堺 だいすき ブログ(blog)

堺のいろんな情報・・・出来事・・・・もろもろを書き綴る
辛らつなブログ。
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条例、計画3割満たず=自治体の犯罪被害者支援―16年白書

時事通信 5月20日(金)9時53分配信



 政府は20日の閣議で、2016年版の犯罪被害者白書を決定した。

 支援策を条例や計画で定めている自治体数は494で、昨年から11増加した。しかし、全体の3割に満たない上、見舞金制度や日常生活支援の導入はわずか6%台にとどまる。

 被害者は収入が途絶えたり、住む場所にも困ったりするなどの問題に直面し、政府は生活再建も重点課題に位置付けている。警察庁の担当者は「自治体によって支援内容に差があるのは事実。まずは条例制定などを働き掛け裾野を広げたい」としている。

 全国1788自治体のうち、4月1日時点で条例か計画のいずれかで支援策を定めているのは石川、高知、鹿児島を除く44都道府県と13政令指定都市、437市区町村だった。

 昨年施行された神奈川県茅ケ崎市の条例は、最高50万円の見舞金に加え、家賃や子どもの一時預かり費用の支給、ヘルパー派遣など日常生活の支援も盛り込むが、見舞金制度があるのは岐阜県や京都市、神戸市など119自治体、日常生活支援は115自治体にすぎない。 

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足を失っても、ステージで歌い続けた…花やしきのアイドル、天国へ


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人身事故から奇跡的な生還 電車に轢かれ左脚を失い、半年で職場に復帰した青年

STORYS.JP

現代の日本では、多くの人が毎日のように電車通勤・通学をしています。
満員の電車に揺られながら職場や学校に向かい、疲れや課題を持ち帰り、ときにはお酒に飲まれ、再び電車で帰宅する生活。

身近にある便利な乗り物、電車。
しかし、ときにそれは、人の命や人生を奪う凶器にもなります。

人生の実体験を語るWebサイト『STORYS.JP』に、電車に轢かれ左脚を失いながらも、半年で職場に復帰した青年のストーリーが投稿されています。生死の境目をさまよい、片脚を失った彼は、どのようにして立ち上がってきたのでしょうか。

■電車に轢かれ脚を失った半年後に職場復帰するまでのストーリー


海外出張の機会も多く充実した仕事。仲間と遊びまわる日々。
タイやカンボジア、インドへの一人旅。
ダイビングやソフトボール、ビーチバレー、スノボなどのスポーツ。
そんな公私ともに充実した日々の中、人生を一変させる出来事が起こるなんて想像もしていなかった。

■事故、そして入院


仕事終わりに友達とご飯に行き、一人で駅に向かったところが最後の記憶。

そこから先の記憶はない。

次の記憶は知らない天井、身体中の激痛、ベッドの周りで自分を見つめる家族。
どこにいるのか、どれだけ時間が経ったのかもわからない。家族全員に囲まれている理由がわからなかった。

父親に事情を聞き、電車事故に遭い集中治療室にいること、身体中の痛みの理由は把握した。

身体の違和感にも気付き始めていた。
右脚はギブスをはめられ、全く動かせない状態。右脚は車輪に巻き込まれ、膝上から足首までズタズタになっていた。
頭は丸刈りにされていた。外傷性くも膜下出血で、開頭手術をされていた。顔はパンパンに腫れあがり、ひどい見た目だったらしい。

そして左脚。ほんの少し、付け根あたりの感覚はあるが、その先の感覚がない。
家族も医者もまだ何も言わないが、気付いていた。

左脚はないと。

あえて確認はしなかった。聞くまでもないと思っていた。数日経って、左脚は大腿から切断したことを告げられた。

「ああ、やっぱり」というのが感想だった。

意識が戻っていない間、左脚切断&右脚再建、くも膜下出血と2度の手術を受けていた。
それでも、まだ事態の深刻さを理解していなかった。「早く家に帰りたい。仕事に行きたい」と言っていた。

しかし、次第に今でも自分は生死に関わる状況で、仕事に行くどころかベッドから一歩も動けないことを理解し始めた。

その時自分は30歳。残り50年続く人生を、この身体で生きていくしかないのだと思った。
同時に思ったのは、脚を失っても、自分には面会時間いっぱい一緒にいてくれる家族がいる。
職場の人たちもみんな来て頂いたとも聞いた。

その時家族に言った言葉。「事故に遭ったことは不運っだけど、不幸じゃないよ」本心だったし、今でもそう思っている。

そしてこれからの人生、どう生きていきたいか考えた。
不安がないと言えば嘘になるが、脚一本なくなったぐらいで縮こまって生きていくなんて納得できなかった。

■脚一本程度で人生は終わらない。


仕事はデスクワークで這ってでも職場にいければ仕事はできる。
たくさんの友達がいる。まだ独身だし、きっとそのうち結婚もする。

絶対戻る。職場にも、みんなのところにも。

ベッドの上から一歩も動けず、身体中の激痛、発熱も続き思考もはっきりしていなかった。それでも、そう決めた。

■集中治療室での日々


一週間ほど経った頃、初めて集中治療室から外に出た。冬の冷たい空気が気持ちよく、懐かしく感じた。

やっと集中治療室から出て、一番にあの夜一緒にいた友達に連絡した。父親から事故に遭ったことは伝わっていた。
きっと深く心を痛めている。自分を責めているかも知れない。心配かけてしまったことを謝りたかった。

「ごめん!心配かけて!」と電話した。

安心してもらいたかったし、同じように心配してる友達にも伝えて欲しかった。
職場のメンバーにも連絡した。途中になってしまった仕事のことも気がかりだった。

その頃の状態は、右脚は毎日のように感染して壊死した組織を削り取る厳しい処置。
そのたび強烈な麻酔を打たれていた。左脚も感染が治まらず、時折激しい痙攣に襲われていた。

外傷と感染症からくる高熱、強力な麻酔で現実感がない状態が続いていた。幻肢痛も感じ始め、正体のわからない痛みに悩まされた。痛みと時間の感覚が狂っていたため、眠れない夜が続いた。

退院後、看護師さんに「あの頃夜泣いてたよ」と聞いた。肉体的にも精神的にもギリギリの時期だったのだと思う。

そんな中、障害者手帳の申請について説明があった。それまで障害者になった自覚がなく、
「障害者か。そりゃそうか。脚ないんやもん。」と思った。
障害者になったことについては、特にプラスの感情もマイナスの感情も起こらなかった。

退院後の生活にも、もちろん不安はあった。しかし、どこまで回復するかでその形は全く違うものになる。
今は治療に集中することしかできない、と思っていた。

年末が近づいていた。しかし、感染の程度を示す数値は高いまま下がらなくなっていた。

それが原因となり、大きな決断を迫られることになる。

■脚を落とす、という選択


主治医から治療方針の説明を受けた。
現状では感染症のリスクが高いこと、左脚の残った断端は短く、表面は植皮で義足を履く条件としては厳しいこと。

一方、残った左脚を落とし股関節離断にした場合、断端を強い皮膚で覆うことができるが、義足を実用的に使いこなすのは難しいこと。

左脚を残すか、落とすかという選択だった。

どちらも厳しい条件だが、先生は股関節離断にした方がよいと判断しているように感じた。しかし、どちらがいいとは言わず、本人に選ばせようとしていると思った。

股関節離断の場合、義足を実用的に使いこなすのは難しいということだが、「難しい」であって「不可能」ではない。
当時義足の知識はなかったが履ける義足がある以上、なんとかしてやると思った。

迷いはなかった。先生の判断を信じようと思い、即答していた。「落としてください。」
こうして、残った大腿を切断し、股関節離断にすることが決まった。自分で選んだこととして、納得していた。

また、右脚について。

背中から皮膚を採り、右脚に植皮する手術をする。そして術後10日程度、全く動けなくなる。
取りうるベストな治療法と納得していたが、耐える自信がなかった。

それでも耐えるしかないと、受け容れた。これも、自分で選んだこととして、納得していた。
こうして年内に左脚の股関節離断と右脚の植皮、2度の手術をすることが決まった。

股関節離断の手術の日。
意識がある状態で手術を迎えるのは初めて。見送る家族にストレッチャーで運ばれながら拳を突き上げて、手術室に向かった。

精一杯の強がりだった。

手術台に寝かされ、測った体重は44kg。事故に遭う前は55kg。10kg以上体重が落ちていた。脚一本分の重み。

年末の忙しい合間を縫って、職場の部長3人がお見舞いにきてくれた。
熱が40℃近くあって体調は最悪。またどんな形で戻れるかはわからなかったが、「現場に戻りたい」と告げた。

現場で働くことにやりがいを感じていたからだが、焦りもあった。

その時の上司の言葉が忘れられない。
「これから何十年も続くエンジニア人生からしたら、大した時間じゃない。ちゃんと治して元気に戻ってきてください。」
泣いた。この言葉にどれだけ救われたか。

そして、右脚植皮の手術を受けた。術後は想像を遥かに超える背中の痛みだった。全く動けなかった。

迎えた年の終わり。

例年は友達のバーでカウントダウンが恒例。しかし、集中治療室のベッドで全く動けず、新年を迎えた。
来年は必ずみんなのところに戻って、一緒に新年を迎えると心に決めた。

■一般病棟へ、仲間との再会


年が明けた。植皮のための皮膚を採った背中の痛みで全く動けない状態。

人生で一番長い10日間だった。この頃の記憶は痛み以外ほとんどない。
中でも背中のガーゼ交換の処置では過呼吸を起こすほどの痛みだった。

苦しい時期だったが、股関節離断にした左脚、皮膚を移植したの右脚の状態は落ち着いてきて、手術から10日ほど経った頃、一般病棟に移れることになった。集中治療室で過ごした時間はちょうど一ヶ月。

入院以来、離れて暮らしていた母親と妹は大阪の自分の部屋に移り、毎日面会時間いっぱい一緒にいてくれた。
父親と兄も仕事の合間を縫ってきてくれた。一番厳しく、苦しかった時期を支えてくれたのは家族だった。

そして、一般病棟に移った。

多少動けるようにはなっていたが背中の痛みは引かないまま。この頃は毎日朝早く目が覚め、気分が落ち込んでいた。
世の中が自分と自分以外に分かれてしまったような感覚。テレビを見ても自分には関係ない、別の世界の話のように感じていた。

一般病棟に移ってから、義足のことを調べ始めた。

しかし、股関節離断が使う股義足は義足の中でも極端に数が少ないため情報がほとんどなく、どんな生活を送っているか想像もつか
なかった。ただ、股義足というものが存在する以上、歩けないことはないだろう、と思っていた。

この頃からかも知れない。

「自分で自分の限界を作ることはしない」「物理的に不可能なこと以外あきらめない」と決めたのは。

面会ができるようになり、友達が面会に来てくれた。この時が来ることが苦しい時間を乗り越える力になっていた。
会ってなかった時間は一ヶ月半程度。それでも、久しぶりに感じた。

その時の自分の状態は、左脚はなくなり、右脚のギプスは着けたままで車椅子。一ヶ月半前からは想像もつかない、変わってしまった姿。それでも、みんな変わらず接してくれた。

病院一階の喫茶店で、めちゃくちゃ笑い、騒いでいた。
毎朝の気分の落ち込みは続いていたが、この時間は現実と繋がっていると感じることができた。

■生きることと向き合った瞬間


一般病棟に移って数週間。このころの状態は、

・左脚:傷口が塞がらず、毎日洗浄の処置。
・右脚:植皮した皮膚が生着するのを待つ。絶対安静でギプスで固定。
・背中:全面から採皮されていて、皮膚が再生するのを待つ。

脚に痛みはなかったが、背中はひどい痛みだった。右脚に移植した皮膚が生着しなければまた植皮する必要があり、さらに採皮の痛みに耐えなければならなかった。

そして右脚のギプスを外す時が来た。先生が生着の様子を見る時は祈るような気持ちだった。

「パーフェクト。」
楽観的なことをほとんど言わない先生がここまで言い切るのは珍しいこと。本当にほっとした。

一ヶ月半ぶりに解放された右脚。運び込まれた時は「骨から腱からフルオープンな状態」だったそうで、そこからここまで整復してくれた先生に感謝した。

そして右脚のリハビリが始まった。おそるおそる体重を右脚に乗せ、一ヶ月半振りに立った。
平行棒で支えて立つのがやっとで、すぐに膝からガクンと力が抜けてしまう状態だったがそれでも、自分の脚で立てた。

家族はここまで回復したことに涙を浮かべていた。
それから毎日少しずつ、自分の脚で立つリハビリが進められた。

リハビリの時間は限られていたので、病室では片脚で立ち続ける自主トレ。
恐れていたの背中のガーゼ交換。耐えられないほどの激痛。ガーゼ交換がある日は本当に憂鬱だった。

気持ちの落ち込みも続いていた。
「なぜ生き残った?なぜちゃんと死ななかった?」という考えが毎日頭をよぎっていた。

しかし、「生き残ったんだからジタバタしてもしょうがない。生きよう」と気持ちを揺れながらも思うことができたのは、支えてくれる家族、友達がいてくれたから。

そしてこうして、生きることと向き合った時間が、与えられた命がある限り前に進もうという意思をより強くしてくれたのだと思
う。

リハビリは立つことから始まり、少しずつ距離を延ばして平行棒の中を歩く訓練、さらに松葉杖の歩行訓練も始まった。

義足使いこなすには筋力が必要、ということで筋トレも始まった。先生の勧めでプロテインも飲み始め、ラグビー部出身のPTの先生と一緒に筋トレの毎日。今思えば、このリハビリは本当に正しかった。

後に義足を履き始めた時、入院前よりも筋力はついていたぐらいで義足を履く体は出来上がっていて、義足を使いこなすための訓練に集中することができた。

一方、左脚の傷口はなかなか塞がらず、洗浄の処置が続いていた。

職場復帰の目標は4月と決めていた。義足のリハビリは2ヶ月はかかると思っていたので、時間がないと焦りもあったが、治るのを待つことしかできなかった。

■転院、リハビリ病院へ


入院して2ヵ月近くが経ち、念願の外出許可が出た。ずっと、家に帰りたい、自分のベッドで寝たいと思っていた。
久々に自宅で過ごす時間。やっとここまで戻ってきたんだ、と感慨深かった。

脚がなくなってから、病院以外では何もかもが初めて。一時帰宅は日常生活でどこまで前と同じようにできるのか、できないのか確認する意味もあった。結果、ほとんどのことは松葉杖でなんとかなった。変えなくていいんだな、と思った。

それからは毎週末、外泊許可をとって自宅に帰るようになった。この頃から、左脚の傷口も塞がり始め、背中の傷も回復に向かっていた。傷の具合が落ち着きを見せ始めたことで、治療の段階は終わりが見えてきた。義足のリハビリは別の病院で行うため、2月中に転院ということになった。少し前まで処置の痛みに苦しんでいて、転院なんて先の話のように感じていたので、この展開に自分自身ついていけなかった。

ソーシャルワーカーさんが関西中の病院をあたってくれて、股義足で歩くリハビリに対応できる病院を2つ見つけてくれた。
関西中探して2つだけ。少ないが、対応できる病院があるということは歩けるということ。

退院後は義足で歩いて生活する以外、想像しなくなった。

■義足仲間との出会い、一人じゃない


傷は問題ないぐらいにまで回復し、義足のリハビリをする転院先の病院探しが始まった。
そのうちの一つ、大阪市内にある病院への診察には「電車で行きたい」と言った。

事故に遭ってからまだ一度も電車には乗っていない。ひょっとしたら記憶の奥底にある事故の記憶が蘇り、恐怖を感じるかも知れない。そう思ったが、電車に乗ることは日常生活では不可欠。乗り越えなくてはならないことなので、早く確認したかった。

結局、その不安は取り越し苦労だった。何も感じなかった。

自分にとって、電車には乗れると確認できたことは大きな収穫だった。診察では先生は「歩ける」という感触を持っているように感じた。もう一つの病院は治療が終わっていないと判断され、受け容れることはできないとのことだった。

結局選択肢はなく、2月末に大阪市内の病院への転院が決まった。
今思えば、結果的にこの病院に決まったことは自分にとって最良の道だったように思う。

この頃あった大きな出来事。
友人の友人が自分と全く同じ、左股関節離断で会ってもらえることになった。股義足は義足の中でも極端に数が少なく、滅多にいない存在。こんな偶然があるなんて、つくづく運がいいな、と思った。

初めて見る股義足ユーザーの彼女の動きは想像していたよりずっと自然だった。

また、彼女はスポーツ義足の第一人者として有名な義肢装具士の臼井二美男さんに担当してもらっていて、臼井さんが所属する鉄道
弘済会義肢装具サポートセンター、切断者スポーツクラブ、ヘルス・エンジェルスには数多くの義足仲間がいた。

彼女から、活き活きと人生を送っている義足仲間の話を聞いた。

当時周りには切断者が誰もおらず、自分一人。彼女は切断間もない自分に、この先の人生決して暗くはない、自分次第で明るいものにもできる、そして何より「一人じゃない」と教えてくれた。

この出会いが今後、新しい世界に脚を踏み出す勇気ときっかけを与えてくれた。

そして、退院の日。お世話になった先生、PTさん、看護師さん、ソーシャルワーカーの皆さんに
「次は歩いて戻ってきます」と宣言した。

この病院は命を救われた場所であり、左脚を失った場所。最も辛い時間を過ごし、新しい希望を見つけ、第二の人生がスタートした場所。様々な感情が入り交じったが、ここで過ごした二か月半のことは一生忘れない。

「ありがとう」感謝の気持ちを胸に、次の病院へと移った。

新しい脚に出会えること、そして自分の脚で歩けるようになること。その期待と希望でいっぱいだった。

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■リハビリ病院、そして帰る場所


2月末にリハビリ病院に転院した。

目的は義足で生活できるレベルになること。義足のリハビリは歩行訓練と調整。
義足を扱うためには筋力が必要。義足ができるまでの間、そして義足ができてからも筋トレは続ける。
そして健足(右脚)は一度バラバラになって繋ぎ合わせた、というぐらいの大怪我を負っているので機能回復のためのリハビリも並行して行う。

入院生活は時間はたっぷりあって、リハビリ室が開いてる朝から夕方までずっと筋トレ。
リハビリ室で腕立て、腹筋、背筋、懸垂など本気の筋トレをやっている自分は明らかに異質だった。
前の病院の先生の勧めでプロテインも飲んでいて、ずっと筋肉痛で全身パンパン。

もはや何を目指してるのかわからないぐらいだったが黙々と続けた。元より、この病院に転院したのはリハビリが目的。できることはそれしかなかった。

この頃からかも知れない。
現状は変えられない。その中で、今何をするべきかを強く意識するようになったのは。

義足ができるまでの時間はもどかしかったが、リハビリ、義足の情報収集とできることをやっていた。
看護師さんが言うには、「自分を追い込んで、鬼気迫る感じだった」らしい。余裕がなかったのかも知れない。

病院のベッドで、世界が自分と自分以外に分かれてしまった感覚に襲われたこともあった。 
でも、自分には「ただいま」と言える場所があって、「おかえり」と迎えてくれる仲間がいる。そのことが、どれほど力を与えてくれただろう。 

■初めての義足


型取りから2週間、義足ができあがってきた。初めて見た義足を見た印象は、「でかい」。
履いてみると、どう歩いていいのかまったくわからない。

脚を着く位置を少しでも間違えると、膝からがくっと力が抜ける「膝折れ」を起こして転倒しそうになった。
さらに義足に接する部分の皮膚が擦れて、慣れていない弱い皮膚はすぐに傷ができてしまった。
初めて履いた義足は思った以上に難しかった。

日付は3月になっていた。当初目標にしていた4月復帰は難しいことがわかってきた。
しかし、今自分にできることは地道に歩行訓練を続けること。

慣れない義足に悪戦苦闘しながら「絶対歩けるようになる。歩く。」と毎日歩行訓練を続けた。

■鉄道弘済会との出会い


義足リハビリを始めて数週間。
何十、何百回と平行棒の中でひたすら往復する日々が続いたが、どう歩けばいいのかわからなかった。

そんな中気付いた。この病院に来た理由は義足の歩行訓練。ということは、歩けるようになれば退院。
日々のリハビリは、確かに目標に繋がっていると。全力でやってやろうと決めた。

それから「その日一日全力を尽くしたか」、自問自答するようになっていた。

次第に平行棒から離れ、片手に杖で歩くようにもなっていた。
しかし、まだ杖を離すと全く歩けず、屋外では杖をついていても歩くことは難しかった。

そんな中、東京に行く機会があった。東京では行ってみたいところがあった。
同じ股関節離断の方に紹介してもらった鉄道弘済会義肢装具サポートセンター。

多くのユーザーがいて、義足に関して多くの症例を診ている施設。そして、初めて訪れたその施設で目にしたものは衝撃だった。

リハビリ室で目にしたのは、患者は全員義足。自転車の練習をしている大腿義足の女の子。ホットパンツ、ハイヒールで歩いている大腿義足の女の子。

リハビリの概念を覆された。
そしてここでは、義足であることは特別なことじゃない。想像していなかったほど、明るい光景だった。

理学療法士さんは股義足で杖無しで歩いているユーザーの動画を見せられ、「これぐらいにはなって欲しい」と話してくれた。
どう歩けばいいのか、どこが目標なのかわかっていなかった自分にとって、初めて目標となる形を示してくれた。

■ほんまに歩いてきたね


リハビリだけでなく外に出ることも社会復帰に向けて必要と思っていたので、毎週末外出許可を取って外に出ていた。
鉄道弘済会で目標となる形を見せてもらい、試行錯誤でリハビリする日々が続いた。まだ義足で外には出れなかったので、松葉杖で。

そんな姿を見て、看護師さんから言われた。「怖くないんですか?」

無理していると心配してくれていたのだろう。

「怖いですよ。でも怖いことを怖いままにしておくのが嫌なんです。」

外に出ることは怖かった。でも、やってみないと怖いことは怖いままになる。
できればそれは自信になるし、ダメならできる方法を考えればいいと思っていた。

そうして外に出てみると、それなりに苦労はあったが、本当にどうしようもない事態に陥ったことはなく、それが一つ一つの自信に繋がり、不安を克服していったのだと思う。

リハビリはさらに進み、日常生活できるレベルに近付いていた。
通常なら、退院を考える段階にきていた。しかしここで、壁に突き当たった。

どうしても杖無しで歩くことができない。

リハビリ科の部長さんにそのことを相談した。
「症例が少ないし、あなたが目指すレベルまで指導できる自信がない」と言われた。

人によってはこの言葉は無責任と感じるものかも知れない。
しかしその部長さんの言葉は、患者のことを考えた誠実なものだと思った。

病院としてのプライドもあるだろう。それを差し置いて、提供できる自信がないと率直に答えてくれた。
部長さんには、別の選択肢を考えるきっかけを頂いたと感謝している。

このやり取りを経て、症例を多く見ている鉄道弘済会への転院を考え始めた。
一方、早く復帰したいという思いもあった。転院してリハビリを続けるか、早く復帰することを優先するか。

この2つの選択肢の中で迷った。

人に相談することはほとんどないが、この時は社会人として、人間として尊敬している兄に相談した。
「一生を査収することだから、リハビリを続けたほうがいい」この言葉で決心した。鉄道弘済会に移ってリハビリを続けると。

病院にも「多くの症例を診ているところで診てもらいたい」と説明して送り出してもらった。義足も急いで仕上げて頂いた。

東京に転院するにあたり、前の病院の診察も受けにいった。2ヶ月前、退院する時に予告したとおりに義足で歩いて。
命を救ってくれ、最も苦しい時期を支えてくれた方々に、歩く姿を見て欲しかった。

主治医の先生は、「ほんまに歩いてきたね。東京行っておいで。」と喜んでくれ、送り出して頂いた。
その他スタッフの方々も義足で歩く姿を見て驚き、喜んでくれた。

また新しい環境に飛び込み、さらに高いレベルで歩けるようになる期待でいっぱいだった。

■弘済会初日、二本の脚で歩く。


鉄道弘済会義肢装具サポートセンターに入所した。目標は杖無しで日常生活できるレベルになること。
PTさんに「筋肉質で細身。義足履くには理想的な体型」と言われた。

義足は臼井二美男さんに担当して頂けることになった。大阪で作った義足はよくできていて、調整はほとんど必要なかった。

リハビリ開始初日。

歩きを診た理学療法士さんは、問題をすぐに見抜いていた。能力的には杖無しで歩けるレベルに達しているが、杖に頼ってしまっていて、杖無しになると恐怖心が起こってしまうことが問題だと。

そして、持ってきたのは園芸用の支柱。全く体重を支えることなどできない細い棒。
杖を棒に持ち替え歩いてみると、棒は地面に触れる程度。それでもバランスを崩すことなく歩けた。

それから棒を離して、何も持たずに歩いてみると。

・・・・・・歩けた。

あんなに悪戦苦闘していた杖無し歩行。それがリハビリ開始初日にできるようになった。

自分の脚と義足、2本の脚だけで歩けたことが嬉しかった。それから全く杖は要らなくなった。

さらに頂いたアドバイス。「義足を信じて乗れ」
今では、これは義足歩行の極意だと思っている。

入院生活はここで終わり、復帰に向けて、残りの期間何をするべきか考えるようになった。

■精神の時の部屋のように


日常生活に戻るために重要で、かつ難しいことは長時間義足を履き続けること。
朝家を出て夜かえってくる時間を考えると、16時間くらいは義足を履き続けることになる。

そのためにやったことは単純。義足を履き続けた。精神と時の部屋で悟空と悟飯がずっと超サイヤ人でいたように。

鉄道弘済会のリハビリでは屋外に出ることが多く、長い時には数キロも歩く。
体力的にまだそこまでの距離を歩くのは負担が大きかったし、屋外を歩くのは神経を使って精神的にも疲れた。

日常生活に戻れば日々色々な状況に遭遇する。リハビリ中に屋外を歩く経験を積み重ねられたことは大きかった。

また、トラブルがあった時に自分である程度対応できるようになる必要もあった。
義足の調整の仕方を教えてもらい、多少の調整であれば自分でできるようになっていった。

義足を履き続け、屋外を長い距離歩き続ける持久力。様々な場面に遭遇した時の対応力。義足の知識。
限られたリハビリの期間中、必要な多くのことを身に付けていった。

■走ってみなよ


鉄道弘済会でリハビリの日々。そんな中、臼井さんから臼井さんが主宰する切断者スポーツクラブ、ヘルスエンジェルスの練習会に誘われた。その時は走れるとも思っていなかったし、走りたいとも思っていなかった。

参加者は義足暦数十年のベテランから、自分のように切断間もない初心者まで、幅広いメンバー。
思い思いに走ったり喋ったり。数十人の義足ユーザーが陸上競技場で走るのは圧巻の光景だった。

そんな中、臼井さんが声を掛けてきた。自然で、何気ない雰囲気の一言だった。走れるかどうかなんてわからない。
しかし、臼井さんになんでもないことのように言われ、不思議とやってみる気になっていた。 

今までやったことのない勢いで地面を蹴り、跳んだ。健足で跳び、義足で着地する。
着地した時には経験したことがない衝撃が返ってきた。走っていると言えるのかわからないぐらい、それも数メートル程度。

転んだ。しかし、その時直感的に感じた。「走れる」と。
走ることは、決して物理的に不可能なことではないと確信した。

そして期待どおり、たくさんの義足仲間に出会うことができた。それまで、自分以外に切断者がおらず、とても自分が「普通」とは思えなかった。しかし、鉄道弘済会やヘルスエンジェルスでたくさんの義足仲間と出会い、触れ合ううちに感じたことは、「脚がないだけで普通の人」だった。

また、義足について自然に語れる場が新鮮だった。

自分は友達に切断や義足のことについて話すことは嫌ではなかったが、 どこか触れてはいけないことのように遠慮されている雰囲気を感じ、居心地の悪さを感じることもあった。しかし、ここでは切断や義足は、ニュースやテレビ、音楽などと変わらない、ただの共通の話題の一つだった。

障害について話すことがタブーではない、そんな雰囲気をとても居心地良く感じた。
ヘルスエンジェルスの練習会は、自分自身の価値観が変わるほどの衝撃で、多くのことを感じることができた。

走ることは不可能ではない。脚がないのは不便だが、それ以上でもそれ以下でもない。自分も含め切断者は「脚がないだけの普通の人。まだ入院中にそう感じられたのは、復帰して障害者として社会に出た時に自分を支えてくれたものであったと思う。

■入院生活終了


鉄道弘済会でのリハビリも後半になると、歩くことの不安はほとんどなくなっていた。
残りのリハビリ期間は、日常生活を想定して、一つ一つ不安を取り除いていく作業だった。

スーツ着て革靴履いてカバンと傘を持って歩く練習をしたり、体力をつけるために長い距離を歩いてみたり。

鉄道弘済会に入所中は、ずっと楽しかった。

リハビリは順調。理学療法士さんや義肢装具士さん、義足仲間でもある患者さんと話している時間が楽しかった。考えてみれば、それまで他の患者さんと話をすることはほとんどなかった。

ようやく、気持ちに余裕ができていたのかも知れない。復帰してからの生活も現実感を持って考えられるようになってきた。
きっと仕事や日常生活でできないことはほとんどなく、ほぼ変わらない生活ができる、という自信も持てるようになっていた。

しかし、リハビリだけでは限界があって、職場復帰前には日常生活で慣らす期間も必要だと思っていた。退院から復帰まで、慣らす期間を2週間作ろうと決めた。義足も最終調整を終えて完成した。

そして、鉄道弘済会を退所した。3週間という短い間だったが、刺激に満ち、密度の濃い時間だった。

こうして、およそ半年間の入院生活が終了した。できることはやった。入院生活でやり残したことはなかった。

入院生活を通じて自分を支えてくれた家族、職場の方々、友達、病院のスタッフの方々には感謝の気持ちでいっぱいだった。
この方々の支えがなければ、入院生活を乗り切ることは間違いなくできなかった。素晴らしい方々に出会えて自分は本当に運が良いな、と改めて感じた。ここから復帰への道は自分との戦い。

あと少しで戻れる、もうひと踏ん張り、と感じていた。

■復帰


大阪に戻ってきた。それから復帰に向けて一つ一つ、復帰してからの生活を想定して確認する作業をしていった。
朝起きてスーツを着て徒歩、電車で通勤ルートを辿って職場まで行ってみた。街に出掛けてみたりもした。

よく行っていた店で買い物をしていると、前から好きなものは変わっていないことに気付いた。

変わらないんだな、と思った。

事故後に行ったことのないところに行ったり、経験していないことをやる時はいつも不安だった。それでも、やってみてできないことはなかった。前と全く同じ、というわけにはいかない。

でもやってみて、考えて工夫すれば本当に不可能なことはほとんどない、という自信がついてきた。

そして、復帰に向けて上司と話をすることになった。久し振りの会社。会う人はみんな驚き、喜んでくれた。

事故前のプロジェクトのマネージャーからは人づてに伝えられていた。

「"前のプロジェクトに戻りたい"と言え」

いきなり入院でいなくなり多大な迷惑を掛けた自分に、そんな言葉を掛けてくれることが嬉しかったし、それは自分自身望んでいたことだった。

「もし受け入れてもらえるのであれば、前のプロジェクトに戻りたいです」と話した。

上司との面談を終え、復帰が決まった。

やっとここまできたと清々しい気持ちだった。同時に、ここがスタートだと思った。

冬の日の事故。左脚を失い、障害者としての人生が始まった。
夏の日に戻ってきた。「生きててよかった」と思えた。事故からちょうど半年の日だった。

■人身事故の裏にあるストーリー


誰にでも起こり得る、でもどこか他人事な電車の事故。
人身事故で遅延する電車に舌打ちをしたことがある人も少なくないかもしれません。
その事故の裏に、先に、どんなストーリーがあるのかも知らずに。

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冬に少ない献血…中高生協力呼びかけ

 大阪市内5か所の献血ルーム前などで22日、ボランティアの中学、高校生ら45人が献血を呼びかけた。24、25の両日も行う。

 「御堂筋献血ルームCROSS CAFE」(中央区)では、4校の13人が「献血活動にご協力をお願いします」と声を張り上げ、通行人に啓発用のポケットティッシュを手渡した。

 若年層の献血離れが深刻なことから、府赤十字血液センターが高校生らに協力を依頼した。同センターによると、冬は献血が少ないうえ、昨冬は1月初旬に臓器移植や手術が集中し、O型の血液が適正在庫の7割まで落ち込んだという。

 明浄学院高3年川崎杏華さん(18)は「看護師になるのが夢。一人でも多くの方に血液不足を知ってもらい、献血に協力してほしい」と話した。

2015年12月23日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

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