魂を認識できない故の悲劇社会 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。



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宗教をとても論理的かつ冷静に見つめて評論しているHPを見つけました。


http://www.ozawa-katsuhiko.com/10christ_hikari/christ_hikari_text/christ_hikari03.html


個人の意見に関しては参考にする必要は無いと思いましたが
(現実としての理解をしようと勤めている内容なので)
歴史的事実の記述に関しては興味深い物がありました。


私達が読めば恐らくは「この宗教のここがおかしい」とか
「ここは人間の理解を求めるための例えだ」などと解釈しながら
過去の宗教の歴史を見つめることが出来ると思います。


そこには私達が魂という意識の経路を共通認識できなかったことによる
弊害の歴史が見えてくるはずです。


一方この方の冷静な分析から
お釈迦様、イエスキリストそしてマニ教のマニとの共通点も見えてきます。

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マニ教では、ゾロアスターは当然のこととして、
「イエス」や「仏陀」をも真理を悟った先駆者として認めています。


ですからマニ教が何を問題にしていたかが良く分かるわけで、
この三人に共通している思想、つまり
「地上の、欲望に基づく罪と悪の世界・苦しみの世界からの救済・脱却」が
問題だったと言えるわけです。
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マニと言われた人間も覚醒者恐らくは天使達の転生でしょうね。


結局この時代に地球社会に対してあらゆる地域で
天使達は創造主の法を私達人間に対して布教した。


もしくは多くの天使達の転生がこの社会の中で覚醒しては
創造主の法を語っていたのだと思います。


しかしそれは、心を持って天使達の教えを理解しようとした
人間達の誤った意識によって捻じ曲げられ、
真理が淘汰排除され続けて来たと言う事もここからも見えてきます。


そして私達の想像通り、
既存のキリスト教はユダヤ教的キリスト教。


当初の旧約聖書の戒律から抜けきる事が出来ず
イエスの真の教えを理解する事も難しい
そんな教えが主流とされてしまったために


イエスが三次元と四次元
つまりは心と魂のあり方についての教えを語っていた事を理解し難い状態へと
キリスト教世界を導いてしまったのだと思います。


これが偶然なのか、イエスの教えを嫌った
ユダヤ教徒の意図なのかは認識することは出来ませんが


元々多くの人間は心の意識の経路を持って
見える物こそを認識しては自分の心の好むものをこそ
価値観とする習慣がありますので、


古くからの習慣から抜け切れなかったユダヤ人が
イエスの教えを受けた後も昔の習慣を捨てきれず
それを融合させた結果ではないかとも想像できます。

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私達の意識の知覚を妨げているものとして

私達の思い込みと慣れ親しんだ習慣があると思います。


それは自らの心の改善をもたらす行為に関しても
反映されていると思います。


一つ目には心の改善をもたらす為に
心を持ってそれを実行しようとしていることです。


私達の心の模範となるような解答は
この社会では選別されて表示されてはいないはずです。


私達の社会では真理と誤った真理が入り乱れ
そのままでは模範解答とは成り得ない物ばかりだと思います。


しかしその誤った模範解答を正しいと看做して
それを自分の真理として心の価値観として認識し


心をそれに従うように改善して行っているのが
今の私達の姿だと言えます。


本当の解答を選択し得る意識としての魂の存在、
100点満点の解答を備えている魂の存在を
模範とするのではなくて、


外部から心を持って選択し心に植えつけ価値観に自らを従わせても
そこで実現される自分自身は
結局は人間の作り上げた価値観に心を持って従う存在となります。


その間、魂の意識を認識する事もなければ
恐らくは普遍的な真理の存在をも意識する事もないと思います。


私達は魂からの解答を受け止めて
それを自らの心の価値観へと置き換えねばならないのに
それが実行出来ていないのです。


とりわけ神を認識できない人ほどこの傾向は強いと思います。


そしてもう一方の弊害は神を認識していながらも
それを心を持って理解し認識しようとする事です。


私達が創造主の存在を認めていても
それを自分にとってのお助けのアイテムのような意識を持っていたり


上述の様に心をもってその創造主の意志とされた
人間の作り上げた価値観を自分の価値観に置き換えても


結果的には私達が認識するのは
心が認識できる、
人の作ったイメージとしての神であり戒律である事になります。


私達は意識の経路としてのもう一つの存在である
魂の実態を理解しない限り、
正しい戒律を自分の心に刻む事は出来ないという事になります。


勿論、自分のエゴである心を鍛え、改善し、心の暴走を止める事は
私達にとっての大切な課題だと思います。


私達の用に到らない人間達が、人としてのスタート地点に立つためにも
私達覚醒者と理解者は勤めるべき事の中心でもあります。


しかしその時に私達が心の価値観を誤った価値観で置き換えれば
私達は心を改善しているつもりで
実際は改善出来ていないと言う事にもなりかねません。


一方で私達は創造主の法を理解し創造主の存在を信じていますが
それを心を持って神なるものを理解したり神を意識しても
それに対して創造主の意識が反映されないことはいうまでもありません。


創造主を意識するという事は、
そのまま私達が魂というもう一つの意識の経路を意識する事です。


それを実行しなければ
結果的には心を持って外部からの神の情報を取り込んで
自分達が作り上げたその神を拝む事になるのです。


私は未だに自分では人格を持つ、意識を持つ存在としての
創造主を感じることは出来ません。


そこにあるのは単にエネルギー、想いの塊としての
大きな存在だけです。


私は以前自分では神の存在を否定できず
一方では宗教勧誘を拒み続けていた事があります。


その時に私はこんな事を語っていました。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-10701745409.html


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Date: Fri, 9 May 2008 07:07:49 +0900
俺の宗教は
キリスト教の慈愛の精神を持って
仏教のように万物に神の魂が宿ってることを前提に考え
神道のように神と一対一で向かい合う
一人教ですw
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神道や仏教の宗教としての捉え方が間違っていますが
私の想いは理解していただけるかと思います。


私は以前は自分が何の宗教をしているのかと言われたときに
”宇宙教”とか”一人教”と称していました。


私のそんな感覚に適合している宗教に勧誘された事もありませんし
当然頑固者の私はそんな誘いを拒絶し続ける事にもなりました。


慈愛の精神を持ったのが創造主で、万物にはその魂が宿っていて
神と人間は一対一で向かい合うものだと言う意識は
当時から変わってはいません。


そして人格としてではなくて
膨大なエネルギーと法則としての創造主の存在を感じていましたし、


20年前に読んだ藤原さんの「宇宙からの使者」で
アダムスキーが説明していたスペースブラザーズと
その主張する創造主こそが私にとっての神の姿でもあったわけです。


そして今でも私の拙い精神では
創造主の姿は認識することは出来ません。


天使達の話とアダムスキーの話を元に


アダムスキーが書かせたと言う
恐らくは創造主を髣髴させたオーソンさんの肖像画
と称されている姿にそれを感じ


自分のイメージの中で時々作りあげるくらいのものです。


http://www5a.biglobe.ne.jp/~UFO/Adamski/Palomar/garden.3.htm


しかし人間の作り上げた神のイメージを持っている人間は
イエスキリストの姿や、白いひげを称えた神の姿を想像しては
それを神として拝んでいるはずです。


そこで、すでに私達の意識の向いている方向が
異なっている事にもなります。


私達は心を持って作りあげている神のイメージを
心を持って拝んでいるからです。


本来であれば私達は創造主を感じるためにも
魂の意識の経路こそを意識しなければなりません。


心の価値観の改善にしてもそうです。


私達は心を持って心の価値観を改善しようと努めても、
心を持って創造主の意志を感じようとしてもそれは無理だと言うこと。


心の価値観を書き換える模範となり得るのは
私達が理性とも表現する意識の延長であり、
そして私達が魂と呼んでいるものだけです。


それは創造主の分身であり、創造主の意志であり、創造主の想いであり、
そこにこそ全てを知っている”至高の英知”が現れているからです。


創造主は全ての摂理を作り上げた存在であり、
宇宙空間での全ての記憶を持つものであり
全ての存在の命を吹き込むエネルギーでもあります。


もちろん今現在の創造主が
直接その意志を持って私達に関わっているいるのではなくて
それは創造時の残存思念と言うエネルギーとして存在しているようです。


そんな創造主の一部でもある私達の魂=御霊が、
何もかも正しい解答や


私達の見たことも聞いた事もない事を知っているのは
当たり前なのです。


ただ私達はその意識を正しく把握する事が出来ません。


第一に魂の存在やその機能を理解してはいません。


更にはテレパシーを受け止める事にも資するその魂は
時には地球の他の人間の想念を受け止めますし
一方では創造主の意識を伝えても来ます。


さらには天使達の想いをも届けてきます。


私達が創造主の意志を直接受け止めそれと認識するのは
至難の業なのだと思います。


しかし間違いなく、
心が認識できる視覚・聴覚・味覚・嗅覚では認識できない真理を
魂こそが持っているのです。


私達はそこから受け止めた意識で心の価値観を置き変えていく事と、
魂という意識の経路を強く感じることが出来るようになることを
求められているのです。
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私達の社会が作り上げている善と悪についても
今日先述のHPを見たことで理解できるものがありました。


善と悪という概念は本来創造主の意志には存在してはいません。


創造主の意志を表現すればそれは私達が”善”と呼んでいる物の
集まりだと言う趣旨をアダムスキーも触れていました。


しかし創造主の作り上げたはずのこの社会には
私達に”悪”と呼ばれるものが存在しています。


つまりは善と悪の概念は私達人間が作り上げたものであり、


恐らくはこの社会の中では、当初天使達が
地球社会の人間に物事を”正しいか正しくないか”を教える時に


それを善と悪と言う判りやすい象徴を与える事で
学ばせたの物が名残となっていて
今の社会にも残る事になったのではないでしょうか。


創造主の法の下では、
「その行為や想いが正しいか正しくないか」
という意識が存在するだけであり


善と悪と言う分類は存在してはいないことは
私達も学んではいます。


根底から悪い者は創造主の分身としての魂を
持ち続けることも出来ないのですし


存在することが出来ないはずです。


つまりはこの社会に存在しているものは
全ては悪ではない事になります。

しかし誤った想いや誤った行動は誰もがすることになりますし
それには個人差もありますが


あまりに極端になれば
それは魂へも大きく影響を及ぼすと言う話にもなってくるのだと思います。


ただここでも私達この社会の人間は
自分達の心を持ってそれを認識しようとしたために、


善と悪という概念を、独自の価値観として
変貌して行ったのだと思います。


どうやら聖人達が私達に教えた善と悪の根源は
このようなものだったようです。

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「善・悪二元論」


 これは宇宙を対等な二つの原理「善=光」と「悪=闇」から説明するものですが、
宇宙にあるすべてはこのどちらかに属するとなり両者は全く相容れません。
たとえば魂は「善=光」に属し、肉体・物質は「悪=闇」に属することになります

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これは私達の創造主の法でも存在を認識している
陰と陽、光と闇といった


現実に存在していて否定出来ないその概念を
それぞれ善と悪として分類したものに見えます。


この分類では、創造主の意志の分身であり
私達の実態である”魂”は善であり
私達の魂の器であり、本能とエゴとを司る心は”悪”となります。


その分類を本当の善と悪と看做せば
とても今の社会の実態も理解しやすいことになります。


私達は善を求めるのであれば、先述のように
心の価値観を魂の価値観で置き換えることになります。


しかしここで弊害が起きます。


「私達は自分達の意識の経路として
心しか把握できてはいない」と言ういつもの大前提です。


絶対的な善というものが存在していたとしたら
それは魂という神の意志の分身ですし、
私達は善悪を判断するのであればそれを基準としなければなりません。


しかし私達は心しか使用できない状態で
それを持って善と悪を理解しようとします。


そして分類しようと勤めます。


元々が不完全であり、善ではない心を持ってそれを為すのです。


そして前述のようにそこには絶対的な解答はありません。


結果、私達は自分の心を持って善と悪を判断しようと勤めます。


その時に私達が作り上げる善と悪の概念は
私達の心の価値観によって決められることになります。


その価値観は人それぞれ異なるわけですから
私達はそこで共通認識としての善と悪を意識することは出来ません。


これは容易に理解できるはずです。


豚を食べてはいけないと言う戒律を持っている宗教にしてみれば
豚を食べている人間のその行為は悪です。


つまり例えば宗教を心の価値観としている人間は
その戒律を持って物事の善と悪を決定する事になりますし
それは宗教ごとに異なります。


勿論宗教をしていない人間であっても
更には同じ宗教組織の人間であっても、


その持っている多くの価値観が異なるのですから
善と悪の基準は微妙に異なってくることになります。


いずれにしてもその自分の価値観としているものが
絶対的なもの、魂の意志に従っているものではないのですから
人それぞれが異なった善と悪の基準を持つ事にもなります。


その結果似たような価値観を持っている人間同士が
それとは異なった価値観を持っている人間と
争うと言う構図が出来上がります。


つまり善と悪という意識を心を持って判断しようと勤めるために、
魂を理解できない人間社会の中では
それをも巡って争いが起こる事にもなります。


そしてそれがこの社会でも現実に続いているのは
言うまでもありません。


私達は本当の善と悪を区別など出来る資質もないのに
それをエゴを持ってしてみせては
新たな争いのネタとしているのです。


私達が魂という私達の実態であり
創造主の意識としての存在を理解できないが故の悲劇が
この社会では数千年前から延々と続いてきたことになります。


そして誤った価値観を持った人間で溢れる社会の中で
誤った価値観を持って判断した善と悪の概念がその基準となれば
その社会は本来の善と悪の概念を履き違えた社会にもなります。


それを導いていた人間達をイエスキリストは
サタンの会派と呼んだと言う事になります。


そんな人間の価値観が社会全体を覆っているこの時代
その中にどっぷり浸かっている私達ですし
その多くが魂の経路など理解できないのですから


誤りを誤りとも認識できなくなると言う話にも
繋がって来るのです。


根底から誤った価値観の上に作り上げた社会を
私達はその根底から作り変えることが出来るのでしょうか。


それとも応急処置をして見せて
回復したつもりで更なる誤りを重ねていくのでしょうか。


それを決めるのはこの社会の一人一人の人間の意志です。


私達の広報がそのために少しでも役に立てればと思います。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】