前回は大鳥から陸奥への1894年(明治27年)6月28日付『機密第110号』から、改革案が調製され次第、外務督弁か高宗から特命された改革取調委員にそれを提出して協議に及ぶ、という話まででした。

今日はその続きから。
アジア歴史資料センターの『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/2 明治27年6月20日から1894〔明治27〕年7月12日(レファレンスコード:B03050308200)』の30画像目、右側真ん中当たりから。

んでは早速。

尤も、先頃より内々改革派をも教唆致し、我は外より迫ると同時に、内に興りて改革を促す可き手筈に致置き候得共、前陳の通り改革派の勢力甚た微弱なれば、彼等果して能く内応の功を奏するや否甚た覚束なく被考候。
萬一我より改革案提出の際、彼は清使の後援を頼み拒絶して受けざるか、若くは陽に之に応じて其実行を躊躇するが如き場合ある時は、本官は條理の許す限りは手荒き手段を用ゆるとも必行に至らせ申度考に有之候間、左様御承知相成度候。
この前から内々に改革派をも教唆して、日本が外から改革を迫ると同時に、内から改革を促させる手筈をとっておいた、と。
しかし、前述のとおり改革派の勢力は非常に小さいので、彼らが果たして上手く内応できるかは、非常に覚束ないだろう、と。
10数人じゃあねぇ・・・。(笑)

で、万一我々から改革案を提出した際に、朝鮮側で袁世凱の後援を頼んで拒絶して受けないか、又は表向きはこれに応じて置きながら、実際は実行を躊躇するような事があれば、大鳥は道理の許す限り手荒い手段を用いても必ず実行させたいと思うので、ヨロ。

つうか、6月4日のエントリーの閣議決定に基づく内政改革の要求内容は、大鳥にはまだ全く伝わってませんし、何をそこまでの気合いでやるつもりなのか、と。(笑)

将又、清国政府の挙動は或は硬、或軟、甚だ曖昧にして判然致し不申、去22日出発の清兵500名程は、同24日牙山に到着致候得共、右は補充の為め派送せられたる趣きにて、其余の兵隊は出発準備の報告に接したる迄にて、未だ渡韓の実否相分り不申、又同国兵入京の説も全く相止み申候。
左れば、清国政府は我と干戈相見るの非策なるを悟り、平和手段を以て両兵撤退の功を奏せんと盡力致居るにあらざるかと被推測候。
一方で、清国政府の挙動は硬軟も非常に曖昧で判然とせず、6月22日に出発した清国兵500名ほどは24日に牙山に到着したけど、これは補充のために派送されたようで、残りの兵は出発準備の報告があっただけで、未だに渡韓したかどうかは分からず、清国兵入京の説も全く途絶えた、と。

日本以上に、現地の袁世凱・葉志超と天津の李鴻章、北京政府の三者間で温度差がありそうですからねぇ。
曖昧で判然としないのも当然かと。

であれば、清国政府は日本と戦争する事が得策ではないと悟り、平和的手段によって日清両国の撤兵を成功させようと尽力しているのではないかと推測する、と。
李鴻章は腹固めたらしいけど、「清国政府」としてはどうなのかなぁ・・・。
イギリスとかが止めろって言わなきゃ、そのままゴーサイン出してたんだろうか?

尤も、去る23日及び25日の両日に、袁世凱より別紙乙・丙号の如き書面を送り、「目下全羅道に於ける民乱は既に平定したりと報告すれども、巨魁及余党の行衛詳ならざる程なれば、未だ充分に平定したる者と見做し難し。右は、他国の為め兵を駐むる口実を与ふるものに付、清韓共に兵を派して剿討の実功を奏す可し」 と相迫り候処、朝鮮政府にては其返答に当惑し、只泣き付くが如く、切りに袁氏に向て出兵中止の事を依頼致居るやに及漏聞候。
で、6月23日と25日に袁世凱から別紙乙・丙のような書面を送られた。
アジ歴には、乙と丙が無いっぽいんですが・・・。

内容的には、現在全羅道の民乱は既に平定したと報告してるけど、首領や残党の行方も詳しく分かってない程で、まだ充分平定したものとは見なせない。
これは他国に兵を駐屯させる口実を与えるもののため、清韓ともに兵を派遣し、剿討の実効を挙げよう、と。

これを見る限り、別紙乙・丙号って、3月14日のエントリーあたりでやった話かな?

で、これを迫られた朝鮮政府はその返答に困り、ただ泣きつくように袁世凱に仕切りに出兵中止をお願いしていると聞き及んでる、と。
「ケンチャナヨでやらせてくれよぉ」みたいな。(笑)
そんなんだから「停滞」とか言わるんですが。

前陳の通り、日清両国兵は各々20余里を隔てたる遠地に駐屯し、而して其目的も一ならざれば、幾日を経過すとも両兵相衝突す可き機会無之。
然るに、我兵は追々増加して彼に2、3倍したれば、我利は速戦に在る事勿論なるのみならず、内治改革の目的を達するに於ても亦速戦を利益とす可きに付、去26日第11号を以て其趣電稟に及びたる次第に有之候。
然処、本日加藤書記官来着、貴大臣閣下の御趣意も充分致了解候に付、前緖を追ひ、問題を独立属邦と内政改革の2種に区別し、左の順序に従て之を決行可致と存候。
前述のとおり、日清両国兵はそれぞれ20里余りを隔てた遠地に駐屯し、その目的も別々なので、何日経過しても両国が衝突する機会は無いだろう。
しかし、日本は徐々に兵力を増加して清国の2~3倍居り、日本の利は速戦にあるのは勿論なだけでなく、内政改革を達成するという面でも速戦が利益となるだろうから、6月26日に第11号で電稟した次第だ、と。

この第11号ってのは、5月30日のエントリーの1894年(明治27年)6月26日発『電受第317号』のことですね。
つうか、加藤書記官到着前から公使館側もやる気満々なわけね・・・。(笑)

で、そんな処に加藤書記官が到着。
陸奥の趣意も充分に了解したので、経緯を踏まえて問題を独立属邦と内政改革の二種類に区別し、以下の順序に従って決行したいと思う、と。


ってところで、少し早めですが、区切りの良いところで今日はここまで。



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日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(三十二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(三十三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(三十四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(三十五)
日清戦争開戦まで(六)     日清戦争開戦まで(三十六)
日清戦争開戦まで(七)     日清戦争開戦まで(三十七)
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