真訳聖書 VOL22 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


食事をすると途端に大腸に激しい電磁波照射を感じています。


大家の仲さんもサインを出していますし
金井のアル君ばかりにに私の意識がいかないように
色々振り回しているようにも思えます。


脳狙いのようです。


今頻繁に攻撃を仕掛けている金井のアル君と
そのお仲間達の組織は一体どこのどんな組織でしょうね。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11161645709.html
工作員への右ストレート前編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11161647845.html
工作員への右ストレート後編
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-268.html
工作員語録 VOL1
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-270.html
工作員語録 VOL2
http://uruseiblog2.blog85.fc2.com/blog-entry-271.html
工作員語録 VOL3
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11185678410.html
工作員語録 VOL4 その1
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11185706235.html
工作員語録 VOL4 その2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11208890562.html
工作員語録その5


ここ数日は顔面への照射も続いていて
人相を変えられている状態でもあります。


目や鼻や眉間や額、表情が変わりつつあります。


顔にもこだわるのがこの人間達の特徴です。


日本人の顔に恨みでもあるのか
余程日本人の顔が嫌いなのかのどちらかでしょうね。


創価学会広宣部や協力在日が無関係ではないとしても、
それだけでは説明できない
親米系親韓系の強い意識をも感じています。


公安系・警察系の協力者とか
特定の人間達をその中に含んでいるとも想像しています。


要するに日本の中の国家権力は
この人間達を意図的に放置しておくことで


この人間達を利用して
過去のこの社会の実態の清算をさせているのだと思います。


「組織的犯罪、とりわけ科学力を使用した犯罪は
国家とは無関係である。。。」


そんな状況に誘導するためにも
目だって暴れるような人間道徳心の足りない人間、
思想や宗教で洗脳された人間を利用してその証拠隠滅を実行中。


となれば組織的犯罪被害者とユダヤ策略の
実態を理解している人間ほど、
この人間達に狙われる事になると思います。


このままでは、その結果出来上がる灰色の社会を
一般人の多くがその実態に気がつかないまま受け入れる事になります。


この社会は、ますます創造主が予定していたであろう
人間社会からかけ離れたものへと変貌していくと言うことです。


一時は”もしかしたらこの社会が良くなるかもしれない”
と期待した事もありましたが


フリーメーソンの人間達が、
道徳心の足りない人間を集め、


末端としての更なる”フリーメーソン”なる
悪役組織を作り上げ


宗教組織や在日と連携させては
攻撃を続けていると言うことは


日本の中のユダヤ教徒パリサイ派サンヘドリンの傀儡は
自らは息を潜めて自らの手を汚すことなく


道徳心を失った人間と誤った価値観に囚われた人間を利用しては
彼らの野望を果たそうと行動している事に他なりません。


時々触れていますが、

まともな意識を持っている人間、
とりわけ被害者と覚醒者でこの人間達の狂気の洗礼を
今受けている人間は、


心の中でこの社会からいつでも卒業していく準備を
しておいてほしいです。


覚悟が出来ていれば
私のごとく精神的に戦いながら
広報することも出来ます。


死を含めて何も臆することはないからです。
(いっておきますが自殺をしろなどとは言ってはいません。
命がけで地球の法則と対峙しては貰えませんかと言っているのです)


出来るものなら私と一緒に、
この地球の法則から一般人を救済する
きっかけになって欲しいのです。


以前は、心で理解してこの社会に長く生きることで
一人でも多くの人間に影響を与えて欲しいと思いましたが
彼らの洗脳行為はこれからが本番のような気がするのです。


つまり時間の経過と共に覚醒者は潰されていく事になる、
もしくは意識を変えられていく事になりかねないと言うことです。


結果、地球の法則に囚われるような事になるぐらいなら
十字架を背負って私と共にイエスキリストの後ろを
ついていって欲しい。


そして今すぐにでも一人でも多くの人間を
この社会の実態に気づかせて地球の法則からの
卒業を誘導して欲しい。


そのほうが良いのかもしれないと
今は感じています。


(この人間達は、時間をかけながら自然を装って
地道に精神汚染をも続けている可能性に気がついたからです。


低い周波数の波動の影響を私達の脳へと与えることが
間違いなく可能なようです。


それに耐えるには
かなりの強い意志がなければならないと思います))


こんな人間達の餌食になる人間が
一人でも減るようにこの社会の実態を広報し続ける。


そして出来れば、自らはしっかりと道徳心を保ち
人間としてあるべき生き方と自分の生まれてきた意味を
しっかりと理解する。


半ば生き地獄と化したこの状況が
はっきりと見えている数少ない人間達が


そして私達人間のあるべき姿を理解した
一握りの人間達が、


その実態をこの社会の眠っている人間達に広報し
彼らの覚醒のきっかけを作っていく。


もしも結果として
自分がこの社会では報われる事がなかったとしても
私達はそれを嘆く必要はありません。


普遍的真理の一環である”原因と結果の法則”は
人間が心で作り上げた”地球の法則”とは異なります。


そこでは結果が全てではなくて
そこに至るまでの過程やその時に導き出した因の動機を、
私達の精神は見つめているからです。

(創造主はすべてを理解していると言うこと)


低い意識の動機で偶然最良の結果が出たことよりも
尊い意識の動機で良い結果が出せなかった事のほうが
きっと創造主の法則の元では報いが大きいと言うことです。


私の主張をぜひ理解して頂いて
最後まで今自分が出来る事を実践して欲しいと思います。


こういうことをコメントすると
件の工作員が”テロを煽っている”とか
”集団自殺を勧めている”と局解して暴れるかもしれませんが


正しいことを正しく主張することがテロであり
加害者達に抹殺されることが自殺だと言うのなら


この社会の常識はすでに創造主の法とは
まったく無関係の状態になっていると言う事だと思います。


私達はその社会の中で残りの人生を
魂をこれ以上濁すことなく
生きていかなければならないのだと思います。

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自分が入らないだけでなくて
人が入ろうとするのを妨害する。


そんな意識の人間達は何を言っても無駄のようです。


彼らには”輪廻転生”も信じることはできない様ですし
彼らにとっての天国は地上の楽園か神の国。


そして彼らにとっての幸せは
この社会で面白おかしく暮らして
物質的に豊かになることだと思います。


「他人をも躓かせる人間は
ゲヘナに投げ込まれればいいのです。」


というイエスの言葉が
正直彼らに対しての最近の私の想いです。


でもゲヘナは実在してはいませんし、
創造主の法則からかけ離れた物は
存在し続けることができないと言う自然の摂理を


彼らが身をもって理解する瞬間がいつかうちやって来るだろうと
半ば諦めの状態でもあります。


救われる人間、神の法則に気がつく人間は極めてまれで、


多くの人間が広い道を進んで広い門から入っていくと言う
イエスやアダムスキーの話が
この社会の現実なのだと言う事も身にしみて感じています。


”自称”地球の法則からの卒業者であり
覚醒者である私に対しても


意識を下げて彼らと同様にするための
脳への照射が延々と続いていますし


死人が死人を葬り盲人が盲人を導くその状況は
今後この社会の中で拍車をかけていくのではないでしょうか。
(ゾンビ=脳を洗脳された人間がゾンビを作り上げてもいますし)


自分が普遍的真理を理解しないのも
自分が神の法則を実践しないのもそれは彼らの自由です。


そのためにも創造主は私達に心なる自由意志を
魂の側面として私達に与えてくれたはずです。


しかしそれをもって他人が普遍的真理に誘導され
父なる神の元へと戻ること


神の法則を広報することを妨害することは
許されないと思います。


それは結果として他人の自由意志を認めない行為だからです。


イエスの言っていた偽預言者・偽救世主で溢れるこの社会に
真理なるものを伝えることが可能なのか?


宇宙の法則一つとっても、
この社会の語っている宇宙の法則は表紙だけで


中身は引き寄せの法則や波動の法則と言った内容を前面に押し出し
誘導先は現世での幸せとなっているのが実情です。


数少ないアダムスキーの理解者と
真の宇宙の法則を理解している人間だけが
創造主の元へと戻り、


永遠の生へのパスポートを
手に入れているに過ぎないのだと思います。


宗教と異なり神の法則は規定も規制も戒律もありません。


そして結果的に実行すべきは道徳に従って生きることに
他なりません。


その意味では、もともとが道徳的で魂が濁っていない人間は
これを知らずして永遠の生へと向かうことになると思います。


しかし私達大多数の人間は魂が濁り
道徳心を失いつつあるのも事実だと思います。


そんな人間が多いから、そんな人間こそが
この生命の科学と宇宙の法則を理解して
救われなければならないのだと思います。


私達はきっかけがなければ普遍的真理を知ることも
出来ない状態に置かれているからです。


イエスキリストは、収税人達と食事をしていた時に

パリサイ人の質問に対して答えて言いました。。


「私は罪人こそを救いにきたのだ」と。


二種類の善人なる人間には救いなど必要がないからです。


罪とは殆ど無縁で、元々が神の予定している通りの
人間の生き方を実践している善人と、


自分が何事も正しくて
間違ってはいないと考えている善人は、


イエスが直接指導する必要もない
もしくは指導しても無駄だからだと思います。


そして罪人=自分を罪深い人間であると理解し
自分が数多くの罪を繰り返してきたことを理解していて
それに対して反省する意識を持った人間こそが


イエスキリストの手によって救われる事に
なったのだと思います。


しかし現実問題、罪人は多いはずなのです。


私達の多くがそれを自覚していないだけなのです。


キリスト教に”原罪”なる言葉が存在しています。


私達の祖先が、”善悪の木の実”から実を取って食べたその時から
私達は罪を背負って生きていると言う話でもありました。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11027399873.html
”原罪”と”イエスの救い”と”知恵の実”と”真実の実”


善悪の木の実からその実をとって食べた人間が
なぜに罪を犯したことになるかと言えば


神の法則には存在していない善と悪なる価値観を持ち、
人間が心を持って物事の善悪を
自ら判断するようになったからだと思います。


その結果、心が好む事、心地良く感じることを中心に
私達は勝手な価値観を作り上げ


善悪の基準まで自分の心の価値観によって作り上げるように
なったからだと思います。


生まれた時には実際はそんな意識を持っていなかったとしても
(記憶を失っての転生なので)


物心つく頃までにはこの社会の中で
善悪の基準を植え込まれることになり


結果、私達はその基準を持っては物事を判断し
争いや区分・差別を生み出してきたのです。


そして神の意識には存在しないその感情と価値観、
精神には存在してはいないその価値観を持って
生きる様になった事が、


実は本当の意味での人間の原罪なのかもしれないのです。


それを振り払って創造主の法の下へと戻ることを
私達の多くは学ばなければ実践することは出来ない。。。


私の記事を読んで理解してくれた人達は別としても
今から生命の科学の知識が必要なのは
そんな原罪に囚われた人間かもしれない。。


そして私達が今まで地球の法則に囚われ続けて来たことを考えれば
私達はそこからの覚醒を促すためにも、


生命の科学と宇宙の法則
そしてユダヤ教パリサイ派サンヘドリンも実態を
語らなければならないのだと思います。


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さて、ゼベダイの二人の子ヤコブとヨハネが
イエスの所にきて言った


「先生。私達の頼みごとを叶えていただきたいと思います」


イエスは彼らに言われた。


「何をして欲しいのですか」


彼らは言った。


「貴方の栄光の座で一人を先生の右に、一人を左に座らせてください」


しかし、イエスは彼らに言われた。


「あなた方は自分が何を求めているか判っていないのです。
あなた方は私の飲もうとする杯を飲み、私の受けようとする
バプテスマを受けることが出来ますか」


彼らは
「出来ます」と言った・


イエスは言われた。


「なるほどあなた方は私の飲む杯を飲み、私の受けるべき
バプテスマを受けはします。


しかしわたしの右と左に座ることは私が許すことではありません。

それに備えられた人々がいるのです。」


十人の者がこの事を聞くと、ヤコブとヨハネの事で腹を立てた。


そこでイエスは彼らを呼び寄せて言われた。


「あなた方も知っているとおり異邦人の支配者と認められたもの達は
彼らを支配し、また偉い人たちは彼らの上に権力を振るいます。


しかしあなた方の間では、そうではありません。


あなた方の間で偉くなりたいと思う物は
皆に仕える者となりなさい、


あなた方の間で人の先に立ちたいと思う者は
皆のしもべになりなさい。


人の子が来たのも、仕えられるためではなく
かえって仕えるためであり、また多くの人のために
贖いの代価として自分の命を与えるためです。」


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宇宙の法則に通じる意識の一つとして
「謙虚」なる物があることを
私達はブラザーズのマスターやアダムスキーから学びました。


誰もが高いプライドを持って
心を暴走させているこの社会の中で


謙虚さなる意識を持つことは大変だと思います。


私達の社会で謙虚さを示す立場の人間は
常に向き合ったときに弱者の立場の人間である場合が多いからです。


他人に物事を頼む立場の人間は謙虚さや低姿勢を示すでしょうし
営業マンは物を買ってもらうためにも
低姿勢で営業をし続けます。


謙虚さはそれと同様に捉われがちだと思います。


目上の人間の前では謙虚な態度をとることこそが
当たり前とされている社会ですし


多くの場合は謙虚な姿勢はそんな場面にこそ多用され
人間同士の立場の上下ににも直結している意識だと言えます。


しかしここでイエスキリストが触れている内容こそが
宇宙の法則の中において私達が持つべき
大切な意識としての”謙虚さ”なのだと思います。


私達の社会では謙虚さは弱さと受け止められがちです。


弱者が強者に対して見せる態度と取られているとも思います。


それは時には媚と受け止められることさえあります。


そして偉いとされる人間は
多くの場合其の謙虚な姿勢をとることも無く
時には踏ん反り返っている事が威厳とされますし


そんな人間が謙虚の姿勢を見せるときは
一般人の覚えを良くするためのポーズで


それで第三者に良い顔をして見せても
側近や家族には横柄だったりするかと思います。


そして謙虚さは媚や諂いや迎合と同様に扱われ
その大切さを理解される事もないというのが現実です。


つまり私達の社会では謙虚さは弱さであり
媚であり従順であることであると勘違いされていて


神の意識の謙虚さは理解されていないのです。


ここではヨハネとヤコブが
当時の社会風潮となっていた偉い人間が
主人の側近にもとりいられれると言う意識を持っていて


イエスキリストの弟子の中で誰が偉いかを
イエスに決め手貰おうという意図を示すのですが


それを機会にイエスが
弟子に謙虚さについて語った場面だと思います。


イエスの教えは神の法則に従った物ですから
勿論、謙虚さの大切さをも触れていたはずです。


そしてここではイエスは弟子達をたしなめるように
謙虚さについて語ってくれたのだと思います。


イエスの弟子であれば社会風潮に踊らされること無く
謙虚さの意味を理解しなければならない。


高い地位を得て威張り散らすことが
ふんぞり返っている事が偉さではない。


宇宙の法則に照らせばそういう事になるのだと思います。


アダムスキーも触れていましたが
自分が立派な人間になりたいと思えば


自らを低くして万人に対しての奉仕者となりなさいと言うのが
神の法則の意識なのだと言うことです。


それ以前に「他人よりも偉くなりたい」と言う意識自体が
精神の意識を強く感じる人間には存在していないはずです。


誰もが平等であり差別の必要が無い事を
気がつくことになるからです。


私達の社会の悲劇はここにもあると思います。


ブラザーズ社会であれば、
もしも他の誰もが嫌がるような仕事でも


それが必要とあれば率先してやるような人間こそが
評価される事になるのだと思います。


誰もが容易に出来て心地良い仕事であれば
それをすることは何の苦にもなりませんし
精神的な進歩も無いからです。


しかし誰もが嫌がることを率先してする行為は
そういう意識自体が高く評価されるでしょうし


その行為は尊く受け止められ
その人間も高く評価されるのだと思います。


私達の社会で言えば
お金にも名誉にもならないことを前提で
ボランティアを行うようなそんな意識です。


高い地位について皆から一目置かれ社会的に高く評価され
そしてそれに対して自分の立場を特別であると勘違いし


ふんぞり返る事になっているのが
この社会の権力者の常であり


それを正しい価値観として成り立っているのが
この社会の身分制度ではないでしょうか。


そしてこの社会では偉いと言われる立場ほど
他人から大切に扱われますし
それは心が気持ち良いのだと思います。


そしてそんな様子を見ていて
今度はそれを羨む人間が増えるから
そんな風潮はどんどんと強くなっていく事にもなる。


それが良い学歴を身に着けることで
そんな立場になれる風潮があるからこそ


そしてそんな立場にはお金もつき物であるからこそ
この社会は学歴重視の傾向も進むのだと思います。


イエスの教えてくれている神の法則では
人々に賞賛されると言うことは
其の時にすでに其の人間は報いを受け取っていることになります。


そしてこの社会でいくら高く評価されようが
それは神の国に宝をつむ行為ではあり得ない。。


その行為は神の法則の元では評価されない事になります。
そしてそれは精神の進化にも役には立ちません。


イエスはこの地球社会の価値観を
そっくりそのまま持つ事の危険性をも
間接的に弟子達に伝えていたのだと思います。


言うまでもなく、この社会で良いとされる事が全てが
そのまま神の意志に照らして良いと言う事には
ならないと言うことです。


まして今の時代は創造主の意志に反逆している様な風潮すら
見受けられるのです。
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「また多くの人のために
贖いの代価として自分の命を与えるためです。」


とイエスキリストは触れています。


これを極解する事で
イエスの死が地球の人間の罪を贖ったと
勘違いする解釈をする人間達が居るようですが


勿論イエスキリストが
「自分が死ぬ事でこの社会の罪は清められた」
などと考えているわけもありません。


イエスの十字架の死は
真理を実践しそれを広報していたイエスキリストが
最後までその信念を貫く事で


イエスの教えを信奉する人間達に
自分の教えの正しさを確信させる手段であり
その”死”自体に人類の救いに直結ような意味は無かったと思います。


罪なる物は他人の死によって贖われるものでは有り得ませんし
罪の報いを受けるのは私達個人個人だからです。


この社会の人間が背負っている”原罪”なるものがあるとすれば
それは私達皆が創造主の法則からかけ離れた意識を持って生きている事。


そして神の価値観とは異なる価値観を持っては
人を裁き善悪を決めている事だと思います。


元々私達には他人を裁く権利など与えられていませんし
私達を裁く事が出来るのは神の法則だけです。


善悪の基準にしてもそれは人間が勝手に作り上げた価値観であり
その判断にしても恣意的なものです。


神の予定にあるのは正しいか正しくないかの判断であり
元々の神の意識は善と悪と私達が名付けている物全てを
包括して認めていることにもなります。


しかしこの社会は全てが人間がその心を持って
作り上げた価値観によって
物事の善悪含めた全ての判断をしているのです。


それは神の意識の価値観と異なる場合が
多いのだと思います。


しかもその基準は時代や人間の意識と共に
変貌していく事になっています。


一方人間が人間として持つべき意識は
どんどんと薄れていく事になり


道徳という人間のあるべきあり方としての
神の予定は無視されるに至っている。


そしてあるべき神の教えはその多くが
宗教という人間の価値観により歪めれらた教えに
とって変わられているのが今のこの社会の実態なのです。


そこに異常さを感じる事が出来るか出来ないかで
その人間の地球の法則に縛り付けられている度合いも
判断できる事になります。


イエスキリストは貼り付けにされる事を予想していたわけですし
その気になればブラザーズの宇宙船で逃げるもできたはずです。


でもイエスは一人の地球人としてこの社会に転生し
そこで神の教えを実践しながらそれを広報し
弟子を始め多くの人間に影響を与え続けました。


イエスはその自分の意志の強さと
自らの教えの正しさを身をもって伝える必要があったのです。


そして過去の予言を成就させ
自らがメシアであった事を多くの人間に知らせるためにも
死んで復活する必要もあったのです。


だからこそイエスは自分の処刑に気がつきながらも
そこから逃げる事も無かった。


その目的は勿論この地球に
少しでも自分を通じて真の神の教えを伝えるためです。


つまりイエスは自分の地球での命を持って
地球人を一人でも多く救おうとしたと言う事。


多くの人間が自らの生き方のおかしさに気がつき
正しい人間としての生き方を実践できるようになるために
イエスは自らの命をかけて最後まで広報を続けた。


”イエスの十字架の死”はそう解釈すべきなのです。


人間が如何に自らに都合の良い価値観を作って
それを真理に仕立て上げて生きているかと言う事は
中世の免罪符の存在にも現れていると思います。


自らの犯した罪が金で解消できるなら
誰しも行動を改める必要もありませんし
金持ちはみな天国にいける事になります。


そのおかしさに気がつく事も出来ないのが
神の教えを誤って解釈しては実践し続ける人間達の意識。


アダムスキーが触れていたように
この地球を今おかしくしている張本人は
宗教関係者とそれに権力を与えている政治なのです。


誤った神の教えが地球に満ちている事自体が
この社会を壊し続けていると言う事に
私達は気がつかなければなりません。


以前にも増して身勝手な価値観である
地球の法則を信奉し、人間の持つべき意識を汚し


法律では罪とされなくても
神の法則に照らせば罪だらけになっている私達が


何の努力も無しに誤った行動をし続けながら
イエスキリストのおかげで救済を受ける事が出来るなどという
馬鹿げた意識を持ってはいけないと思います。


知恵ある人間は聖書を読めば良い。


そしてそこに出てくるイエスの言葉を読めば良い。


イエスは自分の事を神だと信じれば救われると
説いていますか?


聖書を都合の良い解釈をする事で
自らの本当の心の罪を正当化してはいませんか?


全てはアダムスキーが触れていた
”心が自らを正当化する行為”に他ならない。。


私はそう思います。