仏教関係の人間が多く集まる
【悟りを開いたけど何か質問ある】スレッドで
興味深い討論をしている方々が居ました。
二人とも一般の思考よりも
見えているものが多いのだと思いますし
他の人を導く事ができるような
そんな意識を持った方々だと思いますが
議論を繰り返していました。
そしてその片方の方は限りなく私達覚醒者と同様な
意識を持っている方のようでした。
その方々のやり取りから興味深い内容を引用し、
独断と偏見でその中で気になる引用に
コメントをつけて見たいと思います。
キリスト教関係のスレッドでは
どうしても外に信仰を求めがちな人の記述が多く
仏教関係のスレッドでは理屈づくめであったり
真の自我に気がついていない方のコメントが多かったり
結果的には一部批判的なコメントもつけることになりますが
批判のつもりはなく、
それを通じて似たような意識の方に
深い理解を求めたいと考えています。
ただ、私はキリスト教徒に近い立場から
創造主の法へとアプローチしていますし、
その存在を認識していない仏教徒のほうは
創造主の法へと進むことにはハンデがあると思います。
その意味では仏教関係者のコメントには甘く、
クリスチャンへのコメントは厳しくなってしまっていますが
結局は両方が同じように
創造主の法へと導かれてほしいと言う気持ちで
触れているつもりです。
クリスチャンが仏教徒に学ぶべきは
進化の主体である自分の実態に興味を持ち、
心のエゴを抑える術と、自分を理解しようとするその姿ですし
仏教徒がクリスチャンから学ぶべきは
偉大なる創造主の意識を感じとることだと思います。
と言うことで素晴らしい討論に水を差すようで申し訳ありませんが
批判ではなくて深い覚醒のきっかけになればと思い
私達の学んでいる生命の科学を前提に少し触れてみます。
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26 :473:2012/09/19(水) 06:59:07.33 ID:
無意識状態というのは植物のような状態であり
白昼夢を見ているのに過ぎない。
酒で酔っ払っていいきもちになることとさして変わらない。
意識だけが思考の主人となることができる。
そして、自我はその無意識的な白昼夢に執着する。
意識的であったらその体験はおきないので
ある種無作為であるコツは必要だが、
その体験はその人が信じるところのものが起きる事になります。
通常の意識から覚醒するのではなく、無意識に落ちる事によって
一時的に葛藤を忘れ気持ちよくなるテクニックです。
確かに動物には不安はありませんから。
ですが、通常の意識に戻ると何も解決していない事に気づき、
ますます無意識の白昼夢に依存します。
そしてそれについての話は誘惑的です。
心をそらさせ、目覚めを失わせようとする。
全く先入観のないときにこそ覚醒はあり、
それは体験としてではなく不断に貫くような意識としてそこにあります。
誘惑的な印象であるか、
それとも述べられる事同士が微妙に打ち消しあい
ただただ目覚めが残るような詩であるか。
それは文章として全く違ったものでもあるし、
白昼夢を見ている人と
目覚めた人とが述べることの差異でも在ります。
ざっとした単語やロジックは同じなのですけどね。
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揚げ足を取る気は無いのですが誤解の無い様に付け足せば
まず植物と言うものは
この方が認識している無意識=自我を持ってはいない様です。
つまりは私達が心と呼んでいるものは
植物には存在してはいないと言うことです。
しかし植物に意識がないわけではありません。
私達も持っている魂=精神という意識を
植物は間違いなく持っています。
この精神だけに従って生きているのが植物で
つまりは植物は創造主の導きでのみ生きている事になります。
植物は”意識=魂”だけに導かれて生きている存在だと言うことです。
植物に意識があると言う例として挙げられるのが
例えばよい音楽を聞かせると成長が良いとか
語りかけると美しく花を咲かせる。
アダムスキーの理解者の中には、普段貧相だったりんごの木の花が
毎日話しかけてやることで大量にきれいな花を咲かせたと言う
体験談もありました。
私達には信じがたい話としては、アダムスキーが命じると
コスモスがそろってこちらに顔を向けたと言う話もありました。
全ては植物に意識が備わっている証拠として
私達は認識することができます。。
【無意識状態というのは植物のような状態であり
白昼夢を見ているのに過ぎない】
この方は無意識と言う言葉を
心のエゴに囚われた状態として使用しているのだと思います。
意識を魂の意志と捉え、無意識がエゴである心の意識と
認識していると思います。
後に
瞑想ー通常意識ー無意識
とされていますので、
もしかしたらこの方の言っている意識は
私達の理解している精神=魂とは
異なると認識しているのかもしれません。
いずれにしても生命の科学抜きで
自らここまで到達しているのですから
すごい魂を持っているのではないかと想像していました。
勿論、文字通りの”無意識”と言う状態は
恐らくは存在しないと言うのが
生命の科学を学んでいる私達の結論だと思います。
私達は意識を心へとつなぎ続けていますし
一方では魂の意識を感じてもいます。
魂を一切感じることができない状態で
尚且つ脳の思考を止めたときには
文字通りの無意識が実現されていることになるのでしょうか。
私達がよく”無意識”と言っているのは脳機能である心を
私達が意識していない状態のことだと思います。
私達にとっての悲劇は
意識の経路を心だけだと思っていること
そして時々は繋がる事のあるであろう、
魂と言う私達のもうひとつの経路の存在を
理解していないことでした。
私達が意識を失っていると言われる状態にあっても
私達は実は常に意識を感じていると言うのが
アダムスキーの説明でもありました。
寝ることで殆ど閉ざされる心の意識とは異なり、
魂の方は24時間一時も休むことなく私達に語りかけている。
そしてもしもこの魂と言う意識の経路が休んでいるのであれば
私達は肉体を維持して生と言われる状態を継続できないことになります。
魂は創造主の分身としての私達の意識であると同時に、
それは想念の元?となるエネルギーを
私達に絶えることなく供給している存在だからです。
私達は想う事無く生きては居れない存在だと
アダムスキーは言っていました。
私達に力を与えるのは食物によるエネルギーだけではなくて
魂から湧き上がっている想念も私達に自覚が無いだけで
同様に私達に力を与えているものだからです。
生体エネルギーの実態を私達は気がついていないだけです。
私達が心に囚われていないときに
頻繁に閃きや印象を受け止める機会があるのは、
常に存在している魂と言う意識の経路が、
心の停止により認識されやすい状態になるからでした。
大きな声で魂が呼びかけていても
それ以上に大きな声で心ががなりたてていれば
私達はそちらにばかり意識を向けることになります。
しかし実は常に二つの意識の経路が存在していることに気がつけば
私達は本来自分の意志で魂というもう一つの意識の経路を
認識し意識することができると言うことになります。
ただ、私達のその機能は退化しています。
だからこそ私達は悟りに関しても
心の機能にばかり着目して論争する事になるのです。
その理由として第一には
この社会では眼に見えるもの
物質と現象にとらわれているために
眼に見えないものは理解できなくなっていると言う
実態があるからでした。
三次元を認識する機能の代表が”視覚”で
それが司るものは眼であり視界です。
一方私達は四次元的反応、想念や創造主の意識含めて
それを認識する器官を本来は持っていて
それが私達の実態でもある魂でありその機能でした。
魂の機能は印象を受けること、閃きやイメージを感じることですが
私達はそんな機能を自分が持っていることを知らないために
例えそこから閃きや直感を受け止めることがあっても
それを自分の心の働きであると勘違いすることにもなります。
更に、私達が奇妙と認識する現象は
すべてが四次元と三次元の境と言える場所で起きています。
それを魂を通じて偶然認識しては、
その後三次元の器官を持ってそれを認識しなおそうとするから
私達はいつまでたっても
魂の実態と機能に気がつくことができないのです。
テレパシーや創造主の意識は
魂と言う器官を利用し無ければ認識できないからでした。
聴覚では味が認識できないように
味覚で音が認識できないように
視覚では印象や閃き、想念は認識できないのです。
【その体験はその人が信じるところのものが起きる事になります】
この方は別の意味でこの説明をしているのですが
丁度コメントしたいことに閃いたので触れてみます。
私達は自分の見たことのないものや
体験したことのないもの含めて
ありとあらゆる知識や知恵を魂から感じることになるはずです。
心と異なり魂の意識には限りはありません。
アカシックレコードと言われ
ユング・フロイトあたりが共通意識と呼んだものは
魂から創造主の意識を認識することで
受け止めることになるあらゆる記憶です。
すべての魂は創造主の分身なのですし
それが全て創造主の意識(残像思念)とつながっているのですから
つまりは全ての人間の意識は
つながっている事にもなります。
私達がテレパシーを理解できず使用できないがゆえに
その事を認識することができないだけで
勘の良い方同士が共通の意識を感じることは、
その多くはテレパシー
さらにはアカシックレコードという宇宙意識(創造主の記憶)
からのイメージによるものです。
ところで、以前から敬虔な仏教徒に質問してみたいと思っているのは、
”悟り”なるものを瞬間のイメージとして認識しているのか
それが経常的なものと認識しているのかと言うことです。
覚醒に関しては本来それは経常的なものであると
私達は認識しています。
ある時覚醒してある時は魂を感じることができないのは
私の場合は自分の不徳の致す所ですが
恐らくは覚醒者の多くはそれを継続的に意識しつつ
日々の生活を送っていると思います。
つまりは今まで意識できていなかった魂と言う経路を
どの程度認識できる状態にあるかで異なるのだと思いますが
ブラザーズなどは寝ている時も含めて
常に父と共にいると語っていましたし、
魂の進化の進んでいる人は
恐らくは常に魂を意識しては
心の書き換えを続けているのではないでしょうか。
それは正しくは”悟り”ではなくて
魂の覚醒なのだと思います。
心の動きを極限まで抑えることで
それまで感じることのなかった
もう一つの意識の経路をきっと感じることになるはずです。
閃きや印象やイメージを受け続けることでです。
そしてアダムスキーの話では
それが一定レベルまで高まると
私達は宇宙的覚醒を感じることになるようです。
新アダムスキー全集のタイトルにもある
”宇宙と一体化する”と言う体験がそれで、
キリスト教で”啓示”と言われているものは
究極にはその状態になることのようです。
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64 :塩と味噌:2012/09/19(水) 11:14:20.90 ID:
>>26
無作為というのは意識的でないということですよ。
ある意味、意識を保つことは大切です。 これがあるから忘我が訪れます。
ですから坐禅でも眼が開いてるか印をちゃんと結んでるか
口はちゃんと閉じてるかが見られます。
だからといって力んでもだめです。
リラックスしながらこの三点をキチッとする。そして不思量を思量する。
そうすることで意識中に意識を忘ずることができるからです。
動物は悟ってますよ。常に一行三昧です。
彼らは人間のように法理において悟ることはありません。
悟りという概念がないんですね。
人間だけが法理に於いても事実においても悟ることができるんです。
ちなみに動物にも不安はあります。
うちの一匹の犬は暗いところを歩くとつばがダラーーーっと垂れてきたり、
車に乗るとダラーーーっとつばが垂れてきます。
先生にお聞きしたら「それは緊張してるんですよ」と言われました。
大変分かり易い子です。
逆ですね。全て解決しています。
問題というのはたいていの場合、己がつくりだします。
あなたの場合、まず自我はないということを分からないと迷い込むだけですよ。
まず出発点として求心をやめないと始まりません。
求心は自我ありきなんですね。
向かわんと擬すれば即ち背くなんです。
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悟りと言うものは人間だけにあるもの。
これは間違いないと思います。
動物や植物は当初から魂の意識を自らの意識として
感じているからです。
つまり彼らは当初から覚醒しているのです。
元々が悟っていることになります。
私達は自分の本来の機能を失ってから長いために、
その機能を取り戻すことに時間と努力が必要となるのだと思います。
今まで使用してはいなかった機能を思い出せといわれても
使用方法も取り扱い方法もわかりません。
ろくに説明書も読まずに使い始めた機械に
「実はこんな機能が備わっていたのか」と
説明書を読んで気がついたのが私達なのです。
でもその機能は長い間使用していなかったためなのか
動作不良状態であるわけです。
落第生だらけの私達の社会の中では
ごくわずかな人間が覚醒を果たし卒業していくことになるようですが
その状態を仏教では悟りと呼んだのだと思います。
そしてこの方が触れているように
動物には心に近いものはあるそうなので、
恐怖や不安を感じることはもちろんあります。
ここで難しいのは”自我”なるものを
私達はどう捉えるかということです。
私達の元々の”実態”は創造主の意識の分身でもあり
残像思念の分身でもある魂なのですから
その大元を追求していけば全ての意識は
一つに集約されることになります。
つまり私達には自我はないのです。
あるのは全体意識ということにもなります。
しかし現実にはそうではなくて私達には自我があります。
他人と自分とを明確に区別できるその意識は
何よりも自我の現れといえるはずです。
そしてその要因として存在するのが
私達に与えられている”心”なる機能と”自由意志”の存在だと思います。
私達は誰もが他人と異なった環境に育ち
そのことで独自の体験をしては
心を持ってそれぞれの価値観を作り上げます。
もしも結果的に同じ事を学ぶ事になっても
そこにいたる経路は異なりますし体験も異なります。
そんな一人一人が異なった経験から異なった事を学び
おのおのの価値観を構築している事で、
そして私達がその独自の記憶を意識できる
心なるものを持っているからこそ
私達は他人と自分を区別することもできるのです。
もしも植物同様に心を持たず、
魂だけは創造主の分身として誰もが同じものを持っていたと想像すれば
いくら人間が大勢存在していても
自分も他人も単なる神の分身であり
他人と自分の区別もなければ
神と自分の区別もできないことになるのです。
大元の意識は創造主の残像思念で
皆が繋がっているからです。
しかし私達にはもう一つ心と言う意識の経路があります。
心と言うものは、
私達の自由意志による意志の正しい選択を
誤らせる原因になっているのと同時に、
私達が自分は自分であって他人とは違う人格だ
と言う認識をさせる要因にもなっていると言えます。
つまりは自我は存在するのです。
ただ、魂の進化の目的にあるように
私達が目指すは創造主です。
ブラザーズは誰もが自分と言う固体を意識しながら
同時に自分が全体の一部であることを理解しています。
私達は与えられた心なるものは
私達を惑わす厄介な存在であると同時に
私達に個性を与える創造主からの贈り物だと思います。
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57 :塩と味噌:2012/09/19(水) 10:25:06.32 ID:
>>26
それも離して見ているものがありますね。
まぁここは文字の世界なのでどうしても離してみるものがある。
しかし実相の生活は違いますよ。
意識がご主人だということですが
それなら昨日あったすべてのできごとを
ありのままにもらさずここに書いてみてください。
書くのが恥ずかしいならメモ帳かなんかに自分で書いてみてください。
ふと感じたであろう、
肌を伝う風の感触などももらさずありのままに書いてみてください。
きっとできません。 あなたにはできるかもしれませんが
少なくとも私には不可能です。
では少し緩めてみましょう。
昨日あった全てのできごとをもらさずありのままに思い出してみてください。
これもきっとできません。 これはなにを示してるかわかりますか。
私たちは実は想念世界に住んでるのではないということです。
実相の世界に常に住してるんです。
頭の中の観念以外この身は悟ってるので記憶は残らないんです。
その観念、自我があるという観念を手放せば自由自在です。
眼前に広がるすべての光景、いくつもの鳥のさえずり、
幾重にも伝わる風の感触、浮かんでは消えていく思考、
私が感じる全ての世界は私自身なんです。
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両者とも誤った主張をしているわけではないはずですが
それぞれが仏教的な思考が強く、
とりわけこちらの方は創造主の法の大前提である
意識・真自我としての魂の存在を認識していないために
心と言う意識の側面でしか私達の精神を
説明することができなくなっていることが残念です。
私達は自分が現実物質、現象の世界に
肉体を持って生きていることを知っています。
そして一方では私達の魂は24時間休みなく
私達の意識として存在しています。
私達が心としての脳機能を使用して
自分の24時間を余すことなく記憶することができなくても
実は魂の方は宇宙意識に向かって私達の24時間の
意識を全て記録していると言う実態があるようです。
アダムスキーは意識=精神=魂は
その心臓の鼓動一つであっても記憶していると語っていました。
イエスキリストは創造主は
私達の髪の毛一本の事でも知っていると言っていました。
つまり創造主の意志の分身である魂は
全ての記憶を観察してそれを宇宙意識へと記録していることになります。
だからこそアカシックレコードといわれる創造主の記憶は
私達個人にとっては見たことのないものも
聞いたことのないもの、創造したこともないものまで
時には私達に感じさせることになるのだと思います。
心は私達が意識したものしか記憶することは出来ません。
しかし魂は私達の全てを見て記憶しています。
私達はそんな記憶を引き出す能力が
今は備わってはいないために
その実態を認識することが出来ないのです。
自分の持っている能力については
著書の中で一切触れなかったアダムスキーには
ブラザーズ同様の能力が一部存在していて
実はアダムスキーは自分の過去生だけでなくて
他人の過去生まで把握できる能力があった事が
その側近の人間達の話からも伺えます。
もちろんこれはアカシックレコード意識まで
私達が認識できなければ不可能ですし、
アダムスキーが宇宙的覚醒を
果たしていた証拠でもあると思います。
【私が感じる全ての世界は私自身なんです。】
これは正しいと思います。
私のような劣等性では未だその域には達していませんが
結局は万物は一つの意識に集約されることになる。。
私達がいずれ感じる宇宙意識、
宇宙的啓示ではそんな意識になるのだと思います。
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58 :473:2012/09/19(水) 10:42:49.52 ID:
>>57
意識は見出されるものでありあらかじめあるものではありません。
またそれを所持していない人間はそれを
所持していないということに気づくこともできないものです。
意識を所持していないという自覚が意識への第一歩です。
意識を所持していたとしても
むしろ自らの無自覚をより自覚することになります。
そして、なんにせよコツです。
マインドで追える様な描写はコツから遠のかせます。
いい夢を見させてくれる文章はただそれだけのものです。
人は思考に翻弄されて、誘惑しあい、拒絶しあいます。
誘惑されなければ拒絶する必要もありません。
人はそれぞれ異なるものに誘惑されていますから
他の誘惑の影響を受けることでかき乱されます。
そして誘惑されるが故に他者の意見を否定します。
また善意で自分が囚われている誘惑を提示することにもなります。
そういう騒乱が人間関係のありふれた姿です。
72 :473:2012/09/19(水) 12:04:26.26 ID:
そしてそれが通常の意識であり、その通常の意識に覚めることが覚醒であると聞きます。
>>69
私が58で述べた「意識」はいわゆる「覚醒」と同義の意味です。
そうでなければ人はあらかじめそれを持っていないということと意味が通じなくなります。
悟りー覚醒、瞑想ー通常意識ー無意識
基本的にはそんなニュアンスです。
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瞑想によりたどり着くものは私達の真自我といわれる魂ですから
悟りー覚醒
魂(精神・真自我)ー自由意志ー心(自我)
と捉えるのが良いのではないでしょうか。
三次元での現象が起きる以前に
まずは四次元レベルでの創造主の残留思念が存在していた。
その思念が三次元で現象化されたのがこの世の実態なのですから
まず最初に存在していたのは意識です。
ただ、人間と言う創造物に関しては
どのように捉えればよいのか。。
私が意識という言葉をアダムスキーの生命の科学どおりに
使用しないのは”意識する”と言う言葉との重複で
”意識を意識する”と言うその言葉の使用の仕方が
誤解を招くと感じたからです。
そしてアダムスキーの触れている”意識”とは
間違いなく私達が”魂”とか”精神”と呼んでいるものです。
この方が無意識と読んでいるものは
私たちの心という脳機能の反応で
意識と呼んでいるのが私たちが覚醒すべき魂の反応と
いう事になると思います。
【意識は見出されるものでありあらかじめあるものではありません。】
ここでの言葉が
「意識は元々存在しているが
誰もが最初から認識できている物ではない」
と言う趣旨であれば、
私たちの生命の科学と同じ事を
語っていることになると思います。
【いい夢を見させてくれる文章はただそれだけのものです。】
これもその通りだと思います。
私が頻繁に批判している精神サイトやアセンションなどのサイトは
いい夢を見させてくれる文章だと思います。
とても”簡単”で理解しやすいですし
書いている内容を読むと心が荒んでいる時には
それが癒されるような気にもなります。
しかし実はそこから学べることは多くはなかったりするのです。
学ぶ以前に、そんな文章を取り上げているサイトが
”具体的な覚醒への道のり”を表現しているのを
見たことがありません。
そして生命の科学、宇宙の法則を学び
そこに真理を感じてからは
そんな良い夢を見せてくれるサイトが
如何に陳腐であるかにも気がつきました。
真理の前では、類似品や紛い物のすべてが陳腐であり
矛盾や欠陥が浮き上がって見えるからです。
【誘惑】というのが誤った価値観を持つように
誘導されることであれば
まさに私たちはその誘惑のために
皆が争っていることになります。
その誘惑の作り上げた価値観の違いで
他人を評価しそれを批判して対立する。
私達を争いへとかき立てているのは
誤りが混ざりこんだ真理、もしくは真理の紛い物なのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
71 :473:2012/09/19(水) 12:00:39.38 ID:
自我は条件付けられた体験をし、経験、記憶を蓄積します。
覚醒にあってはそういった体験、記憶はありません。
単純に記録されるのだと思います。
意識的であるほどに体験、記憶のメカニズムは薄れ、
覚醒においてただただ物事が記録されることに覚めています。
記録は脳と感覚に備わったメカニズムであり、
自我、精神が体験として記憶としてそれを捻じ曲げます
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この方の説明はそのまま私達の理解と重なるものです。
自我は自分が認識した現象を
自己の価値観に囚われた意識を持って記録する。
覚醒した状態での意識=魂は、
独自の価値観でその現象を曲げて解釈することなく
ありのままの現象をありのままに記録する。
私達の心は目の前の現象を
そのまま正しく認識しているのではなくて
その情報は、自我なる価値観による先入観や
自分の希望や疑惑など感情で変貌されます。
つまりは独自のフィルターを通じて自分が認識した実態を
記録しているに過ぎません。
この方はその事を説明しているのだと思います。
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72 :473:2012/09/19(水) 12:04:26.26 ID:
そしてそれが通常の意識であり、
その通常の意識に覚めることが覚醒であると聞きます。
>>69
私が58で述べた「意識」はいわゆる「覚醒」と同義の意味です。
そうでなければ人はあらかじめそれを持っていないということと
意味が通じなくなります。
悟りー覚醒、瞑想ー通常意識ー無意識
基本的にはそんなニュアンスです。
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私たちにとっても通常の意識は心の司る自我ではなくて
本来の意識として存在している魂であり創造主の意識だと言うこと。
それに目覚めること、気がつくことが覚醒だと
私たちは認識しています。
この二人の討論は延々と続いていましたが
意識と言うものの存在を認めるか認めないかで
差が出てくることにもなって見えます。
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227 :473:2012/09/20(木) 10:02:05.70 ID:
>本当に人のためを思って述べている人はそれを言葉にしないでしょうし
あなたのためを思ってとか、あなたを助けたいからとか、
そういう言葉を出すという意味ですよ。
本当に人のためを思って行動している人は、
その「言動」にそれがにじみ出ます。
悟りというのは何かを得ることではなく、
欲望、執着という束縛からの解放を示唆しています。
欲望や執着について語ることと
悟りについて語ることは合わせてひとつです。
仏陀もそうだったでしょう。
片側についてだけ語る人のなんと多いことか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
先ずは心のエゴを抑えるために心の動きを理解する。
私たちは三次元を認識する4つの感覚器官の実態から
如何に私達が好き嫌いと分裂を作り上げているか
そして分裂や好き嫌いが
如何に私たちに不快な思いをもたらすかと言うことを学び、
大切なことは先入観を持つことや
好き嫌いで評価することではなくて
現象を感覚器官を持って正しく認識することだと言うことを学びました。
それは物事を認識するためにも大切な姿勢です。
先入観を持って現象を見つめれば
そこから得る印象はありのままでは無くて
私達の価値観によって捻じ曲げられる事になります。
例えが悪いのですが、
自らを神だと名乗る人間がいて、その人間が
人々の前でありがたい話をしてくれたとします。
その人間を神だと信じる人間達にとっては
その人間は神だという前提があるのですから
その自称神の言葉は神々しく感じることになるでしょう。
逆にその人間を偽神だと認識している人間が
その視線で見れば
その人間の言葉の端々から偽善を感じることに
なるかもしれません。
そして何の先入観も持たない一般市民がそれを見れば
神を語る変な人間。もしくは危ない人。
その様に見えるのだと思います。
同じ現象を認識する事にしても先入観や価値観の存在が、
人それぞれに異なった印象と記憶を与えることになるという
例えになっているでしょうか。
そんな心の悪しき動きを理解し
時には自分の心の動きをも客観的に眺めること。。
これも心の暴走を抑える手法の一つでした。
同時に私達は心とは別の経路である
魂という器官を意識することにもなります。
心の暴走を抑えながら
魂と言う意識の経路を求める。
魂は元々が私たちに働きかける物で
ここで意識と呼ばれているものですし、
自我を抑えることで
嫌でも浮き上がってくることになるはずです。
そしてこの人が言っているように
「欲望や執着について語ることと
悟りについて語ることは合わせてひとつです。 」
と言うことになると思います。
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231 :塩と味噌:2012/09/20(木) 10:31:43.46 ID:
>>227
私がそういった記憶はありませんがもしそういってたなら取り下げます。
どうもあなたもパーピマンも勘違いしてるから
もう一度だけ言うのでちゃんと胸に刻んでください。
【みんな今のままで何の問題もありません。
自我があると思ってる人も問題ありません。
悟るだの苦や煩悩を吹き消すだのは全然すごくもなんともないことなんです。
そのままでも勝手に消えていくものです。
ただ一部のどうしても納得できない人、苦しくてくるしくて仕方がない人がいます】
こういう人たちに今のままで問題ないですよと言うだけです。
答えは自分自身でしか出せないですよと言うだけです。
あとは本人次第です。
どうも忘れるようなのでもう一度言いますよ。
【誰もが今のままで問題ないのです。
それを知ってるから言うだけです。
全然大したことじゃないです。 メガネがない~!って探してる人に
メガネかけてるよって教えてあげる程度のことです】
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最後になって両者の理解の差が出てきて
それが論争の原因となっていることに私も漸く気がつきました。
”473”というHNの方は
今現在の私達のあり方を良しとはしていませんが
”塩と味噌”というHNの方は
私達が今のままで問題は無いとしているところに
その差は明確に現れていると思います。
今現在の自分を肯定すると言うことは
私達は精神的な進化、魂の進化を否定することになります。
そこには改善の意識が無いと言うことになるからです。
ブラザーズのマスターは、
私達は着飾らなくても誤った理論や価値観で凝り固まらなくても
そのままで完全なのだと語っていました。
それは今現在の私達がそのままで完全な存在だと言うのではなくて、
私達の魂が創造主という完全な存在の分身だから
それを意識しその本来の姿を取り戻すことで
私達は他には何も余分なものは必要なくなるという意味でした。
しかしその本来の自分を取り戻せていないのが私達で、
それを妨害しているのが自我としての心の存在であり、
それが持っている誤った価値観や観念だと言うことになれば
私達はそのままではいけないと言う話にもなります。
「メガネがない~!って探してる人に
メガネかけてるよって教えてあげる程度のことです」
ここはある意味理解できます。
覚醒できない、悟りに届かないと言っている方に
「魂の機能のスイッチが入っていませんよ。」
もしくは「魂を感じるコードのコンセントが抜けていますよ」
と知らせることで
それに気がつく方も出てくる事は私達にも想像がつくからです。
そして仏教徒に関して一番主張したいのは
「私達はお釈迦様と比べてもとてもちっぽけな存在で
逆立ちしてもお釈迦様の達していたであろう
悟りの域に到達することはできませんよ」
と言うことです。
私達が一番最初に認識すべきはここだと思います。
私達は聖人と比べてもあまりにも器が小さいのです。
知識や理屈でうわべをいくら聖人を真似てみたところで
私達は聖人にはなることはできません。
いつものように触れれば、
イエスキリストもお釈迦様も
太陽系の兄弟の中でも魂の進化の進んでいる人間なのです。
地球の中で一番偉大な人間ですら、
天国と言われた金星社会の中の一番小さなものにも及ばないと
イエスは触れていたはずです。
そしてブラザーズはそんな人間の中でも
魂を進化させている人間を
この社会の中に指導者として派遣したわけですから、
元々の魂の資質が私達と比べてどれほどかけ離れているかを
私達は理解すべきなのです。
転生を繰り返すことで魂の進化を続けてきた人間達。
物理的に説明すれば、
私達が同時に5%程度使用している脳を
同時に25%も使用できる人間達。
地球よりも数万年精神的な進化の進んでいると言われる人間達。
その中でも更に進化の進んだ人間の域に、
太陽系の劣等生であり
この社会の中で不毛の転生を繰り返し
いまだに卒業できないでいる人間が
悟ったからと言って達せるわけが無いのです。
つまり単なる”悟り”は私達の想像しているよりも
はるかに低いレベルに存在していると言うこと。
もしくは悟る以前にその前段階として
到達しなければならない場所が存在していて
聖人達が私達に指し示していたのはそれであると言うことです。
宇宙的覚醒を悟りと呼ぶのであれば
この社会の中でもごくわずかの人間だけが
体験することになるのでしょうが
意識の経路として魂を感じ
自我の存在、無意識を体験することを悟りとすれば
それは容易だと思います。
聖人を見据えてその域に達することを目的として
自分の資質を省みず知識と理屈で自分を大きくしようとするから
一番大切な聖人の主張も理解できなくなる。
聖人が私達に共通して語ったのは
結局は道徳であり、人としての基本的なあり方であり
他の万物への想いや接し方だと思います。
私達はその一番簡単な事をまずは理解し実践できるような
そんな心の持ち方を求められているのだと思います。
そのことはそのままエゴの暴走を止めることでもありますし、
それが結果的に魂の存在を私達に気がつかせることにもなります。
深い理解や深い進化は、
まずは進むべき道を正しく見据えて
スタート地点に立ってからの話で
未だに誤った価値観を持っては誤った道を進んでいるのであれば
いくらその道を極めても、
その先には覚醒や悟りは
待ってはいないと言うことになります。
私達が創造主に求められているのは
この社会の中での不毛なローテーションから抜け出すこと。
いくら転生を繰り返しても
私達の転生が魂の進化を伴うものでない限り
私達は人としてのあるべき姿に立ち返ることは出来ない。
その事をまずは知識として?
理解していただければと思います。
【貴方に無限なる力の祝福がありますように】