生命の科学 VOL7 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


腸壁中心にかなり強い電磁波が利用できるようで
それを利用して胃腸の管理が続いています。


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昨日池袋に出向いた時に
福島の人達がりんごを通行人に無償で配っていました。


私は野菜でも福島産である事など全く気にしませんし
放射能が付いていたとしても気にしないで食べることでしょう。


福島県は昔は住んでいた事のある場所でもあります。
”おおしお”という山の中の村に一年と
喜多方に一年間です。


大学時代の友人も二人いるのですが
勿論連絡はとっては居ません。


そういえば年賀状も昨年は誰にも出しませんでした。


今は友人達の健在を祈るしかできませんが。。。


福島県は今回の震災と原発の被害を
直撃された地域でもありますが、


そこの県民の今後の生活が
少しでも改善されることを願いたいです。


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昨日は私もそこに並んでりんごを二個頂きました。


池袋地下は正直いつも息が詰まる思いで歩いている場所なのですが、
其のりんごの袋を持ち上げてりんごを両手で持ったときに


とても心地良い感覚が私の両手を通じて全身に伝わるという
不思議な感覚を感じました。(と本人は思い込んでいます)


私は人間嫌いの傾向が強くなっているので
(よって来るのは加害者関係者で身近な家族は洗脳では
人間も嫌いになりますよ)


植物にばかり意識をとられることが多いためか
本当に最近は植物に癒される事が多いです。


私はいつもはそれほど食べる事のないりんごではありましたが
昨日はしっかりと帰ってから其のりんごを食べました。


まだ、記事として公開していないのですが
実は”宇宙の法則”の11番目の記事では
殺生に関して取り上げていて、


食べた物が私達の細胞となり
私たちと共に新たな経験をしていくと言う話が
マスターに語られる場面があります。


考えてみれば食物を構成している細胞は
元素の集まりで


私達はそれを食べることで其の元素の一部を
私達の肉体の一部とする事になります。


それまでりんごだった元素の一部は
今度は人間の一部となって生きていくことになる。


其のとき其の元素はりんごから人間へとより高い意識へと
誘導されたことになるとマスター触れていました。


其の事を意識してそのりんごを食べました。。


自分を一瞬でも癒してくれたりんごが今度は
自分と共に生きていく。


そんな妄想を感じているわけです。(苦笑)


植物は私たちと違って想念のやり取り自体は
出来ないと言う話でもあります。


しかし植物も想念を出していますし
私達の想念を感じることも出来るのだと思います。


そして其の想念には負の意識はありません。


人間が植物に癒されるのは
そんな事情もあるのだと思います。


今年はシソを沢山植えたのですが
その殆どが”枯らされてしまった”事もありますが


私は干からびたシソの葉を一株一枚づつもいでは
妻に天ぷらにしてもらいました。


見た目は葉を焼かれぼろぼろになったような状態でしたが
私の細胞の一部になって一緒に生きましょう。


そんな寝言を考えていたわけです。


アダムスキーの話に感化されたような状態ですが
危害を加えてくる人間に癒されることなく
植物に癒されている人間ゆえの悲しい行動です。

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以前、精神的な話を記事にしたときに
魂の器を磨くとか魂の器の大きさの話をした事があるのですが
私の考え方は間違っていたと思います。


魂の器を磨く事が精神の進化であると言う事は
間違いありませんが、


魂の器の大きさは全ての人間が皆同じであると言う事に
気がついたからです。


聖人と言われるような人間達は
とても大きな魂の器を持っていて私達凡人は
小さい器しか持っていないと考えていたのですが


そうではなくて、彼らは魂の器が
ピカピカに磨かれていたと言うのが正しいのではないでしょうか。


私達全員に与えられている神の意識、エネルギーとしての
魂の大きさは誰もが同じなのだと思います。


私たち全員が本来まったく同じ条件に居るのだと思います。


ただ、聖人達は魂のくすみが少ない状態故に
神の意識を感じやすい状態になっていたのだと
考えれば良いと思います。


アダムスキーは私達の存在をダイヤモンドの原石に例えて、
それを綺麗にカットする事が必要で、


なお且つその光が濁らない様、周りにコケが生やさない事が
大切であると説明してくれています。


ダイヤモンドの原石は、余分な外枠を削り取り、更にそれを磨くことで
私達が知っている宝石としての美しさを表現することになります。


これは私達人間の魂に例えれば、
経験を繰り返し、精神と心の並行した状態での思考を続けることで
私達の心の意識が”精神”(神の意識)に近づく事を意味していると思います。


更にアダムスキーはダイヤモンドにコケが付き
その輝きが鈍ると言う例えを用いて、


私達の心が地球の法則による価値観により凝り固まらされて
濁らされて行く様を取り上げています。


私達は余計な知識や価値観を身にまとっていますし、
一方では経験や理解も不足しているので


原石の状態から脱しきれていない上に、
全身がコケだらけと言うのがその実情なのです。


もしも私達が聖人のごとく意識になりたいと望むのであれば
彼らがそうであったように地球での余計な価値観を全て取り払い、


一方では物事を深く事の本質から捉え、
経験を通じて生きた知識を積み重ねていく事が
大切なのかもしれません。


アダムスキーの生命の科学第一章最後の引用です。
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意識(精神)とはなんでしょう?


それは万物の創造主である生命力であると言う以外に
誰も的確に知ってはいません。


意識がなければ人間は生き物とはならないであろうからです。

そして人間においてはそれを言葉で表すのに最上の表現は
”警戒(または注意)の状態”と言えます。


警戒の状態とはフィーリング(感じること)または
知覚の状態です。


動物においては音響に頼る必要のない”本能”として
知られています。


意識と言う言語は、人間がまだ体験しない物事について
意識的になる場合に感じられるところの創造主の言語です。


イエスは次の言葉でこれを表現しています。


「見たり聞いたりしないで信じるものは幸いである。
その者は天国へ入るであろう」


この天国というのは”因”の領域で意識すなわち永遠の海を
表すために用いられた言葉です。


意識があらゆる現象を生ぜしめているからです。


われわれは未加工のダイヤモンドのようなものです。


のちになってダイヤモンドと判明する物質を誰かが
最初に見つけたとき、


本人は肉眼で一個の石ころを見るのですかが
もしそれをカットして磨くなら


それはこれまで見たこともないほどの
美しいものになると言う事実を本人に気づかせるのは
本人の意識なのであって心ではありません。


ところでそのダイヤは考えられる限りのあらゆる色を放射するでしょうが
そのようになるためには忍耐と多くの困難な作業とを必要とします。


鋭利な刃でカットされると
時には苦痛さえ感じるでしょう。


これと同様に、あらゆる人間は未加工のダイヤのようなものであって
自己の純粋さを見出すまでに削り取らなければならないごつごつした
多くのでこぼこがあります。


これは楽な作業ではありません。

大抵の場合、でこぼこを削りとるたびに
何らかの苦痛を伴います。


しかし多くの苦痛に耐えることができればそれほど石は
ますます立派になるのです。

完全なダイヤはその表面にカットされた各面から
純粋な光を反射します。


そしてもし宇宙的な波動が完全に表現されれば
そこには欠点と言うものは有り得ません。


生活のあらゆる分野の過去と現在の教えに関するわれわれの思考の習慣は
この削りとらねばならない粗い傷のようなものです。


中には他の部分よりも除くのが困難な部分もあるでしょうが
目的を持った決意は望ましい結果を齎すでしょう。


するとやがて光沢、すなわち最初は多分容易でも楽しくもないような
新しい習慣が確立されることになります。


そしてこの全てが成し遂げられるとき
人間として知られている形態を通じて
神の栄光が現れるのです。


転がる石にはコケがつかないと言われてきました。


しかも人間の物質の蓄積に例えて引用されるコケは
人間が宇宙的な英知をもって成長してゆくのを妨げています。


むしろ転がる人間は他の石(諸問題)に打ちあたることによって磨かれ
こうしてでこぼこが取れるのです。


人間の立派な能力の真の美しさはコケで覆われて見えなくなっています。


なぜなら人間が見えるものはコケだけであり
それは他の生物の体に宿っている寄生虫であるからです。

このコケとは真実に人間を覆っている人間の各種の習慣に等しいものです。


転がる石は多くの困難な事や大きさが倍もある岩に突き当たって苦痛に耐えたり
自己の一部を失ったりしながらもそれは転がり続けます。


そしてついには高度に磨かれて,色光や成分である無機物を示します。


石によっては親和の法則によって無機物が互いに結合する場合
美しいデザインが形成されます。


これを成すには長い年月を要するでしょうが
忍耐と決意とによって人間は絶えず増大する精妙さの中に
この美を表現することができるのです。


そして”神の国の救世主”になるのです。


そこで生命の探求者がまず成さねば成らぬ事は
原因と結果についての絶え間なき知覚力を養うことにあります。


そうすれば心は過去に見てきたとおりの形態物を見るのみならず
形態物の不可視な支持者のことを意識に語らせるでしょう。


それは目に見えない動力発生部の全てを充分に知覚しながら
車を運転するようなものです。


本講座をあなたはただ読むだけでは殆ど価値がなく
むしろ日常の刻々の実行が効果を齎します。

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これで生命の科学 第一章 終了です。
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アダムスキーの言葉は英語を日本語に翻訳したものですし
訳者の方も苦労なさったかと思いますが


本人の言葉を本人が伝えたかった通りに
私達に示してくれているかと思います。


元々の知識の足りない私達にとっては抽象的な表現で
理解しきれないこともあるかと思いますが
それも時間が解決してくれると考えています。


ここでアダムスキーが意識(精神)は
警戒の状態であると触れています。


以前の私の記事でも紹介しましたが
私達の”触覚”の働きがまさに警戒の状態であると
マスターが語っていましたし


”触覚は魂が受け止める感覚である”とも触れていましたので


”精神(意識)”とは”魂が発する言葉”である
という事に成るのではないでしょうか。


私達の触覚は実は私達の魂が感じる感覚そのものであり、
それは想念をも受け止める事ができるものであると説明しました。


そしてその魂はそのまま神のエネルギーそのものです。


その”神のエネルギー=魂” の持つ意識を”精神”であると理解して頂ければ
全てまとめて理解していただけるかと思います。


私達の”心”成るものは、私達の肉体の一部である脳が
味覚・視覚・嗅覚・聴覚更には触覚のうち
物理的に感じることのできる感覚の影響でその価値観を作り上げるものであり


これらの感覚器官が脳に心地良いと思わせる要素が、
私達の行動基準と成りがちなエゴとも言える心の意識です。


一方、この”触覚”には実は想念を受け止めることのできる
能力も備わっていて、


その触覚は魂の受ける感覚そのもので、
更にはその魂自体は神の意識でもある。。


その神の意識が”精神”であると考えれば


精神を使用する事は宇宙の法則を実践する事に
繋がっていくという事になります。


ここでアダムスキーは精神はフィーリングであると触れていますが、
想念はまさにフィーリングとして受け止めることが基本であって
私達が閃きと言っている物はまさにこのフィーリングのようです。


この閃きを起こすのは私達の精神が、全ての物事を理解している神や
全ての記憶を有しているアカシックレコードに
繋がっている事に由来するようです。


無意識に感じるその精神の言葉こそが
神の意識であったり、アカシックレコードの記憶であったりするようで


直感に対して従うことが、得てして良い結果を齎すと言うのは偶然ではなく
私達は精神から閃きを受け取っていると言う事だと思います。


一方想念もこの精神が外部から受け止める情報です。


精神の機能は神の意識を伝える事であり、
想念を受け止める事であると説明するのが良いのかもしれません。


そしてその”精神”を感じやすい状態にするための知識を
私達はこの章で学んだわけです。


この章で私達が理解すべきことは
第一に”心”と”精神(意識)”の働きです。


その両者の働きを理解する事、
そしてそれらを同時に使用することで
物事を深く考える癖をつけること。


更には自分の行動の結果は常に改善の余地がある事と、
精神を使うことでそれが可能になるということを
理解する事だと思います。


心と精神を並行して使用していくうちに
物事に対しての深い理解をすることが可能になりますし


一方ではエゴに走らされていた心が、
精神という神の意識に限りなく近い価値観を持つことにも
つながって行く。


結果私達は宇宙の法則にまた一歩
深く踏み込むことになるということだと思います。


続く


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P.S.

私達は生活の中で少しづつではありますが
精神と心、そして原因と結果の思考を
実践できるようになっていると思います。


そして物の考え方や捉え方にも
少しづつではありますが反映されて来ていると
私も実感しています。


(加害者工作員に対しては相変わらずの暴れぶりを
見せているようにも見えるでしょうが(笑))


この一章をしっかりと理解していただければ今後の
章に関しても理解がしやすくなると思いますし


これが理解出来ていないと先に進むのは
大変かもしれません。


精神と心の関係を理解し、
原因と結果の利用の仕方を是非マスターして


宇宙の法則、普遍的真理を学ぶために
役立てて行って欲しいと思います。


すべてが将来には理論と科学で証明されるであろう内容ですが、
私達が一つだけ半ば妄信的に信じなければいけない要素があります。


それは”自分達の中に神の意識がある”と言う事に関してです。


これだけは理論でも科学でも証明は出来ないと思いますし、
宗教のごとく信じて貰うしかないと思います。


しかしこれも意識が変わるにつれて
自分で自覚する事が出来るようになるものです。


それ以外に関しては私達がすべき事は
決して何かを妄信する事ではありません。


知識を積み重ね、実践の段階を重ねることで、
しかも理論的に物事を考える事を繰り返すことで
一歩一歩真理へとたどり着くという地道な作業です。


そして他人に与えられたものはあくまできっかけに過ぎません。


スペースブラザーズにしてもアダムスキーにしても
与えてくれる事の出来るのは
情報であり、知識であり、きっかけです。


それを理解して自分の知識や価値観と出来るかどうかは
全てが私達個々の人間の意識に掛かってくるものです。


そしてここでは私は自分なりの解釈でそれを説明しているに過ぎず
もっと深く多くの物事を感じている方だって
大勢いるかと思います。


今後はそんな方々が
私達残りの人間を導いて行って欲しいと思います。


目標としては、生命の科学の全てを記事にして
紹介したいと言う気持ちはありますが、
私が記事を書ける状態に居ることが前提です。


いつも触れているのでまるで宣伝の様ですが、


新アダムスキー全集の三巻


21世紀生命の科学


を購入して独自に読んで見て頂ければ良いと思います。
私の能書き?(苦笑)などありませんし
待ちきれない方は早々と先に進める事かと思います。


そして宇宙の法則の理解を深めてください。

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引用中で


「見たり聞いたりしないで信じるものは幸いである。
その者は天国へ入るであろう」


とイエスキリストの教えを取り上げていますが
まずここでその意味を考えてみてください。




原因と結果をマスターして頂いた方には
何となく理解して頂けるかと思います。


ここでの”見たり聞いたり”は
エゴに直結する感覚器官としての視覚や聴覚を指していると思います。


つまりは”心でばかり考える”と言う事の例えではないでしょうか。


そして”信じる”というのは


”イエスキリストが語っている言葉は精神からきている神の意識
であるからそれを信じなさい”


と言うことだと思います。


”心が受け止める感覚に頼るのではなくて
自分の中の精神の声を信じなさい、そうすれば永遠の転生へと進めます。”


今回のアダムスキーの講義に関連して説明すれば
そういう意味になるのだと思います。


ちなみに引用文の中に”神の国の救世主になる”とありますが


イエスキリストやアダムスキーは
”救世主”と言う言葉を”神の意識の伝道者”と言う意味で
使用していると思います。


先日の私の記事の
”皆がイエスとヨハネの継承者”で取り上げたように
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11059663896.html


私たち覚醒者の全員が其の資質を持っていると言うことを
アダムスキーは触れているのだと思います。


実は聖書の中でイエスキリストがペテロに
「私は何者だとおもいますか」と尋ねたときに
「貴方は神の子、キリスト(救世主)です」


とペテロが語る場面があります。
(マタイ16章)


そしてイエスはペテロを褒め称えるわけですが、
アダムスキーに拠ると
そのときイエスキリストがペテロを褒めたのは


自分をその言葉どおりの”神の子”であるとか”救世主”であると
褒め称えたからではなくて


ペテロがイエスキリストの教えに沿って
答える事が出来たからだということです。


イエスは人間は”誰もが神の子”であるとして扱っていました。


勿論イエスも神の子です。


そして一方では
神の意識を正しく理解できていてそれを伝導している人間として
自分を”キリスト”(救世主)と呼んだのだと言うことのようです。


だからこそペテロの「神の子キリスト」と言う答えは、
イエスの教えの通りの答えであったと言う事になります。


私達がイエスキリストを”神の子”という言葉に拘って
神様扱いしているのは、この辺から来ているようですが


イエスキリストが限りなく神に近い精神を持っていたのは事実として、
それはイエスがその器をピカピカに磨いた状態の
人間であったからと言うことになるかと思います。


その解釈が晩年になって聖書の言葉どおりに成ってしまっていったがために
その正しい意味が伝わる事もなかったと言うのが正解だと思います。


「その言葉をペテロに言わせたのは人間(心)ではなく
天にいます私の父(精神)です。」


と聖書のその後の文章をアダムスキーは説明していました。
(言葉はイエスの言葉でカッコ内がアダムスキーの解釈です)


更にその後聖書では


「では私も告げます。貴方はペテロです」


とイエスが語るのですが
そこは改ざんではないかと思います。


イエスキリストは恐らくは
「貴方は神の子ペテロです」と告げたはずです。


改ざんや解釈間違いの多いであろう聖書に関しては
アダムスキーの知識を参考にするのが良いかと思います。


こないだも触れたように
アダムスキーはイエスの弟子の一人だった人間の転生だからです。


(と私は信じる事が出来るようになりました)


そして生命の科学は私達にとって数少ない
ブラザーズからの直伝の知識であることを忘れないで下さい。


アダムスキーが私達に伝えるために
ブラザーズに直伝された物なのです。
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