さて。
前回は、在天津日本領事と荒川の会談の模様をお伝えしました。
朝鮮は貧しくて弱いってのはお互いに知ってるんだから、在京城公使の力で高宗を説得して、行政なり財政なり軍事なりを助言・勧告するのはオッケーだけど、両国から委員を出して、国事に干渉するようなことは公法に違反してる。
もし強いてそれをやろうとするなら、兵力による外は無い、何て言うわけですね。

この、「兵力に依るの外なし」に対して、荒川が反応します。
ってことで、アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/9 明治27年6月19日から明治27年7月3日(レファレンスコード:B03030205500)』の3画像目真ん中辺りから。
在天津日本領事である荒川から陸奥への、1894年(明治27年)6月19日付『機密第7号』の続き。

茲に於て、小官左の如く云へり。

当席に於て、小官一言を提出するの止むを得ざるあり。
兵力云々は更に小官の解せざる所。
元と兵力を以て朝鮮に対する議あらば、貴国と協議するの必要なきものと見認む。
其他の評言に対しては、小官の答ふる限にあらず。
単に外務大臣の電訓を伝ふるに止まるなれば、左様御考へありたし。
いや兵力で朝鮮に対するのであれば、清国と協議する必要ないだろ、と。
その他については荒川の答えられる範囲ではない。
単に陸奥の電訓を伝えただけなので、そのように考えてくれ、と。

つうか、割と朝鮮そっちのけで清国に対して提議してるわけですし、兵力云々とか言われてもねぇ。(笑)

李云、前陳の如き意見を抱くを以て、決て陸奧大臣の御考案に同意せざるに付、其旨貴領事より同大臣へ御電報あり度希望する申出候に付、小官は此件に限りては特に電訓もあれば、貴国公使を経て御回答ありたしと申候処、

李云、貴領事如斯大要件を本大臣へ伝報するに、何故に本大臣の依頼を拒まるるや。
回答の伝電を拒まるるなれば、貴領事の本大臣へ外務大臣の命を伝ふるの効なきが如し。

小官云、外務大臣の希望ありて特に在日本清国公使を経て中堂の確答を得たしとあれば、止むを得ず。

李云、貴領事の口頭を以て直に陸奧大臣へ回答を為すは望まざる所なり。
在東京清国公使よりの電報は一層簡単にして、充分了解し難し。
同公使よりは、両国委員撰任行政改革等の箇條はなかりし。

小官云、小官は中堂に謁を請ふて清国政府へ提出の考按を充分に談話せよ等、陸奧外務大臣より訓令を受けたるのみにして、特に公文を認め差出す等の訓令はなかりしなり。
兎に角、小官は中堂の回答を転電する義は、此度は遺憾ながら為し能はず。
小官よりは、単に訓令の如く取計ふたる旨陸奧大臣へは電報を発すべしと申■をし、午後6時半帰館致候。

右の大意は、第5号別紙の通り、本月18日午前発電致置候。
右発着電文写4通并に李氏面会の節談話、参考の為め携帯せし要点覚書1通相添へ、為御参考及御報告候也。
で李鴻章は、これまでのような意見で陸奥の提案には同意できないので、その旨荒川から陸奥に電報して欲しいと言うわけですが、荒川は2月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月17日発『電送第209号』で見たとおり特に指示を受けているので、在日本清国公使を通じて回答してくれ、と。

それに対して李鴻章は、こんな大事な要件について陸奥に伝えるのに、何故儂の依頼を拒むのか。
回答を伝えるのを拒むのであれば、荒川が儂に陸奥の命令を伝える意味も無いようなものではないか。
で、荒川は今回は陸奥の希望もあって、特に在日本清国公使を経て李鴻章の確答を得たいというので、やむを得ない、と。

李鴻章は、荒川の口頭で陸奥に回答を行うのは望まないところだ。
在日本清国公使汪鳳藻からの電報は更に簡単で良く分からないし、汪鳳藻からの電報では両国委員撰任行政改革等の話は無かった、と。

要するに、汪鳳藻からは両国委員撰任行政改革等の話は来ておらず、荒川の口頭による話しか聞いてないので、返事するなら荒川に返事するし、そうでないなら公文持ってこい、と。
つうか、4月11日のエントリーでは「委員説は、曽て伊藤伯の言はれたる善後策の事なるべければ、早速李中堂に報告すべく」だった筈なんですが。(笑)
単に李鴻章が臍を曲げたのか、マジで伝わってないのか。
つうか、マジで汪鳳藻が伝えて無いなら、話にならないよなぁ・・・。
いや、その後に「両国軍隊勠力して平乱の一條は至急を要することなれば、電報を以て申し遣はすべし」ですので、電報で送られたのは両軍で鎮圧の件だけで、委員説については書翰で送ってるかもしれず。
そうなれば、まだ伝わってない可能性の方が高いわけですが。

で、荒川は、自分は李鴻章に会って清国政府への提案について充分に談話しろ等、陸奥から訓令を受けただけで、特に公文を出すような訓令は受けていない。
兎に角、自分は李鴻章の回答を転電する件については、今回は遺憾だけどできない。
自分は、単に訓令に従って取り計らったと陸奥には電報出しとくと述べて帰ってきた、と。

つうか、この大事な話が、7月2日接受なわけですよ。
逆に、汪鳳藻が書翰で委員説の話を伝えたとすれば、単純計算でいけば清国政府には7月1日辺りに伝わる事になるんでしょう。
電信で送ったかもしれませんし、書翰だとしても文中に必要な言葉があるかも分かりませんし、そもそも送ってないかもしれませんし、分かりませんが。

兎も角、荒川は込み入った話のため電信ではなく文書で送ったんでしょうけど、前回の「在京城公使の勢力を以て国王を説き、宜しく行政なり財政なり軍事なり助言勧告して隣邦の好しみを尽すは可なり。」を見ても、この辺の遣り取りで大きく変わってきそうな気はするよなぁ・・・。
いや、もしそうなっても、日本側としては清国が約束を守るかどうかという、別な問題も出てくるんですが。(笑)

続いて、アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/1 甲午〔明治27年〕5月初9日から明治27年7月9日(レファレンスコード:B03030206100)』の44画像目。
2月13日のエントリーの最後で取り上げた、1894年(明治27年)6月18日付『第15号』の東学党の鎮圧報告と、2月14日のエントリーの冒頭での1894年(明治27年)6月18日付文書に対する返信になります。
1894年(明治27年)6月19日付『第52号』より。

以書柬致啓上候。
陳者貴暦甲午五月十五日貴公文第十五号を以て、昨接我巡辺招討両使電稟内称湖南匪魁既已就殲脅従余党之散逃者齊訴乞哀亦皆釈去兵器翕然帰化応請転詳貴政府迅将貴館商衛護兵及漢仁間屯駐軍竝即撤還以解我上下之疑惑云々、併に同日貴函を以て輦轂重地玉帛會所而貴公使以大兵来駐其所以恭敬我政府者何在其所以和睦邦交者又何在云々御申越の趣致拝悉候。
査するに、湖南匪魁既已就殲脅従散逃一節は、果して貴督辨御申越之通に有之候はば、貴国の為め実に慶賀す可きの至に有之候。
扨又這般我兵員の当地に派遣せられたる一事は、毎度申進候通り、貴我條約に照準し、警備の為め之を派送したるものなれば、貴政府に於て萬々疑訝せらる可き筈無之候処、貴函中其所以恭敬我政府者何在其所以和睦邦交者又何在の数文字を見るは実に意想の外にして、本使には却て疑訝に堪えざる次第に有之候。
将又撤兵一節に至りては、本使固より徒らに兵員の滞在を好む義には無之候得共、熟と時勢を観察し、愈々置兵の必要を視ざるに至る迄は、乍遺憾貴督辨の御請求に応じ兼ね候。
此段照覆得貴意候。
敬具
趙秉稷からの2つの文書は読んだ。
湖南の匪賊の主魁はもう殲滅し、脅されて従っていた者も逃げ散ったというのが本当なら、朝鮮のために実に喜ばしいことだ。

さて、今回の日本の派兵については、毎回言ってる通りに済物浦条約と高平臨時代理公使の知照に基づいて警備のために派遣しているだけで、当然朝鮮政府が疑わしく思う筈も無いのに、文書中に「我が政府に対する敬意や隣国との交誼がどこにあるのか」という言葉を見るのは意外なことで、私の方が疑訝に堪えない。

撤兵の話に至っては、私は元からいたずらに兵員の滞在を好むわけではないが、じっくりと時勢を観察して、いよいよ兵を置く必要がなくなるまでは、遺憾だけど趙秉稷の請求には応じられないよ、と。

真っ向勝負に出てますな。(笑)


今日はここまで。



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