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不安や恐怖は何故に生じるのか?
そんな事を考えた事があるでしょうか。
私達は無自覚のうちに不安や恐怖を生み出しては
それを心の価値観の一つとしていつも持ち歩いています。
不安と恐怖の一例を心と感覚器官の動きから分析してみます。
まず私達は心という脳の反応と思考回路に囚われています。
そしてその司る感覚器官からの情報を通常、
脳の価値観として持つ事になります。
でも実は私達には心が司る目、耳、鼻、口と言う感覚器の他に
もう一つの感覚器を持っているのです。
それは私達が触覚と読んでいる物の働きです。
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触覚と言えば通常は熱いとか冷たいとか
痛いとか痒いと言った感触を受け止めるものだと
私たちは認識しています。
しかし実際は触覚には他の機能が備わっています。
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触覚とは実は私達の肉体に覆いかぶさるように
存在している魂が受け止める感触であり
私達が通常、触覚と認識しているもの以外にも
その機能は存在しているのです。
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例えば、魂=精神という存在は、創造主の意識と繋がっていることからも
そこから受け止める印象があります。
これは時には啓示と呼ばれる物です。
そしてそれを感じる事を
”御霊が降りる”と聖書では表現していると思います。
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更に、魂=精神は私達が24時間全身から発している
”想念”と呼ばれる物をも受け止めることになります。
この想念のうち、思考を受け止めることになるのが
テレパシーであり、多くの動物や植物は
それが当たり前のように出来ているようです。
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動物は、私達が心と読んでいる物にばかり
意識を向けているのではなくて
同時に自らの魂を意識しているからでもありますし、
植物には心と呼ばれているものが存在しないからです。
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彼らの意識の経路は、魂へと繋がっているのです。
しかし私たち人間は心ばかりを意識しているがゆえに
魂=精神を感じることが出来なくなっています。
そして精神=魂の受け止める感覚は”印象”であり
”閃き”ですし、テレパシーとは音声を受け止めるのではなくて
閃きや印象やイメージを受け止めるものです。
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でも私達は時々は無自覚にそれを感じ取りながらも
その事を認識することが出来ないで居るのです。
私達が意識しているのは心ばかりですし、
心の司る器官の受け止める感覚は
視覚であり、聴覚であり、嗅覚であり、味覚だからです。
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目を持って音が聞こえないように、
耳を持って味わえないように、
目や耳や鼻や口を持って閃きや想念を感じることは、
出来ないからです。
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私達はどうしても心にばかり意識が向かっています。
そして時々は閃きや印象を受け止めながら
それを自らの心の思考だと勘違いしては
魂の存在を意識することもないのです。
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更に私達は、時には想念として受け止めた不思議な現象を
認識しつつも、それを心で説明しようとする事になります。
啓示が創造主からの意志の受信とすれば
想念は他人からの意志やイメージの受信です。
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それは時には他人がイメージした他の人の姿かもしれませんし
他人が想像した恐ろしい姿の悪魔かもしれません。
それを受け止めたときに想念の存在を認識していない私達は、
幽霊や悪魔を見たと感じる事になります。
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しかし実際はそれは、他人が作り上げたイメージに過ぎないのですが、
私達はそんな時に恐怖を感じ
そこにオカルトなるものを作り上げる事になります。
このような他人からのテレパシーに関しても、それは
心の価値観を持っては説明することが出来ません。
私達には元々がそんな知識がないからです。
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そんな四次元や想念絡みの奇妙な現象を”心”の価値観で説明しようとするので、
私たちは心で説明の出来ない物をオカルトとして区別しては
そこに不安や恐怖を感じているのです。。
三次元現象と
恐怖の一つは私たちの魂への理解不足から引き起こされるものなのです。
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次に私たちの感覚器官のエゴに基づく恐怖を紹介します。
私達の感覚器官はそれぞれが独立して機能しています。
本来は複数器官を並行して使用することで
現象や物質を正しく理解することが望まれるのですが
私たちの心同様、諸器官は暴走しているのです。
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それぞれの感覚器官が好き嫌いをしながら
自己の存在を主張します。(またいつか説明します)
例えば先ほどの想念で言えば
それが人間の姿のイメージを受け止めたとすれば
視覚はそれを認識しますが
音がないので聴覚はそれを認識できません。
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その結果、それを幽霊と認識しては
心では説明できないものとして
価値観の片隅にオカルトと一緒に置くことになります。
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更に例えば、暗闇で人が前から歩いてきたときに、
耳はその音を認識しますが目には何も写らなければ
そこに不安を感じるはずです。
目からの情報と耳からの情報に整合性がないからです。
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更に逆に、すぐそばで音がしても、
近くで何の物質的変化を視覚で確認できないと、
それも不安や恐怖の材料となります。
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更に言えば本来使用できる感覚器官が、
その感覚を認識できない状態を考えてみてください。
電灯の付いていない真っ暗な長いトンネルを歩いていると
途中視覚がまったく利かなくなり
その状態に恐怖することもあります。
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水の中では聴覚がほとんど利かないために
それも不安の材料となります。
つまり私たちの不安や恐怖の一つは、
心の司る感覚器官が通常感じる感覚を認識できない事で
作り上げられる事があるのです。
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そして私達が誤った常識を持っているが故に
心が作り上げている恐怖もあります。
それは死です。
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私たちは誰もがこの人生を一度きりであると勘違いしています。
そのために死ぬことを恐れ恐怖し、
死に直結することを全て不安材料としています。
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一度きりの人生なのだから少しでも長生きしたい。
人よりも幸せに暮らしたい。
死んでしまえば全ては終わる。。。
そんな意識が私たちに死への恐怖を増幅させているのです。
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そして死に繋がる要因の全てに
私たちは恐怖し不安を感じる事になります。
例えば病は死を連想させる一要因です。
誰もが健康でありたいと思いますし
身体の異常には不安を感じることにもなります。
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生活の中でも例えば会社や学校や近所での隣人関係。
これがうまくいかないとその空間で存在することが
苦痛になり、最悪死を意識することにもなりかねません。
そんな状況にならないためにも、心が苦痛を感じないためにも、
その環境での軋轢を不安と感じることにもなります。
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しかし実は私たちの魂は、半ば永遠に生きている存在なのですが
私たちはその事が理解出来てはいません。
その結果、死と言う無への回帰を信じ、
私たちはその事を何よりも恐れることになるのです。
そして実はこの不安や恐怖こそが
私達が振り払わなければならないものの一つです。
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私たちは意識の経路として
心ばかりを感じていてはいけない存在です。
しかし不安や恐怖に囚われることは
そのまま意識を心の経路に縛り付けることになるのです。。
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私は自称覚醒者です。
それはある程度ではありますが、
魂から創造主の意識を感じることが出来るようになったという意味ですし、
この社会の裏側や、宇宙の実態、そして私達の目に見えていない
四次元や魂の実態を認識できるようになったからと言う意味でもあります。
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そして創造主が私達に期待しているのは、
多くの人間がこの状態へと進むことですし、
そしてそれが真の人間の進化なのです。
私たちは意識の経路を心だけではなくて
魂へと繋げなければいけない。。。
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更に、私達には、魂からの意志を受け止めて
自らの心の価値観を書き換えていく作業が求められていて、
私や覚醒者はそのためにも生命の科学を
学び続けています。
そして私達が覚醒した時には、
私達が以前感じていたような不安や恐怖の意識は
限りなく減らすことも出来るのです。
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しかしこの社会の誘導している方向はその逆なのです。
病について取り上げては死への恐怖を煽り立てる番組が報道され
ドラマでは多くの人間が無念さを持って死んで行きます。
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しかしそんな誤った情報や価値観に踊らされて
死への恐怖を駆り立てられると、
心の暴走と心への執着から逃れられなくなり、
結果、私達は魂=精神を感じることが出来なくなります。
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魂という、創造主からの経路に覚醒したことのご褒美は
記憶を持っての転生です。
私たちは覚醒後は心と魂を併用して生きるよう努力し、
それによって記憶が魂へと刻み込まれる事になります。
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その結果、次の生では前世の記憶を持って生まれて来る事になり、
自分の魂に永遠を感じることにもなるのです。
これがイエスキリストの言っていた永遠の命です。
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一方、心だけで生きてきた人間は
死と同時に心の実態である脳が死滅するわけですから、
全ての記憶を失うことになります。
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その人間は前世の記憶を持たずに
次の生のローテーションへと進むのです。
(ただし一定回数創造主の意識からかけ離れると
魂の消滅が待っています。)
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死を恐れさせて私たちの意識を心へと縛り付けている
地球社会の陰謀から逃れ、
私たちは魂の覚醒へと進まなければいけない。
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そのためにも心と魂=精神に関する正しい知識をもつことで、
死への恐怖や多くの不安から逃れて欲しいと思います。
そして意識が魂=精神を認めたときに
私達は永遠の生へと進むことになります。。
そして私たちは知る事になるのです。
私達の実態は魂だと言うことをです。
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私達は誰もが覚醒する事ができます。
私達は全員が創造主の分身だからです。