自らに最適な戒律を課す VOL2 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。



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形式と実質と説明しても
判らない人はいつまでたっても理解することは出来ないかも知れません。


聖書の記述を読んでも、旧約聖書は形式に過ぎず
その実質を戒律としているのはモーセの10戒くらいのもので、


人としての神が語ったと言ってもその内容は
その当時の人間を管理するための手法にしか見えませんでした。


イエスキリストがそれを批判したのは当たり前で
先祖伝来のしきたりを守ることで
誰もが魂を進化させて天国(永遠の命)を得られるほど容易なものであれば


この社会には落第生など存在していないことになります。


天国と言われている社会にいけると思っている人間は多くても
実質そこに入っていく人間が少ない事は
イエスの記述からも判る筈です。


私達が自分の足りなさを理解できないから、
自分が如何に小さくてその癖に傲慢であるかを理解できないから
自分が持っている知識と価値観をすべて正しいと思い込み


自分が義であると思い込むことに由来している
何故にそんな簡単なこともわからないのでしょうね。


脳機能一つとっても完全ではありえない事
科学でも証明しています。


誰もが創造主に与えられた機能をその一部しか使用できてはいない。


つまりそれだけ見ても私たちの進化が足りないことは明らかです。


それとも多くの人間は創造主は無駄な脳細胞を
作り上げたとでも思っているのでしょうか。


その一部しか使用できない私達が
神が正しいとしているものをすべて理解して
実践できるわけがないと言うことを何故に理解できないのか?


結局は自分と言う存在を大きく評価して
勘違いしているからではないでしょうか。


形式ごとを実行してそれで人間進化が果たせるものならば
今頃この世界には争いなどないでしょう。


進化した人間であれば争いごとなど
望むことはないからです。


争いや戦いを前面にして生きている人間は
進化どころか闘争本能と分割意識に支配された
負の想念のとりこです。


その負の想念こそを私達は魔の意識と認識しています。


それに満たされて行動するようになったときこそ
その人間は悪魔と表現されるべきです。


創造主の法が難しいのはそれが理性や道徳や
目に見えない想いを使用することになるからだと思います。


何も意識しなければ私達が心にとらわれ
心の想いで生きる事になるのは説明するまでもありません。


そして実質ではなくて形式に拘る人間は
今日も自分の価値観で他人を量っては争いと分割を続けている。


でもそれを諭す手段は私たちにはなさそうです。


彼らは幼子の如く謙虚な気持ちになれないから。


そして自分が正しいと言う大前提、
自分が義であり善人であるという大前提があるからです。


イエスキリストの言っていた救われる人間の資質とは
かけ離れているからです。


悪人こそが救われると言うのは悪いことをした人間が救われるのではなくて
自分が罪深い人間だと自覚できる人間こそが救われると言うこと。


そして子供のような謙虚な気持ちで
先入観や既存の価値観を捨ててイエスの言葉を
理解しようとする人間が救われると言うこと。


たった二つのハードルを見ても
私達の多くはそこで躓いてしまうことになります。


彼らにはイエスの教えが宗教ではないことが理解できないでしょう。


この社会で宗教と言うときには
組織ごとの分割があり、
そこには人間の戒律が混ざりこむことになります。


それを創造主の法以上に重視する私達の社会には
天国と言われる社会とは無縁の人間が多いと言うことになるはずです。


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パウロが魂から与えられる創造主の律法の受け止め方に関して
食べ物を例にして説明してくれている箇所があります。


この記述からもパウロがイエスの教えを正しく理解していることが
私達には判ると思います。


パウロは食べ物に関して
その飲食の善悪で争っていたであろう人間達に
アドバイス含めてここの記述をしたのだと思います。


形式的に”これは食べていけない”とか
”これは食べてよい”とか争う事に関して


自分なりの意見を創造主の法に照らして
語っている場面です。

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あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。
その意見をさばいてはいけません。


何でも食べてよいと信じている人もいますが、
弱い人は野菜よりほかには食べません。
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信仰の弱い人と言うのは、一つには創造主の意志を
しっかりと受け止めて理解することができない人。


つまりは魂からの意志を受け止めることが出来ない人のことでしょうし、


もう一つには食事一つで信仰を失ってしまうような人の事と解釈出来ます。


ここでは想念の話を除外して説明しますが、
「全てのものは清い」と言うのがイエスキリストや
その使徒達の見解だと思います。


つまり、創造主がその意志で作り上げたものの中に
清くないものは存在しない。


何を食べたからと言ってそれが信仰を妨害する事はないというのが
本質的なイエスの教えであり、


それを食べる食べないと言うことで
救われたり魂を消したりするようなものではないと言うことです。


私は以前にも触れましたが
私達には改善すべきことが大量にあります。


それは個人個人によって異なるものですし


アル中の人間であれば酒をへらす事で
ギャンブル中毒の人間もギャンブルをやめることで
魂を高めることが出来るはずです。


私達は聖人になろうと言うのではなく
魂の経路を意識できるようになり結果覚醒へと
進み魂の進化を続けて行くことこそが求められています。


太陽系の天使達であれば想念の与える影響まで考えて
菜食中心だったりすることで更なる進化を果たせると
意識することになりますが


私達は改善すべきものは山ほど持っていて
しかもその全部を改善することなく覚醒へと進むことになります。


天使達の進化が50%だとすれば
私達は10%ラインに到達することで覚醒して
次の記憶を持った生へと進むことが出来るようになります。


つまりその時私達は創造主の法において罪とされることを
一切の禁止する事ができなくても
十分に覚醒へと進むことが出来ることになります。


天使達でさえ犯す罪を
私たちが消し去れるわけがありません。


逆にいくら自分に形式的な戒律を大量に課したつもりでも
自分の大きな弱点が改善されなければ

10%ラインへと到達する事も出来ないことになります。


ここでも形式ではなくて実質なのです。


あまりにも精が付きすぎていて
その状態では暴力的になったり、性的なものへと
没頭するような人間がいたとすれば


その精力を抑えるような食事が効果的なのは言うまでもありません。


食事に関しても形式ではなくて実質的に捉えるべきだということです。


殺生の概念は万物に共通です。


人間が特別で人間が偉く動植物は下等であるという意識は
創造主の方の元成り立たないはずです。


つまり人を殺しても動物を殺しても植物を摘んでも虫を殺しても
全ては魂あるものの実態を壊すことに他なりません。


しかし私達はこの社会の万物を使用して生きることを認められていますし
そしてその中で調和を実現しながら進化することを期待されています。


そして私達は誰もが殺生といわれる行為抜きには生きてはいられません。


虫は意図的に殺しても良いが
動物はそれが自分達が生きるためにでも
殺してはいけないと言う理屈は成り立たないのです。


ある動物は聖なる動物であり
ある動物は食べても良い動物だ。


などと言う価値観は人間であった神が作り上げた戒律であり
そこには実質など伴ってはいないわけです。


無益な殺生は認められないのは
創造主の法の下当たり前のことだと思います。


しかし魚は殺しても良いけど動物は殺してはいけない
と言う話にも実質は見えませんし


聖書の中でモーセの神が語ったような
特定の動物は食べても良くて特定の動物は聖なるものなどという思考も
創造主の法では勿論存在してはいません。


私達は元素の表れであり神の表現である
万物を自由に使用することが認められていると言うのが
金星のマスターの話でもありました。


しかしそれは万物に対して支配者として
横暴に対応してよいと言う意味ではなくて


例えば私達がむやみに毛皮を欲しがって
漁を続ければその固体が絶滅させるようなことになります。


狩るのであればその分それを繁殖させるようなことをしなければ
この社会の調和を保つことは出来ません。


それ以前に進化した人間は
毛皮など欲しがることもないと思います。


さらに私達の進化には元素レベルの進化があります。


マスターが重視していたのはこれでした。


動植物を構成している元素は今度はその一部が私達の内部に取り込まれ
そこで人間の細胞となり今度は人間としての体験を始めることになります。


元素は植物や動物から人間にまで高められたことにもなるわけです。


進化を果たした元素は、その後は人間が死んだ後には
再び動植物に利用されることになります。


その時に利用された動植物は進化した元素を持って
構成され以前よりも更なる進化を果たすことになる。


私達の肉体は単なる魂を入れる器に過ぎず
その器を時には壊さなければ生きていけないのが動物であり
人間だと言うことになります。


殺生という行為が殺戮を楽しむために実行されるのを
正当化することは出来なくても


私達人間が生きていくためには必要な
この社会の中での”意識の低い必要な現象”として存在するのだと思います。


信仰の強い人間であれば、
そして肉食を罪と認識していない人間であれば
それはその人間にとっての罪にはならないとパウロは語っているわけです。


一方では信仰が不安定な人間であれば
どんな小さな要因でもそれを妨害する可能性のあるものは
排除したほうが良いことにもなります。


そんな人間は肉食をせずに野菜を食べているのだと
説明しているのだと思います。

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食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、
食べない人も食べる人をさばいてはいけません。
神がその人を受け入れてくださったからです。

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肉食をしても魂の意識から創造主の意志を感じることが出来る人間が、
菜食をしていて、肉を食べると魂を進化させれないような人間を
侮ってはいけないし


肉食を罪であると決め付けて
菜食している人間が肉食をする人間を
裁いてもいけないとパウロが語っています。


私達にとっての戒律は本来他人に押し付けるものではないと言うのが
創造主の法=生命の科学を学んでいる私達の理解です。


戒律は個々の人間に対して印象として、
そして食べ物に関して言えば身体の変化
精神状態の変化として与えられ

私達はそれを察して自らに課す事になります。


それは万人に対して共通の物ではなくて
その個人個人にとっての戒律であり


その人間にとって魂の覚醒へと進むための
優先順位が存在していると言う話も取り上げました。


創造主の法を理解しようとする人間は
私達が道徳としてもともと持っている意識は当たり前として


個々が覚醒するために、そして進化のために必要とされる戒律を
それぞれが自覚して持つことになります。


その内容は元々のその人間の資質によって異なるものですし
進化のための優先順位の高いものから実践されるべきものです。


つまりそれは道徳を除けば
他人と共通する戒律とは限らないのです。


それを理解しなければ、そして裁くなという戒律を理解できなければ
私達は自分の価値基準で他人を裁くことになりますし
結果既存の宗教やユダヤ教と同じ事を実行することになります。


私達が100%になるための戒律に
肉食禁止と言う戒律が存在していたとしても


10%満たせばよい私達に与えられる戒律の中には
それは存在しないこともある。


つまりはそういうことです。


10%どころか創造主の下へと帰る事さえ出来ていないのが
この社会の殆どの人間だと言うことを理解して
私達は自分に対してこそ謙虚であるべきです。


創造主の法に落第生であるからこそこの社会に存在しているのに
他人を裁くなどおこがましいと言うことになります。


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あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。
しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。
このしもべは立つのです。
なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。
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他人の下僕とありますが、
勿論これは自分同様、神の下僕である他人のことです。


他人と自分の関係は創造主を通しての関係であり
自分を裁くのもその主人である創造主であって
他人を裁くのもその主人である創造主であり


それを裁こうとする貴方は一体何様ですか?

とパウロが言っているのです。

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ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、
どの日も同じだと考える人もいます。
それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。


日を守る人は、主のために守っています。
食べる人は、主のために食べています。
なぜなら、神に感謝しているからです。


食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
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これは言うまでもなく安息日のことを言っています。


昔ながらのユダヤ教徒が安息日を重視した習慣を持ち続けていたことで
信者の中で意見が分割したのだと想像出来ます。


以前は家畜や奴隷の話に例えて説明しましたが

もしかしたら一週間働きつめて疲れた人間で
一日安息しなければ疲れが取れない人であれば


疲れの蓄積が肉体的にも悪影響を及ぼし
精神的にも負担を齎し進化の妨害をすることになるかもしれません。


そんな人間が安息日を重視していたとしても
それは認めるべきですし


逆に安息日などなしにどの日も同じであると考えて
暮らしている人がいても


それで精神の進化の妨げにならないのであれば
それも認められるべきだという話につながって来ます。


そしてここでも問題となるのは守っている人間が
守っていない人間を罪と看做すような習慣です。


形式ではなくて実質。


これを繰り返し触れて起きます。


パウロはここでは個人のその信仰を尊重しています。


安息日を守ることも
本人は神のためにそれを実行しているつもりですから
それは正しいことであり


肉食をしている人もそれを神の行いをするための
身体維持のために食べているのですから
それは正しいことであるとです。


そして食べてはいけないと創造主から戒律を受け止めたと感じて
それを実行している人間も創造主の法を守ろうとしているのですから
それは正しいのだと言うことです。


その想いが大切で
目的が創造主への信仰ということになれば
それは誤りとはいえないと言うことになるかもしれませんし


とにかくつまらない事で争うなというのが
パウロの本音だと私は思います。


食に関しても安息日に関しても形式を重んじている以上
それが私達の精神に齎す効果は殆ど期待できないからです。

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私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、
また自分のために死ぬ者もありません。


もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。
ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。


キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、
その主となるめに、死んで、また生きられたのです。

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私達は誰もが自分の心を持って自分の人生を自分のために生きていると
勘違いしていますが、私達の元々の存在は創造主の意志の分身であり

それが目的としているのは進化と調和でした。


つまり私達は創造主の分身としての役割を果たすためにこそ
本来存在していることになります。


しかしその中で私達は自分の意志を与えられることで
それぞれが独自の表現と経験をすることを認められ


その体験による喜びや刺激の中で自分と言う意識を培うことを
認められていると考えれば良いと思います。


一方では元々の大目的が存在していて
それが私達がこの宇宙空間に置いて調和を果たすことですし
自分が進化して神に近づいていくことです。


つまり私達は自分のために心のエゴを持って生きているのではなくて
魂のために魂の意志のために魂の進化のために生きていることになります。


そしてその魂は元々が創造主の分身ですし
私達は創造主のために生きていると言うことにもつながってきます。


ここでは神を尊敬して表現していますが
私達は与えられた人生の経験を楽しむことも出来るのですから


それは強制ではなくて進化を続けていく中で
結果的にはそのようになると言うことだと解釈すれば良いと思います。


キリストについては神聖化するための記述と理解ください。


そしてイエスキリストの復活については
私の記事”入れ替わりの法則”を参照して頂ければ
科学的に謎が解けると思います。


天使達の持っている科学力の存在がイエスを蘇らせた、


ただしその肉体はヨハネの福音書にあるような
十字架に貼り付けられた時の体ではないはずです。


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それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟を侮るのですか。
私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。


次のように書かれているからです。
「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、
わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」

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私達は個々の人間が皆、創造主の法の適応を受け
転生の法則の適応を受ける立場です。


私達と創造主の関係は一対一で向かいものであり
自分の魂と向かい合うことになるのがおそらくは転生の法則だと思います。


私達は自分達の魂を持って裁かれるのであって
私達が心を持って他人を裁くような関係にはないということ。


神でもない人間、まして創造主の法が理解できないゆえに
暴走し他人を裁いているような行為自体がおかしいのです。
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こういうわけですから、私たちは、
おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。


ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。
いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、
つまずきになるものを置かないように決心しなさい。

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同じ創造主の法を守ろうとする人間同士の中でも
お互いの価値観をぶつけ合うとそこには混乱がおきますし
先述の通りに私達には他人を裁く権利などありません。


そしてここにあるように他人を躓かせるようなことは
避けねばなりません。


弟子を沢山持っていたであろうパウロは
自分の飲食が弟子の信仰の妨げになるのであれば
それすら自制すると他の手紙で触れていました。


誰もが強い人間ばかりではなく
理解の乏しいものも存在している。


そんな人間の理解の妨げになること、
信仰の妨害になることは避けましょうと兄弟姉妹に語っているのです。


私も理解者とか他の覚醒者のために
肉食をやめるべきなのでしょうか?(苦笑)


時々は肉を食べていますが(鳥肉やハム)
私は肉食禁止を自分の今現在の戒律にはしていません。


それが自分の信仰に良くないと言う印象がないからです。


ただ、食べると余計に電磁波攻撃が酷くなっている
可能性はあるかもしれませんね。
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主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、
それ自体で汚れているものは何一つないということです。
ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。


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ここでパウロもイエスの理解をもって
それ自体で汚れているものは存在しないと言っています。


万物は創造主の意識から生み出されている。


創造主は汚れたものを作り上げたのでしょうか?


【汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。】


宗教の戒律で”豚は汚れているから食べてはいけない”と言われたことで
”豚は汚れている”と認識した人にとっては
豚は汚れたものとなります。


そんな価値観を持っていない人にとっては
豚は汚れてはいないわけです。


つまりは私達が作り上げている価値観が
あるものを汚れたものと認識し、あるものを聖なるものと
認識させていることにもなります。


それを聖であるとか汚れているという選別をしたのも
創造主では無くて人間の価値観であり


最初にそれの価値観を持った人間が好き嫌いで判断した価値観を
私達が与えられて持っている可能性が高いのです。


人間の昔からの習慣や言い伝えを自分の価値観にすることで
物事に偏見や先入観を持って評価している証拠でもあります。


ただ、豚に関しては私も気になることがありますが
それには触れないでおきますね。


イノシシが豚の野生化したものではなくて
イノシシを遺伝子操作で豚を作り上げた可能性です。


何千年前のことかは想像もつきません。
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もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、
あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。


キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、
あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。
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イエスの死によって創造主の法に導かれた人間に対して、
食べ物の戒律で争うことで信仰を妨げてはいけませんと
パウロが語っています。


天使達の社会に置いては想念レベルまで考えて
何を食べるかと言う問題は大きな話になってくるかもしれませんが


創造主の法の入り口にも立っていない人間は
食べ物一つで良くなったり悪くなったりするものではないと言うことを
言いたいのだと思います。


私達が持つべき多くの戒律、実践すべき多くの戒律を思えば
そんなことは些細な事だという話にもなってきます。


ただ、自分が覚醒のボーダーラインである自覚のある方は
肉食は避けたほうが良いと思います。


しかし忘れてはいけないのは
繰り返しますが大切なのか事の本質であり
それが貴方の進化に与える影響です。

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ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、
そしられないようにしなさい。


なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、
義と平和と聖霊による喜びだからです。

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想いこそが重視されなければならないのが
神の国、創造主の戒律なのですから


自分が正しいと感じていることで
他人にそしられないように気をつけなさいと言うことです。


そしられることで心に意識が向くことにもなりますし
私達はわき道にそれることにもなるからです。


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このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、
また人々にも認められるのです。


そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、
お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。

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つまらない事で争うのではなくて平和に役立つこと
そして自分の魂の進化に役立つと感じることを
追求していきましょうとパウロが触れています。


私達は自分の進化の程度により
自らに戒律を増やす機会を持つことになるはずです。


それが印象からの物であっても
体験や自分の精神状態から判断できるものであってもです。


私達が戒律として持つものは他人を裁くためのものでも
世の中の人間を評価するためのものでもなくて


自分の進化に役立つためのものだと言うことを
忘れてはいけないと思います。

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食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。
すべての物はきよいのです。
しかし、それを食べて人につまづきを与えるような人の場合は、悪いのです。


肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、
そのほか兄弟のつまづきになることをしないのは良いことなのです。

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肉を食べることで信仰心が薄れたり
凶暴になる人間がいたとすればそれをしないのは良いことですし


酒を飲むことで他人に迷惑をかける人間であれば
禁酒をすることは良いことだという例えです。


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あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。
自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。


しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。
なぜなら、それが信仰から出ていないからです。
信仰から出ていないことは、みな罪です。


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ここでは信仰に関して
それを魂から受け止めることの出来ない人間を前提に

そんな人間に譲歩する形で説明しているのだと思います。


神への信仰を持てと言われても
その戒律を受け止めることの出来ない人間は
従来の信仰を強く意識することになります。


しかしそれが神のためだと信じているのであれば
それを自分の信仰として持ちなさいと触れているのです。


勿論私達は創造主の法、イエスの奥義を正しく理解していますから
既存の教えを鵜呑みにしてはいけませんが


昔からの自分の信仰を持っていた人間がその信仰を容易に捨てることも出来ませんし
自らそれが正しいと確信する時がくれば、それを継続すれば良いのですし
間違っていることに気がつけばそれを捨てれば良いのだと思います。


【疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。】


「これをしてはいけない」という印象を受け止めて
戒律とすべき人間がそれをする行為は罪だといっています。


私達の正しいことと正しくない事との判断の基準は
魂の意志によりますし


それと照らして誤っていると自覚できる行為をすることは
全てが罪なのだとパウロは説明しているのです。


長くなりましたが、
ここはパウロが私達の持つべき戒律のあり方について
食べ物を例に判りやすく説明してくれている箇所だと思います。


そしてその内容は実質に飛んでいて
私達、創造主の法を学ぶものにとっても
整合性のあるものとなっています。


イエスキリストが


「自分の目の前の梁に気がつかず
他人の目の中の塵を取らせてくださいという」


という表現で、


自らの大きな罪に無自覚でありながら
他人の小さな罪を自らの価値観で裁く人間に関して
取り上げていましたが


私達は道徳をもって他人に批判的な想いを持つことがあっても、
自分独自の戒律を持って他人を批判的に見ることだけは
絶対に避けねばならないと思います。
(私がそうです)


私達の独自の戒律はあくまで私達個人が進化のために
優先すべきものであると認識できるからです。


そして自分達の小さな器を考えれば
自分が創造主の法に立ち返る事をこそ優先すべきなのですし


私達赤点の劣等性が難易度Aの難問(食事や想念の領域)を解けたからといって
肝心の道徳で点数が取れなければ
合格点(覚醒)に到達するわけではない事を理解すべきです。


人として当たり前のことを当たり前にできるように勤めること
そんな事さえも難しい事となっているこの社会の中で
私達はその当たり前の事を理解し実践できるように勤めていきましょう。


私達はそれで及第点(10点)に達するはずです。


そして次の生では30点を目指すのです。


それが私達の進化だと思います。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


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P.S.

「100点満点の10点取るのは簡単だ。」


それが学校のテストであればそうだと思います。


しかし私達が評価されるのは答案用紙の活字ではなくて其の魂です。


つまりいくら自分では素晴らしい事を実践していると思っていても、
同時に私達はエゴによって導き出された負の想念によって
魂(心かもしれません)を濁している分を減点している存在です。


殆どの人間が実質0点以下なのが
この社会の実態かも知れないわけです。


極端な話をすれば-200点の人間がいても
おかしくはないことになります。


其の中での及第点が如何に難しいかということ。
兄弟姉妹であれば理解して頂けるかと思います。


魂は創造主の想いの塊であり
私達の想いを反映するものでもあります。


私達は其の想いをこそ評価されている。


エゴを暴走させている分は減点が大量にあるわけですから、
10点が如何に難しいかということです。


判りやすく表現して見たつもりですが如何でしょうか?