真訳聖書 VOL19  神そして偽善者 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


頭への思考妨害もあり
時間がかかってしまい記事の公開が遅くなりました。


胃腸も相変わらずのトイレ妨害を受け続けています。
(それ以前に下がっていかないのです)


私への身近な加害者に
もう一度だけ武士の情けをかけます。


私の身体や精神への加害行為を止めてください。


そして誹謗中傷と嘘で私を陥れる行為も
止めていただければと思います。


末端で今現在暴れている人間は


闇政府指導者達が
将来社会が良化したと見せかけるときに


それまでの諸悪の根源としてのスケープゴートとして
責任を押し付けられる立場にあると思います。


上の方で自らの手を汚すことなく
将棋かチェスの駒の如く人間を操っている人間達は


今度は自分を社会の救世主であるとみせかけては
一般市民を欺きながら
灰色の社会からのスタートを切ることになるはずです。


その時に邪魔な、融通の利かない”白”を主張する人間と
”黒”とされる人間をまとめて消すためにも


今はその両方をぶつけて共倒れを狙っている最中だと言うことに
気がつくべきなのです。


おそらくは多くの被害者や関係者が
私への加害行為を仕掛けている人間の正体に
気がついているのではないかとも思います。


そしてもしもこの人間が組織に忠実に働いているとしたら。。。


上の人間の命令を忠実に守っているとしたら
私への誹謗中傷は視線そらしの可能性もありそうです。


昨日は関東中心に要警戒態勢と触れました。


昨日あたりからHAARPも揺れていたようですが


偶然なのかフリッピンで立て続けに
大き目の地震が発生しても居ます。


フィジー、バヌアツ、
フィリッピン付近が真っ赤です。


http://www.iris.edu/seismon/


バヌアツ・フィジー付近にも頻繁に地震が起きていますし
それが地球規模の地殻変動と無縁なのかどうかも
気になります。


身近な加害者の動向からすると
今は未だ警戒態勢に居たほうが良いと感じています。



DATE          LAT  LON   MAG  DEPTH km  REGION
07-FEB-2012 00:33:40  -3.49 123.30  4.6  30.0 SULAWESI, INDONESIA
06-FEB-2012 23:47:15  10.15 123.28  4.6  14.9 CEBU, PHILIPPINE ISLANDS
06-FEB-2012 22:35:13   9.84 123.36 4.6 10.0 NEGROS, PHILIPPINE ISLANDS
06-FEB-2012 13:49:24 -21.94 -66.90 4.5 172.7 SOUTHERN BOLIVIA
06-FEB-2012 11:40:19 9.84 123.04 5.2 36.5 NEGROS, PHILIPPINE ISLANDS
06-FEB-2012 11:33:37 9.80 123.05 6.0 15.1 NEGROS, PHILIPPINE ISLANDS
06-FEB-2012 10:30:26 14.98 -87.66 4.4 10.0 HONDURAS
06-FEB-2012 10:10:24 9.83 123.13 6.2 35.4 NEGROS, PHILIPPINE ISLANDS
06-FEB-2012 04:20:03 10.06 123.17 5.9 34.6 CEBU, PHILIPPINE ISLANDS
06-FEB-2012 04:03:24 9.91 123.28 4.8 10.0 NEGROS, PHILIPPINE ISLANDS
06-FEB-2012 03:49:16 9.96 123.25 6.8 46.6 NEGROS, PHILIPPINE ISLANDS
06-FEB-2012 02:14:26 1.69 127.55 4.4 114.5 HALMAHERA, INDONESIA
05-FEB-2012 23:50:40 -20.40 -177.99 5.1 517.4 FIJI ISLANDS REGION
05-FEB-2012 22:05:45 36.50 140.71 4.7 9.9 NEAR EAST COAST OF HONSHU,

JAPAN
05-FEB-2012 20:58:46 -15.72 -70.76 5.0 189.0 SOUTHERN PERU
05-FEB-2012 20:15:37 -17.72 167.24 4.8 17.3 VANUATU ISLANDS
05-FEB-2012 19:08:59 -5.41 133.89 4.5 34.3 ARU ISLANDS REGION, INDONESIA
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何事も心を持ってみては上辺で現象を認識し、
形式ばった事に囚われ、見かけや表面に見せている姿で判断するから
事の本質、人間の本質を理解できない事になる。


心を持って生きている私達が
悪意ある人間を見抜けずそれに騙される原因でもあります。


そして自分の事が可愛くて
本来持ってはいけないプライドに拘って生きている私達は


自分の心のエゴを満たしてくれる人間こそを
良い人だと勘違いするにも至っていると思います。


その事を、子供にとっての親で考えて見ます。


例えば、厳格な親と優しい親がいて
厳格な親は、言うこと為す事厳しく指導し、
優しい親は何でも我侭放題させてくれるとすれば


私達の心は得てして優しい親を慕うと思います。


優しい親は私達のエゴを満たしてくれる存在だからです。


でもその優しさなるものが
私達の精神の進化にとって良い物なのかと言うと
又、話は別だと思います。


その親は何でも認めてくれて傍目には寛容に見えて
心が広いと受け止められる事にもなりそうですが、


その結果子供は
得てして我侭勝手に育つことになりがちだからです。


他人に迷惑をかけようと
何事も自分勝手に振舞おうと
それに対して親が指導しなければ


今の私達の社会であれば
子供時代に培った身勝手な価値観は
成長しても容易には訂正する事も出来ないと思います。


その結果子供は自分の誤りを
将来自らが訂正していかなければならなくなります。
(正しい方向に進むと仮定した場合の話です)


アダムスキーが触れていたように
誤りを訂正する行為は時間が経過するほど難しくもなります。


優しい親は結果として子供に大きなハンデを
与えた事になると思います。


そして親の優しさがそんな子供の苦労を生むのであれば
それを優しさと判断するのはおかしいのです。


一方厳格な親は
きっと子供に色々な制約を与える事になります。


子供はその制約を身をもって体験しながら
時には人間としてのあり方を学ぶ事もあるでしょう。


おかげで将来その事に関しては
自らを正す必要は無くなるかもしれません。


しかし子供にしてみれば厳格な親は
心を心地良くしてくれる存在ではありません。


それに厳格”すぎる”親は自らの価値観をも
子供に押し付けることで


子供の自由意志をも奪いかねない
存在でもあります。


子供は自らの意志を持って生きていくべき存在なのに
結果、親の価値観が子供に反映される事になるのです。


つまり、厳格過ぎても甘くても
結果的には子供にとっては悪影響になります。。


不思議な話ですが
いずれにしても極端な意識は私達の精神にとっては
良い影響を齎さないという事の見本だと思います。


更に親が子供を叱るという行為です。


良い親と言うのは子供が誤った行為をした時に
それをそのまま放置する存在ではないと思います。


誤っている事を誤っていると指摘し
それを指導してやる事がこの社会での親の役割だと思います。


子供可愛さのあまり子供の非を認めない親は
子供を愛しているのではなくて
子供を愛している自分の心を満たしている存在なのです。


子供を叱る親の姿も二通り、


例えば自らの感情をそのまま子供に対してぶつける親。


怒ると言っても、これは親が自らの心の不快感を地良くするために
エゴをむき出しにしているようなもので
指導とは言えないと思います。


一方、子供の事を思えばこそ
時にはしっかりと叱ると言う親の行為。


こちらはエゴではなくてあくまで相手のことを思いやる
エゴに基づくものではない行為だと思います。


私達のあるべき姿は言うまでもなく後者です。


そしてこのことは親が子供に対する時だけでなくて
私達の人間関係でも同様の事が言えると思います。


いつも子供や他人に優しければ良い人と言う事にはならない。


いつも他人に厳しいからと言って
それがすべて悪いわけではない。


おそらく大切な事は、
”それが相手を思っての行為であるのかどうか”
と言うこと。


自らのエゴで、相手に好かれたいとか
自分のエゴを通したいとか


自分の心の不快感を解消したいと言う意志を
持っていての行為であればそれ間違っていて、


その行為が真に相手の事を考えての行為であれば
それは正しい。


宇宙の法則ではそう判断するようです。


マスターは、
「動機が相手を思っての行動であればそれは正しいのです」


と触れていました。


勿論、それが極端に誤った価値観に基づいている場合は
話は別ですが、


その価値観が精神に基づいているのであれば
そのような行為こそが正しいと言う事になると思います。


ここから見えてくる親のあるべき姿は
そのまま私達の”父”である創造主の姿でもあります。


創造主は私達を甘やかし
その願いであれば何でも叶えてくれると言う
存在ではありません。


かといって間違った事をしたからと言って
それに対して一々罰を与える存在でもありません。


でも精神により、正しい道へと誘導するよう囁き続け
それに気がついた子供には褒美を与えてもくれます。


囁きを無視し続けた人間は将来の転生で
しっかりと試練を与えられる事にもなるはずです。


それでも判らない人間は。。。


そして私達の創造主は私達が他人を裁くことを
求めては居ない。。


私達個々の人間を裁くのは
神の意志に基づく見えない法則だけなのだと思います。


人の作り上げた法が人を裁く。


心無い人間が増えている社会ですから
仕方のないことでもあるのだと思います。


しかし法だけを守れば何をしてもそれは正統であるという意識が
その延長として蔓延る様になっていますから
法のあり方も考え直して見るべき時ではないでしょうか。


私達にとって大切なのは
権利の侵害や財産の侵害を調停できる社会を
作り上げる事ではなくて


人として持つべき意識を持てる様になる社会を
作ることではないのでしょうか。


今日も聖書からの引用です。


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マタイの福音書 第7章

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人を裁いてはいけない、自分が裁かれないためです。


貴方がたが裁くその裁きで、自分も裁かれ、
貴方がたの量る通りに、貴方がたも量られます。


なぜ、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、
自分の目にある梁(材木)には気がつかないのですか。


自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、
貴方の目からちりを取らせてください」、と言えるのですか。


偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけなさい。


そうすれば、はっきり見えるようになって、
兄弟の目からちりを取り除くことができます。


聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。
おそらく彼らはそれを足で踏みつけ、
向きなおって貴方がたに噛み付いて来るであろう。


求めなさい、そうすれば、与えられるでしょう。
探しなさい、そうすれば、見つかるでしょう。
門を叩きなさい、そうすれば門は開かれます。


誰もが求める者は受け、捜す者は見つけだし、
門を叩く者は開けてもらえます。


貴方がたの中で、自分の子がパンを求めるのに、
石を与える者がいるでしょうか。


魚を求めるのに、へびを与える者がいるでしょうか。


このように、貴方がたは悪い者であっても、
自分の子供には良い贈り物をする事を知っているとすれば、


天に居ます貴方がたの父は尚更、
どうして求めてくる者に良いものを
下さらないことがあるでしょうか。


だから、何事でも人々からして欲しいと望むことは、
他の人にもそのようにしなさい。


これが律法であり預言者です。

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神は自分の意志に適った意志を行う人間達の望みを
叶えてくれる存在であるとイエスキリストが触れています。


勿論、その望みが心のエゴに基づくものであれば
神が叶えてくれるとは思えませんし


神の意志に適う行動をする事が出来る人間が
神にエゴを持って願い事をするとも思えません。


ここで私達が叶えられる願いは


”精神を求める意識の働きによる
真理に根ざしたもの”


だと思います。


自分は一体何をすればよいのか、


自分は一体何のためにこの世に生まれたのか


そして自分は転生前はどんな人間だったのか


そんな疑問や質問は、
本当は私達の精神という神の分身を通じて
答えはすべて引き出せるものだと言います。


残念ながら私はその事を願いながらも
未だ求められずに居ますが


精神を強く感じる事の出来る方々の中には
もしかしたら自分の事を深く理解できるようになった方も
存在しているかもしれません。


私達は精神を通して神の意識を感じることが出来れば、
アカシックレコードを読み取ることが出来れば、


求めるあらゆる情報を読み取る事も可能になると
アダムスキーは触れていました。


全ては私達が願う事で精神を通じて
実現できる事なのです。


ここでのイエスの話では


求めるものと言うのは”真理”で、
探すのは”自分の存在意義と記憶”であって
叩くのは神の心の門としての”精神”ではないでしょうか。


そして求めたものに対して
神はしっかりと答えてくれる。。


求めた答えをしっかりと教えてくれる。。


”魚をくれと言って蛇をよこす親は居ない”


と言う例えからも


神は自分の分身である私達が
求めた通りの答えを伝えてくれる存在である。。


自らの創造物である私達に
深い愛情を持ち続けている存在である。。


イエスはそう言いたかったのかもしれません。
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”万物に対して行った行為は結局は自分に帰ってくる。”


因果の法則とか因果応報と言われているようですが
勿論、神の法則の一環です。
(原因と結果の法則と同じ様なものだと思います)


私達万物は地球では勿論のこと
おそらくは宇宙全体の中でもお互いが無関係では
居られない存在なのです。


人間だけが存在していても、
そこには食料となる物も道具の元となるものも存在しませんし


もしも自分一人がこの世に存在しているのであれば
一切の万物との関係を感じる必要もありませんが
私達はその存在自体何の意味があるのかも理解できなくなります。


神は私達を万物の調和の中に作り上げたと言います。


その社会の中ではお互いが関係しあっていて
他の万物を意識して、初めて自分の存在の意味が
出てくる事にもなります。


まして人間はその万物の中で
神の分身としての役割を求められている大きな存在です。


神の意識を通じて私達は皆が繋がっていて
お互いが無縁ではいられない存在ですし


相手を裁く(時に体罰、時に処刑)という行為は
間接的に神を裁く事でもありますし(誰もが神の分身ですから)


もっと言えば自らを裁く事にもなります。


そして神の作り上げた私達は、
神によって裁かれる事は在っても、
お互いを裁きあう権利など持たされては居ないはずです。


それを平気で実行する人間は
自分の生きている意味も、自分の存在の意味も、
理解出来ていない事は言うまでもありません。


ここでイエスは”偽善者”にありがちな行為、
”自称善人”の取りがちな行動としての
他人を批判し罰する行為を説明をしています。


”自称善人”は自分の目に
大きな材木が張り付いている事に気がつかないで、
他人の目の中の塵が気になる。。


そしてそれを取らせてくれという。。


つまりはこれは、


自分の大きな非を棚に上げて置きながら
他人の粗を探してはそれを責め立てる人間の行為を
例えたものです。


自分の目に梁がある。。


その梁は自分自身の誤った価値観や罪でありますし、
その梁が目に張り付いている人間は
正しい視野をも持つ事ができないで居る事にもなります。


つまりそんな人間達は
物事を正しく見つめる事ができないという
例えでもあると思います。


その梁をとって、自分の誤った価値観や罪を取り除き
正しい物の見方を身に着けて
初めて正しく視界が開けることになる。


そしてその時にこそ初めて
他人の間違いも正しく認識できるようになる。


イエスキリストはそう触れているのだと思います。


この社会にはこの様な”目の上に梁がある人間”で溢れています。


組織的犯罪で被害者を攻撃している人間達の中にも
そんな人間は大勢居るようです。


自分はまっとうな人間であり罪のない人間である。。


だから他人を見つめては小さな間違いや悪を発見したら
それを責め立てずに居られない。。


しかし現実には彼らの瞼には
しっかりと大きな梁が目に張り付いていて
正しい物事の判断すら出来ては居ない。。


なのにそんな人間達は時には私法で他人まで裁くのです。


ここでイエスは、当時の時代の中での
パリサイ派や律法学者を意識して語ったのだと思いますが


そのような人間達の意識が
そっくりそのまま今の私達の社会でも
受け継がれている事はいうまでもありません。


そして目に梁をつけた人間達は
視野を見間違えたままの状態で
自分の正当性を信じては疑っていないのです。


【聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。
おそらく彼らはそれを足で踏みつけ、
向きなおって貴方がたに噛み付いて来るであろう】


というくだりは、
その物の価値が判らない対象に
大層な物を与えても無駄であると言う趣旨だと思います。


「理解出来ない存在や理解しようとしない存在に対して
神々しい言葉を投げかけても、
大切な神の真理を投げかけても、


そのような人間は理解するどころか
時には貴方を逆恨みして噛み付いてくるぞ」


という例えではないでしょうか。。


そしてこの例えには、
イエスキリストの教えを受け入れないどころか
イエスに噛み付いていたパリサイ派の人間達への牽制も
含まれていたと思います。


イエスキリストは神の言葉や教えを解く時には
相手を選んでいました。


しかも教えは相手によって
投げかける内容さえ変えていました。


一般大衆には例え話で抽象的に表現しておいて、
その詳細を語ったのは
自らの使徒に対してだけであったようにです。


その理由の一つは理解力が足りない人間や
他人に誘導されやすい人間は
イエスの教えを理解出来ないと判断していたから。。


もう一つは余計な波風を立てたり
敵を作らないためではないかと想像しています。


イエスに悪意を投げかけるような人間に
イエスが神の話を語ったのは


イエスが批判されてその必要があった時と、
彼らに答えを求められたその時だけだと思います。


イエスキリストが民衆に説いていたのを
イエスを嫌う人間達が勝手に聞いては


イエスを神の冒涜者扱いしたり
悪魔(ベルゼブブ)の遣い扱いしたりしていましたが
イエスは彼らに率先して神の教えを説いたわけではないはずです。


イエスは彼らの意識を良く理解していたからです。


イエスは伝導中に自分の目にかなった、
もっと言えば覚醒の見込みのある人間に対してのみ
神の教えを細かく語っていた事が聖書の記述からも伺えます。


イエスは自分の教えが時の支配者である王や律法学者、
パリサイ人にとっては忌み嫌われるであろう事。


そして彼らは決してイエスの教えを理解しようとはしない
人間であると判断していて


それを牽制しながらも
一方では一人でも多くの資質のある人間に
神の法則を伝える事を目的としていたのだと思います。

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神なる存在は子供を心底愛する親のごとく
私達を導いてくれる存在である。。。


それを魚を求めた子供に蛇を与える親は居ないという表現で
イエスキリストは触れています。


私達はその親に何でも願いを叶えてもらえると
勘違いしては居ないでしょうか。


神は戦争や争いや人殺しを正当化してはくれません。


エゴなる望みを叶えてくれる存在ではないのです。


創造主は私達にとって最高の親でありますが、
私達を甘やかせるだけの存在ではないと言うこと。。。


私達が自堕落な人生を送り
その中で心が心地良いと感じることばかりを願っても


それを叶えてくれる存在ではないと言うことを
せめて私達覚醒者だけでも理解すべきだと思います。


中国の聖人が
「己の欲せざるところ人に施すこと無かれ」


と私達のあるべき姿を説いています。


私も親に教えらた事でもありますし
私達は言葉としてこれを学校で学んでも居ます。


そしてこれも神の法則に適合した意識であることは
言うまでもありません。


ただ、ここでイエスキリストは更に


「自分がして貰いたいことを他人にしてあげなさい」


と触れて居ます。


前者が消極的な意識だったのに対して
こちらは積極的な意識でもあります。


そしてその意味は”万物への奉仕”です。


つまりここでイエスキリストが触れた律法と言うのは
私達の持つべき道徳であり
宇宙の法則に則った意識と言うことだと思います。


神に何かを望む人間であれば
同時に万物に対しての奉仕の意識を持つべきである。。


イエスはそんな事をも
私達に告げたかったのかもしれませんね。


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P.S.


私のブログに、
「特定の人間達に対しては愛など持てない」


と言う内容のコメントをくれた方が居ます。


おそらくは私同様の被害者か
もしくは日本の実態に嘆いている方かと思います。


私も努力しては居ますが、本音を言えば、
自らに危害行為を加えてくるような人間達に
神の意識を感じることも


彼らを神の分身であると認めることも
精神で彼らと繋がっていると言うことを認めることも
出来ないで居ます。


私達は聖人ではありませんし
イエスキリストでも自らへの批判者達には
実際厳しい意識を持っていたことが


聖書の記述からも伝わってくるかと思います。


神の意識からかけ離れた人間や
精神が神の意志から乖離している人間も居るからこそ
魂の消滅も起きるわけですし


一方では私達は精神を強く感じることが出来る存在では
ありません。


自分に対して、今この時に加害行為を加えてくる人間
今この瞬間に日本で暴れている人間を


神の分身と認識して愛することは
私達凡人には難しいのだと思います。


汝の敵を愛せ


右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい


下着を奪うものには上着まで与えなさい。


そんな意識を持とうと努力することが
私達にとって大切だと言うことを


聖人としてのイエスキリストが
凡人としての私達に語ってくれたと
認識すれば良いのではないでしょうか。


私に関しても、加害者にある程度の同情は出来ますが
”深い理解”をする事も”愛する”ことも出来そうにありません。


現に今この瞬間も加害行為を受け続けている最中ですし
誹謗中傷もされ続けている状態だからです。


謝ってきたら何度でも許してやれとも
イエスは触れていましたが


謝ってくる以前の問題ですから。


私達は聖人ではありません。


人としてあるべき道標を見つけたばかりの、


太陽系レベルで言えば
スタート地点に立ったばかりの
人間なのだと思います。


それがイエスキリストの様な
”自分を通じて神が為す”ような精神を持った人間と


同様にあろうとする必要は無いと思いますし
少なくとも今は無理だと思います。


でも進むべき正しい道を見つけて
その道を進み始めたというだけでも


私達の社会の中では画期的だと私は思いますが
如何でしょうか?


こんな意識を持った人間が増えれば地球は変わることが出来る。


もしも変わることなくこの社会で邪魔にされた時は
黙って卒業していけば良い。


そして今度は別の方法で
この社会に介入できる方法を見つけて


一人でも多くの人間を私達と同じ道へと
誘導するよう地道に努力をしていくしかない。。


私はそう思います。


心配なのはその時まで
今の文明が存続しているのかと言うことだけです。


2012年に暴れる予定の人間達が
現に存在しているからです。。。


「世界の終焉には自分達は天国で暮らせることになる。」


そんな意識を持っている人間も
中には存在しているのだと思います。


私達は天国の実態にも気が付いています。


そこに地球の同胞を誘導することこそが
私達覚醒者のすべき事だと思います。