早くも飽きてきた昨今、如何お過ごしでしょうか。(笑)
英文も漢文もイラネー。

と、愚痴ったところでアジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/1 甲午〔明治27年〕5月初9日から明治27年7月9日(レファレンスコード:B03030206100)』の42画像目。
前回の鎮圧通知も踏まえて、2月12日のエントリーの1894年(明治27年)6月18日付『第51号』へ返信したものと思われる、趙秉稷から大鳥公使への、1894年(明治27年)6月18日文書より。

逕啓者昨准
覆椷閲悉各節惟査南道民乱始甚猖獗我兵迭経失利現有京兵数千只足守衛都城未便多遣遠征故請中国兵前来助勦然助兵不過一千数百人甫経下陸匪即殲散全州克服因援師未進聞将言旋并非大挙而来也乃貴兵竟突来四五千兵之多殊足遺人驚騷至謂勢焔将熾又謂牙山兵厳如對敵各語
貴公使不以我政府所告為可憑而反以市井謠伝為可信乎将何以解本国上下之疑訝耶且輦轂重地玉帛會所而貴公使以大兵来駐其所以恭敬我政府者何在其所以和睦邦交者又何在況護館兵約不過若干而今于無事時幾倍其数以駐之誠非本督辨之所望也惟望貴公使亟行撤兵以免驚騷祷切盻切耑此順頌
陞祺
今日も意訳気味に進めていきます。

貴下の文書を見たけど、確かに民乱は最初その勢いが広がり、朝鮮兵は負けてた。
今京城にいる数千名の兵は京城を守っているため、多くの兵力を遠征させる事ができず、そのため中国兵に助けを求めた。
その兵力は1千数百人に過ぎず、彼等が上陸した時には、匪徒は殲滅されて全州も奪還していたので、援兵は進軍もしていないし、大挙として来たわけでもない。
そこへ日本兵が4~5千人も急に来たんで、人民を驚かせ、色々な噂も出るようになった。

しかし貴公使は、何故我が政府の言うことは信じずに、市井の誤った噂を信じるのか。
どうすれば我が国に対する様々な疑惑を解くことができるのか。

そして、王都に貴公使が多数の兵を駐屯させれば、我が政府に対する敬意や隣国との交誼がどこにあるのか。
また、公使館護衛の兵は若干に過ぎず、何も無い時なのにその数倍の兵を駐屯させているのは、普遍的良心が無いことだ。
私は、貴公使が早く撤兵し、騒動が起きないようにすることを切に望む、と。

ま、言ってる事はこれまでと同じ。
ウリ政府が鎮圧したって言ってんだから、帰れ。
韓国に対する愛は無いのかぁ!と。(笑)

さて、続いての史料は、アジア歴史資料センターから。
『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/5 明治27年6月8日から明治27年6月24日(レファレンスコード:B03030205100)』の24画像目。
仁川の能勢領事から陸奥への、1894年(明治27年)6月18日発『電受第280号』より。

Mutsu,
Tokio.

600 Japanese soldiers arrived safely on board 高砂丸 六月十八日.
It has been ascertained that Chinese soldiers are stationed at 牙山.
It is rumored here that Chinese soldiers will probably leave for China.
筑紫船 was dispatched to inspect.

Seal
Nosse.
600名の日本兵が、6月18日に高砂丸に乗って無事到着。
清国兵は牙山に駐留していることが確認された。
こちらでは、清国兵は恐らく清国に撤兵すると噂されている。
筑紫が、視察のために派遣された、と。

これで日本側って、合計何人になったんだっけ?
つうか、朝鮮政府から矢のような撤兵要求の最中に。(笑)

続いて、これに関連する大鳥公使から陸奥への電報を先に。
10画像目。
1894年(明治27年)6月19日発『電受第273号』より。

Mutsu,
Tokio.

600 Japanese soldiers arrived 仁川 六月十八日.
Why do you send so many soldiers notwithstanding my representation.

Otori.
600名の日本兵が6月18日に仁川に到着した。
俺の説明にも係わらず、何でそんな沢山の兵を送ってくんねん、と。
まぁ、現場で折衝してる大鳥としては、当然の電報。(笑)

ただ、回答の方を見ないと分からないけどね、横須賀から仁川まで大体4日かかるわけで、多数の兵士を必要としない旨の説明をした、4月4日のエントリーの1894年(明治27年)6月14日発『電送第243号』が陸奥に届いたのが6月15日なわけで、単に説明が届く前に出発しちゃってたからだと思うよ。
( ´H`)y-~~

今日最後の史料は、再び『駐韓日本公使館記録1』から。
大鳥公使から、北京の小村臨時代理公使、天津の荒川領事、煙臺の伊集院領事に送られたもの。
1894年(明治27年)6月19日付『発第25号』、『発第26号』、『発第27号』より。

我護衛兵入京候義は、過般電信を以て御報及置候後、去15日大島旅団長は軍隊3大隊を率ひ仁川着。
昨18日を以て同旅団長以下2、3将校入京相成候。
尤も、軍隊は目下仁川我居留地に舍営致居候。
将又支那兵は、目下尚牙山地方に滞留。
更に撤回の模様不相見候。
当国乱徒は全州を退きたる後、南方諸地へ散乱し、未だ全く鎮静に至らず。
或は、不遠再挙すべしとの風説あり。
委細は別紙報告にて御承知相成度候。
就ては、清国政府が我出兵に対する挙動に関しては、別に御注意相成、至急を要する件は電信を以て可成迅速御報道相成候様致度、此段申進候也。
大島旅団長は15日に仁川に到着し、兵は仁川の居留地に残して将校2~3人と京城入り。
清国兵は牙山地方にいて、撤退する様子なし。
東学軍は全州から撤退した後、南の方に散って未だ全く鎮静しそうもなく、遠からず再挙するだろうという噂もある。
で、委細は別紙報告と言うわけですが、別紙報告が何を指しているのかは分からず。

兎も角、清国政府の挙動について注意し、至急を要する件は電信でなるべく早く知らせてね、と。

まぁ、冒頭で趙秉稷が殲滅したとか言ってましたが、全州を奪還しても東学軍を全滅させたわけではなく。
殲滅した筈なのに清国は動かず、と。
そんな感じ。


今日はここまで。



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日清戦争開戦まで(五)


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