事態の推移に、報告や連絡が追い付いてないよなぁとつくづく思う昨今。
清国にしても日本にしても。
まぁ、そういう時代ですから仕方ないんですが。
電信壊れてる朝鮮は別にして。(笑)

さて、今日はアジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/5 明治27年6月8日から明治27年6月24日(レファレンスコード:B03030205100)』の9画像目から。
北京の小村から陸奥への1894年(明治27年)6月19日発『電受第268号』より。

Mutsu,
Tokio.

I had an interview with 総理衙門王大臣 to urge the necessity of prompt answer.
李鴻章 has been instructed already to reject your proposal which he represented to have been made through 在天津日本領事.

Komura
迅速な回答の必要性を訴えるため、総理衙門王大臣と会談。
在天津日本領事を通じて説明が為された日本の提案は、既に李鴻章に拒否するように指示されている、と。
前々回前回お届けした、荒川と李鴻章の会談とその結論の事ですね。
当然、李鴻章に従って清国政府も拒否回答なわけです。

さて、続いては再び天津の荒川領事から、諸外国の反応について。
アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/9 明治27年6月19日から明治27年7月3日(レファレンスコード:B03030205500)』の7画像目から。
1894年(明治27年)6月19日付『機密第8号』。

此度朝鮮国内乱に因り日清両国出兵に関する件に付、重もなる当地外国人中談話する所の口気に依れば、英人は清が韓廷の請求に応じて出兵せしめたるは相当の事なり。
日本、之が為め故障を申出すべき理由なし。
依て、別に日清両国とも暴動鎮定せば、速に兵を撤去するに過ぎず。
仏人は一層詳細に評せり。
元と李が兵を出だしたる原因は、朝鮮国王の意に出でたるにあらず。
袁世凱の取計に出でたるものなり。
又、李鴻章が出兵前在京城外国公使・領事とも、清兵の保護を希望し居る様申居たるが、右は全く跡方なき事実なり。
独人は別に英と異なるなきも、日本が公館并に人民保護の為め出兵せしたるは当然の事なり等とす。
本月8日、玄海丸にて着津の露国京城代理公使ウエーバー氏は、直に李鴻章伯を訪問せり。
其節、詳かに朝鮮の内乱は清国が出兵せしめたる程の事実にはあらざる趣談話せし由、密かに伝聞せり。
其後大に出兵準備等を李伯は見合はせたるが如く相見へ、頻りに牙山駐在の清兵を引揚度希望ありしなれば、従て外国人等は一同安心して、不遠清兵の帰津を見るならん。
朝鮮は正に鎮定せるに依り、日本も天律條約に因り清兵と同時に撤兵するならんと、多少最初の心配は過ぎたる思を為し居るが如し。
然るに、本月17日午後小官李鴻章伯を訪ひたる翌日、即ち18日李伯を訪問したる清国官吏は、同伯配下の重もなる文武官のみ。
其姓名は左の如し。

東機器局(兵器製造所長)
武庫主任 張士珩
天津鎮
通永鎮
直字営
護衛軍統領 何永盛
翼長
海関道 盛宣懐
天津道
天津縣 李振鵬
右会合は、必ず本月17日以前の状況と異なり、1の変体を顕出するならんと察せられ候。
万一、今後一層軍備を急ぐ等の場合に至らば、或は日本に対するものなるべきに付、内密事情を速に探知するは、頗る困難なるべしと今より相考居申候 。
在北京露国公使伯爵カシニーは、帰国の途次本月18日着津。
不日当地出発。
ウワンコバーを経て帰国する筈と承申候。
何れ、同公使も李伯を訪問すべくも、今日迄は未だ其事を承はらず候。
尚ほ、追々外国人間の批評挙動等も併せて注意致し、為御参考御報告可致候。
右及御報告候也。
ちなみに、これも接受日は7月2日・・・。
(;´H`)y-~~

今回の東学党の件で日清両国が出兵した事について、主な天津の外国人の談話より。
イギリス人は、清国が朝鮮の請求に応じて出兵したのは妥当であり、日本がそれに異議を唱える理由はない。
だから、日清両国とも暴動が鎮定すれば、速やかに撤兵するだけだろう、と。
いや、知照文中の「保護属邦」を問題にしてますが、何か?(笑)

フランス人は、元々李鴻章が出兵した原因は高宗の意志からではなく、袁世凱の計画によるものだ。
また、李鴻章は出兵前に在京城外国公使や領事も清兵による保護を希望しているかのように言ってたけど、事実無根、と。
んー、清兵による保護希望とか、そういう話まで出てんのか・・・。

ドイツ人は基本的にイギリスと同意見だけど、日本が公使館や人民保護のために出兵したのは当然、と。

で、6月8日に玄海丸で天津についたロシアの在京城代理公使ウェベルは、すぐに李鴻章を訪問。
その時、東学党の乱は清国が出兵させるほどの事件ではないという趣旨の談話をしたらしいと、密かに伝聞した。
その後李鴻章は、大っぴらには出兵準備等を見合わせたように見え、頻りに牙山に駐在している清兵を引きあげたがっているため、外国人等は皆安心して、遠からず清兵の天津帰還を見、東学党の乱も鎮圧されたから日本も天津条約によって清国と同時に撤兵するだろうということで、多少は最初の心配は過ぎ去ったと思っているようだ、と。
「最初の心配」ってのは、日清の衝突だろうなぁ。

ところが、6月17日午後に前々回前回で見た荒川と李鴻章の会談が行われた翌日、つまり6月18日に李鴻章を訪問した清国官吏は、李鴻章の配下の主な文武官だけであり、その会合は17日以前の状況とは違い、ある変化が表出したものだろうと推察。
17日以前の状況ってのは、ウェベルの談話で見合わせてた出兵準備とか、清兵の引きあげに関する件等の事でしょうね。
ってことで、万一今後さらに軍備を急ぐ等の状態になれば、それは日本に対するものだろうから、内情を速やかに探知するのは非常に困難だろうと今から考えている。

在北京のロシア公使カッシーニは、帰国途中7月18日に天津に到着。
幾日もしないで天津を出発し、ウワンコバーを経由して帰国する筈、と。
んー、ウワンコバーって、激しく子供心を揺さぶりそうな名前なんだけど、何処の事だ?(笑)

兎も角、カッシーニも李鴻章を訪問するだろうけど、今日までの処はまだその情報は得ていない。
追々、外国人間の批評や挙動についても併せて注意し、参考のために報告するよん、と。

つうか、荒川の訪問に刺激されて翌日の李鴻章配下の会合だったら、勘違いも良いところですが、さて。


今日はここまで。



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