今日は前置き無しで早速。
アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/9 明治27年6月19日から明治27年7月3日(レファレンスコード:B03030205500)』の9画像目から。
1894年(明治27年)6月20日付『発第82号』。
長いので分割しながら見ていきます。

我兵入京に付韓廷并に京城内模様探報

6月18日接 韓廷に於て大臣会議の模様

○日本軍艦10艘毎艘500名の兵を載せ合計5,000名計り、其外商船30艘共渡来せり。
或は何等奸計なしとも測り難し。
如何せば可ならん。
城内の騷動非常にして、今日ころ避乱の人民多く東門を出でたり。
且つ日本人の質店主人発言して曰く、若し速に質受を為さざれば皆な遺失せんと。
故に一層恐懼を極め、一夜の中に米柴の価暴騰し、人民困難を蒙り、内乱を生ずるの虞あり。
右に付国王も大に叡慮を悩せらる。
然るに、恵堂(閔泳駿)奏して曰く、日前袁世凱日本公使館に往来して其不都合を責めたれば、必らず日ならずして退去すべしと。
左議政趙秉世密かに領議政に謂て曰く、日人の奸謀測り難し。
若し俄国に結托して朝鮮及清国を図らば如何んせんと。
領議政曰く、俄国が清国を呑んと欲すること久し。
日本も亦狡黠なり。
斯る慮りなしとせずと。
勳洞大臣金宏集曰く、胡爲ぞ如此大言を出すか。
此言一たび他に伝はらば、大に大臣たるの体面を損せん。
公法の存する以上は萬も此理なし。
口を慎み、上を煩はす勿れ。
但だ、尤も禁じ難きは、我国人日本公使館に往来して我内情を漏すものなり。

○昨夜深更、閔泳駿は単騎袁氏を訪ひ夫より直ちに参内して密奏する所ありしが、其何事たるを漏聞かざりし。
只だ、袁氏日本公使館に至り詳細協議せり。
袁氏にあらざれば、如何にして如此なるを得べけんや云々との詞を聞取りたり。

○又恵堂(泳駿)暗電を閔泳翊(在香港)に送るべしと奏せしに、早速発電すべしと勅答ありたり云々。
6月18日の朝鮮の大臣会議の模様。
要するに、日本兵が来て避難する人が出たり、米や柴の値段も暴騰したりで、人民が困難を蒙って内乱を生じる恐れがある。
で、そのことに関しては高宗も大いに頭を悩ませている、と。

それなのに閔泳駿は、「前日袁世凱が日本公使館に往来してその不都合を責めたので、そう遠くないうちに退去するっしょ」とお気楽発言。(笑)
左議政の趙秉世は領議政に向かって、「日本人の奸謀って計り知れないし、もしロシアと結託して朝鮮と清国に対して何か企てたらどうするよ?」と。
領議政は、こん時は沈舜澤かな?
その沈舜澤は、「ロシアはずっと清国を併呑したがってるし、日本はずるがしこいし、そういう事もあるかもね。」と。

ここで、勳洞大臣だった金宏集がたまりかねたのか、「何でそういうテキトーな事言うかなぁ。お前等の話が外に伝われば、大きく大臣たる体面を損なうぞ。公法があるんだからそんな事あるわけ無ぇだろ。口を慎んで、高宗を悩ませんじゃねーよ。最も禁じ難いのは、朝鮮人で日本公使館に往来して朝鮮の内情をばらすことだ。」と。
実際、ばれてるし。(笑)

次に、6月17日の深夜、閔泳駿は一人で袁世凱を訪れ、その後直ちに参内して密かに上奏したけど内容は不明。
ただ、袁世凱は日本公使館に行って詳細を協議した。
袁世凱以外に、どうやってこのようにできるでしょうかという言葉は聞き取った、と。

次が、閔泳駿は秘密の電信を香港に居る閔泳翊に送ってはどうかと上奏したら、早速送ろうという返事があった云々。

つうか、何でこんな陰謀論先行なのよ?(笑)


6月18日夜接 報告

○恵堂奏して曰く、袁氏日本公使館に至り無名の兵を他国都城に入るるは公法に載せざる所なり。
若し速に撤退せざれば、兵を以て相戦はん。
然れども、城内は武を用ふるの地にあらず。
別に空閑の地を定めて以て勝負を決せんとの談判を為せり。
但し上海(天津ならん乎)に電報し、其回答を待て決行すべし云々

○大院君政事に携はらんと欲するも、恵堂其機を知て同君に政事の協議を為されざる様、中宮殿(王妃)に奏したりと。
但し、其如何なる奏言ありしやは知らず。

○恵堂は俄国公使に依頼して日本公使館の動静を探偵せらるると云ふ。

○大臣は盡とく袖手傍観するのみ。
閔泳駿は上奏して言うわけです。
袁世凱が日本公使館に行って、「名目の無い兵を他国の都市に入れるのは、公法に載ってない事であり、もし速やかに撤退しなければ戦争だな。しかし、城内は武力を使う場所ではないから、別に空いてる場所を定めてそこで勝負を決しよう。」という談判を行った。
ただ、李鴻章に電報して、その回答を待って決行するだろう、と。

さて、閔泳駿の嘘なのか、袁世凱の嘘なのか、会談内容の具体的記録が見当たらず、4月18日のエントリーの、1894年(明治27年)6月17日付『機密第96号 陸兵を撤回せしむ可き最後の処置に付伺』で、「現に再昨日も来館し、目下牙山に在る支那兵を撤回せしむべきに付、我国の兵隊をも同時に撤回せしめ候事を希望する旨協議有之候。」や、2月13日のエントリーの1894年(明治27年)6月18日発『電受第266号』での「happily 袁世凱 came 六月十五日 and proposed to withdraw Chinese soldiers at the same time with the Japanese.」という言葉でしか判明していない、両国同時撤兵の協議があったという、6月15日の大鳥公使と袁世凱の会談の際に述べられていたのか。
まぁ、嘘なんでしょうけど。(笑)

で、次は大院君が政治に関与したがってるけど、閔泳駿はそれを知って大院君には政治の協議するなよと閔妃に上奏。
なんて言ったかは不明、と。
割と死活問題だしねぇ。(笑)

次。
閔泳駿はロシア公使に依頼して、日本公使館の動静を探らせてると言う、と。

最後は、大臣はみな何もせずに傍観しているだけ。
この大事な時期に。(笑)
まぁ、「だから清国への援兵依頼は止めろっていったべ!」という思いがあるのかも知れませんが。


ってことで、途中ですが今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
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