


しかも今回は天使達の直接の救済は無いのです。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11427067077.html
ヨハネの黙示録
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11431690695.html
ヨハネの黙示録 第二章


この社会の人間が創造主の法に導かれて
永遠の生に進むか、


それとも心を持って人的戒律に囚われ
神の前での義を無視して魂を消していくのかは

この社会の人間の行為にかかってくると言うことです。


天使達はこの社会の人間が父の元に返るように
想いを送り続けていてそれが多くの人間の覚醒のきっかけ

精神的目覚めのきっかけとなっていると思います。


しかし彼らが出来ることは其処までで、
実質的に地球社会を締め出された天使達が
この社会に再臨することは今の状態ではありえません。
(SDIなど対宇宙兵器が軍事衛星で彼らの宇宙船を狙っています)


50年前に彼らこの社会の守護神を地球の権力者達は拒否し
今ではそれを無視するだけでなく
地球の敵対者のように印象付け続けているのですから


彼らはこの社会には介入することが出来ません。


実際にこの社会を変えることが出来るのは
この社会に生きている私達だと言うことです。


私達が人としてあるべき姿を真理の欠片として
皆に知らせて理解して貰うことがそのきっかけになる。


そしてもしもこの社会において
誰もが今のままの状態で心と魂を腐らせ続ける事になるのであれば
その時は。。。


そんな日を迎えさせないためにも
私達が真理の広報を続けなければならない。


そしてそのためにもイエスの奥義を
理解者と覚醒者がマスターしてくれることを願っています。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
P.S.


極端な話をすれば、日本を沈没させると脅かされて
その圧力に負けて彼らに従って生きることで、
彼らの秩序に従うことで、例え20年長く生きれたとしても


その間に魂を今以上に腐らすことになり
その結果創造主の意識からかけ離れ、行く末が魂の消滅であれば


イエスキリストの言葉の様に


肉体を殺すものを恐れるのではなくて、
魂を殺す創造主を恐れろと言うのが
私達覚醒者の持つべき覚悟だと思います。


今のこの世界は地道な改善が社会に齎されているのではなくて、
一般市民まで巻き込んでの地道な改悪を辿る可能性まで
見えてきたような気がします。


友愛支配と言うぬるま湯に浸かりながらです。


私の想像ですが、この社会の人間の半数は以前にも触れたとおり、
個人個人の清算の時を迎えていると思います。


急激に増えた人口が新たな魂の増加を意味するのであれば
新しい時代を担うのはそんな魂を持った人間達だと思います。


古い魂はこの世紀末と言える世界の中で
過去からの清算をも求められた審判を
転生の法則をもって受けることになる可能性があると思います。


今のこの社会が何らかの形で一つの区切りを持つ事になるとすれば


其処までの社会を作り上げてきた
その中で無自覚の転生を繰り返してきた私達は
特別な審判の時を迎えているのかも知れないということです。


私達の魂の選択肢はおそらくは四つ。


魂の消滅。


記憶を持っての転生。


地球と同規模の惑星への記憶を失っての転生。


そして新たな魂と共に次の社会を作り上げていくための
地球での記憶を失っての転生です。


勿論これに関しては何の証拠もありませんし
私の勝手な想像だと思ってください。


私達は過去のカルマの清算の状態や魂の状態によって分類され
ここで一つの時代の区切りが起こるのだと思います。


ただし、それは個々の人間の死ごとに与えられるもので、
まとめて最後の審判が来るという意味ではないです。


私は天使達の応援を信頼してもいます。


それが叶わないのならそれは仕方の無いことだと考えても居ます。


私達にとっての直接の守護者は
2000年以上昔から彼ら太陽系の兄弟達だったからです。


彼らが居たから私達の今現在の文明は存続出来た。


私達はそれを理解することが出来るはずです。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11225509554.html
聖書のイエスキリストの奥義
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11301379416.html
聖書のイエスキリストの奥義 改
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11329829392.html
続・宇宙の法則 VOL6 イエスの奥義前編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11330640319.html
続・宇宙の法則 VOL7 イエスの奥義後編


今日は新約聖書の”ルカの福音書”のイエスキリストの言葉の引用です。

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イエスはこのようなたとえを話された。
「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。
実を取りに来たが、何も見つからなかった。


そこで、ぶどう園の番人に言った。
『見なさい。三年もの間、やって来ては、
このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。


これを切り倒してしまいなさい。
何のために土地をふさいでいるのですか。』


番人は答えて言った。
『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。
木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。


もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」
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創造主の法の理解が進んでいる方は
直ぐにここの例えの意味も判ったのではないかと思いますが、


ここで”主人”と呼ばれているのは創造主、正しくは創造主の法で、
”ぶどう園の番人”は”イエスキリスト”
そして”イチジクの木”は”地球社会の人間”を比喩で表現した物です。


そのまま放置しておけば、
主人によって取り除かれる事になったであろうイチジクの木を、


番人は、「木の周りを掘って肥やしを与えてみるから
そのままにしてやって下さい」と触れていますが


ここでの肥やしは”イエスの教え”と解釈できると思います。


つまり創造主の法の元で、
いつまで経っても実を成らすことのできないできの悪い私達人間、


いつまで経っても永遠性を示して卒業していくことが出来ないだけでなく
其の想いをドンドンと悪くしている私達に対して
創造主の法が適応し何らかの災いを引き起こしそうな状態の時に、


地球社会の守護者であった人間達は地球に救いの手を差し伸べて
その社会に対して肥やし=イエスキリストの福音を与えることで
実を成らせる機会を作り、


創造主の法が発動するのを防ぎ、人々の実を成らせようとした。。。


つまりは永遠性を示させる機会を作り出そうとしているという、


イエスキリストが2000年前に地球社会に対して働きかけた事の目的を
例え話にして語った物だと受け止めることが出来ます。


創造主は私達が為した行動に対して
今その意志を持って罰されるわけではありません。


私達の社会を取り巻いている創造主の法が、長い時間を通じて、
結果的に私達の社会に対して地道に働きかかることになるわけで
創造主の法は私達の行動次第で毒にも薬にもなるものです。


長い期間延々と悪しき思い、エゴの想い、肉の想いに
囚われて生きてきた私達の地球社会の環境が
人間の心にとって良くない物と成っているのは


そこで暮らしてきた私達の想いがそのまま創造主の法を通じて
地球社会の環境に働きかけてきた結果のはずです。


例えばその惑星の自然環境の周波数に影響を与えるのは
私達の想念だということでした。


地球社会と天使達の暮らしている社会とは
その取り巻く周波数でさえ異なるはずです。


地球社会の低い周波数は私達の脳とも連動しているようですが、
10HZ程度の周波数を地球の周波数としている原因の一つは
私達が常に発している想念の低い波動の影響だといえます。


私達の想いがその社会を作ると言うのは
見えない精神的な話ではなくて物理的な事実だと言うことになります。


私達が悪しき想いを持ってエゴを持って暮らして来たために
地球社会に与えている影響がどんどんと悪いものへと変貌している。

地球社会の波動をドンドンと下げ続けている。


創造主の法の下では良き想いがその社会を天国へと変え
悪しき想いがその社会をこの地球のような地獄社会へと
変貌することにもなるのだと言うことです。
(想いに行動がついてくる事は言うまでもありませんが)


更に、創造主の意志からかけ離れてしまい
永遠性を示すことが出来なくなれば
人間であれ社会であれそれは存続し続けることが出来なくなる。


あまりにも低すぎる波動は、創造主の法の下では
延々と存在することが出来ないのかもしれません。


つまり地獄と化した環境が行き着く果ては
創造主の法の負の効果の極みで、
人間であれば魂の消滅、文明であれば崩壊と言うことになります。


それは今創造主がその意志を持って為すのではなくて
私達がその意識を勝手に悪化させているために
元々存在している創造主の法に抵触する事を意味するはずです。


2000年前にその兆候を感じ、この社会の改善を願った天使達は
ここでのイエスキリストの例えの様な意図を持って


自分達の同胞であるこの社会が、
主人によって取り除かれないように肥やしを与えにきた。


そして当時はその恩恵に直接預かった人間達も居たと言う話になりますし
最悪の事態には至らずに済んだ、


もしくは天使達は地球社会にその兆候を感じた事で
早急に手を打ったのではないでしょうか。

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イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。
しかし神は、あなたがたの心をご存じです。
人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。

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イエスキリストは、他人の前で自分を美化し偉いと思わせる人間や、
心の想いとは裏腹に人前では自分を善人であると示してみせる人間達を
”偽善者”と呼んで、その行動と想いの異なっていることを
繰り返し指摘していました。


当時のユダヤ教社会では、形式的とも言える行為だけを守れば
それでその人間は神の前に義であると看做されていました。


10分の1献金を収め、割礼を受け、安息日を守り、絶食をし、
モーセの10戒を守り、そして昔からの先祖の述べ伝えていた習慣を
守ることでその人間は義とされたわけです。


そして祈りを捧げる行為も同様だと思います。


その多くは他人の目から確認する事の出来るものばかりで
それは形式的に判断する事が出来るものです。


目でそれを確認することで人々は其の行為を持って
人を義とも罪人とも判断したのです。


しかし私達人間にとって大切なのは
形式事を守ることではありません。


大切なのは心のあり方であり
いくら形式事をきちんと守って見せて
当時の人間社会の価値観では他人から義と看做されようが、


他人から偉いとか信仰が強い人間であると思われようが、


その心に持っている想いが汚なければ
その人間は神の前に義ではないのです。


(私に汚い思いを持たせようと精神汚染が施されます。
ユダヤ傀儡によってです)


しかし当時のユダヤ教社会の中で
人々の信頼を得て天国に近い人間とされていたのは、


そんな形式ばった事だけはしっかり守り
一方では私利私欲を持って私服を肥やし
権力をも握っていた人間達でした。


形式ごとを重視し、他人の目に見えるものだけはしっかりとこなし
他人の尊敬を受けていたそんな人間達を
イエスキリストは繰り返し批判していました。


そしてそんな人間達の事を語っているのが
この一節だと思います。


目に見えるものに囚われて、
目に見えないものが理解できないこの社会の人間にしてみれば


立派な法衣でも着て、人々の前でも長いお祈りをして見せて、
献金も果たし、絶食をもして見せて
決まりごとはすべて守っている人間は立派な人間であり義人です。


しかし私達は他人の心の中まで知ることは出来ません。


一方創造主の法において重視されるのは
その心の持ち方であり想いです。


人間が作り上げた形式的な慣習や戒律をすべて守ろうとも
創造主の戒律を守っていない人間は義と看做されることはありません。


心を持って肉の想いを持っていても形式ごとを守ることは出来ます。


しかし創造主の戒律を守ろうとすれば
私達は魂の想いに従わねばなりません。


創造主の想いを抱くよう勤めなければならないのです。


そこから出てくる想いは
エゴや欲や策略や驕りとは無縁のものです。


当時の権力者達の実態を見抜いていたイエスキリストは、


「自分達で新たに都合の良い戒律まで作り上げては
それを利用しながら自らは私服を肥やしていた人間達は
神の前では義ではない」


と言うことを皆に教えていたのです。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

イエスは弟子たちにこう言われた。
「つまずきが起こるのは避けられない。
だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。


この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、
そんな者は石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

”躓き”というのは、イエスの教えや創造主の法を理解できない事です。


人間それぞれ持っている価値観や魂の資質や思考能力が異なっているために、
イエスの教えを信じることが出来ない人間
創造主の法を理解できない人間がいるのは仕方がない。。


しかし他人がそれを理解しようとしているのを
妨害するような行為をする人間は災いであると
イエスキリストが触れているわけです。


アダムスキーが創造主の法と、天使達の実態をこの社会に対して広報すると
それを隠蔽し理解させまいと、似て非なる情報を沢山ばら撒いては
一般市民が正しい認識を持つことを妨げている人間達がいました。


他人が真理へと到達する事を妨害する事になるそういう行為を
イエスキリストは”他人を躓かせる行為”と言って批判したのです。


【そんな者は石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。】


と言う例えは、もしもそんな行為を実行すれば
躓かせていた人間は溺れ死んでしまうことになりますし
その結果、その時の生を失うことに成りますが、


その方が”ましです”と言っているのですから


そんな行為をしている人間は
もっともっと大きな報いを受ける羽目になるのだと言うこと。


今の生で命を失う事はなくても、其のほうがマシであると思えるような
魂を失うとか、次の生では途轍もなく厳しい思いをする羽目になる。


そんな事を私は想像していました。


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「ふたりの人が、祈るために宮に上った。


ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。


パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、
姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。

私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』


ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、
自分の胸をたたいて言った。


『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』


あなたがたに言うが、この人が義と認められて家に帰りました。
パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、
自分を低くする者は高くされるからです。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これは先述の、形式ごとを守っていることから
自らを義であると自負している人間と
自分の罪深さを理解してそれを反省している人間とを対比させて


創造主の法のあり方を示したものだと思います。


この社会の風潮に囚われて
法律や自らの戒律を守っている事で自分には罪は無いと考えている人間は


人間の戒律を守っていると言う自負のために
自分の行為を反省する機会はありません。


しかし真の創造主の法の下ではそんな人間の戒律など
魂の進化には何の役にも立ちません。


大切なのは形式ではなくて実質だからです。


例えば組織的犯罪の加害者であれば、
ハイテクで被害者を攻撃しようとも、それは法律で規制されていませんし
他人の目からもその行為は認識される事もありません。


そんな人間達はこの社会の中で他の形式事
人の作り上げた戒律を守っていれば義人とされることになります。


しかしその行為は他人に意図的に危害を加える悪意です。


悪意を持ってそれを実行し続け
それに反省を感じない人間を創造主の法が義人と看做すわけが無いのです。


その意味では、

組織的犯罪の実行犯ではなくて

それに指示を与えて上の方でふんぞり返っている人間ほど
罪悪感を感じる事が無くて済んでいるわけですし


反省の機会もなさそうですし、
創造主の法に覚醒する機会は少ないのだと思います。


自分の行為と想いの誤りに気がついた人間
そしてそれを反省し行動を変えることの出来る人間は
自分が罪を犯したことに気がつくことになります。


つまりは自分が罪人である自覚を持つ事にもなります。


その意味では平均的な一般人の心の想いよりも
創造主の想いに近づくことも出来るのかもしれません。


罪を自覚し反省する機会を持つことでです。


自分の行為や想いを何事に関しても正当化し反省の無い人間や、
自分を美化して自分は義人である、善人であると思い込んでいる人間ほど
創造主の意志からはかけ離れることになります。


つまりは自称義人は自称善人は
永遠の生へと進むことは難しいのだと言う事です。


繰り返しますが大切なのは想いであり実質であると言うこと。


形式ばった事をいくらこなそうとも
私達の魂の進化には何の役にも立たないということを
私達は深く理解しているはずです。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。
中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。


しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。


あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。

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「世紀末にはどんなことが起こるのですか?」と質問されたイエスが
その返答の中で取り上げている一節です。


イエスの教えに従う人間は、ありとあらゆる困難に直面し
時には家族にまで裏切られ時には殺されるのだと言っています。


これはそのまま今のこの社会の実態でもあります。


闇政府の敵対者、闇政府の傀儡の敵対者とされた人間は
迫害され続けているのは想像に難くありませんし


今の社会の中では道徳心を持っているような人間ほど
目だって憂き目に遭うような社会が出来上がっていると思います。


私などは文字通り兄弟家族などの中には
闇政府の傀儡と化してしまった人間もいますし


友人には連絡も出来ませんし
表立って私を応援してくれるような人間もいません。


しかし魔の意識に囚われた社会の中では
私は自分と関わる人間が不幸にされることも理解していますので
それで良いと思ってもいます。。


そしてこの社会風潮はまだまだ先続いていきそうです。


支配者の意識が創造主の想いを否定しているのですから
その流れは容易には改善されないと思います。


その中であるべき姿に立ち返ろうと勤める事は至難の業ですし、
その行為によって時には迫害をも受けることになります。


しかしその結果どんな目に遭おうとも
正しいことを実践しようと勤めた人間は
髪の毛一本失うことなく次の生を迎える事になる。


今の生でどんな目に遭おうとも永遠の生を迎えることになれば
私達は何一つ失うことなく十分報われるのだと言う話です。


私達が其の多くを失うのは心のエゴです。


心が不快な想いを嫌う以上
私達は創造主の法に従おうとするだけでも
苦痛な想いを強いられることになります。


心は自分の価値観を否定することを不快に感じるからです。


その上に社会環境が更なる苦痛と不快を
私達に与え続けるかもしれません。


それに耐えれば私達は心を濁すことなく
魂を退化させること無く永遠を感じることになります。


真理を伝導しようと思えば、
それに対して忍耐が要求されるのだと
イエスキリストは言っているのだと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


イエスは彼らに答えて言われた。
「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」


そこで、ユダヤ人たちは言った。
「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」

しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

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神殿と言うものはどんな象徴なのか?


そこは人々が集まって神の教えを授けられるとされている場所です。


当時の人々が神の教えを学ぶ場所でもあったと思いますし
人々が大勢集い交流する場所でもあったはずです。


ここではイエスキリストは自分の体を持って
それと同じ機能を果たして見せると
例え話をしたのだと理解できます。


現にイエスキリストの周りには
大勢の人間が集ってはイエスの言葉を聴くことになりました。


そしてそこで与えれらているのは
創造主の法則、神の意志です。


イエスキリストは自分の身をもって
人を集め自分の教えで人々を導きました。


イエスキリストは歩く神殿だったと表現できます。


「三日でそれを建てると」いう例えは
三日あれば神殿同様に人を大勢集めて
そこで神の教えを述べ伝えて見せると言うことだと思います。


神殿の実質的な機能を
三日あれば自分の身をもって実現させて見せるとイエスは語ったのです。


そして形式ごとを嫌ったイエスキリストは
偶像をも嫌いました。


神殿があってもそこに生きた創造主の魂が存在しなければ
それは張りぼての偶像です。


更にイエスキリストは、
私達の中にこそ神の宮があり私達は生きた神の神殿であると
弟子達にも教えていたはずです。


人が其の手で作り上げて神聖と看做しているものに対しての
批判の意志もあったのだと思います。


イエスは岩の上に教会を立てるという例え話もしていました。


「確固たる信念と信仰の元に人々に福音を延べ伝える」


と言うことを例えた内容でした。


信仰の強さは「嵐が来ても流されない岩の上に建てた家」
と例えられる事もありました。


私達、イエスの教え=創造主の法を理解する者も


岩の上に教会を立てて
真の創造主の法を述べ伝えなければなりません。


当初はこの社会において創造主の法を語ることは危険で、
それを兄弟姉妹には勧めたくないとも私は感じていました。


でも、その意識を変えなければならいようです。


効果こそ2000年前のイエスの使徒に比べると
微々たる物しかないと思いますが
私達は時には決死隊でも良いのだと思います。


取り分け、時間の経過と共に意識を壊されそうな人間や
熱い意識を持っている人間は其の方が良いかもしれません。


考えてみれば私達はそのために覚醒したのだと思います。


天使達の想いをこの社会の中で実践するためにです。


私達が広報する事で直面する苦痛や不快感や苦労は
間違いなくそのまま私達にとっては大きな報酬となってもどってきます。


私は敢えて兄弟姉妹達に
共に苦労してくださいとお願いする気になりました。


既存の宗教や神への信仰では
創造主の下へと導くことが出来ないとも判断したからでもあります。


この社会の今の実態は
時間をかけてじわじわと人間の心をも変貌しようという
意図が感じられます。


その中に適応する事で
折角の理解を中断されたり進化を妨害されたり、
意志を捻じ曲げられる事もあると思います。


熱くも無く冷たくも無い人間を吐き出そうという
例えがありましたが、


私達はぬるい状態ほどその環境に流されやすいと思います。


そうなるくらいであれば
自分自身も熱かったり、冷たかったりするべきですし、
自分が置かれる環境もそのような物の方が良いのだと思います。


心がぬるい状態、熱くも冷たくも無い状態を
心地良いと感じそれに馴染むことで
私達はこの社会の灰色の世界に馴染む事に成りかねないからです。


冷たく冷静に自分を保ち続ける事の出来ない
私のような熱い人間であれば、ぬるくなってはいけないと思います。


そしてもう一つ、「知らないで実行出来なかった奉公人よりも
知って理解していながらそれを実行しなかった奉公人の方が大きく罰される」


と言うイエスの例えもあったはずです。


創造主の意志に気がつきながらそれを実践しない、
もしくは誤った行為を意図的に続ける人間ほど
受け取る事になる罪も大きいと言う例えでした。


皆が今までどのくらいの期間を
この社会の中で転生し続けてきたかは判りませんが
今与えられた覚醒の機会、永遠を示す機会を失って欲しくはありません。


恐怖と圧力(苦痛)から友愛(見かけの平穏)に変わった時に
そのギャップに騙されて


真の改善に進む事無く其の環境に適応させようと言う
闇政府の思惑に囚われないように
理解者と覚醒者の賢明な選択をお願いしたいと思います。


50年100年という時間は長く感じ
其の先を生きる機会を失う事を恐れるかもしれませんが


私達の今まで生きてきた時間、
そしてこれから迎える事になる永遠の時間を考えると
それはとても短いものです。


宇宙空間の長い歴史を考えるとそれは瞬き程度でしかありません。


そして天使達の社会の中で考えても
それは一回の人生の10分の1程度の時間でしかないのです。


この地球社会の中での体験を十分に果たし、そこでの課題を果たし、
カルマを清算出来た事で覚醒へと導かれたのだとしたら


私達は最低でも今の状態を維持しなければなりません。


そして何よりも、もしかしたら自らこの社会に志願してやって来た魂が
この社会の低い波動に囚われて其の虜となっていることを
天使達も憂いているのではないかと想像しています。


ケネディー大統領とヨハネス23世の手による地球改善の改革が
不発となったときに、天使達がこの社会に対して
実行可能となった事は限られたはずなのです。


例え前世が地球社会の劣等生であっても、
私達が記憶を持っての転生へと移ることが出来れば
天使達と同じ兄弟姉妹として暮らすことになりますし


前世が天使であってもこの社会に囚われてしまえば
次は劣等生としての生をこの社会で送ることになります。


其の事を忘れないで欲しいです。


天使達の想いが”創造主の想い”とイエスキリストが言っていた
”永遠の生”ならば、そして”社会の真の意味での改善”ならば
私達は其のきっかけこそを作らねばならないと思います。


そして私達が自分達にとって大きな課題を果たし
卒業していくことこそが


自分にとってもこの社会の多くの人間にとっても
大切な奉仕となるのではないでしょうか。


社会を根底から変えようと思えば
結果が灰色となろうとも白を目指さねばなりません。


最初から灰色を目指す意識では
良くないもの全てを妥協しかねないわけですし
結果は限りなく黒に近い灰色になります。


白を目指すつもりで改善の出来ないこの社会は
灰色にもなれないかもしれない。


そこに楔を打つことの出来るのは私達だけです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】



P.S

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


覚醒者が覚醒を深くしようと勤めていれば、
そして創造主の法を語ろうと意識していれば、
その想いは天使達に必ず伝わって居ると思います。


彼らは私達が努力していれば
魂の進化へと導き続けてくれるはずです。


私達は見えない応援を受けて広報をすることができるのです。


---------------------------------------------------------


救世主イエスキリストが地球社会の人間として
再臨するかのような誘導をしている人間達がいます。


聖書の言葉を思い出してください。


イエスは自分の名を語る人間が大ぜい現れると
予言していました。


そして自分は天から雲に乗って稲妻のごとく
やってくるとも言っていたはずです。


私たちにとっての真の守護者であるオーソンさんは
この社会がそれを可能とした時に
宇宙船でこの社会に君臨するはずです。


偽物だらけの社会が作り出す
偽物の救世主に惑わされても誰も永遠の生には入れない。。


どんどんと巧みになっている地球の法則の工作に
惑わされる事がないように
しっかりと魂の意識の経路の進化を進めてください。


そしてオーソンさんは
天国行きのチケットを届けにくるわけでも、


特定の人間を宇宙船に乗せるために来るわけでもないことを
私達は忘れてはいけません。


真のキリスト(真理)が救うのは私たちの魂です。


自らの努力なしには誰も救われることは無いのです。


心を心地良くしてくれるだけの
ありがたい?救世主にはご用心ください。


オーソンさんの再臨は、この社会の
今後の改善に掛かっていることを忘れないで欲しいです。