前回は、清国側の拒否回答&撤兵要求と、それに対する日本の遺憾表明&撤兵拒否回答を見ました。
中々緊迫してきましたね。

ってことで、今日はまず、アジア歴史資料センターの『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/1 明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日(レファレンスコード:B03050308100)』の13画像目から。
陸奥から大鳥への、1894年(明治27年)6月22日付『機密送第25号』より。

一.清国政府より更らに多兵を朝鮮に派遣すること、弥よ確実なるが如き模様相見へたるに付ては、日清両国の衝突は到底免れ難き場合に立到れり。

一.我兵を仁川に留置くときは、宿営等のことに付居留英国及其他の国民よりの苦情不少趣なり。
然るに、此場合に当りて、若し此等の事より万一にも第三国との紛議を生ずるが如きことありては、我が為めに不利少からず。

前記二項の理由を以て、廟議は仮令帝国と清韓との関係上、多少の不都合を引起すにも管せず、目下仁川に駐留する残余の兵を挙げて京城に進入せしめ、尚ほ速かに二大隊の兵を続派して混成旅団を完成せしめ、以て京城に集合せしむる事に一決せり。

一.過日電訓せし如く、此際朝鮮政府に迫りて京城釜山間の電信線を修復せしむべきこと。
尤、同政府に於て其言を遷延決せざる場合に於ては、一方には我陸軍軍隊に於て其工事を担当し、一方には其事を朝鮮政府に通報する事。

尚、其他は今回派遣の加藤外務書記官より口頭にて本大臣の訓令を相伝候様申含置候間、同人より御聞取有之度候。
右及訓令候。
敬具
清国から追加の兵が派遣されることが、いよいよ確実な様相を呈してきたため、日清両国の衝突は到底免れない事態になった。
また、日本兵を仁川に留めて置けば、宿営等のことについて仁川在住の英国人その他の国民から苦情も少なくないようであり、それによってもし万が一第三国との紛議を生じるような事があっては、日本にとっての不利は少なくない。
以上の2点を挙げて、廟議は例え日本と清国・韓国との関係上多少の不都合を引き起こしても、現在仁川に駐留している残りの兵を京城に入れ、さらに速やかに2大隊を続派して混成旅団を完成させ、京城に集合させる事に決まった、と。

つうか、飲料水なんかにも困ってる中、良くこれまで狭い処で我慢してたなぁ。(笑)
まぁ、何度か移転させろよぉと大鳥に申し出て、断られてたんですけどね。

で、以前電訓したように、この際朝鮮政府に迫って、京城・釜山間の電信線を修復させろって言うわけですが、前回の半公信の時にも述べたように、どの電訓かは不明。
兎も角、朝鮮政府がその回答を引き延ばして決まらない場合には、一方では日本陸軍がその工事を担当し、一方ではその事を朝鮮政府に通報すること、と。

最後に、その他は今回派遣した加藤外務書記官から口頭で陸奥の訓令を伝えるように言っておいたので、加藤から聞いてね、と。

続いては、『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/5 明治27年6月8日から明治27年6月24日(レファレンスコード:B03030205100)』の28画像目。
陸奥から釜山の室田領事への、1894年(明治27年)6月22日発『電送第236号』より。

Murota
Fusan

Take the following telegram with you and as soon as you arrive at 仁川 communicate it to Otori by quickest possible means.

To Otori.

8.Chinese Government rejected our proposal, and from reports of 在天津一等領事 and 神尾陸軍少佐 it appears that 李鴻章 is about to send to Corea 5,500 soldiers commencing embarkation from 六月二十二日.
So now it looks as if collision may be unavoidable and in Cabinet meeting in the presence of His Majesty 六月二十二日 it is decided to send about 2,000 additional soldiers to make up 混成旅団 leaving 廣嶋 六月二十四日, and you are hereby instructed to concentrate all troops to 京城 immediately notwithstanding you may have more or less fear to create complications.

Mutsu
次の電信を携帯し、仁川到着後直ちに大鳥に可能な限り早く伝達すること。

清国政府は我々の要求を拒否した。
そして、在天津一等領事と神尾陸軍少佐の報告によれば、李鴻章は6月22日から乗船を開始している5,500人の兵を朝鮮に送ろうとしているらしい。
従って、衝突は避けられないかのように見え、6月22日には御前閣議によって混成旅団を編成する2,000人の追加兵を送り、6月24日に広島から出発させる事を決定した。
貴下はこれによって、多かれ少なかれ面倒な事態を引き起こす恐れがあっても、全兵力を京城に集中させるよう訓令する、と。

3月4日のエントリーの1894年(明治27年)6月21日発『電送第230号』と大同小異。
最も大きな違いは、追加派兵の閣議決定前か後かという所ですね。

さて、続いての史料は、2月20日のエントリーで見た、マズイ事言っちゃった風味の1894年(明治27年)6月20日付文書ってのがありましたが、それに対する返信になります。
アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/1 甲午〔明治27年〕5月初9日から明治27年7月9日(レファレンスコード:B03030206100)』の46画像目。
1894年(明治27年)6月22日付『第54号』より。

敬覆者接准貴暦甲午五月十七日貴督辨来函内開此次貴館商衛護兵及漢仁間屯駐軍并即撤還云々等因本公使閲悉望是査我政府派兵来此各縁由屡経行文面晤何啻一再自必早邀貴督辨洞燭不待本使瀆陳也至来函内称南匪既平都下安静則護兵自当解帰等語一節惟査南道擾乱各地実情本使現未得確耗且如所謂援軍者仍淹留彌日竝無拔陣退回形勢本使據此二事忖度之則前之所謂南匪既平都下安静云々等語遽難憑信方此人心靡定之時尤不可不置兵警戒以備急変也如称然設欲審知援兵之去就應由貴公使向詢清国総理袁自可明晳矣諒不俟本督辨之言等語一節本使誠有難解者査日前來函内開請中国兵前来助剿云々則清国援軍之来自係由貴国所請而貴政府尚謂不知其去就耶抑或貴督辨之意願由本使向照清国総理袁俾其退撤援兵乎如果本使所憶度與貴督辨所思相符本使亦何憚効労即布将此一節明白声明以解本使之惑是為至要仍望貴督辨照諒賜覆為盻肅此佈覆順頌
台祉
ってことで、旧暦で5月17日、つまり1894年(明治27年)6月20日付の書簡には「此次貴館商護衛兵及漢仁間屯駐軍并即撤還云々」ってあったけど、これまで派兵の理由を公文や面談で何度も述べてきたっしょ?
で、送ってきた書簡には、「南匪既平都下安静則護兵自当解帰」ってあったけど、南方の実情は確認できてないし、援軍もかなりな日数駐留して撤退する気配もない。
そこから考えれば、「南匪既平都下安静」っていうけど、俄には信じられないよねぇ。
さらに、人心が安定していないのなら、更に兵を置いて警備し、危急の事態に備えなきゃならんし。
だから「援兵之去就應由貴公使向詢清国総理袁自可明晳矣諒不俟」ってのは理解できないんだよね。
「開請中国兵前来助剿」ってんだから、お前らの要請で清国が助けに来たのに、その去就を知らないってのはどういう事よ?
俺に袁世凱に撤兵するかどうか聞けってか?
もしそうなら、その程度の手数は憚らないけど?
明白に回答をして、俺の疑念を解いてくれよ、と。

やっぱりツッコんでた。(笑)


今日はここまで。



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