パウロの手紙 VOL2 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。




今日はパウロの手紙の中で
はっきりと私達の持つべき意識のありかたについて
取り上げている箇所を引用します。


勿論それが創造主の法、宇宙の法則の意識へと
繋がっている箇所です。


兄弟姉妹であれば容易にそれを理解していただけるかと思います。

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そういうわけですから、兄弟たち。
私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。


あなたがたのからだを、神に受け入れられる、
聖い、生きた供え物としてささげなさい。
それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

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ここでパウロは霊的な”礼拝”という言葉を使用しています。


当時の社会で通常行わされていたような礼拝と区別して使用しているのですし、
それが形として表現されるものではないことは明らかです。


”自分の体を創造主に生きた添え物として奉げろ”

と言う例えは


”私達の身体が創造主の想い通りの行動をする事”
を象徴しているわけですし


創造主の意思に従って行動することが
私達の霊的な崇拝だと言っているのだと思います。


私達が通常想定している礼拝は
宮殿や教会のような場所へと訪れ、
手を組んでお祈りを挙げるような状況を想像しますが


そうではなくて、私達の肉体を
創造主の意志に委ねることこそが霊的な礼拝だと
パウロは言っているのだと思います。

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この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、
すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、
完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
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私達はこの社会の風潮に合わせてそれに馴染む事を良しとするのではなくて


創造主の意志がどのようなものであるか、

つまり創造主の意志では何が正しくて何が正しくないかを意識しながら
それを実践することが大切だと言うことです。


この世で完全であるのは、
この世の法則を作り上げその秩序の支配者でもある創造主だけだと
アダムスキーも言っていました。


私達が善悪と区分しているような意識を創造主は持ちませんが、
物事の正否の判断基準を完全な形で持っているのは
この社会の秩序を作り上げた存在だけであるのは事の道理です。


パウロはここで、
自分の心の価値観を創造主の意志に置き換えることで
自分を変えなさいと言っています。

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私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。


だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。
いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、
慎み深い考え方をしなさい。

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パウロが与えられた恵みはここにあるように


”福音を述べること”


自分の魂を通じて感じた創造主の意志を受け止めて
それを表現するという事だと思います。


多くの賜物の中からパウロが得意としていたのは
今の社会であればオカルト含めて”霊言”とも言われている
魂の想いを語る手法だと言うことが想像できます。


しかしこれは私達人間の誰もが持っている能力で
私達はそれを使用出来ないでいるだけだと思います。


覚醒者が”イエスの奥義”を理解して取得してくれれば
まさにパウロと同じ事を実践できる事になります。


ここでパウロが触れているのは”謙虚”さだと思います。


奢り高ぶり自分を何者であるかのごとく表現する事を
当たり前としているこの社会の中において


思い上がることなく自分が大した存在ではありえない事を認識し
慎み深く有りなさいと私達に語っているのです。

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一つのからだには多くの器官があって、
すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、

大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、
ひとりひとり互いに器官なのです。

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これはキリストを”イエス”と認識すると理解不能ですが
”キリスト”を”真理”=”創造主の意志”とすると


「私達は創造主の意志の世界の中での一つの存在であり、
全体を構成している物の一つである」


という話に繋がって来ます。


そして同じ人間は誰もいませんし、
それらは相互に依存しあって生きているわけですから


神と言う四次元意識全体において
私達はその中の一つの器官として存在しているのだと言うことです。


私達は独自に細胞としての肉体と
それをつかさどる目、耳、鼻、口、のような器官を持っていますが


同様に”宇宙”という創造主の想いの世界全体を神の体だと
想定してみれば判りやすいと思います。


四次元社会での想い、そこでのエネルギー全体を創造主とすれば、
宇宙空間の全ては”創造主の現れ”と言うことになります。


そして四次元社会の中の創造主の想いの一部が私達の魂ですし、
それが三次元で現象化されているのが私達の肉体です。


宇宙空間を構成する物の一つが
私達一人一人の人間ですし、万物の全てです。


私達は宇宙という創造主全体の中の一つの細胞であり
器官なのだということになります。

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私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、
もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。


奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。


勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、
指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。

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創造主の意志、つまり魂と言う意識の経路を使用することで
私達は今まで気がついていなかった能力を使用出来るようになります。


テレパシーと表現されるものであっても
その現れ方もさまざまです。


千里眼や直感像・予知能力といわれるものも、
そのままのテレパシーも、霊言といわれるものも、
全てはテレパシーの延長にあります。


個々の人間によって得意不得意が出ることになりますし
自分の感じるところの能力を持って奉仕しなさいとパウロは語っています。


と言うことは、パウロはその理解者達に
イエスの奥義の存在だけではなくて


魂を意識の経路として認識する手法をも伝えていて、
弟子達もそれを実践している事を意味するはずです。


魂の経路の進化なしにテレパシー能力を
強めることは出来ないからです。


そしてそれを可能にするには創造主の法に従う事で
魂の経路を理解し使用する事が必要になります。


使徒の時代にはイエスの奥義含めて
イエスの教えが述べ伝えられていたことを
象徴しているのだと思います。


真のイエスの教えは簡単なものではなかった事も、
イエスの言葉からも想像できますし


それが単なる心情を理解するだけでなく
イエスの奥義の伝授と言う話になってくれば
当事も真の理解者は多くはなかったのではないでしょうか。


勿論、イエスの奥義が永遠の生の必要条件だというわけではありませんが
広く人に理解を求めようと思えばこれは必要ですし


イエスの真の教えを理解する人間が少ない社会だからこそ
兄弟姉妹達にはそのきっかけとなって欲しいと願います。


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愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。

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偽りの愛というのは私達の社会の語る”愛”のように
その見返りを期待するものであったり


心のエゴから出る所有欲や肉欲を交えるようなものであっては
いけないと言う話だと思います。


悪を憎みと言うのは”正義感”を持てと言うことです。


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兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、
尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

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自分を愛するように隣人を愛しなさいという
イエスキリストの教えに繋がるものです。


他人を尊敬し自分を低くすると言う話にも繋がっていますが
これもイエスの教えにもありました。


自らを誰よりも小さくして万人に仕えなさいと言う話に繋がります。


ここでは”愛”と”謙虚”と”奉仕”と言う話に
触れているのだと思います。

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勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

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何をするにも一生懸命だという
天使達の意識にも繋がるもので”勤勉”であれという話と


常に自分の魂の意志を受け止めて創造主の想いを実行しろと
いう話に繋がっていきます。


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望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。


聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。

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”喜び””忍耐”そして再び”奉仕”について触れています。


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あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。
祝福すべきであって、のろってはいけません。


喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。

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”祝福”さらには”同情”と言われる意識についてです。


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互いに一つ心となり、高ぶった思いを持たず、
かえって身分の低い者に順応しなさい。

自分こそ知者だなどと思ってはいけません。
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ここでは”調和”そして再び”謙虚”です。

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誰に対してでも、悪に悪を報いることをせず、
すべての人が良いと思うことを図りなさい。
あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

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”慈愛”そして”平和”へと繋がる話です。


これらの全ては”宇宙的意識”とアダムスキーが取り上げていたものですし

パウロ風に言えば”御霊の想い”


そして勿論そのまま”創造主の想い”と繋がるものです。


私達が心を持って想い、生じさせる負の想念ではなくて、
私達が魂の意識の経路から湧き起こすことになるはずの
創造主の想いそのままを表現したのだと思います。


これだけ見てもこの社会の多くの人間が常時発している想いが、
創造主の意志とはかけ離れていることが理解できるはずです。


そしてその悪しき想いが私達人間をそしてこの社会を
延々と汚し続けてきたのだと言うことです。


”愛”と語りながら、自分のエゴを満たし
心地よい想いをしたがっているのが私達の心ですし


無償の愛ではなくてそこに見返りを求めているのが
私達の社会の愛です。


”平和”といいながら未だに戦争や”争い”ごとを
一切やめることが出来ていないのがこの社会の実態ですし、


”理解”しあい”調和”するのではなくて
独自の心の価値観で”分裂”を続け
好き嫌いで裁いているのがこの社会の実態です。


個々の人間は”謙虚さ”からかけ離れ”奢り”高ぶり
自分が偉い人間であるかのように勘違いしていますし


自分が何も理解できていない存在だと言うことさえ
認めることも出来ません。


人が苦しんでいてもそれを”同情”することも出来ない人間であふれ
他人の”喜び”を共に喜ぶのではなくて
他人の喜ぶ姿を見て”羨み””妬む”のが私達です。


一生懸命な人間を嘲笑い、
自分では上司の見えるところでだけ懸命さを装い


行動の基準は常に自分の心が心地良くなることであり
”無償の奉仕”などと言う意識を持つこともありません。


物事の良し悪しまで判断できなくては
”正義感”など持つことも出来ません。


誤った価値観と誤った正義感を持っては
他人を勝手に裁いている人間達もいます。


創造主の意識に誠実でないその上に、
”嘘"や"偽り"で他人を騙し
それさえも正当化されているのがこの社会です。


イエスキリストが人を汚すと言っていたような意識。

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内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、

姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、

これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。

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まさにこんな想いにとらわれて
創造主の意識からかけ離れているのが私達この社会の人間なのです。


そして自分では自分の行動を省みることすら出来ないのですから
いつまで経ってもこの社会は改善されません。


ありとあらゆる価値観が個人の自由の元、正当化され、
一方では道徳が放棄されているのですから
当たり前かもしれません。


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愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。
それは、こう書いてあるからです。
「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」


もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。
渇いたなら、飲ませなさい。
そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。


悪に負けてはいけません。


かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

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勝つとか負けると言うと、勝負事の好きな
争いごとの好きな人間達のようなイメージを受けそうですが


内容からも明らかなように、私達は他人に勝つのではなくて
自分自身との戦いに勝つ事を求められていると言うことです。


心から溢れる事になるありとあらゆる感情やエゴの想いは、
私達を悪しき行動をさせようと誘導して来ます。


しかし私達が心のエゴに囚われれば、


イエスキリストがサタンの会派と言っていた
特殊な意識を持っている人間達と
同じ土俵の上で戦うことになってしまいます。


その戦いはエゴによるエゴとの戦いです。


その勝敗には正義はないのです。


私達は他人を裁く権利を持ちませんし罰する権利も与えられてはいません。


少なくとも創造主の法の下ではです。


地球の法則によりそれを与えられている人間達と
私達は同じことはしてはいけないのです。


そしてパウロも言っているように
私達は”復讐”など想ってはいけません。


裁きの全ては私達ではなくて
創造主の法がしてくれます。


もしも私達が裁けば今度は私達が
そこで自分に新しい罪を課すことになるだけで
そこには正当性はありません。


組織的犯罪被害者などは特にそうですが
復讐や憎しみの想いを持って加害者と対峙してはいけないと思います。


私たちまで彼らの持つ低い想いに囚われることになるからです。


パウロの時代には善と悪と象徴していましたが
それは当時の人間にとって判りやすいように表現したものです。


善と悪という意識は創造主の意識には存在しないそうです。


勿論この世で”正しい”とされる想いだけが
創造主の意識からは出てくる事になるようですが


善と悪を作り上げたのも私達である事を
忘れてはいけないと思います。


私達が為すべきは創造主の正しいとしている事を
実践するよう勤める事。


既存の価値観と比べると対照的で
自分の心にとって心良い事は少ないと思いますし


例えば私の置かれているような特殊な環境では
引き出す事の出来る意識も限られる事になるかもしれません。


ただ、私達が遠い将来に目指すべき事を
お手本としてくれた存在がいるのですし、
私達はそれに習って生きればよいのです。


「私が為しているのではなくて
父が私の体を持って為している。」


私達の社会の見えない守護者である
イエスキリストこそが私と兄弟姉妹達の最高のお手本です。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】
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P.S.

驕りと自惚れと見栄や自尊心は
私達の深い理解の妨げになると思います。


組織的犯罪被害者などは早々と
自尊心などを砕け散らせているかと思いますが
それは私達には幸いだと思います。


そして未だ理解が深まらない方も
おそらくは自分の大きな弱点を一つ克服する事で
大きな飛躍を見せる事になると想像しています。


兄弟姉妹達は今日の記事のパウロが取り上げていたような
想いの種類を見つめて
自分の中の弱点を探して克服するよう勤めてみてください。


肉の想い(心のエゴ)含めてです。


見えない大きな弱点が
私達の進化の妨げとなっている事もあると思います。


出来るものなら宇宙的覚醒目指して進化を続けてくださいね。