教えの原点に帰れ VOL1 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。



少し難しい内容になります。


と言ってもキリスト教の時代的な理解を求める記事です。


まずは”自然へ帰れ”と語ったルソーの言葉の内容を
説明してくれている方のコメントの引用からです。

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ルソーは自然状態を家族も財産もない何もない孤立した状態であるとし、
その不便さから逃れるために人は家族や国家を持ち、他人と協力関係を築き、
社会的人間になると主張しました。


しかし、社会が進展するに従い、
自然状態の時にはなかった不自由さや不平等を強いられるようになった場合、
あくまで人間が自らの意思で自然状態から社会的人間へ移行したのだから(社会契約)、
もとの自然状態に一度立ち返るべきであると説きました。


それが自然にかえれの意味で、
要するに王侯貴族が幅を利かせている不自由で不平等な社会を一度チャラにして、
もう一度人間の自然状態がどんなものなのか振り返りましょうということです。


ルソー自身は、文化や社会の規制が、素寒貧の孤立した状態の頃の
自由と平等を損なう堕落に繋がるとして、
本来の自然状態の人間の自由と平等を思い起こせ(自然にかえれ)
と主張したに過ぎませんでしたか、


社会契約説はその後、あくまで人間は自らの意思で社会契約を結んだわけだから、
その結果生まれた国家が堕落すればそれを改廃する当然の権利があるという
抵抗権の思想を生み出し、それがアメリカ独立戦争の背骨となり、
さらに後年の市民革命に決定的な影響を与えました。

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ルソーの思想は、
どんな思想も利用され方次第で、良いものにもなれば
悪影響にもなると言う見本ですが、
(欧州のフリーメーソン革命にも利用されているからです)


ルソーの語っていたように
人間の置かれた現状が改悪されていると判断するならば


当初の状態に立ち返るという意識は
私達が何かを改善しようと欲した時に
当たり前に持つべき指針となるものではないでしょうか。


人間関係の中で生まれて来た習慣や文化であっても
それが人間に不自由や不平等をもたらしているのであれば
それをそのまま受け入れ続けてはいけない。。。


私達が本来あるべき姿に照らして
それが誤った方向へと進んでいると認識すれば、


私達は慣習や慣れに従うのではなくて
人間としての本質を取り戻すために今すべき事を考えて
それを実行すべきです。


私達は他人と不平等な関係を作るために存在しているのではありませんし
不自由で不幸せになるために存在しているわけでもありません。


創造主の意志は私達誰もが平等に、
喜びの内に調和を求めて生きることであり、

その中での進化を果たしていくことです。


社会の置かれている実態を照らした時に
それが大きくかけ離れている事を理解すれば
それを改善しようと言う意志を働かせねばなりません。


それを拒絶するのは不平等社会の中で優越される立場にいる人間が
自らの心の心地良さを手放すことが出来ないからであり、


一方では冷遇されている人間達が
その背景に甘んじてしまっているためでもあります。


革命などと言う戦いの元になるような行動を必要とは思いませんが
私達は理性を持ってお互いを判り合える存在として
創造主が作り上げた神の分身です。


そして私達は人としての本質に立ち返る事を今こそ求められています。


映画や漫画でバイオレンスが支配するとんでもない社会を見せられて
それと比べると今の社会はマシだと勘違いしてはいませんか?


あれは私達が想像しうる最悪の地獄社会です。


それに比べれば天国に見えても、
私達の社会は「本来の人間と言う存在」にとって
限りなく最悪の環境へとなりつつあるのです。


そして出来るものならば、
神や聖人を理解しそれを信頼できるような人間達が
その教えの原点へと帰ることで


この社会を大きく変える原動力となる事を願って止みません。


私は自分が自称イエスの使徒という事で
イエスキリストを模範として、
人としてのあり方を追求したいと思っている人間なので


今日はキリスト教を理解する人間が、
その原点に立ち返るきっかけと出来るかもしれないような内容を
取り上げて見ます。


以前から繰り返し主張していますが
イエスキリストの教えの実質は
長い歴史の中でどんどんと失われてきました。


それは元々のイエスキリストの教えが難しいものであった事とも
無関係ではありませんし、


一方では多くの信者が自ら神を認識する事が出来なかったために
共通の認識を価値観として持つことが出来なかったことに由来します。


共通認識を持つ事が出来ない場合、
思想としての文化は一体どんな変貌をしていくことになるのでしょうか。


言うまでもなく多数派と言われる人間達の意志が
そこでは大きく影響する事になりますし


一方ではその時々の権力が、その主張を正統派と異端とに分類しては
異端と言われた人間達を迫害し淘汰する様になることも
私達の社会の傾向としては歴史からも明らかです。


元々が創造主の意識から
かけ離れた意識を持っている人間だらけの世の中で、


多数派の従う神に導かれた結果
正しい教えへと行き着くと言う事自体が考えにくい
と言うことも私達であれば理解できるはずです。


この世の中の宗教の進化は、常に現実や実証性と言う名目で、
心を持って視覚を重視している人間たちによって導かれてきたものだと言うことを
私達は理解するところから始めなければなりません。


一番気になるイエスの死後間もない時代のイエスの教えが
どんな分化をしていたかを、先日紹介したHPの著者が
判りやすく示していました。


これは歴史的な客観的事実として理解し易い物となっています。


最近はキリスト教の異端の多くが”グノーシス主義”
などと呼ばれている事情もわかりました。


正当とされる教えに比べて、突拍子もないと認識される教えは
全てが”グノーシス派”というレッテルを張られることで
異端とされていることもです。


私達の生命の科学だって
一般のクリスチャンから見れば
グノーシス主義に分類されてしまうのだと思います。


しかし今現在のクリスチャンから見れば、
当時の原始キリスト教の流れを継いでいる教えの殆どが
グノーシス派とされる事にもなるでしょう。


そこには目で見えないものの存在を認識しようと言う前提での教えが
盛り込まれているからです。


そしてそれを排除してきたのがキリスト教の歴史でもあると思います。


それがこの社会に悲劇を生んだ原因の一つではないでしょうか。

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初期時代のキリスト教会派の立場の大枠


1. パウロ主義
キリスト教を西洋に伝道し、キリスト教を最初に理論づけたパウロの主張は、
「イエスこそが救世主キリストである」、「その教えの骨幹は“愛の神”の主張にある」、
「信仰のみで義とされる」という三点に集約されます。


これは後のキリスト教神学の柱ともなるのですが、
一方でパウロの立場は「イエスはユダヤ教を打破し乗り越えている」となりますので
「反ユダヤ教」的な主張となります。


ですからパウロ主義を標榜したマルキオンはユダヤ教を排除したのですが、
勢力的に強くなって「正統」となっていったのが
「ユダヤ教主義」勢力であっために、このパウロ主義は薄められていきました。


現在のプロテスタントは、薄められたこのパウロ主義の思想を回復していますが、
他方で原典主義をとっているためユダヤ教主義も強く認め、
「パウロ主義」でありながら「ユダヤ教的」という微妙な立場になっています。

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私や兄弟姉妹そして理解者と言った、
生命の科学を学んできて創造主の法を理解できる人間であれば判る様に、
パウロの教えにはイエスの教えとの矛盾はありません。


つまり正当なイエスの教えを語る事が出来ていたのは
ここでパウロ主義と言われた人間達だという事になります。


現代社会での人間では、パウロの真の教えを理解できず
パウロが信仰だけで実践を伴っていないかのように表現されていますが、
それが誤りであることは私が記事で書き連ねてきた通りです。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11447479208.html
運命を生きる3&パウロの手紙 VOL5
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11446795491.html
運命を生きる2・パウロの手紙VOL4
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11446050602.html
運命を生きる1&パウロの手紙 VOL3
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11445536073.html
パウロの手紙 VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11444930328.html
パウロの手紙


パウロは人間の作り上げた形式や戒律に従うのではなくて
神の戒律に従いなさいと繰り返していたのです。


そして信仰とは神の想いを受け止めてそれを実践する事です。


しかし後の人間達がイエスの奥義を理解出来ず
御霊や精霊を理解出来ずそれを体験することが出来なかったために


パウロの教えを誤って述べ伝える事になり
そこで弊害が起きたのだと理解出来ます。


イエスキリストが復活したとされた後に
パウロに下ったイエスの言葉は


私達にしてみれば音声送信(ニューロフォン)のような技術で
頭に対して働きかけたであろう事も想像がつきます。


パウロはイエスの声を直接聞いてそれに感銘し敬虔なイエスの使徒となり
おそらくはその後は天使達によっても
テレパシーなどにより導かれ続けたのだと思います。


それを”精霊が降りる”とか”御霊の想い”と表現していた可能性も高く、
パウロは他の使徒達と共にイエスの正統な継承者でもあったと
私は聖書の内容から確信しています。


正しいのはパウロ主義でありユダヤ主義ではありません。

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2. グノーシス主義
日本語的な意味は「認識主義」となりますが、
本来はキリスト教とは無関係な「ギリシャ思想」の一つの展開で、
真理への到達として「知的直感的な認識」を主張するものでした。


これがキリスト教に入り込んだ時、
神の知的直感的認識による神との合一をいうものとなり、
その神は唯一絶対的なものと理解され、


従って不完全・劣悪なる世界の創造をするわけのないものとして、
ユダヤ教のいうこの地上の「創造の神」は劣悪の神として排撃されることになり、


またイエスの位置づけは「真実の神」をおしえる者として真実の神の
従者的な神として理解されたのでした。

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大元のグノーシス主義はギリシア哲学に端を発する物のようです。


ここで何故にギリシア哲学がそのままイエスの教えと結びついたかと言うことも
私達なら理解出来るはずです。


真理への到達は「知的直感的な認識」によって行われると言うのは
私達が今まさに実行している生命の科学による”魂の意志の認識”の事ですし


それは心ではなくて魂から閃きや印象として与えられるもので
”イエスの奥義”はまさにそれを感じて語る手段でした。


つまりはこれは12使徒が実践していた内容と異なるものではなく、
イエスキリストは自分の教えを”キリスト教”などと
読んでいたわけでもありませんし、


求める真理(キリスト)への手段が同じである事からも
両者が結びつく事があっても何の不思議もありません。


そして共通しているのは直感的に知覚できる
唯一の創造神の存在でもあります。


私達が求めているのは”宗教”と言う名の教えでもなければ
哲学と言う名の教えでもなくて


それは”普遍的真理”なのですから
両者はほぼ共通するものだと認識することも出来ます。


そしてこの仮定で旧約聖書を見つめると
モーセとヘブライ人が従った”人格神”は創造主ではありえず
それを悪しき神だと認識しても仕方のない事ですし


キリスト教徒が神に奉っていた”イエス”を
絶対神の下に置いたのも当たり前の意識だと言えます。


私達の認識ではどちらも人間なのですから
この理解は何の違和感もありません。


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3. マニ教


「善と悪の二神の闘争」でこの世界を説明し、
「魂の不滅」と「死後の審判」、「神のもとへの再生」を特徴とした
「ペルシャのゾロアスター教」の流れにあります。


ところが、イエスの思想自体がこのゾロアスターの影響を受けた
「後期ユダヤ教」を背景にしているため、
キリスト教は「ゾロアスター教」と非常に近い関係にあることになりました。


したがって、そのゾロアスターの思想を引き継いだ思想は
キリスト教に容易に流れ込んでしまうわけで、
その結果として形成されたものが「マニ教」であると言えます。


この「マニ教」はキリスト教と多くの点で類似しているものの、
ゾロアスターを引き継いだ善悪二元論に基づく世界解釈となってくるわけで、
その点で唯一神をいうユダヤ教的理解と厳しく対立しました。


そして、ユダヤ教主義をとる最大勢力となった
キリスト教共同体に排撃されていった、となるわけです。

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この方のHPからも理解できますが、
ユダヤ教に天国と地獄の概念を持ち込んで
それを強く主張していたのはパリサイ派の人間達です。


この社会の中で王となり神となり振舞っていた、
今の天使達の一方側の人間達と


当初から創造主の法に従っていた
天使達の一方の人間達の争いは先日も記事で触れましたが、


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11448265603.html
天使とサタンの戦い 前編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11448268118.html
天使とサタンの戦い 後編


その弊害が天国と地獄であったことは繰り返しています。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11003292677.html
天国と地獄
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11003294416.html
天国と地獄 後編


拝火教(ゾロアスター教)はその流れを強く持った宗教ですが
天国と地獄の概念が支配者にとっての民衆管理に利用されていた事も
何度も繰り返し触れてきました。


決め事を守れば良い事があるがそれを破れば罰が下る。


そんな意識を与える事で当時の野蛮だった私達に対して
飴と鞭を与えることで人間管理をするために利用されたのが
天国と地獄の概念です。


そしてそれは今の社会でも似たような利用のされ方をしていることは
聞こえてくる多くの宗教の話からも理解できます。


善と悪に関しては昨日の記事で取り上げた通りですし
私達を心もってエゴに従って生きるのではなくて
魂へと意識を向けるための主張でもあると理解できます。


更にマニ教では
「魂の不滅」と「死後の審判」とを主張していますが
これはそのままイエスの教えである創造主の法につながる物です。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11269525578.html
続・宇宙の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11324048053.html
続・宇宙の法則 VOL2 輪廻と転生の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11328167085.html
続・宇宙の法則 VOL3 意識の経路


私達の実態である魂は半永久を生きる存在であり
器としての肉体を取り替えては繰り返し転生を繰り返すことになる。。


そして死後の審判と天国と地獄と煉獄についての表現を
私達風に解釈すれば


まず、死んだ時に私達はそれぞれがその魂のその時の状態により
評価されてそのカルマや進化の状態を持って
転生先を分類されることになります。


その生での課題を果たしきった人間は覚醒へと導かれ
死後は天国(もっと高度な惑星)へと記憶を持っての転生をする事になり、
その時私達は永遠の命を感じる事になります。


課題を果たせなかった人間は魂の意識を感じることも出来ず、
天使達の社会と比較すれば地獄とも言える私達の社会に再び舞い戻ること。


この社会での人間の意識は地道に創造主の法からかけ離れ
常に悪くなっているのですし、その転生の行き着く先は魂の消滅です。


更に煉獄に関して言えば、
地球よりは意識が高い星で尚且つ記憶を持っての転生には至らないような
レベルの星への転生と受け止める事も出来ます。


結果その場所は進化の過程での天国への通過点となります。


つまりマニ教の教えはイエスの教えと価値観を異にするものでは
有り得なかったという事になります。


先日の記事でも取り上げましたが
お釈迦様もイエスキリストもマニも
私達を導こうとした先は同じ方向だったということになります。

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4. ユダヤ教主義


結果的に「キリスト教正統派」となった共同体の立場であり、
今日にまで続いてくるキリスト教の基本的立場となります。


ここでは、イエスが救世主キリストであることは
「ユダヤ教聖書に予告」されているとします。


従ってイエスの神とユダヤ教の神は全く無矛盾的であり、
ただユダヤ教徒の誤解の解釈があったに過ぎず、
ユダヤ教の神とはイエスの神にほかならないとします。


そのため神の讃歌はユダヤ教の「詩編」にあるとしてそれによって
イエスの神を讃えておかしくない、
となるわけで、今日殆どのキリスト教の会派がこの立場となっています。

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聖書の実態を難しくしているのが旧約聖書の”裁く神”です。


私達の理解では、それは神や王と名乗って
この地球社会を支配し戦争ごっこを繰り返していた
人間達の弊害でもあったと言うことです。


旧約聖書の中には二人の神が出てきます


モーセの神と言われたヘブライ人達を
エジプトから救い出し独自の戒律で管理していた神と、
天使達が演じた詩篇や箴言などに出てくる愛に満ちた神です。


天使達の争いがそのまま旧約聖書に反映されていた事を
理解できれば、神について論争する必要もないのですが


私達の知識や常識には、
「太陽系の人間達がこの社会の歴史に介入していた」
と言う記録も事実もありません。


それが旧約聖書の神とイエスの父なる神とを混同する原因となっているのです。


イエスキリストはユダヤ教を重視していたと言うのは誤りです。


イエスキリストが導こうとしていた人間達が、
ユダヤの神として”戒律の人格神”を重視していたことからも


イエスはその神の教えを理解した上で、
それを信仰している人間達を真の創造主へと導こうとしたと解釈すべきです。


そのためにも天使達は自分達が演じ語った神の予言や、
預言者の予言を利用してそれを実現させることで


まずはイエスキリストが救世主である事をユダヤ教社会に
認めさせなければならなかった。


そのためにもイエスはユダヤの教えを引用して
彼らに理解を求める必要があったのだと思います。


そしてイエスは頻繁に聖書を引用していました。


それは自分が聖書を誰よりも理解していることを示すことで
人々の信頼を集めるためでもあったはずです。


例えば、熱心なイスラム教徒の町の中に入って
全く違う神を説いた時にそれに耳を貸す人間はいないはずです。


イエスは賢明な方法として、彼らの神を理解しその戒律を理解したうえで
彼らに自分こそが民の待ち望んでいた救世主と認めさせて


その上で認めてくれた人間達には、
創造主と言うイエスの父の話へと導いていったと
理解すれば良いと思います。


天使達が演じた神や預言者による預言は
彼らにとっての予定でもあったわけです。


そしてイエスはそれを実践して見せた。


聖書の中で頻繁にイエスが預言の成就を口にしていたのも
それとは無関係ではないはずです。


イエスの例え話の中には、厳しいままの姿の神を
語った場面もあったはずです。


当時のユダヤの厳しい神を前提としている人間には
そんな例え話も有効だったのだと想像しています。


もしも無宗教の人間達の中でイエスキリストが神を語ったならば


イエスが自ら語っていた
「万物に差別なく平等に愛をくれる存在」としての
創造主を語り続けたのではないでしょうか。


それを熱心なユダヤ教徒の社会で実行しても、
無条件でついてくるのはイエスの奇跡を見て
ありがたいと思った人達だけです。


信仰を大切にしているユダヤ教徒を解き伏す事は出来なかったと思います。


”ユダヤの神”と旧約聖書に出てくる天使達の演じた
”創造主”をしっかりと分類している人間達は他にもいます。


トーラーとされるモーセの三部だけを聖典としているのが
今現在のパリサイ派の人間でしょうし


タルムードを無視しても
聖書ではトーラーに出てくる神こそが彼らの神ではないでしょうか。


天使達が演じていた神を彼らは信仰してはいないと言う事は
両者を別の神だと認識している意識でもあるのだと思います。


ここでのユダヤ教主義の内容はイエスの教えに照らして決して間違ってはいませんが、
イエスキリストがユダヤ教をそのまま重視していると勘違いした事が
後々の悲劇へと繋がって行くのだと認識できます。


昔からの慣習に慣れ親しんだ人間達が、
ユダヤ教の戒律を重視しながらイエスの教えを理解しようと勤めたことが


キリスト教がユダヤ教重視、旧約聖書(モーセの神)重視の
間違った方向へと進んでいく原因だと認識も出来ます。


イエスの神はユダヤの神と別だと言うことを
イエスが明言できなかったことが災いとなっているのかもしれません。
(明言すればユダヤ教徒の理解が得られない)


そしてそれはパリサイ派にも利用された可能性もあります。


真のイエスの教えを隠蔽するためにです。


ユダヤ教的キリスト教は、
重きの置き方次第で実質ユダヤ教となりかねないものだからです。


つまり従来のユダヤ教徒が
旧約聖書の戒律を額面どおり受け止めて実行していたように


ユダヤ式の戒律主義に慣れ親しんだ人間の間では、
イエスの言葉を額面どおり受け止めて実行する事で
自分達が天国にいけると信じる風潮がおきる事になります。


イエスの教えは事の本質を重視していました。


それが今ではキリスト教が、ユダヤ教の形式重視へと変貌していることは、
イエスの教えが今の社会に正しく伝わっていない事からも
認識できます。


そしてこのユダヤ教的キリスト教が
長い歴史の中でイエスの教えの中心として君臨し
現在のキリスト教の大元となっている事も言うまでもありません。


彼らはイエスの教えの”形式的側面”をパウロよりも
マニ教よりも、そしてグノーシス派よりも重視して守っています。


しかし他の教えがイエスの教えの”本質”を理解しているのに対して
ユダヤ教的キリスト教はイエスの教えの実質を理解しているとは言えないのです。


イエスキリストが言っていた、
「貴方がたは見ているが理解せず聞いているが悟らない」


の弊害をそのまま象徴しているのが
今の世に伝わっているキリスト教だと言うことになります。


私達が心に囚われている限り、
そしてもう一つの意識の経路としての魂の実態を認めない限り


その過ちは訂正されることもなく、
今後も「簡単で誰でも理解できる誤ったイエスの教え」が
この社会の主流となり続けていくのだと思います。


しかしその解釈したイエスの教えである筈のキリスト教が、


イエスの教えに矛盾して、他人との調和ではなくて
争いや混乱を歴史の中で繰り返してきた事実を私達は認めるべきです。


分派している全てのイエスの使徒は、
皆が共通認識を持つべき時に来ていると私は思います。


そしてキリスト教の神が唯一創造神である以上
すべての宗教に関しても同様の導きが大切なのではないでしょうか?


第二回バチカン公会議でヨハネス23世が語った様にです。


私達は共通認識を持つことが出来れば
お互いを認め合い理解する事も出来ます。


そのためにたった一つ、
魂の実態を認めてそれを理解出来れば良いのです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】
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P.S.


当初は小さな違いだったごとの教えですが、
一方は魂を追求しての真理だったために変わることなく一定の思想を
どの時代にも持つことになった反面、


一方では心を持って人間の価値観を膨らませて行ったがために
両者の距離はどんどんと広がる事となり


今ではかけ離れすぎた既存の価値観は、
真理を受け入れることができなくなったのだと言うことを
私や兄弟姉妹であれば理解できるかと思います。


これがこの社会の悲劇なのです。


しかし既存の価値観と地位や名誉や権力に
慣れ親しんだ人間達は50年前にはそれを真理と気がつきながら
受け入れるのを拒絶したのです。


しかしこの社会は
今度こそそれを受け入れて認めるべき時に来ているのではないでしょうか。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11437272683.html
創造主の意識  心と魂を使用する
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11438199880.html
御霊の齎すもの、魂とテレパシー

更にP.S.


ユダヤ工作員が挑発してくるので
室内でアダムスキーの本の中の
金星と土星のマスターの言葉を朗読してやりました。


私は十分自分の課題を果たせた気分です。


一年前に宇宙の法則の記事を書いたときに比べても
マスターの言葉がとてもよく理解出来る様になっている自分に
地道な成長を感じることにもなりました。


皆も機会があれば
私の過去記事を読み直して見てほしいです。
私達の理解はとても進化しています。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11009631713.html
宇宙の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11014121674.html
宇宙の法則VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11010770220.html
宇宙の法則VOL3
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11018677686.html
宇宙の法則VOL4
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11019751277.html
宇宙の法則VOL5
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11020622328.html
宇宙の法則VOL6
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11021051601.html
宇宙の法則VOL7
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11023679833.html
宇宙の法則 VOL8
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11040691515.html
宇宙の法則 番外編 私達の進化
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11023680441.html
宇宙の法則 VOL9
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11025364625.html
宇宙の法則 VOL10
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11027180903.html
宇宙の法則 VOL11
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11083897948.html
宇宙の法則 番外編 その2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11029560737.html
宇宙の法則 VOL12
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11269525578.html
続・宇宙の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11106785529.html
イエスの転生
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11108616691.html
宇宙の法則 番外編 イエスの言葉 前編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11108619928.html
宇宙の法則 番外編 イエスの言葉 後編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11182629834.html
転生の法則と入れ替わりの法則


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11269525578.html
続・宇宙の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11324048053.html
続・宇宙の法則 VOL2 輪廻と転生の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11328167085.html
続・宇宙の法則 VOL3 意識の経路
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11328374408.html
続・宇宙の法則 VOL4   心とエゴ 
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11329172018.html
続・宇宙の法則 VOL5 想念とオカルト
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11329829392.html
続・宇宙の法則 VOL6 イエスの奥義前編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11330640319.html
続・宇宙の法則 VOL7 イエスの奥義後編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11337381990.html
続・宇宙の法則 VOL8  引き寄せ・波動の法則と因果の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11331426927.html
続・宇宙の法則 VOL9 ”因”なるもの
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11332405290.html
続・宇宙の法則  VOL10 元素とフォーム(形態)
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11339078609.html
続・宇宙の法則 VOL11 細胞と想念
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