前回から、高島留学生からの報告をメインとした報告が続いていますが、高島くん言葉足りなすぎ。
解釈に困るほど少ないわけでは無いんですが、味気は無いなぁ。(笑)

ってことで、今日もさっさと『駐韓日本公使館記録3』から1894年(明治27年)6月22日付『発第83号』を見ていきます。

5) 刑曹参議李南珪上疏
同氏は全羅道民擾に関し、政府の時弊を枚挙して痛く之れを排撃し、又其文中日本兵の滞京を非難する一節あり。
左に抜載す。

抑臣所欲言有急乎此者今日本人卒兵入都門外署(統理交渉通商事務衙門を云ふ)之臣力止而不能臣未知其意之何居而其兵之何名也若曰救恤隣国則我未嘗求援矣若曰防衛商民則我保其無虞矣不求援而猶曰救恤是矯情也保無虞而猶曰防衛是疑義也由前則非義也由後則非信以此責彼有何説之辞交隣之道惟義與信二者不立而能保交好臣未之聞也春秋之盟先言無保好毋留慝次言救患恤乱其緩急之勢固較然矣甲申之変凶逆之逋逃者彼為之藪是保是留顕為邪翼之沿春秋之盟則己偸矣今以救恤為名固己失緩急之勢矣況非救非恤名之以防衛而又無可防之虞乎設若真有可防之虞我当依約防護而彼乃紛々動大衆渉吾境不問禁而入吾国都門騷然不少惟使吾民益騷攘以訛何哉臣恐其中有詐而謂我無人也我国雖少曾無尺寸之兵刃以千里畏人心覤低首一聴其進退莫之敢誰何何哉都城之内許彼開餔識者猶恥之況可許其駐兵而莫之禁乎外署之臣責以義布以誠信彼未必不退若曰非理義誠信所可動是敵也非隣也與敵爲隣内懐疑志外示覇縻而卒無事者未之有也議者必以臣言為不度時宜不量事勢妄談大事以招隣嘖此苟且姑息之説夫国之為国以其有国体也国体不尊中於時議合於事勢非臣攸聞也昔徐盛以片言折魏使之恁胡銓以一紙却虜師之強二子豈不誠度時宜而量事勢妄談大事以招隣嘖哉徒以区々咫尺之義謂図可之国体不可不尊也且国体不尊国雖欲無亡不可得也臣不死於甲申之辱而有愧於二子者多矣今因此言而彼若有嘖願執臣身以謝彼使臣請以頸血濺之而得以従二子於地下雖死亦栄矣始我之求救中国非計之善也演池小盗一縣吏一方伯可能制之涓々炎々醸成巨寇至使招討使巡辺使相継出師殆所謂千斤之弩為鼷鼠而発也此己不可使聞於隣国而又苦能料我而以順討逆理無不克遽示内弱汲々求救卒不藉其力而我己剿捕徒費供億之労輸輓人必以我為惴劫安知日本人不因此而窺我之浅深以兵嘗試之耶我業與彼和今不可遽爾力拒惟以理義誠信悟之如是而不悟是終慢我也我亦宜繕用治兵以待之安有異国之兵在都城之内晏然不為之備乎云々

右の建白書は、6月15日国王殿下に捧呈せられたるも、未だ何等の勅答なしと云ふ。
李南珪が東学党の乱に関して、政府の弊政を枚挙して批難し、その文中に日本兵の京城滞在を非難する一節があったので抜粋、と。
この李南珪、後に中枢院議官になります

で、その抜粋部分は、日本が兵を率いて入城するのを、統理交渉通商事務衙門は止められなかった。
日本の意図がどこにあり、何の名分があるのか分からない。
隣国を救恤するというが、我々は助けを求めた事がないし、商民を防衛するというが、我々が心配なく保護する。
助けを求めた事がないのに救恤すると言えば矯情であり、心配なく保護するのに防衛すると言えば疑義である。
前者は義ではなく、後者は信ではない・・・って全部やるの大変だなぁ。(笑)

超簡単にしちゃうと、日本の行動は普遍的良心をわきまえていない。
確かに清国に救いを求めたのは良策ではなかったけど、もう平和になったので、普遍的良心に訴え、それでも受け入れられなければ兵を備えて待つべきだって事で。(笑)

で、この建白書は6月15日に高宗に捧呈されたけど、まだ何の勅答も無いという、と。
まぁ、日本兵の滞在批難だけなら兎も角、東学党の乱に関連して政治批難までしちゃってるなら、閔泳駿辺りに握りつぶされててもおかしくないと思うけど。

んじゃ、続き。

6) 左の探報は宮中より出でたるものなりとて入手致したるも、全く信憑し難き節も少なからず。
只参考まで掲載致置候。

過般来東学党の勢益々猖獗に至るや、袁世凱氏は恵堂に見へ辞を極めて其心を動かし、且つ恐懼を起さしめ、而後謂て曰く、若し清国の兵一隊を出さば此等の土匪は苦もなく討平すべし。
何ぞ我後援を求めざるやと。
恵堂は先づ其専断する能はざる旨を答へ置き、而して之を国王に奏せしかば、求援の事時相(領議政及左右議政)に相議せざるべからずとの勅意あり。
此時恰かも趙秉世(左議政)のみ出仕し居られたるに因り即ち此意を伝へ、援兵を清国に請ふべしとの義は袁世凱発議通りに取計ふべしと決定し、即時上海を経て北京政府に発電したる処、清帝は時を移さず兵を朝鮮に派遣し、且つ袁氏を以て右翼の大将たらしむべしとの命ありたり。
此時に際し、恰かも閔泳翊より暗電到来せしかば、之を解読するに云く、袁世凱は久しく我国に在りて細かに国情を探り、一に之を政府に報道し、且つ朝鮮が官を売り爵を鬻き生民塗炭に苦む等の事より其他十余條の失政を挙て奏聞せり。
此に於て清帝嚇然大怒に至り、護国大臣を派して朝鮮の大小政務を監督せしめられんとせしも、困難の事情ありて遂に其儘停止せり。
然るに、今般の事に付袁氏は又民心大に変じ、国必らず支へ難からん。
已むを得すんば、朝鮮を討滅して中国に属せしむる為め、一刺使を派出して之を鎮定すべし。
因て急に重兵を発して意外の変を杜かれたし云々との事を稟報したり。
故に、今般清国が兵を朝鮮に出すは、表面救助の為めなりと称するも、其実我に不利にして禍乱測るべからざるものあらん。
至急準備ありたし云々とありしかば、国王及王妃には驚駭色を失はせられ、更に好案もなき析柄、幸にして日本より兵を送り来り神速都城に入り、且つ各要害を拠守し沿路兵を屯して守禦するを以て、袁氏は事の意外に出て其志を達すること得ざる為め、大に憤激して戦端を開かん事を期するも、各国公使強て之を止め、遂に其志を逞ふする事能はざるに至れり云々。
(以下は批評に属するに付削除すべきや)
要するに、今日我国の禍害消滅せしは専ぱら日本兵入城の力に由れるなり。
然りと雖ども、目前の禍を解きたるのみにして永久安堵の策を得難きは嘆ずべし。
報告する側で、信じられない部分も多いけど参考までに掲載しとくと言うだけあって、嘘臭さ満載。(笑)
特に、閔泳翊の暗号電文の辺り。
朝鮮で売官鬻売が横行して民が塗炭の苦しみに喘いでいるからって、清国皇帝が激怒する筈もなく。
増して、日本が来たおかげで難を逃れたなら、帰れという筈もなく。(笑)
個人的には、日本のバックアップを期待している開化派による創作の線が強いと思うんですが、さて。

7) 在牙山支那兵に関する探偵
18日午後7時牙山着。
支那兵牙山・白石浦に宿す。
総数1,500計ならん。
牙山には宿屋と幕営とに住む。
白石浦には宿屋に住む。
牙山には駄馬数百頭、白石浦には弾薬粮米沢山あり。
牙山と天安の間逓伝を設け電報を送る。
牙山には本営より葉・聶の二将、今有無は明ならず。
近傍の村には二将の徳を頌する為め木碑を設く。
兵卒の種類は明ならず。
但し、水兵も上陸しあり。
牙山・白石浦の兵は今他に行く景況なし。
東学党の鎮静を待ち帰するならん。
風説に拠れば、陰暦20日(我23日)には帰るとの事。
併し、白石浦附近には未だ出航の準備なし。
牙山の沖には支那軍艦あり。

風説
支那兵は20日に出発す。
公州には支那兵あり。
支那兵天安に行きしが、其翌日直ちに牙山に帰へり。
東学党は幾んと解散せり。

一般の状態
土人は至て静粛。
変乱なきが如く。
支那兵及び東学党の事は念頭に掛けざるものの如し。
米の値段は平生に同じ。
土人の無頓着と不断雨風の為め、視察甚だ困難なり。
牙山附近10里以内には馬壹匹も居らず。
清国兵は牙山と白石浦に合計1,500人。
つうか、「近傍の村には二将の徳を頌する為め木碑を設く」ってなぁ・・・。(笑)
まぁ、実際東学党が解散状態になったのは、清兵が来たからビビッたというのが大きいとは思いますがねぇ。

で、清国兵は今のところ他の場所に行く気配なし。
東学党の鎮静を待って帰るんだろう、と。
6月23日には帰るという噂が出ているものの、牙山沖には清国軍艦がいるけど、白石浦附近では出航の準備はしていない、と。

で、噂として清国兵は20日に出発。
公州に清国兵がいる。
清国兵は天安に行ったけど、翌日すぐに牙山に帰ってきた。
東学党はほとんど解散した、と。

一般の状態としては、現地住民は至って静粛であり、清国兵や東学党の事は念頭に置いていない様に見える。
米の値段は普段と変わらない。
現地住民の無頓着と絶え間ない風雨のため視察困難。
牙山10里以内には馬一匹いない、と。

長い割にあまり中身が無ぇ。(笑)


『発第83号』はもう少し続きますが、今日はここまで。



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