話は亀の歩みの程度にしか進んでいませんが、連載10回目です。
つうか、3日分の電信・書翰しか見れてないわけですが。(笑)

さて、今日からは6月20日の史料に移りたいと思います。
まずは、『駐韓日本公使館記録1』から。
仁川の能勢領事から大鳥公使への、1894年(明治27年)6月20日付『京発第37号』より。

一.招討使の一行は、既に全州を出発して帰京の途に付きたる由噂するものあれども、出発の時日等は詳かならず。

一.当港在留の朝鮮人500余名、追々郷里へ避難し去れるを以て、監理署にては種々開諭し其堵に安んぜしめんとするも一般の恐怖甚しく、到底止めがたき由今朝同署彭主事来館の節相語り候。
右に付、本夕出帆群山へ向ふべき顕益船便にも、韓人男女数十名乗込みたるを探り得たり。
又、顕益船の群山行の目的は、全州地方の官兵引揚げの為めなりと云ふものあり。

一.在留支那人は、日本軍隊の来着を見て大に恐怖し、山東労働者・耕農及び小商人等200余人并に在港同国婦女子は悉く帰国する事となり、同国理事が百方慰諭するに係らず、昨19日正午以来汽船鎮東号に乗込みたるもの300余人に及びたり。
在港豪商同順泰等を始めとし、家族あるものは悉く同船にて一先づ芝罘迄送り、同地に寓居せしめて此後の動静を伺ひ、再たび呼戻す都合となせり。
右の有様にて、清国人中婦女子を有するものにて尚ほ当港に残し留め居るは、理事府書記生周長齡及び郵船会社雇清国人両名のみなりと。
又、農夫にして野菜を作れるものは、馬鈴薯大根其他皆な其種苗の至小なるもの迄掘尽し、之を売却して帰国の途に就けり。
又汽船鎮東号は、本日早晨の潮にて出帆の予定なるに、昨19日午後俄然京城より暫く出帆見合せよとの電命あり、是れ在京城清国使署より発送すべき公信あるが為めなりとも云々。
又一説には京城よりも同国婦女子を帰国せしむる為めにして、現に本日京仁間通航の小汽船一隻を買切るべき都合なれば、右にて京城より婦女子を搭載し来るなるべしと云ふものあり。

一.清国人の説に拠れば、明21日か明後日の内に、清国軍艦6、7隻入港すべし云々。
尤も、理事府にては万々清国より陸兵の増派、軍艦の来集等の事はなかるべしと言へり。

右探聞の侭及御報告候也。
ま、いずれも噂とそれを元にした行動の報告なんで、本当かどうかは分かりませんが、一応。

まず、招討使一行は既に全州を出発して帰ってくるという噂があるけど、出発の日時など詳細は不明。
つうか、残党狩りとかしないんですかね?
次の2番目と3番目は、日本軍が来た事による仁川の朝鮮人と清国人のそれぞれの反応かな?
それぞれ避難している人が出てきている模様。
最後は、清国人の説では6月21日か22日のうちに清国軍艦6~7隻が入港するだろうといってるけど、理事府では陸軍の増派や軍艦が来るような事は無いと言ってる、と。

日本軍が来てから既に1週間近く経ってる筈なんですがねぇ。
何でこんなに混乱してるっぽいんだろう?(笑)

さて、続いても『駐韓日本公使館記録1』から。
大鳥公使から趙秉稷への、1894年(明治27年)6月20日付『第53号』。

敬啓者茲因遣派我領事館警部荻原秀二郎隨同巡査一名前往忠清全羅両道就地探看騷擾各地併令探査在各該地方行商之我国商民消息為此函請貴督辨循例飭繕護照関文各一道務速擲来以便転給帯領前往可也耑此泐懇順頌
台祉
簡単に言うと、日本領事館の荻原警部と随行巡査1名を忠清道・全羅道に派遣して、騒擾が起きた各地方を探ると同時に、各地で行商している日本商民の消息を調べるんで、前例によって旅行券と公文を送ってくれ、と。

これはもしかしてアレか。
4月6日のエントリーの1894年(明治27年)6月15日発『電送第202号』で、公使館員若くは領事館員を実況取調として派遣して、調査は緩慢にやって、なるべく平和な状態と反対に報告書を作れって言ってたヤツか。(笑)

で、それに対する回答が1894年(明治27年)6月20日付で出ています。

敬覆者頃展
来函為貴領事館警部荻原秀二郎帯同跟後一名前往忠清全羅両道探査各地方商民消息請発関文護照各一道一事茲准厪戒護照関文各一道繕交尚望
貴公使査收轉給該員以便帯往可也耑此順頌
午祺
って事で、許可されました。
見て貰えば分かるとでも思ったのでしょうか。
ちょっと可哀想。(笑)

一方で撤兵については、当然強硬姿勢のまま。
今度はアジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/1 甲午〔明治27年〕5月初9日から明治27年7月9日(レファレンスコード:B03030206100)』の45画像目。
1894年(明治27年)6月20日付文書より。

敬啓者此次貴館商護衛兵及漢仁間屯駐軍并即撤還一事以照以函以面商迭経在案無庸贅述現我都下人心転益致騷靡有底定本督辨實不勝懸悶之至且昨日面談時貴公使言明援兵撤去則我兵亦即撤還云々査南匪即平都下安静則護兵自当解帰無渉於援兵之去就然設欲審知援兵之去就応由貴公使向詢清国総理袁自可明晳矣諒不俟本督辨之言也嗣於本月十七日貴来文内称本公使固非徒好留兵多日但必須審察時勢云々一節査匪類帰化巡辺招討両帥取次班師量時度勢自帰妥穏再有何時勢之審察者乎此則本督辨之所未可解也貴館商衛護兵及各処屯駐軍倘仍遅延不撤謠訛驚騷日甚一日将未知伊于胡底尚望
貴公使深以交誼為重并亟撤回非惟我両国之敦誼益密実為大局之幸惟
深諒善図焉耑此并頌
台祺
貴公使館及び商民護衛兵と、京城・仁川間に駐屯している軍の撤収については、書翰と面会などで言ってきた。
今も我が都下の人心は益々騒がしく、定まらない状態なので、貴公使は援兵が撤収すれば撤収すると言ったけど、南匪はもう平定され都下は安定したので、護衛兵達を帰国させなければならない筈だし、援兵の去就に干渉すべきじゃない。
援兵の去就を知りたいとしても、袁世凱に聞いたんだから、私が言うまでもなくハッキリしたんでそ、と。
あるいは、袁世凱に聞けば私が言うまでもなくハッキリするでそ、かな?

良く分かんないけど、援軍頼んどいてその撤兵時期は袁世凱の言葉任せって・・・。
独立国ならお前が清国の撤兵時期を明言しろよ。(笑)
まぁ、天津条約に基づく対清交渉と、済物浦条約に基づく対朝鮮交渉をごっちゃにしてるのって、今の日本人にも多い気がするけどね。
それぞれ違う国家同士の違う条約に基づく交渉なんだから、区別しようよ、と。

ってことで、これ、捉えようによっては、清国軍の行動が朝鮮のコントロール下に無いって、公文書中でばらしちゃってることになるぞ、と。(笑)

笑いを堪えて先に進みます。(笑)
で、2月18日のエントリーの1894年(明治27年)6月19日付『第52号』で、「本使固より徒らに兵員の滞在を好む義には無之候得共、熟と時勢を観察し」ってあるけど、匪賊は帰化して巡辺使も招討使も撤兵し、時勢も自然と平穏になるはずなのに、何を観察するってのか理解できん。

日本の公使館及び商民護衛の軍と各所に駐屯している軍を遅延して撤兵しなければ、噂による騒動は日が経つにつれて甚だしくなりどうなるか分からないので、早期撤収を、と。

まぁ、ポロッとマズイ話を出しちゃった以外には、これまでと代わり映えのしない内容。


今日はここまで。



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