真訳聖書 VOL18 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


記事更新の時には真下の部屋からの磁気が
とても強くなります。


そして更新画面での更新妨害も続きます。



思考回路が限定されているようで
自分の脳を全開して記事を書くことが出来なくなっています。


コメントを書いていると一段と
脳への関与が激しくなってきていますし
”キリスト”に触れると更に其の傾向は強まる気配もあります。


夜中にも延々と脳への激しい照射がありますし
思考回路の鈍くなっているのは
そんな事とも無関係ではないかもしれませんし
今現在も脳への電磁波刺激は続いています。


胃腸の方は一旦開放された様です。。

ただ、排泄と共に次の薬品が撒かれ
再びすぐに腸内で膨らみあがってきます。



関与してくる人間達はいつも通りだと思います。



いつも思うのですが
結果的には常にハンデを背負わされて
生きているようなそんな気分でもありますし


勘違いしている人間は私の行動を矯正してる
つもりでもあるかもしれませんが


現実には私は自分の能力を封印されて生きている
(仕方なく生かされている)そんな気もします。

AM10:15現在



私は一時は激しく勘が閃く機会がありました。


その傾向はどんどんと強まってもいたのですが
それと並行するように脳への照射も酷くなって行きました。


其のころの自分の勘の良さを
当時は自分の中の一種の特殊能力が開花しているのかと
考えたこともありました。


でもおそらくは現実はそうではないと思います。


社会の中の嘘や偽りを見つけては暴いていた私は、
無自覚に”原因と結果の法則”を利用していたのだと
今では理解できます。


(少なくとも私がアダムスキーの著書に目を通して
まだ一年経っていませんし、それまでは藤原忍さんの
”宇宙からの使者”でのみアダムスキーの事を知っていました)


結果に拘る私たちだからこそ
そして視覚と心の価値観・先入観に拘る私たちだからこそ


実証性・検証性に拘らされて見ることが出来なかった真の原因、
それを私は無意識に追及していました。


其の行為はまさに結果からの原因の追究であり
生命の科学の原因と結果の法則の練習に
他ならなかったのだと思います。


昔から何かとこの社会のあり方に違和感を感じ
それに疑問を持ってはイデオロギーにも走ったこともありますが
悪しき意味での保守意識や奇麗事の革新をも嫌うようになり、


自分なりの価値観を持って生きてきた私には
何事も表面で判断しないという習慣も
出来ていたのだと思います。


其の事が無自覚のうちに
”事の本質を追求しよう”と言う意識へと繋がって行った。


最後には”結果”を元に誤った”原因”へと
誘導されているのがこの社会である事に気がついて、
正しい原因を求め続けていた。


その行為は結果から原因を追究する行為ですし
しかも視覚や既存の価値観に拘らなかった私は
誤りである原因なる存在には騙されることも無かった。


(判り易く言えば、地震がおきた時に其の原因を
プレートの歪の所為にするのか、太陽からの電磁波の所為にするのか
電磁波科学力の存在を意識するのかと言うことです。


既存の価値観に騙されていれば自身は全て自然現象となる事は
言うまでもありません。))


其んな意識が結果的に精神を感じるきっかけとなり、
時には精神を無自覚に感じては
そこから何かを得ていたのだと思います。


それが神の意識の用意した正しい答えなのか
自らの宇宙的記憶なのか
ブラザーズの様な存在たちの想念なのかは不明ですが、
(私は想念だと思っていますが)


私は閃くことも増えたし
嘘と真実を見極めやすい思考にもなっていった。


そんな実態があったのだと思います。


そして私はそれを千里眼や直感像と言った能力では無いかと
考えるようになっていた。。。


おそらくはそうだと思います。


私達は千里眼や直感像といった能力を未知能力扱いしていますが
それは単に私達が本来持っている能力を
使用できただけの話であり


特殊な能力でも何でも無いと言うことを
今の私達なら理解できるはずです。


しかし私は今はそんな力さえ封じ込まれていると思います。


地球の信奉者にとっては
覚醒者の意識は邪魔物以外のなんでもないという事。


そして覚醒者を増やさない事自体が
彼らの目的になっているという事も
出来上がっている今の社会を見れば一目瞭然です。


其の傾向はアダムスキーのスペースブラザーズとの
コンタクト以来、逆に強まることとなり


今では加速化している、
人間を誤った価値観へと誘導するこの社会の風潮。


その大元となっている存在達の持っている価値観は
私達の理解出来る物では無さそうです。


長年かけて築き上げてきた地球社会支配と言う目的が
スペースブラザーズやアダムスキーの登場で
半ば危うくなったことに動揺を感じ
一気に攻勢を強めたとすれば


地球の法則の信奉者は全てを理解している事になります。

其の上でなおかつ地球の人間を誤った方向へと
誘導すると言う事ですから


彼らにも余程の覚悟があるのでしょうね。


それが魂の消滅覚悟の意識となれば
彼らにとってこの地球での80数年間は
とても貴重な時間となります。


彼らの誤った行動は自らの目的を完遂するための
創造主への抵抗と言う事になるのかもしれませんが。。。


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今日も聖書の一節からの引用です。


勘違いしないでほしいのは
私は数少ないブラザーズのマスターからのメッセージと捉えて
イエスキリストの教えを紹介していると言うことです。


そして彼らの生活の元となっている意識が
宇宙の法則なのですから
当然其の解釈も宇宙の法則を意識しての
内容と成っていると言うこと。


理解不能の方や既存の価値観に囚われて
読んで不快感をます方には読んでもらうつもりは無いのです。


理解できる方や理解しようとしてくれる方が
私の記事を読んでいただければ良いと思います。

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マタイ6章14節
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もしも、貴方がたが人々の過ちを許すならば、
貴方がたの天の父も貴方がたを許して下さいます。


もし人を許さないならば貴方がたの父も、
貴方がたの過ちを許しては下さらないでしょう。


また、断食をする時には、偽善者がするように
陰気な顔つきをしてはいけません。


彼らは断食をしている事を人に見せようとして、
自分の顔を見苦しくするのです。


よく言っておきますが、
彼らはその報いを受けてしまっているのです。


貴方がたは断食をする時には、
自分の頭に油を塗り顔を洗いなさい。


それは断食をしている事が人に知れないで、
隠れたところにおいでになる貴方の父に知られるためです。


そうすれば、隠れた事を見ておられる貴方の父は報いて下さいます。


貴方がたは自分のために、虫が食いさびがつき、
また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に
宝をたくわえてはいけません。


むしろ自分のため、虫も食わさず、さびもつかず、
また、盗人らが押し入って盗み出す事のない天に、宝を蓄えなさい。


あなたの宝のある所には、心もあるからです。


目は体の明かりです。
だから、貴方の目が澄んでおれば、全身も明るい事でしょう。


しかし、貴方の目が悪ければ、全身も暗い事でしょう。
だから、もし貴方の内なる光が暗ければ、
その暗さはどのようなものでしょうか。


誰も、二人の主人に兼ね仕える事は出来ません。
一方を憎んで他方を愛し、
あるいは一方を親しんで他方をうとんじるからです。


貴方がたは、神と富とに兼ね仕える事はできないのです。


だから、私は貴方がたに言います。


何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命の事で思いわずらい、
何を着ようかと自分の体の事で思いわずらってはいけません。


命は食物よりも勝るものであり、
体は着物に勝るものではありませんか。


空の鳥を見なさい。撒きもせず、刈る事もせず、
倉に取り入れる事もしません。


それなのに、貴方がたの天の父は彼らを養って下さる。
貴方がたは彼らよりも、遥かにすぐれた者ではありませんか。


貴方がたのうち、誰が思いわずらったからとて、
自分の寿命を僅かでも延ばす事ができますか。


また、なぜ、着物の事で心配するのですか。
野の花がどうして育っているか考えて見れば良いのです。
働きもせず紡ぎもしない。


しかし、貴方がたに言うが、
栄華をきわめた時のソロモンでさえ、
この花一つ程にも着飾ってはいなかったのです。


今日は生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、
神はこのように装って下さるのなら、
貴方がたに、それ以上良くしてくださらないはずが無いのです。


ああ、信仰の薄い者たちよ。


だから、何を食べようか、何を飲もうか、
あるいは何を着ようかと言って思いわずらうのを止めなさい。


これらの物は皆、異邦人が切に求めているものです。


貴方がたの天の父は、これらのものが、
ことごとく貴方がたに必要であることをご存知なのです。


まず神の国と神の義とを求めなさい。
そうすればこれらの物は、全て添え与えられます。


だから、明日の心配は無用です。


明日のことは明日が心配します。


一日の苦労はその日一日だけで十分です。


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自分の罪を神に許して貰いたければ
他人の罪を許しなさいとイエスキリストが触れています。


私達が他人の罪を許したからと言って
神がその他人の罪を許したわけではないと思いますが


少なくとも神と私達の一対一の関係を考えると
他人を許さず神の許しを請う行為は
自分勝手な意識だと言う事になるのだと思います。


私達が許さない他人は神の分身の一つだからです。


その神の行為を許さないで
自分の行為を許せと言う事が不条理である事を
私達は理解できます。


その神の分身としての他人が犯した罪が許されるかどうかは、
その他人と神との一対一での問題になってくると思います。
(勿論、許す許さないなどと言う人間的な判断など
ないと思いますが)


私達が求められているのは、
神の意識にあった生き方と考え方を
実践する事なのだと思います。


他人の罪を許すと言うのはとても難しい事だと思います。


私に言わせれば私のような被害者は
その行為を延々と受け続けているようなものです。


大体が許す以前に、その罪なる行為が
止んでいないわけですから対処も困ります。


でも私のような怒りんぼでも
彼らが改心すれば罪を追及しない意思があります。


それも”他人を許す事”だと思っています。


私の場合はその前に私が倒されそうですが。。


神はとても寛容な存在だと言います。


大きな罪を犯した人間でも
その後覚醒して神の法則に従えば


15回目の転生であっても恐らくは魂の消滅は
間逃れる事になるのだと想像できるからです。


問題はその意識を変える事が出来るかどうかという事で


他人を許せる寛容な心を持つ事が
神の意識である精神を強く感じるためにに必要な事だと
イエスキリストは触れているのかもしれません。


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そして今回の注目すべき話になります。


イエスキリストは、
「私達は二つの主人に同時に仕える事は出来ない」


と触れています。


そしてそこでは”神”と”お金”と言う
二つの主人を明確に引き合いに出していました。


おそらくはイエスの時代には
既にお金が人間の行動や意識を変えてしまうような
存在になっていたのだと想像します。


つまりは神に対抗する存在として
お金(富)が人間を誘導していたと言う事です。


もっと言えば神の意識が人間を誘導するのではなくて
お金が人間を誘導していたのだと思います。


そして、そのお金に執着する行為が
私達の意識を神の意識から遠ざけている事に
イエスは気がついていたのだと思います。


イエスは


「金持ちが天の国に入る事は
ラクダが針の穴を通るよりも難しい」


と言っていました。


つまりは不可能であると語っていたのです。


それはこの社会で金を沢山持っているような人間の資質に
イエスキリストは神の意識とかけ離れた物を
感じ取っていたからだと思います。


そして多くを持っている人間が
持たない人間に分かち与える事は


おそらくは神の法則では予定されている
人間の生き方なのだと思います。


イエスキリストは勿論テレパシーを使用する事が出来たはずです。
(それを示す箇所も聖書から引用予定です)


人の意識も想念も、
全てしっかりと感じとる事が出来たわけですから


イエスは人間の心の中に閉めるお金の存在の大きさに
気がついていたのだと思います。


そしてその存在が神の法則から人々を
遠ざける原因となる事にも気がついていたのではないでしょうか。


イエスは「着る物や食べ物の事で思い悩むな」
と触れています。


ここでの”着る物”や”食べ物”と言うのは
単に今で言う生活必需品と言う意味では無しに


私達がお金に執着する事になる
要因となる物全般だと捉えれば良いかと思います。


当時は今ほど多くの物で溢れている社会ではありませんし
多くの人間が自分の持ち家で暮らしていた時代ですから
お金がかかると言えば食べ物に衣類に装飾品がその中心。


それでも、お金に対して人々の執着は大きなものであり、
その事に危惧して触れたのがここのイエスの言葉だと思います。


そしてこれはもう一つ別の意味をも含んでいるようですが。。


イエスキリストはここでは鳥の話を取り上げて
神の法則で生きている鳥という生命体が、
食べる事に困ることなく


神の創造物である一つのフォームとして
神の意識を表現している存在である事に触れています。


鳥は自ら自然を育てるわけではありません。


でも間違いなく鳥は私たち人間よりも遥かに
精神に従って生きている存在です。


そして神は、自然も動植物も全てが調和するような
そんな社会を作り上げているのです。


(見えない鳥の役目として、
鳥が木の実を食べてその種を糞としてばら撒き
更なる木の成長を促していると言う事実もあります。)


生命体はこの物質社会で生きるためには
栄養となる食物が必要となります。


この社会を自らの意識で作り上げた神は
その事を知らないわけがありません。


つまりは動植物は人間が調和を乱さなければ
黙っていても神の法則、宇宙の法則に従って


そして神の意識を感じながら食料に有りつけ
生きている存在なのだと言うことです。


そして人間は本来は、そんな自然界含めた地球の中での
神の創造物としての最高の形態(フォーム)でもあります。


その神からの一番の祝福を受けている立場の人間に
神が生活の糧を与えないはずが無い。。。


神は私達が何を必要としているかを
知っているのだから。。


イエスはそう教えてくれたのだと思います。


残念な事に今の私達の社会では
お金について思い悩まないで済むような一般市民は
少なくありませんし


悩む度に私達の心はお金を介して現実社会、
今の社会の価値観に深く捉われる事になります。


そしてその事が私達の意識を神の法則から
遠ざけていると言う事も、
今の私達であれば理解できるはずです。


ただ、悩んでも悩まなくても困る時は困ると言うのであれば
悩まないに越した事はありませんし


平常な意識でいた方が心を乱すことなく
人間の作り上げた価値観に囚われることも無く
自らを精神を感じやすい状態に保つ事も出来ます。


誰も野垂れ死にしたいとは考えないと思いますが
地球の法則に服従する事で真の命へと進めないなら
野垂れ死んでも神の法則に殉じたいという人も居るかと思います。


イエスは十字架を背負って私に付いて来なさいといっていました。


イエスの使徒になるならば
イエスの教えを広報するため、イエスの教えを実践するために
そしてその事によって一人でも多くの人間を覚醒させるためにも


この現世での命を捨てる覚悟をしなさいという
例えでもあると思います。


私達がそれを実践出来るかどうかは別としても
永遠の生へと進むためには、


そしてイエスの教え宇宙の法則を広報するには
そのぐらいの覚悟も必要だという意味だと思います。


そして明日を思い悩むのは止めろと言う話は
不安を感じて生きる事を止めろと言う意味ですし


「真理は現在にある」というブラザーズのマスターの言葉とも


「明日の事を悩むな」と言うお釈迦様の言葉にも
通じる意識である事は何度も触れています。


悩むと言う行為は
心に捉われる行為に他ならないからです。
(楽観的に成れと言っている訳ではありませんのでご注意を)


イエスの例え話は単なる行動の規範であるだけでなくて
私達の精神の在り方を指し示した宇宙の法則の実践である事が
ここからも理解して頂けるのではないでしょうか。


聖書に存在していた、もう一人のマスターの言葉を
覚醒者は是非参考にして欲しいと思います。


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P.S.


おそらくは原始的な文明とは違って
複雑な経済の仕組みを作り上げ、
貨幣経済を中心とするような社会になったことが


私達の意識を神の法則から遠ざける事に
繋がったのだと思います。


ブラザーズ社会は原始的な共同共存生活を
そのまま暮らしつつ、


其の中で文明を進化させてきたような
社会だといえます。


皆で分かち合う事が前提で
彼らは必要であればそれを作り、必要の無い物は作りません。


地球の私達は、富に限りがあるのなら
それを誰かが余計に持てば
手に入れられない人間が出て来ることが理解できるわけですし


そうならないような社会を作る事が出来ていれば
今のようなお金や物に支配される社会にはならなかったはずです。


だからこそイエスキリストはお金の存在を嫌ったのだと思いますし
それを重視する意識に対して批判的な言葉を
投げかけたのだとも思います。


私が聖書の中で参考にしているのは
宇宙の法則を触れていると思われる
イエスキリストの言葉とブラザーズの気配を感じる引用です。


人為的改ざんの気配を、至る所から感じているので
その中からイエスの真の教えである宇宙の法則に照らして
正しいと考えるものを紹介させて頂いているつもりです。


聖人と呼ばれている人間の教えは時の経過とともに
弟子や自称弟子、更には聖人の教えを利用して
人間管理をしていた時の王達によって
都合よく改竄されて来たものだと思います。


その様な、人間が書き上げ編纂したものを
全て信じるなどと言う


時の支配者に都合の良い価値観など
私達は持つ必要など無いと思います。


教典なるものが全て正しいと言うことになれば
それは全てが神の法則に従っている事になります。


しかし多くの宗教の経典ごとに主張が異なったり
内容が違うと成れば、
そこには複数の神もしくは複数の宇宙の法則(普遍的真理)が
存在していることになります。


しかし普遍的真理は一つだけだからこそ
普遍的真理なのです。


つまりは多くの経典には
誤りが混ざりこんでいるのだという事に
成るのだと思います。


私は其の中の信頼して良いと思う内容で
なおかつ生命の科学を学ぶためにも
宇宙の法則を語っていると思える場所を引用しています。


都合の良いところを引用して
都合よく解釈しているつもりはありませんし


私の解釈こそが正しいのではないかと感じる方だって
中にはいると思うのです。


そんな方々の理解のきっかけとするために、
聖書の中のイエスキリストの教えを知るきっかけとするために、


そして宗教としてのキリスト教ではなくて
真のイエスの教えが道徳の実践と神の法則の実践に
あったと言うことを理解してもらうために


聖書に興味を持っていただければと思います。


私達の生命の科学を学んだ目を持って読むと
不思議とよく理解できる内容も存在しています。


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