真訳聖書 VOL14 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。



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正月期間、私の中で天使と悪魔が戦っている。。


そんな感覚を勝手に想像していました。


と言っても私の意識の問題ではありません。


人間の話です。


私を甚振り、傷つけたいという悪意で攻撃関与してくる人間と

そんな私をなだめ、被害悪化を防いでくれる意志で
関与している人間の両方の存在を


科学力の身体への影響から勝手に想像していたのです。


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生命の科学を理解してから聖書の解釈を進めると
今までとはまったく異なった解釈が出来る事も
沢山ありますし


既存の聖書のイエスの言葉の捕らえ方が
必ずしも正しくはないと言う事実にも
気がつくことになります。


以前の記事で偶像崇拝に関して触れたことがあります。


私達の世界では何故か神にまつわる物を象って
それを崇拝するという傾向があります。


もしかしたらこの風潮は、
元々は自分達のイメージ能力が足りないゆえに


神を感じさせる物を作り上げる事で
それを見ては神や仏の意識を感じていたのが
事の始まりかもしれません。


しかし、最近の傾向としては、
そのような神や仏を感じる人工物を神や仏の本体の如く
崇める傾向が強くなっていると感じます。


そんな傾向が強まっている証拠に
神や仏にかかわる様な場所は皆、華やかに飾られて


そこに出向く事で神や仏を強く感じているような
人間も増えている事と思います。


その際たる物が教会や寺院でありますし、
仏像やマリア像やイエスキリストの像だと思います。


その風潮は”偶像崇拝”と例える事が出来るものかと思いますが
今の社会ではその傾向は強まるばかりで
治まる気配はありません。


それほどに私達のイメージ能力が無くなっているのか
それとも価値観が変わっているのかは判りませんが
これが良い傾向であるわけがないのです。


イエスキリストも偶像崇拝を禁じていました。


万物に神の意識は存在していますので
元素で作り上げた仏像やキリスト像にも
神は存在していることにはなるのですが


何よりも自分の中にこそ神がいると
イエスは教えています。


そして何よりも神にとっての
特別なフォームである人間こそが


一番神の意識を強く受け止めることの出来る
存在のはずです。


私達は神を自分自身や自然の中にこそ
見出すべきであり、


偶像を拝んではそこに神を感じる事は
精神からかけ離れる原因ともなりますし
決して良い傾向とは言えないと思います。


ただ、例外として
特定の対象物を見ては心を癒すのであれば
話は別だと思います。


ブラザーズ社会では多くの家等に
神の絵を飾っているらしい記述が
アダムスキーの著書からも見つかります。


アダムスキーはその絵を彼らの宇宙船の中で
見つけていますし


「それを家に飾っていつも見ていることで
私達は若く居られる」と
ブラザーズの一員も語って居ました。


神を強く意識するための道具として
ブラザーズ社会は神の絵を利用している。。


私はそのように受け止めました。


イメージの足りなさを補うために
そして癒しの対象として眺めるために
神の気配は利用されるべきなのかもしれません。
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私も嘗ては教会の門を叩いた人間です。


私にとっての当初の教会のイメージは真理を学ぶ場所でした。


そこには神の事を教えてくれる神父が存在していて
何も知らない私のような迷える子羊を


真理へと導いてくれると言うのが
私にとっての教会と言う存在でした。


勿論そこで学ぶ事や与えられる価値観は
私の知識にはないものばかりでした。


初めて聖書を手にしたのもその教会の中でした。


賛美歌を歌うのは、曲を知らないと言う事もありましたし
抵抗がありましたが、


神父一家がとても良い人達だった事もあり
私はその空間が心地良く感じていました。


日住生活で悩みを抱えていたのも
私が教会に顔を出す事になった理由の一つでもありました。


私は自分の悩みを他人に相談するタイプの人間ではなく
どちらかと言えば相談を持ちかけられる立場の人間でした。


友人の前では強がっていたのか
自分の悩みでもある家庭の事情を相談することも出来ず、
心が病むそんな感覚を忘れたいと言う気持ちもありましたし


教会での毎週火曜の勉強会と日曜日の集会は
私の楽しみにもなっていました。


そこには暖かい人間達がいて自分を癒してくれる。。。


それだけでも、教会に通う動機になっていたかもしれません。


そして教会を真理を学ぶ場であると信じるようにも
なりかけていました。


聖書を手にした私は、その中に不可解な記述を
沢山見つける事になります。


自分の知識ではどうしても納得できない事柄が
聖書の記述には沢山存在していたからです。


そして何よりも理解できなかったのが
聖書の内容をそのまま信じることでもありました。


例えばイエスキリストが再臨するときに
すでに亡くなっている信者は
神の国へいけるのか?


そんな疑問を沢山感じては神父に質問して返答を求め続けたことが
私がその後、教会を離れることになるきっかけでもありました。


イエスキリストが再臨するまでの間には
かなりの信者が生まれて来ては死んで行く事になります。


その間亡くなった信者と
再臨の時に存在している信者では取り扱われ方が違うのだろうか?


その事を神父に聞きました。


私としてはキリスト教がイエスキリストを神の子と信じる人間が
皆天国にいけると教わっていたので


既に亡くなっている人間が天国に住めないのは不公平であると
単純に考えたのです。


そして黙示録から感じ取る事の出来る天国は
この現実社会に作り上げられる千年王国という事でもありました。


既に死んでしまった人間達は
その世界には住むことは出来ないのではないだろうか。。


私はそう考えたわけです。


神父はその事に関して


「イエスキリストが来た時には過去に亡くなった方も皆
一番若くて健康だった時の姿で蘇るのだ」


と説明してくれました。


私がそれを信じる事が出来ませんでした。


勿論、神父さんはそれを本当にそう信じていて、
私と同じくらいの歳であった神父の子供にも
そのように教えていた事も知っています。


私は科学的な知識や現実の世界を重視する思考でもありましたし
オカルト好きな性質であっても
信じれる事と信じれない事は明確に区別して思考する人間です。


死人が蘇ると言う発想も理解出来ませんでしたし
私達救われる事が決まった人間達は
皆額に777の数字が現れると言う話もありました。


黙示録では悪魔の配下に下った人間達は皆
身体のどこかに666の印を押されると言う話もあります。


666の意味と777の意味を尋ねると
6は不完全なもので人を指し示し
7は完全なものとして神を示しているとも言われました。


でもこれも私には理解出来ませんでした。


イエスが現れた時に、額に777の数字を持つ人間は
空中に一瞬にして携挙させられる。そんな話もありました。


私は聖書をすべて信じろと言われても、それが出来なかったのです。


そして教会へ通うのを止める事になりました。


神父家族は良い人だと言うことは自分でも良く判っていたのですが
教会の家族にとっては聖書の価値観こそが絶対であり
私はそれにはついていけなかったわけです。


そして教会には私の求める真理は存在していなかったのです。

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なぜにキリスト教は教会という建物を重視するのか。。


それはイエスキリストが、


「私はこの岩の上に教会を建てます。」


と触れていた記述があるからだと思います。


これは少し前に記事で取り上げた


「私は何者だと思いますか」


とイエスがペテロに質問する話の続きに出てくる言葉です。
(マタイ16章18節)


イエスの事を
「神の子であり、キリスト(救世主)です」


とペテロが答えた事に対して
イエスキリストがペテロを称えた場面の直後です。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11063450971.html
(生命の科学の記事の後書き)


そしてその後にイエスは
「私はこの岩の上に教会を建てます」と触れるわけです。


その背景を目で見る事が出来ない私達にしてみれば、
その場所には岩があって、


その硬くて頑丈な岩の上に教会を建てると
イエスキリストが宣言しているのだと想像してしまいます。


しかしその実態はそうではなかったようです。


硬い岩も、教会と言う言葉も
イエスキリストの例え話に他ならなかったと言う事のようです。


自分を”キリスト”、つまり神の意思の伝道者だと
答えたペテロに対して、


イエスはその神の意識を表現する自分の確固たる存在を
硬い岩に例えて、その自分の上に教会を建てると宣言した。。。


普遍的真理という硬い岩の上に
教会と言う広報する場所を作り上げる??


教会とは人々に神の教えを告げる場所でもあります。


つまりは自分の強い意思で
真理を人々に伝導をしていくのだと言うことを
”岩の上に建てる教会”に例えたのだという事です。


現にその後は
「ハデスの門もそれには打ち勝てません」
と触れています。


これはイエスキリストの伝導により
人々は地獄の門へと進むのではなくて


天国の門へと進むのだと言う例えであり
イエスキリストの強い意志の表れと受け取れるわけです。


文字通りに解釈をするのならば
「イエスキリストの立てた教会はハデスの門もかなわない。。」


と言う内容になりますがそれではイエスの言葉の
真意が伝わりません。


イエスキリストは自分の強い信念の元の真理の伝導により
人々は地獄へ行く事無く、天国へと導かれると触れたのだと思います。


その直後には


「私はあなたに天の御国の鍵を上げます。
 何でもあなたが地上で繋ぐならそれは天においても繋がれており
 あなたが地上で解くならばそれは天においても解かれています」


と触れている事からも明らかだと思います。


ここでの例えにしてもペテロは現実に
鍵を受け取ったわけではなくて、


イエスキリストはペテロに天国に進むための
きっかけを与えたと言う事の例えではないでしょうか。


天の御国へと進む扉の鍵をかけてしまえば
天でもその鍵はかかったままで


地上でその鍵を開く、
つまりは天国に入るための生き方を実践していれば
天国の門は開きますよと言う意味だと思います。


アダムスキーの著書より趣旨を拾って紹介します。。


訳者が意図的にイエスの言葉を訛りをつけて訳していますので


その部分は口語体に直してあります。

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「この岩の上に私は教会を建てる。
そうすれば地獄の力と言えどもそれを打ち破ることは
出来ないだろう。」


この場合、”岩”は真理を意味するのです。


したがってイエスは


「私はこの真理の上に肉体を築くつもりだ。
そうすれば、いかなる物によっても永遠に破壊されることはない。
何故かと言えばそれは完璧な真理の上に築かれるからである。」


と語ったのです。


イエスは自分の肉体を、教会、幕屋、寺院、
神の家などと呼んでいます。


皆さんの肉体も全く同じです。


聖書の中であなた方の肉体は七つの呼び名で呼ばれています。


そしてイエスは


「私はこの寺院が破壊されても三日でそれを再建する」
と語っています。


つまり彼は自分の肉体について語ったのです。


自分の肉体を真理の上に築くつもりだと宣言したのです。


私達もまた同じようにせねばなりません。


これに関してはこれまで誤った解釈がされてきました。


「教会の真の岩」を理解する事無く
ただ、岩で出来た石造の教会を作ってきたのです。

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私はこの解釈こそが正しいと思います。


イエスの言っていた教会なるものは
真理を強くもって伝導している自分の姿。


そしてクリスチャンには皆がそうあるべきであると
イエスキリストは言いたかったのではないでしょうか。


現実に建てられている多くの教会には
真理はありません。


真理は私達一人一人の中にこそ
神の意識として存在しているからです。


そして私たちが誤っている建物や場所や偶像に対する信頼は
イエスが望んでいたものとはかけ離れている物であることを
私達は理解すべきだと思います。


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P.S.

壮大で豪華絢爛たる宗教施設の建物を見るたびに
偶像崇拝の極致をそこに感じる方は
私以外にも居るかと思います。


そしてもしもここに二人の神父が存在していて

片方が物置小屋の如く場所で布教活動をしている
とても精神の高い人物であり


片方がお城の如く場所で布教活動をしている
ごく普通の精神の持ち主であった場合


多くの人間は後者の教会へと
足を進めることになるかもしれません。


つまりは私達は心で建物の立派な姿を認識し
それを立派故に神々しく感じてしまっているのだと思います。


心を持って見つめる癖がついている人間は
おそらくは見た目の立派な教会へと
足を進めることになるのだろうと想像出来ます。


そして精神を持って見つめる事が出来る人間は
後者の教会へと進む事になるのだと思います。


しかし教会が立派であろうがぼろぼろであろうが
元々教会は神の家ではありません。


つまり神の教えをどれだけ正しく
人々に伝える事が出来るかと言う事が大切なのであり


建物の見た目や立派さと
伝導士の精神性とは無関係であると言う事です。


そして教会や寺院の弊害は
そこだけが特別な空間であるかのように錯覚して


その時だけ信仰を感じるような事にも
なりかねない事です。


イエスキリストが触れているように
私達は自分達が真理の上に教会を建てる事が大切である。。


伝導士たる人間は
真理の上に確固たる意思を持って
伝導をする事になる。。


アダムスキーもそう意識して
講演を続けていたのだと思います。


私達真性クリスチャンは
誰もがその資質を持っていると思います。


頑丈な岩の上に立派な教会を立てて
そこで真理を伝導して下さい。


勿論その真理とは宇宙の法則・神の法則の事に他なりません。

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