今日は前置き無しで早速。
『駐韓日本公使館記録1』より、大鳥公使から元山の上野二等領事への、京城の情勢に関する文書。
1894年(明治27年)6月24日付『機密105号』。

漢城に於ける現在の事勢一班

全羅道に於ける民乱は幾んど鎮定に帰し、清国援軍凡2,000名程は依然牙山に滞陣致居る義は、追々の報告にて御承知相成り候事と存候。
然るに、軍兵引揚方に付本官と清使との意見相違致し、清使は飽迄我兵と同時に引揚げしめんと試み、我は先づ清兵退回せしむるは事の順序なりと主張致候より、雙方の間に漸く隔絶を生じ、今は協議の中止の姿に相成り居り候。
然るに、一両日已来天津又は北京よりの電信に拠れば、清国政府は北塘小站及山海関の兵併せて5,500名程を朝鮮に派遣せんとの計画有之、而して其内500名程は去22日午後既に出発したりとの事実相分り、本省の電訓に従ひ我兵は盡く京城若くは漢江近傍に集合せしめ、而して更に2,000名の兵は本日仁川に向け出発の筈に有之候。
尤も、袁世凱氏を始め清国官吏は孰れも清兵続発の事は虚伝なりと断言致居り候。
此後の模様は如何に変化すべきや。
若し清兵増遣の報告事実に有之候はば、或は日清両兵の衝突測り難しと雖ども、幸に増兵の事実なきに於ては、結局無事落着に至るべくと被考候。

将又朝鮮政府の内部を顧みれば、是迄閔泳駿は専ら袁世凱と結托し、諸事同氏の指図に依りて取計ひ居候処、数日前支那兵を以て大闕を守衛せしむるの相談相纏らざりしが為め俄に仲別れと為り、断然袁氏に拒絶せられたるに因り、閔氏は急に金嘉鎮氏外日本党数名を採用し漸く我方に傾向せんとの兆候有之。
又、是より先き当国にて開化党と称せらるる人々は、我兵の入朝を機として切りに政府改革の運動を始め居り、其機に乗じて大院君再び政府に飛込まんとの様子相見得候へ共、右は果して如何程迄の点に相運び候哉、未だ確探致兼居り候。
右は目下の形勢御通報迄申上候也。
東学党の乱はほとんど鎮定され、清国兵約2,000人は依然として牙山に駐留し続けてるのは、これまでの報告で分かってると思うけど、撤兵の方法について俺と袁世凱の意見が相違し、袁世凱はあくまで両国の同時撤兵を主張し、俺はまず清国が撤兵するのが順序だろと主張したので、双方の間に隔絶が生じて、今は協議中止の状態になった。

しかし、天津または北京からの電信で、清国政府は5,500名ほどの追加派兵をする計画があり、そのうち500名ほどは既に22日の午後に出発した事が分かり、外務省の電訓に従って日本兵を全て京城または漢江近くに集合させ、さらに2,000人が追加兵として今日出発予定。
もっとも、袁世凱を始めとした清国官吏は、いづれも追加派兵の事は虚報だと断言している。
もし清国の増援が事実であれば、あるいは日清の衝突となるかもしれないが、増援の事実がなければ結局無事に落着するだろうと考えている。

一方で、朝鮮政府の内部を見れば、これまで閔泳駿は専ら袁世凱と結託し、様々なことを袁世凱の指図で取りはからっていたけど、数日前清国兵によって宮廷を守らせる相談がまとまらずに仲違いを生じ、断然袁世凱に拒絶されたため、閔泳駿は急に金嘉鎮ほかの日本党数名を採用し、日本に傾向する兆候がある、と。
ちょっ!変わり身早っ!(笑)

また、朝鮮で開化党と呼ばれる人々は、日本の入京を機会として頻りに政府改革の運動を始めており、その機会に更に乗じて大院君が再び政府に飛び込もうとしている様子も見え、これらは果たしてどの辺までになるのか、いまだ判然としない、と。
巷間、日本党と開化党は同一視されていますが、この報告の中では区別されてる感じがしますが、どうなんでしょうねぇ。

さて、続いては『駐韓日本公使館記録2』から。
仁川の能勢領事から大鳥公使に向けた、1894年(明治27年)6月24日付『機密諸第8号』より。

仁川港が、日清両国交兵の地より各自生命財産の危険に陥らん事を懼れ、在港清国人は貧富老幼を論ぜず避難帰国するもの実に夥しく、本月21日出帆の汽船鎮南号にて500余名を搭載し去り。
尚、袁氏の家族并に当港理事府員の家族を始め、大小商民は幾んど数を盡して軍艦平遠号及汽船北平号に乗込み、続々帰国の途に就きたる次第は、昨23日の電文を以て御推諒相成たる儀と存候。
右等情形なるを以て、在港各外国人も弥よ租界の安寧を保ちがたきを恐るるの念甚しく、明25日各国居留地会に於て、仁川港を以て純然たる局外地たらしめんとの議定をなし、以て京城使臣会議へ提出すべき都合有之。
而して、本件は英米各使臣を始め仏独俄等外交官も至極賛同の様子なるのみならず、在北京英公使ヲコンナー氏の如きも遙かに応援をなしつつありとの事に有之候得共、不日貴地使臣会議の議題として現れ出づべくと存候。
抑も本件は、国際上頗る緊要の問題に属し候処、前年清仏戦争の際上海租界を以て局外中立の区となし、又福洲船廠砲撃の時に当り、各国居留地の災険を保証せしむる等の近例も有之。
右中立説にして成立するを得ば、仁川港は局外者の兵力を籍て之れが保護を受くる事を得、本港居留本邦人は勿論、各外国人は無上の幸福に可有之候得共、退て我軍隊の当地に於ける情況を察するに、清兵は已に南陽湾間牙山を以て軍隊の起動点となしたるの観あり。
我軍隊が上陸地及糧餉万端の便を有する起動地として、当仁川港を除き他に適当の地有之間敷、且つ今日の有様を以て見れば、我大兵は現に当港邦船会社支店を以て兵站監部となし、いざ開戦とならば直刻埠頭に堆積せる支那米と清商の倉庫を封抄し、其電報局を押領するの手段を取るべき旨其筋の軍議も有之趣なるに付ては、清国果して大軍を挙げて当国に来らんには、決して一矢を発せずして此形勝の区を退譲すべきにあらず。
況んや港内には、日清軍艦互相睥睨咄嗟の間轟砲攻衝の機あり。
又清国人退去の挙動は、殆んど清野の計とも可申の観あるに於ておや。
於是当港は、彼我両軍が起動点争奪の為め、第一着に兵焚に罹るの虞あるものと云ふを得べきかに相考候。

前述せる如く、仁川港が局外の地位に立つべきや、将た我軍隊の起動点となすべきかの問題は、我後継隊として本日忠海を発せる軍隊の来着と同時に生起すべきものと被存候。
就ては、右に関し小官心得方の為め、予め貴官の御意見相伺置度候間、折返し何分の御回訓相仰候也。
日清両国が交戦して各自の生命財産が危険に陥る事を恐れて、仁川の清国人は貧富老若を問わず避難帰国する者が非常に多く、21日には鎮南号が500名を載せて出航するような状況。
袁世凱の家族や仁川港理事府員の家族など、商民も含めてほとんどが平遠号や北平号に乗り込み帰国した件については、23日の電報でご存じの事と思う、と。
23日の電報はまだ見つけられてませんが、兎も角、政府関係者以外は皆帰国状態って事でしょうね。

ってことで、在仁川の各外国人も租界の安寧を保ちがたくなる事を恐れ、翌25日に各国居留地会で仁川港を局外地にしようという議定をし、それを京城使臣会議へ提出する予定がある、と。
このことについては、イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・ロシア等の外交官等も積極的に賛成している様子であり、それだけでなく在北京のイギリス公使オコンナーも応援しつつあるってことで、遠からず京城の使臣会議の議題として上るだろう。

この中立説が成立すれば、仁川港は局外者の兵力を借りてその保護を受ける事ができ、仁川港居留日本人は勿論、各外国人も安心。
しかし、日本軍の置かれた朝鮮での状況を見れば、清国は南陽湾・牙山を軍の拠点としている観がある。
日本軍が上陸や兵站の準備をする場所としては、仁川港以外には適当な場所もなく、現在の状況からいけば、日本軍は仁川の日本の船会社の支店を兵站監部としており、いざ開戦となった時には直ぐに埠頭に積まれた清国の米と清国商人の倉庫を封鎖し、電報局を押さえる手筈をとる軍議もあるようなので、清国がもし大軍を朝鮮に送ってきた時には、何もせずに仁川を去るべきではない。

まして港内で日清軍艦がにらみ合い、撃ち合いの機会もあるだろう。
また、清国人退去の挙動は、ほとんど清野の計とも言うべき感じがあるわけで、と。
清野の計って焦土作戦だっけっか?
この状況を指す比喩としては、どうなんだろう?(笑)
兎も角、そういうわけで仁川港は日清両軍が起動点確保のため、一番最初に兵火が起きる恐れがあると言えると思う。

以上のように、仁川港が局外地になった場合、日本軍の起動点とするべきかどうかという問題は、日本の後続部隊の来着と同時に起こる形になるだろうから、前もって心得までに大鳥公使の意見を聞いておきたい、と。

んー、仁川以外なら釜山って事になるのかもしれませんが、そこからだと補給線も非常に長くなりますしねぇ。
仁川港が使えなくなるっつうのは、結構問題。


今日はここまで。



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