前回の記事

 

‐週刊文春『出口治明の0から学ぶ「日本史」[近・現代篇]』を読む(福沢諭吉について)‐

 

 

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・日清戦争のおさらい 

 

 

2020年7月16日号 『週刊文春』記事より

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その10(ついに日清戦争が勃発する)‐

 

朝鮮に対する武力干渉が、「日清両国の戦争」へと広げられたのは、1894年7月25日、日本軍による「奇襲攻撃」が発端でした。

 

このような宣戦布告もない侵略行為が、これ以後日本軍の「常套手段」となります。

 

 

『両軍の進撃経路』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89

 

増派された清国軍に、9月16日の平壌<ピョンヤン>戦闘で圧勝した日本軍は、鴨緑江<アムロッカン>を越え清国内へ侵入。さらに同月17日には、『黄海開戦』清国北洋艦隊が壊滅的打撃を被って退けられた。

 

人口・国力比からして、本来、清が日本に負ける可能性は低かったのですが、当時ヨーロッパから購入した最新鋭の軍艦を取りそろえ、東洋最強とされた『北洋艦隊』にしろ、司令官である李鴻章をはじめ、すでに帝国が瓦解し軍閥化の流れに移行しつつあった清において、それぞれの指揮官が自らの権力基盤としての「軍事力」を温存するため、決戦を避け、退却ばかりに固執し、最高権力者の西太后に至っては、日本との戦争中だというのに「自らの還暦記念」のために、『頤和園』(いわえん)改修工事に、貴重な戦費を費やす始末でした

 

ここ19世紀末において、世界史を動かしてきた『中央ユーラシア型国家』の終焉が訪れます。

 

 

・歴史的大蛮行 日本ヤクザ(大陸浪人)が他国の君主を惨殺・死姦・焼却す

 

 

『明成皇后(閔妃)肖像画』 (ナムウィキより)

 

https://namu.wiki/w/%EB%AA%85%EC%84%B1%ED%99%A9%ED%9B%84

 

ゴロツキたちの狂刀によって命を落とした明成皇后(閔妃)の服を剥ぎ集団凌辱を行なった明治日本人たち、その背後で暗躍した首謀者の相関図はこうだ。

 

 

『明成皇后(閔妃)殺害事件関連者』 

 

※当時の伊藤博文総理をはじめ、野村内相、陸奥<むつ>外相、芳川<よしかわ>司法相、井上前駐韓<朝鮮>公使、三浦駐韓<同>公使(陸軍中将出身)

 

http://m.blog.daum.net/tntv/416?np_nil_b=-2

 

日清戦争中日本が行なった露骨な内政干渉は、『朝鮮の近代化』「この上ない困難」をもたらした。

 

それだけに、日本に対する朝鮮民衆の憤怒は、ますます高まってゆく。朝鮮政府内部でも、「日本からの自立」を求める動きが活発化します。さらに、1895年の日清講和条約(下関条約)に対するロシアを中心とした「三国干渉」は、戦後の朝鮮中央政界にも微妙な影響を与え、いわゆる「親露派官僚の活動」を促進させた。

 

こうした事情は、日本の侵略主義者たちに「大きな不安」を抱かせ、朝鮮を侵略して、そこに政治的・軍事的基盤を築き上げるという、彼らの「数十年来の素志も一朝水泡に帰」(山県有朋の手紙)すのではないかと嘆かせた。

 

そこで、新たに赴任した日本公使・三浦梧楼が引き起こしたのが、「明成皇后(閔妃)殺害事件」です。

 

 

『三浦梧楼』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%A2%A7%E6%A5%BC

 

西南戦争以後、陸軍中将を務めた三浦は、日本の守備隊(漢城駐屯の日本軍)や、宮本竹太郎ら大陸浪人(壮士くずれのテロリスト)たちをつかって、朝鮮国王の妃閔氏暗殺を企て、再び李是応(大院君)を担ぎ出して一挙に「親日政権」をつくり上げようとしました。

 

※大陸浪人の前身 『天佑侠』について

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その11(日本人の「アジア嫌悪のルーツ」を探る)‐

 

1895年10月7日夜から8日の早朝にかけ、彼らは朝鮮の王宮に押し入り、侍衛隊長や宮内大臣らを殺害。さらに王妃の寝室に侵入し、閔氏を殺めたのち、遺体を凌辱(死姦)し、証拠隠滅のために焼き払ったという。

 

 

프랑스 주간지 『르 주르날 일뤼스트레』 표지기사. <フランス週刊誌 『ル・ジャーナル・リュストレール』表紙記事> (韓国語Wiki百科より)

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%84%EB%AF%B8%EC%82%AC%EB%B3%80

 

三浦らは、この狂気に満ちた蛮行を、あたかも「朝鮮軍隊内部の衝突」から起こった事件のように見せかけた。また、事件の真相が発覚して国際問題化した後も、不平等条約で得た領事裁判権に守られ、暗殺に関わった犯罪者たちは、翌1896年1月、広島での軍法会議でも、地方裁判所でも「証拠不十分」で全員免訴とされた。

 

実にしらじらしく、こうなることは「最初から予定通り」だったのは、誰が見てもわかりきったことだろう。

 

こうして、確実に「後世へ残す禍根」を、当時の日本の為政者たちは積み上げていった。

 

一方、日本によって再びかつぎだされた李是応(大院君)によって、金弘集内閣は改造され、この内閣は事件の真相を発表することもできず、李周会<イジュフェ>らの朝鮮人を、この事件の下手人に仕立て上げ処刑した。

 

その上、1895年11月、当内閣によって『断髪令』(日本における『散髪脱刀令』と同様のもの)が強行され、民衆の憤怒はますます高まっていく。

 

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 

 

度重なる民族の危機、そして国家の無策の前に、彼らの怒りはついに爆発した。

 

明成皇后(閔妃)事件直後、忠正道の報恩<ポウン>などで、『挙義討賊』を呼びかける地方儒生らの活動がはじまっていましたが、断髪令強行の後、義兵闘争は大衆的基盤をもって拡大していきます。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その13(ころして、おかして、やきましたとさ)‐

 

いずれにせよ、19世紀以降の帝国主義日本は、理性を失ったケダモノのような振舞いで、一切の弁明余地もなく、断固糾弾されてしかるべきである。

 

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後にも、強勢な国力を背景に、大韓帝国の幼き李垠皇子を「誘拐」し、両親の死に目も合わせず日本皇室の習わしや軍国的思想を注入洗脳した虐待行為の果てに、ひとりの人生を狂わせに狂わせたことも、決して容赦することなく、歴史を蔑ろにする左右両方の「傲慢」を炙り出しながら、これからも問題提起を続けていくでしょう。

 

 

<参考資料>

 

・2020年7月16日号 『週刊文春』記事

 

・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂

 

 

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