んー、英文を真面目に訳していくと、殆ど話が進まない気が・・・。
本文はテキスト化してるんだから、意訳していくべきなんだろうか。
もう少し悩んでみよう。

ってことで、連載5回目。

今日最初の史料は、『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/5 明治27年6月8日から明治27年6月24日(レファレンスコード:B03030205100)』から。
9画像目→8画像目の、1894年(明治27年)6月18日発『電受第266号』。

Mutsu,
Tokio.

Entering into 京城 have found the state of affairs very different from what expected at the time of departure.
Chinese soldiers were not present at 京城, rebels defeated; 全州 restored and the Chinese soldiers have not advanced farther than 牙山.
As such has been and still is the situation here I find no reason for an increase of guards of the legation; as it is however very impolitic to return 3,000 soldiers arrived 仁川 六月十五日 without doing anything we must find out some reason for employing them effectually; happily 袁世凱 came 六月十五日 and proposed to withdraw Chinese soldiers at the same time with the Japanese.
I answered that I would ask for instructions as I was not empowered to withdraw Japanese soldiers.
I believe taking advantage of this occasion to demand Corean Government and 袁世凱 withdrawing Chinese troops before that of ours.
If 袁世凱 refuse to comply with our demand, we may consider that refusal as endeavors on the part of China to support her suzerainty over this country and as denial of our efforts in maintaining independence of Corea; as such act of Chinese Government also seriously affects our interests in Corea we may with every reason on our part drive out Chinese soldiers by force.
May I resort to such energetic measures if after all amicable arrangement cannot be reached without impairing our dignity answer immediately.

Otori.
京城に入京すると、事態は出発時に予期していたのとは大きく異なっている事が分かった。
清国軍は京城にはおらず、反逆者は敗れ、全州は取り戻され、清国軍は牙山より遠くには進んでいなかった。
そういうわけでこちらの状況は平穏であり、公使館の護衛の増加に全く理由が無いが、実際には6月15日に仁川に到着した3,000人の兵士を何もさせずに帰すのは、非常に不得策であり、彼等を効果的に用いる何らかの理由を見いださなければならない。

幸いにも6月15日に袁世凱が来訪し、清国兵と日本兵の同時撤退を提案してきた。
私は、日本兵の撤退させる権限を持っておらず、請訓すると答えた。

私は、今回の出来事を機に、朝鮮政府及び袁世凱に日本兵より先に清国兵の撤退を要求しようと考えている。
もし袁世凱が我々の要求に従うことを拒絶すれば、それをこの国への宗主権維持のための清国側の努力であり、朝鮮の独立を保持しようという我々の努力を拒否したと看做し、そのような清国政府の行為自体もまた、朝鮮における我々の利益に深刻な影響を与えるため、当方はあらゆる理由で清国兵を力により駆逐することができる。
もし、我々の威信を損なう事なしには、友好的な協定に達することができなければ、そのような力強い手段に訴えてよいか直ちに返事を願う、かな?

この辺、4月18日のエントリーでもやった、1894年(明治27年)6月17日付『機密第96号 陸兵を撤回せしむ可き最後の処置に付伺』に類似の電信ですね。
つうか、もしかしてこれが「本日八重山艦に附托し発送取計候電稟」か?

兎も角、その中での「袁氏に日兵を撤回せしめたりとの名誉を与ふるは勿論、其結果は我大兵を入韓せしめながら却て清韓両国の軽侮を受け、他の外国人の嗤笑を招くに至るも難計と只管憂慮する所に有之候。」が、「3,000人の兵士を何もさせずに帰すのは、非常に不得策」という話なわけです。

つまり、この時の日本側としては、3,000人を出兵して何もせずに帰った場合、議会などの攻撃を受けるという国内的理由。
同じく3,000人を出兵して何もせずに帰った場合、袁世凱に日本兵を撤退させたという名誉を与え、朝鮮における宗主国としての清国の地位向上と日本の地位の相対的低下を招くという外交上の問題。
抜本的改革をしない限り、内乱の再発を招き、同様の事態が予想されるという問題。
以上の3点が、この時点で主として問題になってると考えて良いのではないかと思います。

で、それらが総て解決されるものが、日清共同委員による朝鮮の内政改革と思っているという事になるんでしょう。
例えそれが実現したところで、上手くいくとは到底思えないわけですが。(笑)

続いては、東学党鎮圧のお知らせ。
アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/1 甲午〔明治27年〕5月初9日から明治27年7月9日(レファレンスコード:B03030206100)』の43画像目から。
趙秉稷から大鳥への1894年(明治27年)6月18日付『第15号』。

照会事案曩以貴馬歩軍到仁下岸泊貴兵在我仁川至漢城来路要衝及沿江各処均有設幕屯駐等各節暦経照函面商請貴公使速撤以安我都下驚騷等語去後旋准貴覆文内称我兵之陸続派来原非別有意見而然也乱徒未帰平静我国亦置兵自行護衛使館商民等因前来昨接我巡辺招討両使電稟内称湖南匪魁既已就殲脅従余党之散逃者齊訴乞哀亦皆釈去兵器翕然帰化妖気永銷本督辨適聞之下不勝忻幸諒貴公使誼在同舟与共休戚亦必喜為之聞応請転詳貴政府迅将貴館商衛護兵及漢仁間屯駐軍并即撤還以解我上下之疑惑寔是本督辨之所厚望也亟応備文照会貴公使請煩査照施行可也須至照会者
右照会
仁川・京城間の要衝地や漢江沿岸の駐屯と、速やかな出兵等について照会した。

4月19日のエントリーで取り上げた1894年(明治27年)6月17日付『第50号』中、「内乱が激しさを増せば少数の兵では保護出来ないと考えて派兵したのであり、元々何かの意見があって派兵したわけではない」という話について、昨日巡辺使と招討使の両使から、「湖南の匪賊の主魁はもう殲滅し、脅されて従っていた者も逃げ散って、一斉に哀願しながら武器を捨てて帰順したので、妖気は永遠に消えた」と言ってきた。

これを見て私は喜びを隠すことができず、大鳥も同じような立場だから、この知らせを嬉しく思うだろう。
ってことで、日本政府に連絡して、公使館及び商民護衛の兵と仁川・京城間の駐屯兵を直ちに撤退させて、朝鮮の官民の疑惑を解くようにしてくれ、と。

清国やイギリスなんかから言われたのか、朝鮮政府で考えたのかは知りませんが、これまでの日本の対応を見て、とりあえず鎮圧報告したって形でしょうねぇ。
つかね、4月19日のエントリーの時点で、確かに撤収の話は出てますが、忠清道の監司から「現今余党猖獗曷敢回軍云且興徳取報内彼徒百余名直向茂長云百余名又向古阜興徳臨云此輩一向閃忽伏悶」なんて言われてるわけで。(笑)

それ以上に、鎮圧の通知、6月18日かよ、と。(笑)


今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
日清戦争開戦まで(二)
日清戦争開戦まで(三)
日清戦争開戦まで(四)


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