さて、1回お休みを挟みましたが、即再開。
もっと休みたひ・・・。(笑)

さて、前回前々回では、笑える閔泳駿&袁世凱コンビを見てきました。
朝鮮が絡むと、本当にホッとします。(笑)
今日はアジア歴史資料センターの史料から。
『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/4 明治27年6月9日から〔明治27年6月21日〕(レファレンスコード:B03030205000)』の33画像目。
陸奥から小村への、1894年(明治27年)6月20日発『電送第225号』より。

Komura,
Peking.

Received your telegram of 六月十九日.
See 総理衙門 王大臣 again and insist upon their forwarding answer through proper diplomatic channel 在日本清国公使 as requested.
Any conversation between 李鴻章 and 在天津領事 cannot be regarded as such.

Mutsu
6月19日の電信は受け取った、と。
これは、2月19日のエントリーでやった、1894年(明治27年)6月19日発『電受第268号』の事でしょうね。

で、総理衙門王大臣に再び会って、要請どおり正式な外交ルートである在日本清国公使を通じて回答を送るよう、強く要求すること。
李鴻章と在天津領事の間のいかなる会話も、正式な外交ルートとみなす事はできない、と。
国家として回答よこせやゴルァ!って事でしょうね。

続いては、同じく34画像目→33画像目。
陸奥から大鳥への、1894年(明治27年)6月20日発『電送第227号』から。

Otori,
Seoul.

4. Received your telegram of 六月十八日 which I presume was sent before you had seen my telegrams regarding my proposals to China.
I believe you would think differently after you have seen the above telegrams.
From telegram of 在北京臨時代理公使 it appears that Chinese Government would reject our proposal.
In that case we may be constrained to take a single handed measure.
I had an interview with 在日本清公使.
He said under instructions of Chinese Government firstly that 東学党 has been suppressed there is no necessity for first clause of my proposal to conjointly put down the rebels etc.
I answered that I construe that as willingness of Chinese Government to act conjointly with Japan in case there existed any revolt at any time.
Secondly he said that Coreans are alarmed and fly away because of large number of Japanese troops and requested that troops may be withdrawn leaving small number in order to remove the alarm and that if Japanese troops be not so withdrawn, additional Chinese troops will be sent for protection of Chinese.
I answered that I heard of it for the first time, that I firmly believed that Japanese troops being under strict discipline there is no apprehension that they would frighten the people; I am going to tell Chinese Minister that after investigation your report is to the contrary.
Bear this in mind in case of conversation with 袁世凱 etc.
清国に対する提案についての私の電文を読む前に送られたと思われる、6月18日の貴下の電文を受け取った、と。
my telegrams regarding my proposals to China.」は、4月15日のエントリーの1894年(明治27年)6月16日付『電送第205号』や、2月12日のエントリーでの1894年(明治27年)6月18日付『電送第218号』の事でしょう。
で、「your telegram of 六月十八日」は、2月13日のエントリーで見た1894年(明治27年)6月18日発『電受第266号』の事でしょうね。

で、「my telegrams regarding my proposals to China」を見れば、貴下の考えは変わると思う。
北京の小村臨時代理公使の電文によれば、清国政府は我々の提案を拒否するようだ。
その場合、我々はやむを得ず単独での措置をとらざるを得ない。

私は、在日本清国公使と会談した。
彼は、清国政府の命令により、第一に東学党は鎮圧されたので、共同して反逆者を鎮圧するという私の提案の第一項の必要性は無いと言った。
私は、いついかなる反乱でも存在した場合には、清国政府が日本と共同して行動する意欲があると解釈すると答えた、かな?
自信ナッシング。(笑)

第二に、朝鮮人は多数の日本軍に恐れて逃げ出しており、恐怖を取り除くために少数の兵を残して撤兵するよう要求した。
もし日本が撤兵しないなら、清国人保護のため追加の清国兵が送られると言った、と。

んー、内政改革の話が出てないところをみると、李鴻章が2月18日のエントリーで、汪鳳藻から聞いてないから知らんって言ったのは本当かもねぇ。

つうか、東学党の乱の鎮圧依頼を受けてるだけの清国が、朝鮮人の恐怖を取り除くために日本に撤兵要求って、何の権限で?
天津条約に基づき双方撤兵で良いジャン。
それ以前に、何から清国人を保護するので?
これ、最後通牒ですか?(笑)


まぁ、詳細はまだ分かりませんし、そもそもそこつっこんじゃうと交渉終了ですし。(笑)

ってことで、とりあえず陸奥は、それは初耳であり、日本軍は厳格な規律の下にあり、民衆を怖がらせる不安は全く無いと堅く信じると答えた。
私は、調査後の貴下の報告は正反対だと清国公使に述べるつもりだ。
袁世凱等と会談する場合それを念頭に置くこと、と。

朝鮮人民が日本軍の到来で恐怖している話は、朝鮮側から何度かありましたが、2月12日のエントリーで、お前ぇらに危害加えるわけじゃないんだから、お前ぇらで何とかしろや、程度の回答は既にしているわけで、その後の大鳥の調査による報告とは正反対だと言うのも、厳しい気がします。(笑)

さて、今日最後の史料は、『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/5 明治27年6月8日から明治27年6月24日(レファレンスコード:B03030205100)』から。
11画像目。
仁川の能勢領事から陸奥への、1894年(明治27年)6月20日発『電受第275号』より。

Mutsu,
Tokio.

3,000 Japanese soldiers arrived safely 六月十五日 in stormy weather and are staying at 仁川.
General 大島 alone will leave for 京城 六月十八日.
Chinese soldiers still are stationed at 牙山.

Nosse

(欄外)
本電は、遅くも6月17日頃に起草したる文意也。
而して現書には実際6月20日後10時に仁川電信局を発し居れり。
甚可■。
3,000人の日本兵が荒天の中6月15日に無事到着し、仁川に駐留している。
大島少将一人が6月18日に京城に着くだろう。
清国兵は、まだ牙山に駐留している、と。

まぁ、2月14日のエントリーでは、「我護衛兵入京候義は、過般電信を以て御報及置候後、去15日大島旅団長は軍隊3大隊を率ひ仁川着。昨18日を以て同旅団長以下2、3将校入京相成候。」でしたから、一人で入京というわけではなさそうですが。
つうか、その2月14日のエントリーで、同じく能勢領事から18日着の600人の兵士の話が出てるわけで、何で15日着の3,000人の話が20日発になったのか、確かに不思議~。


ってところで、今日はここまで。



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