不幸のブログ  -53ページ目

不幸のブログ 

三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

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私達の実態を理解するために、判り易く?
心と魂という二つの意識の受け止め方に関して
説明できないかと思考していました。


一つ思いついた事があるので
それで説明をしてみたいと思います。


あくまで、説明のために私が思いついた事に触れるのであって、
それがそのままではないと言うことを前提に
読んで理解を深めてみてください。


兄弟姉妹の覚醒者よりは理解者のにとって
理解を深める機会になると思います。


覚醒者はすでに両方の意識の経路を経験し理解しているからです。


大前提となるのは私達人間が想念(思念波)というものに
大きく影響を受けて生きている存在だと言うことです。


想念と言われるものは想いとエネルギーとして認識されるものであり
私達は肉体を持って其のエネルギーの影響を受け
テレパシーとして其の想いを感じることが出来ると想像してみてください。


まず私達地球社会の人間は、脳波のもつ独自の周波数として
10HZ程度の周波数帯とは無関係ではない存在だと言うこと。


それから私達の誰もがオーラと言われるもので
表現されるような独自の周波数を持っていると言うこと。


更にこれらは私達の肉体や精神状態とは
無関係ではないと言う前提があります。


地球の法則でも引き寄せ・波動の法則と言われるものがありますが
あれはある側面では波動に関して正しく触れていると思います。


似たような波動が似たような波動を引き寄せる。


似たような波動を持った人間同士が引き合う事になると言う側面です。


私達の肉体は自分達の身に纏っている波動によって
影響される事があるようです。


不健康な人間は、得てして低い周波数の想念に身を纏っていて、
精神的なエネルギーと言われるものも
おそらくは弱いのだと思います。


魂からの精神エネルギーの供給が少ないと考えて見てください。


つまりそんな人間の想念といわれるものは負の想念の悪影響で満ちていて
一方では魂からのエネルギーの出力も弱いと言う可能性があります。
(その人が悪い想いを持っているとは限りません。
環境で影響を受けるものだからです)


健康的な人間やエネルギーに満ち溢れている人間は
おそらくはその想念のエネルギーも強いはずです。


そしてその想念にも独自の周波数がありますが、
低い波動や高い波動が存在するようです。


パウロが”御霊の想い”と言っていたものと
”肉の想い”といっていたものが
それぞれ良い想念と負の想念という話にもなってきます。


良い想いを発するのは私達の魂であり、
魂の価値観で置き換えられた私達の心ですが


悪しき想念を発するのは
従来のエゴと本能に満ちた私達の心だと言う事になります。


私達はそんな想念を自分の意志によって
全身から発する事になりますし其の想いに従って行動します。


更に頻繁に発する事になる想念は
私達の全身にも染み付くのだと理解してください。


負の想念に帯びている人間はその悪しき影響を受けやすく、
一方正の想念に満ちている人間はその影響を受ける事になります。


想念の物理的影響は呪いにも現れているように
現実に存在しているものです。


そして今では科学的な研究で”思念波”と言うことで
理解が進んでもいますしその実態もかなり知られています。


これらが私達に与える”想い”の影響の側面です。


一方私達が身に纏っている”魂の周波数”はオーラにも現れるように
独自の波動と周波数として存在するようです。


太陽系の同胞達の話では、
私達の持っている個々の波動はずっと変わらないので
転生しても同じ魂を持った人間を彼らは識別できるようです。


アダムスキーはこれに関しての例え話で、
イエスキリストの波動を知っている人間であれば
金星のイエスの家を探し当てることも可能だという話をしていました。
(今は金星宅にいないと言うニュアンスの言葉も言っていました)


つまり私達は見えない独自の波動を持っていて
魂はそれをも表現している事になります。


一方では私達は、その自分の想いや生き方や進化で変貌していく
周波数とも関連して存在するようです。


厳密には波動と周波数を同様に受け止める事が多いので
実際は周波数ではないのかも知れませんが
ここではそのように理解してください。


その周波数は私達の生き方で変貌するものであると言うことです。


周波数が異なれば、私達が受け止めやすい周波数
影響を受けやすい周波数も変動することは言うまでもありません。


その事をまずは念頭に置いといて頂ければと思います。

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本来私達は、心の意識と魂の意識を並行して感じている存在です。


ただ、私達には其の自覚がないのです。


更に心と魂のそれぞれが受け止めやすい周波数が
極端に異なっていると言う事を想像してみてください。


先述したように、私達の脳機能では
脳が10HZ程度の周波数による脳波を持っていると言うことでした。


一方魂の周波数はそれとは大きく異なっていて
はるか高いところに存在しているようです。


そこで問題となるのは
私達がその二つのチャンネルを持っていると言うことです。


TVのチャンネルを想像して頂きたいのですが、
私達はチャンネルを切り替えることで
特定の番組を見ることが出来ます。


それぞれの放送局が独自の周波数の電波を
飛ばしている事を思い出してください。


TVは周波数の切り替えの機能がついていて、
なおかつ特定の周波数をしっかりと受け止める機能が備わっているからこそ


私達は日本TVでもTBSでもフジTVでもテレビ朝日でも
受信してはそれを画像で見ることが出来るのです。


更にTVにも地上デジタル放送もあれば
BS、CSと言った放送もあります。


それぞれは独自の受信様のアンテナが存在していて
それによって受信が可能になるものです。


電波が存在していてもTVがその機能を備える環境になければ
私達はその画像を見る事は出来ません。


これと似たような事が私達の体の中で起こっていると
理解していただければ良いと思います。


地上デジタル放送とBS放送は別々な受信機能を必要とするように
(ケーブルTVはどうなるなどと突っ込まないでください
あくまでわかり易いたとえです)


私達は肉の想いを受け止めたり御霊の想いを受け止めるには
それぞれの機能を必要としていて
私達はその両方の機能を実際は備えていると考えてください。


ただ、一方の機能に関しては、そんな機能がついていることも知らずに
私達はそれを使用出来ないでいるわけです。


更に「私達は想念に影響を受けて存在している」
と言う前提と併せてこれを考えて見ます。


私達の暮らしている地球環境は
私達の想いによって作り上げられると言う話を繰り返してしています。


私達は思考する事で行動しますが
その思考は想念と言うエネルギーとなって
常に全身から発せられ続けています。


そのあらゆる想いがこの地球社会には蔓延していて
しかもそれがあらゆるものに付着し時にはその影響を与えているわけです。


”呪い”に関してはそれが他人に悪い影響を与える場合のものですが
同様に良い影響含めて私達の想念は
あらゆる物に対して影響を与える可能性があるわけです。


とりわけ似た周波数を持った人間はそれを受け止めやすいわけですし

それを受け止める事でその影響をも受ける事になります。


そしてこの地球社会全体は
私達が発し続けている想念の影響を受け続けている事になりますし
私達の想いがこの星を作り上げているわけです。


それは動物や植物に対しても同様ですし
無機物や鉱物に対しても同様に働きかけ付着します。


サイコメトラーが無機物から想念を読み取ることを
思い出して頂ければと思います。


そして地球社会は私達の日々発する想念で満ちています。


一方この地球社会が私達の影響を受けて特定の周波数帯に置かれていると、
今度はその周波数がその中で暮らしている私達に影響を与えると言う
フィードバック作用が起こります。


つまり私達が地球を作り地球社会が私達を作り上げるのです。


地球社会の現在の周波数帯は8HZ~11HZと言われていますが
これは不思議な事に私達の脳の周波数帯と一致するのです。


それがどうやら偶然ではないであろう事も想像つくかと思います。


つまり私達の脳機能はその地球社会からの周波数帯を
受信しやすい状態に常時置かれている事になるのです。


私達の脳機能が司っている器官は目や耳や鼻や口でしたが
脳機能は私達が”心”と呼んでいるものと
殆どイコールであると言うのが私達の知識です。


つまり私達の”心”は、その周波数帯
つまりは自分の周辺を取り巻く地球環境の自然の周波数を
受け止めやすい状況におかれていると言うことです。


周囲に向上心や好奇心の強い人間が大勢いて
皆が何かに興味を持っているのを見て
自分もそれに興味引かれるなどと言う事もあるでしょうし


身近な人間が資格の勉強を熱心にしていたので
自分もそれに影響を受けて学び始めた。。


などと言うのももしかしたら他人のそんな想いが
こちらにも良い意味での影響を与えている例かもしれません。


私は自分の周囲の人間が資格試験受験やスポーツで
私に感化された例をたくさん見てきました。


困った事に報われなかったのは私だけと言う
おまけまでついていますが、


彼らは私の影響を受けなければ
それらを目指す事もなかったかもしれません。


身近な他人の想い、周囲の人間の想いが
自分に無自覚の影響を与えている例になるかと思います。


そしてもっと言えば周囲の環境から私達が受け止める
”電波”はとても強いのだと理解して下さい。


強いだけにその周波数をしっかり受け留める事が出来る状態に
私達の心は置かれていることになります。

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一方私達がもう一つの受信機能として使用しているのが”魂”です。


こちらから受け止める事になる周波数は
少なくとも10HZなどという低いものではありません。


宇宙と一体化する周波数などと言われるものも
存在しますがあれは高周波でした。


と言うことで、脳が超低周波の受信をしている一方で
魂が受け止めるのは高周波だと想像してみてください。


しかも一定の領域だと想像しています。


多くの電磁波的な周波数が
私達の脳機能に関してあらゆる影響を及ぼすと言う実態もありますが
ここではそれは無視してください。


これはあくまで理解のための例です。


創造主の意識が高い周波数として存在しているとした時に
私達の魂がそれを受け止める事が出来るかどうかは
先述のように私達のオーラにも左右される事になります。


おそらくオーラは私魂のエネルギーや周波数の現れだと想います。


私達のその魂の周波数とも言える物があって
それが創造主のあらゆる意識を受けとめているとすれば


創造主の高い周波数を受け止めるためには
私達の魂も周波数を高めていなければならないことになります。


しかもこちらから受け止める”電波”はとても微弱なのだと理解ください。


もしも私達が常に創造主の想いを四次元から
微弱な電波として受け止めていたとして、


一方では地球社会の中の想いを
強い電波として受け止め続けていると考えれば
それらが私達の日常の行動や反応に影響を与える事になります。


そして現実にそれが現実社会での
私達の思考や行動の元となっていると言えます。


私達は想いを表現する存在です。


心で思考した想いを発する事もあれば
魂の想いを発する事もあるでしょうが


私達が無意識に外部からの刺激に反応して行動する時は
通常は心の想いを受け止め表現しています。


そして直感的に動くときは得てして魂からの想いを
受け止めていることが多いようです。


理性的になった時や何か閃きやイメージが浮かぶ時には
心と同時に魂の想いを受け止めてもいます。


そして私達は自分の感じた、もしくは自分の思考による想いを
肉体を持って表現する事になります。


喜怒哀楽であっても理性的な行動であっても
その他あらゆる思考であっても
それは行動や肉体を持って表現されます。


ただ、地球社会の中で絶えず周囲の周波数に影響を受けている私達は
元々が心に囚われているのですし


心が受け止める周波数の影響を中心に
それを無自覚に表現し続けることにもなります。


周囲から受け止める事になるその周波数に
絶えず無自覚の内に影響を受けながら
そこに自分の思考や欲望を交えて表現し続けているのです。


もっと言えば私達は時には自分の受け止めた周波数を
自分の意志であると認識して、それを実行することにもなります。


引き寄せ・波動の法則にあるように似たような波動を引き止めた人間は
その影響を受けてその想いを更に強く持つ事にもなります。


それが闘争本能であれば戦いの意識を増幅し、
不安や恐怖感であればそれを拡大させる事になります。


そしてそれは身体を持って表現されることになります。


その受信のチャンネルを、主として心に合わせている私達は
この社会の低い周波数の影響から逃れる事は出来ないわけです。


地球社会の波動、そして他人の波動を受け止めては
自分の波動を増幅していく事にもつながります。


一方魂から受け止めている波動を
私達は通常は認識する事が出来ません。


そんな存在があることすら意識していませんし
その上にそちらからの電波が弱いためでもあります。


私達の魂の資質の低さが
高い波動を受け止めにくいと言う事も原因の一つです。


結果私達は心の受け止める波動に従って
生きる状態に置かれるわけです。


生命の科学、そして創造主の法を学んでいる私達が
普段意識的に勤めているのは


その通常私達の意識し難い、もう一つの魂の波動を意識して
それを受け止めることで


通常私達が心の想いを表現しているように
魂の想いを表現しようと言う事だと
理解して頂ければと想います。


私達が魂が受け止める波動を感じるようになろうとすれば
魂を意識する事、心を抑える事、
そして魂の意識の経路を強くすることが必要になるわけです。


そして思い出して欲しいのは肉の想いと御霊の想いです。


心が想うのは本能でありエゴであり独自の価値観です。


食欲・性欲・睡眠など自己保存の欲求と
その後の自ら作り上げた価値観によって
それらは更に複雑なエゴを作り上げてもいます。


名誉、妬み、驕り、僻み、自尊心、権力、

憎しみ、闘争、


私達はあらゆる想いを作り上げ、
心の想いとして発し肉体でも表現することになります。


一方魂から微弱に流れてくる電波が
慈しみ、愛、平和、同情、勇気、決意、調和


と言った創造主の残存思念に存在している
四次元的な想いを私達へと導いていると理解してみてください。


そしてパウロが言っていたように
私達は御霊の想いを実行することが求められるわけです。


自称イエスの使徒である私達は
魂から御霊の想いを感じようと勤めながら
それを実践している人間だと理解して貰えばと想います。


先述からの内容で判るように
とにかく私達が魂の想いを受け止めるのは難しいのです。


私の体験から、間違いなく右脳機能が活発に働いていることがその条件ですし、
それ以前に心と魂の存在を知識として知っていることも大前提となります。


なぜならこの社会の中で私達は右脳機能を低下させつつ
心に囚われて生きているのですから


受け止める事になる想いは
地球社会を取り巻く環境からの低い重いばかりで
私達はその影響を直撃されているからです。


しかし今の私達の生き方を続けていけば、


想いの悪循環が更なる悪い想いを作り上げ
それが私達の社会と私達人間と言う存在を
更に低俗で劣悪なものへと変貌していく事になります。


其の行き先は本当のポールシフトと言うことにも
なりかねません。


私達の想いがこの地球社会を作り上げると言うことを
是非理解して頂いて


この社会を改善するためのよき想いを
多くの人に持って頂けることが私と兄弟姉妹の願いです。


私達の良き想いは自分を向上して
他人をも幸せにすることが出来るのです。


誰もがそれを意識して実行すれば
そして個人の幸せではなくて万人の幸せを願うことが出来れば、


万物に対して慈しみを持てるように勤めれば
きっとこの社会も天使達の社会のような天国が実現されると思います。


それを信じて”想い”を実践してみて下さい。


「地球社会には何も悪いものはない。
ただ創造主の法の理解が乏しいだけです」


そう言ってくれているマスターの想いに
地球レベルで応えて欲しいと思います。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


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P.S.


どこかの思想組織の中で生命の科学や創造主の法を
学んでいる方はいないでしょうか?


私に対しての思考妨害や精神低下は、
そんな組織の指導者の信憑性を高めるために
私の能力を妨害しているように感じます。


都合の良いところだけを私の記事や思考から利用しては
一方では私を目立たせるような事はさせたくない。


そんな意識でも持っているかもしれません。


もしくは自分達の指導者を美化したいのかもしれません。


誰に学ぼうが正しいことを一旦理解して、魂の経路を自分で体験するようになれば
後は独自で進むことになるのが真の創造主の法です。


これは人間の教えではありませんし、
イエスキリストが言っていたように私達の師は創造主だけなのですから。


そして自らも思考しなければ進化は無いのです。



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創造主こそは人間にたいする、いわゆる”生命”の贈り主です。
また創造主は私達を通じて私たちの創造物に対する生命の贈り主でもあり、
何を創造するべきかを教えてくれる教師でもあるのです。

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私達の理解としては、生物は四次元に魂を持ち
三次元においては元素を持って作り上げた魂の器を持ち
その接点に於いて命と言う状態を与えられた存在でした。


私達が何かを作ったとしても
そこには決して魂を吹き込む事が出来ないという実態が


創造主だけが万物に生命を吹き込むことが出来る存在である
という実態を証明しています。


元々が四次元的な創造主の想いが三次元で現象化されたものが万物であり
生命のフォームとして創造主が与えたものであるからこそ
そこには生命が宿るのだと言う理解でもあります。


私達が独自に作り上げたフォームに
魂を宿らせることは出来ない。


そのフォームの魂を四次元に発生させることは出来ないからです。


それを知っているからこそ遺伝子工学は
無から生物を生むのではなくて


生きた細胞から生命体を作り上げる研究を
繰り返しているのだと思います。


そして「私たちの創造物に対する生命の贈り主」と言う表現は
私達の作り上げたものに魂を吹き込んでくれると言う意味ではなくて


創造主は、例えば私達の元素の調合含めた反応や、化学反応など
”結合の法則”とアダムスキーが言っていた各種の元素同士の結合や
反応の諸法則をも作り上げた存在だという意味だと思います。


【何を創造するべきかを教えてくれる教師】


という表現はいうまでも無く、
私達がそこから印象という形で
知識や知恵を受け止めることからも判るように


全ての知識と知恵を持っている其の意識は
私達に情報を与えてくれる存在でもありました。


「私達の見たことも無いもの、聞いたことも無いもの
あらゆる物を備えていてくれたのが神だ」


とパウロも語っていたはずです。


私達の元素を利用する知恵や法則は、
創造主の手によって私達に与えられるのだと
マスターが語っているのだと思います。


もちろんその多くは閃きや印象と言う形でです。

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無機物や元素類の化合法を知っているのは創造主であり、
それは人間ばかりでなく宇宙をも生かしていますし、


それらが(無機物や元素類が)一つのフォーム(形ある物)の体験を通じて、
より高次なフォームに適合するように高められるにつれて
創造主はさらに多くのことをやっているのです。
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先述のように私達が自分達の発見であり
もしくはそれが当たりまえだと認識している、


元素類の化合の法則や利用方法を法則として備えてくれていたのも
創造主だとマスターは言っています。


アダムスキーの話でも、創造主は
私達の進化を予定していてそのために必要なありとあらゆる物を
全て備えてくれている存在だと言うことでした。


例えば火を必要とするだろうからと
燃焼という現象を予定していたのかも知れませんし、


私達が当たり前と思っている現象も
全ては法則の存在あってこその物だと言えます。


後はそれを素材として私達が進化のために使用すれば
創造主は更なる材料をも提供してくれる
そんな話にもなるかと思います。


【より高次なフォームに適合するように高められるにつれて
創造主はさらに多くのことをやっているのです】


地球社会の中でも地球自体の進化が続いているという話でしたが
当初は大気を覆う諸元素や、


空気といわれる酸素や
大気中に大量に含まれている窒素などといった
簡単なものから出来上がり


次第に元素番号の大きな質量の多きなものが
出来上がってきたらしいことは、
地球自体の創造を科学的に分析しても、そう理解されているはずです。


希少元素といわれるレアアースなどは、
恐らくは地球の進化の晩期になって
創造されることになったと想像できますが


それを発見できる科学力のレベルになったからこそ
発見され使用されるに至るのでしょうし


もしかしたら地球によってそれが作り上げられたのも
意外と最近の事かもしれません。


今では特定元素を化合して他の元素を作り上げる技術さえ
私達は持っています。


私達が進化するに連れて、それに必要なものを与えるような環境さえ
この社会には出来上がっているのかもしれないのです。


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金星や、その他さまざまの程度に進化している惑星にいる私たちは、
無機物や元素などを、不変の新しさをもつ、
永遠に活動する創造主の表現のエッセンスとして認めています。


だから地球人が知っているような単調さはけっしてあり得ないのです。


あなたの体を構成しているこれらの元素類や無機物は
それら自身に刻まれる印象類に従うということが、あなたにも立証できます。


というのは、もし印象類が喜ばしい性質のものならば、
”人間”と呼ばれる生物も喜ばしくなるからです。


しかし怒った状態にあれば、肉体もそのように表現します。
これで肉体内の無機物や元素類は絶えず創造主に貢献していることがわかります。
そうしないとそれらは高次な表現の状態に昇華できないのです。

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元素が創造主に貢献しているという表現は、
ここでは”元素が想念を表現している”
と理解するべきもしれません。


アダムスキーが語っていたように人間の細胞は
其の想念の影響を受けては其の想いを表現するのだということです。


怒りの感覚は肉体を硬直化して
目を釣りあがらせて口を尖らせることもあります。


喜びの感情は目じりを下げさせ、
全身をやらわげ、口もとも怒りとは異なった状態に置かれる事になります。


私達はそれを当たり前であると捉えて
其の表現の齎される肉体の機能を思考しませんが


それだって私達の全身の細胞が
身をもって想念を表現している行為だと言うことです。


そしてそれはそのまま肉体を構成している細胞を
更に細かく構成している各元素が、


想念という、元々は創造主のエネルギーであるものに
貢献していることになります。

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あなたがた地球人は共同で働くよりもむしろたがいに
敵対し合う共同動作を起こす事によって、絶えず不幸を招いています。


あなたがたは源を創造主に発しながら他のものになり下がってしまいました。


自然の状態にあるかわりに自分にたいして多くの誤った概念を如えています。


ちょうど高貴な美しさをもつ美人が、多くのつまらない装身具を身に着けて、
結局その効果を高めるだけで自分の美しさをだめにするのと同じです。


 あなたがたは真の生命または英知をともなわないものを加えることによって、
これと同じことをやっているのです。

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【自然の状態にあるかわりに自分に対して多くの誤った概念を如えています】


例えば名誉、そしてプライド、更には権力。


少なくとも天使社会の人間達が一切持っては居ない価値観です。


これは私達が自分達の心に加えている誤った価値概念でもあります。。


名誉というのは自分を賛美されたいというエゴから出てくる事になりますが
そのような魅力は人間が自らの価値観で後天的に作り上げたものであり、


創造主の分身である私達の持つべき本来の能力や魅力や価値観は
すべてが創造主の贈り物ともいえます。


私達自らの肉体が創造主の表現だからです。


しかし私達は各自に与えられたその魂の器としての
肉体を司っている心を持って一人歩きしている存在です。


大元の自分のあるべき姿も資質も能力をも忘れ、
心が勝手に価値観をも作り上げ、その結果一人歩きを始めては
創造主の価値観からかけ離れた存在となっています。


何故に私達に心と言う物が与えられているのか?


それをもう一度認識して欲しいのです。


それは私達がエゴを持って暴走するためです。


創造主は完全なる創造物を
当初から作り上げる事も出来たはずです。


この創造主の世界において創造主はもちろん完全な存在ですし


自分の分身を単純に作り上げるのならば
人間の機能のすべてを自分とまったく同じ状態に
作り上げれば良かったのです。


その時すべての人間は魂をもって創造主の意思だけに従う
ロボットのような存在として


失敗をすることなく効率的に調和の空間を
作り上げていったと思います。


そして大元の意識が完全なのですから
それの分身としての人間も完全なものとして存在することになります。


しかし植物がそうであるように、
その時には私達の間には自分と相手という区別も
なかったはずです。


植物は私達が”心”と読んでいる機能を持っていない存在です。


彼らは創造主の意志によってのみ導かれて
その法則にしたがって生きています。


そして植物には自分と相手という区別はないのです。

命を吹き込んでくれた
創造主の意志を魂として共通して持っているだけです。


だからこそ彼らは自然法則に従います。


淘汰されて消えてなくなってしまうこと含めてです。


創造主が私達、創造主の分身としての人間を作り上げるときに
植物同様に私達に一切の心など与えなければ
私達はそれを持って暴走する事もなかったはずです。


その代わり私達は自分と言う意識を持つ事も出来なかった事になります。


自分と言う人間と目の前にいる人間との区別はなくなるのです。


どちらも四次元社会における創造主の意識としての
エネルギーを持ってそれに従うだけの存在になるからです。


そしてそのロボットは自らの意志を持たない
魂からの意志を実践するだけの存在となったはずです。


そして機械のように着々と働くのです。


創造主の目的である調和と美を完成するためにです。


そこでは創造物としての人間は単なる神の分身であり
神が自ら調和を作り上げているに過ぎません。


神なる存在が次のように考えたと想像しては如何でしょうか。


創造主はあくまで自分の創造物の手によって
調和と美を完成したかった。


そしてその中で一時的に完成した調和を求めたのではなくて
其の全ての創造物が進化し続ける事をも予定していた。


調和として表現される状態も
其の時々で段階が存在することになります。


さらには其の創造物として其の調和の担い手になりうるのは
自分と同様の英知をもつ存在こそがふさわしいと考え
そして自分に似せて創造物として人間を作り上げた。


ただこの人間を当初から創造物と同様の能力を与えてしまえば
彼らは創造物ではなくて創造主のロボットとして
存在してしまうことになります。


そこで私達に自分の役目を期待したのと同時に
贈り物と報酬を用意してくれたのです。


贈り物は私達が心や自由意志と呼んでいる
この肉体に備わっている脳機能であり


其の中でも自分を他人と区別して
自分を自分と意識することが出来るような能力です。


不完全な存在として作り上げられた人間は
まず独自の進化をする機会をも与えられる事になります。


そして独自の心を持たされたことで
他人と自分との区別する機能をも持つことになります。


誰もが自らの肉体を持っての経験を通じて
色々な事を体験し学ぶ機会をも与えられることになります。


そして一方では進化によって自分の実態や
自らが創造主の分身であることを知り、
自分が創造された目的を知り、自分が進むべき道を知る事になります。


そして自らが進化の過程にあることと
創造主の代理人として存在していることを知ることで
私達は魂からの意志によってそれを実現しようと努めることにもなります。


一方では創造主によって与えられた自由意志と肉体によって
自らの体験によって多くの学習をしながらです。


そこでは喜怒哀楽と言われる感情をも与えられている私達は
心を持って様々な体験をする事になります。


体験の中で喜び、怒り、悲しみ、心地良い思いや
不快な思いをしては多くのことを学ぶことにもなります。


私達は其の中で当初の創造主の予定通りの
進化と調和を創造主に代わって実現していくことになるのです。


私達に与えられた義務は進化であり万物の調和のための
よき管理者であり支配者であること。


一方与えられた報酬は私達が肉体を持って体験する
あらゆる経験とそこでの楽しみ、


そして進化するごとに増えていく私達の能力です。


当初の予定が創造物の進化であっても
そこで完全な分身を作り上げることで


其の製造過程をも想像できてしまうような世界では
創造主はつまらないと考えた。。


そこで創造主は自分の分身を作り上げ
それにあらゆる可能性を持たせることで
自分の分身のありとあらゆる表現を見たいと願った。


そして人間は進化を果たし
究極的には神に近づくことになると言う意味で
究極の創造物でもあるのだと思います。


私達は創造主が作り上げた最高の被造物のはずです。


そして私達には実際に心と自由意志と言うものが与えられました。


しかし心と言われている機能が存在しているがゆえに
時には魂からの創造主の指令を感じることなく
時には暴走することになります。


でも多くの人間達は時には進化を果たし
そして時には退化を感じ、


生命の進化の過程において山を登り谷へと下りながら

地道に高い場所へと登り続けているのです。


それを実践できている人間達は
未だ進化中の天国に住んでいます。


万物が調和と進化の過程にあるのですから
同じ調和であってもそこには段階があるのだと
いうのが金星のマスターの話でした。


彼らの社会にしても未だ未完成の状態であり
進化の途上なのです。


其の中で彼らは少しでも創造主の意志を理解して
それを実現しようと表現しては
日々進化のための体験と学習を続けています。


私達は其の生き方に学ばねばならないのです。


そして創造主の作りあげたこの社会の目的が
進化であり調和である以上


それを妨げる存在、
そして進化と調和の可能性を示すことが出来ない存在は
存在し続けることが出来ないと言うのも道理です。


そしてそれをも交えてこの宇宙空間に
創造主が作り上げたのが創造主の法則。


私達は其の空間の中で、今一番初期の進化の過程にいて、
其の資質を計られている最中だと理解すべきです。


無駄に存在しているように思われる私達の脳機能は
それが無駄ではないと言うことを
私達は転生を繰り返すことで実感する事になるはずです。


それは一度や二度の転生で其の機能をフルに発揮できるような
物ではないからです。


私達が創造主の法の学習により
進化を繰り返していく其の中で私達はこの脳機能を
地道に高めていくことにもなります。


そして其の脳機能に併せた能力が
私達には与えられることになりますし
其の機能については私達の想像を絶するものがあります。


私達のゲノムの中には用途不明のものが多く存在しているようですが
それらの機能を使用することになるのだろうと想像できますし


其の機能が解き明かされる時には
私達の潜在能力の全てが明らかになることでしょう。


そして地球社会の私達が一番最初にマスターしなければならないのは
間違いなくテレパシーです。


私達が魂を持って他人の想念を感じ、人との真の交流を実践するためにも
そして創造主の意志を感じるためにも


私達が一番最初に開花させることになる機能は
間違いなくこれだと思います。


私達はそこで理解し知ることになります。


自分達の生きている真の目的と真の喜びをです。


それは私達が、甘ったれであり欲深い心のエゴを
満足させることにより感じるものではない

万物との真の調和の中に感じる満足感なのかもしれません。


私達はそのための一歩を歩み始めたに過ぎません。


しかもひとつ間違えば
元の道へと逆戻りしてしまう可能性をも秘めたままにです。


私達の社会の多くの人間がそうであるように
創造主の法を認識することを拒否し


理解することを拒否し
心が楽な道を選択したいと願うこともあるかもしれません。


しかし其の時は自分に鞭打ってでも
自分の当初の信念を貫いてください。


私達が得ることになるものこそが本当の”命”なのです。


今は私達は人であって、創造主の分身ではない存在として
この社会で生きている事を決して忘れないでください。


狭き門を通り抜けて真の命を得た時にこそ
私達は真の自分の姿を知る事にもなる。


そして其の時こそが私達の真の進化の始まりなのだと思います。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】



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【宇宙の法則】


人間にとっての真の進化は、
自分の実態であり創造主の分身でもある魂の進化です。


そして正しく言えば、以前から触れているとおり


魂を強く意識出来るようになり
創造主の意志を強く受け止める事が出来るようになること。


そしてそれを全身で表現出来るようになる事が
私達の進化なのだと思います。


それを実践して見せたのが
イエスキリストである事は言うまでもありません。


私達地球社会の人間に関して天使達のマスターは、


「要らない物で着飾っては自分の本来の美しさを
表現する事を忘れている」


と言う趣旨の事を語っていました。


私達は見た目に拘るばかりに、視覚に訴える変化を求め
そこに美を追求する癖もあります。


髪型そして化粧、更には宝石やファッション
しまいには整形してまで自分の風貌を美化します。


しかしそこでの変化は物理的な変化を外部から強制的に齎したに過ぎず
私達は心を持って自分が美しいと感じる価値観を表現しているに過ぎません。


でも私達が本当に表現すべきものは
内から出てくる想いによって作り上げられるべきなのだと思います。


一見美人でも、性格の悪さは顔に歪みとして現れますし
普通の姿でも内面の美しさや明るさは
その人間を光らせる様にです。


ちなみに私は見た目の美しさには惹かれません。


この地球社会の中の肉体は遺伝に拠る影響を受け止めやすく、
心の表現とは言えないものが多いからです。


真の美は内から現れるのだと思います。


それは創造主の意識として存在する想いだからです。


そしてこの社会の周波数は私達が
魂の想いを表現することを物理的にも妨げていると思います。


ところで、肉体が滅ぶ定めである事は誰もが理解していますが
一方では私達の魂は創造主の法に従う事で
半ば永遠の命を持ち続ける事になります。


この私達の実態を進化させ続けることが
私達に課された課題でもあるからです。


私達人間は肉体の変化をもって進化だと勘違いしていますが


その肉体を本当に進化させているのは
この地球社会の場合は人間の肉体の進化を
DNAの継続によって進めていると言うよりは


あらゆるフォームを体験しながら真の進化をし続けている
私達の肉体を構成している元素による進化がその中心だと言うことです。


表に進化が表れるほどの魂の進化を果たした人間は
既にこの社会から卒業しているでしょうし


私達の多くの人間は魂の進化には
本来それほど大きな差も無いのだと思います。


そして実質私達は、今現在魂の進化を
ほとんど果たす事ができていないのですから
私達は元素の進化の恩恵を受けているに過ぎない事になるわけです。


更に元素で作り上げられた物質の中には、
その姿を永遠に保つものは存在していないのは私達の理解のとおりです。


宇宙空間の全ての惑星ではこの社会と同じように
生命の調和と進化が続いていて

その進化に伴ってその惑星自体も変貌する事になるようです。


そこで生命活動を続けている生物の想念が
そのままその惑星の進化にも関わっている事になります。


これは私が取り上げている波動とも無関係ではありません。


その惑星を取り巻く波動(周波数)は
そこで暮らす生命体に絶えず影響を与える事になりますが


その惑星を取り巻く波動自体は
その環境の中で暮らしている私達生命体の波動によって
影響を受ける事になります。


つまりはその惑星とそこで暮らす生命体は
波動によってフィードバックの関係を持っている事になります。


私達の想いが星を作り、星の想いが私達を作るのです。


そしてエゴと欲に満たされて
低い意識の波動ばかりを吐き出している私達の社会は
そんな低い波動に満たされていて、


地球社会自体もその低い周波数の中で存在し、
その周波数を今度はありとあらゆる生命体に
影響を及ぼして行く事にもなります。


私達は自分達のエゴの想いで、
この社会をどんどんと地獄に変貌させているのです。


アダムスキーの話では金星には凶暴な動物は存在しないと言います。


そこで暮らしている人間の想い、
そしてその社会を取り巻く環境がその中で暮らしている生命に
影響を与えている事を反映しています。


その周波数にあった生命体がそこに存在出来ることになる。


そして進化した惑星であれば生命体の独自の
肉体的な進化もあるのでしょうし


金星や他の惑星の生物は地球の生物と似ていても
きっと高い周波数の元に暮らしているのだと思います。


植物の話もありましたが、
それは地球社会の生物に似ているものも多いようですが


その大きさがとても大きかったり、味が激しく異なっていたりしているのは
(りんごに見える果物や木苺に見える果物の話に触れていました)
それも独自の環境に適した生態系の進化のためではないかと思います。


その環境に存在している万物が進化の過程にある。


私達はこの地球社会を卒業すれば
多くの星でそれを自分の身をもって体験する事になるのかもしれません。


スペースブラザーズである金星のマスターの言葉を引用します。

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地球人は”生まれ変わり”という言葉を誤った意味で用いています。
その本当の意味は、地球の各人が同胞の無知から脱却して
より高次な生命の理解に達したとき、別な惑星での生まれ変わりが許されることなのです。


すると本人は地球上の体験の生き生きとした記憶をもって生まれ変わります。
あらゆる生命を支配する基本的法則に関する本人の概念は卓越したものとなるでしょう。
本人の日常の習慣、家族や仲間との関係などの記憶はなおも鮮明に残りますが、
それは二次的なものになるでしょう。


二つの生涯のあいだに断層はなく、
地球での本人を混乱させた雑多な名称や区別にわずらわされぬ
進化の継続があることを悟るでしょう。


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「私達が同胞の無知から脱却してより生命を正しく理解したときに
別の惑星での生まれ変わりが許される。」


転生の法則の仕組みをとても判り易く
一言で表現してくれています。


私達の社会は誰もが誤った人間のあり方と
社会のあり方を学び実践していますが、


その中でその誤りに気が付いて正しく自分達人間としての実態や
生命の進化と調和のあり方に気が付きそれを学んだ存在が、
記憶を持っての転生を許されることになる。。


誤った価値観を持った状態の記憶を持って転生を継続することでは
人はますます創造主の意識からかけ離れる事になりますし
考えてみれば当たり前の事なのかもしれません。


卒業できなかった人間は一旦リセットしてもらうことで
やり直す機会を与えられる。


課題を果たせた人間は無事その進化を認められ
新たな経験と課題を新しい場所で課されることになる。


そして私や兄弟姉妹は今その課題を果たそうとしているのです。


私達はこの肉体を滅ぼした後に新たな惑星で
新たな肉体に新たな生を受けます。


私達はその時に自分の実態である魂とその記憶が
永遠である事を知るのです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


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P.S.
私に速やかに、そして健やかな転生が齎されるように
祈ってください。


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【創造主の法】


宗教の中における異端の排斥。


そして宗教同士の対立。


知識や理解が異なれば価値観も異なり意識も異なるのが当たり前ですが

儀式や形式に拘り、それに従わないものに対しては罰を加える。


自分達の価値観と異なった価値観を持っているとそれが処罰対象になる。


そんな人道的にもおかしな行為が
歴史の中では繰り返されてきたという実態もあったようです。


文献として多く残っているのがキリスト教社会の物ですが


これはキリスト教社会に限らず
特定の思想を持った人間達が権力を持つことで
それと異なった意識や意見を持った人間が


迫害され淘汰されてきたのがこの社会の実態だと思います。


そしてその傾向は今でも変わってはいません。

以前にも増して拍車がかけられているともいえます。


それらの原因は、私達の社会では如何に正しい神の教えが
伝わっていないかと言う事に由来するのだと思います。


神と呼ぶべき存在は一つしかないと言うこと。


その法則と教えは誰もに共通に作用すると言うこと。


そして、神の教え=創造主の法の元では
私達は誰もが創造主の分身として同じ立場であると言うこと、


更には私達の魂としてのその実態は、
もともとは創造主の意識と言う一つの命として存在し、
誰もが一つの命を共有しているという事実。


私達は無知ゆえにその大前提を理解できず、
創造主の分身であるはずのこの社会の人間は
自分を他の人間と別のものとして勝手に分割し


自分の存在の意義に独自の価値観や目的を作り上げ、

創造主の意識を離れては勝手に動き出し


更には行動指針にも自分勝手な価値観を作り上げては
それを実践しつつ他人を裁き続けているのです。


その状況が以前にもまして酷くなっているのが
今のこの社会の実態です。


先日、アダムスキーの著書の中から
マスターの言葉を久しぶりに読んだのですが


ブラザーズにしてもマスターにしても
”自分”と言う存在に対する認識は
限りなく創造主の分身である事を意識したものでした。


自分を神だと奢り高ぶるという意味ではなくて、
「自分自身は、万物と共に神の意識を共有している存在であり
自分の命はそのまま神のものである」


と認識しているのです。。


彼らの宇宙観に触れれば、まず宇宙空間は創造主の意識の内部にあり
外部に存在しているわけではないと言う大前提があります。


三次元と四次元と言う空間を司っている創造主の残像思念。


四次元的な創造主の想いとしての創造主のエネルギーが
三次元に於いて元素をもって具現化したものが
私達が万物と呼んでいる全ての創造物です。


三次元と四次元は重なるように存在していますし
四次元を創造主の意識とすれば
三次元は当然その範囲の内部に表現されていることになります。


四次元的エネルギーである創造主の想いを
彼らは”至高なる英知”と呼んでそれを創造主と呼んでいます。


その創造主の意志から受け止める創造主の目的は
自分の作り上げた宇宙空間における全ての創造物の調和と進化です。


創造物が命を維持するために必要な環境を
惑星や恒星といったものを通じて創造主の法で作り上げ、


そこに生命を生み出しては
それぞれの創造物にそれぞれの役割を与える。


そして各種の創造物は単に生きているのではなくて
独自の役目を果たす他の万物への見えない奉仕を続けている存在です。


つまりそれが必要であるから万物は存在していることになります。


創造物同士は互いに見えない奉仕を続ける事で相互に関わって生きていて
それぞれが調和の中で進化を果たしながら生きていく。


そしてこの宇宙空間の全てのものは
全てが進化の過程に存在していると言うことでした。


それは肉体という器を取り替えながら
永遠の命をいきながらです。


例え地球や太陽系が老朽化して崩壊しようとも
そこで使用されていた元素や素粒子が果たしてきた進化は
決して中断されることはありません。


私達にしてみれば、”進化”は私達の目に見える”肉体の変化”
だけであるかのように捉えがちですが、


実際には私達の肉体を作り上げている諸元素さえも
日々進化していると言うのが実態で、
私達の社会の中で言えば


精神的な進化を果たせずにいるために
その恩恵を肉体の進化として受けることが出来ない私達を
実質的に地道な進化へと導いているのは


各諸元素の独自な進化のおかげだと言うことです。


そして一番大切な進化は私達の実態である精神の進化です。


創造主の意識の分身として存在している私達は
その魂を意識してそこから創造主の意志を
限りなく引き出すことで自分の進化を果たすようです。


つまり私達地球社会の人間は創造主の法の落第生であるからこそ
未だに地球社会に存在しているのですし
地球社会の私達は真の進化を果たせずにいるのです。


もっと分かり易くいえば魂の経路の進化ともいえます。


私達は創造主の想いを限りなく100%表現するならば
その自分の実態である創造主の分身としての
魂の想いをそのまま表現することが出来ることになりますし


その100%を具現化すれば私達は限りなく神に似る事になります。


想いもその姿もです。


だからこそ金星のマスターは


「私達人間は完全であり
それに付け足すものは存在しない。
ただ自分の持っているものを現しさえすればよいのです」


と表現したのだと思います。


私達の魂の進化とは魂を意識する経路の進化なのだと思います。


その経路から強く想いを引き出せるようになれば
そこから強いエネルギーを引き出せるようになれば
それはそのまま私達個々の人間として表現されるのだと思います。


つまりは魂自体は誰もが同じような資質を持っていても
それを表現するための経路とその表現の差


そしてエネルギーの強さの差が
私達の進化の差と言うのが正しいのかもしれません。


そして私達は理解するのです。


老化に関しては肉体的な影響がありますし
地球環境では仕方のないこととしても


自分の表現するその想いが
創造主の意識の認識力の差によって
異なって表現されているのが私達個々の人間なのだと思います。


想いが私達を作っていると言うのは
まさにここにあるのかもしれません。


心の想い=肉の想いに囚われることで私達は
その想いに似た存在へと変貌しその行動もそれに似ていく。


魂の想い=御霊の想い=創造主の意志を認識して表現することで
私達は天使達や神に似ていくことになるのかもしれません。


現実に太陽系の天使達のように
現実の進化を続けている人間達もいます。


彼らを天使と呼ばせるに至ったのは
私達社会の人間から見て天という場所から降りてきた存在であることもさながら


それ以上に彼らの振る舞いやその神々しく見えた姿が
神の子や神の遣いを連想させたからに他ならないと思います。


そしてアダムスキーの話からも
彼らが皆若く見えてそしてとても美しかったと言うのは


そのまま創造主の意志を自らの肉体を持って表現するように
勤めているからであり、


彼らの姿は彼ら独自の理解による
独自の創造主の想いの表現に他ならないのかもしれません。


極端な話をすれば私達地球社会の人間も
天使のようになれるのです。


肉体が想いで変貌されるのは
若いころには美しいとされながらも


大人になっていくにつれて
心にこびり付けた想いによって変貌して行く人間を見ていても
感じれると思います。


邪な思いを持つようになった人間は
その肉体的な風貌まで変わっていくのです。


そしてその逆もあると言うことです。


わずか80年程度の期間であるために
その大きな変化を認識することは難しくても
実際には私達は想いで自分の肉体さえも変えることになる。


想念はその社会の中にも蔓延して、その社会自体をも
そしてそこで生命を持って生きてる全てをも変えるのだと思います。


私達は自らの想いをもって愛すべき人間と
そして自分自身を変えるように勤めて行きましょう。


自称イエスの使徒であり続けてください。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
P.S.


使い始めた時に説明したように
最後の一文
【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

とあるのは実はアダムスキーの著書の中で


【貴方に無限なる方の祝福がありますように】


あったのを私が勘違いして引用したのが初めで、
人格としての神を認識し難い事もありますし


スターウォーズの
「フォースが貴方と共にありますように」に似せた意味含めて


その後は”無限なる力”として表現し続けています。


元々は火星人のブラザーズである人物が
アダムスキーの地球での広報での活躍を応援して
語ったコメントでもあるのです。



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キリスト教の長い歴史の中では
正統派と異端派の争いが頻繁に繰り返され


その中で異端とされた教えと人間達が迫害され
淘汰されていったと言う実態があります。


それは歴史的にも認識されている事実ですし
迫害の背景の多くには


活動の中心となっている人間達、
権力を持っていた人間達の権力を損なう行為であると言う意識が
根底にあったであろう事も伺えます。


もしもイエスキリストが使徒達に伝えて
その使徒達がさらに弟子達に教えていた”イエスの神の国の奥義”を
使用しては預言や異言をなしたり


それで奇跡といわれる癒し行えば
その人間達がどんな目に遭ったかは想像に硬くありません。


元々のイエスの教えは魂を持って
創造主の意志を受け止めそれを実践する事であり


御霊=魂の賜物、精霊として授かるとされていた力については
パウロも色々表現していましたが
後の時代にはその方法は述べ伝えられていない事がその証拠です。


権威を持ってイエスの教えの上辺を語って説明していた人間達は
真のイエスの教えを実行していた人間達を理解できず


もしくは権威を失墜させる邪魔な存在として認識し
それを淘汰する事にもなるはずです。


それが歴史の中における少数・異端とされた人間達の
淘汰迫害の歴史にも繋がっているのだと想像しています。


元々争いを認めていないイエスの教えですし、


それがユダヤ教の思想を根底にするとしても
迫害淘汰は今度はモーセの10戒に抵触することは言うまでもありません。


それを実行していた人間達は、何を根拠に他人を異端としては
裁き殺していたのかと言う疑問すら起こることになります。


イエズス会のような秘密結社の存在が
キリスト教を裏で利用していた可能性も想像出来ます。


イエズス会は今のパリサイ派サンヘドリンに敗れた人間達ということですが
少なくとも日本にも福音にやって来ては
その影響力を示した事は知られていますし


大航海時代にもキリスト教を持って管理支配を実践していた
人間達である事は間違いないからです。


つまり中世の頃にはイエスの教えは完全に形骸化されて
支配管理のツールとして利用されていた事を意味します。


イエスは表の顔と裏の顔の矛盾を何よりも嫌っていました。


イエスキリストは、愛を語り一方では殺害を認めるような意識など
持ち合わせてはいませんし


そんな意識はイエスが否定していた当時のパリサイ派の形式主義、
イエスが偽善ときって捨てた思想にこそ近いものがあります。


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カタリ派


 1000年代の半ばに「ローマ教会」が東方の伝統的教会から分派・独立して
「カトリック」を形成していきました。


その後、カトリック教会は西欧社会に天上的にも
地上的にも君臨していくことになります。


 しかしそのカトリック教会の封建制的な教会組織とカトリック至上主義的な教義、
何より皇帝権力と争いその権力まで取り込んでいくその「俗化」に
疑問を感じる人々もたくさんいました。


そうした人々はカトリックとは離反した教えと組織を持つようになります。


 それはやがて1500年代にプロテスタント運動となって現れるのですが、
それ以前から反カトリックの運動というのは大規模にあったのでした。


それらは皇帝勢力と結んでいたカトリック教会に弾圧されて「異端」とされて闇に葬られることになりま

す。


 そうした中世の「異端」とされるものの中で「カタリ派」が有名です。
これは、12世紀後半から13世紀にかけて南フランスから現在の
スペインとの国境沿い地域、北部・中部イタリア、


さらにライン河流域から現在のベルギー域を中心に全ヨーロッパ中に展開した、
非常に大規模な集団でした。


このうち特に勢力の強かった南フランスの一派を
「アルビジョア派・略してアルビ派」と呼んでいます。


 「カタリ」というのはギリシャ語の
「カタルシス・浄化、ないしカタロイ・浄化された者」という言葉からきている名前で、
その名前の様に非常に厳しい禁欲的な戒律をもっていました。


これは、思想的には「マニ教」、ないし「グノーシス思想」の流れにあり、
10世紀ブルガリア地方で生じたマニ教的性格を持つとされた「
ボゴミール派」の影響を受け形成されたとされます。


従ってこのカタリ派は、マニ教やグノーシスの主要教義に則って、
世界を「善と悪」の抗争と捕らえて、悪とはユダヤ教の神つまり


「旧約の神(この世界の創造神であるが、この神は絶対的最高神なのではなく、
低次の劣った邪悪な神であり、だからこの地上には災厄と邪悪が充満しているとする)」として、


人間は本来善神の下にあったいわば「天使」のような存在だったのだけれど
悪神に捕らわれて牢獄としての「肉体」の中に封じ込まれてしまった存在とします。


 そして、そこからの脱却と救済を告げたのが
「イエス」であるけれど、このイエスは救世主キリストたる「神の子」ではなく、
「御使いの神」であってこの世に「教師」として赴いてくれたのであり、


その教えに従い禁欲と清貧とによって自己覚醒をしていき
救済へと赴こうとしたものです。


これはまさしくマニ・グノーシスという古代に「異端」とされた思想そのままと言え、
確かに正統教会を任ずる教会にとっては問題であったでしょう。


つまり、神学としては以上のように「マニ・グノーシス的」なので、
古代においてそれらが「異端」とされていたことからいっても、
この場面でも「異端」とされるのは「教会史的」には当然でした。


 しかし、生活態度・精神的態度として、彼らは非常に厳しい戒律をもち、
低劣・悪徳の「肉体」に奉仕しないように肉食・性交・結婚・財産などを拒否し
厳しい禁欲生活を送りました。


当然「清貧」を尊び、「瞑想」の内に神との出会いを願うという
原始キリスト教の精神が復活していることが注意されます。


バチカンにはこの精神はありませんでした。


 しかし当然、当時の権威であったカトリック教会と思想的に衝突しているわけで、
そのため徹底的にローマ教会に憎まれ弾圧されて、
「十字軍」まで結成されて武力によって「残酷に壊滅」させられてしまいました。


そんな集団でしたが、その拡大の大きさの秘密がどこにあったのかは謎ですが、
とにかくこれが大勢力になっていたということは


ローマ教会の主張するキリスト教正統教義の絶対性も
怪しかったということを示しており、
カタリ派など「異端」の興隆はいろいろと問題をなげかけています。


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中世になって再びイエスの真の教えが復活した時代があったようです。


ここでの


【イエスは救世主キリストたる「神の子」ではなく、
「御使いの神」であってこの世に「教師」として赴いてくれた】


と言うのは、まさに神の一人子としてではなくて、
天からの使いとしてこの社会に肉体を持って君臨しては、
私達を導こうとしたイエスの実態を語っていると思います。


おそらくはこの活動の中心となった人間も突然現れたのではなくて
天使達の誰かのこの社会への転生が
その働きかけの中心となっていたと想像出来ます。


アダムスキーや、イエスの転生であるオーソンさんの話では
多くのスペースブラザーズ達がこの社会に天使達の中から転生しては
救おうとした人間達によって殺されて来たと言う話でした。

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当時でさえも私たちは地球の兄弟を救うために他の人々を送りつづけました。
この人々が”教世主”として知られている人たちです。


彼らの使命は地球の兄弟を助けてその本来の理解に返らせることにありました。
どの場合でも少数の信奉者がこの賢者の周囲に集まりましたが、
いつも賢者たちは救おうとした相手によって殺されました。


 人間の住んでいる宇宙の中のこの太陽系内で、
なぜ地球が最低の惑星であるかを、あなたは考えてこられましたが、
今お話ししたのがその理由です。
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おそらくは異端騒ぎが大きくなった時には
その中心には彼らの仲間もしくはその意識を強く受け止めることの出来る
人間が存在していたのだと思います。


ここで中世になって再びイエスの教えが復活した背景には、
その当時の教会が権力と結びついては俗物化していたという
原因もあるようです。


多くの宗教が教祖の意志からかけ離れて
政治権力と結びつくと言うのが世界の歴史ですが
これは今の社会を見ていれば誰もが理解できるはずです。


政治は民族や宗教や企業の助けなしには動きません。


つまり宗教は政治をも動かす力を持ち、
それはそのまま政治家にとっては選挙の得票であり


更には政治と宗教が密接に繋がる傾向は
昔も今も変わってはいないことになります。


時代の権力を否定し、俗世間の価値観に囚われるなというのが
イエスの弟子達がイエスから学んだものですし
それをパウロもヤコブも取り上げていたかと思いますが、


ここでは政治と言う権力が”キリスト教”と結びつき
その本質を見失っていくと言う実体が見えてきます。


そしてここでもカタリ派がモーセの神を
”悪神”と表現しているように


旧約聖書の神と創造主を混同してはいけないと言うのが
私達のような正しいイエスの教えを学ぶ者の基本姿勢です。


旧約聖書の神がヘブライの民を頻繁に苦境に立たせてはそれを救ったのは
見方によっては心理的誘導でありマインドコントロールですし、
管理支配強化のためにそれを意図的に実行したものだと認識することも出来ます。


ただ、当時のヘブライの民が奴隷ボケしていたことも
そして無法者であったことも間違いありませんし


それに対して最低限の戒律を与えたその姿は
私達が悪魔と象徴しているものとはかけ離れてもいます。


今ではその神を崇拝して自らを正当化している人間の中にこそ
悪魔に近い人間達がいるからです。


そしてここでもモーセの神ユダヤの神を悪の神と認識し
それを主張した影に天使達の意識を感じることにもなります。


【低劣・悪徳の「肉体」に奉仕しないように肉食・性交・結婚・財産などを拒否し
厳しい禁欲生活を送りました。】


私達が手っ取り早く覚醒し天国(永遠の命)へと進むには
これらの戒律が間違いではない事も認めます。


魂を意識することを大前提としてです。


肉体が司る心への奉仕こそが悪であり


心を心地良くなる事を禁じると言うのは
(心の価値観が魂の価値観と異なっている部分に関してでしょうが)
私達があるべきだと認識している姿でもあります。


更にはここでは財産所有をも禁止しています。


聖書の「使徒の動き」でもそうであったように
イエスの指導を受けていた彼らは個人財産を持つことなく
皆で原始的な共同生活をしていた事が見て取れます。


(売買代金を隠し待っていたことでペテロにそれを指摘され
ショックで死んだと言う女性がいたかどうかは正直不明ですが)


イエスキリストが主張していた
「蔵に財を蓄えるのではなくて天に財を蓄える」
と言うことを彼らは実践していたわけですし


ここでも同様の認識と受け止めることが出来ます。


【「清貧」を尊び、「瞑想」の内に神との出会いを願う】


とあるのも私達の理解できる意識ですし
それはそのまま多くの宗教で修行と言われているものに近いものです。


「瞑想の内に神と出会う」と言うのは


私達がそうであるように自分の内なる魂こそが神の分身なのですから
それを感じる事であると認識できます。


アダムスキーは瞑想は薦めていませんでしたが
私はそれを

「常に自分の魂を意識するためである」


と理解しています。


こては生命の科学の実践課題ですし、
私達は特定の時だけ神を意識するのではなくて
常に魂と心を併用する事を求められているからです。


そして魂の価値観で心の価値観を置き換えていくのです。


いずれにしても向いている視線の方向は
私達と同じものだと理解できます。


【「十字軍」まで結成されて武力によって「残酷に壊滅」させられてしまいました】


そして権力と結びついた宗教は
真のイエスの教えに立ち返ったこの集団を武力で壊滅したわけです。


これでは真のイエスの教えが後年に述べ伝えられるわけがありません。


【その拡大の大きさの秘密がどこにあったのかは謎】


ここからもその背景には
天使達の導きがあったであろうことも想像が出来ます。


私達の意識が誤った方向に向かった時に
そのたびに地上に現れて進むべき方向を指し示そうとしていたのが天使達。


私達がその実態を理解していないだけの話です。


私達と同じ姿をしているから
私達は彼らを天使と気がつくことも出来ませんし、
そんな実態も災いしたのかもしれません。


天使と知らずにもてなした人間がいた話は
旧約聖書の中にも出ていたはずです。

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ヴァルド派


 「カタリ派」以外にも多くの「異端とされた集団」が生じており、
その一つに「ヴァルド派」があります。
フランスのリヨンの商人であったヴァルドの始めたもので、


1173年頃に彼は旅芸人が聖アレクシウス伝を語るのを聴いて感動して回心し、
商品ばかりか自分の持ち物を一切売り払って貧者に施しをし、
それからは清貧の修行者のような生活に入ったといいます。


そして彼はフランス語訳の『聖書』を用いて人々に語るようになり、
多くの聴聞・追従者がでるようになりました。


 ところが、彼は正式の聖職者の資格はもっていなかったわけで、
1178年にリヨンの大司教がこれを問題視して「説法を禁止」
させる処置にでたのでした。


しかし、彼の教えに反カトリック的なものや教会に対する反抗の気持ちもないことが
理解できた教皇のアレクサンドル三世は、
翌年に条件付きでの説法を許可してきました。


そして再びヴァルドは説法をはじめたのですが、
しかしリヨンの大司教はそれが面白くなくて迫害をはじめ、
1181年には教皇を動かして再び活動を禁止させてしまいます。


 しかし追われた弟子たちは各地に散って活動し、
彼らは「リヨンの貧者たち」と呼ばれて民衆の支持を得ていきます。


これがリヨンの教会だけではなくバチカン・カトリック教会にも
面白くなく映ったようで、
1184年の教会会議で「異端」とされて破門されてしまったのです。


 その後1212年には、先代教皇の後を継いだ
教皇イノケンティウス三世の取りなしで一部はカトリック教会への復帰がみとめられましたが、
一部はこれまでの活動を継続し、現在でもイタリアなどに存続しています。


 これは教義の上でかつてのマニ教とかグノーシスとかの
異端とされた思想を持っているわけでもなく、


そのほかカトリックの教えに反する思想を持っていたわけでもなく、
ただ「清貧にあって」「神のみを想う」だけの集団で、
したがって教義的に「異端」とは言えません。


ですから、ヴァルドの当時の教皇もその説法を条件付きながら許可してきたのですが、
問題は「正統教会の枠の外での活動」であったという点で、
地元のリヨンの大司教はそれだけの理由でヴァルド派を迫害し
バチカンによる破門にまで持ち込んでいったわけでした。


この事件は、イエスの教えや使徒達の共同体のあり方、
初期の教父たちの教えなど全く顧みず、
ただ「自分の組織・権力」だけにこだわる
中世カトリックの体質をよく示した事件といえます。

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この頃には権力と結びついた教会は
自らが独自の政治権力を持つようになり、


司祭達はイエスの教えであった


「誰よりもえらくなりたいと思えば
一番下について誰にでも奉仕しなさい」


という教えとは全く異なった気質を持つようにもなります。


2000年前のユダヤ教パリサイ派以上の権力と権限を有し、
それを持っては全てのクリスチャンを統括下に収めては


それに歯向かう人間や目に付いた人間を
権力を持って駆逐していくようにもなります。


【「清貧にあって」「神のみを想う」】集団と
自らの名誉や権力に拘り驕り高ぶっている人間達の


一体どちらがイエスの教えに近いところにあったかを
想像すれば良いのです。


例えばイエスキリストは見た目の権力やありがたさを
偶像崇拝禁止と言う事で表現していたと思いますし


神殿の雄大さや見せ掛けの価値観など認めてはいませんでした。


それは神の居場所では無い事を知っていたからです。


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イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、
イエスに宮の建物をさし示した。


そこで、イエスは彼らに答えて言われた。


「このすべての物に目をみはっているのでしょう。
まことに、あなたがたに告げます。
ここでは、石がずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

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少し前の記事で取り上げたように
イエスキリストは三次元で元素で作りあげられて入る全ての形あるものは
崩壊していく事が創造主の法の摂理である事を理解しています。


そして人間が自ら作り上げたものには
創造主の意識など吹き込まれないことも知っています。


イエスが神殿や教会を口にしていた事を
それを建てる正当な理由としている人間達もいるようですが
彼らは聖書のイエスの言葉を正しく理解していない証拠です。


イエスキリストが「神殿を三日で建てて見せる」と言う例えは


”神殿の役割を神の教えの福音の場所”と認識し、

自分であれば三日でその役目を果たすことが出来る
(人を集めて福音を述べ伝える)と語ったものですが、


イエスキリストは、神殿や教会をあくまで
”人々が望んで訪れた時に神の教えを与える場所”である
と言う認識しか持っていなかったはすですし


その神殿や教会に対して権威を与えるような
そんな発言をした事もないはずです。


パウロは
「貴方は自分の体が神の神殿であることを
知らないのですか」


とイエスの教えを踏襲してもいました。


つまり建物があろうとなかろうと、
福音で大切なのはそれを語る人間の資質だと言うことです。


イエスであれば神殿など無くても多くの人間を集めて
そこで福音を語る事も出来たわけですし


時には神殿を使用する事で
他の人間達が誤った教えを福音させる機会を奪うことも出来ました。


神の福音をする場所とされているところで
商売をしていた人間達を追い出した事もありました。


イエスのあの時の一番の怒りの”本音”は、
神殿を聖なるものと捉えて
そこでの売買をしていた事に対して怒ったのではなくて、


両替商はじめパリサイ派の従属者達は
形式的には神殿や添え物取ったものを
神に纏わる物として大切にしているかのように語りながら


その中で自分達は全く聖ではない行為を実行していると言う、
その矛盾する偽善的行為に対しての
怒りだったのではないかと想像しました。


いずれにしてもイエスキリストは
教会や建物に神が宿ると考えていたわけではありませんし
それに権威を与えたわけではありません。。


使徒達が教会を名ざして否定したり推薦していたのも、
建物としての教会を重視していたのではなくて
そこで教えている人間達こそを信頼していたことを理解すべきです。


特定の教会や建物を持たずに独自に組織として集って
イエスの教えを学ぼうと、


時には私のように一人で創造主を理解しようと
勤める行為が悪のわけがないのです。


元々が私達こそが神の神殿なのであり、
それを自ら認識できない人間が、
理解出来ている人間にその教えを請いに行くというのが


当初の教会のあり方だったと思います。

勿論人間同士の交流の場でもあったかと思います。


それが名目だけの神の福音の場所に成り下がり、


組織の中の権力を持った人間だと言うことだけで
創造主の意識を感じることも出来ないままに
実力の無しに権力を得て驕り高ぶっていた人間達が


自分達の権威に従わないものを
疎ましく感じては排除して来たとも言えると思います。


中世カトリックの体質とありますが
これはそのまま多くの宗教組織の体質に
なりつつあると思います。


正しく他人を導く事が出来ない人間が、
権力を持っているという形式を重視して
人を集めては誤った真理を語るという事になれば


イエスキリストが言っていたように
「盲人が盲人の手を引く」


という例えとどこか違うのかと言うことになります。


既存の多くの教えは盲人が盲人の手を引いているのです。


権力をもって驕り高ぶる人間、
皆から偉いと褒め称えられる人間は

天の国では最も小さいものとされると言う事が私達の理解です。


創造主の意識と掛け離れた人間に
創造主の意志を語ることは出来ない。


バチカンであればヨハネス23世や
ヨハネパウロ1世のような真の指導者がいましたが


彼らが改革を実行する直前に早々と暗殺されたことが
この社会のキリスト教社会の実態を物語っています。

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ベギン派


 上記の二つに少し遅れ、13世紀から14世紀にかけてヨーロッパ中に流布したもので、
やはり「清貧な生活」にこだわった生活を送ることを主体にしたものでした。
生活は労働と托鉢により、快楽からは遠く、徳的な生活を旨としました。


目指すところは「神と魂を一致」させることであり、
そうした局地に至った人にはもはや教会生活だの儀礼だのは必要なく、
「自由な霊」となった者は永遠であり、罪も知らず、何物も必要とはなくなり、
神すら必要ではなく、至福の境地の中に遊んでいるといったような内容をもっていました。


 これは「教会」というものを否定しているととられて、
正統教会のバチカンに憎まれて「異端」とされて弾圧されてしまいました。


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「神と魂を一致」とありますが
おそらくはここでの”魂”は私達の”心”と呼んでいるものを
表現した物だと想像出来ます。


文字通り受け止めるような解釈はしないで
物事の背景や実質を捉えて文章を読むようにも勤めてください。


私は精神=意識=魂と使い分ける事がありますが
文字通り受け止められれば全てが別物とされてしまいます。


そしてここでは”魂”を”心”と置き換えて
”神”とあるものを”神の意志=魂”と置きかえれば


私達が求めている心を魂の価値観で置き換える事、
つまりは心を神の意識で置き換える作業と認識する事も出来ます。


この方のペギン派の理解が正しいかどうかは不明ですが、
私達は神の域には達することなど出来ないのですし


100%神の意識を理解することも出来ないのですから
神が必要なくなるという記述は頂けません。


ただ教会否定は何の間違いでもないと思います。


教会を頼るのはそこに尊敬すべき
イエスの使徒としての先輩=牧師
がいるような場合で十分だと思います。


イエスは自分の教えを理解するために
教会に通えなどとは一言も触れてはいません。


使徒達やその弟子と言った頼れる先人が教会の中に居たからこそ
教会を頼る人間が増えたと言う話であり
まず教会ありきではないということ。


12使徒の時代の教会の実質が、
彼らがいたことでイエスの正しい教えを受けることが出来る
場所になっていたという認識をすれば、


私達はその実質を求めれば良いのであって、
教会に通うこと=救いにはならないと言う事を理解すべきです。


クリスチャンは自分にとって尊敬できる人間の集う、
そしてイエスの正しい教えを与えてくれる教会にこそいくべきであり


質の伴っていない教えは
少なくとも自称イエスの使徒である私達には不要です。


イエスキリストは
「私はこの岩の上に教会を建てる。
それはハデスの門でも打ち勝てません」と語っていました。


その直前にイエスがペテロと交わした言葉は
自分がキリスト=真理であると認めた内容でした。


そしてここでの意味は
「自分の強い信仰を持って福音を述べ伝える」
という例えでもありました。


たとえ話の理解できない後の人間がそれをそのまま鵜呑みにしては

本当に形式としての教会を立て続けたと言うのが実態ですが
本当はそこに魂を吹き込む事こそが大切なのです。


「家を建てる者達が見捨てた石、
それが礎の石になった。」


の例えで説明したように、
立てられた建物に本質を与えるのは
礎となった石であるイエスキリストの教えだということです。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11441409335.html
イエスの教え VOL8
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だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。


雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、
それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
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これと比較すればイエスの語っていた”岩”の意味も理解できるでしょうし
それが固い信念や決意を意味する事も悟れるはずです。


「イエスの固い信念は
ハデスの門よりも屈強である」
と認識すれば分かりやすいと思います。


イエスキリストは福音を述べ伝えている自分の体を
神殿に例えて信念を語ったのだと私達は理解できますが
他の方々は違う解釈なのでしょうか。


私達は原点に戻るべきです。


イエスの真の教えこそが創造主の法なのですから
そこから掛け離れ人間の心をもって理解した教えなど
何の価値もないからです。


イエスのパリサイ派への批判の箇所で引用した
イザヤ書の神の言葉。


「この民は口先では私を敬うが
その心は私から離れている


彼らが私を拝んでも無駄なことである
人間の教えを教えとして教えるだけだから」


これがこの社会では実現しているのです。


そして人間の教えを学んだ人間が更に別の人間にその教えを教える。


実質盲人が盲人の手を連れて
一緒に崖から落ちていくそんな社会が
今のこの社会に成りつつあるということを
私達は理解すべきではないでしょうか。


意識を変えるのに必要なのは勇気だけです。


自分の誤りを認める勇気と
大きな圧力に立ち向かう勇気です。


それを指導者レベルの人間達に求めたいと思います。


私や兄弟姉妹では出来ることも限られます。


多くの人間を変えうる人間が意識を変えることこそが
この社会を改善する何よりの早道です。


【貴方の無限なる力の祝福がありますように】


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11437272683.html
創造主の意識  心と魂を使用する
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11438199880.html
御霊の齎すもの、魂とテレパシー



少し難しい内容になります。


と言ってもキリスト教の時代的な理解を求める記事です。


まずは”自然へ帰れ”と語ったルソーの言葉の内容を
説明してくれている方のコメントの引用からです。

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ルソーは自然状態を家族も財産もない何もない孤立した状態であるとし、
その不便さから逃れるために人は家族や国家を持ち、他人と協力関係を築き、
社会的人間になると主張しました。


しかし、社会が進展するに従い、
自然状態の時にはなかった不自由さや不平等を強いられるようになった場合、
あくまで人間が自らの意思で自然状態から社会的人間へ移行したのだから(社会契約)、
もとの自然状態に一度立ち返るべきであると説きました。


それが自然にかえれの意味で、
要するに王侯貴族が幅を利かせている不自由で不平等な社会を一度チャラにして、
もう一度人間の自然状態がどんなものなのか振り返りましょうということです。


ルソー自身は、文化や社会の規制が、素寒貧の孤立した状態の頃の
自由と平等を損なう堕落に繋がるとして、
本来の自然状態の人間の自由と平等を思い起こせ(自然にかえれ)
と主張したに過ぎませんでしたか、


社会契約説はその後、あくまで人間は自らの意思で社会契約を結んだわけだから、
その結果生まれた国家が堕落すればそれを改廃する当然の権利があるという
抵抗権の思想を生み出し、それがアメリカ独立戦争の背骨となり、
さらに後年の市民革命に決定的な影響を与えました。

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ルソーの思想は、
どんな思想も利用され方次第で、良いものにもなれば
悪影響にもなると言う見本ですが、
(欧州のフリーメーソン革命にも利用されているからです)


ルソーの語っていたように
人間の置かれた現状が改悪されていると判断するならば


当初の状態に立ち返るという意識は
私達が何かを改善しようと欲した時に
当たり前に持つべき指針となるものではないでしょうか。


人間関係の中で生まれて来た習慣や文化であっても
それが人間に不自由や不平等をもたらしているのであれば
それをそのまま受け入れ続けてはいけない。。。


私達が本来あるべき姿に照らして
それが誤った方向へと進んでいると認識すれば、


私達は慣習や慣れに従うのではなくて
人間としての本質を取り戻すために今すべき事を考えて
それを実行すべきです。


私達は他人と不平等な関係を作るために存在しているのではありませんし
不自由で不幸せになるために存在しているわけでもありません。


創造主の意志は私達誰もが平等に、
喜びの内に調和を求めて生きることであり、

その中での進化を果たしていくことです。


社会の置かれている実態を照らした時に
それが大きくかけ離れている事を理解すれば
それを改善しようと言う意志を働かせねばなりません。


それを拒絶するのは不平等社会の中で優越される立場にいる人間が
自らの心の心地良さを手放すことが出来ないからであり、


一方では冷遇されている人間達が
その背景に甘んじてしまっているためでもあります。


革命などと言う戦いの元になるような行動を必要とは思いませんが
私達は理性を持ってお互いを判り合える存在として
創造主が作り上げた神の分身です。


そして私達は人としての本質に立ち返る事を今こそ求められています。


映画や漫画でバイオレンスが支配するとんでもない社会を見せられて
それと比べると今の社会はマシだと勘違いしてはいませんか?


あれは私達が想像しうる最悪の地獄社会です。


それに比べれば天国に見えても、
私達の社会は「本来の人間と言う存在」にとって
限りなく最悪の環境へとなりつつあるのです。


そして出来るものならば、
神や聖人を理解しそれを信頼できるような人間達が
その教えの原点へと帰ることで


この社会を大きく変える原動力となる事を願って止みません。


私は自分が自称イエスの使徒という事で
イエスキリストを模範として、
人としてのあり方を追求したいと思っている人間なので


今日はキリスト教を理解する人間が、
その原点に立ち返るきっかけと出来るかもしれないような内容を
取り上げて見ます。


以前から繰り返し主張していますが
イエスキリストの教えの実質は
長い歴史の中でどんどんと失われてきました。


それは元々のイエスキリストの教えが難しいものであった事とも
無関係ではありませんし、


一方では多くの信者が自ら神を認識する事が出来なかったために
共通の認識を価値観として持つことが出来なかったことに由来します。


共通認識を持つ事が出来ない場合、
思想としての文化は一体どんな変貌をしていくことになるのでしょうか。


言うまでもなく多数派と言われる人間達の意志が
そこでは大きく影響する事になりますし


一方ではその時々の権力が、その主張を正統派と異端とに分類しては
異端と言われた人間達を迫害し淘汰する様になることも
私達の社会の傾向としては歴史からも明らかです。


元々が創造主の意識から
かけ離れた意識を持っている人間だらけの世の中で、


多数派の従う神に導かれた結果
正しい教えへと行き着くと言う事自体が考えにくい
と言うことも私達であれば理解できるはずです。


この世の中の宗教の進化は、常に現実や実証性と言う名目で、
心を持って視覚を重視している人間たちによって導かれてきたものだと言うことを
私達は理解するところから始めなければなりません。


一番気になるイエスの死後間もない時代のイエスの教えが
どんな分化をしていたかを、先日紹介したHPの著者が
判りやすく示していました。


これは歴史的な客観的事実として理解し易い物となっています。


最近はキリスト教の異端の多くが”グノーシス主義”
などと呼ばれている事情もわかりました。


正当とされる教えに比べて、突拍子もないと認識される教えは
全てが”グノーシス派”というレッテルを張られることで
異端とされていることもです。


私達の生命の科学だって
一般のクリスチャンから見れば
グノーシス主義に分類されてしまうのだと思います。


しかし今現在のクリスチャンから見れば、
当時の原始キリスト教の流れを継いでいる教えの殆どが
グノーシス派とされる事にもなるでしょう。


そこには目で見えないものの存在を認識しようと言う前提での教えが
盛り込まれているからです。


そしてそれを排除してきたのがキリスト教の歴史でもあると思います。


それがこの社会に悲劇を生んだ原因の一つではないでしょうか。

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初期時代のキリスト教会派の立場の大枠


1. パウロ主義
キリスト教を西洋に伝道し、キリスト教を最初に理論づけたパウロの主張は、
「イエスこそが救世主キリストである」、「その教えの骨幹は“愛の神”の主張にある」、
「信仰のみで義とされる」という三点に集約されます。


これは後のキリスト教神学の柱ともなるのですが、
一方でパウロの立場は「イエスはユダヤ教を打破し乗り越えている」となりますので
「反ユダヤ教」的な主張となります。


ですからパウロ主義を標榜したマルキオンはユダヤ教を排除したのですが、
勢力的に強くなって「正統」となっていったのが
「ユダヤ教主義」勢力であっために、このパウロ主義は薄められていきました。


現在のプロテスタントは、薄められたこのパウロ主義の思想を回復していますが、
他方で原典主義をとっているためユダヤ教主義も強く認め、
「パウロ主義」でありながら「ユダヤ教的」という微妙な立場になっています。

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私や兄弟姉妹そして理解者と言った、
生命の科学を学んできて創造主の法を理解できる人間であれば判る様に、
パウロの教えにはイエスの教えとの矛盾はありません。


つまり正当なイエスの教えを語る事が出来ていたのは
ここでパウロ主義と言われた人間達だという事になります。


現代社会での人間では、パウロの真の教えを理解できず
パウロが信仰だけで実践を伴っていないかのように表現されていますが、
それが誤りであることは私が記事で書き連ねてきた通りです。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11447479208.html
運命を生きる3&パウロの手紙 VOL5
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11446795491.html
運命を生きる2・パウロの手紙VOL4
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11446050602.html
運命を生きる1&パウロの手紙 VOL3
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11445536073.html
パウロの手紙 VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11444930328.html
パウロの手紙


パウロは人間の作り上げた形式や戒律に従うのではなくて
神の戒律に従いなさいと繰り返していたのです。


そして信仰とは神の想いを受け止めてそれを実践する事です。


しかし後の人間達がイエスの奥義を理解出来ず
御霊や精霊を理解出来ずそれを体験することが出来なかったために


パウロの教えを誤って述べ伝える事になり
そこで弊害が起きたのだと理解出来ます。


イエスキリストが復活したとされた後に
パウロに下ったイエスの言葉は


私達にしてみれば音声送信(ニューロフォン)のような技術で
頭に対して働きかけたであろう事も想像がつきます。


パウロはイエスの声を直接聞いてそれに感銘し敬虔なイエスの使徒となり
おそらくはその後は天使達によっても
テレパシーなどにより導かれ続けたのだと思います。


それを”精霊が降りる”とか”御霊の想い”と表現していた可能性も高く、
パウロは他の使徒達と共にイエスの正統な継承者でもあったと
私は聖書の内容から確信しています。


正しいのはパウロ主義でありユダヤ主義ではありません。

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2. グノーシス主義
日本語的な意味は「認識主義」となりますが、
本来はキリスト教とは無関係な「ギリシャ思想」の一つの展開で、
真理への到達として「知的直感的な認識」を主張するものでした。


これがキリスト教に入り込んだ時、
神の知的直感的認識による神との合一をいうものとなり、
その神は唯一絶対的なものと理解され、


従って不完全・劣悪なる世界の創造をするわけのないものとして、
ユダヤ教のいうこの地上の「創造の神」は劣悪の神として排撃されることになり、


またイエスの位置づけは「真実の神」をおしえる者として真実の神の
従者的な神として理解されたのでした。

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大元のグノーシス主義はギリシア哲学に端を発する物のようです。


ここで何故にギリシア哲学がそのままイエスの教えと結びついたかと言うことも
私達なら理解出来るはずです。


真理への到達は「知的直感的な認識」によって行われると言うのは
私達が今まさに実行している生命の科学による”魂の意志の認識”の事ですし


それは心ではなくて魂から閃きや印象として与えられるもので
”イエスの奥義”はまさにそれを感じて語る手段でした。


つまりはこれは12使徒が実践していた内容と異なるものではなく、
イエスキリストは自分の教えを”キリスト教”などと
読んでいたわけでもありませんし、


求める真理(キリスト)への手段が同じである事からも
両者が結びつく事があっても何の不思議もありません。


そして共通しているのは直感的に知覚できる
唯一の創造神の存在でもあります。


私達が求めているのは”宗教”と言う名の教えでもなければ
哲学と言う名の教えでもなくて


それは”普遍的真理”なのですから
両者はほぼ共通するものだと認識することも出来ます。


そしてこの仮定で旧約聖書を見つめると
モーセとヘブライ人が従った”人格神”は創造主ではありえず
それを悪しき神だと認識しても仕方のない事ですし


キリスト教徒が神に奉っていた”イエス”を
絶対神の下に置いたのも当たり前の意識だと言えます。


私達の認識ではどちらも人間なのですから
この理解は何の違和感もありません。


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3. マニ教


「善と悪の二神の闘争」でこの世界を説明し、
「魂の不滅」と「死後の審判」、「神のもとへの再生」を特徴とした
「ペルシャのゾロアスター教」の流れにあります。


ところが、イエスの思想自体がこのゾロアスターの影響を受けた
「後期ユダヤ教」を背景にしているため、
キリスト教は「ゾロアスター教」と非常に近い関係にあることになりました。


したがって、そのゾロアスターの思想を引き継いだ思想は
キリスト教に容易に流れ込んでしまうわけで、
その結果として形成されたものが「マニ教」であると言えます。


この「マニ教」はキリスト教と多くの点で類似しているものの、
ゾロアスターを引き継いだ善悪二元論に基づく世界解釈となってくるわけで、
その点で唯一神をいうユダヤ教的理解と厳しく対立しました。


そして、ユダヤ教主義をとる最大勢力となった
キリスト教共同体に排撃されていった、となるわけです。

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この方のHPからも理解できますが、
ユダヤ教に天国と地獄の概念を持ち込んで
それを強く主張していたのはパリサイ派の人間達です。


この社会の中で王となり神となり振舞っていた、
今の天使達の一方側の人間達と


当初から創造主の法に従っていた
天使達の一方の人間達の争いは先日も記事で触れましたが、


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11448265603.html
天使とサタンの戦い 前編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11448268118.html
天使とサタンの戦い 後編


その弊害が天国と地獄であったことは繰り返しています。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11003292677.html
天国と地獄
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11003294416.html
天国と地獄 後編


拝火教(ゾロアスター教)はその流れを強く持った宗教ですが
天国と地獄の概念が支配者にとっての民衆管理に利用されていた事も
何度も繰り返し触れてきました。


決め事を守れば良い事があるがそれを破れば罰が下る。


そんな意識を与える事で当時の野蛮だった私達に対して
飴と鞭を与えることで人間管理をするために利用されたのが
天国と地獄の概念です。


そしてそれは今の社会でも似たような利用のされ方をしていることは
聞こえてくる多くの宗教の話からも理解できます。


善と悪に関しては昨日の記事で取り上げた通りですし
私達を心もってエゴに従って生きるのではなくて
魂へと意識を向けるための主張でもあると理解できます。


更にマニ教では
「魂の不滅」と「死後の審判」とを主張していますが
これはそのままイエスの教えである創造主の法につながる物です。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11269525578.html
続・宇宙の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11324048053.html
続・宇宙の法則 VOL2 輪廻と転生の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11328167085.html
続・宇宙の法則 VOL3 意識の経路


私達の実態である魂は半永久を生きる存在であり
器としての肉体を取り替えては繰り返し転生を繰り返すことになる。。


そして死後の審判と天国と地獄と煉獄についての表現を
私達風に解釈すれば


まず、死んだ時に私達はそれぞれがその魂のその時の状態により
評価されてそのカルマや進化の状態を持って
転生先を分類されることになります。


その生での課題を果たしきった人間は覚醒へと導かれ
死後は天国(もっと高度な惑星)へと記憶を持っての転生をする事になり、
その時私達は永遠の命を感じる事になります。


課題を果たせなかった人間は魂の意識を感じることも出来ず、
天使達の社会と比較すれば地獄とも言える私達の社会に再び舞い戻ること。


この社会での人間の意識は地道に創造主の法からかけ離れ
常に悪くなっているのですし、その転生の行き着く先は魂の消滅です。


更に煉獄に関して言えば、
地球よりは意識が高い星で尚且つ記憶を持っての転生には至らないような
レベルの星への転生と受け止める事も出来ます。


結果その場所は進化の過程での天国への通過点となります。


つまりマニ教の教えはイエスの教えと価値観を異にするものでは
有り得なかったという事になります。


先日の記事でも取り上げましたが
お釈迦様もイエスキリストもマニも
私達を導こうとした先は同じ方向だったということになります。

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4. ユダヤ教主義


結果的に「キリスト教正統派」となった共同体の立場であり、
今日にまで続いてくるキリスト教の基本的立場となります。


ここでは、イエスが救世主キリストであることは
「ユダヤ教聖書に予告」されているとします。


従ってイエスの神とユダヤ教の神は全く無矛盾的であり、
ただユダヤ教徒の誤解の解釈があったに過ぎず、
ユダヤ教の神とはイエスの神にほかならないとします。


そのため神の讃歌はユダヤ教の「詩編」にあるとしてそれによって
イエスの神を讃えておかしくない、
となるわけで、今日殆どのキリスト教の会派がこの立場となっています。

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聖書の実態を難しくしているのが旧約聖書の”裁く神”です。


私達の理解では、それは神や王と名乗って
この地球社会を支配し戦争ごっこを繰り返していた
人間達の弊害でもあったと言うことです。


旧約聖書の中には二人の神が出てきます


モーセの神と言われたヘブライ人達を
エジプトから救い出し独自の戒律で管理していた神と、
天使達が演じた詩篇や箴言などに出てくる愛に満ちた神です。


天使達の争いがそのまま旧約聖書に反映されていた事を
理解できれば、神について論争する必要もないのですが


私達の知識や常識には、
「太陽系の人間達がこの社会の歴史に介入していた」
と言う記録も事実もありません。


それが旧約聖書の神とイエスの父なる神とを混同する原因となっているのです。


イエスキリストはユダヤ教を重視していたと言うのは誤りです。


イエスキリストが導こうとしていた人間達が、
ユダヤの神として”戒律の人格神”を重視していたことからも


イエスはその神の教えを理解した上で、
それを信仰している人間達を真の創造主へと導こうとしたと解釈すべきです。


そのためにも天使達は自分達が演じ語った神の予言や、
預言者の予言を利用してそれを実現させることで


まずはイエスキリストが救世主である事をユダヤ教社会に
認めさせなければならなかった。


そのためにもイエスはユダヤの教えを引用して
彼らに理解を求める必要があったのだと思います。


そしてイエスは頻繁に聖書を引用していました。


それは自分が聖書を誰よりも理解していることを示すことで
人々の信頼を集めるためでもあったはずです。


例えば、熱心なイスラム教徒の町の中に入って
全く違う神を説いた時にそれに耳を貸す人間はいないはずです。


イエスは賢明な方法として、彼らの神を理解しその戒律を理解したうえで
彼らに自分こそが民の待ち望んでいた救世主と認めさせて


その上で認めてくれた人間達には、
創造主と言うイエスの父の話へと導いていったと
理解すれば良いと思います。


天使達が演じた神や預言者による預言は
彼らにとっての予定でもあったわけです。


そしてイエスはそれを実践して見せた。


聖書の中で頻繁にイエスが預言の成就を口にしていたのも
それとは無関係ではないはずです。


イエスの例え話の中には、厳しいままの姿の神を
語った場面もあったはずです。


当時のユダヤの厳しい神を前提としている人間には
そんな例え話も有効だったのだと想像しています。


もしも無宗教の人間達の中でイエスキリストが神を語ったならば


イエスが自ら語っていた
「万物に差別なく平等に愛をくれる存在」としての
創造主を語り続けたのではないでしょうか。


それを熱心なユダヤ教徒の社会で実行しても、
無条件でついてくるのはイエスの奇跡を見て
ありがたいと思った人達だけです。


信仰を大切にしているユダヤ教徒を解き伏す事は出来なかったと思います。


”ユダヤの神”と旧約聖書に出てくる天使達の演じた
”創造主”をしっかりと分類している人間達は他にもいます。


トーラーとされるモーセの三部だけを聖典としているのが
今現在のパリサイ派の人間でしょうし


タルムードを無視しても
聖書ではトーラーに出てくる神こそが彼らの神ではないでしょうか。


天使達が演じていた神を彼らは信仰してはいないと言う事は
両者を別の神だと認識している意識でもあるのだと思います。


ここでのユダヤ教主義の内容はイエスの教えに照らして決して間違ってはいませんが、
イエスキリストがユダヤ教をそのまま重視していると勘違いした事が
後々の悲劇へと繋がって行くのだと認識できます。


昔からの慣習に慣れ親しんだ人間達が、
ユダヤ教の戒律を重視しながらイエスの教えを理解しようと勤めたことが


キリスト教がユダヤ教重視、旧約聖書(モーセの神)重視の
間違った方向へと進んでいく原因だと認識も出来ます。


イエスの神はユダヤの神と別だと言うことを
イエスが明言できなかったことが災いとなっているのかもしれません。
(明言すればユダヤ教徒の理解が得られない)


そしてそれはパリサイ派にも利用された可能性もあります。


真のイエスの教えを隠蔽するためにです。


ユダヤ教的キリスト教は、
重きの置き方次第で実質ユダヤ教となりかねないものだからです。


つまり従来のユダヤ教徒が
旧約聖書の戒律を額面どおり受け止めて実行していたように


ユダヤ式の戒律主義に慣れ親しんだ人間の間では、
イエスの言葉を額面どおり受け止めて実行する事で
自分達が天国にいけると信じる風潮がおきる事になります。


イエスの教えは事の本質を重視していました。


それが今ではキリスト教が、ユダヤ教の形式重視へと変貌していることは、
イエスの教えが今の社会に正しく伝わっていない事からも
認識できます。


そしてこのユダヤ教的キリスト教が
長い歴史の中でイエスの教えの中心として君臨し
現在のキリスト教の大元となっている事も言うまでもありません。


彼らはイエスの教えの”形式的側面”をパウロよりも
マニ教よりも、そしてグノーシス派よりも重視して守っています。


しかし他の教えがイエスの教えの”本質”を理解しているのに対して
ユダヤ教的キリスト教はイエスの教えの実質を理解しているとは言えないのです。


イエスキリストが言っていた、
「貴方がたは見ているが理解せず聞いているが悟らない」


の弊害をそのまま象徴しているのが
今の世に伝わっているキリスト教だと言うことになります。


私達が心に囚われている限り、
そしてもう一つの意識の経路としての魂の実態を認めない限り


その過ちは訂正されることもなく、
今後も「簡単で誰でも理解できる誤ったイエスの教え」が
この社会の主流となり続けていくのだと思います。


しかしその解釈したイエスの教えである筈のキリスト教が、


イエスの教えに矛盾して、他人との調和ではなくて
争いや混乱を歴史の中で繰り返してきた事実を私達は認めるべきです。


分派している全てのイエスの使徒は、
皆が共通認識を持つべき時に来ていると私は思います。


そしてキリスト教の神が唯一創造神である以上
すべての宗教に関しても同様の導きが大切なのではないでしょうか?


第二回バチカン公会議でヨハネス23世が語った様にです。


私達は共通認識を持つことが出来れば
お互いを認め合い理解する事も出来ます。


そのためにたった一つ、
魂の実態を認めてそれを理解出来れば良いのです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

P.S.


当初は小さな違いだったごとの教えですが、
一方は魂を追求しての真理だったために変わることなく一定の思想を
どの時代にも持つことになった反面、


一方では心を持って人間の価値観を膨らませて行ったがために
両者の距離はどんどんと広がる事となり


今ではかけ離れすぎた既存の価値観は、
真理を受け入れることができなくなったのだと言うことを
私や兄弟姉妹であれば理解できるかと思います。


これがこの社会の悲劇なのです。


しかし既存の価値観と地位や名誉や権力に
慣れ親しんだ人間達は50年前にはそれを真理と気がつきながら
受け入れるのを拒絶したのです。


しかしこの社会は
今度こそそれを受け入れて認めるべき時に来ているのではないでしょうか。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11437272683.html
創造主の意識  心と魂を使用する
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11438199880.html
御霊の齎すもの、魂とテレパシー

更にP.S.


ユダヤ工作員が挑発してくるので
室内でアダムスキーの本の中の
金星と土星のマスターの言葉を朗読してやりました。


私は十分自分の課題を果たせた気分です。


一年前に宇宙の法則の記事を書いたときに比べても
マスターの言葉がとてもよく理解出来る様になっている自分に
地道な成長を感じることにもなりました。


皆も機会があれば
私の過去記事を読み直して見てほしいです。
私達の理解はとても進化しています。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11009631713.html
宇宙の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11014121674.html
宇宙の法則VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11010770220.html
宇宙の法則VOL3
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11018677686.html
宇宙の法則VOL4
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11019751277.html
宇宙の法則VOL5
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11020622328.html
宇宙の法則VOL6
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11021051601.html
宇宙の法則VOL7
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11023679833.html
宇宙の法則 VOL8
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11040691515.html
宇宙の法則 番外編 私達の進化
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11023680441.html
宇宙の法則 VOL9
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11025364625.html
宇宙の法則 VOL10
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11027180903.html
宇宙の法則 VOL11
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11083897948.html
宇宙の法則 番外編 その2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11029560737.html
宇宙の法則 VOL12
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11269525578.html
続・宇宙の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11106785529.html
イエスの転生
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11108616691.html
宇宙の法則 番外編 イエスの言葉 前編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11108619928.html
宇宙の法則 番外編 イエスの言葉 後編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11182629834.html
転生の法則と入れ替わりの法則


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11269525578.html
続・宇宙の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11324048053.html
続・宇宙の法則 VOL2 輪廻と転生の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11328167085.html
続・宇宙の法則 VOL3 意識の経路
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11328374408.html
続・宇宙の法則 VOL4   心とエゴ 
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11329172018.html
続・宇宙の法則 VOL5 想念とオカルト
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11329829392.html
続・宇宙の法則 VOL6 イエスの奥義前編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11330640319.html
続・宇宙の法則 VOL7 イエスの奥義後編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11337381990.html
続・宇宙の法則 VOL8  引き寄せ・波動の法則と因果の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11331426927.html
続・宇宙の法則 VOL9 ”因”なるもの
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11332405290.html
続・宇宙の法則  VOL10 元素とフォーム(形態)
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11339078609.html
続・宇宙の法則 VOL11 細胞と想念
tou



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宗教をとても論理的かつ冷静に見つめて評論しているHPを見つけました。


http://www.ozawa-katsuhiko.com/10christ_hikari/christ_hikari_text/christ_hikari03.html


個人の意見に関しては参考にする必要は無いと思いましたが
(現実としての理解をしようと勤めている内容なので)
歴史的事実の記述に関しては興味深い物がありました。


私達が読めば恐らくは「この宗教のここがおかしい」とか
「ここは人間の理解を求めるための例えだ」などと解釈しながら
過去の宗教の歴史を見つめることが出来ると思います。


そこには私達が魂という意識の経路を共通認識できなかったことによる
弊害の歴史が見えてくるはずです。


一方この方の冷静な分析から
お釈迦様、イエスキリストそしてマニ教のマニとの共通点も見えてきます。

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マニ教では、ゾロアスターは当然のこととして、
「イエス」や「仏陀」をも真理を悟った先駆者として認めています。


ですからマニ教が何を問題にしていたかが良く分かるわけで、
この三人に共通している思想、つまり
「地上の、欲望に基づく罪と悪の世界・苦しみの世界からの救済・脱却」が
問題だったと言えるわけです。
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マニと言われた人間も覚醒者恐らくは天使達の転生でしょうね。


結局この時代に地球社会に対してあらゆる地域で
天使達は創造主の法を私達人間に対して布教した。


もしくは多くの天使達の転生がこの社会の中で覚醒しては
創造主の法を語っていたのだと思います。


しかしそれは、心を持って天使達の教えを理解しようとした
人間達の誤った意識によって捻じ曲げられ、
真理が淘汰排除され続けて来たと言う事もここからも見えてきます。


そして私達の想像通り、
既存のキリスト教はユダヤ教的キリスト教。


当初の旧約聖書の戒律から抜けきる事が出来ず
イエスの真の教えを理解する事も難しい
そんな教えが主流とされてしまったために


イエスが三次元と四次元
つまりは心と魂のあり方についての教えを語っていた事を理解し難い状態へと
キリスト教世界を導いてしまったのだと思います。


これが偶然なのか、イエスの教えを嫌った
ユダヤ教徒の意図なのかは認識することは出来ませんが


元々多くの人間は心の意識の経路を持って
見える物こそを認識しては自分の心の好むものをこそ
価値観とする習慣がありますので、


古くからの習慣から抜け切れなかったユダヤ人が
イエスの教えを受けた後も昔の習慣を捨てきれず
それを融合させた結果ではないかとも想像できます。

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私達の意識の知覚を妨げているものとして

私達の思い込みと慣れ親しんだ習慣があると思います。


それは自らの心の改善をもたらす行為に関しても
反映されていると思います。


一つ目には心の改善をもたらす為に
心を持ってそれを実行しようとしていることです。


私達の心の模範となるような解答は
この社会では選別されて表示されてはいないはずです。


私達の社会では真理と誤った真理が入り乱れ
そのままでは模範解答とは成り得ない物ばかりだと思います。


しかしその誤った模範解答を正しいと看做して
それを自分の真理として心の価値観として認識し


心をそれに従うように改善して行っているのが
今の私達の姿だと言えます。


本当の解答を選択し得る意識としての魂の存在、
100点満点の解答を備えている魂の存在を
模範とするのではなくて、


外部から心を持って選択し心に植えつけ価値観に自らを従わせても
そこで実現される自分自身は
結局は人間の作り上げた価値観に心を持って従う存在となります。


その間、魂の意識を認識する事もなければ
恐らくは普遍的な真理の存在をも意識する事もないと思います。


私達は魂からの解答を受け止めて
それを自らの心の価値観へと置き換えねばならないのに
それが実行出来ていないのです。


とりわけ神を認識できない人ほどこの傾向は強いと思います。


そしてもう一方の弊害は神を認識していながらも
それを心を持って理解し認識しようとする事です。


私達が創造主の存在を認めていても
それを自分にとってのお助けのアイテムのような意識を持っていたり


上述の様に心をもってその創造主の意志とされた
人間の作り上げた価値観を自分の価値観に置き換えても


結果的には私達が認識するのは
心が認識できる、
人の作ったイメージとしての神であり戒律である事になります。


私達は意識の経路としてのもう一つの存在である
魂の実態を理解しない限り、
正しい戒律を自分の心に刻む事は出来ないという事になります。


勿論、自分のエゴである心を鍛え、改善し、心の暴走を止める事は
私達にとっての大切な課題だと思います。


私達の用に到らない人間達が、人としてのスタート地点に立つためにも
私達覚醒者と理解者は勤めるべき事の中心でもあります。


しかしその時に私達が心の価値観を誤った価値観で置き換えれば
私達は心を改善しているつもりで
実際は改善出来ていないと言う事にもなりかねません。


一方で私達は創造主の法を理解し創造主の存在を信じていますが
それを心を持って神なるものを理解したり神を意識しても
それに対して創造主の意識が反映されないことはいうまでもありません。


創造主を意識するという事は、
そのまま私達が魂というもう一つの意識の経路を意識する事です。


それを実行しなければ
結果的には心を持って外部からの神の情報を取り込んで
自分達が作り上げたその神を拝む事になるのです。


私は未だに自分では人格を持つ、意識を持つ存在としての
創造主を感じることは出来ません。


そこにあるのは単にエネルギー、想いの塊としての
大きな存在だけです。


私は以前自分では神の存在を否定できず
一方では宗教勧誘を拒み続けていた事があります。


その時に私はこんな事を語っていました。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10701745409.html


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Date: Fri, 9 May 2008 07:07:49 +0900
俺の宗教は
キリスト教の慈愛の精神を持って
仏教のように万物に神の魂が宿ってることを前提に考え
神道のように神と一対一で向かい合う
一人教ですw
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神道や仏教の宗教としての捉え方が間違っていますが
私の想いは理解していただけるかと思います。


私は以前は自分が何の宗教をしているのかと言われたときに
”宇宙教”とか”一人教”と称していました。


私のそんな感覚に適合している宗教に勧誘された事もありませんし
当然頑固者の私はそんな誘いを拒絶し続ける事にもなりました。


慈愛の精神を持ったのが創造主で、万物にはその魂が宿っていて
神と人間は一対一で向かい合うものだと言う意識は
当時から変わってはいません。


そして人格としてではなくて
膨大なエネルギーと法則としての創造主の存在を感じていましたし、


20年前に読んだ藤原さんの「宇宙からの使者」で
アダムスキーが説明していたスペースブラザーズと
その主張する創造主こそが私にとっての神の姿でもあったわけです。


そして今でも私の拙い精神では
創造主の姿は認識することは出来ません。


天使達の話とアダムスキーの話を元に


アダムスキーが書かせたと言う
恐らくは創造主を髣髴させたオーソンさんの肖像画
と称されている姿にそれを感じ


自分のイメージの中で時々作りあげるくらいのものです。


http://www5a.biglobe.ne.jp/~UFO/Adamski/Palomar/garden.3.htm


しかし人間の作り上げた神のイメージを持っている人間は
イエスキリストの姿や、白いひげを称えた神の姿を想像しては
それを神として拝んでいるはずです。


そこで、すでに私達の意識の向いている方向が
異なっている事にもなります。


私達は心を持って作りあげている神のイメージを
心を持って拝んでいるからです。


本来であれば私達は創造主を感じるためにも
魂の意識の経路こそを意識しなければなりません。


心の価値観の改善にしてもそうです。


私達は心を持って心の価値観を改善しようと努めても、
心を持って創造主の意志を感じようとしてもそれは無理だと言うこと。


心の価値観を書き換える模範となり得るのは
私達が理性とも表現する意識の延長であり、
そして私達が魂と呼んでいるものだけです。


それは創造主の分身であり、創造主の意志であり、創造主の想いであり、
そこにこそ全てを知っている”至高の英知”が現れているからです。


創造主は全ての摂理を作り上げた存在であり、
宇宙空間での全ての記憶を持つものであり
全ての存在の命を吹き込むエネルギーでもあります。


もちろん今現在の創造主が
直接その意志を持って私達に関わっているいるのではなくて
それは創造時の残存思念と言うエネルギーとして存在しているようです。


そんな創造主の一部でもある私達の魂=御霊が、
何もかも正しい解答や


私達の見たことも聞いた事もない事を知っているのは
当たり前なのです。


ただ私達はその意識を正しく把握する事が出来ません。


第一に魂の存在やその機能を理解してはいません。


更にはテレパシーを受け止める事にも資するその魂は
時には地球の他の人間の想念を受け止めますし
一方では創造主の意識を伝えても来ます。


さらには天使達の想いをも届けてきます。


私達が創造主の意志を直接受け止めそれと認識するのは
至難の業なのだと思います。


しかし間違いなく、
心が認識できる視覚・聴覚・味覚・嗅覚では認識できない真理を
魂こそが持っているのです。


私達はそこから受け止めた意識で心の価値観を置き変えていく事と、
魂という意識の経路を強く感じることが出来るようになることを
求められているのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私達の社会が作り上げている善と悪についても
今日先述のHPを見たことで理解できるものがありました。


善と悪という概念は本来創造主の意志には存在してはいません。


創造主の意志を表現すればそれは私達が”善”と呼んでいる物の
集まりだと言う趣旨をアダムスキーも触れていました。


しかし創造主の作り上げたはずのこの社会には
私達に”悪”と呼ばれるものが存在しています。


つまりは善と悪の概念は私達人間が作り上げたものであり、


恐らくはこの社会の中では、当初天使達が
地球社会の人間に物事を”正しいか正しくないか”を教える時に


それを善と悪と言う判りやすい象徴を与える事で
学ばせたの物が名残となっていて
今の社会にも残る事になったのではないでしょうか。


創造主の法の下では、
「その行為や想いが正しいか正しくないか」
という意識が存在するだけであり


善と悪と言う分類は存在してはいないことは
私達も学んではいます。


根底から悪い者は創造主の分身としての魂を
持ち続けることも出来ないのですし


存在することが出来ないはずです。


つまりはこの社会に存在しているものは
全ては悪ではない事になります。

しかし誤った想いや誤った行動は誰もがすることになりますし
それには個人差もありますが


あまりに極端になれば
それは魂へも大きく影響を及ぼすと言う話にもなってくるのだと思います。


ただここでも私達この社会の人間は
自分達の心を持ってそれを認識しようとしたために、


善と悪という概念を、独自の価値観として
変貌して行ったのだと思います。


どうやら聖人達が私達に教えた善と悪の根源は
このようなものだったようです。

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「善・悪二元論」


 これは宇宙を対等な二つの原理「善=光」と「悪=闇」から説明するものですが、
宇宙にあるすべてはこのどちらかに属するとなり両者は全く相容れません。
たとえば魂は「善=光」に属し、肉体・物質は「悪=闇」に属することになります

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これは私達の創造主の法でも存在を認識している
陰と陽、光と闇といった


現実に存在していて否定出来ないその概念を
それぞれ善と悪として分類したものに見えます。


この分類では、創造主の意志の分身であり
私達の実態である”魂”は善であり
私達の魂の器であり、本能とエゴとを司る心は”悪”となります。


その分類を本当の善と悪と看做せば
とても今の社会の実態も理解しやすいことになります。


私達は善を求めるのであれば、先述のように
心の価値観を魂の価値観で置き換えることになります。


しかしここで弊害が起きます。


「私達は自分達の意識の経路として
心しか把握できてはいない」と言ういつもの大前提です。


絶対的な善というものが存在していたとしたら
それは魂という神の意志の分身ですし、
私達は善悪を判断するのであればそれを基準としなければなりません。


しかし私達は心しか使用できない状態で
それを持って善と悪を理解しようとします。


そして分類しようと勤めます。


元々が不完全であり、善ではない心を持ってそれを為すのです。


そして前述のようにそこには絶対的な解答はありません。


結果、私達は自分の心を持って善と悪を判断しようと勤めます。


その時に私達が作り上げる善と悪の概念は
私達の心の価値観によって決められることになります。


その価値観は人それぞれ異なるわけですから
私達はそこで共通認識としての善と悪を意識することは出来ません。


これは容易に理解できるはずです。


豚を食べてはいけないと言う戒律を持っている宗教にしてみれば
豚を食べている人間のその行為は悪です。


つまり例えば宗教を心の価値観としている人間は
その戒律を持って物事の善と悪を決定する事になりますし
それは宗教ごとに異なります。


勿論宗教をしていない人間であっても
更には同じ宗教組織の人間であっても、


その持っている多くの価値観が異なるのですから
善と悪の基準は微妙に異なってくることになります。


いずれにしてもその自分の価値観としているものが
絶対的なもの、魂の意志に従っているものではないのですから
人それぞれが異なった善と悪の基準を持つ事にもなります。


その結果似たような価値観を持っている人間同士が
それとは異なった価値観を持っている人間と
争うと言う構図が出来上がります。


つまり善と悪という意識を心を持って判断しようと勤めるために、
魂を理解できない人間社会の中では
それをも巡って争いが起こる事にもなります。


そしてそれがこの社会でも現実に続いているのは
言うまでもありません。


私達は本当の善と悪を区別など出来る資質もないのに
それをエゴを持ってしてみせては
新たな争いのネタとしているのです。


私達が魂という私達の実態であり
創造主の意識としての存在を理解できないが故の悲劇が
この社会では数千年前から延々と続いてきたことになります。


そして誤った価値観を持った人間で溢れる社会の中で
誤った価値観を持って判断した善と悪の概念がその基準となれば
その社会は本来の善と悪の概念を履き違えた社会にもなります。


それを導いていた人間達をイエスキリストは
サタンの会派と呼んだと言う事になります。


そんな人間の価値観が社会全体を覆っているこの時代
その中にどっぷり浸かっている私達ですし
その多くが魂の経路など理解できないのですから


誤りを誤りとも認識できなくなると言う話にも
繋がって来るのです。


根底から誤った価値観の上に作り上げた社会を
私達はその根底から作り変えることが出来るのでしょうか。


それとも応急処置をして見せて
回復したつもりで更なる誤りを重ねていくのでしょうか。


それを決めるのはこの社会の一人一人の人間の意志です。


私達の広報がそのために少しでも役に立てればと思います。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


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マタイ15章24節


しかしイエスは答えて
「私はイスラエルの家の滅びた羊以外のところには
遣わされてはいません」と言われた。


マタイ15章31節


彼らはイスラエルの神をあがめた。

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イスラエルの家の滅びた羊”と言うのは
間違いなく紀元前にアッシリアに滅ぼされた
古代イスラエル王国の民の事です。


そしてイスラエルの神というのは
バアル神ではなくて創造主と言う事になります。


何気なく見逃してしまいそうな内容ですが
イエスキリストはユダ王国に残り、


もしくは吸収されたイスラエルの民を導くためにその社会に生まれ、
福音をしていたと言う内容にも受け取れます。



つまり滅んだ古代イスラエル王国の民は
イエスの父なる創造主を拝んでいた事になります。

(万物に神が宿っている。。神道の源泉です)


ユダ王国の主流であった人間達の意識の改善は出来なくても
古代イスラエルの民の末裔はまだその資質があったと言う話に
繋がっていくのかもしれません。


ただ、血に拘ってはいけないと言うのが
私達の創造主の法での理解です。


どんな血を引いていようが私達の今の魂の資質こそが
創造主の法の下では問われる事になるからです。


地球の法則が其れを利用するのであれば
私達は正しいことを知らせることで
其れを牽制することも出来ます。


今日も聖書からイエスの言葉を一節だけ引用して紹介します。


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そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。
弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。


すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。
「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」


しかし、イエスは言われた。
「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、
ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。


神の家に入って、祭司のほかは自分も共の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。


また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、
律法で読んだことはないのですか。


あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。


『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』
ということがどういう意味かを知っていたら、
あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。

人の子は安息日の主です。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ここの引用は、例によって形式的な事や先祖伝来の習慣を重視して、
自分達の心のあり方を棚に上げては
他人の粗探しに余念のないパリサイ人に対して


イエスが実質を説いている場面です。


全体としての内容は何となく理解して頂けるかと思います。


気になるのは他の箇所でも引用されている


『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』


と言う言葉の”この場面”での意味するところです。


イエスの例えは複数の意味があります。


私達は其れを額面どおりに受け止めると
この聖人の言葉は理解できません。


私達は知恵にしても思考能力にしても
イエスと言う聖人の足元にも及ばないからです。


”この場面”での私の理解で説明してみます。


ホセア書では
「私は誠実さを喜ぶがいけにえは喜ばない」


とあります。

ここの意味は、


「神は自分の意志に対して誠実であることを望むが
自分に生贄を差し出すような行為は喜ばない」


とそのまま理解する事ができます。


と言うことはイエスは旧約聖書の言葉を
間違って引用しているかのように受け止めることになりますが、
そうではなくて


ここでイエスが表現したかったのは”創造主の想い”であろう事は
私達には理解できるはずです。


”誠実さ””哀れみ”もそして”慈しみ”
全て創造主の想いから強く感じることになる意志であることは
宇宙的意識、御霊の想い、魂の意志という事で散々説明してきました。


そしてこれらは私達が通常心を持っては
持つ事の出来ない想いになっていると思います。


ここでは”イエスの教え”である心のあり方、実質を大切にする意識と
従来の形式と戒律に拘るユダヤ教の意識を対照的に例えた物が
”哀れみ”と”生贄”と表現されていると解釈できると思います。


当時の戒律では、神が与えたとされる戒律を絶対的な物として
其れを破った人間は罰せられ、時には殺されることになったはずです。


その行為は神にそむいた人間を
神の戒律のために犠牲にする行為です。


旧約聖書を読めば判りますが、極端なことを言えば、


旧約聖書の時代の戒律がそうであったように
神がしてはいけないと言った事を実行した人間に罰を与える事で
神の怒りを買わないように勤めている行為だからです。


それは神に生贄を捧げる行為となんの相違もありません。


しかし真の神の意識は、
そんなことなど望んではいないと言うのが
ここでのイエスキリストの言葉の意味だと思います。


つまり創造主は人間誰もが創造主の法に立ち返って
悔い改めて生き方を変える事をこそ望んでいて


罪を犯している人間を見て、
其れを罰したいと考えるような存在ではないと言うこと。


罰を望んでいるのではなくて
その行為を見ては私達の至らなさを哀れんで
生き方を変えて欲しいと願っているという事になると思います。


当時の風潮では罪=罰の対象であったり
時には死をもって購う事になりましたが


創造主はそんなことなど望んではいなかった
と言う話に繋がってくるのだと思います。


私達の理解している創造主の法は、
私達に罰を与えるための物ではなくて
経験を通じて私達を覚醒に導くための物でした。


その意志は誤った事をした人間に罰を与えることを
望んでいるのではなくて、


その人間がその誤りから何かを学べばそれでよし。
其れが出来ないのであれば
学ぶための機会を与えてくれる存在でした。


そして其れが転生の法則に反映されると言うのが私達の理解です。


結果、創造主はその人間に課題を与えながら
正しい生き方へと導いてくれる存在だと言うことになります。


その意識には、自分のために戒律を破った人間を殺して欲しいなどという意識も
自分に代わって罰して欲しいと言う意識も存在してはいません。


創造主の法の元では
私達は創造主と一対一の関係を持っています。


私達が為した罪は、
自覚無自覚問わずに清算されることになるはずです。


それが創造主の法に従って正しくないことは
創造主の法の下では無自覚の行為であっても罪は罪だからです。


其れを学ぶことを課題として与えられるため、
私達は其れを学ばされられるための経験の出来る環境へと転生させられ


その中でその学習の機会を与えられる事になると言うのが
転生の法則の目的の一つだと私達は認識すべきです。


自ら学ぶことが出来なかった私達に、
更なる学習の機会として其れは与えられ
私達を覚醒、更には永遠の命へと導くものだと私達は認識しています。


私達はその中で時には苦しみながら何かを学んで
創造主の意志に導かれていくことになる。


心の価値観を経験と言う学習の機会を経て
そこから何かを学び変貌させながらです。


その過程で創造主が望んでいるのは
私達が罰される事ではないと言うことです。


創造主の想いは”永遠の命”だと
イエスキリストが言っていたとおりに


私達の誰もが創造主の法に導かれ
進化を果たしていく事こそを神は望んでいる。


自分が創造した物、つまりは自分の子供が
魚をくれと願っているのに蛇を与える親はいないと言う
イエスの言葉が其れを象徴していると思います。


其れを理解できない人間達が、自分が聖人でも義人でもないのに
自らを他人を裁く権力を与えられたものかのように振るまい


自分の心のあり方を棚に上げながら他人を罰しては
地獄社会を作り上げているのです。


サタン意識の人間の得意とするところは、
他人の小さな粗を探しては其れを間違いとして
その人間の全部を否定すること。


一方イエスの教えは、その過ちを
正しい方向へと誘導しようとするもの。


そして私達は誰もが其れを自らの意志で実行して
進化していくことを望まれているようです。


私達や兄弟姉妹のしている広報という手段は
実は必ずしも自分達にとっては良い効果を齎す物ではないはずです。


他人の学習の機会を奪うことにもなるからです。
(もちろん私達が知らせなければ覚醒できずに
消えていくような魂もあるとは思いますが)


そしてその影響を受けた人間が背負うべきであった試練は
どうやら広報をして覚醒へと導かせた人間へと
のしかかってくるものでもあるようです。


これに関してはヤコブの手紙第五章で触れます。


ただ、”生贄”の意識は
今でもそっくりそのままこの社会の中でも残っていて


多くの宗教の中では多くの人間達が罪と罰に元ずく、
神や戒律への生贄を備えることを
神の想いだと勘違いしているのだと思います。


そしてその習慣は今のところは
取り除かれる気配もありません。

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この写真は本当でしょうか。



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私は久々に感動して自分の感情を抑えなれなくなりかけました。


でも気になることがあるので
今日は「騙されたついでに夢を語る」


と言うことで少し触れます。


何が気になるかと言えばここでの写真に写っている
多数の母船らしきUFOの形が


以前にニビルに寄り添って飛んでいると言われ、
ニビルと共に撮影された宇宙人(エイリアン)の母船と言われるものと


この写真の母船の姿が似ているからです。


その意味では手放しで信じることは出来ません。


しかし一方ではもしかしたら本当に地球にとって危険な小惑星が過去に存在していて
其れを何とか起動を変えようと天使達の母船が伴走していた姿を


闇政府の傀儡が撮影し
「これが二ビルとそれに連なって飛んでいるエイリアンの母船だ」

と捏造していた可能性もあります。


天使達の動きはそのまま闇政府の嘘によって隠蔽され
捻じ曲げられるのが常なので
私も正直その区別がつかなくなっています。


その上に彼らは宇宙船も持っているはずですから
其れを利用しての捏造も可能です。


この写真に写っている母船と言われているものは
もしもこれが本当の写真であっても
少なくとも金星の葉巻型母船ではないと思います。


ただ、地球社会は今後、まずは火星を模範として
作り上げられると言う話をアダムスキーがしていました。

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火星は全くの技術惑星で、またきわめて知的ですが、そこの行政システムは宇宙的です。
そして地球がこれから応用し始めようとしている分配システムを持っています。
地球の国連は世界の物資の平等利用と世界政府を提唱していますが、
これは火星の段階に従うもので、一方、火星はさらに高度な惑星に従っています。
学校の進級制度と同じようなものです。

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火星系の母船かもしれません。


火星系の宇宙船に関しては私も知識はありません。


と言うことでここは完全に寝言だと思ってくれて結構です。


本当であることを仮定として触れれば、
私達が頻繁に警戒を促していた地震警戒の一つである
10月21の地震災害警戒の直前にあたる17日ころに


スペーズブラザーズ達が大挙して、
この日本の遥か上空に押しかけていたことになります。
(騒いだ記憶はあるのですがその関連コメントがほとんど見当たらないのです)


しかも葉巻型の母船52機でです。


金星の母船であればそれは一機に12機のスカウトシップ
(アダムスキー型UFO)を搭載可能な大きさだといいます。


私達の想像通り、彼らはこの地球社会を守っていた?


そして今回17日は日本の齎されかけていた地震を止めるため、
災害を止めたかも知れないことになります。


彼らのハイテクを持ってすれば
日本の地殻とマントルの境界を液状化することも容易でしょうし、
(マグネチュードの大きめな地震が実害を起こせていなかった原因である
激しい横揺れをしていた理由はそれではないかと想像していました)


彼らには電磁波を無効化する技術もあると思います。


私達が想像していたように、
ハイテク攻撃による人工地震や人工自然災害に対する防御を
彼らがしてくれていた可能性があることになります。


ただ、危険を冒してこの社会に、しかもこの日本の危機に、
それもそんなすごい数の母船を持って飛来してくれたとすれば、


闇政府の攻撃も、かなり激しい物が日本社会に対して
予定されていた事になりそうです。


それが今月17日周辺にもあったという事は
それが繰り返される可能性があったことになります。


そして何故に地球の法則は彼らに攻撃を仕掛けなかったのでしょうか。


母船相手では落とした時に証拠が隠蔽できないから?


もともと存在してはいなかったから?


それとも真っ向から向かい合った時には
太刀打ちできない事を彼らは気がついていたからでしょうか。


天使達が本気になればこの社会の全ての武器は無効化されるはずです。


その気になれば飛行機ごと分解してしまうことも出来るのです。


照射することで分子レベルにまで分解するような
そんな技術を彼らは持っています。


ただ、通常戦う意志が無い彼らだからこそ
地球の戦闘機に追いかけられては逃げ回っているだけです。


彼らは自分達の生存のために戦うことは絶対にありません。


しかしそれが創造主の法を捻じ曲げる事を防ぐためであったり
創造主の法を遵守するためであれば、


戦うと言うよりは結果的に自己防衛をして見せることも
あるかもしれません。


アダムスキーは火星の人間に関してはこうも触れていました。

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地球と同様に火星もその惑星上に存在した多くの文明を破壊したことがあるのです。
実は地球にやって来て地球人に戦争というゲームを教えたのは火星人でした。


現在火星人は地球人よりもはるかに進化して戦争という点を克服していますが、
また、さほど進歩していない面もあって、事あれば防衛態勢に立ち返るかもしれません。


彼らはそうするべき立腹の原因を持たざるを得ないでしょう。
 一方、金星や土星にはこんな傾向はありません。
火星は金星や土星と違って一方の頬を打たれたら他方の頬を差し出すことはしないでしょう

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勿論今は地球が攻め立てたりしなければ
火星は創造主の法を貫くでしょうし、


サタンの会派による魂の消滅へのローテーションから
地球社会の善良な市民を守るために防衛すると言う意味です。


それは勿論私の勝手な願望です。


彼らが熱くなってくれればそんな事もあるかもしれませんが、
現実的には地球社会が彼らの見えない援護をも無碍にするならば、
残されている事はこの社会を放置することでしょうね。


彼らは冷静だからです。


闇政府の地震の作戦実行中になるたびに
私への被害が酷くなる事を思えば


今月の18日頃から21日ごろにかけて
何かが進行していたことは間違いないと思います。


今回も何か災害が予定されていたのであろう事も
身近な関係者工作員の様子からも伺えましたが、


闇政府工作員達は余程私の事が邪魔だったのだと想像していました。


地震を引き起こしたい人間達にしてみれば
私や兄弟姉妹がネットで地震警戒を促し妨害する恐れがありますし、


地震を恐れている人間達にしてみれば、
地震の民達が私を暴れさせる事で
闇政府を挑発させている事に気がついています。


自分達の安定を保つためには何でもするでしょうね。


今回の話が本当であればですが、
地球社会への天使達の関与は未だ続く事になるのだと想像していました。


日本の危機に対して彼らが身を張って守るように働きかけたと言うことは
この社会には未だ守るべき物が沢山存在している事になると思います。


それはきっと、その中で暮らしている人間の意識だと思います。


変わることの出来ない人間達がいても、
一方では創造主の法へと立ち返りこの社会を改善していける人間達がいる。


きっとそんな可能性を、
彼らはこの社会に見出だしているのだと思います。


それが私の兄弟姉妹のような人間達かも知れませんし、
そんな意識を持っている、もしくは資質を持っている
他の人間達の存在のためかもしれません。


ただ、勘違いして欲しくないのは
【もしこれが本当に宇宙からの介入であるとすれば】の話ですし、


それを成したのはスペースブラザーズのはずです。


地球の法則の”友愛路線”の人間達が誘導しようとしている
「銀河連邦」ではありえないと言うことです。
(心無い宇宙人の一派の自作自演であれば話は別ですが)


アルジェリアの事件が私達の視線そらしである可能性は
そのタイミングからも否定するまでもなく
何か隠したいものが出来る予定だった事も想像できますが、


日本が天使達に救われた事に対する腹いせに
存在しない”アルカイダ”を名乗る人間達は
日本人を殺して見せたのかもしれません。


ボーイング787が外部から容易に故障できるように作り上げられていて
その時には墜落事故を予定されていたのだとしても
スペースブラザーズ達であれば其れを無事不時着させることも出来ます。


それらが視線そらしとして利用されていた可能性は
否定できません。


結果目に見えて大きな災害が起きなかっただけかもしれません。


もしも本当に葉巻型の母船が52機も日本に大挙して現れたのだすれば、
今後は闇政府はそれまでも自分達の架空の存在を美化するために
利用する可能性があります。


友愛路線が”銀河連邦”を主張して”太陽系の惑星の天使達”に触れないのは
結局は恐怖路線に全ての悪を押し付けては自分達が正義の味方を演じるためです。


(そして其の事によって太陽系の実態を私達に知らせずにすむからです。
金星や土星や火星ではなくてシリウスとするわけです。)


イルミネティーという架空の悪を倒して正義の味方役を果たすのは
闇政府のもう一翼であるからです。


その結果この社会には見せかけの平和が齎されることになりますし
真の支配者の実態は知られずに済むことにもなります。

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以前から繰り返しているように
私達は今でも三次元と四次元を同時に存在しているのです。


そして私達にとっての進化は肉体の物質的な変貌ではなくて
四次元的な意識でもある魂の経路を理解してそれに従って生きる様に成ること。


”バシャール”とか”銀河連邦”という、
アセションとオカルト絡みの地球の教えに騙される事なく


私達を見守り続けてくれている
太陽系の兄弟達の与えてくれた創造主の法を
しっかりと理解して自分達の真の進化に結びつけてください。


それこそが彼らに対しての恩返しになると思います。


彼らの想いは
【地球人の苦悩を光の前の暗黒の様に消すために
宇宙の創造主を地球の道しるべにしよう】です。


私達はこの肉体を持ったままで永遠の存在に成る事は出来ませんし、
肉体を捨てて魂だけで生きることも出来ません。


私達は永遠である魂を実態として
肉体という器を取り替えながら生き続けている存在だからです。


そして宇宙からの協力者達は私達と同じ人間。


しかも太陽系の中からこそやって来ています。


姿も性質も私達と何の違いもないのです。


あるとすればそれは科学力の発展とその精神性の高さだけです。


半物質の肉体を持っているわけでもなければ
エイリアンでもありません。


そして彼らは私達の事を常に見守り続けてくれています。


少なくとも聖書の創世記の内容の時代から延々とです。


更に寝言を続ければ、母船には葉巻型母船の他に
人間が5000人から搭乗出来る大型母船まで
存在すると言うのがブラザーズの話でした。


残念ながらそれは絶対に地球の大気圏付近には近寄ることはないそうです。

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最大の宇宙船は絶対に地球の大気圏内に入りません。
実際には、それらは地球から数百万キロメートル以内にはけっして入らないのです。
この巨大な宇宙船で旅行する数千の人々を危険にさらすことはできないのです。


というのは、もし地球で未発達な地球人の眼前に
着陸しなければならないような事態が発生した場合、
私たちの同胞が危うくなるからです。
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寂しいですがこれがこの地球社会の実態のようです。


当たりまえですが何事も戦いごとを前提として、
自分の身の安全保障ばかりを考えている愚かな人間に近づくことで


友好的な意識を示そうが
一方的に攻撃されかねないのがこの地球社会での実態です。


好戦的な性格である事は私達が一番良く知っているはずです。


未知の物や自分の理解を超えるものを恐怖し
自分と異なるものや目立つものを嫌い、
恐怖に打ち勝つためには戦うことを選択する。


そんな人間のすぐ横を通りかかれば
攻撃を受けることにもなりかねないのは
この社会の現実を見るだけで理解出来ます。


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今度は長いテーブルを隔てた真向かいの壁にかけてある大母船の絵が目についた。
私が乗っているこの母船を描いたものだろうかと考えてみた。
この思いが心に浮かんだとき、金星の小柄な婦人が訂正して言った。


 「ちがいます。私たちの母船はあれに比べるとひじょうに小さいのです。
あそこに見えるのは母船というよりも宇宙旅行都市とでも言う方がよいでしょう。
本船は全長が六〇〇メートルにすぎませんが、
あの長さは数キロメートルもあるのですから──」

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金星の葉巻型母船は600M程度の大きさの様です。


だとすれば今回の写真が本物だとすれば
日本のかなり上空を飛んでいた事になりますが。。


ところで、もしも彼らがこの社会に着陸することが出来たならば
私には是非とも叶えて欲しい夢があります。


それは私達の兄弟姉妹の誰もが考えることと相違ありません。


この社会の中で創造主の法を理解できる人間、
もしくは理解しようと勤め平和と平等を好む人間だけ
全く別の惑星へと移住させて欲しいという事です。


好戦的な人間と平和を望む人間が共に暮らせば
後者は前者によって潰される事になるのは目に見えているからです。


そして本来戦いを望まない人間まで
彼らの影響を受けて戦いに巻き込まれていく事にもなっています。


結果、記憶を持っての転生を果たせる人間は
殆どいなくなってしまいます。


この社会が地獄と化しているのは、一部の暴走している人間達が
其の社会をエゴによって作り上げ不平等と争いの場と化しているからですし


そんな人間達とはまったく逆の意識を持った人間達を
新しい太陽系の一つの惑星にでも連れて行って欲しい。。


勿論、無条件で進化することなく
天使達と共存したいなどと言うおこがましい事はいいませんし
私達は進化したければ創造主の法を学び続けることになりますが


その頃には自分達の実態を知った人間が
自分達の社会を天国にしようと勤めることもあると思います。


少なくとも今の社会よりはまともな社会が
そこでは作り上げられる事に成ると思います。


しかしこの社会はそのまま進めば
心無い人間ばかりの社会へと変貌しかねません。


其の場所に長く影響を受けていると
私達は誰もがいつしかそこに染まって魂をも消していく事になります。


でも其れでは環境に翻弄されて悪影響を受けている人間にとっては
あまりにも不条理だと思います。


新しく見つけた太陽圏にも今の太陽系と同様に12の惑星があるでしょうし、


今までがそうであったように、
地球社会の人間が天使達の兄弟であり続ける事が出来るように
其の中の一つの惑星で私達が暮らすことになれば。。


そんな事が実現すれば良いなと考えてしまいます。


勿論、奴隷としての一般人が必要である闇政府が
そんなことを認めるわけもなく


現実には、私達は地獄を体験しながら、魂を持って転生を果たすと言う
過酷な試練をくぐらねば成らないことになりますが


今の実態を見るに
其れをクリアできる人間は本当に少数だと思います。


でも闇政府は人工削減を唱えている人間達でもあるので
人口が減ると成れば其れを認めるかもしれない。。。


しかし一方では、
この太陽系の置かれている実態を知っている人間達ですから


自分の身が可愛くて仕方の無い人間達は
自分達こそが移住すべきだと言い出すかもしれません。


現実としては、まずは”若い”人間がどんな成長をしてくれるか
そして其の人間達がこの社会の中心に成った時に
どんな社会が実現されるか、


天使達もきっと其れを見守り続ける事に
成るのだと思います。


この社会に応援の想念を送り続けながらです。


私達は今の環境の中でそれを体験と信じて、
そしてその事が私達の魂を覚醒と進化へと導くのだと信じて
残りの生を送って行きましょう。


いつの日か私達も、新しい太陽系で
暮らす事になる事を夢見ながらです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


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P.S.


今日は脳への関与を午後から止めて貰えた事もあり

聖書を見て”閃いた”事がありました。


兄弟姉妹には聖書解釈の参考にして貰えればと思います。


イエスキリストと天使達が”天の御国”に拘っていたのは
記憶を持った転生により金星に生まれ変わる事を
意識させる事だけではなくて、


彼らイエスに従っていた人間達を、
人々の前から現実に自分達の社会へと連れて行く予定が
あったのだと思います。


つまりその人間は生きて天国を体験することになります。


「貴方がたの中には天の御国を見るまで
滅びることのない者がいます。」


というイエスが使徒に語った言葉が理解できず悩んでいたのですが、


それは「死んで記憶を持った転生をする」
と言う意味では説明がつきません。


イエスキリストは
「貴方がたの中には生きて金星へと行く人間がいます」


と言っていたのだと思います。


イエスキリストとスペースブラザーズは、本来、この現実社会の中では
私達が創造主の転生の法則を通らねば実現しない天の御国への入場を、
人々の前で目に見える形で実現して見せることで、


人々に天国に行きたいという想いを強く持たせるきっかけを
演出しようとしていたのだと思います。


後に聖母といわれたマリアに関しては
聖書の中では


「パリサイ派の悪意ある噂で気狂い扱いされたイエスを
迎えに来た母親」でしかありませんでしたが、


アダムスキーの話では、
イエスの死後その兄弟と共に”イエスにある者”となり、


生きて天に昇り(金星に行って)
その後再び地球社会で創造主の法を語ったと言う話でした。


マリアの本当の聖母伝説はそこから始まるようです。


その後マリアが再び金星に戻ったかどうかは不明ですが
天国に行って戻って来た人間が現実に居ると言う事になれば
”天の国”は現実として人々に受け入れられる事にもなります。


そしてそこに行きたいと言う動機は
彼らが創造主の法(イエスの教え)への
強い信仰を持つ動機にもなったと思います。


ただ、その計画が頓挫したか中断された事で、
おそらくは彼らがこの地球社会の中でも実行しようとしていた
天の御国の話は消えてなくなったのだと思います。


イエスキリストは「”力ある方の横の座について
再びこの地球社会にやってくる”」と触れていました。。


聖書では天使達が神を演出していたのですから、
金星のマスターが神を演じてその横にイエスキリストが立って
当時のパレスチナ社会の中で王と宣言し


12使徒と共に12の部族を裁く計画があったのだと思います。


自らが「ユダの王」と名乗り、そして「12使徒が12の部族を裁くと」言ったのは
そのような演出を当初は予定していたためだと認識する事ができます。


それは全てこの地球社会の中における
”最後の審判”の”演出”を予定していた事を意味するのだと思います。


しかしそんな演出をするには条件があります。


その場に集う殆どの人間がイエスの教えを信じて
それを受け入れて実行していることです。


モーセの時代には当時ブラザーズの敵対していた人格神が
それを”厳格な神と戒律の民の国”として実行して見せたわけですが


それを今度はイエスキリストが天使達と共に
”愛の神とそれを崇拝する民の国”
として演出する導きだったのではないでしょうか。


しかし現実にはイエスの死後は
黙示録の記述にあるように、そしてパウロの手紙からも判るように、
多くの人間がイエスの教えから離れ一方では誤った教えが蔓延し


更には元々のユダヤ教から
イエスの教えに進めなかった人間も大勢いました。


そして彼らの計画は実現できずに終わったのだと思います。


彼らが”天の御国が近づいた”と表現したのは
もしかしたらその演出の時が近かったからであり、
私の以前の解釈とは意味が異なるのかもしれません。


つまりはイエスが”私はすぐにやってくる”と言っていたのは
イエスの十字架の貼り付けの後にすぐに
その実行の予定があったからだと思います。


例えばこの社会の中で世紀末の演出をして、
現実社会の中での最後の審判を演出してして見せて、
一部の人間を神の国に選ばれた人間として
人々の前で天使達と共に宇宙船で天へと旅立たせる。


(地上から人間を空中に引き上げる演出も可能だと
アダムスキーは自らの体験で語っていました)


この社会の人間の意識を改善し
そのままこの社会を天国と同様な世界へと
変える予定もあったのだと思います。


つまり、イエスの言っていた天の御国は
その場で一部の人間よって体験させ


一方では転生を待たずしての楽園も
パレスチナを発祥に実現される予定があったということだと思います。


そしてその後にはこの地球社会を
パレスチナ中心にイエスの教えで変えていこうと言う
意識を持って天使達と共に実行したのが


2000年前の彼らの計画だったかもしれないと言うことです。


もしも実現していたら天使達の援護を受けた新しいイスラエルは
敵を寄せ付けない屈強な国になっていたのかもしれません。


最近聖書を読んでいて私がどうしても理解できなかったのは、


なぜに誰もが生きている状態で天の御国を迎えるとか、
2000年前に既に最後の審判が近づいているかのような誤解を受ける話を、


創造主の法を理解しているイエスキリストが
繰り返し触れ続けていたのかと言うことでした。


当時の人間に難しい事を一つ一つ教えるよりも、
それを演出して目で見せることでの効果を
イエスと天使たちは期待していたのかもしれません。


そこでも「後のものが先になる」様を
多くの人間が目撃することになったはずです。


金持ちで権力者である人間が宇宙船で天に上がっていくのではなくて、
この地球社会では小さき物とされている人間を
彼らが宇宙船で天国と言っていた場所へと導く事でです。




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【神】


ネットで掲示板を見ていて気がついたのは
”神”という概念を
とても狭い視野で認識している人間が多そうだと言うことです。


世間一般の用語としても、近年は何かに特出した才能を持つ人間を
”神”と称す傾向があるようですし、


ゲーマーでも特定のゲームで”神”がいて
特定の知識を詳しく知っている人間を”神”と呼ぶ、
そんな使用のされ方もしているようです。


それは特定の才能に長けた存在と言う話であって
”神”という表現は混乱を起こす原因にもなると思います。


彼らは達人であって神ではありません。


そしてイエスキリストが言うように神は完全です。


この社会の摂理を作り上げた存在なのですし、
特定の才能を示す存在ではありません。


世間認識程度の意識で神を見つめると
神はそこいら中に大量に存在していることになります。


(万物には創造主の意識が存在しますから
創造主の創造物の全てが神の分身でもありますが)


尊敬される対象は皆が神とされかねません。


しかし私達が神と呼ぶべきは


この宇宙空間のすべての法則を作り上げ、
この空間のすべての存在を作り上げ、
そこに生命を吹き込んだ存在です。


それは私達には人格として認識できず
エネルギーや法則の集合体として認識される事になると思います。


それを”意識”と表現すれば、
私達はそんな意識としての存在が一つしかない事を
認識しなければいけないわけです。


この三次元世界と四次元世界の中で
神と呼ばれるべき存在は一つの意識だけ。


私達が創造主と呼んでいる存在こそがそれです。


この社会に神が蔓延するのは
私達が狭い視野しか持っておらず、
広い範囲の物事に意識を向けていない事に由来するはずです。


自分達が神と信仰する存在は、
自分達だけではなくて他人をも作り上げた存在です。


キリスト教徒を作っただけでなくて、
仏教徒もイスラム教徒もユダヤ教徒もその他の
宗教徒も無宗教の人間もすべてを作り上げた存在なのです。


その存在は地球だけでなくて、太陽系は勿論
宇宙空間のありとあらゆる惑星と恒星をも作り上げました。


その神は地球社会の特定の宗教のための神ではないということです。


そんな神が特定の人間達には幸せを与えて
そうでない人間に不運を与えるような存在だと
認識すること自体が大きな間違いで


全ての創造物を自分のエネルギーを持って命を吹き込んだその存在が
どうして個人的に創造物を差別するなどという事があるのか?


それは人間が勝手にその神を自分の味方であると
思い込んでいるだけで、


現実には創造主は誰にでも平等に働きかけていることに
私達が自覚していないだけです。


どんな宗教を信仰していても
その人間の想いと行いが創造主の想定しているものであれば


創造主はそんな人間に力を与えてくれますし
私達を進化の道へと導いてくれます。


しかしどんな宗教を信仰していても
その人間の想いが創造主の意識とかけ離れたものであれば
その人間は創造主の法の恩恵を受けることは出来ない。


これが創造主の法の側面のはずです。


それを独自の教えに拘り、人的価値観までそれに添えて
時には争いごとにまで神の助けが自分達にあるのだと思い込んで
勝手に振舞っているのが私達の社会の人間なのです。


この宇宙空間の中で考えても、
その中の塵にしか満たない地球社会の中で、


その中で更なる分割をしているちっぽけな私達人間達が独自の神を作りあげ、
もしくは神を自分にとって都合の良いものと思い込み
時には自分達の行動を正当化するためにそれを利用している。。。


私達の人間としての意識は
創造主の意志からかけ離れている事に気がつくことなしにです。


地球社会の中の特定宗教だけが正しい教えを実行していて
その人間達だけが救われるとか天国にいけると考えるならば
宇宙空間の他の全ての人間は天国にはいけない事にもなります。


彼らは地球社会の特定の宗教など知らないからです。


それ以前に神が自分達の独自の神であるならば
何故に万物に対して同様にその恵みを齎してくれているのか、


そしてその法則の恩恵と障壁の影響を
万人に齎しているのか考えてみれば良いのです。


特定の神は特定の人間達にだけ
雨を降らしてくれて太陽を昇らせてくれる存在なのでしょうか?


惑星に太陽の日差しを与えているのは
宇宙空間の全ての惑星において大昔から繰り返し続いているものです。


それは特定の神が特定の人間や特定の惑星に対して
実行している行為ではありません。


自分達の特別な神は自分達に一体どんな特権をくれて
どんな特別の恵みをくれると言うのでしょうが?


その神を信奉しそれに対して貢物や生贄を掲げれば
神は喜んでくれる存在なのでしょうか?


創造主の法により私達に与えられる恵みは
人間の進化により与えられる能力であり、


その進化を齎すためには創造主の法則に従って生きることが
私達に求められているのですから、


創造主は全ての人間に平等に進化の機会を与え、
一方ではそれを実行する人間には進化を齎すと言う事で
その報酬を与えてくれていると理解すべきです。


神は特定の人間達のための存在ではないのです。


人間を好きと嫌いで区分し
敵と味方と認識する人間にとっては
他人が神と呼んでいる存在すら敵となるのかもしれません。


自分は神を信仰していながら
神を敵視すると言う矛盾まで生まれます。


もしもこの社会の中で特定の神を信じて
その教えだと言われる事を実行してそれで魂が進化しているのであれば
その教えは創造主の法に近いのでしょう。


しかし少なくとも創造主の意識には
分割や分裂そして差別に戦いなどと言うものはないのですから


それを強く意識して生きている人間達が
創造主の法に従って生きている事にはなりません。


ただ、その生き方の指針を見つけるにも
私達はその資質が足りなすぎます。


そのためにその指針を示してくれたのが
多くの聖人でありイエスキリストだと言う理解を
私達は持つべきです。


彼らが導いていこうとした先に存在しているのは
同一の意識である創造主だと言うことです。


私達の社会が大量に神を生み出しているのは、


結局は神と言う存在を認識するときに
それを地球レベルや国のレベルで認識しているからではないでしょうか。


創造主は地球だけの神ではありません。


まして特定の宗教の神でもありませんし

宇宙空間全てを創造した存在であり万物の生みの親です。


そしてそんな存在が宇宙空間の全ての創造物に対して
進化と調和を願っている。


自分が作り上げた万物が相互依存して生きていくことを
望むのは当たり前ですし、
自分の創造物が進化することを願うのも当たり前のことです。


視野の狭い人間ほど、知識の少ない人間ほど、神と言う存在を限定的に、
そして独自の価値観で作り上げる傾向があると思います。


それは私達の生きている空間や現象の一部しか見ておらず
それを全てであると認識しているか、

もしくは自分の価値観でしか物を図る事が出来ない証拠だと思います。


小さい人間ほど創造主を理解することは出来ない。


そして心の濁った人間ほど、
創造主を認めることが出来ないのだと思います。


私達の魂が創造主の意識の一部で
自分の中に創造主の意識があると言うことは
自分の行為の全ては神が認識していることになります。


悪意ある人間や自分の罪を認めたくない人間は
それを認める事が不快なのです。


しかし私達はその行為と想いの全てを
創造主の意識でもある私達の魂によって認識されています。


「髪の毛の数すら創造主は知っている」


と言うイエスキリストの言葉は
張ったりでもなければ大げさでもないのです。


そしてその行為とその想いは他人から見えなくても
創造主には常に筒抜けだと言うことにもなります。


悪事を隠しとうしてこの人生を終えても

審判=転生の法則の時には


隠しているものも全て曝け出されて
そこでしっかりと適用を受けることになるでしょう。


「自分は神に従って生きていた」
「自分は何も悪いことはしていない」


そう思っているのは自分であって
それを判断するのは創造主の意志であり、


そこでの判断基準は、
その行為や想いが創造主の正しいとしていることか
どうかと言う話にもなってくるはずです。


私達は独自の神の幻想を拝むのではなくて


万物の生みの親の創造主が存在しているとした時に
それが望むであろう行為をすることを求められていると
理性的に判断できるはずです。


しかし知恵が足りない私達ですから
それに対して知恵を与えてくれた聖人たちの言葉からも
私達はその生き方を学ぶことも出来ます。


それは彼ら聖人を神として崇めるのではなくて
それを指導者や師と看做す事でです。


私達は魂の意識の経路を使用しては
創造主の意志を感じる練習を続けていますが


その指針を得られない人間は
イエスの教えを参考にすれば良いと思います。


勿論いつも言うように
それは限定列挙の戒律として認識するのではなくて


持つべき心のあり方などの創造主の求めている生き方の
実質をそこから理解するためにです。


私が頻繁に引用する聖書の一節を含む内容を紹介します。


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わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、
天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。


その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。
『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、
あなたの名によって悪霊を追い出し、
あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』


しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。
『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』


だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。


雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、
それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。


また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、
砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。


雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。
しかもそれはひどい倒れ方でした。」

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イエスキリストはここで天の御国に入る資質の人間を
具体的に説明してくれています。


”天の御国”と言うのは私達の理解どおり
”記憶を持って転生する事が出来る他の惑星”の事でありますが


イエスはそこに転生することの出来る人間は
イエスキリストの言葉に従い創造主の御心を実践した人間だと言っています。


勿論人間が自分達で作り上げた大量の戒律を守ったとしても
それは御心を実践したことにはなりません。


御心と言うのは創造主の意志のことだからです。


私達人間が自分達の価値観を持って作り上げる戒律は
それが道徳に則った物であれば
限りなく創造主の法に近いことになりますが


心を暴走させ独自の価値観を持つにいたり、
創造主の意識からかけ離れた人間が自ら作りあげている戒律は


それが法律であっても組織の戒律であっても
創造主の意志からかけ離れる事となっています。


例えば独自の戒律を持って他人を裁く戒律は問題外です。


裁くなというイエスの大切な教えを守っていないからです。


戦うなとか愛し合えと言っているのがイエスの語った
創造主の意志ですが、


この社会では争いが蔓延していますし、それを正当化する教えまであります。


彼らの行為は神の御心に従っている物では
あり得ないという事になります。


私達は創造主の意志といえる物を、時には道徳や理性に基づいて
さらには私達が理解している魂の経路の意識から受け止めて
それを実践することを求められている。


そしてそれは知識として知っていて語られる口先のものではなくて、
行動を伴うこと、実践することを求められているのだと
イエスはここで触れているわけです。


イエスキリストの示した言葉を、
そのまま限定列挙として理解するのでは


旧約聖書の戒律をそのまま実行すれば義とみなされると理解していた
2000年前のユダヤ人と同列になってしまう事も
私達は注意しなければなりません。


創造主の意志は限定列挙で現すことの出来るものではなくて
その時々で意志を持って判断している行動まで規制するものです。


そしてそれは一つ一つを戒律として
文章にすることが出来るものではありません。


ただ、心のあり方としてその指針は
イエスキリストの生き方とその教えを理解すれば嫌でも見えてきます。


そしてイエスは自分に倣ってそれを実践しろと言っているのです。


私達は自称イエスの使徒としてそれを実践している最中です。


まだまだ学ぶべきことは山ほどあるでしょうし
私達の勉強は今始まったばかりです。


この生での覚醒をきっかけに記憶を持った転生へと進み、

本当の意味での進化を果たしていきましょう。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】





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形式と実質と説明しても
判らない人はいつまでたっても理解することは出来ないかも知れません。


聖書の記述を読んでも、旧約聖書は形式に過ぎず
その実質を戒律としているのはモーセの10戒くらいのもので、


人としての神が語ったと言ってもその内容は
その当時の人間を管理するための手法にしか見えませんでした。


イエスキリストがそれを批判したのは当たり前で
先祖伝来のしきたりを守ることで
誰もが魂を進化させて天国(永遠の命)を得られるほど容易なものであれば


この社会には落第生など存在していないことになります。


天国と言われている社会にいけると思っている人間は多くても
実質そこに入っていく人間が少ない事は
イエスの記述からも判る筈です。


私達が自分の足りなさを理解できないから、
自分が如何に小さくてその癖に傲慢であるかを理解できないから
自分が持っている知識と価値観をすべて正しいと思い込み


自分が義であると思い込むことに由来している
何故にそんな簡単なこともわからないのでしょうね。


脳機能一つとっても完全ではありえない事
科学でも証明しています。


誰もが創造主に与えられた機能をその一部しか使用できてはいない。


つまりそれだけ見ても私たちの進化が足りないことは明らかです。


それとも多くの人間は創造主は無駄な脳細胞を
作り上げたとでも思っているのでしょうか。


その一部しか使用できない私達が
神が正しいとしているものをすべて理解して
実践できるわけがないと言うことを何故に理解できないのか?


結局は自分と言う存在を大きく評価して
勘違いしているからではないでしょうか。


形式ごとを実行してそれで人間進化が果たせるものならば
今頃この世界には争いなどないでしょう。


進化した人間であれば争いごとなど
望むことはないからです。


争いや戦いを前面にして生きている人間は
進化どころか闘争本能と分割意識に支配された
負の想念のとりこです。


その負の想念こそを私達は魔の意識と認識しています。


それに満たされて行動するようになったときこそ
その人間は悪魔と表現されるべきです。


創造主の法が難しいのはそれが理性や道徳や
目に見えない想いを使用することになるからだと思います。


何も意識しなければ私達が心にとらわれ
心の想いで生きる事になるのは説明するまでもありません。


そして実質ではなくて形式に拘る人間は
今日も自分の価値観で他人を量っては争いと分割を続けている。


でもそれを諭す手段は私たちにはなさそうです。


彼らは幼子の如く謙虚な気持ちになれないから。


そして自分が正しいと言う大前提、
自分が義であり善人であるという大前提があるからです。


イエスキリストの言っていた救われる人間の資質とは
かけ離れているからです。


悪人こそが救われると言うのは悪いことをした人間が救われるのではなくて
自分が罪深い人間だと自覚できる人間こそが救われると言うこと。


そして子供のような謙虚な気持ちで
先入観や既存の価値観を捨ててイエスの言葉を
理解しようとする人間が救われると言うこと。


たった二つのハードルを見ても
私達の多くはそこで躓いてしまうことになります。


彼らにはイエスの教えが宗教ではないことが理解できないでしょう。


この社会で宗教と言うときには
組織ごとの分割があり、
そこには人間の戒律が混ざりこむことになります。


それを創造主の法以上に重視する私達の社会には
天国と言われる社会とは無縁の人間が多いと言うことになるはずです。


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パウロが魂から与えられる創造主の律法の受け止め方に関して
食べ物を例にして説明してくれている箇所があります。


この記述からもパウロがイエスの教えを正しく理解していることが
私達には判ると思います。


パウロは食べ物に関して
その飲食の善悪で争っていたであろう人間達に
アドバイス含めてここの記述をしたのだと思います。


形式的に”これは食べていけない”とか
”これは食べてよい”とか争う事に関して


自分なりの意見を創造主の法に照らして
語っている場面です。

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あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。
その意見をさばいてはいけません。


何でも食べてよいと信じている人もいますが、
弱い人は野菜よりほかには食べません。
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信仰の弱い人と言うのは、一つには創造主の意志を
しっかりと受け止めて理解することができない人。


つまりは魂からの意志を受け止めることが出来ない人のことでしょうし、


もう一つには食事一つで信仰を失ってしまうような人の事と解釈出来ます。


ここでは想念の話を除外して説明しますが、
「全てのものは清い」と言うのがイエスキリストや
その使徒達の見解だと思います。


つまり、創造主がその意志で作り上げたものの中に
清くないものは存在しない。


何を食べたからと言ってそれが信仰を妨害する事はないというのが
本質的なイエスの教えであり、


それを食べる食べないと言うことで
救われたり魂を消したりするようなものではないと言うことです。


私は以前にも触れましたが
私達には改善すべきことが大量にあります。


それは個人個人によって異なるものですし


アル中の人間であれば酒をへらす事で
ギャンブル中毒の人間もギャンブルをやめることで
魂を高めることが出来るはずです。


私達は聖人になろうと言うのではなく
魂の経路を意識できるようになり結果覚醒へと
進み魂の進化を続けて行くことこそが求められています。


太陽系の天使達であれば想念の与える影響まで考えて
菜食中心だったりすることで更なる進化を果たせると
意識することになりますが


私達は改善すべきものは山ほど持っていて
しかもその全部を改善することなく覚醒へと進むことになります。


天使達の進化が50%だとすれば
私達は10%ラインに到達することで覚醒して
次の記憶を持った生へと進むことが出来るようになります。


つまりその時私達は創造主の法において罪とされることを
一切の禁止する事ができなくても
十分に覚醒へと進むことが出来ることになります。


天使達でさえ犯す罪を
私たちが消し去れるわけがありません。


逆にいくら自分に形式的な戒律を大量に課したつもりでも
自分の大きな弱点が改善されなければ

10%ラインへと到達する事も出来ないことになります。


ここでも形式ではなくて実質なのです。


あまりにも精が付きすぎていて
その状態では暴力的になったり、性的なものへと
没頭するような人間がいたとすれば


その精力を抑えるような食事が効果的なのは言うまでもありません。


食事に関しても形式ではなくて実質的に捉えるべきだということです。


殺生の概念は万物に共通です。


人間が特別で人間が偉く動植物は下等であるという意識は
創造主の方の元成り立たないはずです。


つまり人を殺しても動物を殺しても植物を摘んでも虫を殺しても
全ては魂あるものの実態を壊すことに他なりません。


しかし私達はこの社会の万物を使用して生きることを認められていますし
そしてその中で調和を実現しながら進化することを期待されています。


そして私達は誰もが殺生といわれる行為抜きには生きてはいられません。


虫は意図的に殺しても良いが
動物はそれが自分達が生きるためにでも
殺してはいけないと言う理屈は成り立たないのです。


ある動物は聖なる動物であり
ある動物は食べても良い動物だ。


などと言う価値観は人間であった神が作り上げた戒律であり
そこには実質など伴ってはいないわけです。


無益な殺生は認められないのは
創造主の法の下当たり前のことだと思います。


しかし魚は殺しても良いけど動物は殺してはいけない
と言う話にも実質は見えませんし


聖書の中でモーセの神が語ったような
特定の動物は食べても良くて特定の動物は聖なるものなどという思考も
創造主の法では勿論存在してはいません。


私達は元素の表れであり神の表現である
万物を自由に使用することが認められていると言うのが
金星のマスターの話でもありました。


しかしそれは万物に対して支配者として
横暴に対応してよいと言う意味ではなくて


例えば私達がむやみに毛皮を欲しがって
漁を続ければその固体が絶滅させるようなことになります。


狩るのであればその分それを繁殖させるようなことをしなければ
この社会の調和を保つことは出来ません。


それ以前に進化した人間は
毛皮など欲しがることもないと思います。


さらに私達の進化には元素レベルの進化があります。


マスターが重視していたのはこれでした。


動植物を構成している元素は今度はその一部が私達の内部に取り込まれ
そこで人間の細胞となり今度は人間としての体験を始めることになります。


元素は植物や動物から人間にまで高められたことにもなるわけです。


進化を果たした元素は、その後は人間が死んだ後には
再び動植物に利用されることになります。


その時に利用された動植物は進化した元素を持って
構成され以前よりも更なる進化を果たすことになる。


私達の肉体は単なる魂を入れる器に過ぎず
その器を時には壊さなければ生きていけないのが動物であり
人間だと言うことになります。


殺生という行為が殺戮を楽しむために実行されるのを
正当化することは出来なくても


私達人間が生きていくためには必要な
この社会の中での”意識の低い必要な現象”として存在するのだと思います。


信仰の強い人間であれば、
そして肉食を罪と認識していない人間であれば
それはその人間にとっての罪にはならないとパウロは語っているわけです。


一方では信仰が不安定な人間であれば
どんな小さな要因でもそれを妨害する可能性のあるものは
排除したほうが良いことにもなります。


そんな人間は肉食をせずに野菜を食べているのだと
説明しているのだと思います。

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食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、
食べない人も食べる人をさばいてはいけません。
神がその人を受け入れてくださったからです。

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肉食をしても魂の意識から創造主の意志を感じることが出来る人間が、
菜食をしていて、肉を食べると魂を進化させれないような人間を
侮ってはいけないし


肉食を罪であると決め付けて
菜食している人間が肉食をする人間を
裁いてもいけないとパウロが語っています。


私達にとっての戒律は本来他人に押し付けるものではないと言うのが
創造主の法=生命の科学を学んでいる私達の理解です。


戒律は個々の人間に対して印象として、
そして食べ物に関して言えば身体の変化
精神状態の変化として与えられ

私達はそれを察して自らに課す事になります。


それは万人に対して共通の物ではなくて
その個人個人にとっての戒律であり


その人間にとって魂の覚醒へと進むための
優先順位が存在していると言う話も取り上げました。


創造主の法を理解しようとする人間は
私達が道徳としてもともと持っている意識は当たり前として


個々が覚醒するために、そして進化のために必要とされる戒律を
それぞれが自覚して持つことになります。


その内容は元々のその人間の資質によって異なるものですし
進化のための優先順位の高いものから実践されるべきものです。


つまりそれは道徳を除けば
他人と共通する戒律とは限らないのです。


それを理解しなければ、そして裁くなという戒律を理解できなければ
私達は自分の価値基準で他人を裁くことになりますし
結果既存の宗教やユダヤ教と同じ事を実行することになります。


私達が100%になるための戒律に
肉食禁止と言う戒律が存在していたとしても


10%満たせばよい私達に与えられる戒律の中には
それは存在しないこともある。


つまりはそういうことです。


10%どころか創造主の下へと帰る事さえ出来ていないのが
この社会の殆どの人間だと言うことを理解して
私達は自分に対してこそ謙虚であるべきです。


創造主の法に落第生であるからこそこの社会に存在しているのに
他人を裁くなどおこがましいと言うことになります。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。
しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。
このしもべは立つのです。
なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

他人の下僕とありますが、
勿論これは自分同様、神の下僕である他人のことです。


他人と自分の関係は創造主を通しての関係であり
自分を裁くのもその主人である創造主であって
他人を裁くのもその主人である創造主であり


それを裁こうとする貴方は一体何様ですか?

とパウロが言っているのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、
どの日も同じだと考える人もいます。
それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。


日を守る人は、主のために守っています。
食べる人は、主のために食べています。
なぜなら、神に感謝しているからです。


食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これは言うまでもなく安息日のことを言っています。


昔ながらのユダヤ教徒が安息日を重視した習慣を持ち続けていたことで
信者の中で意見が分割したのだと想像出来ます。


以前は家畜や奴隷の話に例えて説明しましたが

もしかしたら一週間働きつめて疲れた人間で
一日安息しなければ疲れが取れない人であれば


疲れの蓄積が肉体的にも悪影響を及ぼし
精神的にも負担を齎し進化の妨害をすることになるかもしれません。


そんな人間が安息日を重視していたとしても
それは認めるべきですし


逆に安息日などなしにどの日も同じであると考えて
暮らしている人がいても


それで精神の進化の妨げにならないのであれば
それも認められるべきだという話につながって来ます。


そしてここでも問題となるのは守っている人間が
守っていない人間を罪と看做すような習慣です。


形式ではなくて実質。


これを繰り返し触れて起きます。


パウロはここでは個人のその信仰を尊重しています。


安息日を守ることも
本人は神のためにそれを実行しているつもりですから
それは正しいことであり


肉食をしている人もそれを神の行いをするための
身体維持のために食べているのですから
それは正しいことであるとです。


そして食べてはいけないと創造主から戒律を受け止めたと感じて
それを実行している人間も創造主の法を守ろうとしているのですから
それは正しいのだと言うことです。


その想いが大切で
目的が創造主への信仰ということになれば
それは誤りとはいえないと言うことになるかもしれませんし


とにかくつまらない事で争うなというのが
パウロの本音だと私は思います。


食に関しても安息日に関しても形式を重んじている以上
それが私達の精神に齎す効果は殆ど期待できないからです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、
また自分のために死ぬ者もありません。


もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。
ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。


キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、
その主となるめに、死んで、また生きられたのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私達は誰もが自分の心を持って自分の人生を自分のために生きていると
勘違いしていますが、私達の元々の存在は創造主の意志の分身であり

それが目的としているのは進化と調和でした。


つまり私達は創造主の分身としての役割を果たすためにこそ
本来存在していることになります。


しかしその中で私達は自分の意志を与えられることで
それぞれが独自の表現と経験をすることを認められ


その体験による喜びや刺激の中で自分と言う意識を培うことを
認められていると考えれば良いと思います。


一方では元々の大目的が存在していて
それが私達がこの宇宙空間に置いて調和を果たすことですし
自分が進化して神に近づいていくことです。


つまり私達は自分のために心のエゴを持って生きているのではなくて
魂のために魂の意志のために魂の進化のために生きていることになります。


そしてその魂は元々が創造主の分身ですし
私達は創造主のために生きていると言うことにもつながってきます。


ここでは神を尊敬して表現していますが
私達は与えられた人生の経験を楽しむことも出来るのですから


それは強制ではなくて進化を続けていく中で
結果的にはそのようになると言うことだと解釈すれば良いと思います。


キリストについては神聖化するための記述と理解ください。


そしてイエスキリストの復活については
私の記事”入れ替わりの法則”を参照して頂ければ
科学的に謎が解けると思います。


天使達の持っている科学力の存在がイエスを蘇らせた、


ただしその肉体はヨハネの福音書にあるような
十字架に貼り付けられた時の体ではないはずです。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟を侮るのですか。
私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。


次のように書かれているからです。
「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、
わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私達は個々の人間が皆、創造主の法の適応を受け
転生の法則の適応を受ける立場です。


私達と創造主の関係は一対一で向かいものであり
自分の魂と向かい合うことになるのがおそらくは転生の法則だと思います。


私達は自分達の魂を持って裁かれるのであって
私達が心を持って他人を裁くような関係にはないということ。


神でもない人間、まして創造主の法が理解できないゆえに
暴走し他人を裁いているような行為自体がおかしいのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こういうわけですから、私たちは、
おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。


ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。
いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、
つまずきになるものを置かないように決心しなさい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
同じ創造主の法を守ろうとする人間同士の中でも
お互いの価値観をぶつけ合うとそこには混乱がおきますし
先述の通りに私達には他人を裁く権利などありません。


そしてここにあるように他人を躓かせるようなことは
避けねばなりません。


弟子を沢山持っていたであろうパウロは
自分の飲食が弟子の信仰の妨げになるのであれば
それすら自制すると他の手紙で触れていました。


誰もが強い人間ばかりではなく
理解の乏しいものも存在している。


そんな人間の理解の妨げになること、
信仰の妨害になることは避けましょうと兄弟姉妹に語っているのです。


私も理解者とか他の覚醒者のために
肉食をやめるべきなのでしょうか?(苦笑)


時々は肉を食べていますが(鳥肉やハム)
私は肉食禁止を自分の今現在の戒律にはしていません。


それが自分の信仰に良くないと言う印象がないからです。


ただ、食べると余計に電磁波攻撃が酷くなっている
可能性はあるかもしれませんね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、
それ自体で汚れているものは何一つないということです。
ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここでパウロもイエスの理解をもって
それ自体で汚れているものは存在しないと言っています。


万物は創造主の意識から生み出されている。


創造主は汚れたものを作り上げたのでしょうか?


【汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。】


宗教の戒律で”豚は汚れているから食べてはいけない”と言われたことで
”豚は汚れている”と認識した人にとっては
豚は汚れたものとなります。


そんな価値観を持っていない人にとっては
豚は汚れてはいないわけです。


つまりは私達が作り上げている価値観が
あるものを汚れたものと認識し、あるものを聖なるものと
認識させていることにもなります。


それを聖であるとか汚れているという選別をしたのも
創造主では無くて人間の価値観であり


最初にそれの価値観を持った人間が好き嫌いで判断した価値観を
私達が与えられて持っている可能性が高いのです。


人間の昔からの習慣や言い伝えを自分の価値観にすることで
物事に偏見や先入観を持って評価している証拠でもあります。


ただ、豚に関しては私も気になることがありますが
それには触れないでおきますね。


イノシシが豚の野生化したものではなくて
イノシシを遺伝子操作で豚を作り上げた可能性です。


何千年前のことかは想像もつきません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、
あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。


キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、
あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

イエスの死によって創造主の法に導かれた人間に対して、
食べ物の戒律で争うことで信仰を妨げてはいけませんと
パウロが語っています。


天使達の社会に置いては想念レベルまで考えて
何を食べるかと言う問題は大きな話になってくるかもしれませんが


創造主の法の入り口にも立っていない人間は
食べ物一つで良くなったり悪くなったりするものではないと言うことを
言いたいのだと思います。


私達が持つべき多くの戒律、実践すべき多くの戒律を思えば
そんなことは些細な事だという話にもなってきます。


ただ、自分が覚醒のボーダーラインである自覚のある方は
肉食は避けたほうが良いと思います。


しかし忘れてはいけないのは
繰り返しますが大切なのか事の本質であり
それが貴方の進化に与える影響です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、
そしられないようにしなさい。


なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、
義と平和と聖霊による喜びだからです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

想いこそが重視されなければならないのが
神の国、創造主の戒律なのですから


自分が正しいと感じていることで
他人にそしられないように気をつけなさいと言うことです。


そしられることで心に意識が向くことにもなりますし
私達はわき道にそれることにもなるからです。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、
また人々にも認められるのです。


そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、
お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


つまらない事で争うのではなくて平和に役立つこと
そして自分の魂の進化に役立つと感じることを
追求していきましょうとパウロが触れています。


私達は自分の進化の程度により
自らに戒律を増やす機会を持つことになるはずです。


それが印象からの物であっても
体験や自分の精神状態から判断できるものであってもです。


私達が戒律として持つものは他人を裁くためのものでも
世の中の人間を評価するためのものでもなくて


自分の進化に役立つためのものだと言うことを
忘れてはいけないと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。
すべての物はきよいのです。
しかし、それを食べて人につまづきを与えるような人の場合は、悪いのです。


肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、
そのほか兄弟のつまづきになることをしないのは良いことなのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

肉を食べることで信仰心が薄れたり
凶暴になる人間がいたとすればそれをしないのは良いことですし


酒を飲むことで他人に迷惑をかける人間であれば
禁酒をすることは良いことだという例えです。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。
自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。


しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。
なぜなら、それが信仰から出ていないからです。
信仰から出ていないことは、みな罪です。


--------------------------------------------------------------

ここでは信仰に関して
それを魂から受け止めることの出来ない人間を前提に

そんな人間に譲歩する形で説明しているのだと思います。


神への信仰を持てと言われても
その戒律を受け止めることの出来ない人間は
従来の信仰を強く意識することになります。


しかしそれが神のためだと信じているのであれば
それを自分の信仰として持ちなさいと触れているのです。


勿論私達は創造主の法、イエスの奥義を正しく理解していますから
既存の教えを鵜呑みにしてはいけませんが


昔からの自分の信仰を持っていた人間がその信仰を容易に捨てることも出来ませんし
自らそれが正しいと確信する時がくれば、それを継続すれば良いのですし
間違っていることに気がつけばそれを捨てれば良いのだと思います。


【疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。】


「これをしてはいけない」という印象を受け止めて
戒律とすべき人間がそれをする行為は罪だといっています。


私達の正しいことと正しくない事との判断の基準は
魂の意志によりますし


それと照らして誤っていると自覚できる行為をすることは
全てが罪なのだとパウロは説明しているのです。


長くなりましたが、
ここはパウロが私達の持つべき戒律のあり方について
食べ物を例に判りやすく説明してくれている箇所だと思います。


そしてその内容は実質に飛んでいて
私達、創造主の法を学ぶものにとっても
整合性のあるものとなっています。


イエスキリストが


「自分の目の前の梁に気がつかず
他人の目の中の塵を取らせてくださいという」


という表現で、


自らの大きな罪に無自覚でありながら
他人の小さな罪を自らの価値観で裁く人間に関して
取り上げていましたが


私達は道徳をもって他人に批判的な想いを持つことがあっても、
自分独自の戒律を持って他人を批判的に見ることだけは
絶対に避けねばならないと思います。
(私がそうです)


私達の独自の戒律はあくまで私達個人が進化のために
優先すべきものであると認識できるからです。


そして自分達の小さな器を考えれば
自分が創造主の法に立ち返る事をこそ優先すべきなのですし


私達赤点の劣等性が難易度Aの難問(食事や想念の領域)を解けたからといって
肝心の道徳で点数が取れなければ
合格点(覚醒)に到達するわけではない事を理解すべきです。


人として当たり前のことを当たり前にできるように勤めること
そんな事さえも難しい事となっているこの社会の中で
私達はその当たり前の事を理解し実践できるように勤めていきましょう。


私達はそれで及第点(10点)に達するはずです。


そして次の生では30点を目指すのです。


それが私達の進化だと思います。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


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P.S.

「100点満点の10点取るのは簡単だ。」


それが学校のテストであればそうだと思います。


しかし私達が評価されるのは答案用紙の活字ではなくて其の魂です。


つまりいくら自分では素晴らしい事を実践していると思っていても、
同時に私達はエゴによって導き出された負の想念によって
魂(心かもしれません)を濁している分を減点している存在です。


殆どの人間が実質0点以下なのが
この社会の実態かも知れないわけです。


極端な話をすれば-200点の人間がいても
おかしくはないことになります。


其の中での及第点が如何に難しいかということ。
兄弟姉妹であれば理解して頂けるかと思います。


魂は創造主の想いの塊であり
私達の想いを反映するものでもあります。


私達は其の想いをこそ評価されている。


エゴを暴走させている分は減点が大量にあるわけですから、
10点が如何に難しいかということです。


判りやすく表現して見たつもりですが如何でしょうか?