さて、今日は前置き無しで。
『駐韓日本公使館記録2』から。

5月28日のエントリーで大鳥から袁世凱への、「これ牙山でお前んとこの聶が出した布告だって言うんだけど、マジ?」という質問に対して、6月11 日のエントリーで「良く分かんねーから聶に聞いてみる」という袁世凱の返事が出されてましたが、その関係。
1894年(明治27年)6月28日付の文書より。

逕啓者日前貴国統領聶軍門在牙山地方貼出告示是否真偽照請明示当承覆称先行査詢前途俟准覆文再行照知等因在案准査此事関係緊要即希務速査覆是所盼禱耑此泐佈順頌
日祉
この前の聶の布告の真偽照会に対して、調査して知らせるって返事きたけど、これ緊要な話なんでなるべく早く調査・回答してよね、と。
回答の督促ですね。

で、同日1894年(明治27年)6月28日の袁世凱の回答から。

逕復者頃奉来書以催査聶軍門告示真偽事希速査覆等因准此査該項告示昨己具文抄録専人送往索覆俟接覆文当即布達可也特此奉覆即頌
勳祺
その件はさぁ、昨日確認の文書送ったから、その返事待ってよ、と。
そば屋の「今出ました」じゃないだろうな。(笑)

さて、次からはようやくというか何というか、6月29日の史料に入って行きます。
アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/1 甲午〔明治27年〕5月初9日から明治27年7月9日(レファレンスコード:B03030206100)』の31画像目。
大鳥から陸奥への、1894年(明治27年)6月29日付『機密第112号』。

先般来、当国政府より我護衛兵入京拒絶の義に関し、種々故障申越候に付一々辨駁致置候趣は、曩に本月13日附機密第92本59号を以て及具報置候処、爾後引続き別紙之通り往復を重ね候末、我に於て取合はざるを以て、其後は遂に何等申越さざる事と相成候。
依て、別紙往復寫16通相添此段及稟報候也。
あれ?
1894年(明治27年)6月13日付の『機密第92号』ってやってないぞ?(笑)
ってことで、先にそっちを。
アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/4 明治27年6月9日から〔明治27年6月21日〕(レファレンスコード:B03030205000)』の49画像目。
1894年(明治27年)6月13日付『機密第92号』。

公使館護衛兵上陸進京之儀に付統署督辨と往復の件

公使館護衛兵派遣之儀、朝鮮政府へ通知したる顛末機密第83号信を以て杉村臨時代理公使より及上申候処、本官入京の前日(6月9日)同代理公使より本官護衛水師兵300名隨帯入京の儀、外務督辨へ別紙甲号の通り及御通知候処、同夜督辨より兵員入京差止め方に付同乙号之通り回答旁請求有之候に付、再び右に対し翌10日杉村代理公使より同丙号之通り来意に応じ兼候旨相断り申候。
然るに、其日又同件に付別紙丁号の通り改めて督辨より照会有之候に付、同戊号之通り杉村臨時代理公使より彼の請求に応じ難き旨照覆に及候趣に有之候。
依て、右往復文寫5通相添此段及上申候也。
機密第83号は、昨年の2月24日のエントリーから26日のエントリーで取り上げたヤツ。
で、50画像目の別紙甲号が、同じく昨年の2月24日のエントリーで取り上げた1894年(明治27年)6月9日付『第43号』。
51画像目の乙号も昨年の2月24日のエントリーの1894年(明治27年)6月9日付文書。
52画像目の丙号が昨年の3月2日のエントリーの1894年(明治27年)6月10日付『第44号』。
53画像目の丁号も同じく昨年の3月2日のエントリーの1894年(明治27年)6月10日付『照会第10号』。
54画像目も同昨年の3月2日のエントリーの1894年(明治27年)6月10日付『第45号』ですね。
要するに、日本の護衛兵入京差し止めの話。

で、本題の『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/1 甲午〔明治27年〕5月初9日から明治27年7月9日(レファレンスコード:B03030206100)』の1894年(明治27年)6月29日付『機密第112号』に戻って、朝鮮政府による日本の護衛兵入京差し止めの件について、一々弁駁しておいたのは機密第92号で報告しておいたけど、その後別紙のとおり書翰の往復を重ねた末、日本が取り合わないので終に何も言ってこなくなった、と。(笑)

で、それに付属してる別紙が16通・・・。

まずは、これまたまだ取り上げてなかった、32画像目。
6月12日付『第47号』。

敬啓者刻接仁川来電悉於本日下午四點鍾我国陸兵約八百名到仁当夕起程可於明日進京拱衛我使館矣所有在京海兵須待該陸兵進京応行交代回仁帰艦也爲将函達
貴督辨照諒可也耑此泐佈順候
晩安
今日の午後4時に陸兵800人が仁川に到着し、夕方仁川を出発して明日京城入りし、海兵と交代するそうなんで、ヨロ、と。
んで、これへの回答が33画像目。

敬復者刻奉
来函為本日下午四點鍾貴国陸兵八百名到仁当夕起程可於明日進京拱衛貴使館所有在京海兵須待陸兵進京応行交代回仁帰艦一事本督辨閲悉之下殊甚訝惑査現在南匪已平完城克復等由業經函明早已
亮悉惟漢京原無険慮因前次貴兵無故調来反致騷然政宜立施撤還籍資釋疑方稱
貴公使処事公允亦属本督辨之所厚望也何以次此又添多兵陸続進京以致都下人民転益驚疑此本督辨之尤未可解尚望
貴公使更加三思先飭在館海兵亟行撤回并将抵仁陸兵勿令前進以安人心而敦友睦至所盻禱耑此佈復順頌
夜安
書翰読んだけどさぁ、何で東学党の乱は平定して京城にも危険は無いって言って、日本兵が理由も無く入ってきたら騒擾が起きるから撤兵しろって言ったじゃんか。
それなのに、今度また多くの兵を京城に進めて都下の人民を驚かすって何でよ?
ウリには理解出来ないニダ。
だから、先に公使館に入った海兵も撤兵させて、同時に仁川に到着した兵も入京しないようにして、人心を安定させてくれよ、と。

で、34画像目は昨年の3月24日のエントリーでやった1894年(明治27年)6月13日付『第48号』。
35画像目が昨年の3月12日のエントリーで見た1894年(明治27年)6月12日付『照会第12号』。
36画像目が昨年の3月24日のエントリーの1894年(明治27年)6月13日付『照会第13号』。
37画像目が、昨年の4月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月15日付『第49号』。
38画像目は同じく昨年の4月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月16日付け書簡。
39画像目が昨年の4月19日のエントリーの1894年(明治27年)6月17日付『第50号』。
40画像目から今年のエントリーに入って、2月11日のエントリーでの1894年(明治27年)6月17日『第14号』。
41画像目は2月12日のエントリーの1894年(明治27年)6月18日付『第51号』。
42画像目は2月14日のエントリーの1894年(明治27年)6月18日文書。
43画像目は2月13日のエントリーの1894年(明治27年)6月18日付『第15号』。
44画像目が2月18日のエントリーの1894年(明治27年)6月19日付『第52号』。
45画像目が2月20日のエントリーの1894年(明治27年)6月20日付文書。
46画像目が3月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月22日付『第54号』。
47画像目が3月17日のエントリーの1894年(明治27年)6月23日書簡。
以上16通、と。

結構マメに取り上げてんなぁ・・・。
まぁ、その分話が進まないわけですが。(笑)


ってことで、今日はここまで。



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