最近、やっててつまんねーのはアレか?
朝鮮政府の話がほとんど無いからか?(笑)
いや、昨今の竹島問題関係見ても何とも思わなくなったように、単に飽きただけなんだろうか。

ってことで、残念ながら今日最初の史料も朝鮮政府関係ありません。
アジア歴史資料センターの『日清戦役ノ際清国上海及韓国仁川港二於ケル各国居留地局外中立ノ儀二付交渉一件/1.上海港局外中立ノ件(レファレンスコード:B07091143500)』の3画像目から。
上海の大越総領事から陸奥への、1894年(明治27年)6月29日付『機密第38号』。

日清両国開戦の場合には当港外国居留地を局外中立と見做さんとの議に付申進

別信にも申進置候通り、当港に於ては日清両国の危機は旦夕に逼れり、否既に開戦せり等風説頗る盛にして、両国の平和は到底維持すべからざる事殆ど一般の信ずる処に有之候。
然るに、昨日筆頭領事に出会候処、同氏の説にては、若し愈開戦の場合に至らば、先年清仏戦争の時の如く、当港外国人居留地を以て局外中立国と見做す事最も好都合なるべく、就ては其際領事会議を開き、其議決によりて北京公使へ電請し、清国政府の承諾を得べしとの事に有之。
右は在留本邦人保護の為めには得策と存候得共、多少軍略上にも関係を有する儀に付、別紙甲号の通り電請に及び候処、同乙号通り御回答相成、了承致候。
右御回訓の通り、領事に於て当港外国人居留地を局外中立となすの権なきのみならず、清国政府及外国公使に於て右■の相談を整ふるも、之を承諾すると否とは本邦の自由に可有之候■、本件は港内水面及び支那街等とは全く関係なく、単に外国居留地のみに関するものにして、居留人民の安全を目的とする一の「フィクション」に過ぎざる義に可有之候。
元来、我居留民は、皆純然たる商人の■に有之候得■、清国官民に於て或は暴力を以て我に加ふるの虞なきにもあらず、■つては若し当港を局外中立地と致し候時は此等の恐れも有之■義と存候に付、予め貴■相伺ひ候次第に有之候■、別紙の通り御回訓相成候に付ては、今後若し本件に付領事会議相開候得共、小官は事に託し出席せざるの考に有之候。
右、御承知相成度付、■申進候也。
別紙甲号が、7月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月28日付『電受第321号』、乙号が前回の1894年(明治27年)6月29日発『電送第262号』ですね。

■の部分で話が変わってくる可能性も大きいですが、取りあえずやっておきます。

上海ではもう日清は激突するだろうという見方で一致しており、大越が上海の筆頭領事に会った時に、筆頭領事はもしいよいよ開戦となったら、先頃の清仏戦争の時のように上海外国人居留地を局外中立国とみなすのが最も好都合であり、ついてはその時には領事会議を開いて、その決議を北京公使に電請して清国政府の承諾を得ようって事を言ってた、と。

これは、上海在住日本人の保護のためには得策だと思ったけど、多少は軍略にも関わってくるので別紙甲号のとおり陸奥に聞いてみたけど、乙号のとおり返事があったので了解した。

回答のとおり、領事には上海港の外国人居留地を局外中立とする権限が無いだけでなく、清国政府や外国公使の間でそのような取り決めが為されても、それを承諾するかどうかは日本の自由だけど、今回の一件は港内や中国人街とは関係なしに、単に外国人居留地だけに関するもので、居留人民の安全を目的とした一種の「フィクション」だ、と。
つうか、「フィクション」は、そのままの意味で受け取って良いんだろうか?

で、元々日本人居留民は純然とした商人だけど、清国の官民から日本人に対して暴力を加えてくる恐れがあるかもしれないので、上海港を局外中立地にすればそういう恐れもなくなるんじゃないかと思って陸奥に聞いたけど、回答もらったんで、今後は領事会議が開かれても出席しないつもり、と。
つうか、出席しないっつうのは、情報集めた方が良い外交官としてはどうなんだろう?(笑)

さて、続いての史料はアジア歴史資料センターの『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/1 明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日(レファレンスコード:B03050308100)』の48画像目。
陸奥から大鳥への、1894年(明治27年)6月29日発『電送第264号』より。

Otori,
Seoul

19 Have you received my telegram 17 sent through 在釜山総領事館.

Mutsu
7月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月28日発『電送第259号』を、釜山総領事館にも送れ、と。

さて、続いては栗野政務局長が6月29日に携帯していったという、陸奥から大鳥への内信について。
同じく、『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/1 明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日(レファレンスコード:B03050308100)』の48画像目から。

今般栗野政務局長を特派し、齎送致候訓令中に列載し朝鮮政府江勧告すべき事項に付ては、単に口頭にて彼の約束を取置候のみにては他日其成を責るべき場合相生候に当りて、又斯る約束は致せし事ありとか無しとか水掛け論に日を費し、例之朝鮮風の■手段の為め、含糊に帰するの懸念有之候に付、已に訓令中にも申述置候通是非公文を以て御照会相成、而して彼にて如何なる事情を申立候とも夫等には御聞入なく、必ず公文にての回答、即ち我政府の勧告を容るべしとの約束を取附被置候様致度。

尤、其内にも第1項の官司の職守を明かにし、地方官吏の情弊を矯正するといふ一事に付ては、我に向て必ず之を実行する事を約束せしむるの外、差向き評判宜からざる人物を免黜遷転せしむる事にて満足可致置。

又、第2項の外国交渉の事宜を重じ職守其人を擇ぶといふ一事に付ては、訓令中の理由書に記載せし通、君側に出入する権閥の旁議当局者の意見を左右し、其極遂に動もすれば其人を換へ、後任者は前任者の責に任せず、新任者と旧任者とは其言語に差違を生じ、徒らに両国交渉の事件を淹滞し、責任の帰する所なしといふが如き悪風有之候に付、将来言行一致の行動をなす事を得る実力家、即ち所謂勢道と申す如き人物を外国交渉の当局者に任命せらるる事と致度所存に付、其御含にて御談示相成度。

又、裁判・会計・兵制・警察・幣制に関する各項に至ては、今といふて今実行し得らるべき事にも無之候へ共、差向き必ず改良すべしといふ明約を取附置候而已にて満足可致置。

但し、交通の便を起すといふ1項に付ては、電信の事も鉄道の事も確乎たる約束と共に早々着手為致候事最も必要に有之。
電信の事は新たに架設するとも、又は現今の京釜線を買上るとも、何れに致せ純然たる朝鮮政府の所有、即ち他の干渉を受けざる線路を設けしむるか、又は我政府にて代りて架設し若くは買上る場合には、之を我政府の監督の下に置く事■ほ、今日清国政府の京釜線に於けるが如くするか、何れにても宜敷。
又鉄道の事は、是非京城釜山仁川間に布設せしむる様致度。
若し此等工事の為め資金を要するとの事なれば、我政府にて其周旋致遣候ても差支無之候に付、兎に角速かに実行為致候様御談じ附け相成度、右御心得迄に内信を以て申上置候。
尚、其他は栗野の口述に譲り候。
草々敬具
6月4日のエントリーから始まっている、閣議決定に基づく内政改革の要求項目を列記した、1894年(明治27年)6月27日『親展送第76号』の補足みたいなもんですね。

まず、何を置いても口約束じゃなく公文で約束を取り付ける事、と。
単に口約束の場合には、後日やるって言ったべ!?などと責めるような事が起きれば、「いや、そんな約束はしてないnida!<#`Д´>」などと水掛け論に日を費やし、いつものように有耶無耶な状態になる懸念もあるので、公文で照会してその回答も公文で出させろ、と。

で、内政改革要求のうち、1つめの官司の職守云々については、将来的に実行する約束をさせる他、差し当たって評判の良くない人物を罷免・左遷させる程度で良い。
裁判・会計・兵制・警察・幣制についても、すぐにどうこう言う問題ではないので、必ず改良するって約束すればOK、と。

ま、内心は『蹇蹇録』の記述「朝鮮の如き国柄が果して善く満足なる改革を為し遂ぐべきや否やを疑えり」のように、全く期待はしてないと思いますが。(笑)

で、外国交渉の事宜云々について。
訓令の理由の中でも言ってるけど、権閥の横やりが外交当局者の意見を左右し、遂には交代させられて、後任者は前任者の言ってた事と違う事言ったり、いたずらに交渉を引き延ばし、発言に対する責任もないというような悪風があるので、将来言行一致の行動ができる実力家、所謂勢道と呼ばれるような人物を外交交渉の当局者に任命することにしたいと思うので、その辺ヨロ、と。

つうか、高宗自体が言を左右にするだろ、とかツッコんじゃ駄目?(笑)
ま、誰がなっても同じ事で、結局自分らの都合のみで言う事変わるとは思うんですが。

で、「今後の話で約束すればおk」という上記項目とは違って、交通の便を起こすって1項については、電信についても鉄道についても、確乎たる約束と共に、早急に着手する事が大事。

電信については、新しく架設するにしても、現在の京釜線を買い上げるにしても、どっちにしろ他国の干渉を受けない純粋な朝鮮政府の所有か、日本政府が代わって架設・買い上げする場合には、日本政府の監督下に置くか、今の清国政府の京釜線のようにするか、どっちにしてもヨロ、と。
あぁ、やっぱり朝鮮政府単独所有であれば、それはそれで良いわけね。
つうか、京釜線って清国の所有だったのか?

鉄道については、仁川・京城・釜山間で敷設するようにしたい。
もし、この工事の資金が必要なら、日本政府が周旋しても差し支えないので、とにかく速やかに実行するように談判して欲しい、と。

もしこれが受諾されてれば、どうなってたかなぁ・・・。


と、答えの出ない疑問を抱きつつ、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(三十一)
日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(三十二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(三十三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(三十四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(三十五)
日清戦争開戦まで(六)     日清戦争開戦まで(三十六)
日清戦争開戦まで(七)     日清戦争開戦まで(三十七)
日清戦争開戦まで(八)     日清戦争開戦まで(三十八)
日清戦争開戦まで(九)     日清戦争開戦まで(三十九)
日清戦争開戦まで(十)     日清戦争開戦まで(四十)
日清戦争開戦まで(十一)   日清戦争開戦まで(四十一)
日清戦争開戦まで(十二)   日清戦争開戦まで(四十二)
日清戦争開戦まで(十三)   日清戦争開戦まで(四十三)
日清戦争開戦まで(十四)   日清戦争開戦まで(四十四)
日清戦争開戦まで(十五)   日清戦争開戦まで(四十五)
日清戦争開戦まで(十六)   日清戦争開戦まで(四十六)
日清戦争開戦まで(十七)   日清戦争開戦まで(四十七)
日清戦争開戦まで(十八)   日清戦争開戦まで(四十八)
日清戦争開戦まで(十九)   日清戦争開戦まで(四十九)
日清戦争開戦まで(二十)   日清戦争開戦まで(五十)
日清戦争開戦まで(二十一)  日清戦争開戦まで(五十一)
日清戦争開戦まで(二十二)  日清戦争開戦まで(五十二)
日清戦争開戦まで(二十三)  日清戦争開戦まで(五十三)
日清戦争開戦まで(二十四)  日清戦争開戦まで(五十四)
日清戦争開戦まで(二十五)  日清戦争開戦まで(五十五)
日清戦争開戦まで(二十六)  日清戦争開戦まで(五十六)
日清戦争開戦まで(二十七)  日清戦争開戦まで(五十七)
日清戦争開戦まで(二十八)  日清戦争開戦まで(五十八)
日清戦争開戦まで(二十九)  日清戦争開戦まで(五十九)
日清戦争開戦まで(三十)   日清戦争開戦まで(六十)




前回は何かリンク集みたいになっちゃいました。
これまで、結構マメに取り上げてたのが分かったわけですが、果たしてそこまでする程の話題だったのか、という根本的な疑問が・・・。(笑)

さて、今日はアジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/7 明治27年6月13日から1894〔明治27〕年6月30日(レファレンスコード:B03030205300)』の31画像目。
大鳥から陸奥への、1894年(明治27年)6月29日発『電受第112号』の電信訳文から見ていきたいと思います。
では早速。

加藤外務書記官は6月28日朝来着し、本使は貴大臣の訓令を委しく承りたり。
6月26日第11号本使の電信に述べたる如く、支那を圧倒し朝鮮を我威力の下に置くに非ざれば、到底有効の改革を遂ぐること能はざることを確信するが故に、日本政府の目的を遂げんが為めに6月28日本使は朝鮮政府へ公文を送り、之に陳ぶるに、在日本清国公使より貴大臣へ宛たる書翰の寫を以てして、朝鮮政府に向け議政府は果して右清国公使の書翰に述べたる如く支那の属邦なることを認むるや否やに付、1日を期して辨明を与ふべきを要求せり。
而して、若し朝鮮政府が其属邦たることを認めずと返答せば、本使は一方に於ては袁世凱に向て支那が属邦を保護するとの口実に依り清兵を派遣し、現に朝鮮に駐在せしむることは朝鮮の独立に害ありとの理由を以て直ちに清兵の撤回を求め、又他の一方に於ては朝鮮政府に向て清兵を追出すことを求むべし。
而して万一朝鮮政府に於て自力を以て清兵を追出すこと能はざる場合には、我に於て自ら其事に任ぜざるを得ず。
若し又朝鮮政府に於て其属邦たることを認むると返答せば、我兵を以て直ちに王室を圍み、江華島條約第一條を破りたるものとして彼より辨明と謝辞を求むべし。
若し又朝鮮政府に於て曖昧の返答を為し、朝鮮は支那の属邦なりと称すると雖ども内治外交に関しては朝鮮政府に於て自ら断行の権ありと云ふときは、矢張り第一の場合に於けると同様の処置を執るべし。
何れの場合に於ても、他の條約国をして局外中立の地位を守らしむる為め、日本政府の正当なる目的に関し、我より保証を与ふること最も緊要なり。
而して此保証は、貴大臣及び本使に於て飽迄之を与へんと欲す。

6月26日謁見了致、本使は当国行政改革の事を国王に奏上せり。
且つ本使は、最近の様を以て我が提議を公然朝鮮政府に提出すべき積りなり。
本電信の趣は、貴大臣に於て最も適切とせらるる方法を以て小村臨時代理公使へ御通知あり、尚ほ必要の御訓令を同代理公使へ附与せられたし。
此時に際し、我が海軍は如何なる処置に出づへきや。

金1万円直ちに御廻付を乞ふ。
貴大臣の訓令は直ちに電報ありたし。
  原書朝鮮内政整理
この電信は6月30日に届いています。

「6月26日第11号」ってのは、5月30日のエントリーで見た1894年(明治27年)6月26日発『電受第317号』の事ですね。

内容的には、6月20日のエントリー6月23日のエントリーで見た1894年(明治27年)6月28日付『機密第110号』と同様の話がメインですね。

属邦問題で迫るって案。
案っつうか、もうやっちゃってますけどね。
去年の1月30日のエントリーでは、電訓を請う暇が無い場合に大鳥が臨機処分できる筈だったわけですが。(笑)

その他、大鳥の発案については小村にも陸奥が最も適切だと思う方法で通知し、必要な訓令を付与してね、と。
まぁ、属邦問題で迫るわけですから、清国の本国とも関係してくるしって事でしょうかね?

その場合、日本の海軍はどういう処置に出るべきか、と。
ああ、「清国の本国とも関係してくるし」じゃなくて、開戦前提の話かも知れないなぁ。

で、1万円要求。
工作費かな?

最後にすぐ訓令よこせ、と。

続いては、英文電報に行ってみますか。
『日清韓交渉事件ノ際二於ケル軍用電線架設関係雑件/1.軍用電信線架設ノ件(レファレンスコード:B07090434500)』から。
8画像目。
まずは右側の1894年(明治27年)6月29日発『電送第263号』より。

Otori,
Seoul

(18) Telegraph engines and materials shipped today.
If this telegram reaches you inform me of it.
電信技師と材料は今日送られた。
もしこの電信が届いたら、教えてくれ、と。

4月25日のエントリーでチョロッと触れましたが、2画像目の1894年(明治27年)6月23日発『電受第296号』で、釜山電信線修理のための材料要求が出されてましたが、その関係かな。

続いて左側の1894年(明治27年)6月29日発『電送第265号』。

Eitaki,
Fusan

Not fighting soldiers but 軍用電信隊 numbering about 100 including engineers and labourers who are going by 東京丸.

Mutsu.
戦闘要員ではない技師や労働者約100名の軍用電信隊が、東京丸で向かった、と。
電信を作る部隊って事かな。

今日最後の史料は、アジア歴史資料センターの『日清戦役ノ際清国上海及韓国仁川港二於ケル各国居留地局外中立ノ儀二付交渉一件/1.上海港局外中立ノ件(レファレンスコード:B07091143500)』より。
2画像目左側。
陸奥から上海の大越総領事への1894年(明治27年)6月29日発『電送第262号』より。

Okoshi,
Shanghai.

Refrain from taking any part in question of making 上海 neutral port.
I have to confidentially inform you that Consuls have not such authorize.

Mutsu
7月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月28日付『電受第321号』に対する返事ですね。

上海の中立港化の論議について参加することは、差し控えろ。
領事はそのような認可は出来ない旨、貴下に親展で通知する。かな?

勿論、日本側から戦争を前提とした中立港の議論に、この時点で積極的に参加する必要も無く。
つうか、逆にまだやっちゃ駄目、みたいな。(笑)


ってことで、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(三十一)
日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(三十二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(三十三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(三十四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(三十五)
日清戦争開戦まで(六)     日清戦争開戦まで(三十六)
日清戦争開戦まで(七)     日清戦争開戦まで(三十七)
日清戦争開戦まで(八)     日清戦争開戦まで(三十八)
日清戦争開戦まで(九)     日清戦争開戦まで(三十九)
日清戦争開戦まで(十)     日清戦争開戦まで(四十)
日清戦争開戦まで(十一)   日清戦争開戦まで(四十一)
日清戦争開戦まで(十二)   日清戦争開戦まで(四十二)
日清戦争開戦まで(十三)   日清戦争開戦まで(四十三)
日清戦争開戦まで(十四)   日清戦争開戦まで(四十四)
日清戦争開戦まで(十五)   日清戦争開戦まで(四十五)
日清戦争開戦まで(十六)   日清戦争開戦まで(四十六)
日清戦争開戦まで(十七)   日清戦争開戦まで(四十七)
日清戦争開戦まで(十八)   日清戦争開戦まで(四十八)
日清戦争開戦まで(十九)   日清戦争開戦まで(四十九)
日清戦争開戦まで(二十)   日清戦争開戦まで(五十)
日清戦争開戦まで(二十一)  日清戦争開戦まで(五十一)
日清戦争開戦まで(二十二)  日清戦争開戦まで(五十二)
日清戦争開戦まで(二十三)  日清戦争開戦まで(五十三)
日清戦争開戦まで(二十四)  日清戦争開戦まで(五十四)
日清戦争開戦まで(二十五)  日清戦争開戦まで(五十五)
日清戦争開戦まで(二十六)  日清戦争開戦まで(五十六)
日清戦争開戦まで(二十七)  日清戦争開戦まで(五十七)
日清戦争開戦まで(二十八)  日清戦争開戦まで(五十八)
日清戦争開戦まで(二十九)  日清戦争開戦まで(五十九)
日清戦争開戦まで(三十)



さて、今日は前置き無しで。
『駐韓日本公使館記録2』から。

5月28日のエントリーで大鳥から袁世凱への、「これ牙山でお前んとこの聶が出した布告だって言うんだけど、マジ?」という質問に対して、6月11 日のエントリーで「良く分かんねーから聶に聞いてみる」という袁世凱の返事が出されてましたが、その関係。
1894年(明治27年)6月28日付の文書より。

逕啓者日前貴国統領聶軍門在牙山地方貼出告示是否真偽照請明示当承覆称先行査詢前途俟准覆文再行照知等因在案准査此事関係緊要即希務速査覆是所盼禱耑此泐佈順頌
日祉
この前の聶の布告の真偽照会に対して、調査して知らせるって返事きたけど、これ緊要な話なんでなるべく早く調査・回答してよね、と。
回答の督促ですね。

で、同日1894年(明治27年)6月28日の袁世凱の回答から。

逕復者頃奉来書以催査聶軍門告示真偽事希速査覆等因准此査該項告示昨己具文抄録専人送往索覆俟接覆文当即布達可也特此奉覆即頌
勳祺
その件はさぁ、昨日確認の文書送ったから、その返事待ってよ、と。
そば屋の「今出ました」じゃないだろうな。(笑)

さて、次からはようやくというか何というか、6月29日の史料に入って行きます。
アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/1 甲午〔明治27年〕5月初9日から明治27年7月9日(レファレンスコード:B03030206100)』の31画像目。
大鳥から陸奥への、1894年(明治27年)6月29日付『機密第112号』。

先般来、当国政府より我護衛兵入京拒絶の義に関し、種々故障申越候に付一々辨駁致置候趣は、曩に本月13日附機密第92本59号を以て及具報置候処、爾後引続き別紙之通り往復を重ね候末、我に於て取合はざるを以て、其後は遂に何等申越さざる事と相成候。
依て、別紙往復寫16通相添此段及稟報候也。
あれ?
1894年(明治27年)6月13日付の『機密第92号』ってやってないぞ?(笑)
ってことで、先にそっちを。
アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/4 明治27年6月9日から〔明治27年6月21日〕(レファレンスコード:B03030205000)』の49画像目。
1894年(明治27年)6月13日付『機密第92号』。

公使館護衛兵上陸進京之儀に付統署督辨と往復の件

公使館護衛兵派遣之儀、朝鮮政府へ通知したる顛末機密第83号信を以て杉村臨時代理公使より及上申候処、本官入京の前日(6月9日)同代理公使より本官護衛水師兵300名隨帯入京の儀、外務督辨へ別紙甲号の通り及御通知候処、同夜督辨より兵員入京差止め方に付同乙号之通り回答旁請求有之候に付、再び右に対し翌10日杉村代理公使より同丙号之通り来意に応じ兼候旨相断り申候。
然るに、其日又同件に付別紙丁号の通り改めて督辨より照会有之候に付、同戊号之通り杉村臨時代理公使より彼の請求に応じ難き旨照覆に及候趣に有之候。
依て、右往復文寫5通相添此段及上申候也。
機密第83号は、昨年の2月24日のエントリーから26日のエントリーで取り上げたヤツ。
で、50画像目の別紙甲号が、同じく昨年の2月24日のエントリーで取り上げた1894年(明治27年)6月9日付『第43号』。
51画像目の乙号も昨年の2月24日のエントリーの1894年(明治27年)6月9日付文書。
52画像目の丙号が昨年の3月2日のエントリーの1894年(明治27年)6月10日付『第44号』。
53画像目の丁号も同じく昨年の3月2日のエントリーの1894年(明治27年)6月10日付『照会第10号』。
54画像目も同昨年の3月2日のエントリーの1894年(明治27年)6月10日付『第45号』ですね。
要するに、日本の護衛兵入京差し止めの話。

で、本題の『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/1 甲午〔明治27年〕5月初9日から明治27年7月9日(レファレンスコード:B03030206100)』の1894年(明治27年)6月29日付『機密第112号』に戻って、朝鮮政府による日本の護衛兵入京差し止めの件について、一々弁駁しておいたのは機密第92号で報告しておいたけど、その後別紙のとおり書翰の往復を重ねた末、日本が取り合わないので終に何も言ってこなくなった、と。(笑)

で、それに付属してる別紙が16通・・・。

まずは、これまたまだ取り上げてなかった、32画像目。
6月12日付『第47号』。

敬啓者刻接仁川来電悉於本日下午四點鍾我国陸兵約八百名到仁当夕起程可於明日進京拱衛我使館矣所有在京海兵須待該陸兵進京応行交代回仁帰艦也爲将函達
貴督辨照諒可也耑此泐佈順候
晩安
今日の午後4時に陸兵800人が仁川に到着し、夕方仁川を出発して明日京城入りし、海兵と交代するそうなんで、ヨロ、と。
んで、これへの回答が33画像目。

敬復者刻奉
来函為本日下午四點鍾貴国陸兵八百名到仁当夕起程可於明日進京拱衛貴使館所有在京海兵須待陸兵進京応行交代回仁帰艦一事本督辨閲悉之下殊甚訝惑査現在南匪已平完城克復等由業經函明早已
亮悉惟漢京原無険慮因前次貴兵無故調来反致騷然政宜立施撤還籍資釋疑方稱
貴公使処事公允亦属本督辨之所厚望也何以次此又添多兵陸続進京以致都下人民転益驚疑此本督辨之尤未可解尚望
貴公使更加三思先飭在館海兵亟行撤回并将抵仁陸兵勿令前進以安人心而敦友睦至所盻禱耑此佈復順頌
夜安
書翰読んだけどさぁ、何で東学党の乱は平定して京城にも危険は無いって言って、日本兵が理由も無く入ってきたら騒擾が起きるから撤兵しろって言ったじゃんか。
それなのに、今度また多くの兵を京城に進めて都下の人民を驚かすって何でよ?
ウリには理解出来ないニダ。
だから、先に公使館に入った海兵も撤兵させて、同時に仁川に到着した兵も入京しないようにして、人心を安定させてくれよ、と。

で、34画像目は昨年の3月24日のエントリーでやった1894年(明治27年)6月13日付『第48号』。
35画像目が昨年の3月12日のエントリーで見た1894年(明治27年)6月12日付『照会第12号』。
36画像目が昨年の3月24日のエントリーの1894年(明治27年)6月13日付『照会第13号』。
37画像目が、昨年の4月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月15日付『第49号』。
38画像目は同じく昨年の4月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月16日付け書簡。
39画像目が昨年の4月19日のエントリーの1894年(明治27年)6月17日付『第50号』。
40画像目から今年のエントリーに入って、2月11日のエントリーでの1894年(明治27年)6月17日『第14号』。
41画像目は2月12日のエントリーの1894年(明治27年)6月18日付『第51号』。
42画像目は2月14日のエントリーの1894年(明治27年)6月18日文書。
43画像目は2月13日のエントリーの1894年(明治27年)6月18日付『第15号』。
44画像目が2月18日のエントリーの1894年(明治27年)6月19日付『第52号』。
45画像目が2月20日のエントリーの1894年(明治27年)6月20日付文書。
46画像目が3月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月22日付『第54号』。
47画像目が3月17日のエントリーの1894年(明治27年)6月23日書簡。
以上16通、と。

結構マメに取り上げてんなぁ・・・。
まぁ、その分話が進まないわけですが。(笑)


ってことで、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(三十一)
日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(三十二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(三十三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(三十四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(三十五)
日清戦争開戦まで(六)     日清戦争開戦まで(三十六)
日清戦争開戦まで(七)     日清戦争開戦まで(三十七)
日清戦争開戦まで(八)     日清戦争開戦まで(三十八)
日清戦争開戦まで(九)     日清戦争開戦まで(三十九)
日清戦争開戦まで(十)     日清戦争開戦まで(四十)
日清戦争開戦まで(十一)   日清戦争開戦まで(四十一)
日清戦争開戦まで(十二)   日清戦争開戦まで(四十二)
日清戦争開戦まで(十三)   日清戦争開戦まで(四十三)
日清戦争開戦まで(十四)   日清戦争開戦まで(四十四)
日清戦争開戦まで(十五)   日清戦争開戦まで(四十五)
日清戦争開戦まで(十六)   日清戦争開戦まで(四十六)
日清戦争開戦まで(十七)   日清戦争開戦まで(四十七)
日清戦争開戦まで(十八)   日清戦争開戦まで(四十八)
日清戦争開戦まで(十九)   日清戦争開戦まで(四十九)
日清戦争開戦まで(二十)   日清戦争開戦まで(五十)
日清戦争開戦まで(二十一)  日清戦争開戦まで(五十一)
日清戦争開戦まで(二十二)  日清戦争開戦まで(五十二)
日清戦争開戦まで(二十三)  日清戦争開戦まで(五十三)
日清戦争開戦まで(二十四)  日清戦争開戦まで(五十四)
日清戦争開戦まで(二十五)  日清戦争開戦まで(五十五)
日清戦争開戦まで(二十六)  日清戦争開戦まで(五十六)
日清戦争開戦まで(二十七)  日清戦争開戦まで(五十七)
日清戦争開戦まで(二十八)  日清戦争開戦まで(五十八)
日清戦争開戦まで(二十九)
日清戦争開戦まで(三十)



前回は、あまり面白い史料じゃなかったなぁ。
まぁ、仁川に続いて上海の中立港問題が出てきて、それなりに国外事情も動いては来てるんですがね。
つまらんもんはつまらん。(笑)

さて、今日はまず、アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/2 明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日(レファレンスコード:B03030206200)』の23画像目から見ていきましょうかね。
北京の小村寿太郎から陸奥宗光への、1894年(明治27年)6月28日付『機密第27号信』より。

朝鮮に対し日清協同の義にて清政府は汪公使を経て我政府に答復済否通知方催促に関する総署との往復啓文寫相添申進の件

本件に関し、去る21日附機密第25号信に相添差出の辛号対話筆記にて御承知可有之候通り、清国政府より在東京汪公使を経て、最早我政府に答復の済否は李鴻章に電詢し、電復次第早速通知可致旨、総署大臣申聞以後、爾来2日何等申越無之候間、去る22日別紙甲号寫の通り啓文を以て催促申遣候処、其翌々24日該大臣より乙号の通り、該公使に於ては已に外務省に面復せりとの旨李氏より電復到来との趣回答申越候に付、為念此往復啓文寫差出候。
右申進候也。
小村から陸奥への、1894年(明治27年)6月21日付『機密第25号信』の辛号については、3月3日のエントリーでやりました。

その中で、李鴻章経由で汪公使に返事する事になり、小村が李鴻章から回答きたら書面で通知してねと言っていたのに対し、回答が来次第通知するねという返事だったわけですが、それから2日経っても音沙汰無し。

ってことで、6月22日に別紙甲号のとおり催促したら、24日になって乙号のとおり汪公使は既に外務省に行ったという回答が来た。
で、念のため送る、と。

結局、3月6日のエントリーでの6月22日付の日本の提案に対する拒否回答の話ですね。

一応別紙の甲号と乙号も見ておくことにします。
24画像目の甲号寫と25画像目の乙号寫より。

甲號寫

王爺 中堂大人 台啓

逕啓者本月十六日外務大臣所提之件本署大臣前於二十日前往
貴署面詢
貴国
政府是否由汪大臣答復我
政府
貴大臣曽云已達北洋大臣転電汪大臣仍応電詢北洋遅復到時即行函知等語現逾両日想該大臣電復已到矣務希
見復為盼耑此順頌
時祉

名另具 六月二十二日
小村壽太郎


乙號寫

小村大人 台啓

逕復者本月十九日接准
来函以
貴署大臣来署面談之件北洋大臣如已復到即祈函知等因査此件前経本衙門電知北洋大臣転詢出使汪大臣去後茲准電復
貴国外務大臣所擬三端汪大臣已向
貴国外務署面復等語相応函復
貴署大臣査照可也此頌
日祉
名另具 五月二十一日
福錕 孫毓汶 崇禮 徐用儀 張蔭桓
簡単に言うと、返事マダァー?(・∀・ )っ/凵⌒☆ チンチン
もう陸奥に会ったってー、と。

続いては、アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/3 明治27年6月28日から明治27年7月15日(レファレンスコード:B03030206300)』から。
5画像目。
再び小村から陸奥へのもので、今度はロシアの動きに関して。
1894年(明治27年)6月28日付『機密第28号信』より。

暗号電信解訳寫差出並に露政府申入云々に関し申進の件

去る25日以来、暗号電信都合4通別紙解訳の通り発着候間、如例此寫差出候。
就中、丁号電文中露政府の申入は北京政府よりしたるものに非ず。
天津に於て、李鴻章と露国特命全権公使カウント・カシニー氏と面晤の結果と信ずる旨申進の次第は、露国代理公使ウエバーは過日当地に到着以後、就任披露等の為めならん歟、一■度程しか総理衙門に不■■。
然るに、露公使カシニー氏は去る17日当地発足、天津経過芝罘にて、来る30日解纜の肥後丸便にて本邦経過帰国の筈に最初取極の処、今日迄天津に滞在且つ在天津独逸領事セッケンドルフ氏よりの報告なりとて、当地同国特命全権公使バロン・ホン・シェンク氏の内話に承はり候得ば、李鴻章は露公使を招待し盛んなる宴席上、同公使を称揚の演説を為したる由。
抑も、李鴻章に於て帰去来の各国公使を饗応し、それ相応の世辞を申述るは其常とは乍申、それにしても同公使の隨行員パブロー氏は爾来度々李氏の官邸に出入するとの由なるは何故歟。
又露公使は実際病気なるにも拘はらず、途中天津に滞在■在候義は、是亦何故歟。
去る22日、或る席に於て仏国特命全権公使ヂェラルド並に露国代理公使ウエバー氏は本官に向ひ、近頃英公使オコノル氏は度々総理衙門に出向の様子に有之、定めて何等御聞込の事あるべしと密々問ひ起し候に付、何にも無之旨相答候処、能々御探訪可有之との由申聞に付、委細承知せり。
尚御聞込の義も候はば、御通知有之度と申聞、それよりウエバー氏は他坐に去らんとせし際、ヂェラルド氏はウエバー氏に向ひ在天津貴公使に御発信の節は宜敷との一言を申聞候模様にて、カシニー氏よりウエバー氏に何等返信無之、ヂェラルド氏と共に本官に由て英公使の動声を探らんとしたるには無之歟と推察被致。
彼此参照の上、本官は前述の通り露政府の申入は李氏と露公使と面晤の結果と信じたる次第に候。
右申進候也
2月19日のエントリーから帰る話が出てたのに、結局カシニーは天津に滞在し続けてたようで。
まぁ、情勢的にかなり微妙な時期ではあるんですが。

で、ドイツの特命全権公使のシェンクが言うには、李鴻章はカシニーを招待して盛大な宴会を開き、その席上でカシニーを褒め称える演説をしたらしい。
まぁ、李鴻章が帰任・来任する公使を接待して世辞を言うのはいつもの事だけど、それにしてもカシニーに同行してるパブロー(パブロフ?)がそれ以降たびたび李鴻章の官邸に出入りしているのは何故か。
また、カシニーは実際病気なのに天津に滞在してるのは何故か、と。

6月22日にフランス特命全権公使のジェラルドとロシア代理公使のウェベルが小村んとこに色々言ってきたけど、要するにウェベルはジェラルドと一緒に小村からイギリス公使オコーノルの動静を探らせようとしたのではないかと推察する。

で、色々見ると、小村はロシア政府の申し入れは李鴻章とカシニーの面会の結果じゃないかと思う、と。

要するに、ヒトロヴォが仲介斡旋に来たのは、政府としての清国による申し入れではなく、李鴻章が単独でカシニーと決めた話じゃないかって事かな?
で、それに関してイギリス公使や清国政府に動きが無いか、ウェベルが探り入れに来た、みたいな。

で、別紙について。
10画像目の別紙甲号は、5月12日のエントリーで見た、1894年(明治27年)6月25日発『電受第311号』。
9→8画像目の別紙乙号が5月26日のエントリーの1894年(明治27年)6月26日発『電送第247号、電送第248号』。
7画像目の丙号が6月2日のエントリーの1894年(明治27年)6月27日発『電送第257号』。
同じく7画像目の丁号が、7月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月28日付『電受第321号』となっていますので、改めては取り上げません。


ってことで、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(三十一)
日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(三十二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(三十三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(三十四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(三十五)
日清戦争開戦まで(六)     日清戦争開戦まで(三十六)
日清戦争開戦まで(七)     日清戦争開戦まで(三十七)
日清戦争開戦まで(八)     日清戦争開戦まで(三十八)
日清戦争開戦まで(九)     日清戦争開戦まで(三十九)
日清戦争開戦まで(十)     日清戦争開戦まで(四十)
日清戦争開戦まで(十一)   日清戦争開戦まで(四十一)
日清戦争開戦まで(十二)   日清戦争開戦まで(四十二)
日清戦争開戦まで(十三)   日清戦争開戦まで(四十三)
日清戦争開戦まで(十四)   日清戦争開戦まで(四十四)
日清戦争開戦まで(十五)   日清戦争開戦まで(四十五)
日清戦争開戦まで(十六)   日清戦争開戦まで(四十六)
日清戦争開戦まで(十七)   日清戦争開戦まで(四十七)
日清戦争開戦まで(十八)   日清戦争開戦まで(四十八)
日清戦争開戦まで(十九)   日清戦争開戦まで(四十九)
日清戦争開戦まで(二十)   日清戦争開戦まで(五十)
日清戦争開戦まで(二十一)  日清戦争開戦まで(五十一)
日清戦争開戦まで(二十二)  日清戦争開戦まで(五十二)
日清戦争開戦まで(二十三)  日清戦争開戦まで(五十三)
日清戦争開戦まで(二十四)  日清戦争開戦まで(五十四)
日清戦争開戦まで(二十五)  日清戦争開戦まで(五十五)
日清戦争開戦まで(二十六)  日清戦争開戦まで(五十六)
日清戦争開戦まで(二十七)  日清戦争開戦まで(五十七)
日清戦争開戦まで(二十八)
日清戦争開戦まで(二十九)
日清戦争開戦まで(三十)



さて。
今日は、朝鮮そのものとは殆ど関係無いけど、日清戦争には関係する話。
前回までと同じ簿冊から。
アジア歴史資料センターの『日清戦役ノ際清国上海及韓国仁川港二於ケル各国居留地局外中立ノ儀二付交渉一件/1.上海港局外中立ノ件(レファレンスコード:B07091143500)』より。
2画像目。
上海の大越総領事から陸奥への、1894年(明治27年)6月28日付『電受第321号』より。

Mustu,
Tokio

2. In case of war some colleagues contemplate to make 上海 neutral port like the last Franco-Chinese war.
Have you any objection to ■■y agreeing?
戦争になった場合、何人かの同僚は、最近の清仏戦争と同様に上海を中立港にしようと熟考している。
貴下に何らかの異論はあるか、にしちゃって良いのかなぁ・・・。

ま、朝鮮にあんま関係無いから良っか。(笑)
取りあえず、上海港の中立問題についての話が、大越総領事からあったという事だけ押さえておくことに。

さて、どうせ英文史料を1回上げちゃったので、続いても英文史料を。
アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/7 明治27年6月13日から1894〔明治27〕年6月30日(レファレンスコード:B03030205300)』の30画像目から見ていきたいと思います。
北京の小村から陸奥への、1894年(明治27年)6月28日発『電受第322号』より。

Mutsu,
Tokio

Your telegram of 六月二十六日 received.
There is every reason to believe that the suggestion of the Russian Government has made as the result of interview between 李鴻章 and Russian Minister at 天津 without the Government at Peking being made aware of the fact.

Kmura
6月26日付の貴下の電信を受け取った。
6月26日付電信ってのは、5月26日のエントリーで見た1894年(明治27年)6月26日発『電送第247号、電送第248号』でしょうね。
内容は、陸奥とロシア公使ヒトロヴォの対談の要旨でした。

で、ロシア政府の提案は、北京政府にその事実を知らせないまま、李鴻章と在天津ロシア公使との間で持たれた会談の結果である事を信じる、充分な理由がある。かな?
北京政府に内緒で李鴻章が行った調停依頼かぁ・・・。

さて、続いても英文史料。
アジア歴史資料センターの『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/1 明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日(レファレンスコード:B03050308100)』の47画像目を見ていきたいと思います。
陸奥から大鳥への、1894年(明治27年)6月28日発『電送第259号』。

Otori,
Care of Japanese Consulate General,
Fusan

(17) Demand withdrawal of words 属国 in proclamation of 聶.
It does not seem politic at present to attempt expulsion by force of Chinese soldiers at 牙山.
You will lay the proposal for reform before Corean Government as soon as 加藤 arrived, no matter Corean Government listen to it or not.

Mutsu
5月28日のエントリーで見た聶の告示について、5月30日のエントリーの1894年(明治27年)6月26日発『電受第317号』で報告が行われてました。
その聶の布告から属国という文言の撤回を要求すること。

また、その1894年(明治27年)6月26日発『電受第317号』の中で大鳥が、上記の布告を否定するために、力づくでも必要と考える措置をとって良いかと聞いてましたが、それに対して武力で牙山の清国軍を排除しようとする試みは、現時点では妥当ではないと思われる、と。
May I take such steps as I deem necessary to contradict the above proclamation even by force.」から飛躍しすぎな気も・・・。(笑)
まぁ、「by force」から考えると、そうなる可能性の方が高いのか。

で、加藤が到着すれば、朝鮮政府が耳を貸そうが貸すまいが構わずに、改革のための提議を提出すること、と。

6月20日のエントリーでは、加藤書記官は丁度この電文の発日である6月28日に京城入りした事になってましたね。

続いては『駐韓日本公使館記録2』から。
元山の上野領事から大鳥公使への1894年(明治27年)6月28日付『機密第8号』。

本月23日頃より、当地韓人の間に京城に於て日清両国兵の間に葛藤を生じ、戦争の変あるべし■専ら伝説致居しが、昨日に至り俄かに日清交兵の談高まり、既に数回の戦ありて日本兵大敗績を為し、死する者数百人有之云々、或る信拠すべき処に電報ありしとの説流布致し、隨て我居留人民に於ても大に危懼の念を生じ、種々の評説有之候。
右等の事に付ては未だ何たる公報も無之のみならず、固より如是出来事あるべき筈も無之に付、我居留民の問に対しては無論此等の浮説謠言に惑はず、安致すべく様相諭置候得共、右の一説は本港海関杯にも専ら流布致し、延て世間一般に日兵敗走の取沙汰と相成、且つ韓人の我国人民に対する感情にも関し、其結果自然貿易上にも関係致し、大に我が不利益と相成候に付、一応御地の実況を確かめ、然る上にて此の流説を打破致度と存候間、今朝電報を以て御問合致したる義に有之候。
露国兵入境云々の説に付ては、其後未た確説を得ず。
尤も、昨午后郵船薩摩丸浦潮港より入津に付該港の景況相尋候処、現在同港には3隻の軍艦繋泊中にて、其内2隻は既に朝鮮へ廻航の命令を受け居候由伝承せしも、陸兵発送の件に付ては未だ何事も聞知不致趣に候。
又た、咸境道北部の事情に付ては兼て北青地方我国人に就て探偵為致居候処、昨日同地方より一名帰元。
其説には、露兵入境の事は別に著しき説も無之。
土民も亦た如是風評するものなく、且つ該地方の沿海には未だ曽て露艦の来泊致したる事も無之候由なり。
右は、今日迄の事情御含の為め御報致置候。
匆々
敬具

逐々本信転発の際の頃に、日清両兵交戦なし云々の御電諭に接し、居留人民一同安睹致候。
右為念申添也。
日清両国が既に衝突して、日本が大敗北したというデマが。
そして、結局ロシア出兵もデマ。
まぁ、正確な情報を求めるのが難しい時代ではありますが、根も葉も無いのはヤメレ、と。(笑)


今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(三十一)
日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(三十二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(三十三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(三十四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(三十五)
日清戦争開戦まで(六)     日清戦争開戦まで(三十六)
日清戦争開戦まで(七)     日清戦争開戦まで(三十七)
日清戦争開戦まで(八)     日清戦争開戦まで(三十八)
日清戦争開戦まで(九)     日清戦争開戦まで(三十九)
日清戦争開戦まで(十)     日清戦争開戦まで(四十)
日清戦争開戦まで(十一)   日清戦争開戦まで(四十一)
日清戦争開戦まで(十二)   日清戦争開戦まで(四十二)
日清戦争開戦まで(十三)   日清戦争開戦まで(四十三)
日清戦争開戦まで(十四)   日清戦争開戦まで(四十四)
日清戦争開戦まで(十五)   日清戦争開戦まで(四十五)
日清戦争開戦まで(十六)   日清戦争開戦まで(四十六)
日清戦争開戦まで(十七)   日清戦争開戦まで(四十七)
日清戦争開戦まで(十八)   日清戦争開戦まで(四十八)
日清戦争開戦まで(十九)   日清戦争開戦まで(四十九)
日清戦争開戦まで(二十)   日清戦争開戦まで(五十)
日清戦争開戦まで(二十一)  日清戦争開戦まで(五十一)
日清戦争開戦まで(二十二)  日清戦争開戦まで(五十二)
日清戦争開戦まで(二十三)  日清戦争開戦まで(五十三)
日清戦争開戦まで(二十四)  日清戦争開戦まで(五十四)
日清戦争開戦まで(二十五)  日清戦争開戦まで(五十五)
日清戦争開戦まで(二十六)  日清戦争開戦まで(五十六)
日清戦争開戦まで(二十七)
日清戦争開戦まで(二十八)
日清戦争開戦まで(二十九)
日清戦争開戦まで(三十)



水曜日は久しぶりに別の話題で気分転換。
やっぱり、気軽に単発更新出来る方が気が楽だよなぁ。
などと思いながら、すぐに元の連載に戻ったり・・・。

さて、今日も前回の続きのアジア歴史資料センターの『日清戦役ノ際清国上海及韓国仁川港二於ケル各国居留地局外中立ノ儀二付交渉一件/2.仁川港局外中立ノ件(レファレンスコード:B07091143600)』から、まずは取り上げ漏れをもう一件だけ。
9画像目。
仁川の能勢領事から大鳥への、1894年(明治27年)6月22日付『京第40号』より。

我兵当港に駐留する儀に関し、居留外国人中種々苦情相唱へ居候模様は、已第36号を以て委曲申進置候処、元来右は当開港場に駐留するは、一朝日清両国間に衝突を生じたる場合に於て、同港居留外国人の生命財産に危害を及ぼすものなるに就き、当開港場をして兵燹の禍に罹らざらしむる丈けの距離迄、我兵の移陣を要求に出の心底に有之。
特に、英国副領事の如きは、絶対的に我兵の駐仁を抗撃するものに有之候。
即ち、同副領事は別紙甲号の通り、最初は租界内に我兵馬を駐むる義に付き小官の説明を求めたるを以て、本件は国際上の問題に属し、領事の職権内にて何分答弁致し難く、就ては本官は只京城の我公使へ具状すべくに付き、猶貴官よりも其筋へ申立てらるべき旨回答致置候。
然るに、其後別紙乙号及び丙号の通り、我軍隊の駐留より生起する事件にして英国人に危害を及ぼすの場合には、日本政府之が責に任ぜられ度旨再応照会致来候に付き、小官よりは重ねて前同様の意味を以て、別紙丁号の通り回答致置候間、右様御了承の上可然御取計らひ相成度、別紙四葉相添、此段申進候也。
居留外国人が日本の駐兵について種々の苦情を訴えているのは、前回の1894年(明治27年)6月19日付『京第36号』で報告した。
元々、日本兵が駐留するのは、もし日清間で衝突が起きたら巻き添え食いかねないから、仁川に被害が及ばない程度には日本に陣を移して欲しいってのが基本の考え、と。

で、特にイギリス副領事は、絶対的に日本兵の仁川駐留を攻撃。
まずは、日本兵の租界内駐留について能勢に説明要求。
これに対して能勢は、領事の職権内では返事できないから、其の筋から申し立てしてよ、と。
さらにイギリス副領事は、日本兵の駐留に起因する事件でイギリス人に危害を及ぼしたら、日本政府がその責任とれよという旨を再度照会してきたので、さらに同様の意味で領事の職権内では返事できないから、其の筋から申し立てしてよと回答しておいた、と。

さて。
文中の、イギリス副領事から来たという別紙甲・乙・丙号については、10~15画像目にありますが省略。
ついでに、前回の清国北洋水師分遣艦隊司令官林泰曽が来館して、能勢と談判した模様が記された京第41号が16~18画像目に。
その添付文書が19画像目にあり、林泰曽の物言いが笑えるんですが、これも省略します。

んで、20~21画像目が3月24日のエントリーで取り上げた1894年(明治27年)6月24日付『機密諸第8号』、と。

ふぅ。
これでようやく本筋の28日の史料に話が戻せる。(笑)
r> ってことで、22画像目。
大鳥から陸奥への1894年(明治27年)6月28日付『機密第111号』より。

仁川港各国租界内に我兵隊の舎営したる件に付、外国人間に苦情有之候義は、本使発第86号信中に申進め候処、其後同港各国居留地会議に於て同港を中立港に定め度希望を以て決議し、其趣き別紙甲号の通り筆頭使臣なる本官に提出有之候。
然るに、同港を中立地と定め兵禍を避けしむる事は、本官に於ても至極希望する所に有之候へ共、之が為め我兵員軍器の出入を禁阻せられ、我居留地内に舎営を許されざる等の事有之候ては、我方に於ては至極不利益を被るべきに付、使臣会議相開き候場合には、本官は別紙乙号の通り條件付を以て同意可致存候間、左様御聞置相成候様致度、此段及上申候也。
第86号ってどれだろう・・・?

兎も角、3月24日のエントリーで取り上げた1894年(明治27年)6月24日付『機密諸第8号』や、前回等で見たとおり、仁川港を局外中立港にする旨が各国居留地会議で決議され、筆頭使臣の大鳥に別紙甲号のとおり提出された、と。
んで、仁川港を中立港として戦禍を避けるってのは大鳥も希望するところだけど、そのために日本の兵員や武器等の出入りが出来なくなり、日本居留地内の舎営も許されない等の事があれば、日本にとって非常に不利益になるため、今後使臣会議が開かれる場合には、別紙乙号のとおりの条件付きで同意しようと思ってるので、ヨロ、と。

で、まずは居留地会議で決まったという別紙甲号について。
24画像目。

Extract from Minutes of Municipal Council, Chemulpo.

"The Council deprecate the stationing upon any of the Settlements comprise in the Port area of Chemulpo or in their vicinity, of more armed men than may from time to time be absolutely necessary to maintain order; believing that the presence of any large number of troops in the near neighborhood is in a high degree prejudicial to the peace and prosperity of the General Foreign Settlement, and a very possible source of danger to the lives and property of the Residents."
仁川居留地会議議事録からの抜粋。

居留地会議は、多すぎる兵の駐留は、各国居留地の平和と繁栄に非常に不利益となり、居住者の生命と財産に危険を及ぼす可能性があると信じ、秩序を維持するのに不可欠な衛兵以上の仁川港またはその付近を含む居留地区への駐留に反対する、かなぁ?

つうか、局外地も中立地も出てないような・・・。
まぁ、いいや。(笑)
兎も角、必要最低限の兵以外の駐留反対!と。

で、局外中立地に同意する条件である別紙乙号が、23画像目ですね。

仁川港を中立地と為すに於ては、各国をして先づ左の條件を承諾せしむ可し。
然らされば之に同意する能はざるものとす。

仁川港を中立地と為すに於て、我要求の條件左の如し。

一.同港に於て日本兵并軍器等の上陸及乗船差支なき事
二.同港日本居留地内に、人民保護に必要なる兵員を屯駐せしむる事

但し、朝鮮兵若くは他の外国兵が来りて日本兵を攻撃し、若くは兵力にて我人民に危害を加へんとする際に、之に抗拒して我人民を保護する場合を除くの外、該港駐在我兵は決して各国居留地に向て危険を與へざるを保証す可し。
仁川での日本の兵員・武器等の上陸や乗船は普通に出来て、日本居留地内に日本人保護のための兵員を置くんなら、中立地にしても良いよ。
ただ、朝鮮兵や他の国の兵が、日本兵を攻撃したり日本人に危害を加えようとした場合に、これに対抗する場合以外には、仁川港駐留兵は決して各国居留地に危険を与えない事は保証する、と。

ま、そうじゃなきゃ同意しねぇって事で。


今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(三十一)
日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(三十二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(三十三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(三十四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(三十五)
日清戦争開戦まで(六)     日清戦争開戦まで(三十六)
日清戦争開戦まで(七)     日清戦争開戦まで(三十七)
日清戦争開戦まで(八)     日清戦争開戦まで(三十八)
日清戦争開戦まで(九)     日清戦争開戦まで(三十九)
日清戦争開戦まで(十)     日清戦争開戦まで(四十)
日清戦争開戦まで(十一)   日清戦争開戦まで(四十一)
日清戦争開戦まで(十二)   日清戦争開戦まで(四十二)
日清戦争開戦まで(十三)   日清戦争開戦まで(四十三)
日清戦争開戦まで(十四)   日清戦争開戦まで(四十四)
日清戦争開戦まで(十五)   日清戦争開戦まで(四十五)
日清戦争開戦まで(十六)   日清戦争開戦まで(四十六)
日清戦争開戦まで(十七)   日清戦争開戦まで(四十七)
日清戦争開戦まで(十八)   日清戦争開戦まで(四十八)
日清戦争開戦まで(十九)   日清戦争開戦まで(四十九)
日清戦争開戦まで(二十)   日清戦争開戦まで(五十)
日清戦争開戦まで(二十一)  日清戦争開戦まで(五十一)
日清戦争開戦まで(二十二)  日清戦争開戦まで(五十二)
日清戦争開戦まで(二十三)  日清戦争開戦まで(五十三)
日清戦争開戦まで(二十四)  日清戦争開戦まで(五十四)
日清戦争開戦まで(二十五)  日清戦争開戦まで(五十五)
日清戦争開戦まで(二十六)
日清戦争開戦まで(二十七)
日清戦争開戦まで(二十八)
日清戦争開戦まで(二十九)
日清戦争開戦まで(三十)



日清戦争開戦までの話が飽きてきてるので、もう少し別の話を。
今回取り上げるのは1939年(昭和14年)『訓令第七十七号 朝鮮人ノ氏ノ設定ニ伴フ戸籍事務取扱方ニ関スル件』について。
一昨年の9月26日のエントリーで出てきた「宿題」です。(笑)

つうか、2年も経つのか・・・。_| ̄|○
そのうち半分くらいが東学党の乱~日清戦争開戦までで消えてんのかな?
んー・・・。(笑)

で、丁度xiaoke氏が別件で総督府官報の調べ物があったそうなんで、ちょっと乗っかって調べて来てもらいました。

▲獄長いらっしゃいますか?

んでは早速カピペ。(笑)
1939年(昭和14年)12月26日付官報号外より、『朝鮮総督府訓令第77号 朝鮮人の氏の設定に伴ふ戸籍事務取扱方に関する件』について。

朝鮮総督府訓令第七十七号1 (クリックで拡大)

朝鮮総督府訓令第77号

朝鮮人の氏の設定に伴ふ戸籍事務取扱方に関する件左の通定む。

昭和14年12月26日
朝鮮総督 南次郎

第1条
氏の届書に付ては別に1の種類を定むべし。

第2条
氏の届出を受理したるときは、府尹又は邑面長は附録第1号様式に依り戸籍の記載及訂正を為すべし。

第3条
昭和14年朝鮮総督府令第221号第3条の規定に依り氏の記載を更正する場合に於ては、附録第2号様式に依り戸籍の記載及訂正を為すべし。

第4条
府尹又は邑面長が前条の戸籍の記載を為したるときは、遅滞なく附録第3号書式に依り之を監督裁判所に報告すべし。
監督裁判所前項の報告を受けたるときは、届書に準じ之が取扱を為すべし。

第5条
監督裁判所が氏の届書の送付を受けたるときは、附録第4号書式に依り各旬毎に遅滞なく法務局長に報告すべし。

附則
本令は昭和14年制令第19号施行の日より之を施行す。
まずは第1条。
氏の届書については、別途様式を定める、と。
そのまま。

続いて第2条。
一昨年の6月19日のエントリーの朝鮮民事令中改正の附則第2号で、戸主は6ヶ月以内に新たに氏を定めて、府尹又は邑面長に届け出することになってましたが、それを受けた府尹又は邑面長は、付録の第1号様式に依って戸籍の記載・訂正をすること、と。

第1号様式については下のとおり。

朝鮮総督府訓令第七十七号2 (クリックで拡大)

続いて第3条。
昭和14年朝鮮総督府令第221号第3条の規定で氏の記載を更正する場合には、第2号様式によって戸籍の記載・訂正をすること。

まず、第2号様式については下のとおり。

朝鮮総督府訓令第七十七号3 (クリックで拡大)

そういえば、昭和14年朝鮮総督府令第221号についても宿題だった・・・。
つうか、もしかして同じ号外に載ってるんじゃなかろうか・・・。
xiaoke氏に確認頼めば良かった。
_| ̄|○

凹んでいても先に進まないので、取りあえず仮に中野文庫さんのところから、『昭和14年朝鮮総督府令第221号 朝鮮人ノ氏ノ設定ニ伴フ届出及戸籍ノ記載手続ニ関スル件』の第3条から引用。

第3条
昭和14年制令第19号附則第3項の規定に依り、戸主又は前男戸主の姓を以て氏としたるときは、戸籍の記載は訂正せられたるものと看做す。但し、更正することを妨げず。
戸籍の記載事項中、家を異にする者の氏定まりたるとき亦前項に同じ。
で、「昭和14年制令第19号附則第3項の規定」は、3回目の朝鮮民事令中改正の附則第3項で、一昨年の6月19日のエントリーでやりました。

附則第3項
前項の規定に依る届出を為さざるときは、本令施行の際に於ける戸主の姓を以て氏とす。
但し、一家を創立したるに非ざる女戸主なるとき、又は戸主相続人分明ならざるときは、前男戸主の姓を以て氏とす。
ってことで、6ヶ月以内に届け出を出さない場合に戸主の姓を氏にする規定。
所謂設定創氏ですね。

つまり、設定創氏の場合には、戸籍の記載は訂正されたものと見なす。
但し、更正するのは妨げないので、その更正を行う場合には第2号様式で、ってことですかね。

続いての第4条は、府尹又は邑面長が戸籍の更正を行った場合、遅滞なく第3号様式で監督裁判所に報告しろ、と。
んで、監督裁判所がその報告を受けたら、届出書に準じて取り扱え。

第3号様式以下についてはテキストにも起こしておきます。

朝鮮総督府訓令第七十七号4 (クリックで拡大)

氏の戸籍記載更正報告
本籍 何郡何面何里何番地
戸主 何某
前男戸主の姓 何(前男戸主の姓を氏としたる場合に記載す)

右昭和14年朝鮮総督府令第221号第3条の規定に依り、氏の戸籍記載を更正したるに付報告す。

昭和十五年  月  日
何府尹(又は邑面長) 氏  名㊞
何地方法院長(又は何地方法院何支庁判事)殿
戸籍自体は「訂正されたものと見なす」のに、更正する場合ってどういう場合なのかイマイチピンと来てないウリ。(笑)

で、最後の第5条。
監督裁判所が氏の届出書の送付を受けたら、第4号様式で各旬、つまり10日ごとに法務局長に報告すること、と。

続いて第4号様式。

昭和十五年  月  日
何地方法院長(又は支庁判事) 氏  名㊞
法務局長 殿

氏に関する報告の件

昭和15年何月何旬中当管内府邑面に於ける氏の届出受理件数左記の通報告す。

(イ) 氏別件数
一 従前の姓と同一の氏      件
二 内地人式氏と認めらるる氏  件
三 其の他の氏           件
     計               件

(ロ)職業別件数
一 何                 件
二 何                 件
     計               件

注 意
一 (イ)の二及三に付ては何氏何件何氏何件と内訳を記載すべし。
二 (ロ)に付ては昭和6年5月11日本府訓令第20号職業分類中小分類の例に依るべし。
ちなみに、一昨年の6月26日のエントリーでは、これにプラスして所在地別の件数表を付ける事になっていました。

つうか、そのエントリーの【1419】で、「三其の儘の氏」って読んでるけど「三其の他の氏」じゃんよ・・・。
_| ̄|○

さて、まずは第1の疑問。
2月1日のエントリーの実例のように、林、柳、南、桂等の姓の者が強いて同じ氏で届けた場合、「従前の姓と同一の氏」にカウントされるのか、「内地人式氏と認めらるる氏」としてカウントされるのか。

第2の疑問。
統計資料が、この規定に基づく数字であった場合、府邑面から各地方法院等に送られるタイムラグがあるのではないか。

一昨年の6月27日のエントリーの【1422】に見られるように、府邑面での取扱いがかなりいい加減なのを見ると、順調に送られていたとはとても思えず。

つまり、巷間総督府の強制により後半に「幾何級数的」に増加したと言われる、その統計数字について、「全て内地人式の創氏なのか」という点と、「戸主が届け出を行った時点でのカウントでは無いのではないか」という疑問ですね。

まぁ、件の数字の出典が何か分かりませんし、それが何を元にした数字なのかも分かりませんので、疑問を付するだけで終わってしまうんですがね。
数字の出所、誰か教えて欲しいなぁ。
( ´H`)y-~~


ってことで、非常に長くなりましたが、今日はここまで。



朝鮮民事令と第11条の第1回改正
朝鮮民事令第11条の第2回改正
朝鮮民事令第11条の第3回改正(一)
朝鮮民事令第11条の第3回改正(二)
朝鮮民事令第11条の第3回改正(三)
朝鮮民事令第11条の第3回改正(四)
朝鮮民事令第11条の第3回改正(五)
朝鮮総督府編『朝鮮の姓』より
朝鮮人の氏名に関する件
高元勳
朝鮮戸籍及寄留例規(一)
朝鮮戸籍及寄留例規(二)
朝鮮戸籍及寄留例規(三)
朝鮮戸籍及寄留例規(四)
朝鮮戸籍及寄留例規(五)
朝鮮戸籍及寄留例規(六)
民籍法と民籍法執行心得
林、柳、南、桂等の姓を有する者



ここ2ヶ月で4日分の史料しか扱ってない・・・。
そりゃ、話進まなくて飽きるわなぁ、と。(笑)

< 2008年6月のエントリー >
先月から2日分しか進んでなくても、内政改革の項目が閣議決定されたり、かなり重要な話はあるんですが。
如何せん、史料が長い。(笑)

日清戦争開戦まで(四十四)

日本にとって、というか実は朝鮮にとっても重要だったんじゃねぇの?という、京城・釜山間の電線架設の話から始まります。
次いで、改革勧告に関連する電報。
最後に、清国1回拒否ったけど、朝鮮領土保全の相互尊重と、騒擾防止を基本とした申し入れがあれれば、日本は清国の提案を受け入れるかもよ、と言っても良いという小村への電訓。
いずれも、地味ながら重要な話。


日清戦争開戦まで(四十五)

改革勧告の閣議決定について。
別に、善政しろと言ってるわけではなく。
少なくとも「独立国」としての体裁を守り、他国との交易に最低限必要な事ぐらいはしろよっていう勧告でしょ?と。
( ´H`)y-~~


日清戦争開戦まで(四十六)

改革勧告の各項目の詳細についての前編。
外国交渉云々ってのは、外交当局者の話がコロコロ変わる事について。
現代韓国ですら、米韓FTAなんかを見ると非常に怪しく。(笑)
裁判云々については、「延て外交上事端を滋すに至る故に」。
会計出納と兵制警察云々については、東学党の乱対策と独立国の体裁整えろって事かな。


日清戦争開戦まで(四十七)

改革勧告の各項目の詳細についての後編。
幣制云々については、「貿易上の不便」。
次の交通云々と合わせて、商業基盤を整備しろって事でしょうね。
最後に、陸奥の『蹇蹇録』の記述に対する巷間の説に対する疑義提示を。


日清戦争開戦まで(四十八)

前段は、改革勧告と同時に要求する事項について。
清国人と同等の待遇要求と、朝鮮人の海外留学と、国事犯の特赦について。
後段は、『日清戦争開戦まで(四十二)』で見た聶士成の布告の真偽照会に対する袁世凱の回答について。
良く分かりません、と。(笑)


日清戦争開戦まで(四十九)

天津の神尾少佐から大鳥公使への、清国というか李鴻章の動きに対する報告。
やる気の李鴻章と、出兵許可しない中央政府。
ここまで何度か清国の援軍が送られる話が出ていたのに、実際にはまだ送られてないのは、そういう事情らしい。


日清戦争開戦まで(五十)

長文の対韓政策についての具申を出した翌日、更に追加で具申する京城領事内田定槌。
真面目というか、その上に「生」が付きそうな勢い。(笑)
もう一つは、混成旅団報告。
内容的には、第二次輸送兵の配置について。


日清戦争開戦まで(五十一)

大鳥から陸奥への、朝鮮属邦説の排斥と内政改革断行の手続きに関する上申についてのその1。
情報の遅延・不足・意見の温度差等による錯誤。
大鳥も「是迄貴我の電信にては意味充分に相通せざりし廉をも判明」な筈なんですがね。
まぁ、大鳥や陸奥も俯瞰して見るわけにも行かないわけで。


日清戦争開戦まで(五十二)

大鳥から陸奥への、朝鮮属邦説の排斥と内政改革断行の手続きに関する上申についてのその2。
なんか大鳥、内政改革に燃えちゃってるんですが・・・。(笑)
つか、開戦に向けても盛り上がっちゃってる雰囲気。


日清戦争開戦まで(五十三)

大鳥から陸奥への、朝鮮属邦説の排斥と内政改革断行の手続きに関する上申についてのその3。
独立属邦問題と内政改革問題の具体的実施手順について。
割と強引。


日清戦争開戦まで(五十四)

大鳥から陸奥への、朝鮮属邦説の排斥と内政改革断行の手続きに関する上申についての別紙。
本文の上申の方で述べてた通りの内容で、特筆すべき点は特になし。


日清戦争開戦まで(五十五)

取り上げてなかった史料、『仁川港局外中立ノ件』について。
取りこぼしの部分だけで終わっちゃった。(笑)
簡単にまとめると、日本軍が仁川到着して清国公使が抗議→租界内への日本軍の駐留に対して英国副領事が苦情申し立て→清国軍艦の到着や日本軍の京城移動等を見て、居留地で臨時会を開いて仁川を局外地とする議決→京城使臣へ提出予定→『日清戦争開戦まで(二十八)』の1894年(明治27年)6月24日付『機密諸第8号』で対応協議という流れ。


弥縫策と決行の方針

「決行の方針」=「閔妃暗殺」って、倫理飛躍しすぎ~。
「決行の方針」云々の10日後には、閔妃の懐柔の話が閣議に出されてるという、熊本大の小松くんのお粗末な史料調査でしたとさ、チャンチャン。


つうか、アジ歴の目録は相変わらず酷い。(笑)
( ´H`)y-~~




朝日新聞が、今更な記事をあげたらしい。
4日も経ってから取りあえげる俺もどうかとは思うが。(笑)

朝鮮の皇后・閔妃殺害事件 日本政府高官の手紙見つかる

日清戦争直後の1895年秋、ソウルの王宮に押し入った日本人らによって朝鮮王朝の皇后閔妃(ミンビ)が殺害された事件で、新史料が見つかった。
日本政府高官の間で交わされた手紙。
日本では駐韓公使三浦梧楼の独断的犯行とされてきたが、三浦の赴任以前に、資金提供などの懐柔策から「強硬策」に転換することで高官の間で合意が形成されていたと示唆する内容だ。
歴史をめぐる日韓の大きな溝となってきた事件で、論議を呼びそうだ。

日清戦争の結果、朝鮮からは中国の影響が一掃された。
しかし、ロシアなどの三国干渉になすすべもなかった日本に対し、朝鮮王朝ではロシアを味方につけようという動きが出てきた。
閔妃はその代表的存在で、日本は駐韓公使の井上馨が中心となり懐柔しようとしていた。
朝鮮に300万円を貸与、さらに300万円贈与する計画もあったことが知られている。
日清戦争前の日本の国家予算は8千万円で、かなりの巨額だ。

手紙は韓国のドキュメンタリー映画監督で閔妃暗殺事件を調べていた鄭秀雄(チョン・スウン)さんが東京の国会図書館憲政資料室で探し出した。
事件前に交わされたもので12通。鄭さんの依頼で熊本大の小松裕教授(日本近代史)が読み解いた。

95年8月2日付で野村靖内相が井上公使に出した手紙は、反閔妃クーデターを企てたとして追放され日本に亡命した朴泳孝(パク・ヨンヒョ)内相に、次期駐韓公使に内定していた三浦梧楼陸軍中将と熊本国権党の代表が「ひそかに会った」様子を伝える。
日本からの資金は閔妃にも配分すると朴が伝えたが、「貰らはナイ」「コハイ事」と閔妃に拒否された様子も生々しく記されていた。

芳川顕正法相が陸奥宗光外相と山県有朋前陸相にあてた手紙は6月20日付。
一時帰国した井上公使と会った様子を伝える。「弥縫(びほう)策ハ断然放棄シ決行之方針ヲ採ラル」よう伊藤博文首相を説得してほしいと芳川が井上に依頼。
長州出身の井上と伊藤は一緒に英国留学した親しい関係。
この方針は芳川、陸奥、山県の3人の「合同の意見」だと芳川が説明すると、井上は了承したと書かれている。

王宮を襲う実行部隊には陸軍の600人などのほか「壮士」と呼ばれる民間人47人が参加した。
うち21人を熊本の関係者が占めていた。
その背景が浮かび上がる手紙もある。

奈良県知事などをつとめる官僚が井上に出したもので8月3日付。
熊本勢の多くがかかわっていた熊本国権党に強い影響力を持つ国民協会代表の品川弥二郎が抱えた膨大な借金を、井上が立て替え完済したことを知らせるもの。
「熊本国権党のメンバーは近年そろって井上に心服している」との内容だ。

井上の後任公使として三浦は9月1日に赴任。
外出もせずに読経に明け暮れていたという。
そして閔妃は10月8日に殺害される。
三浦は、国王の父が首謀者で実行犯は日本人を装った朝鮮人だと主張したが、欧米外交団の強い抗議で、日本政府は三浦を解任。さらに関係者を召喚し、広島で裁判にかけたが民間人は三浦を含め全員が証拠不十分で免訴、軍人も無罪となった。
一方、現地では朝鮮人3人が死刑になった。

手紙を読み解いた小松さんは「政府高官の間で『決行の方針』が打ち出され、実行犯として熊本国権党を手なずけるなど準備が進められた。三浦はそうしたことを承知のうえで赴任し実行、独断での犯行を装った。日清戦争に勝ち『文明国』の仲間入りを果たした日本は、この蛮行を隠すしかなかった」と考える。

漢陽大(ソウル)の崔文衡(チェ・ムンヒョン)名誉教授は「日清戦争に勝ったのに、ロシアが出てきて日本にとっては何のために戦争をしたのか分からない事態になっていた。閔妃の懐柔には失敗したが、三国干渉で敵だったドイツを日本は味方につけることに成功し、懐柔策を続ける必要がなくなった。情勢変化を知らない閔妃が、日本が擁立した内相の朴を解任したことで、対立は決定的になる。そうした経緯を手紙は示す決定的証拠で、三浦の独断ではありえないことが明らかになった」と語った。

一方、この事件の研究を一昨年まとめた歴史家の秦郁彦さんは「戦前期を通じて内実に触れるのがタブーとされたため、真偽の見極めのつきにくい事件だ」としたうえで、今回の手紙について「日本政府が関与したというには証拠不足。強硬策=王妃の殺害を意味すると見るのは論理の飛躍だ。伊藤を説得する話にしても、穏健派の伊藤がどう反応したのかはわからない。聞き流したことも考えられる。わいろを断ったという点も、だから殺害しなくてはと判断したとは思えない」と話す。

(渡辺延志)
まず問題は、3年も前の話を何故今頃、と。(笑)

【参考】 http://dreamtale.ameblo.jp/dreamtale/day-20051006.html

新しい発見でもあったのかと思ったけど、秦郁彦のツッコミを見るに、3年前と全く状況変わってない模様。(笑)

取りあえず、手紙を読み解いたらしい小松裕熊本大学文学部教授のコメント、「政府高官の間で『決行の方針』が打ち出され」に関して、秦郁彦曰く、「強硬策=王妃の殺害を意味すると見るのは論理の飛躍だ。」。
3年前の俺曰く、「『決行の方針』について何を決行する方針なのか、「対象」を表す史料が全く無いようですが、また「余地がある」のでしょうか?」と突っ込んでいる件に関して取り上げておきたいと思います。

アジア歴史資料センターの『鉄道電信其他ニ関スル日韓条約締結方交渉一件/分割3(レファレンスコード:B07080194900)』の30画像目。
井上馨から外務大臣臨時代理の西園寺公望への、1895年(明治28年)7月1日付『機密受第533号』より。
長いし、恐らく今後ちゃんと取り上げる事になると思うので、必要部分だけ抜粋。
34画像目、左から5行目。

34画像目 (クリックで拡大)

要するに、第1案は300万円を返却せしめ、残余の一半を王室に与へ、国王并に王妃を心服せしめ且抱き込み
30画像目上部欄外右側によれば、これは井上から西園寺に手交され、7月1日に閣議に提出されたもののようです。

あれあれ?
6月20日付の手紙で、『決行の方針』が決まってたのでは?(笑)
王妃を心服させて抱き込む井上の案が、その10日後に閣議に出されてますが。

漢陽大(ソウル)の崔文衡(チェ・ムンヒョン)名誉教授が、「閔妃の懐柔には失敗したが、三国干渉で敵だったドイツを日本は味方につけることに成功し、懐柔策を続ける必要がなくなった。」なんて言っちゃってますが、どの時点で?と。(笑)

寧ろ。
37画像目の右から2行目。

37画像目 (クリックで拡大)

又、本官に於ても該案の結果は名実共に多少朝鮮の独立を損傷し、従って他国より批難の嫌ひも有之候に付、彼此斟酌の上再次鄙見申出置候義も有之候処、時態変更の今日となりては断然の処置を為すこと急要と認め、前陳の通り更に鄙見中述べたる次第に有之候。
要するに、暫定合同條款の履行等について「断然の処置」をすることが急務だ、と。
こっちや、あるいは先ほどの借款の返済方法の変更そのものの方が、弥縫策から決行の方針への転換としては妥当な気がしますがね。

まぁ、これも断定はできないワケですが。
とりあえず、「決行の方針」は閔妃暗殺じゃねーだろ、と。( ´H`)y-~~
ってことで、休日更新してみた。


今日はここまで。




ぶっちゃけ飽きてきた。(笑)
いつもの病気ですね。
時間がなくて、ブログ以外の調べ物っつうか、息抜きの調べ物ができないっつうのもあるのかも。

ってことを考えながら、今日の史料へ。
今日は、今回の連載で初めて取り上げる綴りかな?
アジア歴史資料センターの『日清戦役ノ際清国上海及韓国仁川港二於ケル各国居留地局外中立ノ儀二付交渉一件/2.仁川港局外中立ノ件(レファレンスコード:B07091143600)』からになります。

文字通り、日清戦争の時の仁川港の局外中立問題の話になるわけですが、ピラッと開いたら、もう取り上げてなきゃ駄目な史料が・・・。(笑)
つうか、21画像目まで全部そうだよ・・・。_| ̄|○

とりあえず、どうしても取り上げておきたい2画像目を。
仁川の能勢領事から陸奥への、1894年(明治27年)6月24日発『電受第301号』より。

Mutsu
Tokio

(3) All the foreigners will hold a meeting to protest against Japanese army making 仁川 a place of military operation declaring it is neutral port.

Nosse
一応、3画像目が和訳になってます。
外国人は全て、仁川を局外中立港だと断言し、日本軍が仁川を軍事行動の場所にしようとすることに対して抗議するため、集会を開くらしい、と。

取り上げたかったのは内容ではなく。
アジ歴の当該目録について。



Lokio.

(3) all ttu @oiegueso will gapaneel a@wuy makiug 仁川 a place of nulilang openatuoi dcelavuig it is nuvtsal porr. Nocee.
「Mutsu」はどこ行った?
「hold a meeting to protest against」の部分、丸ごと1行無ぇぞ。
「Lokio」ってどこだ?
「Nocee」って誰?

つうか、何語だよ!(笑)

飽き始めたボクに笑いを提供してくれるアジ歴に感謝。
つか、アジ歴の目録はこのくらいの誤字は頻出なので、この程度で笑っちゃうってのはやっぱり飽きてる証拠かしら。(笑)

いや、それだけのために2画像目をテキストに起こした。
( ´H`)y-~~

残りの4画像目からの部分、どうすっかな・・・。
全部やるのは面倒くさいので(笑)、一応、流れの分かりそうな史料だけでも取り上げておく事にします。
んーと、まずは4画像目。
仁川の能勢領事から外務次官林董への、1894年(明治27年)6月24日付『機密第28号』より。

清国官吏の勧説、各国租界内駐兵に付居留外国人の苦情、并に仁川港をして局外地たらしむるの運動等に関し報告の件

帝国派遣軍第二次三大隊、本月15日に於て来着するや、在港清国理事は即日来訪し、該軍隊の上陸及び駐陣に関し再三勧阻せし趣は、曽て機密第27号を以て申報の次第有之候処、我兵上陸後各国租界内日本人所有の地所家屋等に駐宿する儀に関し、在港英国副領事其他より種々苦情申出候始末は別紙京第36号、仝40号及び英副領事来文寫甲乙丙各号に就き、逐次御熟悉相成度候。
然るに、今般清兵5,500発遣の確報に接し、昨23日大鳥公使の電報に拠り、大島少将は当港駐留の兵3,000を引率し、即夜京城へ進発致候処、昨日威海より来港せる清国北洋水師分遣艦隊司令官林泰曽は(鎮遠、超勇、廣丙の3隻を以て6月22日来着)、之を探知するや否や深更上陸。
劉理事等同伴にて来館し、小官に対して我兵の入京を阻止せんとし、談論数刻に及びたる次第は別紙京第41号寫の通りに有之候。
以上の如く、清艦の来着に続き我兵の入京等の情形を視て、両国開戦の危機旦夕に迫れるを察し、在港各外国人は租界の安寧を保つが為め、遂に仁川港をして局外地たらしむるの議を起し、昨25日各国居留地のの臨時会を開き、以て之を議決し、直ちに京城使臣会議へ提出すべき事と相成たるを以て、小官は右に関する方針の確定を希望し、別紙機密第8号寫の通り大鳥公使へ及請訓候始末に有之候。

以上為御参考別紙一括及送呈候間、御査閲相成度不取敢此段申進候也。
簡単に纏めると、日本軍が仁川到着して清国公使が抗議→租界内への日本軍の駐留に対して英国副領事が苦情申し立て→清国軍艦の到着や日本軍の京城移動等を見て、居留地で臨時会を開いて仁川を局外地とする議決→京城使臣へ提出予定、と。
で、それに関する方針の確定を大鳥に求めたのが、3月24日のエントリーで取り上げた1894年(明治27年)6月24日付『機密諸第8号』なんですね。

で、具体的にどのような事に対するどのような苦情なのかが、6画像目からになってます。
長いけど、一応取り上げておくか・・・。
能勢領事から大鳥への、1894年(明治27年)6月19日付『京第36号』より。

我軍隊が外国人租界内外国人所有の地所を使用し、各国租界に入営したる等の為め苦情申出候儀に附、縷々発第161号を以て御申越の趣き承知致候。
今回我軍隊の来着するに当てや、小官も其当港に滞在すべきは、僅に両3日間とのみ相考へ居候に付、其意を以て各国居留地会員各外国人にも相談し、可成彼輩の迷惑を来たさざるべき旨相通じ置き候へども、其兵数兵科馬匹の如きは素より軍機に係るは勿論、小官と雖も之を前知せざるを以て之を遺漏することなかりしより、彼輩に於ても格別留意するの模様無之。
現に、先発一大隊留営の際の如きは、大に歓迎の意を表はしたるの実有之候処、先着全軍の来着に至て其兵員の数多なる事、大小銃砲携帯の事、馬匹の夥多なる事を目撃し、何れも大に驚怖し、斯く本邦が仁川に駐兵せしむるに於ては清国も亦た派兵するも難計、其場合に於て両兵相衝突するが如き事あらば、当港内にある外国人の生命財産に危害を及ぼすに至らんとて、爰に初めて非常に危疑恐懼せるより、租界を警備するに必要なる兵員の外は都て租界に移陣せられたしとの事を提出せるに外ならざる儀と存候。
就ては、其唱ふる所の苦情とても、各国人を代表するに非ずして全租界の安危を慮るものに外ならざる様に有之候。
其故は、馬匹繋留場の如き租界D号第11第12号の地は英国人ハチソンの所有にして、堀久太郎の借受居候ものなれば、堀久太郎の許諾を受けたるものに有之候。
又、大小弾薬置場なるD第13第14号は独逸人の所有なれども、小官に協議無之直ちに使用候為、本日其所有主より苦情申出候に附き、弾薬は明朝当館内に移置せられんことに副官中原大尉に協議致置候儀に有之。
又、英領事公文内に云ふ砲台建設云々は、前記堀久の借用地内にして、本館裏手なる小高き場所に野戦砲6門を南面して排列し、兵士抜剣して之を護衛するより、或は之を以て砲台と看做せしやは承知不致候へども、未だ砲台を建設致せし事なく、又英国人の地所を強取せる云々とあるは、該地は英国人ハチソンの地所なれども、堀久に1ヶ年340$の地代にて貸渡しあるものに附き、其使用如何は地主なる英国人に於て云々すべきものにあらざるものの如くに有之候へども、目下の形勢野戦砲6門の排列は衆人をして徒らに疑懼心を起さしむるべきに付き、寧ろ領事館表門内に移置する方可然被存候。
此外に外国人所有地若くは各国租界内の地所を持主又は管理者の承諾なくして使用致候等に儀は、目下小官の預知する所にては無之様子に候。
其各国租界内我国人の所有地、及所有の家屋、及外国人の所有の地所家屋にして我国人の借用するものに対しては、未だ何等の苦情申出ざるは、前述の通り元来我大兵が本港に滞陣するに際し、一朝清兵との間に葛藤相生じ候場合には、全港の安危に罹るとの懸念より相成し候次第は、大兵淹留銃数日に及ぶときは、物価は騰貴し、飲料水は欠乏し、人心は洶々生業に安ずる能はざる等の口実より出候儀に有之候。
尤も、軍馬見物の為め、又は野戦砲置場を横切り、又は弾薬置場を距る数十米突を通行せんとして、衛兵の為め抜剣又は携銃にて制止せられたるものは英国領事1人に止まらず、本邦人中にも数人有之。
又、清国租界間の公道、朝鮮町と各国居留地との界道等に於て同様衛兵の為め誰何せられ、通行を制止せられたるもの昨日迄に日、清、外国人中にも数多有之趣聞及候に付き、右は中原副官に申通し取調方依頼致置候。
又、一昨日曜日には、兵士の清国租界併に朝鮮町に三々五々遊歩するもの多きが為め、清国領事併に監理使より取締上に付き大に懸念し、屡次掛合来り候のみならず、元来右両地区は、淫売賭博の巣窟、病毒侵染の地なるを以て、自今遊歩等の為め多数立入らざる方可然旨、是又副官へ申入置候。
又、過日清国租界内信局の京仁間配達方山東人某は、九硯山下に於て衛兵水兵に通行を遮断せられたるも、幸に我郵便局の脚夫の言明に因り通行を得たる旨、予て清国領事より申出候に付き目下調査中、昨18日午前、右清国脚夫は再び九硯山下に於て衛兵の為め攔阻せられ、其携帯する所の信書袋を開き、是を検点し、当港より京城へ届方を依托せられたる刀剣の上包を開き、剰さへ刀を以て頭部を按じ威嚇の所為ありたるより、該脚夫は大に恐怖して以後京仁間往復を謝絶せりとの事を訴出候に付き、電報にて旅団長に御照会有之度申上候と同時に、所管兵站監竹内中佐へも掛合置候次第に有之候。
右は追々所轄領事等より貴官に対し申立有之儀と被存候へども、為御参考御回答傍此段申進候也。
アジア歴史資料センターの『明治27年自6月至9月 「混成第9旅団 第5師団 報告」/混成旅団報告第5号(レファレンスコード:C06061757800)』の5画像目によれば、衛兵等による通行止め等についての調査結果は不明ながら、その都度厳格に注意喚起されてたのは事実なようで。

また、英国人の土地云々については、『明治27年自6月至9月 「混成第9旅団 第5師団 報告」/混成旅団報告第6号(レファレンスコード:C06061758100)』の10画像目左端から話がありますが、嘘報だ、と。

つうか、清国租界と朝鮮町は「淫売賭博の巣窟、病毒侵染の地」て。(笑)

まぁ、仁川から出て行って欲しい外国人達と、水も満足に補給できない「不毛の地」である仁川から早く出たい日本兵。
その辺は共通してるんだけどなぁ。
如何せん、この頃はまだ朝鮮政府の差し止め要求に応じてる頃だからねぇ。


ってところで、取りこぼした分しかやってませんが、長くなったので今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(三十一)
日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(三十二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(三十三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(三十四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(三十五)
日清戦争開戦まで(六)     日清戦争開戦まで(三十六)
日清戦争開戦まで(七)     日清戦争開戦まで(三十七)
日清戦争開戦まで(八)     日清戦争開戦まで(三十八)
日清戦争開戦まで(九)     日清戦争開戦まで(三十九)
日清戦争開戦まで(十)     日清戦争開戦まで(四十)
日清戦争開戦まで(十一)   日清戦争開戦まで(四十一)
日清戦争開戦まで(十二)   日清戦争開戦まで(四十二)
日清戦争開戦まで(十三)   日清戦争開戦まで(四十三)
日清戦争開戦まで(十四)   日清戦争開戦まで(四十四)
日清戦争開戦まで(十五)   日清戦争開戦まで(四十五)
日清戦争開戦まで(十六)   日清戦争開戦まで(四十六)
日清戦争開戦まで(十七)   日清戦争開戦まで(四十七)
日清戦争開戦まで(十八)   日清戦争開戦まで(四十八)
日清戦争開戦まで(十九)   日清戦争開戦まで(四十九)
日清戦争開戦まで(二十)   日清戦争開戦まで(五十)
日清戦争開戦まで(二十一)  日清戦争開戦まで(五十一)
日清戦争開戦まで(二十二)  日清戦争開戦まで(五十二)
日清戦争開戦まで(二十三)  日清戦争開戦まで(五十三)
日清戦争開戦まで(二十四)  日清戦争開戦まで(五十四)
日清戦争開戦まで(二十五)
日清戦争開戦まで(二十六)
日清戦争開戦まで(二十七)
日清戦争開戦まで(二十八)
日清戦争開戦まで(二十九)
日清戦争開戦まで(三十)