真訳聖書 VOL16 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


なにやらまた被害報告をさせたいのか
腹部への強い圧迫と内容物の逆流、


更には下剤の効果を打ち消す薬品をも使用しての
排泄行為の妨害が強まっています。


半ば意図的にみぞおち付近で異物まみれの
排泄物を詰められて、
それを経由で脳への関与も強まってきました。


低周波の振動が激しいために
体の振動も強まっていますし
それに異物も反応しているようです。


そして体が冷える放射線の照射も
続いています。


P.M5:04


今日は逆流性胃腸炎食道炎を誘導する
食道から直腸にかけての刺激があり
同時に胃腸を圧迫を受けています。
(膨らまされているような筋肉を硬直
させられている様な感覚です)


食事開始時、
飲食物を飲み込めないような状態もありました。


どうもここ数日再び顔への関与が強化されたようで
太ってもいないのに顔だけ浮腫み出しました。


顔の皺への関与も強まっているようです。


昨日のパソコンの不具合は
ソフトに関しては私の勘違いのようで


単に強い磁気でブログ管理者画面を開くのを
妨害されていただけのようです。


工作員さん勘違いしてすみませんでした。


でも妨害されていたことは確かです。


色んなことを色んな方法でやられていると
奇妙な事があると全て加害者の所為ではないかと
疑いがちになってしまいます。


疑心暗鬼や人を疑う意識も
宇宙の法則では負の想念ですね。。


一切の関与がなくなることを願っています。


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そう言えばアダムスキーの宇宙の法則や
スペースブラザーズの存在もどきなど
似たような情報はあるかと思いますが


一貫性と整合性をしっかりと確認して
事の真否を確かめてほしいと思います。


私に言わせれば
スペースブラザーズとアダムスキーの主張こそが
全てだと思います。


ただ、彼らは地球の私達に不安を与える内容に関しては
触れる事も無かったようで


そこが付け入られる隙にもなっている気がします。


2012年12月22日の話に関しては
神がその結末を決めるのではなくて


地球の行く末を決めるのは
間違いなく私達地球の人間だと思います。


今日も聖書のイエスキリストの言葉の引用からです。
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自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。
もし、そうしないと、天にいます貴方がたの父から
報いを受けることが出来ないからです


だから、施しをする時には、偽善者達が人に褒められるために
会堂や町の中でするように、
自分の前でラッパを吹き鳴らさない様にしなさい。


まことに貴方がたに告げます、
彼らはその報いを受けてしまっているのです。


貴方は施しをする場合、
右の手のしている事を左の手に知らせてはいけません。


それは、貴方のする施しが隠れているためです。
すると、隠れた事を見ておられる貴方の父は、
報いてくださいます。


また祈る時には、偽善者達のようであってはいけません。
彼らは人に見せようとして、
会堂や大通りの四つ角に立っては祈る事が好きだからです。


よく言っておきますが、
彼らはその報いを受けてしまっているのです。


貴方は祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、
隠れた所においでになる貴方の父に祈りなさい。


すると、隠れた事を見ておられる貴方の父は、
報いてくださいます。


また、祈る場合、異邦人のように、
くどくどと祈ってはいけません。


彼らは言葉かずが多ければ、
聞きいれられるものと思っているのです。


だから、彼らの真似をしてはいけません。


貴方がたの父なる神は、求めない先から、
貴方がたに必要な物はご存じなのです。


だから、貴方がたはこう祈りなさい、


天に居ますわれらの父よ、
御名があがめられますように。


御国がきますように。


御心が天に行われるとおり、
地にも行われますように。


私達の日ごとの食物を、
今日もお与えください。


私達に負い目のある者をゆるしましたように、
私達の負い目もお許しください。


私達を試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。

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「御心が天にも地にも行われますように」の箇所でも
”天”と”地”が使用されていますが


そこに”国”をつければ天国と地国となります。


私たちは天にある国を神の国であり
天国であると認識し、自分達の住んでいるこの”地”と
区別していたことは分かります。


もちろんイエスやブラザーズの影響も
そこにはあったのだと思います。


そして更には地の牢獄と言うことで
出来上がった新しい魂の牢獄としての地獄は


地中深く封印された場所と言う
イメージでもあったのでは無いでしょうか。


(もともとの地獄に関しては
私の過去記事天国と地獄を参照してください。)


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11003292677.html
天国と地獄
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11003294416.html
天国と地獄 後編


私にしてみれば時にはこの地球が
地獄そのものに見えることがあります。


ブラザーズが
「あなた方が地球を地獄であると思えば
それはあなた方が招いている結果なのです」


と言う趣旨の話をしていました。


それも複数のブラザーズがです。


この地球こそが生き地獄だという意識を
実はブラザーズ達は感じているのではないかと私は想像しています。


アダムスキーも明言は避けていましたが
この地球社会を嘆いていたことに関しては
イエスキリストと同様でした。


考えてみればイエスキリストは
お釈迦様が天から地球に垂らしたクモの糸のような存在
だったのだと思います。(お釈迦様自身もそうですが)


地球という生き地獄から
私達を一人でも多く救済しようと
やってきた存在なのだと思います。


そう言えばイエスキリストは”天”と表現して
それに”精神”を重ねている事があるようです。


其のときは勿論”地”は”心”を指し示しているようです。


”天”は神に通じる意識であり”精神”をそれに例え
”地”は人間のエゴに通じる意識であり
それを”心”に例えて居るわけです。


聖書中にそんな使用の仕方をしている箇所が
あったと思いますので
ぜひ今度それを意識して読んでみて欲しいと思います。

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因果応報という言葉があります。


因なるものがあればそれに対する報いもある。


それはそのまま宇宙の法則の摂理の一つです。


残念ながら私が書いている生命の科学の記事では
具体的に其のことを取り上げた箇所はありませんし
アダムスキーも其の詳細は触れていません。


しかし自らの行動が巡りめぐって
自分へと帰ってくるのだと言う話は
何度となくアダムスキーは触れています。
(その著書の中でです)


私達が最初のステップである、この地球からの卒業を無事果たせば
おそらくは多くの法則を学ぶことにもなりますし
其の時には因果応報の本当の意味も理解できるようになると思いますが


今は其の基礎である原因と結果の法則を利用して
イエスキリストの教えを解釈していきます。


(基礎と言っても大前提の知識でもありますので
これが実践できない人間は
更なる法則は理解も実践も出来ないと思います)


私達が何かを行動に移した時には
まず目に見える原因に対する結果がついてくることになります。


其の行動が目に見える結果を自分に齎す様な事以外にも
他の人間に対してや自分の心に対して
間接的に影響を及ぼすようなものが存在していて


それは例えば善行と言われる物です。


仏教でも陰徳なる言葉がありますが

これは自分の得になるような行為ではないので、
結果として現実には他の存在や万物に対しての奉仕とも居えます。


例えば私が、普段自分が行く事も無い様な公園が
ごみで散らかっているのを


通りがかった時に偶然に見かけて
それを片付けたとします。


これは行為として行動の主体である私には
得をすることの無い行為です。


そしてこの行為は誰もその場で私の姿を目撃することがなければ
其の行為は誰にも気が付かれる事もありませんし
それは陰徳と呼ばれる行為となるのだと思います。


一方、もしも公園の中に人が大勢居る状況で
私がごみを拾って集めた場合は


人々が其の行為を見て、


「諸星人は偉い」


とか

「諸星人は良い人だ」


と評価されるかもしれません。


その事を、ごみを拾って歩いたという善行に対する
”報酬”と看做すようです。


でも勿論、神はこの行為に対して
「諸星は偉い」


とは認めてはくれない事になります。


つまり其の行動は地球の意識では間違いなく善行ではありますが
陰徳ではなくて、其の行動をした事が
この生で報われた事になるのだと思います。


しかし前者の様に誰も気がつかない状態で
そんな行為をした場合は、


その行為は単なる善行ではなくて陰徳と呼ばれるわけです。


そして自らが行った行動は、
それが巡り巡って自分へと戻ってくることになるというのが
因果応報といわれる物です。


この社会の中で「偉い」と褒められたり
「良い事をしている」と評価を受ける事は
結果的にはすでに其の時点で報いを受けている事になるようで


それに対する神からの報酬はありませんよと
言うことなのだと思います。


しかしながらこの社会では認められない善行なるものは
一体いつどのようにして自分への報酬となるものなのか?


おそらくは、そのような行為はそのまま神の意識に繋がる行動であり、
そんな意識で行動することこそが大切であると
イエスキリストは言いたかったのではないでしょうか。


だからこそ無償の善行こそが神の国に宝を積む行為であると
イエスキリストは触れているのだと思います。


結果的に誰かに褒められたとか
評価されたと言うことが
行動を陰徳や陽徳に分類する事になるのではなくて


本当の問題はその行動をする時の
本人の意識の問題だと言うことです。


褒められて、評価されたくて人前で神信深い姿を見せたり
善行を行うのではいけないとイエスは言っているのです。


そのためにも人前で自分の困難さや立派さを
表現する事は避けなさいとイエスは触れていたのだと思います。


人目を意識したり他人からの評価を意識して
実行される善行は善行ではなくて偽善だと言うことです。


もっと言えば、行動の基準は人目や評価を気にしてではなくて
精神を使用して選択しなさいと言う話にも
繋がってくるのかもしれません。


全く自分が得をする事の無い行為をも実践出来る
精神状態である事自体が
私達が覚醒を強めていくためにも必要なのでしょうが


現実問題、私達は心の余裕が無くなっていて
お金にならない事や得をしない事、
人に認めて貰えない事には無関心でもあると思います。


しかし私達のあり方としては、
そんな得をしない行為こそが大切なのであり
其の事をこそ重視しろとイエスは触れていたのでは無いでしょうか。


例によってイエスキリストはここでも
極端な表現をしています。


勿論私達が理解しやすいようにと言う意図であろう事も
想像が付きます。


イエスはここで
「神は私達が何を望んでいるかを知っている」と
触れています。


私達の魂(精神)は神に直結しているのですし
元々それは神の意識の一部です。


植物や動物は神の意識を感じてそれを素直に
表現しているのでしょうが


逆に神も動物がその小さな心で何を望んでいるかを
理解できる立場のはずです。


神に向かって何度もお願いしなくても
極端な話が私達が何もお願いする事無くても
神は私たちが何を望んでいるかを知っている。。。


良くない意識も神の理に叶った意識も
全て含めてだと思います。


神は一束、二束三文で売っているスズメの事でも
すべて知っているとイエスは触れていたはずです。


ただ、神は私達の願いの全てを聞き届ける存在ではない事は
アダムスキーも触れていました。


「天は自らを助くる物を助く。」


これは有名な言葉ですが、
自らが努力したものを神は放ってはおかないと言う例えです。


ただ、アダムスキーはもっと深く触れていました。


単に努力をすれば神が協力してくれるというのではなくて
その時の努力が神の意識、宇宙の法則に叶う物であることが
前提だと言う事です。


心が心地良くなる事をいくら望んでも
その実現に神が協力してくれる事はありえない。。。


神が私達を助ける時は其の行為が
神の意識に叶った時である事が前提だと言うこと。。


つまり私利私欲やエゴに捉われた願い事には
神は関心はありませんよと言う事になるのだと思います。


私達地球の人間は
争いに関しても神に願いを掛けるのだと
スペースブラザーズは嘆いていました。


時には戦争で人を殺すことを祝福してくれと
神に願っているようなものだとも触れていました。


その行為は息子が父親に
「私は正しい。弟を殺させてくれ」


と願う事と何ら変わらないのだと言うのが
ブラザーズの考え方でもありました。


ブラザーズにしてみれば私達は皆が神の子であり
その立場では皆が神の下では兄弟でもあります。


ブラザーズが触れていたように、
戦争で神への祝福を願うことは、


兄弟を殺すことを祝福してくれるように
創造主に願う行為だと思います。


神の子が同じ神の子を殺傷すると言う行為は
神の法則・神の予定には含まれてなどいない。。


だからそれを実行している地球の人間の意識が
ブラザーズには理解が出来ないと言うことだと思います。


それ以上にブラザーズが嘆いていたのは
大量破壊兵器の製造でした。


使用すれば大量の人間が一瞬にして死んでしまい
自然も動物をも破壊するそんなものを
地球人は使用前提に開発してはしかもそれを強化し続けている。


地球の崩壊が一体何を齎すことになるかを考えれば
地球人は自分で自分の首を絞めている事に他なりません。


しかしそんな行動を続けながらも
一方では神に祝福を求めて願い続けているのが
私達のこの社会です。


神は破壊や殺戮を望んでいる存在ではないことを
私達は理解しているはずなのにです。


そしてマスターは触れていました。


地球人は神の法則を独自に語っているに過ぎず
実践しているわけではないのだと。。


神への祈りを実りのあるものにするのであれば
それは神の意志に沿った
神の予定に存在するものでなければならない。


私達はそんなところからも
社会のあり方と創造主の存在を
考えてみる必要があるのではないでしょうか。


神なる存在は私達をその意識へと導く存在だと思います。


そして神と同様の存在となるような資質さえ与えられている
私達人間は、自由意志によってその行動を
試されてもいるのだと思います。。


神が望むままの精神に人間をも作り上げることも出来たのに
神は意図的に私達に心と自由意志を与え
神の法則に従うか従わないかの選択をもさせている。。


そこには沢山の経験をする事で
自ら神の意識に気が付いてほしいと言う
神の意志があるのかもしれません。


私達覚醒者は神の法則に則って生きる事を
選択した人間であると言う言い方も出来ます。


多くの経験を積みながらその精神を向上させ
神の意識に近づいていくことを選択したような存在です。


そしてそれはブラザーズ達が今も日々実践し続けている
生き方そのものでもあります。


創造主が作り上げた法則の中で
創造主の予定した存在になろうとすることが
これほど大変なのは一体なぜなのでしょうね。


考えられることは、容易に辿り着けさせない事で
私達に多くの事を身をもって学習させることを
創造主は当初から予定していたのではないでしょうか。


すべての生き物の中で唯一神に近づいていく事の出来る
存在であるのが人間で


その資質は元々が
神に似せられた完全なものである。


マスターやブラザーズはそう触れていますが
私達がその事を認識できるのは
まだまだ遠い先の事になりそうです。


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P.S.


神への祈りですが
言葉に発する必要は無いと思います。


イエスキリストは弟子へ見本として見せるために
それを時には声に出して表現したのであって
本当の神は少なくとも天に居るわけでは無いことを
イエスは勿論知っていました。。


それに私達の精神こそが神の分身なのですから
私達は心の中でそれを感じていれば良いのではないでしょうか。


そして時にはそれに対して語りかけるのです。


イエスキリストやアダムスキーは
常に精神を感じていたのですから
常に神の意識を感じているようなものだったのだと思います。


特別な祈りをしなくても
その時々で神には感謝の気持ちも伝わっていたのだと思います。

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