真訳聖書 VOL 6 | 不幸のブログ 

不幸のブログ 

三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

どこかのカルト信者らしき人間達が戦闘態勢に入ったようなので、
この際触れておきたいことがあります。


真下の部屋に出入りする創価学会広宣部幹部らしき人間は
私の腸を締め付けてはトイレ妨害をしつつ顔を浮腫ませ続けています。


彼らにしてみれば、組織的犯罪に関しては
”加害者は創価学会だけでない”という私の主張は利用できますが


宇宙の法則を広報する私が邪魔で仕方が無いのは、
他の宗教関係組織とまったく同じ、
もしくはそれ以上の敵意を私に持っているのかもしれません。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

実は宇宙の法則に引用していたスペースブラザースの指導者である
マスターの言葉を一通り記事に引用し終えました。


元々、アダムスキーの著書では
コンタクト当初の頃しかブラザーズやマスターの言葉は
取り上げられていなかったのでその数も多くはありません。


(まだ、宇宙の法則の続きの記事は公開していませんが
あと、5つ(番外編含めると6つ)の記事が残っています。)


かといって、私が何かを語っても
私は自分が単なる一市民として宇宙の法則を
皆と一緒に学んでいる最中ですし、


私の言葉ではどうしても記事が軽くなるかと思います。


巷に溢れる偽善者や偽聖人の教えに対抗するには、
私では地球の法則に拘る人間達にとって
付け入る隙だらけだからです。


(例えば組織の中に宇宙の法則に興味を持つ人間が現れれば
私の人間性を陥れることでその信憑性をも陥れてくると思います)


そこで、今後はやはり、
アダムスキーやイエスキリストの言葉などを取り上げては
それを記事にして行った方が良いのではないかと考えています。


私がいくら陥れられようと記事の信憑性には無関係だからです。


(私が理解して欲しいのは宇宙の法則であって
私が勝手に作り上げた哲学ではありません。)


物事の内容を解釈し、それを皆に説明する事に関しては
今の私であっても役割は果たせると思います。


私は自分が、皆さんと同じ
単なる神の分身である全ての人間の中の一人である
と思っていますし、


偽善精神サイトのエセ教祖のごとく、
心にもない綺麗事を語る気は毛頭ありません。


私的に語っているものは、全ては私の本音です。


そして闇政府の策略を隠蔽するような誘導など
一切しません。


ただ、私のような単なる一般市民は
敵対人物を少しでも陥れては、自分達の事を美化したい人間にとっては
容易に陥れる事の出来る存在ですし、


彼らの嘘や隠ぺい工作で
必要以上にその印象を悪くされてしまう事も間違いありません。


闇政府傀儡達は、美化したい人間に関しては
広報でも印象操作でも何でも繰り広げその美化に協力し
カリスマにでも奉りあげますが、


一方は陥れたい人間に関しては
ありとあらゆる方法でその人間の人間性を陥れます。
(意外と私への風貌への関与もそんな事と無縁ではないかもしれません)


それを考えると
単に私が記事で自分の気がついている事を単純に語るのでは
内容が軽くなってしまうかと心配しているのです。


ただでさえ、”宇宙の法則”を認めたくない人間達は
今後は組織の信者にはあらゆる手を使用しては
その実態を隠蔽し続けてくると思います。


組織の運営を今まで通りに続けたいと思えば
殆どの宗教にとっては”宇宙の法則”は”普遍の真理”ではなくて
とても目障りな騒音なのです。


しかし、いくら私の事を陥れて
組織の運営を今まで通りに続けようとしても
私の記事の内容だけは陥れる事が出来ない。。


私はそんな記事を書く事を意識しています。


カルト組織の工作員達の姑息さは先日の記事の通りです。


本音を言えば、日本の特定の宗教組織が
丸ごと”宇宙の法則”を理解して
その広報に協力をしてくれればと夢見ているのですが


宇宙の法則を認める事は
多くの宗教組織にとっては死活問題にもなります。


大体が、宇宙の法則は多くの宗教の大前提である
霊界としての天国の存在を否定しています。


霊魂絡みの話の殆どが、ここで否定される事になるので
多くの組織ではそれで経済的にも打撃を受けます。


この精神の実践レベルは心の問題であり
組織内部の経典の知識ではないので


特定の人間が残りの人間を指導すると言ったレベルにまで
到達することは難しいわけですし


教祖も幹部もこの法則の前では
他の全ての信者と同レベルからのスタートです。


ピラミッド型の組織など作れるわけもありません。


経済的な目的があればそれも果たすことが出来なくなります。


宇宙の法則の中心にあるのは道徳であり宇宙意識であり、
万物との調和であり”神と個人との一体一の関係”だからです。


つまりは極端に言えば広報には組織力が有効ですが
信仰には組織は必要が無いのです。


もっとはっきりいえば
宇宙の法則では組織は「お金にならない」わけです。


神を信奉している従来の組織の場合はまず独自の教えがあり、
それを自ら理解していると言うことで
その広報者は、人を集め、


そこからお布施や献金をもらう事で経済的にも潤ったでしょうし
集まった人間達は広報にも協力をしてくれた事でしょう。


経典を深く理解していれば信頼も尊敬も得られたかもしれません。


宗教組織は、今の社会の中では。経済力や機動力、
最近では社会的地位や権力まで


とりわけ組織の活動のために必要なものが
全て手に入っています。


しかしこの宇宙の法則は決してお金には成り得ません。


まず、経典が存在していませんし、
これを理解している教祖や創始者、幹部と言った人間は存在していません。


そして宇宙の法則は物欲や私利私欲といった
お金に直結するものとは無縁でもありますしそれは否定の対象にもなります。。


そしてこの信仰は、
人に教えてもらう事も殆ど出来ません。


この現在の地球社会の中には指導者が居ないのですし、
元々が神の意識である私達の精神との会話であり、
自分の理性を動員してのエゴなる心との戦いだからです。


指導者が存在しないと言う事は
組織の目的が経済的利益や人間の管理である場合、
教祖や組織が一切目的を果たす事が出来ないと言う事にもなります。


そして本当の神の教えとはそのような物であるという事。


お金を出さなければ救われないような宗教、
お金を出せば救われるような宗教とは
一線を隠したものなのです。


それを全て理解した上で、本当のボランティアとして”神への奉仕”として
宇宙の法則を実践してくれる組織がどこかに現れて
組織丸ごと意識を変えてくれることを願っています。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここからが本題です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



聖書の中に、”イエスキリストが信仰の深さ”について
例えを用いて触れた1節があります。


信仰と聞くと宗教に興味ない方には引かれてしまいそうですが


ここでは”宇宙意識の覚醒の度合い”、その”意思や精神の強さの度合い”と
解釈していただければ良いのではないかと思います。


私たちはイエスキリストという人間を信仰するのではなくて
イエスの伝えた、私達のあるべき心のあり方を理解する事が大切なのですから、


イエスが触れていた内容を
まずは正しく理解すべきだと思います。


それと一部で噂のある”イエスが仏教を学んでいた”と言う話は
古代史の専門家の中では事実とされています。


もっと詳しく言えば仏教というよりは密教なのですが
それを学んだ後に伝導を始めたと言う話のようです。


ゴータマシッダルタもブラザーズの転生だったそうですが
釈迦の教えは少し一般庶民には難しすぎたと思います。


多くを学ぶことが必要で、
原典となるものも少し難しい話でした。


(実はそうではなくて、仏典の90%以上は釈迦の言葉ではなくて
釈迦の教えを告いだ人間達が
勝手に書き加えたものだったようですが)


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11009631713.html
(宇宙の法則VOL1)


もしかしたら釈迦が説いた神の法則を
如何に庶民レベルにまで砕いて説明するかを
イエスキリストは意識していたのではないかと思うほど


イエスキリストの例え話は
判り易い内容が多かったのも事実です。


その感覚は間違いなく庶民レベル。


今の私達はそれを理解する事で、宗教の種類や組織関係なしに
兎に角”宇宙の法則”なる存在を、自らの精神の中から見出して
それを追求していけば良いのではないかと思います。


そして私同様に特定の宗教組織に所属していない方は
私の記事などがきっかけで
この法則を学ぶ事になってくれればと思います。


そして勿論、私の理解者は
是非一緒に”宇宙の法則”を追究していければと思います。


(アダムスキーはキリスト以上に私達に分かり易く説明してくれましたね。


実はアダムスキーは、
過去の地球での転生でイエスキリストの弟子だった事があるそうです)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


マルコ4章2節


イエスは例えによって多くの事を教えられた。


その教えの中でこう言われた。


「よく聞きなさい、種を撒く人が種まきに出かけた。

撒いているとき、種が道端に落ちた、すると鳥が来て食べてしまった。


又別の種が土の薄い岩地に落ちた。


土が深くなかったのですぐに芽を出した。


しかし日が昇ってくると焼けて、根がないために枯れてしまった。


又別の種がイバラの中に落ちた


ところがイバラが伸びてそれを塞いでしまったので
実を結ばなかった。


又別の種が良い地に落ちた。


すると芽生え、育って実を結び、
30倍、60倍、100倍となった。


そしてイエスは言われた。


「聞く耳のあるものは聞きなさい」


中略


種撒く人は御言葉を撒くのです。


御言葉が道端に撒かれると言うことは
こういう人達の例えです。


御言葉を聞くと直ぐにサタンが来て
彼らに撒かれた御言葉を持ち去ってしまうのです。


同じように岩地に撒かれると言うことは
こういう人達の例えです。


御言葉を聞くと喜んで直ぐに受け入れるのですが
根を張らないでただ、暫く続くだけです。


それで、御言葉のために国難や迫害が起こると
直ぐにつまづいてしまいます。


もう一つのイバラの中に撒かれるとは
こういう人達のことです。


世の心遣いや、富の惑わし、その他色々な欲望が入り込んで
御言葉を塞ぐので実を結びません。


良い地に撒かれるとは御言葉を聞いて受け入れて
30倍60倍100倍の実を結ぶ人達です。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ここでイエスキリストは人々に神の御言葉、
つまりは宇宙の法則に繋がる道徳を語って聞かせた時の
人々の反応について例え話をしてくれました。


私のブログの記事を読んだ方だって、
内容を一瞥して鼻で笑う人から


記事を深く読んで納得して、
私が語る以上のものを見つめている方だっています。


同じ知識を与えられても、その人によって理解度も変わるのですし
まして心のあり方の話となれば
自分の意思が関わって来る問題でもあります。


そしてイエスキリストは、その宇宙の法則とも居える道徳を
人々がそれぞれどんな受け止め方をして
それをどう実践するのかという事を


”種を撒いた時に植物がどう育つのか”と言う事に例えて
説明してくれています。


まず、神の言葉、宇宙の法則はそのまま情報でもあります。


一人の人間に受け止められて、そのまま消えてなくなる事もあれば
それが多くの人間に広報される事になる場合もあります。


ここでは第一段階としてイエスは悪魔によりその情報が消されること、
もしくは理解の妨害を受けると言う事を取り上げています。


おそらくはこの場合の悪魔と言うのは
大昔地球の中で神を演じていた人間の手による教えの名残が


イエスの語る真理の理解を妨害したり、
拡散を妨害するような場合として例えられたのだと思います。


悪魔が御言葉を持ち去る事で、
それはその人間の心の中から消えてしまう。


当然その言葉はその人間の心の中に残る事にも無くなる訳ですし


その結果せっかく神の法則に触れながら、
その人間は真理に近づく機会を逃してしまう事になります。


次に


御言葉を聞くと喜んで直ぐに受け入れるのですが
根を張らないでただ、暫く続くだけの人間について触れています。


そんな人間達はその場では理解をしめし、
神の法則の存在を意識するのでしょうが、


直面する現実社会で圧力や偏見があればそれに屈して
正しいと確信したその法則を容易に捨ててしまう事になるわけです。


今はこんな社会ですから、当然色んな宗教もイデオロギーもありますし
その間でも争いもあるようですし、


気に入らない意識を持っている人間は
私のように、そんな人間達に圧力を受ける事もあると思います。


しかし正しいと思った事を実践し遂行する事を
圧力や脅しに屈服して止めてしまう事になれば


いくら理解していたとしても
結局は何の実践も出来ていなければ、理解していない人間達と
何の代わりもないと言う事になります。


更には宇宙の法則(道徳)を理解しながら
目先の価値観や現実社会に捉われて
自らの欲やエゴに心が行ってしまう人間について触れています。


実はこれこそが多くの一般市民の実態ではないかと想像しています。


イエスの教えには
本来私達が学び取り実践すべき内容があるわけです。


それは心のあり方として、


自分のエゴに捉われることなく
人間の作り上げた価値観に捉われることなく
内なる精神に近づけるためにも意識し続けられなければならないものです。


それが実践出来ていなければ
自分がイエスの教えを実践していると考えたとしても
現実には実を結ぶ事はないと説明してくれています。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


私達が一番気を付けるべきなのはまさにその事だと思います。


この社会でまかり通っている常識と
イエスの語る真理はあまりにもかけ離れすぎているからです。


極端な事を言えばその向いている方向は180度異なっていると思います。


まず、この社会はお金と物に執着することが半ば当たり前とされている社会で
「お金があれば何でも出来る」と、
お金の存在を半ば神聖化している人間もいます。


現実問題お金がなければ食料すら買えませんし
ただ、生きているだけでも様々な費用が発生し
嫌でもお金の存在感が身にしみる社会でもあります。


もしも自分で家を作り、その中に住んで
自分で畑を耕し自分の食べるものを作っていたとしても


固定資産税に最低の住民税、電気を利用すれば電気代
TVがあれば受信料も発生します。


お金と無関係で居られる人間はいないのです。


そして様々な方法で物欲を刺激され続けている私達は、
新たに発明される”文化”である”新製品”とも無縁では居られません。


たとえば携帯電話が普及した事で多くの公衆電話が消えれば
そのうち嫌でも携帯電話を必要とするようになるでしょう。


そんな仕組みを意図的に作り上げてきた人間が居るのだと
私は理解していますが、


それを別としても、イエスキリストが否定していた、
”現実社会に富を蓄える行為”がこの社会では正当化されまかり通っていて


それどころか、”勝ち組負け組み”などと囃し立てては
裕福な人間、富を蓄えた人間を社会の勝者として奉り上げる風潮すらあります。


イエスキリストは、
この社会の中でエゴと物欲に物を言わせて財産を溜め込む事は誤りであり
それは分かち合うものであると語っていました。


ためるべき宝は、見えない徳の実践や道徳の実践により
天にこそ積むべきであるとも教えてくれています。


そんなイエスキリストは”勝ち組”の人間を見て
「あなたは神の国にいけます」


と語るのでしょうか。


そして本人が富を持っていなくても、
潜在的に、そんな勝ち組と言われる人間達を羨んで


”自分もそうなりたい”と考えているような人間を


「貴方は神の御心を理解している」


と褒め称えてくれるのでしょうかと言うことです。


この事は、私達人間が自ら作り上げた価値観に縛り付けられていて
神の法則からかけ離れていることの象徴でもあるのです。


更には、個人レベルのエゴの問題です。


アダスムキーが
”個人的真理(自分を満足させること)を追究することが
エゴ(心)の自然な行動である”と話していましたが


その個人的真理を満たすためにエゴは
自分の欲求にこそ忠実であろうとします。


そこで問題となるのはその欲求の問題です。


個人的真理が限りなく宇宙的真理に近ければ
それは問題となりません。


その時は個人的真理の実践はそのまま宇宙の法則の実践へと
繋がることになるからです。


しかし現実問題、個人的真理の殆どは、
この現実社会の価値観により影響を受け作り上げられるものです。


目で見て耳で聞いて、口で食べて鼻で嗅いで
それで得た知識や情報がそれを構築する事になりがちなのです。


つまり個人的真理は個人レベルの体験や知識に
左右されるものであると言う事です。


多くの人間は、普遍的な真理を何もかもを知っているわけではありませんし
私達の体験できる事も知識として知る事が出来る事も
当然限られる事になります。


そしてその経験や知識の少ない人間ほど
更にはその知識や経験が人間の作り上げた価値観に
影響を受けている人間ほど


その個人的真理は宇宙的真理とかけ離れることになります。


そして個人的真理の直接の要因は私達の欲求です。


それがどんな形のものであったとしても
食欲でも、物欲、権力欲、名誉欲、性欲、支配欲、


その他、何であったとしても
その殆どは個人を満足させるためのものであり
万物との調和を求めた宇宙の法則とはかけ離れる要因ばかりなのです。


無意識のうちにそのような欲求に捉われている人間は
自然と宇宙の法則(道徳)など意識しなくもなりますし


例え自分では宇宙の法則を学び実践しているつもりでも
神の御言葉から離れてしまった人間や


悪魔にだまされてそれを捨ててしまった人間と、
結果的には同じ立場に居ることになります。


そして私達が悟るべき事は、
世間の風潮や世論が正しい人間のあり方を語っているわけではないと言うこと。


多くの人間がその道を進んでいるからと言って
その道が正しい道とは限らないと言う事です。


私達の価値観は恐ろしいほどの変貌振りを見せています。


具体的には述べませんが
20年前にはそんなことを言ったら軽蔑されるような


非人道的な価値観や守銭奴のごとき価値観を持った人間の言動が
批判される事もなく平然と受け止められる状況でもあります。


多くの人間がそうであるからと言って、
多くの人間がそんな価値観を重視しているからと言って


自分も何も考えずにその流れに染まれば、
気がつくとイエスキリストの教えとは180度異なった行動を
とって居たと言う事にもなりかねないのです。


(お金の価値観を高めてきた人間達は誰でしたか?)


そして先日も取り上げましたが


「狭き門から入りなさい、。。。」


それがイエスが私達に警告してくれた
神の国への道しるべだと思います。


私達の多くの仲間達は、
”広き門へと繋がる誤った広い道”を、
正しい道と信じては疑うことなく進んでいます。


しかしその先には
誰もが行きたいと願う天国など存在しては居ないのです。


私達は先ずその事を理解した上で、
他の仲間を正しい道へと誘導しなければならないのです。


私達は狭き門へと続く、
細く目立たない道を歩んでるのですから。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

P.S.


イエスキリストの種を撒く例えのように
私達の中には、一言の教えでその数十倍の内容を理解し
更にはそれを広める事の可能な人間だって出てくると思います。


正しい道を実践し続けるには知識も大切ですし、
強い意思を持つ事と、私達の心がどの程度真理を理解しているかにも
かかってくるのだと思います。


イエスキリストを慕うクリスチャンにも
断言しておきたいことがあります。


この世界にはキリスト教の教会であることを語っては
キリストの教えの上っ面だけを伝授して
信者をミスリードしている人間達が居ます。


第一にキリストは自分の教えのために
教会を立てろとも言ってませんし


教会に行った時にだけイエスの言葉を学んでも
それはイエスの教えの実践にはなりません。


(教会で懺悔をする事で罪が消えると言うのは
誰が作り上げた法則なのでしょうね。。)


イエスキリストの言葉の意味を理解している人間は
日常のあらゆる場面で
それを実践する努力をする事を求められているのだと思います。


闇政府の一派は
”イエスの弟子(キリストの教えを実践する人間)を皆殺しにしろとまで
言っています。


それほどまでに彼らが嫌う、イエスキリストの本当の教えは
勿論、道徳であり宇宙の法則なのです。


それを実践させないためにも
イエスの教えを誤った解釈に誘導させるためにも


そして時には寄付金やお金のためにも、
イエスの弟子達を誘導し騙し続けて居る人間達が世界中には大勢居て、


今ではカトリックの総本山である
バチカンまでもが闇政府の支配下にあることを
真性クリスチャンとその予備軍は理解すべきだと思います。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー