前回は、あまり面白い史料じゃなかったなぁ。
まぁ、仁川に続いて上海の中立港問題が出てきて、それなりに国外事情も動いては来てるんですがね。
つまらんもんはつまらん。(笑)

さて、今日はまず、アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/2 明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日(レファレンスコード:B03030206200)』の23画像目から見ていきましょうかね。
北京の小村寿太郎から陸奥宗光への、1894年(明治27年)6月28日付『機密第27号信』より。

朝鮮に対し日清協同の義にて清政府は汪公使を経て我政府に答復済否通知方催促に関する総署との往復啓文寫相添申進の件

本件に関し、去る21日附機密第25号信に相添差出の辛号対話筆記にて御承知可有之候通り、清国政府より在東京汪公使を経て、最早我政府に答復の済否は李鴻章に電詢し、電復次第早速通知可致旨、総署大臣申聞以後、爾来2日何等申越無之候間、去る22日別紙甲号寫の通り啓文を以て催促申遣候処、其翌々24日該大臣より乙号の通り、該公使に於ては已に外務省に面復せりとの旨李氏より電復到来との趣回答申越候に付、為念此往復啓文寫差出候。
右申進候也。
小村から陸奥への、1894年(明治27年)6月21日付『機密第25号信』の辛号については、3月3日のエントリーでやりました。

その中で、李鴻章経由で汪公使に返事する事になり、小村が李鴻章から回答きたら書面で通知してねと言っていたのに対し、回答が来次第通知するねという返事だったわけですが、それから2日経っても音沙汰無し。

ってことで、6月22日に別紙甲号のとおり催促したら、24日になって乙号のとおり汪公使は既に外務省に行ったという回答が来た。
で、念のため送る、と。

結局、3月6日のエントリーでの6月22日付の日本の提案に対する拒否回答の話ですね。

一応別紙の甲号と乙号も見ておくことにします。
24画像目の甲号寫と25画像目の乙号寫より。

甲號寫

王爺 中堂大人 台啓

逕啓者本月十六日外務大臣所提之件本署大臣前於二十日前往
貴署面詢
貴国
政府是否由汪大臣答復我
政府
貴大臣曽云已達北洋大臣転電汪大臣仍応電詢北洋遅復到時即行函知等語現逾両日想該大臣電復已到矣務希
見復為盼耑此順頌
時祉

名另具 六月二十二日
小村壽太郎


乙號寫

小村大人 台啓

逕復者本月十九日接准
来函以
貴署大臣来署面談之件北洋大臣如已復到即祈函知等因査此件前経本衙門電知北洋大臣転詢出使汪大臣去後茲准電復
貴国外務大臣所擬三端汪大臣已向
貴国外務署面復等語相応函復
貴署大臣査照可也此頌
日祉
名另具 五月二十一日
福錕 孫毓汶 崇禮 徐用儀 張蔭桓
簡単に言うと、返事マダァー?(・∀・ )っ/凵⌒☆ チンチン
もう陸奥に会ったってー、と。

続いては、アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/3 明治27年6月28日から明治27年7月15日(レファレンスコード:B03030206300)』から。
5画像目。
再び小村から陸奥へのもので、今度はロシアの動きに関して。
1894年(明治27年)6月28日付『機密第28号信』より。

暗号電信解訳寫差出並に露政府申入云々に関し申進の件

去る25日以来、暗号電信都合4通別紙解訳の通り発着候間、如例此寫差出候。
就中、丁号電文中露政府の申入は北京政府よりしたるものに非ず。
天津に於て、李鴻章と露国特命全権公使カウント・カシニー氏と面晤の結果と信ずる旨申進の次第は、露国代理公使ウエバーは過日当地に到着以後、就任披露等の為めならん歟、一■度程しか総理衙門に不■■。
然るに、露公使カシニー氏は去る17日当地発足、天津経過芝罘にて、来る30日解纜の肥後丸便にて本邦経過帰国の筈に最初取極の処、今日迄天津に滞在且つ在天津独逸領事セッケンドルフ氏よりの報告なりとて、当地同国特命全権公使バロン・ホン・シェンク氏の内話に承はり候得ば、李鴻章は露公使を招待し盛んなる宴席上、同公使を称揚の演説を為したる由。
抑も、李鴻章に於て帰去来の各国公使を饗応し、それ相応の世辞を申述るは其常とは乍申、それにしても同公使の隨行員パブロー氏は爾来度々李氏の官邸に出入するとの由なるは何故歟。
又露公使は実際病気なるにも拘はらず、途中天津に滞在■在候義は、是亦何故歟。
去る22日、或る席に於て仏国特命全権公使ヂェラルド並に露国代理公使ウエバー氏は本官に向ひ、近頃英公使オコノル氏は度々総理衙門に出向の様子に有之、定めて何等御聞込の事あるべしと密々問ひ起し候に付、何にも無之旨相答候処、能々御探訪可有之との由申聞に付、委細承知せり。
尚御聞込の義も候はば、御通知有之度と申聞、それよりウエバー氏は他坐に去らんとせし際、ヂェラルド氏はウエバー氏に向ひ在天津貴公使に御発信の節は宜敷との一言を申聞候模様にて、カシニー氏よりウエバー氏に何等返信無之、ヂェラルド氏と共に本官に由て英公使の動声を探らんとしたるには無之歟と推察被致。
彼此参照の上、本官は前述の通り露政府の申入は李氏と露公使と面晤の結果と信じたる次第に候。
右申進候也
2月19日のエントリーから帰る話が出てたのに、結局カシニーは天津に滞在し続けてたようで。
まぁ、情勢的にかなり微妙な時期ではあるんですが。

で、ドイツの特命全権公使のシェンクが言うには、李鴻章はカシニーを招待して盛大な宴会を開き、その席上でカシニーを褒め称える演説をしたらしい。
まぁ、李鴻章が帰任・来任する公使を接待して世辞を言うのはいつもの事だけど、それにしてもカシニーに同行してるパブロー(パブロフ?)がそれ以降たびたび李鴻章の官邸に出入りしているのは何故か。
また、カシニーは実際病気なのに天津に滞在してるのは何故か、と。

6月22日にフランス特命全権公使のジェラルドとロシア代理公使のウェベルが小村んとこに色々言ってきたけど、要するにウェベルはジェラルドと一緒に小村からイギリス公使オコーノルの動静を探らせようとしたのではないかと推察する。

で、色々見ると、小村はロシア政府の申し入れは李鴻章とカシニーの面会の結果じゃないかと思う、と。

要するに、ヒトロヴォが仲介斡旋に来たのは、政府としての清国による申し入れではなく、李鴻章が単独でカシニーと決めた話じゃないかって事かな?
で、それに関してイギリス公使や清国政府に動きが無いか、ウェベルが探り入れに来た、みたいな。

で、別紙について。
10画像目の別紙甲号は、5月12日のエントリーで見た、1894年(明治27年)6月25日発『電受第311号』。
9→8画像目の別紙乙号が5月26日のエントリーの1894年(明治27年)6月26日発『電送第247号、電送第248号』。
7画像目の丙号が6月2日のエントリーの1894年(明治27年)6月27日発『電送第257号』。
同じく7画像目の丁号が、7月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月28日付『電受第321号』となっていますので、改めては取り上げません。


ってことで、今日はここまで。



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