前置き無しで早速。
さて、今日はアジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/7 明治27年6月13日から1894〔明治27〕年6月30日(レファレンスコード:B03030205300)』から。
11画像目→10画像目。
小村から陸奥への、1894年(明治27年)6月25日発『電受第311号』。

Mutsu
Tokio

It appears that arrival of 3,000 Japanese soldiers at 仁川 was decisive in changing attitude of 李鴻章 and convinced him of war in resisting Japanese action in Corea.
Most of foreign representatives have not yet grasped exact situation at this moment.
In the meantime Japan's vigorous and decisive action is necessary in order to give no time for European intervention and Chinese warlike preparations.
British Minister suggests that 王大臣 will be disposed to consider proposals if they are approached on a basis of the integrity of Corean territory and prevention of disturbances.
Telegraph your views regarding this suggestion.

Komura
3,000人の日本兵の仁川到着が、李鴻章の態度の変化を決定的にし、朝鮮における日本の行動を阻止する戦争を確信させたようだ。
いや、日本の追加派兵は、日本が撤兵しないなら清国人保護のため追加派兵すると言われ、更に5,500人が派遣される動きをキャッチしたからですが・・・。
つうか汪鳳藻、本当に清国の追加派兵について、李鴻章や本国政府から訓令受けたのかよ。(笑)
内政改革委員の件といい、追加派兵の件といい、清国政府あるいは李鴻章と、どういう連絡の取り方してんだよ。

で、大部分の外国代表者達は、まだ現在の正確な状況を把握していない。
差し当たって、ヨーロッパの干渉と中国の戦争準備に時間を全く与えないために、日本の主導的で決定的な行動が必要だ。
イギリス公使は、もし朝鮮の領土保全と騒乱防止を基本にした申し入れがなされれば、王大臣は提案を考慮するだろうと申し入れてきた。
この申し入れに対する貴下の見解を知らせて欲しい、と。

いや、清国に拒否された提議って、基本的に騒乱防止に関する件なんですが・・・。(笑)
領土保全ということになれば、日本側としては異論があろう筈もなく。
まぁ、「属邦保護」の話を含めて、清国側も異論がなければ、ですが。(笑)

さて、次からは26日付の史料に入っていきます。
まずは、混成旅団の動きから。
『明治27年 「秘密 日清朝事件 第5師団混成旅団報告綴」/混成旅団報告第7号(6月26日大島混成旅団長) 記載したる順序により諸隊仁川出発途中大なる困難を以て午後6時幕営地に到着す 竜山着後の給養は京城大隊に於て炊爨・・・(レファレンスコード:C06060160600)』より。

混成旅団報告第7号
6月24日

情報

一.本日、大同江視察の為め派遣ありし軍艦赤城号帰仁。
大同江附近極めて平穏。
平常に異なることなき旨、八重山艦長より報告あり。

一.在全州監衛髙嶌留学生電報。
6月21日午後7時、公使館落手のもの左の如し。

巡辺使今日帰途に就きたり。
一文銭万両火災者に下賜せらる。
泰仁の説諭懇加後おさまり帰る。
一.6月22日、渡辺巡査報告筆記左の如し。

今朝、沈参奉の妻(袁世凱の妾の母)来り、昨朝迄は何事のなかりしも、昨日正午頃より俄に様子異り、袁世凱は其婦女を仁川に赴かしめたり。
同氏の云ふ処に依るに、一昨日清兵平壌に着せりとの電報来りしかば、右平定不実入京することとならん。
然らば変事を生ずべしとの趣にて、斯くは避難せしめしなりと云ふ。

同人は、又渡辺巡査に勧めて其妻子を本日中に他所に移すべき旨を以てせり。
一.6月20日夜、某日本人の報告

清艦平安道鐵島来泊せりとの電報、閔泳純の許に本日達せりと云ふ。
一.全州髙島留学生電報左の如し(22日午后2時半公使館接手)

招討使午前9時帰途に着けり。
江華兵と清州兵(忠清道清州兵営の兵を指す)は暫らく残る。
一.嘗て開城府に出しありし士官斥候を、平壌迄前進せしむる目的を以て、其趣を同斥候に報ずる為め、22日午后公使館より使者1名を出発せしめたり。

一.一昨23日夜の報告に記載せし順序により諸隊仁川出発。
途中、大なる困難を以て午後6時当幕営地に到着す。
輸卒の人員、行李に比して少数なる為め、出発前兵站監に命じ人夫を雇ひ入れしむべき筈なりしが、韓人其命に従はざるものと見へ、一名をも雇入るること能はず。
已むを得ず、甚しきものにありては1駄分を2人にて運ばしむることとなり、之が為め大行李の到着は意外に遅延し、其全く到着せしは翌25日朝なりし。
茲に悲むべき一事は、途中に於て歩兵第11連隊第6中隊の現役兵1名、日射病を以て遂に死亡せり。

一.竜山着後の給養は、京城大隊に於て炊爨せしめ、翌25日昼食迄は京城より運搬して支給したり。

一.竜山附近幕営配置図は、別紙の如し(図面は略す)

右謹て報告仕候也

明治26年6月26日午前7時
混成旅団長 大島 義昌

参謀総長 熾仁親王 殿
・・・つうか、何で文書の途中がタイトルになってんのよ?
しかも、あんな長文ままで。(笑)
まぁ、ちゃんと混成旅団報告第7号って入ってるんで良いんですが。

で、肝心の中身ですが、それほど重要な話も無く。
最初の赤城の報告では、大同江附近は平穏。
次の高島留学生の電報は、3月11日のエントリーの4)まま。

その次の渡辺巡査の報告が結構面白いかな?
3月24日のエントリーでの能勢領事の報告を始め、袁世凱の家族を含めた清国人の帰国の話が出てましたが、その関連事項ですね。
で、これは20日に清国兵が平壌に到着したという電報が来たから、近いうちに入京することになるだろう。
そうなれば何らかの事変がおきるだろうという趣旨で避難させたものだ、と。

つうかさ、正式な清国の拒否回答は3月6日のエントリーで見たとおり6月22日。
それに対する日本側の遺憾表明と撤兵拒否は6月23日に送付されるわけで。
それなのに、3月24日のエントリーでも21日には帰国開始してるわけで、袁世凱の動き、早すぎ。
やる気なんじゃん。(笑)

次は、清の船が平安道の鐵島に来たという電報が、閔泳純の元に20日に届いた、と。
閔泳純ってのは、実際にこの時代にいる人なんですが、名前が本当に合っているかは不明。
つうか、「某日本人の報告」なんで、割と真偽も不明。(笑)

続いての高島留学生の報告は、これまでまだ出てきてませんが、22日に公使館の元に届いたもので、招討使も帰途に着いたけど、江華兵と清州兵は暫く残る、と。
まぁ、3月11日のエントリーでも予想されてた動きですけどね。

次は、前に開城まで斥候に出してた士官を平壌まで前進させるため、その斥候に向けて使者を発した、と。
まぁ、先ほども「20日に清国兵が平壌に到着したという電報が来た」という話がありましたからね。

その次が、仁川から京城近郊まで部隊を移した件の報告。
特に、荷物運びが大変だったようで。
結局、6月24日午前1時に出発して、完全に移動が終わったのは25日の朝、と。
丸一日以上ですな・・・。
で、その中で日射病で1人死亡。
竜山到着後は京城大隊にメシを炊かせ、25日の昼までは京城からの運搬により支給。
最後の図面は省略されてますが、清書版である『明治27年自6月至9月 「混成第9旅団 第5師団 報告」/混成旅団報告第7号(レファレンスコード:C06061758200)』の5画像目にありますので、御覧になりたい方はそちらをどうぞ。


ってことで、今日も長くなってしまいましたが、今日はここまで。



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