パウロの手紙 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


「隠されているもので明るみにされないものはない」


良くも悪くもイエスキリストのこの言葉どおりに
創造主の意識の下では私達は丸裸です。


アダムスキーが言っていたように私達の行動のすべてを
アカシックレコードと言われる創造主の記憶は持っていて


大体が私達は自分が自覚していなくても
常に創造主の意識が自分の中に一緒にあるのですから


イエスの言っていたように「髪の毛の数すら知っている」ほど
創造主は私達の身近にいる事になります。


そういえばパウロも言っていました。


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それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟を侮るのですか。
私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。


次のように書かれているからです。
「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、
すべての舌は、神をほめたたえる。」


こういうわけですから、私たちは、
おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。
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これは”最後の審判”を髣髴させていますが、
”転生の法則”の話だと思います。


創造主の前に跪くかどうかは別として、
私達はこの生で行ってきた全ての行為に対して
良くも悪くも裁きを受ける事になる。。


と言っても結果的には、死んだ時の魂を
創造主の法で評価・分類される事になるのだと思います。


形式的な人間の戒律を守る事で自分を義としていようが
見えない悪事や悪しき心はそのまま私達の魂にも反映され


その魂を見れば私達の人としてのありのままの姿が
きっと手に取るように判るのだと想像しています。


以前私が閃きを感じたときに記事にして取り上げたように、
転生の法則に関わってくる二種類のカルマが存在していると思います。


一つは自分の行為や他人の行為がそのまま他人や自分に対して
何らかの影響をもたらした事に対するもので
これは勿論良い物と悪いものがあります。


イエスキリストが天に財宝をつむ行為と例えた物が、良いほうの物であり、
私達が創造主の法の下で罪とされるものが悪い方です。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11369748271.html
生命の科学 復習・応用編 VOL3 カルマは解消できる?


もう一つ、私達は自分の無自覚の思いが
自分にとってのカルマとなっていると言う話にも触れました。


それは私達の心の想い、とりわけ一種の欲望に根ざしたものだと思います。


潜在意識といいますが、
もしかしたらそんな見えない心の意識の奥深く、
もしくは魂に対して刻み込まれるような意識だと想像していますが、


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11370292500.html
生命の科学 復習・応用編 VOL4 潜在意識のカルマ


一種の執着心、何かをしたいと言う願望。
報われなかった何かを報いたい。


そんな意識を私達は無自覚に持っている事があるはずです。


そしてそれはカルマというよりは
自分にとっての無自覚の執着です。


後悔の念、夢、欲望と言う事で記事では取り上げました。


この執着に関しても転生に影響を与える事になるだろうことは
記事で取り上げた通りです。


もしもその執着がこの地球社会の価値観に根ざしたものであれば
私達はそれに強く囚われることで再び
この地球社会への転生へと導かれかねません。


私達の魂へと刻み込まれる私達の想いは
そのままそれを実現するように働きかける事があるため


もしくはそんな執着心自体が私達の心のエゴに
とらわれていることを意味するのか
その想いは私達の魂をこの社会に引き寄せる事になると思います。


私達はそんな想いを捨てて生きるように
勤めなければならないのです。


つまり日ごろから何事にも執着心をもっても
いけないのだと思います。


極端な例をあげれば、今の生では貧乏だったから
お金を沢山持って色んな物を買いたい。


などと言う意識を無自覚のうちに自分の執着心としていれば
私達の魂をこの社会に縛り付ける要因となるはずです。


勿論、カルマに関しては
この社会の中に於いて他人との間に無自覚のカルマを
沢山作りすぎてそれが解消されていないような場合


罪と言える行為を繰り返し
それを反省することができないような場合、


私達はそのカルマを解消する事を求められ、
その罪を理解するための学習の機会を与えられ、
この社会への再び転生する事を求められる事になるかもしれません。


そして何故に反省する意識を持ち、それを正そうとする事が大切かと言えば
それが同時にカルマや罪に対しての解消行為につながるからだと思います。


それは全てでは無いにしても
私達の反省の想いは間違いなく罪やカルマを解消する事になります。


懺悔といいますが、心からの懺悔であれば
そして同じ事を繰り返さないように勤める事は
私達の業を解消するように働くと言う事です。


一方身に覚えの無い圧力や介入を受ける事は
それは別の意味でのカルマになると思います。

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私達が罪やカルマを作り出しそれを放置する行為は


「誤った体験をしておきながら、
その体験から何も学んでいない」


と看做されるのだと思います。


学んでいれば私達はそれを反省しようと勤めます。


それが出来ていない人間は罪を罪と認識できず、
カルマを作り上げた上にそれを放置する事にもなります。


そしていつも言うように創造主の法則は
私達にそれを学ばせようと働きかけます。


この社会に置いては創造主の法は私達を覚醒へと導く事になる、
といつも話していますが


一つ一つの課題を果たすたびに私達の心の学習は進み
結果、心は正しいことを正しいと理解し、その誤りを正し、
私達は魂を感じやすい状況へと誘導される事になるはずです。


そしてそれは私達が覚醒するまで延々と続くでしょうし
今の社会であれば覚醒しても
更なる課題まで与えられるおまけつきだと思います。


個々の課題は私達の心に正しい考え方や行動を学ばせるための物ですし、
課題をこなしていくほど、私達の心の価値観も恐らくは道徳的になり、
そして魂の意識にも近いものとなっていくのだと思います。


行動をする事で、経験をする事で
私達は多くの失敗を繰りかえし時には罪をも犯す事になりますが


私達はそれをすぐに間違いと認めて反省する事で
そこで学習する機会を得る事になります。


アダムスキーが体験の重要性を訴えていたのは、
「多くを経験して、そこから何が正しくて何が間違いかを学べ」


と言う趣旨だと思います。


しかし中には自ら行動して学ぶ事の出来ない人間がいます。


もしくは体験してもその中から正しく学ぶ事の出来ない人間もいるのです。


そんな人間に対して創造主の法は、
時には痛い思いをさせてでも
身をもって理解させる様に誘導すると言う事です。


そして学ぶべき事が多い人間ほど、カルマを多く持っている人間ほど
課題をこなすのにも時間がかかるでしょうし、魂の覚醒は遠いでしょうし、


課題を残せば次の生に置いて、
それを学ぶ事の出来る環境を用意される事になるはずです。


つまりその時々に与えられた生における環境は、
私達のカルマとして背負っているものを学ぶための要素で満ちていて


そこから何かを学ぶ事こそを
私達は求められている事になると思います。


しかしそこで何も学ぶことなく、
その環境をただ疎ましく思い、再び心を持って暴走すれば


私達は進化には進めないだけでなくて更なるカルマを
背負う事にもなります。


そしてそれを繰り返しカルマを作り背負い続けて
それが解消不能の状態になったとき、


創造主の法の下、永遠を示す事が出来ない、
永遠を示す資質がないと判断され消滅に至るのではないでしょうか。


一方私達の地球社会の中では、
創造主の法は私達が覚醒するように誘導するはずですから


不快な環境に置かれる事がきっかけでも
それで覚醒する事が出来た人間は、
結果的に自分のカルマがある程度解消されて要る証拠だと思いますし


その不快な状況を
創造主の法則に拠る覚醒への導きであると認識すれば


私達の中の被害者である兄弟姉妹は
今の境遇を憂う事もなくなると思います。


加害者が憎くて堪らない方であれば
こんな話は加害者にとって都合の良い意識を
被害者に齎すと言うかも知れませんが


これが見えない真理だからです。


私達は心を持って暴走し、自分のあるべき実態を理解していないからこそ
価値のあるものと価値の無いものを選別できなくなり
真理と真理でないものを混同しています。


私達は今苦しんでいますが、
真理の元ではそれをそのまま自分にとっての覚醒の機会へと繋げる
きっかけとする事もできる訳です。


日々他人を憎み、争いを好んでいるような人間達
誤った正義感を振りかざしている人間達は


いまこそ心地良い想いをしていても
彼らを待っているのは大いなる裁きであり、魂の消滅であり
山ほど作り上げているカルマの解消のための次の生での試練です。


それが心地良い物であるわけが無いのです。


でもその人間達はそこで学ばねばならなくなるはずです。


組織的犯罪にしても、他人を勝手に評価して
裁く行為を続けている人間たちは


私達が直接何らかの迷惑やトラブルをかけた人間では
無い事が多いと思います。


彼らは組織の中で悪人と決め付けた人間や敵と決め付けた人間を
自分達の戒律をもって裁いているだけで
その行為には何の義もないことは私達が学んでいる通りです。


彼らはそれによって自分達が何らかの形で
快い思いをしているに過ぎません。


もともと創造主の法則では
他人を裁いてはいけないというのが私達の理解ですし

それを実行している人間達はその行為自体がすでに誤っているのです。


創造主の法の元ではその行為は間違いなく罪です。


そしてそんな行為は彼らにとっては負のカルマですが、
彼らは創造主の法の因果応報も理解しておらず
自分達の行為を自分達で正当化し、


自分が業を背負っている事を認め無い事で
心を安心させているだけだと思います。


そしてそんな私達にとっての不条理な体験は、
私達が覚醒へと進むための創造主の働きかけだと思って
辛さで魂を腐らすことなく乗り越えて欲しいのです。


私達はその行為に報復しない事で
天の国に宝を積む行為と同じ恩恵を受ける事になるのだと思います。


創造主の法は決して不条理な裁きなどしないからです。


やられっぱなしで酷い思いをし続けた人間が報われず、
そのままで終わってしまうと言うのは
この地球社会の常識である一度きりの生の中での話であって、


半ば永遠を生きる事になる私達は
しっかりとその分の報酬を受け取る事になるのです。


例えば、別に作ってしまって解消されていないカルマを
その恩恵がカバーしてくれるかも知れませんし


それは必ず私達にとって良い方向へと
働きかけてくれる事になるはずです。


しかしそこで私達が心を持って極端に反応してしまうと、
私達は彼らのカルマに対して新しいカルマを作る事で
対抗する事になると思います。


私達はその意味では達観しなければいけないのだと思います。


苦しんでいる兄弟姉妹が少なからず存在していて
中には家族への圧力や洗脳行為で意識をゆがめられている方も
少なくないと思います。


でもそんな私達を創造主の法は見捨てているわけではないのです。


何かをすればすぐに報いが得られると思わないでください。


加害者達の中心にいる人間の思考がまさにそれで、
自分達が為した事に対してすぐに何らかの効果を期待して
一方では心のあり方など無視していると思います。


そして多くの場合、彼らの幸せは現世にあります。


しかし私達の幸せは来世にあるのです。

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昨日に続いてパウロの言葉の中から
イエスの奥義を使用して創造主の法を語っていると
認識できる箇所を紹介します。


パウロに関しては”12使徒のパウロ”であるとか
”12使徒を殺そうとしていて改心したパウロ”であるとか
いろいろ言われていますが、そんな形式ごとは私達には無関係です。


12使徒がイエスの死後に、天使達によって導かれ覚醒し
創造主の法をイエスの奥義を持って述べ伝えたように、


12使徒の福音を受けてイエスの教えを語った人間達もいますし
その人間達も同様に天使達の加護を受けていたはずです。


そして一番重要なのは彼らが魂を意識の経路として理解していて
そこからの想いを語ったと言う事実です。


聖母マリアであろうがパウロであろうがヨハネであろうが、


魂の意識を理解している人間がイエスの奥義を使用して
魂の想いを語ったと言う事が何よりも重要だと言う事です。


それは真理だからです。

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私には、自分のしていることがわかりません。
私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、
自分が憎むことを行っているからです。


もし自分のしたくないことをしているとすれば、
律法は良いものであることを認めているわけです。


ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、
私のうちに住みついている罪なのです。
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ここでパウロは自分の中にもう一人の自分がいて
それが自分の思う事とは違う事をするのだと言っています。


言うまでも無くそれは私達が”心”と呼んでいる肉の意識で
その意識が、パウロが覚醒して自覚したもう一人の自分の意志と
異なった事をするのだと言っているのです。


人間の律法と形式的な事を良いものであると認め
それを行おうとするその心は自分ではなくて
自分の中の罪であると表現しています。


これは、人間の律法が悪いという意味ではなくて、


前回触れたように心を持って人間の作り上げた戒律だけに縛られる事は
本来心が持つべき神の戒律の実践を妨げると言う意味で
それを罪と表現しているのだと理解すべきだと思います。


パウロが語っているこの箇所は、
”創造主の法”や”二つの意識の経路”を理解できない人が読めば
オカルト解釈するか良心とエゴと解釈する事になるのだと思います。


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私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。
私には善をしたいという願いがいつもあるのに、
それを実行することがないからです。


私は、自分でしたいと思う善を行わないで、
かえって、したくない悪を行っています。


もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、
それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。


そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、
その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

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パウロはここで自分の中の魂の意志と
従来の自分の意志である心の意志の間に挟まれ
心が魂の望まない事を実行するのだと嘆いています。


勿論恐らくこれはパウロ本人がそんな体験を
今現在していると言うだけではなくて


一般の信者達に対して彼らの立場に立ったつもりで
語っている内容だと思います。


善と言われる神の意志に従った行為をしたいと願う意志があって
一方では神の意志で量れば悪とされる正しくない行為をしたがる自分がいるから
自分の中には悪が宿っているのだと表現しています。


言うまでも無くここで悪と象徴されるのは
エゴをもって暴走させる私達の心の事であり


パウロが自分と言っているものは真の自分である
私達が魂と表現している物の事です。


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すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、


私のからだの中には異なった律法があって、
それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、
からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。


私は、ほんとうにみじめな人間です。


だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。


私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。
ですから、この私は、心では神の律法に仕え、
肉では罪の律法に仕えているのです。

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自分の中にある本当の自分である魂の意志は
神の律法を喜んでいるのに、


自分の中には異なった律法を持った心というものがあり
それが自分を罪のとりこにしているのだと触れています。


ここでの”内なる人”と言うのは勿論私達の魂の事で


ここではパウロは”心”で神の律法に仕え
”肉”では罪の律法に仕えと表現していますが


言葉が違うだけで言っている内容は私達の学んでいる事と同じ
二つの意識の経路を語っている事だと理解できます。


何事も形式的に解釈し額面通りに捉える人間であれば


”心を持って神の戒律に仕え”とあるのだから
「心が創造主を感じる事になる」


と勘違いする事にもなるかもしれませんが


ここでパウロが”肉”と表現しているものこそが
私達の脳機能をつかさどる、
私達が生命の科学の中で”心”と表現しているもので


パウロが創造主の戒律に従うと表現している”心”
こそが私達が”魂”と表現しているものです。


言葉の解釈一つでもそれを額面通り受け止め
文脈の前後や比喩表現などを加味しないと、


私達は聖書の言葉を誤って解釈する事にもなりますし

ユダヤの傀儡に揚げ足を取られることにもなると思います。


パウロも後世の人間にそこまで突っ込まれると意識して
手紙など書いていなかったでしょうが


それが聖典とされるのであれば
もっと言葉を選んでくれる事となったと思います。


パウロはイエスの奥義を使用しては魂の閃きのままに語った事で
それが多くの混乱を齎す原因となってしまっています。


イエスの奥義自体が私達の社会では理解しにくいものでしょうし
意識の二つの経路だって理解できないものです。


その上にイエスキリストへの信頼を求めるためにイエスを美化し、
更にはその時々の閃きによる表現が、
時には言葉の整合性を見えなくさせているからです。


しかしパウロが要所要所で語っている事は真理です。


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こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が
罪に定められることは決してありません。


なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、
罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

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”イエスキリストにある者”と言うのは
イエスを信じる人間という意味ではありません。


イエスの教えを理解してそれを実践している者という意味です。


もっと言えば覚醒者の事です。
しかも当時の使徒達は天使達の身近な支援を受けて
宇宙的啓示を果たしていたかもしれません。


ここで”いのちの御霊の原理”と”罪と死の原理”と
パウロが語っているのは先日も取り上げた


”人間の戒律に心を持って従う事”と、
”創造主の法に魂を持って従う事”の例えです。


「私達は人間の戒律に心の価値観を持って従う事で
一方では心のあり方としての義を無視している」


というのがパウロの話でもありました。


そして私達は本来魂を持って創造主の法に従う事で
心のあり方にこそ重きを置かねばならないのです。


それを実行できている人間がここでパウロが
”イエスにある者”と表現した対象だということになります。


そして今の社会に於いての私達覚醒者は
間違いなくイエスにある者だと思います。

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肉によって無力になったため、
律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。


神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、
肉において罪を処罰されたのです。

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私達が肉を持って、心を持って生きる事を放棄したために


人間の律法では出来ない事、
心のあり方を示し、それをもって義とする手段を
創造主は与えてくれたと言う内容だと思います。


ここでもイエスキリストを神の様に表現していますが、
イエスキリストが神と認識される事で


多くの人間がイエスの教えに導かれる事になる事を
期待したものと認識すれば良いと思います。


彼らは皆知っていたはずです。


イエスキリストが自分を”人の子”と呼んで
神である事を否定していた事をです。


それにイエスキリストが神の子であろうと無かろうと
私達がイエスから学ぶべき事と実践すべき事は変わらないはずです。


イエスは私達に「神の御心を実践しなさい」と
言っていたのですから。


私達はイエスの語ったキリスト(真理)を信じ、


それを実践できる人間が永遠の生へと進み
出来ない人間はいずれ魂を失うと言う法則こそを
理解し実践すれば良いのです。


神の一人子のイエスキリストが語った言葉であろうと
人の子のイエスキリストが語った言葉であろうと
私達にとって大切なのはそれを真理として実践する事です。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】