さて、今日からはやっと6月28日の史料に入って行きます。
前回は28日分の混成旅団報告を探していて27日分のものを見つけたわけですが、その28日分の報告については、30日付で報告がされてるので後に譲る事に。(笑)

ってことで、それ以外の28日分の史料について。
まずは、アジア歴史資料センターの『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/2 明治27年6月20日から1894〔明治27〕年7月12日(レファレンスコード:B03050308200)』。
28画像目から。
長いので、分割しながら見てきます。
それでは、大鳥から陸奥への1894年(明治27年)6月28日付『機密第110号』。

朝鮮属邦説を排斥し并内政改革断行手続に付上申

昨27日、加藤書記官着仁。
本日午前入京候に付、委曲御訓令の趣致承知、并に是迄貴我の電信にては意味充分に相通せざりし廉をも判明致候。
6月27日に加藤が仁川に到着し、28日に京城入り。
6月24日頃に広島を出発している筈なので、広島・仁川間で4日くらいかかるのか。

で、3月7日のエントリーからちょくちょく言われてた、陸奥の訓令を持ってきて、承知した、と。
この訓令の内容ですが、杉村濬の『在韓苦心録』の記述(『対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録/1 前編 1(レファレンスコード:B03030197800)』31画像目)が事実だとすれば、「27日、加藤書記官は外務大臣の内訓を帯びて到着せり。其大要は今日の形勢にては、行掛上、開戦は避くべからず、依て曲を我に負わざる限りは如何なる手段にても執り、開戦の口実を作るべし。尤も斯る事は訓令として書面に認め難ければ、特に加藤を派すとの事なりき。」だそうで。

まぁ、加藤の出発時点で得られていた情報って、3月7日のエントリーから4月14日のエントリーくらいの間の話ですからねぇ。
つまり、日本の提案の拒否と清国から援軍が来るっつう話で、全兵力を京城に移せとか訓令が出てる時期。

刻一刻と変わる情勢に、京城公使館側も日本政府側もついて行けて無ぇ。(笑)

で、これまで何度か指摘してきましたが、電報だけでは意味が充分通じてない事も分かった、と。
辛うじてリアルタイムと言えるのは英文電報だけで、最低限の情報しか無い上に誤訳もあったのかも知れず。
一方、書翰は1週間も10日も経ってから届くわけで、そもそもの情報量も不足してますからねぇ。
つうか、この書翰自体、1週間以上経った7月5日に着くわけで。(笑)

後は、対清交渉が重要な日本政府と、対朝鮮交渉を重要視する公使館側の温度差もあるのかもなぁ・・・。

扨、当地の形勢は追々電信及び機密信等にて申進候通り、当政府一般の希望は只管無事平穏を願ひ、日夜日清両兵の撤回を僥倖し、而して其目的を達する手段として、初めは専ら袁世凱に依頼したるも急速の結果を見ざるに付、更に転じて各国公使に周旋を依頼し、或は電信にて李鴻章に依頼する等、可及丈の手段を盡し居るやに致推察候。
さて、朝鮮の形勢は逐次電信や機密信で報告してきたように、朝鮮政府一般の希望はひたすら平穏無事を願い、日夜日清両国兵の撤兵の幸運を願ってる、と。
で、その目的を達するための手段として、最初は専ら袁世凱を頼ったけど結果が出ないので、今度が各国公使に周旋を依頼したり、電信で李鴻章に依頼するなど、出来る限りの手段を採っているように見える、と。

清国軍、呼ばなきゃ良かったのに。(笑)
一昨年の12月27日のエントリーの時点で、大臣達が既に指摘してる事ですし。
アホちゃうか、と。(笑)

んじゃ、続き。

又袁世凱は、此際頻りに大言を放ち、或は偽造電信を送りて韓廷官吏を恐嚇し、日本政府今回の挙は全く朝鮮を併呑せんとの野心を包蔵するとか、又は内治干渉の端緖を開かんと欲するに在るとか、自分勝手の理窟を製造して韓官に説込むが為め、左なきだに日本を嫌悪して支那に依頼心深き韓廷の老人連は、徹頭徹尾支那には離る可からず、仮令日兵は一時多数なるも最後の勝利者は必ず支那ならんと確信し、其他稍々時世に通じたる者と雖ども姑く両端を観望し、其勝敗を見て去就を決せんとする様子なれば、所謂ゆる日本党と称せられて或は陽に或は陰に運動する者は、目下勢力なき金嘉鎭、兪吉濬、趙羲淵、安駉壽等10余人に相過ぎ不申候。
斯る有様なれば、此際是非とも支那と一衝突を興し之を打破したる後にあらざる已上は、内政改革の目的充分に貫徹するを得ざるべしと思考致候へ共、日清両兵の衝突は容易に招き難く、依て内政改革を先きにし、若し之が為め日清の衝突を促さば僥倖なりと切りに謁見を促し候処、去26日午後3時、国王殿下には本官を引見せらる可き旨内務督弁より通知有之候に付、此機会に投じて内政改革の端緖を相開き、追て加藤書記官の来着を待て改革案を政府に提出す可くと存じ、別紙甲号寫の通り内治改良の必要を述べ、且つ委員を定めて本使と協議相成候様致度旨殿下の前に言上に及び、同時に上奏文(即別紙甲号の)奉呈致置候。
就ては、改革案調成次第外務督弁又は殿下より特命せられたる改革取調委員に提出して協議に及び可申と存候。
袁世凱は例の如く大言を吐いたり、偽造電信で朝鮮官吏を脅しつけたり、日本の今回の行動は朝鮮を併呑するという野心を持ってるとか、内政干渉の端緒を開くためとか、好き勝手な事を吹き込む、と。

そうでなくても日本を嫌い、清国に対する依頼心が強い朝鮮政府の老人達は、あくまで清国から離れてはならず、例え日本が一時多数であっても、最後の勝者は必ず清国だろうと確信し、その他やや時勢に通じている者も両天秤の様子見で、勝敗を見て去就を決めようという様子なので、所謂日本党と言われ表だって、あるいは裏で運動する者は、現在勢力の無い金嘉鎭、兪吉濬、趙羲淵、安駉壽等の10数人に過ぎない。
少ないねぇ。(笑)

で、そういう有様なので、この際是非清国と一回衝突して打破した後でなければ、内政改革の目的は充分には貫徹できないと思うけど、日清兵の衝突という事態を招くのは簡単ではない、と。
牙山と京城じゃ、何らかの外交上の破綻が無い限り、ちょっとしたいざこざが原因で、というわけにもいかないですからねぇ。

ってことで、内政改革を先にして、そのために日清の衝突が起きれば僥倖だとして頻りに謁見を催促していたら、6月26日の午後3時になって高宗が謁見するという通知をもらい、その機会に内政改革の端緒を開いて、その後加藤書記官が来たら改革案を朝鮮政府に提出しようと思い、別紙甲号のとおりに内治改良の必要を述べて、かつ委員を定めて大鳥と協議するようにしたいと高宗に述べ、上奏文を奉呈。
改革案が調製され次第、外務督弁か高宗から特命を受けた改革取調委員に提出して、協議に及ぶことになるだろう、と。
甲号については後述。

つうか、衝突は結果であって目的では無いわけですが。(笑)

3月24日のエントリーで大鳥自身が元山の上野領事に述べているとおり、「若し清兵増遣の報告事実に有之候はば、或は日清両兵の衝突測り難しと雖ども、幸に増兵の事実なきに於ては、結局無事落着に至るべくと被考候。」であり、今回の冒頭で「是迄貴我の電信にては意味充分に相通せざりし廉をも判明致候」と述べてはいるんですがねぇ・・・。

外交的には、ロシアのヒトロヴォに対して5月8日のエントリーで述べているとおり、日本に同意するか、同意しないなら邪魔すんなに対して、清国のリアクション待ちの状態。
でも、外交上の交渉破綻というのは、それ自体が開戦の理由になるのであって、わざわざ大鳥に開戦理由を探させる必要性があまり無いわけで。

逆に、軍事的に東学党の乱が収まったと言いながら追加派兵→日本への敵対行動とは見なせるものの、最後通牒も出していないこの時期、開戦に至る明確な理由が無い。

だから、冒頭で述べた『在韓苦心録』の記述が事実とすれば、清国出兵の情報を受けての措置、と考えるのが妥当だと思うんですがねぇ。

まぁ、当時の大鳥や陸奥は俯瞰して見るわけにも行かないわけですけどね。


ってところで、途中ですが長くなりましたので、今日はここまで。



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