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・李垠と方子の長男 「李晋(イ・チン)」

 

 

원손 이진(元孫 李晉, 1921년 8월 18일 ~ 1922년 5월 11일)은 대한제국의 황족으로, 일제 강점기 이왕가의 원손이자 영친왕의 장남이며, 이구의 형이다. 큰아버지인 순종 이왕 생전에 출생한 이왕세손이었으나, 생후 1년도 안 되어 병으로 사망했다.

 

<(元孫 李晋-イ・チン,1921年8月18日~1922年5月11日)の大韓帝国・皇族として,日帝植民地期、李王との元孫であり英親王(李垠)の長男であり、李玖(イ・グ)の兄である。クナボジ(父・李垠の兄)である純宗李王生前に出生した李王世孫であり、誕生1年も満たないうちに病によって死亡した。

 

『韓国語Wiki百科』より

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%B4%EC%A7%84_(%ED%99%A9%EC%A1%B1)

 

 

祖国訪問

 

 

兄の李王拓<純宗>は、李垠夫妻が、ソウル<旧漢城・京城>で朝鮮宮廷の伝統に従った挙式をすることを強く希望した。

 

それでなくとも、新婚夫妻の李王への対面式と宗廟参拝は結婚式と不可分のものであったが、宮内省は同意しなかった。

 

しかし、鳥居坂御殿には、はじめて春が訪れたような明るさがみなぎっていた。李垠と方子妃は愛情むつまじく、関係者は胸をなで下ろした。長いこと肉親の愛から遠ざかっていた垠青年にとって、方子妃の人柄と美貌はまさに人生のオアシスであったらしい。

 

彼女の顔だちは“どこか大陸的な優雅さ”を備えていたという。そのやさしさが、暗くとざされた彼の心を温かくうるおしたのだろうか。

 

方子妃は、結婚半年目に懐妊した。“子宝に恵まれない体質”と噂されたことがあるだけに、彼女は涙を流して喜んだ。翌年八月、方子妃は無事男児を出産して「一つの責任を果たした」が、そのために侍医が自殺をはかったという巷聞も伝えられた。

 

旧朝鮮王第二九代の晋殿下は、日韓の“合の子”となった。

 

日本の新聞は「日鮮融和のシンボル誕生!ここに日鮮一帯の結晶実る」と書きたてたが、朝鮮側から見れば、それは王統の純血が断たれたことを意味していた。

 

※日鮮の「鮮」という略字は、朝鮮を侮蔑的に見下した言い方であり、完全なる差別用語なので注意

 

晋殿下が生後八ヵ月に達した一九二二年(大正十一年)四月、宮内省はやっと夫妻のソウル<旧漢城・京城>訪問を認めた。「三殿下訪鮮」ならば日本の国益に合致すると考えたのである。方子妃はわが子とともに晴れて李王<純宗>と対面する喜びに胸を躍らせた。

 

その釜山では、総督府の官製による大歓迎陣が用意された。三殿下の乗った汽船が港内に入ると高らかに軍楽隊の吹奏が起こり、学生群が、日の丸の小旗を振って万歳を叫んだ。ソウル<同>へ向かう汽車の窓からも、各駅ごとに整列した小学生が歓迎の旗を振る姿が見られた。

 

ソウル<同>駅頭には朝鮮総督、文武の高官、外国領事らが出迎え、三殿下は美しく飾られた馬車に揺られて徳寿宮に向かった。

 

方子妃は李王宮廷の大礼服を着飾って李王<純宗>の対面式に臨み、李朝歴代の宗廟を参詣した。また連日の宴会では、片言の朝鮮語を使って愛嬌を添え、李王家の親族たちに親近感と深い感銘を与えたという。

 

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総督府も三・一独立運動を境にして、武断統治から懐柔政策へ方針を変えていたので、歓迎行事は拍車をかけられる結果になった。ソウル<同>市内の全初等校生一万四〇〇〇名が「三殿下帰鮮奉祝」の旗行列に駆り出された。

 

招宴、晩餐会、接見、訪問と李垠夫妻は二週間の滞在中、華やかな日程に追われ通しであった。

 

そのために赤子の晋殿下は中山侍女らに任せきになった。目まぐるしいほどの公式行事は、夫婦がソウル<同>を出発する前日まで続いた。

 

五月八日夜、すべての日程は終わり、あとは仁政殿で李王親族との別れの宴を残すのみとなった。だが、晩餐会が終わって宿所の石造殿へ車で戻ったとき、桜井御用係がほとんど半狂乱の姿で駆け込んだ。

 

「若宮様のご容態が・・・・・・」

 

晋殿下が突然青ざめて苦しみはじめたと告げた。

 

宮廷の中は騒然となった。医師が駆けつけたが、急性消化不良で手の下しようがないという。赤子はますます青ざめて嘔吐をつづけた。電報で東京帝大の三輪博士を呼ぶことになったが、晋殿下の命は博士の到着まで持ちこたえられなかった。殿下の牛乳瓶を検査したところ毒物が検出されたという報告がもたらされた。やはり徳寿宮は“毒殺の秘境”であった。

 

李太王の“毒殺”に対する報復も兼ねて、朝鮮宮女たちが、政略結婚の結晶に毒を盛ったのだと推定された。しかし誰の仕業であるのか明らかにされなかった。

 

三殿下奉祝に沸いたソウル<同>市内は、一夜のうちに変貌した。

 

各官庁と日本人の家々に掲げられた日章旗は、黒い布を垂らした弔旗に変わった。

 

晋殿下の遺骸は清涼里墓地の土饅頭の下に埋められ、いわば方子妃のソウル<同>訪問はわが子を朝鮮の地に葬るための悲しい旅となった。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 201~204頁より

 

 

・なんとも「複雑な気持ち」になる

 

 

『문화 재청 덕수궁<文化財庁徳寿宮>』 

 

http://www.deoksugung.go.kr/c/introduction/1

 

李垠方子「二人の関係」で見れば、子宝を介し「幸せ」を享受できたことは、それは良きことだったのかもしれない。

 

しかし、国全体さらに文化総体として見たとき、極めて「いびつな関係」があって、異なる国家の君主一族を、一方的に併呑し、そのすべてを否定するやり方は、この礼儀の地域において、断固として許される行為ではない。

 

そうした中で、第一子の不幸も、歴史に翻弄されたエピソードとして、決して忘れてはならないだろうし、何より、こうした不幸で是正すべき過去が、先々の未来における「教訓」として、多くの人々が認識すべき事柄だと思う。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

 

<ツイッター>

 

【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】

 

https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As

 

 

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