前回の記事

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その33(ヤバさを増す植民地支配 すすむ「兵站基地化」)‐

 

 

・「解放の日」をめざす 朝鮮民衆の闘争

 

日本帝国主義による侵略戦争と、その際限なき拡大、さらには植民地・朝鮮に対する苛烈な「収奪の強化」は、朝鮮人民の憤激を呼び起こさずにはおかなかった。

 

 

『桜田門事件』

 

※李奉昌(イ・ポンチャン) http://www.hmhtimes.com/news/articleView.html?idxno=2916

 

※昭和天皇(裕仁) https://www.wikiwand.com/ja/%E5%A4%A7%E5%8B%B2%E4%BD%8D%E8%8F%8A%E8%8A%B1%E7%AB%A0%E9%A0%B8%E9%A3%BE

 

1932年1月8日東京『韓人愛国団<ハニンエグッタン>』の一員である李奉昌<イポンチャン>は、観兵式から帰る途中の天皇(裕仁)に、桜田門付近で爆弾を投げた。

 

 

『1932년 1월 10일자 동아일보에서 보도한 이봉창 의사 의거.<1932年1月10日付 東亜日報にて報道された李奉昌義士の義挙>』 (韓国語Wiki百科より)

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%B4%EB%B4%89%EC%B0%BD

 

 

『왼 손에 폭탄, 오른손에 권총을 들고 태극기 앞에서 절명사를 가슴에 붙인 채 촬영한 윤봉길<左手に爆弾、右手に拳銃を持って、太極旗の前で絶命詩(遺言詩)を付けたまま撮影する尹奉吉>』 (韓国語Wiki百科より)

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9C%A4%EB%B4%89%EA%B8%B8

 

また同年4月29日、同じ『韓人愛国団』所属尹奉吉<ユンポンギㇽ>が、上海蛇口公園でおこなわれた『天長節記念(天皇誕生日)』式典爆弾を投じて、おりから上海の侵略を拡大して、ここに派遣されていた日本陸軍の総司令官である白川義則陸軍大将をはじめ、多くの日本高官を殺傷した。

 

 

『事件直前の様子。(左から白川義則陸軍大将、河端貞次医師、重光葵上海公使、野村吉三郎海軍中将)』 (Wikiより)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E5%A4%A9%E9%95%B7%E7%AF%80%E7%88%86%E5%BC%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

 

否定のための否定は、支持されない

 

明治以来大日本帝国の成立と合わせ、「神格化された天皇」について、多くの血と、洗脳で塗り固められた「黒すぎる過去」と直視する過程で、私は彼らに「敬意」や「親近感」など持てるはずもない。

 

‐夏の終わりを期に考える昭和天皇の「戦争責任」‐

 

 

『昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」 』

  

 

https://www.youtube.com/watch?v=NQhVOTS0j7A

 

昭和天皇については、あれだけの災禍を招いた「当事者の一人」でありながら、一切の責任を負わず、おめおめと生き続け、彼自身の「生への執着」に半ばドン引きしながらも、原爆は仕方なかったとか、数々の無責任な発言をして、彼らの『家』は今もなお、アメリカの対日統治の「柱」として使われている。

 

‐大日本帝国2.0を生きている私たち‐

 

 

The meaning behind this picture of Emperor Hirohito and General MacArthur

 

https://medium.com/@izana/the-meaning-behind-this-picture-of-emperor-hirohito-and-general-macarthur-e94d5ff2b91d

 

生活の心配もせず、名誉だけガッポリもらい、そうした「安泰な地位」を維持するためには、自分を「生かしてくださった」アメリカに足を向けて眠れないわけで、原爆投下を是認してみたり、その子孫たちにせよ、どうして彼らだけが「例外」で、安倍政権だけが悪者にされるのか、答えは「彼らも同じ支配体系」の側なのです。

 

 

『即位礼正殿の儀』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E7%A4%BC%E6%AD%A3%E6%AE%BF%E3%81%AE%E5%84%80

 

どうしても「豪華な式典」を見てしまうと、気持ちが靡いてしまうのも理解できなくはありませんが、『歴史』を直視すれば、その「チープさ」がハッキリと見えてしまう。

 

‐韓国が天皇を「日王」と呼ぶ理由(中国と日本における文明比較の話)その1-

 

‐韓国が天皇を「日王」と呼ぶ理由(中国と日本における文明比較の話)その2‐

 

というか、近代や戦後史との絡みも含めて、やっぱり許せないのですよ。

 

この世に絶対などないわけで、彼らだけを「侵してはならない神聖なモノ」として容認してしまえば、とても危険な自体になりかねない。つまりそれは、彼らが論理や理屈を飛び越えた「神」「絶対的名誉君主」として崇めること、それを心に植え付けられてしまった人たちにとって、何と言うんですかね、完全な「心の拠り所」として、半ば教祖的な地位を占めてしまっていることに、私は深い危機感を持たざる得ない。

 

もちろん、私自身も、弱い人間のひとりですので、何かに「すがりたい・信じていたい気持ち」と、「独立した気持ち」との葛藤競合を、これからも死ぬまで続けていくでしょうが、これだけに関しては、絶対に譲ることはできないし、いつか日本人も「天皇制を卒業」しなければいけない時期がくるでしょう。

 

 

・命を懸けた『韓人愛国団』の活動 その「限界」と「発展」

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その23(今年で100周年『三・一独立運動』を考える)‐

 

 

『1930년대 초의 김구<1930年代初期の金九>』 (韓国語Wiki百科より)

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%EA%B9%80%EA%B5%AC

 

話を本題にもどすと、『韓人愛国団』は、当時金九<キムグ>に率いられて、ようやく命脈を保っていた『大韓民国臨時政府』が、「満州事変」以後の日本の侵略に対して、「暗殺」と「破壊工作」を目的として組織したものでした。

 

その詳細は、梶村秀樹訳『白凡逸志━金九自叙伝』に示されております。

 

もとより、個人的なテロや破壊工作だけで、日本帝国主義「総体」の侵略をおしとどめ、朝鮮解放を実現することはできなかったが、朝鮮の民族解放運動では、1930年代に入って、より大衆的な、しかも明確に民族解放の綱領を示した運動が発展した。

 

1931年~1935年まで、朝鮮では、朝鮮人労働者の主なストライキ902件参加人員7万929人にのぼり、1920年代をはるかに上回った。

 

 

『中国・間島地方』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%B3%B6

 

そして、これら朝鮮での闘争をもとに、「満州」では朝鮮民衆の「大衆的な抗日武装闘争」の著しい発展がみられた。1931年秋から、翌年春にかけて、間島地方の延吉<ヨンギㇽ>・汪清<ワンチョン>の両県を中心に、朝鮮の共産主義者に指導された農民大衆の「小作料引き下げ」を要求する秋の蜂起コメよこせ・コメ奪取の春の蜂起が、相次いでおこった。

 

日本軍警察は、これに対し“百殺一共”━百人の朝鮮人を殺せば、そのなかに一人くらい共産主義者はいるだろう━の大弾圧を加え、4万人以上の朝鮮人が犠牲となった。

 

朝鮮の共産主義者は、この弾圧に「革命的な人民を武装」「大衆的に組織・動員すること」によって対抗した。

 

 

『金日成主席』 (在日コリアンの友人の写真資料より)

 

各地には、さまざまな武装した朝鮮人の組織がうまれ、従来の武装闘争を経験に金日成らによって、1932年4月25日間島の安図県<アンドヒョン>で、抗日遊撃隊が結成された。

 

日本の高知市で活躍していた、若いプロレタリア作家・槇村浩長詩『間島パルチザンの歌』『プロレタリア文学』(一九三二年四月増刊号)に発表し、この朝鮮民衆の「民族解放の高まり」に、かぎりない連帯を表明した。

 

 

『조선인민혁명군대원들속에 계시는 위대한 수령 김일성동지(뒤줄 가운데에 계시는 분)<朝鮮人民革命軍隊員の中にいらっしゃる 偉大な首領金日成同志(後列中央の方)>』 (北朝鮮メディア 『新しい時代を組織して』記事より) 

 

https://ournation-school.com/index.php?menu=lecture&cno=1&id=170

 

1934年3月には、各地に分散していたパルチザンを結合して、『朝鮮人民革命軍』が編成され、武装闘争をさらに発展させた。

 

中国東北(満州)には、中国民衆の抗日団体も各地にうまれ朝中人民の抗日武装闘争は「相互に連携」し、力をつよめた。

 

対する日本帝国主義は、間島一帯で、抗日パルチザンの解放区周辺の村を焼き住民を「集団部落」に隔離し、『民生団』(大日本帝国側に立てば、朝鮮人には中国人の上に立つ権利を与えるというデタラメな宣伝をおこなった)という「分断スパイ組織」をつくって、民族解放闘争を「内部から破壊」しようと打って出た。

 

この『民生団』の謀略は、一時的に間島の朝鮮人の民族解放区に「大きな打撃」を与えたが、朝鮮民衆の抗日エネルギーを信頼し、この結集に成功した金日成らの指導するたたかいを、打ち崩すこはできなかった。

 

朝鮮総督府の統計でも、1931年~1936年まで、朝鮮の対岸にある中国領での「抗日ゲリラの出没」は、2万3928回の戦闘数延べ136万9027人の兵力を持ち、銃器を奪われること3179挺にのぼったという。

 

 

<参考資料>

 

・Cluttered talk blab blab blab 『鳩山由紀夫が新党結成?』記事

 

https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12539374602.html

 

・同 『否定のための否定は、支持されない』記事

 

https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12538294962.html

 

・Youtube動画 『昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」』

 

https://www.youtube.com/watch?v=NQhVOTS0j7A

 

・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂

 

 

<ツイッター>

 

【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】

 

https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As

 

 

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